560(後) 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ③ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族国家”
20171103
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
雲南省は日本人のルーツ、少数民族の宝庫、「動物の王国」「植物の王国」「非鉄金属の王国」など、様々な観点から取り上げらる(ママ)事が多いいため、中国では比較的名の知られた省になっている。(…中略…)古くからの観光地としては奇怪な岩峰群のある石林、シーサンパンナ(西双版納)と呼ばれる南部、大理国で有名な大理、1997年に世界遺産になった麗江(…中略…)ラサに行かずとも標高3300mほどで体験できるチベット風情、シャクナゲを代表とする花、雪山等の自然がみどころだ。その他、雲南省の最高峰としてもチベット族の聖山としても名高い梅里雪山(メイリー)を擁する徳欽、多くの火山を持ちミャンマーの国境沿いに位置する騰衝、棚田が織りなす牧歌的な風景が美しい元陽が注目されている。またベトナム・ラオス・ミャンマーへと陸路で国境越えをするのも面白い。日本にない陸の国境を体験することが出来る。ラオスへは長距離バスも走るようになり、アジアハイウエーの構想も進んでいる。またタイ・ラオスへはメコン河を船で下ることも可能になった。
アジアの大河長江(金沙江)、メコン(瀾滄江)、サルウイン(怒江)が流れ、25の少数民族を抱える雲南省。まだまだ隠れた観光地は多い。
この麗江(れいこう)にはかつて少数民族のナシ族の王都があり、現在でもナシ族の人々が多く居住しています。またナシ族のほかにリス族、プミ族、ペー族、イ族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっていますが、二〇〇六年には、黎族を題材とした映画「青檳榔之味」(シヨウジャウジアンフ)“漢民族の糞野郎・・・?”が作成されています。
黎 族
黎(レイ、リー)族は、中国55の少数民族の一つで、人口は125万人(2000年国勢人口調査より)、そのうちの117万人が海南省に住んでいます。歴史の記述によりますと、黎族の先祖は紀元前11世紀前からこの地に住むようになったようです。
黎族は、自民族の言葉、黎語を使い、また、地元の漢民族と密接に交流してきたため、多くの黎族は漢民族の言葉にも精通しています。1957年、ローマ字の形の黎族の文字が作られました。
ところで、山の奥に暮らしている黎族には、古くから女性の体に「刺青」をいれる習慣があります。黎族の女の子は12、3歳の時、成人式を迎えます。その日、村の女性の長老の主宰による祭祀の儀式が行われ、女の子の顔、首、胴体、手足に自民族を代表する模様を特別な「水」で書いてから、竹や木の葉の茎で作られた針で「刺青」を完成させます。しかし、社会の発展に従って、この習慣はだんだん無くなっていきます。「刺青」をする若者は今ももういません。刺青をしているのは、ほとんど50代以上の女性で千人しかいないといわれ、これから先、この「刺青文化」は消えていく運命にあるでしょう。
http://japanese.cri.cn/304/2006/12/05/1@80609.htm
なにやら、倭人の刺青を思い出しますが、実は関係があるのです。
黎族は主に中国の海南省に分布する少数民族で、遥かな歴史と自分の特徴ある民族文化を持っています。その中の一つは“黥面”です。“黥面”というのは顔や体に模様を描いて黒い色に染めることで、つまり入れ墨のことです。<黎族の“黥面”は三千年の歴史があり、世界民族の中でも珍しい文化です。
欠端 實 (麗澤大学教授) 「神話(説話)が運ばれた道」
雲南省のハニ族は毎年「祭母」の祭祀をとりおこなっている。その祭りの由来を語る説話が「祭母物語」として残されている。この物語は紅河流域のハニ族の人々だけにとどまらず、東の方は貴州、広西、南海、福建をへて浙江に延び、さらに海を越えて沖縄、九州、関西にまで流布している。西はタイに、北は四川、陝西におよんでいる。民族もタイ族、ハニ族、プーイー族、ヤオ族、黎族、ナシ族、彛族、漢族、日本人と多岐にわたっている。
(比較文明学会のHPより)
この麗江にも黎族(リー族)が住んでいます。 もう少し他のサイトも探ってみましょう。
英語名称:Li 人 口:111万人超
言 語: リー族の言葉。居住地域によって方言に違いがある。漢語も通じる。
文 字: 1957年後、ローマ字形のリー族文字を作ったが、ほとんどの人が漢字を使用する。
信 仰: 原始宗教。キリスト教信者も少数いる。主な生活地域: 海南省
民族発展歴史:リー族は中国のながい歴史をもつ民族の一つで、昔越族から発展してきたので、チワン族、プイ族、トン族、スイ族、タイ族などの民族とルーツの面で密接なつながりがあり、特に古代の百越の一分支駱越とはさらに密接な関係がある。
早くも秦・漢以前に、駱越の一分支が中国の広東省、広西チワン族自治区などの地域から続々と海南島に移住してきた。
リー族は自称がたくさんある。例えば「孝」「岐」「美孚」「本地」などがそれである。リー(黎)は民族名として唐の末期に始り、11世紀の宋の時代以後正式に史籍に記載されるようになった。リー族の女性は紡織に精通していて、宋の時代の末期、元の時代の初めに、紡織の工匠の黄道婆がかつて海南島でリー族の女性に紡織技術を学んだことがある、先進的な紡織道具と技術を作り出し、中国古代科学技術の発展のために貢献した。リー族が居住している海南島は亜熱帯に位置し、気候が温暖で湿潤である。景色が美しく、四季は常緑で、物産が豊富である。農業が発達しているとともに、ゴム、サトウキビ、果物、植物油などの熱帯経済作物もわりに高い発展水準を示している。 中国「旅行情報」
肥後人のルーツは雲南省麗江
まず、中国大陸は太古より漢族の土地だったという訳ではありません。
中国本土、いわゆる中原が絶えず北から遊牧民族の南下に晒されてきた事は知られていますが、一つの説として、現在の雲南省、貴州省、四川省、浙江省、福建省、広東省・・・などの辺境部を中心に分布するビルマ、タイ系の少数民族は漢族に追われ、現在のような山岳地帯に住むようになったのであり、それ以前は江南の海岸部は元より、長江全域から山東省の付け根辺りまで住み着いていたのではないかと言われているのです。
つまり、中国の古い時代の先住民はこれらの人々で、九黎、つまり九派の黎族だったというのです。
問題はその時期です。紀元前1000年辺りから始まり、日本でも良く知られた春秋戦国期の呉越の人々の移動、避難民もその中の一つだったのです。
「臥薪嘗胆」の故事は著名ですが、呉は越に越は楚に楚(楚もソウと発音)も秦に滅ぼされ、後の漢の武帝の時代に漢族は江南から最大版図を形成します。
呉も越も実際には越族と言われていますが、大雑把に言えば、この越の人々こそ広義の黎族であり、特に南に追われたのがベトナム(越南)であり、海に逃れたのが倭人であり、山岳地帯に逃れたのが、現在、苗族に象徴される三苗だったのです(後に苗は漢化する)。
この黎族はさらに広く展開し、インドの東北部にも、ビルマからの独立運動を続けるカレン族もその一つなのです。ここで、日本にも呉、越の民が入っているのではないか?ということが言えそうです。
それは、越の人々は海との関わりが深いからです。広島には呉がありますし、越前、越中、越後があるではないですか、そして、呉(春秋戦国の呉)の後期の首都、姑蘇地名(菊池市にあったことが文献上残っています)や姫姑蘇神社(小郡市・・・他)なども。
彼らが肥後人のルーツであると言えばお叱りを買うでしょうか?極端に表現すれば、中国に支那地名を残した黎族こそ鹿児島、熊本に入ってきた人々であり、実は日本人こそ支那人なの(だった)です。
だから現在の中国人は異人種の異民族の漢族であり、支那人ではないのです。
この戦慄をさえ覚える説を唱えられているのが前述の故百嶋先生です。
百嶋先生によると、何世紀にも亘って漢族に追われ続けた黎族は、最終的に雲南省の最奥部に逃れ、そこさえも安住の地とはならず、起源前後のある時期に、一派(これは白族ですが)は省都昆明の辺りから紅河(フォンガ)を下り、ハノイ沖に、また、一派は密支那から瀾滄江(メコン川)を下りサイゴン沖に出、黒潮に乗り海南島の南西岸に逃れたと言うのです(下図は海南島南西部)。
紅河ハニ族イ族自治州は雲南省東南部に位置します。 昆明市の真南に位置する州で、 南部をベトナムと接しています。
2763.とてつもない日本の歴史2
日本古代史は中国古代史と繋がっている。中国史は複数民族がいたために民族興亡史でもある。今の中国領土の大きさはEU(欧州連合)と大体同じ大きさであり、そこには複数民族がいたし、今も複数民族で構成されている。中国古代史もこの民族の戦いだった。この民族戦争で負けた方の民族が日本に逃れてきたことが、近年の考古学の調査で分かってきた。
1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀元前6000年~紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。またそこの稲はジャポニカ米であり、その原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。今までは稲の原産地は雲南地域を思われていた。
中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年 - 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられる。ここに住んでいた民族は苗族で、台湾の先住民であり、弥生時代に海を渡って日本に来ることになる。
その証拠に、長江の民・苗族の一方は、雲南省などの奥地に追いつめられ、その子孫は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたようだ。
苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されている。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。
日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生する文明を持っていたし、そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であったことで、両者ともに自然との共生し、戦いを望まない人たちであった。このため、生活環境が違うのと戦いを嫌い民族であったことで、共生と平和が確保されたのでしょうね。
河姆渡遺跡が滅亡した時期に日本へ苗族が最初に渡り、日本の岡山県・朝寝鼻貝塚(紀元前4000年)に水田を作り、そこから米の化石が出たことに通じ、長江中流領の馬橋文化は約4千年前から2千7百年前であり、その後、苗族が日本に渡ってきた二陣目が、日本の菜畑遺跡、紀元前700年の水田跡に繋がる。その間の文化も侵略を受けて、徐々に日本に移民したように感じる。ここまでの文明は文字を持たないために、記録がない。
そして、その後に呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)が、この地域にあったが、越に負けて滅亡し、この民族も日本に来た事が分かる。
日本の漢字の読みは呉音である。逃げるなら海しかない。そして、中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。
このように、中国で負けた民族や王朝は、次々に日本へ来ることになる。古代の船に数家族で来るので、少数であるが重層的な帰化人が日本文明を形作ることになるが、どちらにしても、中国史を見ていないと、日本の古代史は語れない。
現代日本人の遺伝子構成は、弥生時代の始まりを契機に流入した遺伝子がほぼ65%を占めていることから、この苗族など帰化人の影響が大きいことは確かだ。しかし一方で、縄文の文化は後世に継承されている、つまり縄文人を駆逐するまでには至らなかった。例えば、帰化人によって営まれた水田をもつ環濠集落においても、水田稲作用の新しい農具や工具が持ち込まれている一方で、土器などその他多くの道具は縄文時代と基本的に変わらないのが実状で、何よりも縄文の婚姻制は戦後に至るまで継承されている。少数の弥生人と縄文人の婚姻もあったように思う。
このことから、帰化人が大挙して押し寄せたのではなく、少数の帰化人がバラバラに各地で水稲耕作という安定した食糧供給を背景に、高い人口増加率(≒寿命の長期化)を保持し、人口増および人口比の逆転をもたらした、とする方が妥当性が高いと思われる。
そして、このようなことから日本の古事記や日本書紀を読んでも、日本の古代史は分からないと言うことである。しかし、古代の全体を知ると、なぜそう記述したかが分かるのである。古い神社にある書物には、ある真実が隠されている。これを調べたのが、原田常治である。
(参考)
大量渡来か少数渡来か(1)http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=24724
国際派日本人養成講座 日本のルーツ? 長江文明
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html
ミャオ族 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ミャオ族(-ぞく、苗族, 英語: Miao)は中国などに住む少数民族である。モン族(英語: Hmong)ともいう。中国では貴州省に最も多く、他に湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省などに住むほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどにも住む。歴史上移住を繰り返した流浪の民である。
伝説 中国の伝説によれば、紀元前26世紀ごろ華夏の民族(いわゆる「漢族」の原型)の君主・黄帝が蚩尤(しゆう)の民族の討伐作戦を行い、タク鹿(たくろく、河北省と遼寧省の省境付近)で破ったことがあったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏はその討伐地域の悪条件にも関わらずコンパスを用い正確に蚩尤の民族を破る事ができた。一方で敗れた蚩尤の民族はミャオ族と黎族(リー族)に分裂した。ミャオ族はこの後南東方向にむかって移動を続けたという。ミャオ族は漢民族からは「蛮」と見なされ差別を受けたが、一部は周王朝時代に華夏民族と同化したという。
揚子江定住 漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのはの先秦時代(戦国時代)であった。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域に住んでいたが、またもや中国の攻撃を受け南方へ移住を始めた。六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、五胡による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。中には漢民族と同化することもあったという。
西南中国へ移住唐王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族は雲南に南詔を建国したとする説もある。
同化政策と抵抗 ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀の元王朝によって中国の版図に入った。明代になると、この地域への漢族の移住が多くなり、土着のミャオ族との摩擦が増加、大小100回を越えるミャオ族反乱が起こっている。
清軍の残酷な討伐や弾圧のため、19世紀には多くのミャオ族が東南アジアのタイ・ビルマ・ラオス・ベトナムに移住していった。
言語 苗(ミャオ)族は独自の言語をもち、ミャオ・ヤオ語族(別の表現ではモン・ミエン語族)に属している。この語族に属しているのはミャオ語、ヤオ語以外には中国東南沿海部(福建・浙江方面)に残存しているシェ族の言語だけである。
住む国によって中国語やタイ語などに通じている場合もある。
宗教 精霊信仰(アニミズム)である。
食文化 多くの場合、米を主食とし、野菜、肉類、魚などをトウガラシ、塩、酢などで味付けした副食と共に、1日3食食べる。漢族の料理に似た炒め物や蒸し物、魚の唐揚げなどの揚げ物もある。もち米で餠を作る習慣もあり、揚げ餅も作られる。豆類も重要な食品である。蕎麦も作り、トウガラシと醤油の味付けで食べる。漢族の習慣に合わせて春節を祝い、餅や豚料理などのハレの料理が用意される。北京など、中国の大都市にはミャオ族料理を出す専門店ができている。
人口データ 全体の人口の内約半数が貴州省に集中している(1990年)。その他以下の省が中国国内のミャオ族の98%が住む地域となっている。貴州省: 3,600,000人 湖南省: 1,550,000人 雲南省: 890,000人 四川省: 530,000人 広西省: 420,000人 湖北省: 200,000人 海南省: 50,000人
ミャオ族の中で何千人単位で北京・広州に移住した者もいる。一方タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどには2000万人のミャオ族が住んでいる。
この文書では苗(ミャオ)族は漢族に同化する道を選んだいわば監視役なので、黎族と読み替える必要があるようです。
それはともかくも、内倉武久氏は、2012年久留米大学公開講座(古代史)において、熊襲の源流は中国大陸の少数民族の黎(レイ、リー)族、瑤(ヨウ)族、佘+田(シェ、シャー)族としました。
一方、百嶋研究では雲南省麗江に黎の音を残し海南島に移動した黎族こそが黎族の中心であり、それが天草の苓北火力の苓北町に黎の音を残し阿蘇に入ったとしています(草壁吉見=天皇系図に絡むヒコヤイ、カムヤイミミを奉祭する人々)。
その後彼らは日本全土に展開します。支那人の大半は日本人になり、中国本土の支那人は、ほぼ、消えたのです。
詳しくは百嶋神社考古学夏季合宿音声CDで!
最後に、鹿児島県枕崎市に「今給黎」姓をもつ人々が集中する地区があります。これも末裔(加茂)かも知れません。当然ながら、鹿児島市の喜入町も九黎の名を遺したもののようにも思えます。