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552 淀 姫 ②(後) 

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552 淀 姫 ②(後) 

20190723

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 河下大明神(なぜか川下にある河上の淀姫神社)

肥前国の一宮であり「淀姫さん」として知られる川上の淀姫神社は、古くは河上神社と呼ばれていた。事実、大正十五年の「佐賀県神社誌要」においても「河上神社」としている。

もちろん、この神社の鎮座地が大和町大字「川上」であることから、社名はその地名から付されたものとすることは容易いが、どのように考えたとしてもこの地が「川上」と呼ばれるのは奇異である。

まず、淀姫神社を洗う嘉瀬川は、古くは佐嘉川と記され(「肥前国風土記」)、背振の大山塊の懐から流れ降り深い渓谷を刻みながら佐賀平野に噴出している。

平地に出た後、現在は佐賀市街地の西側を流れ有明海に注いでいるが、この流れになったのは江戸期に成富兵庫茂安が佐賀城下を安全にする為に石井樋(いしいび)と呼ばれる制水ダムを築造し放水路として嘉瀬川の流路を変えたからであり、それ以前は平野に出た後、東方に流れていたと考えられている。そのことを示すのが「佐賀県史(上巻)」の「嘉瀬川河道変遷図」である。

つまり、奈良時代の嘉瀬川は、大和町総座の肥前国府辺りから東南に流れ、現在の巨勢(こせ)川に流れ込み、佐賀江を東に流れ筑後川に注いでいたのである。


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佐賀県の紀元前後の波際線は、ほぼ、海抜四、五メートルの等高線と推定されている。佐賀市の南側を東西に走る国道264号線とほぼ一致し、この付近には多くの貝塚が見つ

かっている。

ただ、その自然陸化により生み出された土地も、大半は頻繁に高潮の影響を受け葦が繁るような低湿地が断続する土地でしかなく、嘉瀬川(佐嘉川)が平地に遭遇した辺りの河上神社一帯は、当時においても、少し下れば海に遭遇する河口のような土地だったのである。

川上の地は「北肥戦史」で言う肥前山内(サンナイ)の地ではあるが、肥前の大平地(佐賀平野)との接点をなす一角であり、同時に脊振山系を駆け下った水がようやく緩やかになる場所として平野部の大勢力と接触する要衝でもあった。

このような地が川上と呼ばれる理由は一つしかない。

それは、上流域の川上集落からの地名移動であり、新川上(北海道の新十津川と同じ)こそが、その本質と考えるのが地名研究上の常道であろう。

ただ、これはそう考えることができるといった程度のもので、上無津呂の淀姫神社が、河上、与嘉町の淀姫よりも五十年ほど古い創起縁起を持つことの多少の説明ができるということから持ち出したものでしかなく根拠があってのものでないことはお断りしておく。

ただ、⑥ A)でも書いたように、川下に降った川上神社がいわゆる河上神社と考えたい。

 神宮寺としての実相院

 古来、多くの神社(氏族)は、その時々の権力のあり様に合わせ、時として寺院を装い、または習合し、或いは神社に復し、かつ、祭神を入れ替え、または隠し、新たに呼び込み、併せ祀し生き延びてきた。

 それは、ほんの百五十年前も同様で、明治維新により、大規模に仏教から神道への支配装置の切り替えが行なわれた(同時に神仏混淆の山岳修験も弾圧された)。

 それどころか、我々の記憶も多少は届く程度の時期、つまり、敗戦による政治的大転換の時期においても、支配構造に組み込まれていた重要な神社や寺院ほど、自らの手で蔵書が移送され、隠され、大量に燃やされたのであった。

 事実、久留米の某神社でも一週間掛けて文書が燃やし続けられたとの多くの話(証言)を得ている。

無論、そのような政治権力に纏わる話には、貴重な文書が消失すること以外一切関心がない上に、淀姫神社が何かを探るものにとっては、時として邪魔にさえなる。

しかし、これほどの祭神についての混乱が認められる淀姫神社においても、その成り立ちからこれまでの間に多くの変化が生じたのではないかとの想定が避けられず、それを無視し、「淀姫は何々以外ではありえない」と言うことは容易いが、そうすれば「淀姫」が何か、従って本当の歴史はどのようなものか、さらには自らが何者であるかを考えること自体を放棄することにしかならず、言葉の意味がないことになってしまうのである。

 ここでは、宇佐神宮の神宮寺が弥勒寺であったように、淀姫神社にも同様の神宮寺が存

在し、それが、直ぐ傍の実相院であったことを確認することから始めたい。

  ただ、それは河上の淀姫神社の裏の顔を探ることにはなるが、他の淀姫神社にも援用が効くか

については全く不明である。

 少なくとも川下にある淀姫神社(式内社与止日女神社)に於いては、中世にはその西にある実相院が同社=河上神社の社務を司執っていたとされている(別当)ことを確認したい。


河上山實相院(じっそういん)由来

宗旨真言宗、本尊薬師如来当山は今を去る1270年前 行基菩薩が和銅五年(712岩屋山に神宮寺を開基されたのが実相院の始まりである。それから380年後寛治元年(1087)比叡山より円尋僧正が別所一帯を開墾し河上山神護寺実相院を建立した。当時の境域は広漢数十町歩と記してある。


注目すべきはこの僧 行基である。ここで行基について触れるのは長くなるため避けるが、白村江を全力で戦った九州の勢力が多大な犠牲を出し衰退するなかで、実質、唐、新羅と内通したとも言われる大和の勢力が体を入れ替え、近畿王権を確立して行く。

後に行基は大僧正にもなるが、この転換期に彼は生き、初期の大和朝廷は彼を徹底的に弾圧していた。

平城遷都後に私僧を統制するという話が『続日本紀』に出てくる。

“行基と弟子どもは巷に群れ集まりみだりに因果応報、輪廻転生を説き、徒党を組み説法をしては物を乞い百姓を惑わしている。このため僧も民衆も乱れ騒ぎ人々は仕事をしようともしない。釈尊の教えに反き、一方で法を破っている。”というのである。

 しかし、行基は抵抗運動を続けた。彼らは集団化し朝廷をも脅かす勢力へとのし上がっていったのである。

 朝廷が行基の集団を弾圧したのは、単に信徒の数がふくれ上がったという理由だけではなく行基らの集団が奈良王朝の根本・律令制度を否定する行動をとったからであった。

 律令制度は民衆の定住と農耕前提につくられており、非定着民を制度に組入れなかったが、重い税や労役にあえぎ、苦しみながらも税を都に運ぶ人々のために、行基は各地に橋を架け布施屋とよばれる救護所をつくり布教に努めたのであった。

 当然、民衆の支持は高まり、ついには、朝廷にとって無視できぬ存在となっていったのである。律令国家の“資源”であった民が僧形(優婆塞)となり、農地を捨て漂泊するようになっていったからである。

 朝廷公認の正式な僧は納税の義務は免除されるが、私僧はそのかぎりではなく、彼らの僧形と漂泊は朝廷に対する反抗と見なされて行くことになる。つまり、彼らの運動が無限に広がれば、律令制度はおろか国家自体が消滅しかねないほどの重大事だったのである。 

ところが、朝廷の行基らに対する態度は逆転することになる。

 『続日本紀』天平十三年(741)冬十月の条には、奈良の北方木津に橋を架けるのに、畿内と諸国の優婆塞たちを召集し使役したとあり、そこで、彼ら七百五人をすべて正式に僧として認めるとする記述が出てくる。この記事が藤原広嗣の乱の時期とも重なることから関係がありそうで、反藤原を標榜し実権を握った聖武政権が、それまで弾圧していた行基らの活動と連携しようとしたのかもしれない。

 問題はこの行基の背景である。動きから見て、近畿にも展開した九州王朝系の勢力、従って九州の高良大社との関係が考えられるのである。

河上山實相院は行基によるとするが、当然にもその時代に天台、真言はない。今でこそ真言であるが以前は天台のはずであり、この九州の天台系の多くが、後にかなりの寺領を失っており、それが筑前琵琶や盲僧を生み出したと考えられるのである。


553 淀 姫 ③(前) 

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553 淀 姫 ③(前) 

2013112220171227再編集)

太宰府地名研究会(日田市)古川 清久

 フィールドから見た上無津呂の淀姫神社

まず、淀姫神社は上無津呂川(神水川)に相尾と川頭の二方向から十字型に支流が集る落合の集落(言うまでもなく落合の意味は川合の地から付されたもの)に置かれ、御塩井汲みは神水川で行なわれている。


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鳥居は肥前鳥居の延長にあり、有明海沿岸に多く認められる三本下がりの注連縄が張られている。本殿の千木角は上部が横切りにされ、祀神が女性の神様であることを示している。

また、参拝殿右手には土俵が設えられており、奉祭する一族に海人族が多数含まれていることを今に伝えている。

今回の千五百年祭に併せ神幕が新調されていたが、以前の十六葉菊から左三つ巴(住吉大神)に替えられているのは興味深い。明治期から本来の形に戻ったものと理解している。

これにより、本殿欄干や屋根の左三つ巴との整合性が取れることになった。

淀姫神社が淀姫を祀ってあることの痕跡は、今のところ鯰の置物が相撲場に置かれている以外にはない。社名が上無津呂神社とでもなり置物がなくなれば、淀姫神社の痕跡はなくなってしまう。

本殿の神殿内については垣間見る機会を得なかったことから云々できないが、欄干には、左三つ巴に併せ、あまり見かけない左二つ巴に、中津の薦神社と同じ左一つ巴が並び、驚くことに剣付きの木瓜紋までが確認できる。三種類の巴紋の意味は全く見当が付かないが(中津の薦神社も本殿に三種の巴紋が認められる)、少なくとも、左三つ巴と剣付き木瓜紋が揃って確認できることから、高良玉垂命の後裔と自認する神代勝利の一族が高良大社の神紋を本殿に刻んだと考えられるのである。これらのことから、現在の祭神に淀姫の名が消えていることの説明が付くような気がしている。

神代一族は、今後も続く龍造寺氏との戦いに備え、より強い神の加護、後楯を必要とし、それを察知した嘉村の一族の側から豊玉姫、玉依姫への変更が申し出られたのではないかと考えている。

 熊襲タケルが酒宴を行なっていた大和町大願寺

大和町大字川上には通称大願寺と呼ばれる地区があり、真言宗御室派 真手山 健福寺 という古刹がある。

この寺の昭和四十九年の寺報「健福寺」落慶法要記念号に「大願寺の伝説」として“大和町大願寺で酒宴中の熊襲タケルが小碓尊(こうずのみこと)に討たれた”と書かれ、さらに「熊襲の墓が境内にあるといわれているが勿論元真手山にあった時代であるので彼の地一帯を調査する必要がある」とも書き留められている(添付資料参照)。

 一方、昭和五十年の旧「大和町史」657pにも伝説・民話の先頭に、1川上たけると真手(大願寺)として同じ内容の記事がある(添付資料参照)。

 「大和町史」の川上タケルの記事のことは以前から知っていたが、熊本の九州王朝論者、故平野雅廣(日+廣)の「倭国史談」所収の「異説ヤマトタケル」(添付資料参照)を読むまでは本格的には考えてはいなかった。


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境内には巨大な礎石が残る九州王朝の廃寺か?     佐賀市による掲示板


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佐賀市の案内板にもヤマトタケルの記事はない(合併の成果)。荒唐無稽とされたか?


この伝承を残す健福寺も、現在でこそ真言宗御室派ではあるが、古くは前述の實相院と同様の天台系であり、健福寺の山門付近には、この山には行基に従う千坊があったとの掲示板も置かれている。

 淀姫神社の祭神を考察する上での重要な資料と考えている。

 九州王朝論の立場から高良大社を研究する者からすれば、川上の淀姫神社周辺に濃厚な熊襲の痕跡を確認できたことになることから、熊襲内部、実は九州王朝内部での抗争としての「ヤマトタケル伝承」とその後の支配が多少は見えてきた。

 松野連系図と百嶋神代系図とを合せ考えれば、学会通説に封じ込められた謎が多少は解れるのではないかと考えている。

つまり、淀姫神社とは、滅ぼされた「川上タケル」を封じるために、安曇磯羅=表筒男命の妃となった=川上タケルの妹豊(ユタ)=姫を合せ祀ったものであり(そのため河上の淀姫の本殿の千木は男神を示し、大明神と二人の神が祀られているのである)、そして、それを沈め祀るものとして派遣された大祝が「高良玉垂宮神秘書」に書かれる神功皇后の二人の妹の一人豊(トヨ)姫が混同されたのではないかという推測が見えてきた。

 繰り返すが、その河上の淀姫を遡る縁起をもつ上無津呂の淀姫神社は、神代一族によって、本来、逆賊川上タケルが下無津呂の乳母神社に祀られ、順神として安曇磯羅の妃となった川上タケルの妹豊(ユタ)姫が上無津呂に祀られていたものを、龍造寺との決戦に際して、逆賊では勝てないと判断したか、神功皇后よりもさらに上回る神威を持つ神武天皇の母君、祖母君を神代一族の守護神として合せ祀ったのではないかと考えている。

 その証拠に、下無津呂の乳母神社の千木は男神を示しているのである(写真参照)。


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今回はヤマトタケルの熊襲退治という誰でも知っている話の舞台が佐賀の川上峡一帯であったという話に多くの頁を費やした。

 荒唐無稽な話と片付けることは容易いが、ではそう主張した者に「では、それはどこで起こったことなのか」と問えば、良くて、熊本、悪ければ鹿児島を上げ具体的な話は一切出てこない。はたまた、最初からそれは神話でしかなく架空の話であると言うことであろう。

しかし、この地には微かながらも具体性を持った痕跡があるのである。

文科省、神社庁に尾を振る教育委員会や既存の郷土史会は、どれだけ『古事記』『日本書紀』に精通しているかを権威の拠り所としていることから始めから無視するであろう。

戦後、科学性を看板に登場した津田左右吉以下の国史学者は、手のひらを返すように、第二代から第九代までの天皇は全て架空であり、まじめに考えるに値しないとし、それを取り扱うものは歴史を知らない者であるとした。

我々は、そのような権威とは一切関係がないため、何と言われようが構わないが、右の百嶋神代系図には、河上タケルと淀姫の年齢差までも判別できるのである。

さらに、河上タケル、従って淀姫が贈)孝昭天皇=海幸彦=阿蘇の草壁吉見神社(雲南省、海南島)とヒコホホデミ=山幸彦(半島系)→ウガヤフキアエズの両方の流れを持つ一族であることまで読み取れるのである。詳細は百嶋由一郎講演全集(MP3音声CD/\2000)を。


553 淀 姫 ③(後) 

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553 淀 姫 ③(後) 

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             太宰府地名研究会(日田市)古川 清久
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 ⑭ 神代一族を受け入れた三瀬氏とは何か?

神代勝利の一族が高良大社の大祝の鏡山家であったことは既に述べたが、では、その鏡山家を受け入れた三瀬氏とは何か?が次に問題となる。


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角川の「日本地名大事典」には、みつせ三瀬(三瀬村)として、文永元(1263)年に東国から入ってきた野田周防守大江清秀とその一族が、三瀬トンネルに近い杉神社辺りに拠点を置いた。

 まだ、この全貌は掴めないでいるが、国東半島一帯の神社を調べていると多少思い当たることがあった。

 姫島の正面に位置する伊美周辺には石清水八幡系の神社(伊美別宮社、岩倉社、岐部神社・・・しかし実態は高良神社)が多い。

国東半島全域が紀氏の領域ともいわれ、旧橘一族に連なる人々が数多く住み着いていた。

 この周防の正面でもある伊美の一画に野田という集落がある。何よりも高良神社を奉祭する一族であることから、もしも、三瀬氏がこの氏族の一派であったとすると、高良大社の鏡山家を受入れ、肥前山内統合のシンボルとしたことの理由が見えてくるのである。

 これについては、関係する親族関係とか家紋、家伝、信仰する宗派などさらに詳しく調べる必要があるが、当面は決め手がなく仮説として留めておきたい。

 どうも鎌倉から戦国期に肥前山内に集り楯籠もった人々とは、大和朝廷に先行した古代王権に繋がる人々であり、それ故に強固な結束力を持ったのではないかと思えてならない。

 勿論、目的は久留米の高良山の奪還であり、九州王朝の再興であっただろう。

 この以降の内容については、「法隆寺は移築された」を書いた米田良三氏の「長谷寺」に関連するため、別稿「発瀬」の課題としたい。

 上無津呂の淀姫神社の九郎社とは何か?

これについては、賛同を得られないことを覚悟の上で紹介しておきたい。

三瀬村に隣接して脊振村、東脊振村があるが、この一帯には謎の多い「九郎社」がいくつか置かれているばかりか静御膳の墓なるものまである。

 普通は無視しそうな内容ではあるが、実は淀姫=河上タケルの妹説を示している故百嶋由一郎氏は、以前、「静は臼杵の地頭の娘であり、身ごもった義経の子を津屋崎で生み、その義経の血を引く子は臼杵で地頭職を継いだ」と語っていた。

 故百嶋翁は連絡を取っておられ、その一族を研究する団体があると聴いていたが、当方は連絡を取れていない。

 当初、境内にある「九郎社」は神代勝利の兄弟の孫九郎と考えていた(神代系図を参照のこと)が、十年前まで佐賀大学教授であった大矢野栄治氏の九郎判官義経=少仁説の証拠の一つであることに気付き、神代勝利の戦国期はともかくとして、それより前の鎌倉、室町期の淀姫神社の一面を見た思いがする。


 最後になるが、百嶋神代系図には架空とされた欠史八代の天皇ばかりではなく、国史

学者もここからは信用できるとした第10代の贈崇神天皇 和風諡号御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)『紀』、御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエ)『記』 また、御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が別名として ツヌガノアラシト、中筒男命、賀茂別井雷とも呼ばれていたことが書かれている。

 通説に尾を振る人々にも関心を持つべき内容を含んでいること伝えておきたい。 


(追補)

川の中から湯が湧いていた


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繰り返す必要はないが、先に、「肉食動物は内臓を捕食することによりミネラルを確保できるが、草食動物は岩の隙間から染み出す鉱泉や温泉の場所を知っており、それなくしては生きて行くことはできない。このため猟師はそのような場所を子孫に伝え、効率的に待ち伏せし獲物を得ていたのである。」「このことから、温泉や鉱泉の効能や安産が結び付けられるのであり、この神水川の水系のどこかにそのような場所があり、海まで行かずとも十分なミネラルが得られていたのかも知れない。」と書いた。

 この淀姫神社調査に於いて、本稿の冒頭に書いた例の良医から「何故、神水川と書き、おしおい川と呼ばれているのか、さらには、何故、乳母神社があるのか?」と問われた時に、この山間僻地での塩の重要さと、妊娠、出産、育児にかかわるミネラル塩の貴重さが直ぐに頭に浮かびはしたものの、古湯温泉からさらに十キロ以上も奥に入ったこの地の辺りに具体的な古い鉱泉場の存在も知る由もなく、それ以上筆は伸びなかった。

 もちろん、通常の知られた温泉場ばかりではなく、梅毒、淋病が横行した時代には、方々に瘡湯(かさゆ)があったし(淫売買って鼻が落ちる…)、古くは、子宝が授かるお堂の水とか、沸かし湯に遊女まがいのものを置いた怪しげなものまでが至る所に存在した。

 もちろん、それらの全てに科学的(医学的)な効能があったはずはないが、太古より長年培われ、土着の経験によって淘汰された効能といったものが確実に存在していた。

しかし、明治以後、ヨーロッパ流の保健衛生の導入と、温泉法(S23)によるある種仮定に基づいた線引きによって需要を奪われ、それらのものから排除され零れ落ちていった冷泉、鉱泉(ここでは法的な意味ではない)といったものも数多く存在していたのである。

無論、これらの存在についての知識は土地のものでなければ解らないが、古老というものは実に有難いものであり、今でも十人ほどに聴けば、まだ、彼らが子供の頃、彼らの祖父母辺りから聞いた話といった百数十年前まであたりの記憶が回収できるものなのである。

従って、そうした地域の知識を持たない者が限られた土地を云々することの危うさは、この一事でも明らかだが、神水川、おしおい川、乳母神社の三点セットは、それだけで、ミネラルを意識させるには十分過ぎるものがあった。

始め、この点に関する聴き取りを行いはしたものの、限られた範囲でしかなかったことから分からなかったのは当然であったが、その後、上無津呂の淀姫の千五百年祭、下無津呂の乳母神社のお祭りの注連縄造りから直会の準備にまで参加するに至り、色々な聴き取りをしてくるうちに、ようやくその核心に近づくことができるようになった。

 それは、例の良医先生に”乳母神社の前で泳いでいたか?”と問うたことから始まった。

およそ半世紀前の下無津呂に、海などというものは一日掛けて泊まり込みでもめったには行けないものであり、泳ぐと言えば川以外にはないのであったが、あれほど冷たい川の中で、熱水とは言わないまでも”多少とも暖かく感じる湯水が沸くところがあった”と話し出したのである。

”おいおい、そんな話はもっと早く言ってもらえば…”というのが本音であったが、このミネラルの話はそれなりの関心を持っていないと思い至らないのが当然であり、まずは、核心に迫るには場数が必要という良い例であろう。

 当然ながら、ほんの五十年前までは、ここでも牛が田を起こしていたであろうが、馬や牛を飼うにも塩が必要で、古代に於ける海岸部の官牧(かんまき)などは問題ないとしても、それなりのミネラル塩が染み出すような岩盤の割れ目とか、塩気のある沼地といったものがなければ牛馬の繁殖などはできないのが道理であった。

 このようなことは一般の知識からは既に消え失せているが、地区に、神水川、おしおい、川、乳母神社の三点セットがある以上、そのような場所が地区のどこかにはあった可能性は高いはずなのであった。

 試みてはいないが、まずは、小字名などを調べれば、水場、宇土手、潮、塩浸し…といった類のものが拾えるのかもしれない。

 話によると、現在の神水川には乳母神社本殿の裏にそれほど大きくはないものの渕があるが、そこが隣の真那古集落も含めた水場であったが、泳いでいると温水が沸いていたというのである。当然ながら、それ以外にもそういう場所があると考え、祭りの準備をしていた氏子の数人に話を聞いてみた。

 雪の日にここだけは早く融けるとか、霜が降らないとかいった場所はなかったか?と問うと、間髪入れず、川向うのテニス・コートのところ…との答えが返ってきた。

 まだ、このような知識が保持されているということは、水田にした時の米の収量に直結する重要な情報であるからであり、もしかしたら大昔はこの辺りからかなりの高温泉も、出ていたのかも知れない。

 嘉瀬川は花崗岩質の岩盤を切り裂いて佐賀平野に流れ下っている。今でも下流から、川上峡温泉、熊の川温泉、古湯温泉が操業中である。

 もちろん、川のそばに泉源が集中しているのだが、ここに限らず、筑後川水系においても、川のそばに温泉が集中していることは、原鶴、筑後川、日田、天瀬、杖立の例を持ち出すまでもないだろう。

 温泉の形成には色々なケースがあるが、多いものは地殻の割れ目に雨水が流れ込み、地下のマグマと地下水となった水が接触するものがある。そもそも、地表にある川も地殻の割れ目(大地の罅割れ)に雨水が流れ込んだものであるし553-12、川沿いに温泉が多いのはそのためである。

こうして、地下のマグマと接触することにより地表に現れることになった金属を含む多くのミネラルが、山間に住む草食動物や僻地に生きる人間にも供給されるのである。

温泉やミネラルを含んだ冷鉱泉は、まさに、山に住む人生にとってこそ霊泉となったのである。

             藻塩のなごりか?


現在、明確な形では確認できないものの、この真那古から無津呂に掛けての一帯には、日常の食生活に必要な食塩はともかくも、人間と家畜の再生産に関わるミネラル塩の供給には有利な土地であったのかも知れない。

七一三年に所謂「好字令」が出され、以後、地名には好字二字とするとされることになるが、どのように見ても「真那古」「無津呂」は、それ以前に成立した古い集落に思える。これは、同時に、上無津呂の淀姫神社の創起が一五〇〇年前に遡ることの信憑性をある程度示している。

最低でも、あの集落の水を飲んでさえいれば、「子宝に恵まれ、安産で、丈夫な子が育つ…」ぐらいの話は、積み重ねられた経験によって確認され、本当に優れた水であったならば、産婆(取り上げ婆)のネット・ワークによって肥前一国ぐらいには直ちに広がったことであろう。

祭りの準備をしていて色々と気付いたことがあった。それは、民俗学的テーマとなることからここでは避けるが、もう一つ、海水を入れた竹筒に海藻を被せたものが準備されていた。それは、まさしくこの乳母神社意味を強く象徴しているものであった。

海水と藻となると、直ぐに思い浮かぶのは、藻塩(モジオ)意外にはない。

「万葉集」に限らず、古今、新古今などにも多くの焼塩が登場する。

まずは、身近なところから(3278


「志賀の海女は藻()刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛笥(くしげ)の小櫛取りも見なくに」


志賀島の海女は海藻を刈り、塩を焼き休みなしに働いて

いることから櫛箱の櫛を取り出して身繕いする暇もない


553-13このように、海から海藻を採り、天日で乾かし
()に積み上げ、何度も何度も海水を汲み上げては、掛け、塩の濃度を上げて火で焼く作業を「藻塩焼く」という。

 古代の山村の集落においては、いかに、藻塩が重要であり貴重であったかが分かる瞬間でもあった。ベージュ色の藻煎りの塩は、ヨウ素を含み、より一層生体の維持に重要な資源であったことが分かるが、ヨードをはじめ、カルシウム、カリウム、マグネシウムと海藻に溶け込んだ豊富なミネラルをいかに山村の民が求め、長野峠を通じ、山内への塩の供給路の中継地としての無津呂の地の重要性、もしくは支配性が見えたのであった。



スポット193  行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発生

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スポット193 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発生した ② 

20180715

太宰府地名研究会 古川 清久


今さら言うまでも無い事ですが、西日本全域を襲った豪雨災害から一転、息をするのも辛いばかりの熱波が被災者と言わず行政担当者と言わず西日本全域の住民を襲っています。

この豪雨災害の大半が国土交通省と農水省によってもたらされているという事を(序)で書きましたが、これからは、何故、「線上降水帯」などという俄仕立ての「新造語」が作られたのか?を考えてみます。

下調べの段階で発見したのは二つの記事でした。勿論、これ以外にも本質に迫るリポートはあるのですが、これは一般にも理解しやすいものを選んだ一部と考えて下さい。

一から書こうとも思いましたが有難く借用させて頂くことにしました。私が書きたいのはこの先の話なのでお許し願います。

お誂え向きにsp193-1
が以下の記事を書いています。



梅雨前線、異例の居座り 大雨を招いたメカニズムは  2018772003


sp193-2



sp193-3西日本に停滞し続けた雨雲


西日本を中心とする今回の大雨は、梅雨前線が東日本~西日本の上空で数日間ほぼ同じ位置に停滞したことが原因だ。

梅雨前線は、北側にある「オホーツク海高気圧」と南側の「太平洋高気圧」が、日本の近くでぶつかり、停滞することで生じる。太平洋高気圧の勢力が次第に強まり、前線が北上することで梅雨が明ける。気象庁の桜井美菜子・天気相談所長によると、今回は暖かく湿った空気が前線に向かって流れ込む梅雨末期の典型的な雨の降り方だが、前線が同じ場所に長時間居座ったことが異例だったという。高知県馬路(うまじ)村では3日間で、年平均の4分の1にあたる1091・5ミリの降水量を記録した。

 気象庁は6月29日に関東甲信地方で梅雨明けしたと発表したが、台風7号が日本海を通過したタイミングで、太平洋高気圧は南東に移動。このため梅雨前線が再び南下し、台風7号が運んできた暖かく湿った空気が雨雲の供給源となり活発化。広範囲に雨を降らせた。関東甲信地方でも6日は雨が降り、気象庁は「戻り梅雨」だと説明する。

 さらに、上空を流れる偏西風の影響などで、太平洋高気圧が北上できないまま、オホーツク高気圧との拮抗(きっこう)が続いたことで、停滞が長期間続いたとみられる。

 昨年7月の九州北部豪雨では、局所にとどまり強い雨をもたらす「線状降水帯」が突然現れ、数時間で記録的な雨を降らせたが、今回は広範囲で大雨が長時間にわたって続いた。

 名古屋大の坪木和久教授(気象学)によると、太平洋高気圧の位置は今回、九州北部豪雨に比べて東寄りだったことが、その理由だという。坪木さんは「太平洋高気圧が南東に移動したことで、東日本~西日本にかけて広範囲に暖かく湿った空気が大量に入り込みやすくなった」と話す。


もう一つご紹介しましょう。


湿った空気と上昇気流が積乱雲を作るんだ


森羅万象博士より 梅雨のころ、北海道の北側にある「オホーツク海高気圧(オホーツク海気団)」と南の海上にある「太平洋高気圧(小笠原(おがさわら)気団)」が日本付近でぶつかって、押しくらまんじゅうをしている。暖かい空気のかたまりと冷たい空気のかたまりの境目は線のように延びて「前線」ができる。これが「梅雨(ばいう)前線」だ。北と南の高気圧はがっぷり四つの状態だから、前線はあまり動かず、1カ月以上も雨やくもりの日が続く。

 梅雨が終わりに近づくと、南西の方から暖かくて湿(しめ)った空気のかたまりが押し寄せ、さらに南からも暖かい湿った風が吹きつけてくる。これが大雨をもたらす。よく天気予報で「前線を刺激(しげき)して活発になる」と説明する状況だ。

 このタイプの梅雨の大雨は西日本で起こりやすい。特に、九州や中国、四国地方に多い。約300人の死者と行方不明者を出した1982年の長崎豪雨や2012年の九州北部豪雨など、大きな被害(ひがい)をもたらす災害がたびたび起きている。

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このほか、新潟県などの北陸地方でも梅雨の末期に豪雨が多い。大雨が降るのは「暖かい湿った空気」と強い「上昇(じょうしょう)気流」がそろったときだ。水蒸気を多く含んだ空気が上空へ行き、膨(ふく)らんで温度が下がると、冷やされた水蒸気が細かな水のつぶになる。これらが集まって雲になる。上昇気流が強いと、空気はどんどん上へ向かう。雨つぶが次から次へと発生して雲が上へ延び、大きな「積乱(せきらん)雲」ができる。

 梅雨の終わりには、梅雨前線に沿うように中国大陸の南の方から湿った暖かい空気のかたまりが日本へ流れ込むようになる。この空気のかたまりは天気図で長く延びた舌(した)のようにみえる。「湿舌(しつぜつ)」と呼ぶ現象だ。湿舌が西から延びて東シナ海の上を通る間に、大量の水蒸気を取り込む。

 地上では、高気圧からは時計回りに風がふき出す。夏が近づいて太平洋高気圧が勢力を増すと、西側や北側へ張り出してくる。元気になった太平洋高気圧の西のへりでふき出す風によって、南の海から暖かくて湿った風が日本へ向かってふき込むようになる。もともと、湿舌では弱い上昇気流が発生している。そこに大量の水蒸気を含んだ南よりの風がぶつかると、一気に持ち上げられて、強い上昇気流になる。積乱雲が次々とできて、強い雨が長時間にわたって降り続く。それで記録的な大雨になるんだ。

 湿舌が発生しているとき、大雨が降るのは天気図にある梅雨前線よりも南側になることが多いよ。

 記録的な大雨には地形も関係することが多い。暖かくて湿った風が山の斜面(しゃめん)にぶつかると、強い上昇気流ができる。風がどんどん流れ込んでくると、積乱雲が次々と発生しやすい。

 太平洋高気圧の勢力がさらに強まると、梅雨前線は北側へ押し上げられる。そうなれば梅雨明けだ。梅雨前線がいすわり続けると、今後も大雨となる可能性がある。天気予報を注意して聞いてみよう。


(取材協力=竹見哲也・京都大学准教授)[日経プラスワン201679日付]による


ヒート・アイランド化した災害列島は国土交通省と農水省が造りだした


相当に多くのネット情報を拾いましたが、真新しい「線上降水帯」という奇妙な表現に相当する新現象、つまり、特別に変わった事が起こったという事実は全く得られませんでした。

まずは、一般的なモデルとして考えますが、要は、梅雨の末期に北のオホーツク高気圧と南の太平洋高気圧の接点に沿って南から湿った水蒸気が大量に流れ込み、そこで湿った大気が持ち上げられる事によって大雨が降った(降り続けた)という従来型の「発達した停滞前線豪雨」でしかなかったのでした。

そうなのです。スコール化して激しくはなっているものの、何も変わったことは起こっていないのです。

愛媛で72時間に1,100㎜降ったと騒ごうが、24時間に均せば高々200㎜台の普通の大雨でしかなく、この程度の雨ならば、古くは1957S32)年の諫早大水害や1982S57)年の長崎大水害の降り方には遠く及ばないのです。諫早大水害の降水量は24時間(決して48時間でも72時間でもないのです)1,109㎜なのであり、長崎大水害は、降り始めからの24時間水量が長崎海洋気象台で527mmを観測されているのです。

恐らく、テレビで大騒ぎするお天気おネイさんから若手の気象予報士の方々は、せいぜいアメダス導入後の20年程度の情報しか拾わずに、史上経験した事もないような大豪雨…と好い加減な情報を流しているのでしょう。ただし、降水量それ自体は同じだとしても、一気に降って一気に流れ降ると洪水にはなるため無視して良いと言っているのではないのです。しかし、実はこれが非常に重要なポイントなのです。

当然にも災害対策の遅れは指摘せざるを得ません。その原因は原発事故に伴い全く生産的でも将来を見据えたものでもないただただ意味のない後ろ向きの後始末(これも永遠に続く)のために続く東日本大震災への傾斜配分(しかもとんでもない法外な単価の支出がなされている…)の結果、必要な投資が行われずに全く意味のない工事に手を取られているのです。原発推進に旗を振った馬鹿議員や首長共は腹を切れ。

 さて、始めは東日本にさえ豪雨災害が発生するかのように大騒ぎされてはいたのですが、蓋を開けて見れば、結果として発生した災害は大きかったものの、実際に起こった豪雨の総量は言われるほどのものではなく、行政のために大袈裟に報道はされものの普通に頻発するレベルでしかなかったのでした。

 要はこれからも発生する程度の豪雨であったものの、他の要因、つまり、売れない人工林の崩壊による洪水や水没しやすい所に住宅開発を認めるとか、崩落しやすい崖地への住宅地の開発を認めるとか、全体として山の頂まで三面張りのコンクリート側溝を張り巡らせ、ちょっとした雨でも一気に水が住宅地に送り込まれる構造が造られてしまった事、大型河川の直線化が進んだ結果一気に流れる事(これによっても破壊力は等差級数的に増大する)によって水位は急激に上がり、二級河川以下は水が排出されずに水没し易くなる…と言った具合で、一気に水が吐き出され、所によっては一気に水が溜まる構造が造られてしまった事にあるのです。真備町の小田川流域については上流にダムを造りたい国交省のダム屋(ダム派、河川派の対立も)によるサボタージュもありそうですが(少しぐらい洪水を出す方がダムを造り易い…)。


 笑い話のような“これまでに経験した事もない数十年に一度の大災害”が毎年やってくる 


 問題は、ヒート・アイランド化されてしまった結果、都市部ばかりか農村部も山林までも全ての地表が乾燥化されてしまったために、間断なく上昇気流を発生させる構造(当然海面温度よりは高い)が出来てしまい、フライパンと化した列島の平坦地で上昇気流が発生し続け、あたかも熱帯のスコールのような雨が次から次に降ってくる装置が造られている事なのです。

 国土交通省と農水省が中心となって造り上げられた現在のヒート・アイランド化した列島の国土は南西の海から膨大な水蒸気を含んだ大気を呼び込み、線上降水帯などと名を変えられただけの発達した停滞前線に沿って間断なく上昇気流が発生し大雨が降るという現象が起こったのでした。

 問題はこの現象が頻発するヒート・アイランド化した国土が造り出された事にあるのです。

 この仕組みというか装置が出来上がったことによって、気象庁が声高に叫ぶ“これまでに経験した事もないような数十年に一度の大災害”が実に毎年起こる事になったのでした。

 結局、何のことはない、両省は戦後70年掛かって災害規模を大きくしたのでした。

災害を防ぐと称して国庫から貴重な税金を引出し、実質的にファミリー企業化した関連の受注業者に収賄の先付とも言うべきできるだけ美味しい単価で発注し、後付けの賄賂とも言うべき天下りをしているだけのことなのです。

 国民(住民でも納税者でも生活者…こんな名称など何の意味もない)でも何でも良いのですが、この土木工事に関わる実質的なマフィア、シンジケートが流すデマから独立し、自らの頭で考え行動する以外に自らの家族と生命と生活と財産を守る事が出来ないと言う事が鮮明になったのです。

 事実50年ほど前に起こった真備町の水害でも死者は12人と比較的少なかったのでした。

では、何故、線上降水帯などという恥知らずな呼称を使ったのでしょうか、探索はこれからですが、農水省の拡大造林政策によって生じた土壌流出(巨大な堆砂によってダムの洪水調節機能が消失している)と国土交通省によって河川、末端水路が雨樋化した結果、降雨と共に一気に洪水が起こる国土に変えられた事を知るべきなのです。今や穏やかな日本はありません。自らは自らで守るしかなくなっているのです。


554 淀 姫 ④ 平野雅廣「異説ヤマトタケル」+ みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について

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554 淀 姫 ④ 平野雅廣「異説ヤマトタケル」+ みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について

2013112220171227再編集)

太宰府地名研究会(日田市)古川 清久


平野雅廣「異説ヤマトタケル」ネットでも手に入らないものですので資料として公開させて頂きます。


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ヤマトタケルの熊襲退治の舞台は、佐賀の大和のことで、討伐に来たオウスも肥後の熊襲であり、その神話を盗んだのが近畿大和王権であることが「松野連系図」により分る。


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熊本県在住の九州王朝論者故平野雅廣氏


松野連系図


松野連系図は国立国会図書館ほかに所蔵されているが、熊本の松野一族(松野鶴平、雷蔵)と推定されている。「松」は木+公=木の君を意味し、呉王の姓=姫を意味する?


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系図には取石鹿文が二人出てくる。誅伐された川上タケル方と名を貰った方のようである。

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淀 姫 ④ 補足 “みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”            20170610


 五年ほど前に淀 姫(ヨドヒメ)という長文をネット上に公開していますが、これを公開した後に、福岡県みやま市の旧高田町江ノ浦に淀姫神社があることに気付きました。

 最近でも、みやま市山川町甲田1949 に未踏の淀姫神社を見出だしたことから、改めて調査をやり直す必要を感じているところです。

 この背景には、佐賀県の嘉瀬川以西が淀姫神社のエリアであるとの思い込みがあったからです。

思えば、京都の伏見に與杼(ヨド)神社(京都市伏見区淀本町167 075-631-2061)があり、それにちなんで新大阪の横を流れる川が淀川と呼ばれているのですから、酷い思い込みであった事を思い直しているところです。一応、伏見の淀姫神社も確認のため掲載しておきます。


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與杼神社由緒

與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。

祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。

この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式(901年~)9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。

元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。(当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)


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桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33524日付の神社移転許可により、明治347月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35621日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。

なかでも本殿・拝殿は明治年間に移築・遷座が行われたにも拘らず、良く当初の建築様式を保存していたので、昭和46622(同年326日内定)に本殿(本殿内の木造狛犬一対を含む)と拝殿の二棟が国の重要文化財に指定されました。

しかし、残念ながら本殿は、昭和5085日午後430分頃、未成年者達の花火(飛翔性花火)遊びにより国指定の貴重な重要文化財は全焼してしまいました。             同社HPによる

高田町の淀姫神社です。


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スポット194 異常なほど暑い夏は戦後70年掛けて国土交通省と農水省が引き起こした ①

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スポット194 異常なほど暑い夏は戦後70年掛けて国土交通省と農水省が引き起こした ①

20180720

太宰府地名研究会 古川 清久


 まだ、本来なら梅雨も明けていないといってもおかしくはない夏休み前の719日ですが、早くも列島全体が40度を超える気温を観測したとして大騒ぎをしています。

 当方も、エアコンを使わずに水風呂と濡れタオルでブログを書いているのです。

面白いのは、これほど暑い日が連続しているにも拘わらず、今年に関しては何故か「CO2温暖化論」という大嘘で声高に説明する傾向が認められないのです。

これもトランプ効果と言うか、彼もCO2温暖化論がデマである事を十分に知っており、裸の王様効果が広まり始めたのかも知れませんが、ネットでCO2温暖化論が虚構であることがかなり理解され始めており、本当に高温に苦しめられている国民からは国家への信頼性が揺らぐことに気付き始めたからかも知れません。

この問題については詳しくはネット上の別の3セクターで書いていますので、以下を中心にお読み頂きたいと思います。

 

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 ただ、「熱 禍」に至っては「日華事変」への架け橋となった「熱河作戦」までふれて書いた長文ですので、暑い中辛抱して読んで頂けるとは思えませんので、簡略化したモデルで何度かに分けて説明していきたいと思います。

 まず、標準的なモデルから考える事にしましょう。皆さんが中学校の時に習った懐かしいモデルです。


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朝、太陽が上がって来ると、地表は間断なく温められ地表の水は水蒸気として高空に上がってきます。

 この時に地表から熱が奪われる=つまり地表の温度が下がるのですが(100℃の水1g100℃の水蒸気になるには539calの熱が必要で水の気化熱と言われるものです)、その水蒸気が高空に昇がり冷やされる事によって水滴となり(この時にも空の上で熱を放出しCO2など問題にならない規模の大量の熱が宙空間に熱が放出される事にも関係してくるのですが、ややこしくなるのでこの話は致しません)雲として漂い、それが飽和状態となり上昇気流でも支えられなくなると一気に雨として地表に降ってくるのです。

これが雨の仕組みなのですが、同時に安定して降ってくるはずの冷された雨(水)によって地表の温度もが一気に下がっていたのです。

 まず、これが、ほぼ、毎日、定期的に起こったのが、昨今消えてしまった夏の夕立であり、熱帯地方ではジャワ島やボルネオ島のスコールだったのです。さて、重要なのはここからです。

 昔は、都市だろうが農村だろうが山村だろうが、家の周りに森や林や池があり、川にも水があり、家の裏にさえも井戸や裏堀(ユドネ…)から池までもがあって、鎮守の森から道路や堤防の土手にも土があり雨を吸い込むに十分な地面もあったのですが、今や、一般住宅や団地の駐車場を始めとして、近くのラーメン屋だろうが大型ショッピング・センターだろうがコンクリートで塗り固め、仮に雨が降ったとしても、貴重極まりない水が三面張りの側溝によって下水道や河川に一気にい流し込まれ、直ぐにカラカラの地表となってしまう様になってしまったのです。


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当然にも、メダカやカエルや蛇がいた川も池も大半の生物が失われた上に、事実上、地表から水が消えてしまったのでした。

 するとどうなるでしょうか?と言うよりもどうなったでしょうか?

 地表に水を溜め込む力がなくなれば、前掲の雨の仕組みのモデルの①から④のくりかえしが全くできなくなり、夕立も当然に消えたのでした。

 代わりに登場し始めたのが都市型豪雨でした。大都市はほとんど臨海部にあるため、一方的なヒート・アイランド起源の急激な上昇気流が発生すると海から送り込まれる湿った空気が一気に持ち上げられて大雨となるのですが、これは近年の別の現象になりますのでここでは触れません。

 では、このように地表を一変させたのは誰だったでしょうか?

 勿論、下水道事業は厚生労働省所管でも行われましたし、公共工事は色々なセクターでも行われています。

言うまでもなくゴルフ場やショッピング・モールなどは民間で開発されてきましたが、圧倒的な影響力を持ったものは、国土交通省とその面積からも農水省だった事はお分かり頂けることでしょう。

 これが“異常なほどの暑い夏は戦後70年掛けて国土交通省と農水省が引き起こした”とした理由です。

 そして今回の「線上降水帯」という奇妙な新造語もこれらの行政の無策というよりも国土への破壊行為に対する国民の批判を躱すために政府からの要請によって行政の責任逃れに手を貸している可能性があるのではないかと考えているところです。

 既に今年は熱中症で倒れた人は万人単位に近づき、とうとう死者が二桁を越え、実際には隠れたもの(病死扱い自殺扱い)を併せれば実際には三桁に上がっているのではないかと思います。

実際こんな国なら死んだ方がましなのですが…。

 面白いのは二年後にオリンピッをヒート・アイランドの中心地の東京でやるという大笑いです。

 物心がついた小学校以来一度もオリンピックなど見た事の無い者としては、一片のスポーツ・マン・シップもないこのような、ヨーロッパ不良貴族共が始めたくだらない興業(サーカス、ストリップ・ショー、見世物…)でしかない上に、運営側も選手側も不正に不正を重ねるものなどはサッサと辞めてしまえと言い続けているのですが、完璧に破産し分厚い化粧の小池○○子が化粧を流しながら謝罪する姿が目に浮かぶようで実に楽しみな限りです。恐らく熱中症による死者さえも出る可能性も考えられ早く来い東京オリンピック…という訳です。

こんなものに予算を使うくらいならば、いち早く犠牲になった被災者の救済に資金投入すべきなのです。

 既に、小泉竹中によって国民の所得が半減している訳で、災害義捐金も桁違いに金が集まらず、土建屋、産廃業者…共が法外な利益を上げているのです。不正国家、不正社会、こいつらの財産を没収せよ!

 では、今度の豪雨災害の雨はどこからもたらされたのでしょうか?実は海からなのです。それについてはまたお話しする事にしましょう。

スポット195 ことしもそのうちやってくる真夏の都市型豪雨も国土交通省が引き起こしたもの ②

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スポット195 ことしもそのうちやってくる真夏の都市型豪雨も国土交通省が引き起こしたもの ②

20180720

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に、夕立の仕組みについては前ブログで取り上げましたが、昨今、東京や大阪などの臨海部で大都市型の集中豪雨が起こっている事は皆さん良くご存じの通りだと思います。

ここ数年、日本各地で目立っているこの現象、中には特大級の雹が降ってくるなどこのタイプのゲリラ豪雨は一向に収まる様には見えません。

しかも、単に暑い日ばかりではなく、普通の日でも発生しているようなのです。

このことは、仮に冬場の寒い日であったとしても、周りよりも際立って暖かければ、雨や雹が降ってくるようで、その原因はスポット的に巨大な上昇気流が発生すれば何時でも起きるようなのです。


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現在のコンクリート化された都市の表面には水気が全くありません。

それを敢て探そうとすれば、地表を走り回る車の排気ガスに含まれる水分(炭とは異なり炭化水素は燃焼によりCO2と水を発生させる)や、僅かに残されたオアシスである鎮守杜の境内程度、ひたすら走り回る宅急便のドライバーの汗や、コネがないだけで就職にあぶれた優秀な学生の涙に、品性の低い中国人、韓国人観光客が撒き散らす立小便…ぐらいしか思いつかないのです。

それほど、現在の都市はコンクリートで覆われ、河川まで蓋がされてしまい、使用される膨大な量の水にも拘わらず大半が下水道を通って地下に深く押し流され続けているのです。

昔は神田上水や水道橋などという優雅なものがあったのでしょうが、上水道でさえ奥多摩などの遠い山奥ダムから持ち込まれる上水道も水管橋や地下管路に変わっているのです。

もはや都市で消費される大量の上水の多くが地下に潜り、延々と数十キロも地下の暗闇の中を通ってくるのですから、ここからの蒸散など期待することは不可能なのです。

最大の問題は、地表がコンクリートに覆い尽くされ、地面の保水性といったものがほぼ失われた上に、最低でも地表に還元されることが期待できるはずの排水さえもが下水道管という地下を通る魔物に吸い取られているのです。

こうして、極限まで奪われた都市表面の水分はいつしか夕立の材料であることを止め、当然ながら夕立は消え去り地表は雨によって冷やされることもなく熱帯夜の連続の中で加熱され続けることになるのです。

勿論、本来、自然な熱循環に寄与するはずの都市排水は暗闇の地下管路を通り下水処理場という限られた場所だけで蒸発しているのです。

都市部でこの構造を造りだしたのは、只々、国土交通省であり厚生労働省だったのです。

そもそも国土交通省の技術屋などと言うものは、退職金と年金と大手ゼネコンに天下りすることしか考えていない上に、物理や化学と言ったものが分からない連中だったから土木をやっているのであって、当然と言えば当然ですが、今後も「打ち水大作戦」なる恥知らずなイベント以外打つ手を持ってはいない事から良く分かるでしょう(詳しくは太宰府地名研究会のHPや「環境問題を考える」のサブ・サイト「アンビエンテ」から「打ち水大作戦の大間抜け」「熱禍」外をお読みください)。


都市型豪雨はなぜ起こっているのか


では、地表から水が消えた大都市で、どうして都市型豪雨が頻発しその水はどこからもたらされているのでしょうか?

言うまでもなくその原因は、今やフライパンと化した都市の構造にこそ原因が求められるべきであり、それをもたらした主因が、下水道の整備と都市舗装化、さらには三面張り水路で水が一気に海へと押し流されていることによって水循環が破壊され都市表面が乾燥され続けていることにあるとすれば、この水循環を破壊した国土交通省、厚生労働省…にあることは明らかでしょう。

国土交通省などによって極端に乾燥化された都会の地面からは一方的に上昇気流が発生します。

これは、単純な物理法則であって官僚の言い訳(都市整備の在り方は我々の所管ではない…云々)は一切通りません。極論すれば、熱帯夜、熱中症で死に追い込んだのは国土交通省なのです。

当然にも暑くなった都市は、最も熱せられた場所から一気に上昇気流を発生させます。

もし、そこに湿った大気が持ち込まれたとすれば、どうなるかは言わずもがなであり、熱せられきったカンカン照りの夕方に、仮に海から南風が吹き込みその上昇気流に湿った大気が巻き込まれたとすれば、水蒸気を含んだ湿った大気(大半は太平洋ベルト地帯では福岡などを例外として南の海からしか持ち込まれない)は一気に高空へと持ち上げられ続け、高空で一気に冷やされ地表に大雨や時として、また、大型の雹となって降ってくるのです。


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そうして、一時的に地表は冷やされるのですが、それらは、また一気に地下の大型下水道などに吸い込まれ、たちまち乾燥してしまうのです。

お分かりでしょうか?これが戦後70年間掛かって国土交通省がやったことだったのです。

こいつらは、未だに何をやっているかが分かっていないのか、さも良い事でもやっているかのように地下水道を造り続け大手ゼネコンに税金を流し込み続けているのです。

その証拠に、さも誇らしげにこの大間抜け共は地下にトンネルを掘り続けているのです。


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まず、この自らが犯した失策への反省がない限り、彼らは大型地下水道を造り続け、ゼネコンに天下りし、ホームレスやエアコンも節約する老人たちの苦しみを尻目に、自分たちだけは避暑地の別荘で快適な夏を楽しみ続けることになるのです。既に熱中症により倒れた者は万余りとなり死者も二桁を越えたのです。これが国土交通省がやったことなのです。


山で雨が降らなくなった


ここで、驚愕のシナリオが描けることになるのです。皆さんお分かりでしょうか?

問題となるのは夏だけでもないのですが、日本の夏は基本的に南から風が吹きます。

このことは、南の太平洋から大量の湿った空気が運ばれ続けていることを意味しています。

通常はこれが列島の脊梁山脈で持ち上げられ山岳地帯を中心に多くの雨が地表にもたらされ、海岸部に発達した都市に流れ下っているのです。

このため、山岳地帯を中心に今までにも必要以上のダムが造り続けられて来たのでした。

ところが、都市型豪雨によって大都市は大雨が降るものの、渇水期を中心に大都市から遠く離れた山のダムには水が溜まらないでカラカラといった話が面白おかしく報道され続けています(今年も同様で関東でも取水制限が始まりました)。

これが、面白い話で済む間は、ただの一時的な環境異変で済むのでしょうがそれでは済まないのです。

極端に言えば、太平洋ベルト地帯ではヒート・アイランドが止まる様子を一切見せず、南の海からもたらされた真水の元となる雨は列島の縁とも言えるウオーター・フロントの大都市の臨海部ばかりで巨大な豪雨となって降り、貴重な真水はそのまま海に押し流され、山岳地帯のダム周辺では雨が減り続けているという奇妙な現象が発生しているのです。

この現象が長期的に続けば、山岳地帯からその裾野である農村部一帯はにさらに乾燥化し、穏和で多彩な日本の風土が決定的に失われて行くことになるのです。

つまり、上昇気流が絶えず起こり続けている海岸部に巨大な熱せられた空気のカーテンが発生し続け、列島脊梁山脈の奥地に南からの湿った大気の進入する事をブロックし続けていることになるのです。

この馬鹿げた巨大な現象が、戦後70年掛かって不可逆的に起こり、豊かな日本の風土が失われ続けているのです。

もうお分かりでしょう、現代の関東軍とも言うべき国土交通省は、戦前の軍部と同様に国家の中に国家を造り、日々、日本列島を究極の破滅へと追い落とし続けているのです。

これが、水循環、大気循環、熱循環という物理法則の基本も分からないで、安易で金儲けに繋がる土木を目指した国土交通省の連中が日本にもたらした巨大な変化だったのです。

最大の問題は、彼らにそのことの認識が全く存在しない事です。気違いにというより間抜けに危険な刃物を持たせた事になるのです。


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こいつらはただただ水を押し流し地表を乾燥化させることしか考えていない


その証拠こそが、優雅に見えるだけの「打ち水大作戦」なのです(もしも自覚があればこんな恥知らずなチャラチャラしたイベントは間違ってもできないはずなのです)。

あたかも、都市の乾燥化は自分達がもたらしたものではないと考えているのか、それともそれを装っているかのようなのです。

問題の認識、自らの責任という自覚こそが改善への一歩なのですが、その自覚が全く存在しないことが、この馬鹿げたイベントに表現されているようです。

早晩、このたちの悪い連中によって再び列島の民はもっと酷い辛酸を舐めさられることになるでしょう。


555 唐津市伊岐須神社の三光神社と餘部の伊岐佐神社とは同じ神社だったのではないか?

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555 唐津市伊岐須神社の三光神社と餘部の伊岐佐神社とは同じ神社だったのではないか?

20180123

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 「佐賀県神社誌要」という非常に使い勝手の悪い資料があります。

 ないよりはましなため有難く使わせて頂いていましたが、旧七山村(池原)の子安神社の部分を見ていると、隣に村社として三光社なる神社がある事に気付きました。

 どう考えても長脛彦を祀る神社であることに気付き、俄かに色めきだったのでした。

 一応は自らで発見した数社に玄松子氏のリストで拾い出したものと併せ、九州島に関しては、この栄えある長脛彦系の神社を全て実踏したつもりでいたのですが、玄松子氏のリストに載っていないものを新たに発見した事には、それなりの達成感を感じました。

 勿論大した話ではないのですが少なくとも九州の長脛彦の神社を全て踏破した人はいないはずなのです。

 この伊岐佐神社は佐賀県唐津市でも松浦川側ではなくの古唐津湾奥と言った場所にあり、幹線道路からも外れている事から普段目にする事の無い集落であり神社なのです。

 この神社とこの土地の事を意識したのは五年程前の事でした。

 それは、但馬の御井神社の調査のために餘部鉄橋の餘部を訪れたところ、伊岐佐神社がある事に気付き、そういえば、唐津市と言うよりも旧相知町に伊岐佐(イキサ)ダムがあり、伊岐佐という集落があった事に思いが走ったのでした。

伊岐佐というめったにない地名だけに、帰納演繹が行えずにそれっきりしていたのですが、今回、唐津市伊岐須の三光神社の祭神が長脛彦(ナガスネヒコ)であると確認できたことから、餘部の奇妙な神社の謎が解けた気がしています。

そうです、東北三社の香取神宮(千葉県香取市)、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、息栖神社(茨城県神栖市)の息栖神社に対応するものこそ、この伊岐佐神社なのです。


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555-3創建 706年(慶雲3年)所在 兵庫県美方郡香美町香住区余部

祭神 伊弉諾尊 彦座王命(ヒコイマスノミコト) 天兒屋根命 出雲色男命 応神天皇 社格 村社

創祀年代は不詳 社伝によると文武天皇の慶雲三年(7067月)

諸国に疫病が流行したため、諸国に令して神祇を祀らしめた際、

美含大領椋椅連小柄が、彦坐王命を伊伎佐の丘に勧請したのが当社のはじめ。


勿論、念頭にあるのは鹿島、香取、息栖の所謂東国三社であり、息栖(イキス)の岐神(クナトノカミ)=長脛彦です。

従って、唐津市の伊岐佐の三光神社も兵庫県の餘部の伊岐佐神社も基層部には岐神が祭祀されていたのではないかと思われ、ただ、神武天皇との故事からひた隠しにされているのではないかと考えるのです。


東国三社 東国三社(とうごくさんしゃ)は、関東地方にある鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の総称。

三社はいずれも関東地方東部の利根川下流域に鎮座する神社である。古代、この付近には「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっていた。これら三社の鎮座位置はその入り口にあたり、うち鹿島社・香取社は大和朝廷の東国開拓の拠点として機能したと推測される(息栖社も拠点とする見方はあるが不詳[1])。

また、三社はいずれも『古事記』『日本書紀』における葦原中国平定に関する神(右表参照)を祀っている。うち息栖社主祭神・岐神は、記紀に記載はないが東国に導いたと伝えられる神であり、同社では天鳥船神を配祀する。


長髄彦 長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

ウィキペディア(20180123 23:27による


555-4

ウィキペディア(20180123 23:10による

 以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に於いて

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飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “基層に長脛彦を感じる古社”

を書きました。

 これも飯塚に長脛彦がいたのではないかを探ったものですが、隠されている岐神を拾い始めると、長脛彦が生駒山に居たなどと言った「記」「紀」をベースにした話しかできない人々が哀れにさえ思えてきます。

 特に、福岡県うきは市の三光神社や長脛彦がいた痕跡が濃厚な豊前の三光町(旧三光村)と、三光、伊岐須、伊岐佐、岐(クナト、フナト)…といった地名、社名などをメルクマールとして探索できるのです。

 ここで、「佐賀県神社誌要」の三光社をご覧ください。


555-6

八街彦命、八街姫命がちゃんと書かれています。

 故)百嶋由一郎氏は“皆さん勘違いされている人が多いんですが、天の八街の話から、猿田彦と天宇受賣命と思い込んでいるけれども、これはナガスネヒコと妹さんなのです…”と言われていました。

 聖神社神代系譜にはこのお二人の兄弟が出て来ます。

 これこそ道真公の母親の御先祖の伴氏女に通じる八街彦命(青枠)、八街姫命(赤枠)にあたるのです。

 八街とは八つの交差点八差路ほどの意味ですが、それも「岐」のことなのです。

 この栄えある金山彦の流れを汲む一族は、故あってか神武天皇に逆らい排斥されているのです(出雲大社の東の出雲井神社のように…)、実はこの唐津の三光神社のある伊岐佐のとなりの集落が千束であり、出雲大社の千家の千に通じてもいるのです。不思議ですね。


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百嶋由一郎聖神社神代系譜(部分)


556(前) 古川という家系について ① “古川とは何か?”

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556(前) 古川という家系について ① “古川とは何か?”

20180124

 太宰府地名研究会 古川 清久


 これまで個人からの直接、間接の問い合わせや、神社を調べる上で必要となるその神社を奉斎する氏族の家系を調べる必要性などもあり、本ブログでも「荒津」姓、「別役」姓、「重松」姓、「宮原」姓…をある限度で公開してきました。

 そうした中、自らは…と考えるのは人の常であり「古川」姓についても考えたことは何度かありました。

 ただ、武家として古川氏といった氏族は聴きませんし(一部奥州にありますが)、有名人と言ってもたかだか戦前戦中辺りを中心に活躍したコメディアンの古川ロッパ程度のものしかなく、とりたてて取り上げるほどの名家でも財産家でも重要な氏族でもないと考えていました。

 まず、私は佐賀県でも西部に位置する武雄市で産まれ育ちました。

 父は陸軍士官学校(航空士官学校)出の航空兵科現役将校で昭和17年には占領後のシンガポールに入り少尉任官していますので(523期なのでしょう)、陥落間もないシンガポール辺りの航空隊辺りにいた事になります。

ところが、大した軍歴も加算もなく兵籍簿には転属が書かれていましたので、18年には内地送還となり、山口県萩市辺りの教育隊で航空機関整備関係の将校として終戦を迎えているのです。

一方、敗戦によって一家は一文無しで台湾から引き揚げていますが、台北では祖父が台湾精糖や関係銀行の社長をするとか総督府の議員であったとかとある程度成功した家系だったようです(台湾支配の一翼)。

ただ、資産を内地に移すような狡辛らい事もせずに一切を失い、引揚後は相当に苦労しているようです。

父は八人兄弟でしたが、台湾で既に高等教育を完了していた兄姉ら四人は帰国後には直ぐに上京し、その高学歴から大企業に就職して東京都下でそれなりに良い生活をしたようです。それに比べ佐賀に留まった父以下はポツダム中尉の現役将校だったため公職追放が解ける30歳近くまではまともな職にも就けず、給料遅配、欠配を食らいながら、ようやく通信教育で教員資格を取って長崎県北の中学校を皮切りに最後は有田焼の有田中学校、隣接する山内中学校勤務で退職し、その後二十年以上も年金生活(恩給通算年金)を送っています。

ただ、台湾で高等教育を受ける事ができなかった父より歳下の弟や妹は、戦後も大学に進む事など到底出来ずに凡そ裕かな生活を送っているとは言えないようです。

 一方、母は佐賀県と長崎県の県境に近い佐賀県の旧大浦村(現太良町)の産婆の娘(北御門姓)でしたが、それなりの人だったらしく、一時は村の特待生として当時花形のタイピストにもなったと聴いています。ただ、佐賀県でも県境の一帯は方言が強いことから都会に出ても全く馴染めなかったらしく、直ぐに職を辞して実家に戻り、新たに看護婦になるために朝五時から起きて野菜を背負って佐賀駅で売り学資を稼ぎながら看護学校に通い看護婦になったと聴いています。まさに「おしん」の様な話を母から聴かされていました(母に限らず、ほんの百年前までの人は皆大変な苦労をして生き抜いていたのでした)。

 その後、母は従軍看護婦への道へと進み、比較的安全だった香港の陸軍病院で終戦を迎え、復員後(従軍看護婦の場合は復員と言うべきかどうかは不明ですが)は大分県別府市の旧陸軍病院(後の国立別府療養所)から武雄の国立療養所へと転勤し大半は結核病棟で勤務(25年)を終えています。

 これで大体大まかな家庭環境がお分かりなったと思いますが、この古川家は祖父が苦学して早稲田に進んだことから一時的には大きな発展を迎えたようです。

 今と違って、戦前の早稲田ですから私学とは言え数少ないエリートだった事には間違いなく(勿論、戦前までの本当のエリートは東大、京大でもなく海兵であり陸士だったので自由な校風の早稲田、慶應…は民間企業の雄ではあっても官界には幅が効かなかったのでした)、それが何故可能だったのかを以前から考えて来ました。ところが、最近になってようやく大体の見当が着いたのです。

家紋は唐草着きの丸に三つ星ですが、今にして思えば、古川家とは、概略、海洋民、船による交易民、通商民であり、大幡主系氏族であった事が分かるのです。


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どうせ大した氏族ではないと理解していた事から本気では考えてなかったのですが、そもそも苦学ながらも祖父が早稲田に進むことができた背景には、早稲田を創設した大隈重信の流れを汲む佐賀の組織と何らかの関係=コネクションがあったとしか考えられないのです(大隈重信は佐賀市水ケ江町の出身)。

 元より自族を誇る意志はさらさらないのですが、古川家は祖父の代では既に分家となっています。

しかし、私の代で36代を数える名字帯刀を許された御用商人上がりの武家ではあったのです。

 まず、佐賀県の南側には江戸時代以前から造成され続けて来た非常に大きな干拓地が拡がっています。

この低平地一帯の河川では有明海の大きな干満を利用して米、味噌、醤油、酒と言ったものを搬送する海運業のようなものが成立しており、それほど位は高くないものの恐らく御用商人の家柄だったようです。

 恐らくこの関係で早稲田に入れたのではないかと思いますし、事実、父親の兄(長男)も早稲田から大手の○○電工に入り専務までなり、最後は関係子会社の社長で終えています。

 どちらにせよ、上京した古川の一族でも私の従姉弟の世代は東大、東工大、京大、早稲田、慶応…が輩出しており、九州に残った一族は、地方の国立大学を出ただけの私も含め気が引ける関係となっています。

 ともあれ、大隈重信はその姓からは白族系の大幡主(櫛田神社)~ヤタガラスの後裔氏族を思わせます。

しかし、それは地名や姓氏から判断したもので、実際には丸に剣唐花という鴨玉依姫系の氏族の様であり豊玉彦=ヤタガラスの本流の名族である事が分かったのでした。


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してみるとどのように考えても大幡主~ヤタガラス系の一族の末流と考えられる廻船業者の端くれである古川家もその下っ端の家系だったように見えるのです。

 当初、古川家は有明海沿岸における廻船業者と理解していた事から、取るに足らない江南系の海人族であって、言わばムツゴロウのような干潟で蠢くような氏族だったのだろうと考えていました。

 それは、「古川」と言うありふれた姓からも言えるのですが、実際に筑後川流域、宝満川流域には50とか70とかいった数の「古川」という小字がある(あった)のです。

 これらは、「フルコ」「フルコウ」「フルゴウ」「フルカワ」…と呼ばれ、干潟のような低平地の真っ平らな土地で、大雨、洪水によって絶えず流路を変える河川がショート・カットを起こすと三日月状の旧路が残されますが、それが古川であり、場合によっては代わりの土地として埋め立てられ、耕作地や住居地とされるのです。いずれにせよこの旧河道が古川と呼ばれていたのです。

 今でも昭文社の県別道路マップなどを見れば同地域には三~四ケ所の古川地名が拾えます。


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朝倉市杷木町の旧古川村、古川温泉(現筑後川温泉)…など、もしも詳細に検討されたければ、福岡県「小郡市史」付属文書などを参考にして下さい。

 従って、私の系統の古川姓とは、有明海沿岸の古川が出現するような低平地周辺で廻船業を行う氏族であって、たまたま河川の捷水路化によって成立した残留河川の「古川」の周辺に住んでいた事から「古川」姓を選択したように見えるのです。

 つまり、私達のご先祖様は遠く福建省、浙江省辺りから、二千年程まえぐらいに筏だか龍骨の入った構造船かで列島に入って来た倭人だったのでしょう。

同族だったかどうかは不明ですが、このことから大幡主(博多の櫛田神社の主神)~ヤタガラスの後裔である橘一族との繋がりが出来たのではないか考えています。


556-4

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そもそも大幡主とは天御中主命、白川伯王の流れ(雲南省昆明白族)を汲む列島の中枢民族の中心人物なのです(実はヤタガラスの父神=塩土翁)。

二千数百年前には、三国志ではなく呉越同舟の呉(越)から多くのボート・ピープルが入っている訳で(倭人は呉の太伯の裔…)、その流れの延長上に阿蘇氏(雲南省麗江~)も白族(雲南省昆明~)も海南島を経由して入っていると考えられるのです。

 これらについては過去何度となく書いてきましたので改めて書くことはしませんが、その後裔の大幡主~豊玉彦=ヤタガラスの一族こそが、海神族、海人族なのであり、従って龍王も豊玉彦なのです。

 だからこそ、例えば対馬には豊玉姫を祀る海人神社や和多都美神社があり玉之浦湾もあるのです。

 そして、この豊玉彦=ヤタガラスの流れから橘一族も成立し県犬養三千代や時の正一位・左大臣橘諸兄=葛城王も産まれているのです。

 ただ、諸兄失脚後の奈良麻呂の変によって中央の橘氏の半分は根絶やしとなり、その反乱の中枢部は肥前の杵島山周辺…外に逃れて来ているようなのです(と言うよりもそもそもの橘一族の本願地だったのだろうと考えています)。


橘奈良麻呂の乱は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。

橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

743年(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738年(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。

749年(天平21/天平感宝元年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。

ウィキペディア(20180125 0948による


 

556(後) 古川という家系について ① “古川とは何か?”

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556(後) 古川という家系について ① “古川とは何か?”

20180124

 太宰府地名研究会 古川 清久


その事を証明するように、この奈良麻呂の変の立太子(廃太子)道祖王の墓が現在でも杵島山の麓の武雄市橘町楢崎の一角に残されています。これもひぼろぎ逍遥のバック・ナンバーをお読み頂きます。

020 佐賀県に奈良麻呂の変(743)の廃太子道祖王の墓がある 奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地


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杵島山周辺でも、最も重要なポイントが、この道祖王の墓地でしょう。

現在の天皇制が確立するのは、橘 諸兄の死と、その後の奈良麻呂の変による橘氏の中級公家への零落が契機となっているように思えます。

ここから事実上の藤原天皇制が確立したのであり、以後、現在までその専横は続いているのです。

では、なぜ、この地に廃太子とされた道祖王の墓地があるのでしょうか?

それは、ここが橘氏の拠点であったからに他ならないのです。


757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。 
 4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
 藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり(ママ)、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
 大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
 7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したとして、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
 前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
 8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。

hp「エピソード日本史」より

概略は以上のようなものですが、橘 諸兄は縣(橘)犬養三千代の子であり、奈良麻呂は、また、その子、三千代の孫になります。

では、なぜ、道祖王の墓(ドウザノボチ←ドウソオウサマノボチ)がこの地にあるのでしょうか?橘諸兄が太宰の権帥のとき、配下にいたのは吉備真備でした、諸兄の後に真備が太宰の帥になっていますので、真備に匿われた可能性はあるでしょう。

何よりも、奈良麻呂の変の時期にも、和泉式部参内の時期にもこの杵島山一体と中央には残存橘氏のルートが存在していたと思われ、もしかしたら、橘氏の本貫地の一つであったのかも知れません。

こうして見てくると、この万葉の杵島山の周辺は古代において重要な領域であったようです。

だからこそ百済の王族らの亡命避退を受入れ、九世紀に於いても恵果阿闍梨から万巻の伝授を受けた空海が密かに帰国上陸したのでした。

さらに言えば、通常、古代の基諱郡(佐賀県基山町)と見られていますが、橘一族(紀氏)が拠点としていたからこそ杵島と呼ばれたのではないでしょうか、そうでなければ道祖王の墓があるはずはなく、その正面の潮見神社に橘 諸兄や河童が祀られるはずもないのです。

また、この橘氏の伝承があったからこそ、明治期に橘村と付されたのであり、和泉式部も中央に参内できたのではないでしょうか?

そのこと知っていたからこそ、頼朝の許しを得て橘 公業(キンナリ)は伊予から所替えするのです。

別の話になりますが、後にこの橘氏は渋江、牛島、中村の三家に分かれ、主要な渋江は肥後の菊池に移動しますが、それから先の話はまた別の機会に。

道祖王の墓地は普通では全く分からないところです。現地に行きたい方は、武雄市橘町の橘小学校付近まで行き、まず、おつぼやまの神籠石を見つけてください。神籠石の見学ポイントは通常二か所ですが、古川製陶所付近から東側にある神籠石入口付近まで進み、さらに東に三百メートル進んだ山際の長崎街道そばに現地があり掲示板があります。


当然にも橘諸兄公を祀る潮見神社もあります。


ひぼろぎ逍遥 

018  佐賀県に橘 諸兄を祀る神社がある 潮見神社


橘 公業(キンナリ)

武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。

さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元22月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年96日関東御教書案(鎌遺6235)には,99日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。

当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。…(中略)…

当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。社蔵の御正体(市重文)は元禄51692)年の再興銘を持つが,その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。以上、元地名研メンバー牛島稔大のhp「牛島さんたちのル-ツに迫る」


ここまで、読まれた方は、橘諸兄の一族が、杵島山の一帯にいたからこそ、和泉式部が中央の橘 道長の妻になることができたのだとお分かりになったのではないでしょうか。

時代は異なりますが、奈良麻呂の変の時の太宰帥は吉備真備でした。

そして、橘 諸兄が太宰帥の時の副官は吉備真備だったのです。このよしみから、敗北した橘一族の一部がこの杵島山一帯に匿われた可能姓は否定できません。

もし、それが正しかったとしたならば、潮見神社に橘 諸兄が祭られることも、廃太子としての道祖王の墓があることも、鎌倉期に橘 公業が伊予から入ってきたことも、合点が行くのです。

さらに言えば、奈良麻呂の子島田丸がなぜ兵部大輔に抜擢されたのかについても、別稿とするため詳しくは触れませんが思い当たることがあります。

それは、杵島山と筑波山の歌垣の存在です。現在でも中国の少数民族が歌垣を行い、また、鼓楼や呉橋を造ることは知られています。

彼らは現在でも、一切釘を使うことなくプレカットされた杉材で、一夜にして高楼に組み上げることができるのですが、その技術をもったビルマ・タイ系の技術者集団が、杵島山と筑波山一帯、少なくとも杵島山周辺にいたとして、また、島田丸がそれを束ねることができる立場にあったとすれば、兵主を使い、一夜にして春日大社を完成させることができた事も納得が行くのです。


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そうです、後の橘氏にも繋がる一族は、古くからこの地にいた可能性があるのです。


この公業の流れが渋江、牛島、中村の三家と名を変え、公忠(兄)の流れが熊本県氷川流域に留まり後に宮原と姓を変え、宇土、人吉、その他に展開しているのです(公忠という名は別人も現れ要注意)。


ひぼろぎ逍遥 

020 佐賀県に奈良麻呂の変(743)の廃太子道祖王の墓がある 奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地

による

美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は、福岡県朝倉市林田にある神社。

祭神 今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された。皇后はこのことを秘し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船・軍器を整え、神々を祭って日本最初の外征に肥前名護屋から出征していった。皇后は航海中船中で素戔嗚尊・大己貴命・事代主命の3神に戦勝を祈願された。

海上つつがなく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれた。戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗・百済も来貢し、肥前・高橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られた。その神が美奈宜神社の3神である。

ウィキペディア(20180125 1012による


556-9朝倉市にはミナギ神社と呼ばれるものが二つあります。


福岡県朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社


一つは、朝倉市荷原2421(旧三奈木村)の 美奈宜神社で、もう一つは、今回、取り上げる朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社です。


「…戦いは連勝し三ケ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された。…」と、書かれていたのです。

…神功皇后新羅御討征ノ折船中ニ於いて大己貴命、素サ鳴命、事代主命ノ三神ニ勝軍ノ始要ヲ折ラレ異賊ヲ討チ肥前国杵島郡高橋ノ津ニ帰還東上ノ途中、宮ヲ造リ三神ヲ祭リ給フ。…

(同社御由緒)

083 朝倉市林田の美奈宜神社社伝に驚いた! 神功皇后は肥前の高橋津に上陸し武雄(柄崎)温泉で湯浴みした”                                 ひぼろぎ逍遥による


 話は変わりますが、台北の古川家は父を含む八人兄弟のうち病死の一人を除き、戦争でも一人も死んでいません。一方、母の北御門家は五人兄弟で二人が戦死しています。

 その背景には台湾が空襲も戦闘も行われなかった事と、祖父が有力者だった事が関係していたと思われるのです。所詮、個人の力ではどうにもならない運命と言ったものと同時に、不平等、不公平が共存している事が良く分かります。

 もう一つ、父が早い内地送還となった事については“台北と言う自由な環境で育った父は将校でありながら兵営で「聖書」を読んでいた事が咎められたことから重営倉(懲罰倉)に入れられた”という事でした(海軍兵学校でも敵性語の米英語教育廃止の機運が上がったというのですが、井上成美校長は反対したという戦後になって過剰に誇張された話もありますね…)。クリスチャンと言うほどの人ではなかったのですが、元々社会に適応できなかったのは私と同様であって、蛙の子は蛙でしか無い事が良く分かります。しかし、そのおかげで私も存在しているのであって、奇妙な縁であることはその通りです。

 従ってそうなると何故航空士官学校を志望したのかと言う問題に出くわします。

それは兄に続き早稲田を目指したのですが、祖父の銀行の経営が思わしくなくなり、学資が要らない道を選んだのでした。こうして、武官など全く向かない人物がシンガポールにまで行った事に不幸が招来したのでした。少なくとも、対米戦争に旗を振ったようなさもしい人物ではなかった事だけは間違いなかったようです(それが私の唯一の誇りではあります)。しかし、あの時代も人生を狂わされた人々は数百万と言わず出たのでした。空襲で家を焼かれた人々、財産の一切を失った人々には何の補償もないのです。

 その一方で、軍の秘密資金や物資の横流しで創られた不正資金で戦後の対米追従政権も成立しているのです。満州アヘン人脈…、M資金、CIA工作、東京裁判…そして、戦争で多くの将兵を死に追いやったとして自決した特攻の指揮官の大西瀧次郎や終戦の詔勅が出された後沖縄へと特攻へと出撃した五航艦の宇垣 纏…がいる一方で、直ちに占領軍に尾を振り米軍に協力した岸 信介(安倍○○の祖父)やCIAの試験を受けた中○根○弘も特高警察の最高幹責任者のような正○○太郎(某最大手新聞社社主)もいたのです。その延長上に米国による占領が続く日本の富は持ち出され続けているのです。

557 古川という家系について ② “服部英雄著「景観にさぐる中世」から”

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557 古川という家系について ② “服部英雄著「景観にさぐる中世」から”

20180124

 太宰府地名研究会 古川 清久


「肥前風土記」の中に「郡の西の方に温泉の出る巌(いわや)あり、…」と記された武雄温泉(旧柄崎温泉)があり、武雄市の中心地にもなっています。

ただ戦前までは、この武雄町よりも船が揚がる高橋の津がある高橋宿の方が賑わっていたとも言われています(JR佐世保線の下りは高橋駅の次が武雄温泉駅)。

 実は、古川家の本家も廻船業に便利なこの高橋の津にあったようで、事実、当家の菩提寺も墓地もこの高橋にあるのです。


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現在、国土交通省による一級河川の流域指定によって本流の潮見川を六角川とし昔の呼び名を消していますが、武雄町から東流する武雄川、北流する本流の潮見川(現六角川)、南流する高橋川の三本の河川が集中するのが高橋~鳴瀬辺りなのです。事実上は古有明海の干潟の澪筋であり、古くは上下8メートルもあった干満の度に、一気に潮が上がり一気に潮が引く場所が「高橋」であって、六角川右岸の「鳴瀬」(円内)だったのです。この潮+水が一気に集中する時の轟音が鳴り響く土地だったが故に「鳴瀬」と呼ばれたのでした。現在、水田として利用されている農耕地の大半も、古代には有明海の潮が上がっていた干潟だったのであり、事実、大日堰では近年の調査でもフグが確認されており、この鳴瀬からほんの一、二キロ下った所でも江戸期に10メートル程度のコク鯨が捕獲されているのです(「多久の殿様日記」)。

557-2絶滅した克鯨
 一九九九年(平成一一年)七月五日付「西日本新聞」に、"幻の鯨六角川をさかのぼった!?"多久市に伝わる江戸中期の絵図「絶滅した克鯨」と推定 という記事があります。

 多久市に伝わる江戸時代中期の絵図「鯨図」に描かれた鯨について、長崎大水産学部の柴田恵司名誉教授(七四)=長崎市石神町=が「日本近海では絶滅した(こくくじら)と推定される」と鑑定した。絵図は有明海に注ぐ六角川を河口から約一二㌔さかのぼった地点で描かれており、柴田さんは「回遊性のある克鯨が迷い込んだのだろう。川に上がった鯨の絵図は全国でも例がないはず」と語り、近く海事史研究史で発表するという。
 この絵図は、多久市郷土資料館が所蔵する「新橋江筋入込候鯨図」(縦約五十二㌢、横約百十㌢)墨書きで、一七三九(元文四)年作。場所は旧志久村(現在の北方町)の六角川上流との添え書きがある。旧多久藩の「多久御屋形日記」にもこのときの記述として「大魚が入り込んだ」と記されている。

太宰府地名研究会 「杵島」より


 武雄市を貫通する佐世保線の南側は標高が低い干潟起源の土地であって、現在でも人家が少ない事に示されるように、元々住み着くべきではない土地なのです(つまり大規模な干拓堤防の決壊が起これば本来海没する)。このような場所で私のご先祖様は生き抜いてきたのであって、杵島山、高橋、鳴瀬辺りを拠点に水運、海運に携わって生活していたのだと考えられるのです。

そこで、古川家のルーツが見えて来るのです。

鎌倉期辺りを考えた時、この一帯の穀倉は杵島山の西麓一帯だったのです。

 それが、元九州大学大学院におられた民俗学者であり地名の研究者でもあった服部教授の著書に書き留められているのです。


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556 古川という家系について ① でも取り上げたように、鎌倉期からこの一帯に住み着いたのが橘 公業の一族だったのです。

最終的にこの名族はこの地を守り抜くことに失敗し、一流は長崎県の波佐見に、一流は肥後の菊池氏の傘下に、一流は滅ぼした後藤氏の傘下に入ったようですが、源 頼朝の配下として東北を転戦した後、伊予から望んでこの地に入って来ている事の背景には、橘一族の故地の一つがこの杵島山一帯であった事にあった事を知っていたとも考えられるのです。

そう思わせるものに、泉 式部 参内への話があるのですが、それは太宰府地名研究会「杵島」の4、6などをお読み頂ければと思います(式部は橘 道貞の妃となっている)。

 勿論、天御中主命、白川伯王以来の白族の本願地は熊本県の八代から氷川に掛けて、そして熊本の中心部だったようなのですが、武装商船隊を率いていたと考えられる大幡主系の人々は有明海の対岸の湾奥地の杵島山一帯をも支配地にしていたはずなのです。

 その事は、今後公開予定のひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ版をお読み頂きたいと思います。

ひぼろぎ逍遥でもダブル公開とします。


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火の君とは歴代の橘一族だった ③ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “橘氏とは白族だった!”

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火の君とは歴代の橘一族だった ② 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “雲南省~海南島~九州”

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火の君とは歴代の橘一族だった ① 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”


その事によって橘一族がこの杵島山一帯を重要な拠点としていた事がお分かり頂けるのではないかと思います。


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鳴瀬神社から内側の御船山、武雄市中心部を望む(写真提供:松尾紘一郎)


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話が逸れましたが、服部研究の「景観にさぐる中世」第Ⅲ部第六章には「肥前国長嶋庄と橘薩摩一族」についても書かれています。

 この杵島山西半部(服部教授の用語)の橘一族を辿る上で第一級の資料中の資料と考えられます。

 私自身は地元の郷土史家でもあった吉野千代次先生(元橘小学校校長)からこの橘一族について教えを頂いたのですが(妹も橘小学校に勤務していました)、現在、吉野千代次先生の講演録はユーチューブで全て公開されています。

 今でも橘町の吉野先生のご御自宅にお伺いし、橘一族や杵島山、常陸の国風土記の歌垣の話などお聴きした十数年前の事が思い出されますが、最も印象的だったのは、“中国の少数民族地帯の鳥居の上に実際に鳥の形をしたものが置かれていたのを見たが、実は杵島山の中の小さな祠の鳥居の上にも同じものを見たことがある…”と言った話でした。勿論、橘一族のルーツである白族も中国の少数民族地帯を起源としているのです。現在、故)百嶋由一郎氏の説を残すために、この橘一族が白族起源であることを展開しているのですが、これもその傍証であり、私が百嶋神社考古学に魅了された淵源もその辺りに有ったのではないかと思うものです。


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服部教授の著書には


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著書にもこの一帯が巨大な穀倉地であった事が出て来ますが、国土交通省による潮見川(現六角川)の河川改修工事の時に鎌倉期と思える古い河川土木工事の跡が発見されていたのです。

 これについても吉野先生から入府した橘 公業が土木工事を行い潮見川の河道を替えることによって干潟を乾田化させ、大きな耕地を生み出した可能性があるという話を聴いていました。


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それは、当時は杵島山の山裾を流れていた潮見川を西に振る事によって耕地を生み出すとともに、それを守る半ば防衛用の堀ともしたのではないかと思えるのですが、そこで、気付いたのが服部教授の著書487pにも登載されている地図Ⅴ-3 武雄市の条里制復元図でした。それに東川(古川)と書かれていたのです。

 一般的な地図には「東川」と書かれていましたし、吉野先生からも「東川」と聴いていましたので、「古川」とも呼ばれていたという話は初耳であり、これまで全く頭に入っていませんでした。

 もしも「古川」が旧潮見川の痕跡地名であったとすれば、これほどぴったりしたものはなく、自然の反乱によって河道が変わる事から「古川」という呼称が成立した延長上に、人工的に河道が換え(替え)られたものでも「古川」と呼ばれたものである事を示しているように思えます。

 その呼称の川が橘一族の本流と考えられる根拠地の東側を流れているとすれば、古くからこの地で廻船業を行ってきた古川の一族がこの旧河道の「古川」を誇りを持って自らの名としたとしても決しておかしくはない上に、私のご先祖様がこの傍に住んでいた事さえも想像させるのです。

 実は、この六角川の中流域の佐賀県江北町八町地区にも残留河川としての古川があります。


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始めはこちらが古川一族の拠点だったのではないかと考えたこともあったのですが、墓地の位置などを考えると、橘村(明治期に「橘村」とされた)の古川こそ相応しい事に気付いたのでした。


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この古川が橘氏本流の本拠地である館の付近を貫流している事を考える時、古川一族が橘一族の配下として動いていた事、橘 公業の時代以降(鎌倉期に同地に進出)の付け替えによって古川地名が成立していることから、それ以降の姓である事、橘一族さえもが渋江、牛島、中村、(中橋)の地名から自らの分家の姓を付していることから、古川もそれに倣ったのかも知れないといったことが…が見えて来たのでした。

 いずれにしても古川一族の本家の墓地を見ながら当家の墓の掃除に行っていたのですが、百年近く前から切石の盤石が敷き詰められ欄干付の塀に囲まれた大きな石塔の墓を見た時、ただならぬ一族であったとまでは承知していました。どうやら古川の一族も橘氏の下級の一族だった事が見えてきたのでした。

 特に面白いと思ったのは、潮見川、武雄川、東川(古川)、朝日川が集中する所に、樽正津、舟津があるのです。


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舵取りとは梶取(カジトリ、カンドリ)とも表記されますが、「勘取」と表記される例もあるようです。

恐らくこの地区に住み着いていたのだろうと思うのです。

以前、大牟田市で有明海に注ぐ小河川と言うか海水が入る小河川の樋門(古い時代の河口堰のようなもの)がある一帯を環境問題にかかわるテーマで諏訪川の関連河川を訪ねたことがありましたが、その樋門の傍に小さな祠が置かれていて地元の女性が「カンドリさん」と呼んでいたのを聴いた事がありました。

きっと、「舵取り」の意味だろうな…と思ったのでしたが、同時に地名でもあったのでした。

結局、航海の神様としての塩土翁(大幡主)かその子龍王=ヤタガラス、宮地嶽さん…といったもののいずれかだったのだと理解しています。

分からなくなってしまい既に舟玉様のような民間の土俗信仰に堕落してしまっているのですが、舟玉=舟魂さんも実は「玉」が付く豊玉彦の可能性が高いのです。

ただ、梶取=勘取町も大字、小字のような行政地名ではなく、古い時代の「しこ名」なのです。


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服部先生は潮見川の河道変遷についても再録されていましたのでご紹介しておきます。自然の河道変遷ばかりではなく、人為的な河道の付け替えによって生じた旧河川も「古川」と呼ばれていたのです。


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558 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ① 全国の九州王朝論者の皆さんに! “はじめに”

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558 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ① 全国の九州王朝論者の皆さんに! “はじめに” 

20171030

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 この企画は以前「ひぼろぎ逍遥」で取り組みながらも中断していたものです。

 故)百嶋由一郎氏が追及したのは“日本人はいったいどこからやってきたのか?”というテーマでした。

 百嶋氏には相当に深い部分まで分かっておいでだったようです。

その復元の作業とまでは行きませんが、その概略を把握することによって列島の古代史にバトン・タッチしたいと考えて来ました。

このため、学会通説派が描く“奈良周辺で自然に日本と言う国家が徐々に成立した”とか、九州王朝論系の人々が描く“倭人が対馬から博多湾岸に天孫降臨し倭国が造られた”といったものとはかなり違ったものになります。


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このため、一度に全てをお伝えする事はできませんが、一般にも分かり易い形で少しずつ展開して見たいと思います。

その前に百嶋先生の手書き資料からあまり公開していない半島系の神代系譜を見て頂きます。


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百嶋由一郎 010img004髙氏系譜


渡来系民族と言えば、百済、新羅、高句麗…が定番ですが、これらの人々が大挙入って来る前に大陸からかなりの人々が入っていたようで、それらの人々が神々として描かれていたようなのです。

問題は「記」「紀」などに描かれている神々が、大陸と半島から入って来た民族を描くことなくしては、日本人を描くことはできない訳でこれらを神々の動きから探ろうとするのが百嶋神社考古学だったのです。

以後、この点に焦点を当てて個々に見て行きたいと思います。

少なくとも“奈良周辺で自然に日本と言う国家が徐々に成立した”は、ほぼ、大嘘で、九州王朝系の人々が描く“倭人が対馬から博多湾岸に天孫降臨し倭国が造られた”も、ほんの一部は正しいものの、そのままでは漫画に近いものである事がお分かり頂けるでしょう。


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百嶋由一郎 最終神代系譜


 百済は660年に、高句麗は668年に滅びます。新羅もかなり後になりますがやはり滅びます。

 これらの国からも列島への亡命者、移住者、招聘者が入りますが、それは、倭国、日本国が成立して以降の話であり、それ以前にも列島には王権が存在していた事は言うまでもありません。

 上の百嶋由一郎 最終神代系譜には、それ以前に列島に移住していた民族=神々が描かれています。

 左から7民族が描かれていますが、辿れる範囲で紀元2世紀までには出揃っており、古い姫氏にしても紀元前5世紀には列島に入っていたものと考えておられたようです。


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この外にも、3000年前からいた古々代ヘブライ系の民族(代表的なのは大国主の長男とされる事代主命)、熊本県には中国の土車(土舎)トゥチャー族、故)馬場紀美史が主張する彝族(Yízú)も入っている。

通説派は皇室を配慮してか、民族の純血性、単民族起源説などといった政治的?思い込み?としか言いようのないお伽話を続けていますが、こんなものは全くの大嘘であることは言うまでもありません。

比較的利権に薄く清潔に思える照葉樹林文化論者に於いてさえも民族の進入についてはほとんど触れず、単なる文化の伝播のみを展開しています。これも、通説派と同様のある種の自己規制なのでしょう。

大分県の別府湾は(明治16年の海図制定前)はカンタン=菡萏湾と呼ばれていましたし、現在でも邯鄲(カンタン)地区が存在します。

これも、中国映画「墨攻」に登場する邯鄲国から入って来た人々が住み着いた場所であり、その事からもシルクロードの終着点と言われた邯鄲にいた多くの西方の民が大分市周辺に入っている事を思わせます。

もういい加減に藤原が都合の良いように造った「古事記」(95%は嘘)「日本書紀」から独立し、共に真実の探求の作業に踏み込もうではありませんか!


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研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、神代系譜、手書き資料を必要とされる方は09062983254まで

 

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一部が海南島を経由し天草の苓北に入ったと考える 黎族(リーツー)彼らが後の藤原氏になる

スポット184 赤村の超巨大古墳 ⑥ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺 (上

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スポット184 赤村の超巨大古墳 ⑥ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺 (上)

20180525

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。今回は、九州王朝論者の大御所のお一人である内倉武久氏が提案されている朝倉市山田の長田大塚古墳(継体天皇陵説)について当時行った太宰府地名研究会主催のトレッキングのお話をするとともに、継体天皇が如何なる人物であったのかについて迫ってみたいと思います。

赤村の超巨大古墳?はともかくも、九州にも大王クラスの古墳が存在するという事について考えて頂きたいと思うものです。

再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


 内倉武久氏は「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」の初期のブログ

ブログ013 「継体天皇」の御陵は福岡にあった① ―杷木神籠石誕生に一役か―
ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② ―継体天皇も熊曾於族か― 

において、朝倉市杷木町の大分自動車道山田パーキング下の長田大塚古墳継体天皇陵説を提出
sp184-2されています。


『古事記』『日本書紀』(『記紀』)に記す「継体天皇」と「磐井」の争いは、九州政権内の権力争いであろう、と考えている。 そうであればいより「継体天皇の御陵」も九州のどこかにあるはずだ。というか、なくては筆者の考えは大間違い。「ただの妄想」と受けとられかねないだろう。この 件についてどうしても読者にお知らせしておかなければならないと思う。というのも、「継体天皇の御陵が福岡県朝倉市にあるのを発見した」のだ。「断定」とまではいかないが可能性としては極めて高いと思える。…以下略

継体は三島の藍(アイ)に葬られたのです

ただ、この墳墓はもぬけの殻かも知れません

それは改葬され東に移動されている可能性があるのです それが、仁徳によるの州王朝東遷です。

既にひぼろぎ逍遥223225において、列島でも最大クラスの円墳である朝倉市杷木町山田の長田大塚古墳について書いています。


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内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ②

224

雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング “長田大塚古墳=継体陵説を探る”

223

内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ①


詳細はこれらを読まれるとして、この古墳の概略を再度ご説明したいと思います。


224 雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング “長田大塚古墳=継体陵説を探る”



sp184-3 2015627日、梅雨の切れ間を狙った太宰府地名研究会トレッキング“
長田大塚古墳=継体陵説を探る”を決行しました。当日午前11時大分自動車道山田パーキング南の福岡県朝倉市杷木町の三連水車の里あさくら に30人ほどの人間が集まりました。…

…写真は、山田パーキング・エリアと農協の大型販売拠点である三連水車の里あさくらの間にある長田大塚古墳の遥拝所もしくは、古代の祭礼所が置かれた場所ではないかと思えるところです。

地名研究会の考古学関係の顧問である内倉武久氏が言われていましたが、古墳として登録はされているものの、まだ、測量もされていないことから図面も何もない、三段築成かも知れないが今のところは分からない、ただ、埼玉県行田市の稲荷山古墳に次ぐ大型円墳であることは間違いないようです。

何よりも、高速道路建設に際して宮内庁からストップが掛った事は重要で、どうやら私達も古代史の重要な部分に踏み込み始めた様です。

sp184-4まず、あれほどの巨大円墳ですから、古代においても必ず祭礼が行われた場所があるはずなのです。

もしも祭礼を行うとすれば、皆さんだったらどこに場所を求めますか?前方後円墳の場合は造り出しがあるのですが、ここは円墳なのです。

古代においても、朝から昼にかけて準備をして宴は夕方から夜に掛けて行われたはずです。

そう考えれば、分かるはずですが、日が陰ってもできるだけ永く明るさが得られる西側に祭りの場所が置かれるはずなのです。そう考えて現地を見ると、その地にどのように考えても古代から続く豪族、それも相当上のクラスの名家と思える一族の墓地があるのです。

sp184-5 これについては、予め一族のご了解を得て入ったものではありませんし、先方とも全く接触していない事から軽々にはお話をできません。

 しかも、磐井の乱の継体天皇に関わる一族と考えられる○○家のものであるだけに、以後は、はっきりした事が分かりご許可を得られるまで公開しないことに致します。

 内々ではメンバー内部からも色々な意見が飛び出してきており、記録にとどめ、皆さんにもお知らせしたいいところなのですが、当面の間凍結する事とします。


830人の雨中行軍でしたが、なんとか事故も無く5ポイントを巡るトレッキングは終わりました。


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太宰府地名研究会は20133月からトレッキング中心の現地見学会に変更しています。

 太宰府メンバーで徒歩の参加を希望される方は JR春日駅前のくるま座(西鉄春日原駅から500メートル)に集合し車の集合場所に移動できます。便乗は中島さんに事前に連絡を!

 車両の配備が必要になりますので事前に、古川、中島、酒井、大石まで連絡して下さい。

 車の集合場所は目的地に応じて随時変わりますが、通常は駐車料金が必要ない止めっぱなしできるところ(三連水車の里あさくら、ゆめタウン筑紫野)などを選び車の編成をします。できるだけ台数を減らし四人乗りなどゆったり座れるようにします。

 車の便乗については車の提供者に対しその日の行程に併せ応分の謝礼をして下さい。

 弁当が必要な方は事前に準備して可能なら車中食で!今回は道の駅みやまで購入可能。

 原則的に車の集合場所には11時前までにお集まり下さい。   緊急時連絡:09062983254 古川

 信仰心の有無に関わらず、管理されている方の気持も考慮しお賽銭をご用意ください。


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途中の事故などには注意してください!リスクは運転手が負います!お気持ちで謝礼と経費負担をお願いします。

今回の集合場所(11:00~)  福岡県 朝倉市山田 2192-1 

 長田大塚古墳 カーナビ検索
三連水車の里あさくら から北へ数百メートル

まず、この現場をグーグル・マップから見て頂きましょう。


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もう何十年も前の話になりますが、大分自動車道の建設当時、現在、山田パーキングの真南にある長田大塚古墳を潰しこの場所に同パーキングを建設する計画だったのですが、ご覧の通りこの場所でS字型にカーブさせ長田大塚古墳を避けて北に振らされているのです。

この高速道路公団の計画を変更させたのは文化庁ではなく宮内庁だったと言うのです。

つまり、知らないふりをしてはいるのですが、宮内庁はこの古墳が継体の墓である(正確にはあった)事を知っていたのだと考えられるのです。

最低でも古代天皇家に関わる(実際には九州王朝系の天皇)重要な古墳である事を知っていた可能性があるのです。

そうでもなければ、このような急カーブによる変更はないはずで、本来はまっすぐに通す予定だったはずなのです。

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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。

559 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ② 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは”

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559 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ② 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは” 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


多くを説明しなければご理解頂けない事は十分に承知の上ですが、列島の古代史(実は神代史)を考える上で、あまり複雑な話をしても理解して頂くには時間が掛りますので、ここでは、簡略化したエッセンスのみをお伝えする事にします。

 まず、「出雲神話」をあたかも“近畿大和朝廷に先行する巨大王権であった”とか“九州と畿内の中間に巨大な神殿を持った巨大王権が存在した”といった理解をされている方が大半ではないかと思います。

 間の抜けた邪馬台国畿内説論者などと言った方々は無視するとしても、「失われた九州王朝」「盗まれた神話」などが描き出したものは、“出雲の神様が一番偉い“”何故なら多くの神々を集める神様だから“…と、対馬は小船越の阿麻氐留神社の実踏などから九州王朝論者の大半も、”九州王朝に先行する出雲王権の存在“といったイメージをお持ちではないかと理解しています。

 ところが百嶋神社考古学はそのようには考えません。

 故)百嶋由一郎氏の話で最も鮮明な印象を与えた話に「皆さんが出雲を島根県の事だと思っておられる…(全くそうではない)」というものがあります。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)024 大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社” を読んで頂きたいのですが、大山祗(トルコ系匈奴)の息子でありコノハナノサクヤヒメの兄でもある大国主命は、福岡県春日市の須久岡本遺跡の周辺で産まれ、後に宗像大社にも祀られるのですが、幼名のオオナビコとして伯玄社には今もその痕跡を留めているのです。


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幼少期を春日市で過ごしていたならば、付近の須久岡本遺跡にいたはずの少彦名命も悪ガキ仲間だったことが分かるのです。

 ここでも、故)百嶋由一郎氏の話を思い出しますが「少彦名命をスクナヒコナノミコトと読むから分からなくなります。スクノヒコとお読みなさい…」と言われていました。

 今でも、時代劇などで「ソコナオナゴ」と言えば「そこのオナゴ」である事がギリギリ分かると思いますが、「ナ」も所有の意味を持った格助詞であり、スクナヒコナノミコトとは大字須久字岡本辺りに屯していた後に大国主命の協力者となる小さな神様である須久の彦の命だったと分かるのです。

 ちなみに、春日市の商工会議所は、福岡県春日市伯玄町2丁目24 ℡ 092-581-1407 ですので、可能な限り現地を踏み確認して頂きたいと思います。


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読みづらくなっていますが、「大己彦」と書かれているようです


さらに、言えば今も鮮明に「出雲」という地名が残っています。

場所は、飯塚市となった福岡県飯塚市桂川町平塚の国道200号線の「出雲交差点」が分かり易いでしょう。

この「出雲」という地名についても、百嶋翁は“大幡主(博多の櫛田神社の主神)の領域は全て「出雲」だったのです”…と話されており、全国の至る所に「出雲」が存在していたのです。


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これまで、宗像大社の本当の祭神は大国主命である事は何度となく書いていますが、大山祗の息子である大国主は大幡主への入り婿として市杵島姫=瀛ツ島姫を妃にしています。

島根県の現出雲は古い時代から大幡主が支配した領域で、「出雲」と呼ばれた植民領域の一つだった訳で、国譲りの結果、その一つが「出雲」とされ残された様に見えます。

高知県に宿毛市があります。この地も道真逃亡の痕跡があるところですが、飯塚桂川の出雲も付近に「土師」地名が拾えます。

“宿毛“も古出雲の一つだったのではないかと考えていますが、九州から四国へと移動する要衝の地も、事実、出発の出(シュツ)+雲(クモ)と読めるという具合です。

これは、私が温めている仮説ですが、「出雲」は「イズモ、イヅモ」と呼ぶ(読む)のではなく、忌部(インベ)の「イン」と読むべきではないかと考えています。もしくは厳原の厳雲かも。

 四国に展開した「忌部」「卜部」「殳」「瀛」…が「出雲」と関係があるのではないかと思っています。

 神代系譜をご覧になればお分かりの通り、瀛ツ島姫は大国主命のお妃であり、「瀛」の一族となっているのであり、その簡略化された好字が「出雲」なのではないでしょうか。

 しかし、「あれほど大きな三本巻の大柱の出土があるではないか…!」と大騒ぎされる方がおられます。

それも、百嶋最終神代系譜で考える時代は23世紀であり、再建も含め後世のものであり、いずれにせよ「古事記」神話を造ったのは藤原であり、彼らが造ったテーマ・パークと考えて間違いないのです。

下は 飯塚市桂川町の出雲交差点。表記は異なるものの、宿毛の様に元はイズモ、インと呼ばれたものがあるはずです。


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大怪我の上死んだ大国主命の介抱に来た 蚶貝比売 蛤貝比売 これも宗像大社の市杵島姫と豊玉姫

九州王朝の本拠地 高良大社 直下にいた青木繁は本当の伝承を知っていたのかも知れません。

最後に、隠されたように見えるのですが、九州島にも大国主命を祀る多くの神社がある事をご紹介しましょう。これは代表的なものだけですので、そのつもりでご理解ください。

福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3 に堂々たる大己貴神社があります。

「筑前国続風土記」にも大神大明神は弥永村があり、「延喜式神名帳」にも夜須郡於保奈牟智神社小一座とあります。


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一般にも殆ど知られていませんが、熊本県熊本市(現西区)の硯川町に非常に大きな境内地を持つ川東大己貴神社があります。

また、鹿児島県日置市吹上町(旧伊作庄)にも大きな大汝牟遅神社があります。

鹿児島市内の中心部にもあるのですが、特に印象的なのは、宮崎県の日向市の南の都農町に、日向国一宮の都濃神社があり、その主神が大国主命なのです。

単に小さな祠が存在するとかいった事でではなく、都濃神社の様にトップ・クラスの大社の主神が大国主命なのですから、出雲の神様と信じて疑わない通説に犯された大家の先生に、九州の大国主命祭祀が何故存在しているのかを教えて頂きたいものです。

そして、いつも言うように、宗像大社の本当の神様は大国主命なのです。

大国主命もこの大幡主の配下として活動していた大山祗の子であり入婿だったのです。

宗像大社の本当の祭神も大国主命であり(だから宗像の神殿には男千木が立っている)、本来、大国主命も少彦名命も北部九州で活動していたのです。

 
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この日向の意味は宮崎県に止まらず、古代日向=薩摩、大隅、日向を意味しているのです。


559-9

鹿児島県の大汝牟遅神社についてもご覧頂きましょう。

鹿児島県日置市吹上町中原2263 TEL099-296-5950


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スポット185(前) 赤村の超巨大古墳 ⑦ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺

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スポット185(前) 赤村の超巨大古墳 ⑦ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺(中)

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太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。今回は、九州王朝論者の大御所のお一人である内倉武久氏が提案されている朝倉市山田の長田大塚古墳継体天皇陵説について当時行った太宰府地名研究会主催のトレッキングのお話の延長上に継体天皇が如何なる人物であったのかについて迫ってみたいと思います。

赤村の超巨大古墳?はともかくも、九州にも大王クラスの古墳が存在した可能性があるという事について考えを進めていこうと思うものです。

再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


185-1

赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


 内倉武久氏は「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」の初期のブログ

ブログ013 「継体天皇」の御陵は福岡にあった① ―杷木神籠石誕生に一役か―
ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② ―継体天皇も熊曾於族か― 


185-2において、朝倉市杷木町の大分自動車道山田パーキング下の長田大塚古墳継体天皇陵説を提出されています。


『古事記』『日本書紀』(『記紀』)に記す「継体天皇」と「磐井」の争いは、九州政権内の権力争いであろう、と考えている。 そうであればいより「継体天皇の御陵」も九州のどこかにあるはずだ。というか、なくては筆者の考えは大間違い。「ただの妄想」と受けとられかねないだろう。この 件についてどうしても読者にお知らせしておかなければならないと思う。というのも、「継体天皇の御陵が福岡県朝倉市にあるのを発見した」のだ。「断定」とまではいかないが可能性としては極めて高いと思える。…以下略

継体は三島の藍(アイ)に葬られたのです

ただ、この墳墓はもぬけの殻かも知れません

それは改葬され東に移動されている可能性があるのです それが、仁徳によるの州王朝東遷です。



これに呼応し、既にひぼろぎ逍遥223225において、列島でも最大クラスの円墳である朝倉市杷木町山田の長田大塚古墳について以下を書いています。


225

内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ②

224

雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング “長田大塚古墳=継体陵説を探る”

223

内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ①


詳細はこれらを読まれるとして、この古墳の概略を前ブログとは別の角度から説明したいと思います。


185-3

185-4

223内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ① 20150627


今年の久留米大学 公開講座 九州古代史 2015 において、常連の内倉武久(元朝日新聞記者)が「南九州の考古学 熊襲を中心に」という講演が行われました。

ところがこの講演の最後で、最新情報として驚愕の仮説が提案されたのです。

元より、九州王朝論の中で磐井と継体の問題は極めて重要なテーマであり、北陸の出身とか言われる継体がわざわざ九州まで足を延ばして土豪とする磐井を征伐したという話も奇妙な上に、たった一つの屯倉の引き渡しで話が着いたというのも奇妙奇天烈です。

当初、磐井の乱ではなく継体の反乱ではないか?いや磐井の乱そのものはなかったのではないか!とか、利権構造に胡坐をかく畿内説論者の嘘つき学者どもは別として、古代史を真面目に追及する側でも混乱を重ねていました。

これについては、十年前ぐらいから、「筑紫王朝」に対して「豊前王朝」の兄弟王朝が、「近畿大和王朝」の前身として存在したという大芝英雄による「大和朝廷の前身 豊前王朝」(同時代社)、室伏志畔による「日本古代史の南船北馬」(同時代社)楕円国家論、福永晋三氏も独自の視点から豊前王朝を提案する(後に真実の仁徳天皇」/不知火書房を後に出版する)など、九州王朝内部の内乱であったが故に、屯倉一つをやり取りするぐらいで手打ちが行われた“といった説が提出され、研究はさらに進められてきました。

一方、継体天皇陵については、考古学会が高槻市の今城塚古墳を、宮内庁が茨木市太田茶臼山古墳としています。


185-5

 長田大塚古墳 


 俗に「磐井の乱」(石井)と言われる「継体の乱」を起こした継体の墓は、今回の集合場所である連水車の里あさくらの直ぐ北(山田パーキングエリア南)にある長田大塚古墳ではないかと言いだしたのです。

地名で言えば、御陵者三嶋之藍御陵也の「三嶋」も「藍」も地名としては揃っている。…


以下「古事記」…。


此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也


『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王(彦山は直ぐ裏ですね… 古川)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇)若野毛二俣王大郎子(一名意富富等王乎非王汙斯王(=彦主人王)乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。

「ウィキペディア」による。

その継体天皇陵については、現在、学会あげて今城塚古墳(郡家本町)としているのですが、宮内庁はいまだに太田茶臼山古墳(茨木市)=三嶋の藍の陵 を継体天皇陵とし続けています。


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「和名抄」

下座(げざ)郡甘木(あまぎ)市・三奈木(みなぎ)上座(じょうざ)郡朝倉町比良松(ひらまつ)・杷木(はき)町御笠(みかさ)郡大野城(おおのじょう)・四王寺(しおうじ)山

上座郡・下座郡は「和名抄」に次のように記録されています。
筑前国 下座(しもつあさくら)郡 

馬田(むまた)・青木・鍛饗(くはへ)、三城(みなき)・美嚢・城邊・立石
 同  上座(かむつあさくら)

      把伎、壬生(にぶ)・広瀬・柞田・長淵・河東(何東)・三嶋

「明治15年全国小字調査」によれば、大字藍野、藍の澤、藍…四股名レベルでも「藍」がある。




スポット185(後) 赤村の超巨大古墳 ⑦ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺

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スポット185(後) 赤村の超巨大古墳 ⑦ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺(中)

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太宰府地名研究会 古川 清久


この場所で高速道路が不必要に曲げられているという印象は山田パーキング・エリアを利用している人(進入路がかなり無理な勾配になっている)は誰も持っていると思うのですが、現地の話では、何故か古墳を所管する文化庁ではなく、宮内庁からの横やりでコースが変更されたと言うのです。

恐らく、これが本物の、若しくは、引っ越した後(前)の継体天皇陵であることを知っているのではないかと思うのですが、たまたま、春に井上悦文氏の案内で同行した内倉、古川ともども考えているところです。

 もしも、この古墳が継体天皇を葬ったものとしたら、福井県(若狭)出身の応神天皇五世の孫が天皇になり、筑紫国造たる磐井を征伐したと言うトンチンカンな話(通説派は馬鹿か!)も一気に真実味を帯びて来るのです。

 正しく、継体もこの周辺にいたのであり、まさに、九州王朝内部での覇権争い、若しくは下剋上であった可能性が出て来たのです。

 福井については、糸島半島の西の旧二丈町に福井、福井白山神社があり、以前から福井と言う地名も海士族が移動した際に持ち出した地名ではないかと考えていましたが、お膝元の福井は知ってはいたものの山中のため見過ごしていました。

 筑後川を挟んだ反対側に磐井の領域があったことになりますし、その福井も杷木町の裏、現東峰村(旧法珠山村)の中心部に福井があるという事まで揃っているのです(日田市の入口にも石井集落あり)。

 磐井の乱も、実際には九州王朝内部の内ゲバに近いものであったようなのです。

 なお、現地には謎解きの手助けになりそうなある墓がありますので、皆さんに是非見て頂きたいと思います。

 また、蛇足ながら、井上悦文氏の説では、山田は邪馬台国の中心地になります(「草書体で解く 邪馬台国の謎 書道家が読む魏志倭人伝」梓書院刊)


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彦山の南麓、旧宝珠山村の中心地が福井地区 福井 三島 藍と三つ揃う所はそうはない


これで長年不思議に思っていた九州年号の冒頭が「継体」(「二中歴」系)とされている事ですが、漢風諡号が8世紀の淡海三船による一括の撰進だったとしても、内部争い後の継体という漢風諡号の採用はそれなりの意味があった様に見えて来るのです。 もしかしたら、この時代から倭の五王とされる九州王朝内の政権転換が行われた可能性も考えられそうです。

最後になりますが、山田パーキングのとなりが杷木インター・チェンジです。この直ぐそばに杷木神社があるのです。 


杷木町杷木神社  カーナビ検索
杷木郵便局(朝倉市 杷木池田542-1


この神社縁起をお読みください、最低でも、継体側の急襲=不意打ち(「筑後国風土記」には「官軍が急に攻めてきた」…)は、筑後川右岸(勿論河道は異なるはずですが)を拠点として、渡河作戦の上に行われた様に見えるのです。


185-7

この杷木神社が磐井側ではなく、継体天皇側に立っていた事が神社縁起から読み取れますが、千五百年もの長きに亘り継承されて来た事(この事自体が驚くべきことですが…)は、余程、誇るべき名誉な事と理解していた事が想像できます。

まず、大己貴命が、何故祀られているのかに疑問を持たれる方は多いと思いますので、まず、筑前町に堂々たる大己貴神社があることを思い出して下さい。


筑前国続風土記に依れば、大神大明神は弥永村にあり、<延喜式神名帳>に「夜須郡於保奈牟智神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせて祭る。宮所神さびて境地ことに勝れたり」<日本書紀>に「仲哀天皇9年庚午己卯、神功皇后諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し。皇后曰く必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆自ら聚る」とあり、9月23日(旧暦ゆえ現在の10月)祭礼ありてこの日神輿御幸あり。御旅所は村の西10町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の尊敬浅からず」との記載がみられる。

三輪町教育委員会


他にも、林田の美奈宜神社には大己貴命(大黒神)が祀られており、この地は大己貴命と言うより博多の櫛田神社の大幡主のエリアだった事が見えてきます。

まず、大己貴命を出雲の人であるという「古事記」が造り上げた固定観念を棄てる事から考え直す必要があるでしょう。


美奈宜神社朝倉市林田210 素戔嗚尊(祇園神)大己貴命(大黒神)事代主命(恵比須神)の出雲三神

美奈宜神社朝倉市荷原2421  天照皇大神配祀 住吉大春日大神 相殿 神功皇后武内宿禰


 もう一つ、杷木町で重要な点は、菊池氏の家紋である日足紋が打たれている事です。


185-8

冒頭の長田大塚古墳=継体の陵説を提出した内倉武久氏が、この神社を一目見た瞬間、熊襲じゃないか!と叫んだのが印象的でした。

この神額の文様が渦巻き紋だからです。地名の面からも、佐賀県東部から小郡、甘木、朝倉、日田に掛けては「隈」地名が広く分布している事は良く知られています。


185-9

これも旧朝倉町のエリアですが、桂川=葛城(飯塚の桂川町には出雲交差点がありますね)が流れ、湯隈神社(さらに上には宮地嶽神社もあります)があり、烏集院(ウスイン)があるのです。

百嶋神代系譜では、ヤタガラスの父が博多の大幡主(隈地名の土地の支配者)であり、大国主(オオナムチ神社のある地名も隈江ですね…)もその臣下なのです。

この一帯の人々は皆、列島大率家からの要請で熊本から北上して来たのです。

だから、朝倉は益城町の朝来山の、甘木は益城の置き換えであり、この一帯には○○木地名が多いのです。

また、話が跳んでしまいました。まだまだ、検討する余地は幾らもありますが、畿内からのこのこ出て来た近畿大和朝廷の大王が筑紫の磐井を亡ぼしたなどと言うのはとんでもない大嘘であることだけは間違いないようです(しつこいですが、再度、通説派は馬鹿か!)。

 くれぐれも大嘘ばかり書いている「古事記」は元より、「日本書紀」という藤原の仕組んだトラップに落ちないようにして下さい。


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog 」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。

560(前) 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ③ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族

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560(前) 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ③ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族国家” 

20171103

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 ここ十年あまり、今では全くのタブーとされている「日ユ同祖論」を含め、まだ、昔の方が余程自由な研究が(少なくとも自由な発想が許容されていた)許されていたのではないか…?という思いを深めていました。鳥居龍造を含め松岡正剛氏の「千夜千冊」に書かれていた一文が私の気持ちをそのまま表現していた事から冒頭から引用させて頂きます。

 その点、日本の古代史学会ほど閉鎖的で硬直化したものはないようで、このままでは、いずれ世間から相手にされなくなるのではないかとさえ思うものです。


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日本が単一民族の国だというふうになったのは、古いことではない。古いどころか、日中戦争や太平洋戦争以前は日本は多民族国家として位置づけられていた。大日本帝国の時代はむしろ日本は多民族国家・混合民族論を標榜したがった。日本が日本を単一民族国家と見るようになったのは、戦後のことだったのだ。

このような、ある意味では意外に思われそうな“結論”を指摘するために、著者が本書でしてみせたことはまことに重厚で詳細をきわめた作業であった。まだ40歳をこえたばかりの慶応大学の相関社会学の教授(東大農学部出身)。「日本人の自画像の系譜」が副題だ。

 この大著のあと、著者はさらに、台湾・朝鮮などの植民地における日本人意識を検証した『日本人の境界』、戦後ナショナリズム議論を追った『民主と愛国』(いずれも新曜社)を問うた。次々に大著になっている。やはり目を洗われた。

 ただし、本書の議論を短いスペースに要約するのはなかなか難儀である。近代日本の民族論そのものがあまりに紆余曲折していたからだ。それゆえここでは、ごくごく大雑把な紆余と曲折を示すにとどめる。このような大雑把な概括は著者の意図を正確に伝えないことになりかねないが、以下の記述に関心があるのなら、できれば本書そのものに当たってほしい。


 思えば、故)百嶋由一郎氏の研究も「日ユ同祖論」の要素が強く反映されており、多くのヘブライ系民族が大陸から半島へそして列島へと大量に雪崩れ込んでおり、その事を意識する事無く古代史を云々する事には、正統性もなければ科学性もなく、非常に視野の狭い独り善がりの暴論の誹りを免れないのです。

 現在、ヘブライ系民族の大量の流入という事実をせせら笑い、権威を振り翳す学会通説派や神○庁のような利権集団はどうでも良いとしても(ネット社会からAI=Artificial Intelligence; AI社会の深化からそのうち信用されなくなり相手にされなくなるだけですから)、それに対抗しようとするあまり自らも自己規制しているのが九州王朝論者の人々で、彼らの口からもそういった話が全く聞こえてこないのです。

 何やら、そういう話をすると、さも、学問的ではないと考え自ら控えておられるからではないかと思うのですが、元々、敵視され無視され続けた九州王朝論者が今さら自己規制しても仕方がないはずなのですが不思議です。

 列島には多くの古代民族が入っているのですが、全てのお話をするのは手間が掛かりますので、多くの話の中から、まずは、象徴的な一例である、支那人が列島人(日本人)になっているという話をしておこうと思います。これは、大陸から中国人が一部やって来ているという意味はなく、列島人の最も有力、優勢な大勢力を形成した人々とは日本人などでは無く支那人だったという衝撃的な話なのです。


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これも故)百嶋由一郎氏から貰った資料ですが、石原某太郎が明らかに中国を敵視し、差別語とかの「支那人」を使用していた事はご存じの通りですが、これは戦時中に一部で使用された「支那人」の概念を浅薄にも真に受けているだけのことで、列島人が「支那」と表現するとき、深層には親しみを込めた懐かしさ、郷愁のような響きを感じるのは私だけでしょうか?

 そうでもなければ、1940(昭和15)年に上映された映画「支那の夜」の主題歌「支那の夜」(渡辺浜子)は流行していないでしょうし、東宝の看板スターと言われた長谷川一夫と満洲で名を馳せた李香蘭による「支那の夜」も脚光を浴びてはいなかったはずなのです。

 そして、頼 山陽も「見ゆるは山か呉か越か?」とは謳わなかったはずなのです。

 この底流には、明らかに何らかの郷愁なり憧れなりがあり、決して差別意識としての「支那」「支那人」ではなかった事が分かるのですが、石原とかネトウヨなど本物の民族派とは異なる異質な朝鮮起源の似非右翼(どうせ親米右翼)が「支那」を蔑称として多用しているのです。


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結論を急ぎますが、後に藤原氏へと成長し、現在も権力の中枢部に蔓延っている阿蘇氏=多氏=宇治氏=耳族とは、大陸(雲南省麗江)から追われ海南島南西部(黎族自治県など)を経由して天草(苓州)の苓北町から阿蘇に進出した=黎族であり、後の列島の主要氏族に成長しているのです。


支 那 “雲南省麗江に支那城がある”


ミートキーナ(ミッチーナ)と聞いて何のことか分かる人は、まず、消えたと思います。

もちろん、中印国境に近いビルマの都市の名なのですが、大東亜戦争でも最も悲しく惨めな戦いとなったインパール作戦でも激戦中の激戦の一つ「ミートキーナ攻防戦」の舞台となった土地です。

ビルマ戦線にはいわゆる満州からの南方転用組を含め、久留米を拠点にした福岡、佐賀、熊本の多くの兵が投入されていますので、皆さんの中にも近しい方が犠牲になった話を聞かれた方もおられるかも知れません。

中国、インド、ビルマの国境が集中する、この文字通りの辺境の地名を取り上げることが、後に驚くべき結論に繋がってゆくことになるのですが、まずは、インパール作戦を簡単に説明しておきましょう。

太平洋戦争の西部方面における陸軍の敗北分岐点となったのがインパール作戦でした。

日本軍によるラングーン占領以来、ビルマを追われたイギリス軍は緬印国境の西側まで後退していましたが、インド・マニプール州の州都であったインパールから雲南省を通じて中国蒋介石軍などに軍事物資を送り込んでいました。援蒋ルートです。

これを阻止する目的で昭和十九年三月に開始されたのが同作戦でした。

アラカン山系の大山塊を超えビルマ方面軍の主力三個師団五万の兵力が三方面から進行しますが、満足な補給もないまま損耗率74パーセントと言われる大敗北を喫して撤退することになったのです。

テーマからは外れますが、この無謀な作戦では第15軍司令官牟田口廉也(佐賀出身)と補給を巡って対立し、あえて命令に背いて独断撤退を行った第31師団長佐藤幸徳中将は「大本営、総軍(南方軍)、方面軍(ビルマ方面軍)、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を将来したのである」と批判しましたが、現在の福島原発の焦土を見る時、今日の大本営が何であり、南方軍が何であるかを改めて考えざるをえません。

560-4累々たる白骨と化した多くの兵士たちと同様に、この事実上の国営企業であった東電の原発事故によって振り回された人々の人生も永遠に戻ってはこないのです。

本題に戻りますが、実はこの作戦の激戦地の一つミートキーナが中国(雲南省)発行の地図では「密支那」と表記されているのです。

只の珍しい地名として片付けられそうですが、実は、雲南省の景勝地麗江の周辺にも「支那」という地名が現在も二つ存在し、観光地で水の都と讃えられる麗江には支那城までもがあるのです。

中でも「密支那」とはそれだけで緊急時に備えて準備されていた「支那」の本拠地、最大拠点(科、品・・・)といった語感を持っています。


支那人

さて、全くの誤解と言うよりも、むしろ陰謀とさえ言うべきですが、“「支那」は「中国」の蔑称”であり、使うことが出来ないかのような話が一般化しています(伝統的な中国共産党による反日キャンペーンに迎合するものが大半ですが)。一方、それに対していたずらに逆らう石原のごとき反中キャンペーンが存在します。歴史の深層を冷静に探索すればそれらから独立した思考を得ることが出来るかもしれません。まずは、一般的伝統的な理解を掴むために、「大辞林」(三省堂)を見ますが、以下のように書いています(勿論、反中、反韓それ自体は誤りではないのですが)。他も似たり寄ったりです。


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写真は 雲南省麗江古城


しな【支那】 外国人が中国を呼んだ称。「秦 しん」の転という。中国で仏典を漢訳する際、インドでの呼称を音訳したもの。日本では江戸中期以後、第二次世界大戦末まで称した。


これ自体も正しいかどうかという問題はありますが、それはひとまずおくとして、オリンピックを持ち出すまでもなくCHINA(チャイナ、チィーナ)という国号が「支那」という音の置き換えあり、なお、国際的に通用していることは言うまでもありません。


雲南省の支那


中国大陸の西南部の奥地、「雲南省に玉龍雪山からの水に恵まれた麗江という秀美な都市があり、そこには日本と日本人(阿蘇の民)の源流がある…」との話をしてくれたのは、六十年の永きにわたり神社を中心に研究してこられた孤高の神社考古学者故)百嶋由一郎氏でした。


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写真は雲南省麗江から望む玉龍雪山


この老研究者との縁は阿蘇草壁吉見神社夏の大祭において、一人の女性と知り合い、その女性が氏とのパイプ役になってくれたことから始まりました。

当時もメンバーを増やすために会の宣伝用チラシを持ち歩いていましたが、後日、その女性に熊本県西原村の「鳥子」という地名に関する小論を送ったところ、それを読まれた百嶋先生から、小論「鳥子」の“鳥子の方様”とは「ヤタガラスの末裔の事で彼らが住む土地が鳥子ですよ」との手紙と資料を送って頂いたのでした。

この手紙の中で最も心を動かされたのは、阿蘇の草壁吉見神社に祀られている祭神(ヒコヤイミミ、カミヤイミミ)は、実は日本神話に登場する「海幸彦」であり、彼らの先祖は雲南省の少数民族地帯からやってきたとの話でした。

以前から、倭人はある時代の中国江南の海岸部(福建省、浙江省…)を支那と呼んでいたのではないか(少なくともその地方にいた人々が実際に自らの国土を支那と呼んでいたのではないかと古田武彦氏を含め古田史学の会系の論者が考えている)との説があることを知っていました。

ところが、「支那」という問題の地名が、現実の中国本土に二つあるうえに、近接する中緬国境を越えたビルマ領内にも「密支那」があることを教えられ、さらに、その「密支那」が実はあのインパール作戦の激戦地ミッチィーナ(ミートキーナ)であることにまで気付くに至り、一挙に百嶋神社考古学の凄まじさに恐れ慄いてしまったのでした。

氏も一応は九州王朝論者と自称されてはいましたが、お話を詳しくお聴きすると、最早、その範疇は既存の九州王朝論を遙かに越えていました。

さて、佐賀県の西域に生まれたこともあり、あのビルマ奥地での(断作戦=援蒋ルートの遮断)の中でもとりわけ悲惨だった雲南派遣軍による騰越(トウエツ)、拉孟(ラモウ)、龍陵(リュウリョウ)、平戞(ヘイカツ)などでの戦いや、ミートキーナ攻防戦などについての戦記戦史はかなり読み込んでいた事から、直ぐに「密支那」がかのミートキーナであることに気付き一気にその思い入れはチンドウィン川、サルウィン川、瀾滄江の大渓谷の底に引き擦り込まれていったのです。

今になって思えば、すでに百嶋神社考古学への地均しができており、最早後戻りができないところまできていたのでしょう。


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写真は 麗江市街


では、その「支那」に入ることにしましょう。

地図には三つの支那地名が確認できます(縮尺の都合により「支那」は一つ表示しています)。

もちろん、普通の地図では無理で、通常は雲南省が発行している現地の地図でしか確認することはできません。

ネット上の「雲南省地図」という中国の日本向けサイトより、少しご紹介しましょう。

雲南省麗江の「支那」、ビルマ(ミャンマー)のミートキーナ、ミッチーナ(Myityina)他にも雲南省にもう一つの支那地名がある。

この一帯への基礎知識を得るために、幾つかのサイトを拾ってみます。


中国西南部の果て、南はラオス、東はミャンマーと国境を接する雲南省は、亜熱帯気候の恵まれた気候風土と、そこに住む少数民族の人々の明るく素直な人柄とによって、世の旅する人の心を刺激するだけでなく、日本人にとっては、人種的ルーツの発生地ではないかという学問的見地からも大きな興味が持たれている。事実、雲南の各地を旅行していると生活・風習・人相から言葉に至るまで、あまりに日本人と似ていることがあるのに少なからず驚かされる。(…中略…) 

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560(後) 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ③ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族

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560(後) 百嶋神社考古学が描く列島の古代 ③ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族国家” 

20171103

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


雲南省は日本人のルーツ、少数民族の宝庫、「動物の王国」「植物の王国」「非鉄金属の王国」など、様々な観点から取り上げらる(ママ)事が多いいため、中国では比較的名の知られた省になっている。(…中略…)古くからの観光地としては奇怪な岩峰群のある石林、シーサンパンナ(西双版納)と呼ばれる南部、大理国で有名な大理、1997年に世界遺産になった麗江(…中略…)ラサに行かずとも標高3300mほどで体験できるチベット風情、シャクナゲを代表とする花雪山等の自然がみどころだ。その他、雲南省の最高峰としてもチベット族の聖山としても名高い梅里雪山(メイリー)を擁する徳欽、多くの火山を持ちミャンマーの国境沿いに位置する騰衝、棚田が織りなす牧歌的な風景が美しい元陽が注目されている。またベトナム・ラオス・ミャンマーへと陸路で国境越えをするのも面白い。日本にない陸の国境を体験することが出来る。ラオスへは長距離バスも走るようになり、アジアハイウエーの構想も進んでいる。またタイ・ラオスへはメコン河を船で下ることも可能になった。
 
アジアの大河長江(金沙江)、メコン(瀾滄江)、サルウイン(怒江)が流れ、25の少数民族を抱える雲南省。まだまだ隠れた観光地は多い。   
 


この麗江(れいこう)にはかつて少数民族ナシ族の王都があり、現在でもナシ族の人々が多く居住しています。またナシ族のほかにリス族プミ族ペー族イ族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっていますが、二〇〇六年には、黎族を題材とした映画「青檳榔之味」(シヨウジャウジアンフ)“漢民族の糞野郎・・・?”が作成されています。


黎 族


黎(レイ、リー)族は、中国55の少数民族の一つで、人口は125万人(2000年国勢人口調査より)、そのうちの117万人が海南省に住んでいます。歴史の記述によりますと、黎族の先祖は紀元前11世紀前からこの地に住むようになったようです。


 黎族は、自民族の言葉、黎語を使い、また、地元の漢民族と密接に交流してきたため、多くの黎族は漢民族の言葉にも精通しています。1957年、ローマ字の形の黎族の文字が作られました。

ところで、山の奥に暮らしている黎族には、古くから女性の体に「刺青」をいれる習慣があります。黎族の女の子は123歳の時、成人式を迎えます。その日、村の女性の長老の主宰による祭祀の儀式が行われ、女の子の顔、首、胴体、手足に自民族を代表する模様を特別な「水」で書いてから、竹や木の葉の茎で作られた針で「刺青」を完成させます。しかし、社会の発展に従って、この習慣はだんだん無くなっていきます。「刺青」をする若者は今ももういません。刺青をしているのは、ほとんど50代以上の女性で千人しかいないといわれ、これから先、この「刺青文化」は消えていく運命にあるでしょう。

560-6http://japanese.cri.cn/304/2006/12/05/1@80609.htm


なにやら、倭人の刺青を思い出しますが、実は関係があるのです。

黎族は主に中国の海南省に分布する少数民族で、遥かな歴史と自分の特徴ある民族文化を持っています。その中の一つは黥面です。黥面というのは顔や体に模様を描いて黒い色に染めることで、つまり入れ墨のことです。<黎族の黥面は三千年の歴史があり、世界民族の中でも珍しい文化です。


欠端 實 (麗澤大学教授「神話(説話)が運ばれた道」


 雲南省のハニ族は毎年「祭母」の祭祀をとりおこなっている。その祭りの由来を語る説話が「祭母物語」として残されている。この物語は紅河流域のハニ族の人々だけにとどまらず、東の方は貴州、広西、南海、福建をへて浙江に延び、さらに海を越えて沖縄、九州、関西にまで流布している。西はタイに、北は四川、陝西におよんでいる。民族もタイ族、ハニ族、プーイー族、ヤオ族、黎族、ナシ族、彛族、漢族、日本人と多岐にわたっている。

(比較文明学会のHPより)


この麗江にも黎族(リー族)が住んでいます。 もう少し他のサイトも探ってみましょう。

英語名称:Li 人 口:111万人超

言 語: リー族の言葉。居住地域によって方言に違いがある。漢語も通じる。
文 字: 1957年後、ローマ字形のリー族文字を作ったが、ほとんどの人が漢字を使用する。
信 仰: 原始宗教。キリスト教信者も少数いる。主な生活地域: 海南省 

民族発展歴史:リー族は中国のながい歴史をもつ民族の一つで、昔越族から発展してきたので、チワン族、プイ族、トン族、スイ族、タイ族などの民族とルーツの面で密接なつながりがあり、特に古代の百越の一分支駱越とはさらに密接な関係がある。

早くも秦・漢以前に、駱越の一分支が中国の広東省、広西チワン族自治区などの地域から続々と海南島に移住してきた。

リー族は自称がたくさんある。例えば「孝」「岐」「美孚」「本地」などがそれである。リー(黎)は民族名として唐の末期に始り、11世紀の宋の時代以後正式に史籍に記載されるようになった。リー族の女性は紡織に精通していて、宋の時代の末期、元の時代の初めに、紡織の工匠の黄道婆がかつて海南島でリー族の女性に紡織技術を学んだことがある、先進的な紡織道具と技術を作り出し、中国古代科学技術の発展のために貢献した。リー族が居住している海南島は亜熱帯に位置し、気候が温暖で湿潤である。景色が美しく、四季は常緑で、物産が豊富である。農業が発達しているとともに、ゴム、サトウキビ、果物、植物油などの熱帯経済作物もわりに高い発展水準を示している。 中国「旅行情報」


肥後人のルーツは雲南省麗江


まず、中国大陸は太古より漢族の土地だったという訳ではありません。

中国本土、いわゆる中原が絶えず北から遊牧民族の南下に晒されてきた事は知られていますが、一つの説として、現在の雲南省、貴州省、四川省、浙江省、福建省、広東省・・・などの辺境部を中心に分布するビルマ、タイ系の少数民族は漢族に追われ、現在のような山岳地帯に住むようになったのであり、それ以前は江南の海岸部は元より、長江全域から山東省の付け根辺りまで住み着いていたのではないかと言われているのです。

つまり、中国の古い時代の先住民はこれらの人々で、九黎、つまり九派の黎族だったというのです。

問題はその時期です。紀元前1000年辺りから始まり、日本でも良く知られた春秋戦国期の呉越の人々の移動、避難民もその中の一つだったのです。

「臥薪嘗胆」の故事は著名ですが、呉は越に越は楚に楚(楚もソウと発音)も秦に滅ぼされ、後の漢の武帝の時代に漢族は江南から最大版図を形成します。

呉も越も実際には越族と言われていますが、大雑把に言えば、この越の人々こそ広義の黎族であり、特に南に追われたのがベトナム(越南)であり、海に逃れたのが倭人であり、山岳地帯に逃れたのが、現在、苗族に象徴される三苗だったのです(後に苗は漢化する)。
 この黎族はさらに広く展開し、インドの東北部にも、ビルマからの独立運動を続けるカレン族もその一つなのです。ここで、日本にも呉、越の民が入っているのではないか?ということが言えそうです。

それは、越の人々は海との関わりが深いからです。広島には呉がありますし、越前、越中、越後があるではないですか、そして、呉(春秋戦国の呉)の後期の首都、姑蘇地名(菊池市にあったことが文献上残っています)や姫姑蘇神社(小郡市・・・他)なども。

彼らが肥後人のルーツであると言えばお叱りを買うでしょうか?極端に表現すれば、中国に支那地名を残した黎族こそ鹿児島、熊本に入ってきた人々であり、実は日本人こそ支那人なの(だった)です。

だから現在の中国人は異人種の異民族の漢族であり、支那人ではないのです。

この戦慄をさえ覚える説を唱えられているのが前述の故百嶋先生です。

百嶋先生によると、何世紀にも亘って漢族に追われ続けた黎族は、最終的に雲南省の最奥部に逃れ、そこさえも安住の地とはならず、起源前後のある時期に、一派(これは白族ですが)は省都昆明の辺りから紅河(フォンガ)を下り、ハノイ沖に、また、一派は密支那から瀾滄江(メコン川)を下りサイゴン沖に出、黒潮に乗り海南島の南西岸に逃れたと言うのです(下図は海南島南西部)。


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紅河ハニ族イ族自治州は雲南省東南部に位置します。 昆明市の真南に位置する州で、 南部をベトナムと接しています。

2763.とてつもない日本の歴史2

日本古代史は中国古代史と繋がっている。中国史は複数民族がいたために民族興亡史でもある。今の中国領土の大きさはEU(欧州連合)と大体同じ大きさであり、そこには複数民族がいたし、今も複数民族で構成されている。中国古代史もこの民族の戦いだった。この民族戦争で負けた方の民族が日本に逃れてきたことが、近年の考古学の調査で分かってきた。

1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀元前6000年~紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。またそこの稲はジャポニカ米であり、その原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。今までは稲の原産地は雲南地域を思われていた。

中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000 - 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられる。ここに住んでいた民族は苗族で、台湾の先住民であり、弥生時代に海を渡って日本に来ることになる。

その証拠に、長江の民・苗族の一方は、雲南省などの奥地に追いつめられ、その子孫は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたようだ。

苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されている。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生する文明を持っていたし、そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であったことで、両者ともに自然との共生し、戦いを望まない人たちであった。このため、生活環境が違うのと戦いを嫌い民族であったことで、共生と平和が確保されたのでしょうね。

河姆渡遺跡が滅亡した時期に日本へ苗族が最初に渡り、日本の岡山県・朝寝鼻貝塚(紀元前4000年)に水田を作り、そこから米の化石が出たことに通じ、長江中流領の馬橋文化は約4千年前から2千7百年前であり、その後、苗族が日本に渡ってきた二陣目が、日本の菜畑遺跡、紀元前700年の水田跡に繋がる。その間の文化も侵略を受けて、徐々に日本に移民したように感じる。ここまでの文明は文字を持たないために、記録がない。

そして、その後に呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)が、この地域にあったが、越に負けて滅亡し、この民族も日本に来た事が分かる。

日本の漢字の読みは呉音である。逃げるなら海しかない。そして、中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。

このように、中国で負けた民族や王朝は、次々に日本へ来ることになる。古代の船に数家族で来るので、少数であるが重層的な帰化人が日本文明を形作ることになるが、どちらにしても、中国史を見ていないと、日本の古代史は語れない。

現代日本人の遺伝子構成は、弥生時代の始まりを契機に流入した遺伝子がほぼ65%を占めていることから、この苗族など帰化人の影響が大きいことは確かだ。しかし一方で、縄文の文化は後世に継承されている、つまり縄文人を駆逐するまでには至らなかった。例えば、帰化人によって営まれた水田をもつ環濠集落においても、水田稲作用の新しい農具や工具が持ち込まれている一方で、土器などその他多くの道具は縄文時代と基本的に変わらないのが実状で、何よりも縄文の婚姻制は戦後に至るまで継承されている。少数の弥生人と縄文人の婚姻もあったように思う。

 このことから、帰化人が大挙して押し寄せたのではなく、少数の帰化人がバラバラに各地で水稲耕作という安定した食糧供給を背景に、高い人口増加率(寿命の長期化)を保持し、人口増および人口比の逆転をもたらした、とする方が妥当性が高いと思われる。

そして、このようなことから日本の古事記や日本書紀を読んでも、日本の古代史は分からないと言うことである。しかし、古代の全体を知ると、なぜそう記述したかが分かるのである。古い神社にある書物には、ある真実が隠されている。これを調べたのが、原田常治である。

(参考)

大量渡来か少数渡来か(1)http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=24724

国際派日本人養成講座 日本のルーツ? 長江文明

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

ミャオ族  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ミャオ族(-ぞく、苗族, 英語: Miao)は中国などに住む少数民族である。モン族(英語: Hmong)ともいう。中国では貴州省に最も多く、他に湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省などに住むほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどにも住む。歴史上移住を繰り返した流浪の民である。

伝説  中国の伝説によれば、紀元前26世紀ごろ華夏の民族(いわゆる「漢族」の原型)の君主・黄帝が蚩尤(しゆう)の民族の討伐作戦を行い、タク鹿(たくろく、河北省と遼寧省の省境付近)で破ったことがあったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏はその討伐地域の悪条件にも関わらずコンパスを用い正確に蚩尤の民族を破る事ができた。一方で敗れた蚩尤の民族はミャオ族と黎族(リー族)に分裂した。ミャオ族はこの後南東方向にむかって移動を続けたという。ミャオ族は漢民族からは「蛮」と見なされ差別を受けたが、一部は周王朝時代に華夏民族と同化したという。

揚子江定住  漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのはの先秦時代(戦国時代)であった。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域に住んでいたが、またもや中国の攻撃を受け南方へ移住を始めた。六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、五胡による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。中には漢民族と同化することもあったという。

西南中国へ移住唐王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族は雲南に南詔を建国したとする説もある。

同化政策と抵抗  ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀の元王朝によって中国の版図に入った。明代になると、この地域への漢族の移住が多くなり、土着のミャオ族との摩擦が増加、大小100回を越えるミャオ族反乱が起こっている。

清軍の残酷な討伐や弾圧のため、19世紀には多くのミャオ族が東南アジアのタイ・ビルマ・ラオス・ベトナムに移住していった。

言語  苗(ミャオ)族は独自の言語をもち、ミャオ・ヤオ語族(別の表現ではモン・ミエン語族)に属している。この語族に属しているのはミャオ語、ヤオ語以外には中国東南沿海部(福建・浙江方面)に残存しているシェ族の言語だけである。

住む国によって中国語やタイ語などに通じている場合もある。

宗教  精霊信仰(アニミズム)である。

食文化  多くの場合、米を主食とし、野菜、肉類、魚などをトウガラシ、塩、酢などで味付けした副食と共に、13食食べる。漢族の料理に似た炒め物や蒸し物、魚の唐揚げなどの揚げ物もある。もち米で餠を作る習慣もあり、揚げ餅も作られる。豆類も重要な食品である。蕎麦も作り、トウガラシと醤油の味付けで食べる。漢族の習慣に合わせて春節を祝い、餅や豚料理などのハレの料理が用意される。北京など、中国の大都市にはミャオ族料理を出す専門店ができている。

人口データ  全体の人口の内約半数が貴州省に集中している(1990年)。その他以下の省が中国国内のミャオ族の98%が住む地域となっている。貴州省: 3,600,000人 湖南省: 1,550,000人 雲南省: 890,000人 四川省: 530,000人 広西省: 420,000人 湖北省: 200,000人 海南省: 50,000

ミャオ族の中で何千人単位で北京・広州に移住した者もいる。一方タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどには2000万人のミャオ族が住んでいる。


この文書では苗(ミャオ)族は漢族に同化する道を選んだいわば監視役なので、黎族と読み替える必要があるようです。

それはともかくも、内倉武久氏は、2012年久留米大学公開講座(古代史)において、熊襲の源流は中国大陸の少数民族の黎(レイ、リー)族、瑤(ヨウ)族、佘+田(シェ、シャー)族としました。

一方、百嶋研究では雲南省麗江に黎の音を残し海南島に移動した黎族こそが黎族の中心であり、それが天草の苓北火力の苓北町に黎の音を残し阿蘇に入ったとしています(草壁吉見=天皇系図に絡むヒコヤイ、カムヤイミミを奉祭する人々)。

その後彼らは日本全土に展開します。支那人の大半は日本人になり、中国本土の支那人は、ほぼ、消えたのです。

詳しくは百嶋神社考古学夏季合宿音声CDで!

最後に、鹿児島県枕崎市に「今給黎」姓をもつ人々が集中する地区があります。これも末裔(加茂)かも知れません。当然ながら、鹿児島市の喜入町も九黎の名を遺したもののようにも思えます。

スポット186 赤村の超巨大古墳 ⑧ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺(下)

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スポット186 赤村の超巨大古墳 ⑧ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺(下)

20180525

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。今回は、九州王朝論者の大御所のお一人である内倉武久氏が提案されている朝倉市山田の長田大塚古墳継体天皇陵説について当時行った太宰府地名研究会主催のトレッキングのお話の延長上に継体天皇が如何なる人物であったのかについて迫ってみたいと思います。

赤村の超巨大古墳?はともかくも、九州にも大王クラスの古墳が存在した可能性があるという事について考えを進めていこうと思うものです。

再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


 内倉武久氏は「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」の初期のブログ

ブログ013 「継体天皇」の御陵は福岡にあった① ―杷木神籠石誕生に一役か―
ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② ―継体天皇も熊曾於族か― 


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において、朝倉市杷木町の大分自動車道山田パーキング下の長田大塚古墳継体天皇陵説を提出されています。


『古事記』『日本書紀』(『記紀』)に記す「継体天皇」と「磐井」の争いは、九州政権内の権力争いであろう、と考えている。 そうであればいより「継体天皇の御陵」も九州のどこかにあるはずだ。というか、なくては筆者の考えは大間違い。「ただの妄想」と受けとられかねないだろう。この 件についてどうしても読者にお知らせしておかなければならないと思う。というのも、「継体天皇の御陵が福岡県朝倉市にあるのを発見した」のだ。「断定」とまではいかないが可能性としては極めて高いと思える。…以下略

継体は三島の藍(アイ)に葬られたのです

ただ、この墳墓はもぬけの殻かも知れません

それは改葬され東に移動されている可能性があるのです それが、仁徳によるの州王朝東遷です。



これに呼応し、既にひぼろぎ逍遥223225において、列島でも最大クラスの円墳である朝倉市杷木町山田の長田大塚古墳について以下を書いています。


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内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起

との整合について ②

224

雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング 

“長田大塚古墳=継体陵説を探る”

223

内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木

神社縁起との整合について ①


詳細はこれらを読まれるとして、この古墳の概略を前ブログとは別の角度から説明したいと思います。


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225内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ② 20150707


 内倉武久氏による朝倉市杷木町山田の長田大塚古墳が継体天皇の墓ではないかという驚愕すべき提案(2015年久留米大学公開講座での講演外、多元的古代研究会や九州古代史の会の会報等)は、彼が朝日新聞の記者として全国の古墳を見て回り、「太宰府は日本の首都だった」(ミネルヴァ書房)外三著を出し、なお、blog「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」において考古学への小稿を書き続けている穴掘り考古学全般に精通した人だけに説得力があり、九州王朝論者にとっても新鮮で、勢いのある風を起こしています。

 それは、雨の中での太宰府地名研究会主催のトレッキングに多くの参加者が集まった事にも反映されているのかも知れません。

 トレッキングから一週間後、今度は熊本から4人のグループが訪れ、再び私が案内する事になりましたが、今回は同じコースを廻るにしても、新たに継体天皇の出身地と言われる福井を加えたのです。

 今回はこの福井の話です。

そもそも、「紀」では、三国の坂中井(福井県)に…とあるだけで、福井県とされているのも全ては推定なのです。

 父親の彦主人王にしても彦山は直ぐ傍ですし、三国もこの朝倉からそう遠くない所(朝倉市の隣の小郡市)に揃っているからです。

 まずは、継体を福井県の誇りとしているサイトからご紹介しましょう。


継体大王を知ることができる書物は少なく、『古事記』『日本書紀』『上宮記』の三書のみでそれ以外は伝承や考古学的な資料のみである。
 『日本書紀』によると、「父・彦主人王は母・振媛が顔きらきらして、大変美しい人であることを聞いて三国(みくに)の坂中井(さかない)(福井県坂井市)へ使いを送り、近江国高島郡三尾(みお)(滋賀県高島市)の別業(なりどころ)(別荘)に召し入れてお妃(きさき)とした。」と書かれている。2人は、滋賀県高島市の三尾で結婚し、その後に生まれたのが男大迹王(おほどのおう)(後の継体大王)である。
 男大迹王が生まれて間もなく、彦主人王は亡くなってしまう。そこで振媛は「私は今遠く故郷を離れてしまいました。ここには親類縁者もなく、私一人では養育することができません。越前国高向(たかむく、坂井市丸岡町高田付近か)に帰って親の面倒を見ながらお育てしたい。」と言い、幼い男大迹王を連れて高向に帰った。
 坂井市丸岡町高田には高向神社が建てられており、この付近に高向の宮があったと推定される。
 継体大王は、『日本書紀』によると西暦507年に58歳で即位したとあるので、逆算すると西暦450年前後に越の国(福井県)に入り、即位するまでの50年余りを過ごしたことになる。


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元々内倉想定は、“九州王朝説の立場からは、継体天皇が三島の藍に葬られた…とされているとしたらそれは、今城塚でも大田茶臼山でもないであろう。”“もし仮にそうだとしても、それは九州王朝系同氏の争いの表現であり、後に九州王朝系豪族の多くが畿内に進出した結果、分骨、改葬の結果によるものではないか”したことによるものであり、本来は北部九州のどこかに彼を葬る塚があるはずであり、それがどこなのかを考えたのだろうと思うのです。

 まさしく、古田武彦氏が「磐井の乱はなかった」という奇妙な後退(撤退)を行っている中、九州王朝説の最先端の議論を行っている事になるのです。

 思えば、磐井の乱から1500年が近付く中、久留米一帯の人々にとっても最も注目すべき問題なのです。


此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也。        「古事記」


まず、朝倉市山田の長田大塚古墳は、三嶋之藍にピッタリ符合します。

なにしろ、正面の三連水車の隣の二連水車の地がまさしく三嶋の藍なのですから。


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そして、三国も福井も揃っているのです。


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朝倉市の西隣、小郡市の三国=赤円、長田大塚古墳=黄円


 結局、何の事は無い、「磐井の乱」とは、筑後川を挟んで、北から南の磐井を攻め滅ぼしただけの事であって、磐井の乱と呼ばれる九州王朝内分の内ゲバだった事になるのです。


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朝倉市の東端、杷木町の福井集落=小青円、東隣、東峰村の福井=大青円、長田大塚古墳=黄円


継体天皇(袁本杼 男大迹)がこの一帯に居たという確たる証拠はないものの、居たとしておかしくないような地名が揃っている事だけはお分かりになるのではないでしょうか?

では、東峰村の福井と福井神社をご覧いただきましょう。

彦山の南麓に位置する旧宝珠山村(現東峰村)に大字福井があります。

最近、豊後(日田)から筑豊、筑豊(田川周辺)に頻繁に移動している事からこの福井を通過していた事になりますが、内倉想定が提出される前まで継体天皇との関係では全く考えてはいませんでした。

 まず、重要なのは、三国、福井、三嶋、…といった地名がいつの時代まで遡れるのかが問題です。

 一般的に地名研究が馬鹿にされ素人扱いされるのは、それがいつの時代のものかが特定できない事にあります。

 しかし、「三国」は肥前、筑前、筑後の国境に因む地名であろうことは間違いなく、分国令(=六十六分国も九州王朝によるものかも知れませんので…)、前後のかなり古い地名である事はある程度想定できます。

 三嶋も藍も遣唐使船が入ったとか、斉明天皇が舟に乗ったとか言われているだけに詳しくは調べていませんが、これもかなり古い地名である事は間違いがなさそうです。

 問題は「福井」ですが、以前から福井県の福井は玄界灘側の糸島市二丈福井にあり、「福井白山神社」があることから、安曇族の移動により持ち込まれた地名ではないかと考えていました。

 今回、継体との関係で「福井」を再考した時、福井神社があることを思い出しました。

 以前も何度か訪れていますが、「神社誌」も調べていませんでしたし(現在、「福岡県神社誌」上中下は国立国会図書館デジタル・コレクションで全て読むことができます)、これといった特徴も無い事から印象が薄かったのですが、今回は驚きました。


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福井神社 カーナビ検索福岡県朝倉郡東峰村大字福井9251



彦山の周辺は高木神社が卓越し、そのほとんどが大行事社と重なるため、この福井神社もその一つと考えていましたが、高木大神系の神社ではありません。

イザナギ尊+速玉男尊+事解男尊という組合せもあまりありませんが、一目、古い神様の揃い踏みと言ったものに見えます。

伊弉諾神 伊邪那岐命は良いとして、速玉男尊+事解男尊は分かりにくいかと思います。

結論を急げば、速玉男尊は博多の櫛田神社の主祭神の大幡主(オオハタヌシ)であり、事解男尊は一般的には加具土(カグツチ)命としてしられていますが金山彦のことであり製鉄の神様です。

そして、百嶋神社考古学においては九州王朝の初期を支えた重要な氏族(民族)なのです。

 今回は、山田の長田大塚古墳の御背後地の福井地名を確認してもらいましたが、重要なのはどうみても長田大塚古墳の西側好地に置かれた墓の所有者の一族=安部家との関係ですね。

 現在、その線に沿って調査を進めているところです。

 どうみてもこの筑後川の両岸は古代においても最も住み良い領域であり、多くの勢力が鬩ぎ合った場所だったように思えるのです。


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福井神社から50メートルほどのところに福の井がありました。なんと、井戸の上に社が置かれ、久留米水天宮も祀られているようです。八世紀初頭に活躍した役行者の話は佐賀県にも濃厚な伝承がありますが、福井神社、福の井の起源を探る上では重要な指標になります。直ぐ目の前は大肥川でもあり、どうやら自噴(吹井)の噴水井戸この福井の地名の起源の様です。



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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog 」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。

561 佐賀県にもう一つの鏡山を発見した “故)吉野裕子(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山説

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561 佐賀県にもう一つの鏡山を発見した “故)吉野裕子(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山説

20180103

太宰府地名研究会 古川 清久


この間、民俗学者の故)吉野裕子による「カガミ山」=蛇山説の事例を取り上げて来ました。


ひぼろぎ逍遥

257

日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする

民俗学者吉野裕子説から”

392

佐賀県唐津市の鏡山はカカ(蛇)を見る山だった

539

鏡神社は 何故 鏡神社なのか?"佐賀県佐賀市三瀬村の鏡神社"


詳しくはこれらをお読み頂きたいのですが、12日に佐賀県富士町の山奥の某麻酔科医の別荘地に熊本の女性と集まった帰りに、佐賀県小城市の県道332号線を通っていました。

勿論、何度となく通った道ですからこの地に神社がある事は承知していました。

ただ、参拝した事はなかったため、時間も余していた事から見せて頂くことにしました。

実は、この神社も鏡神社なのです。


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勿論、普通の鎮守さまなのですが、鏡山神社という名称が気になり周囲を見回しました。

案の定、ここでもお鏡餅山が見えたのです。


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実に立派な神社です。手入れも良く行き届いて地域の気持ちが良く見えるようでした。


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南南西の方向でしたが、神社の正面からはっきりとしたお鏡山が見えたのでした



もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。

 この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬製したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを豊穣のシンボルとし、感謝を表したもの…となり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考…


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日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。


日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」
より



お分かり頂けたでしょうか? 以上、再掲。

 さて、今回は唐津市の鏡山の意味です。

福岡市周辺の方が西に向かうと必ずこの山の下を通られるので鏡山については良くご存じだと思います。

一般的には「鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている」とか、酷い話では観光バスのガイドが言うような「鏡山は屈んでいるから低く見えるが、立ち上がったら本当は高い山なんだ…」といった話までが横行しています。


鏡山(かがみやま)は、佐賀県唐津市にある山である。標高284メートル。

鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている。また、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が山頂から大伴狭手彦の船を見送ったという伝説の地であり、佐用姫がそでにつけていた領巾(ひれ)を振りながら見送ったということから、領巾振山(ひれふりやま)の別名でも呼ばれる。

頂上には鏡山神社がある他、愛する人との別れで泣き続け石になった佐用姫の悲恋伝説にちなみ、恋人たちのパワースポットとして佐用姫神社が祀られている。

また、鏡山ができたとき、上を切り取って海に置いたのが高島、その上を切り取ったのが鳥島という言い伝えがある。鏡山と高島はともに台形であり、見た感じの大きさも丁度よいものである。同様に、巨人が鏡山に躓いて転んだため怒り、頂上部を殴り飛ばしたことで高島などが出来たという。


一例ですが、HP風水パワースポット検索 から


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「佐賀県神社誌」173pによれば、主祭神は藤原廣嗣

境内神社 大神宮   祭神 天照皇大神

     道祖神社  祭神 猿田彦命      


敗残した九州王朝との関係も考えられる藤原廣嗣が祀られている事には興味を引きますが、今のところこれ以上は辿れません。

道祖神社 祭神 猿田彦命 も良く分かるのですが、この土地自体が南に張り出した岬状の土地でありこの古代の有明海の湾奥の汀線と思えるところに重要な県道が通っている事からそれなりに思えます。

この鏡山神社の信仰が神体山たる二子山だった時代があった事は確実なようです。

しかし、それは稲作が持ち込まれて以降のかなり長い時代の話であって…と言うのは、鏡=カカ+巳(ミ)たる蛇が稲作による富の蓄積の象徴たる穀物を食い散らす鼠の天敵を崇めたのはやはり弥生期の事だと考えられるのです。

ただし、我々の時代まで通説の弥生時代とは紀元前35世紀とされていたのですが、こっそりと500700年が遡り修整され(照葉樹林文化論者が主張した縄文稲作論が正しかった)紀元前1000年=およそ3000年前まで遡る概念であって、その呼称が現代にまで伝えられ鏡神社(鏡山神社)とされている事には感動すら覚えるのです。

しかし、藤原廣嗣祭祀に関する背景については探る由もありません。なお、注意しておくべきですが、現地では神社の向かいではなく裏山を鏡山と呼んでいるのです。いつしか伝承が途絶えているのです。


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これで、大分県日田市の「加々鶴」、佐賀県唐津市の鏡山(これは浮嶽をカカに見立ててカカの見える神社、山としたものかも知れません)、それに佐賀県佐賀市(旧三瀬村)の鏡神社に続く4例目を発見した事になります。

九州だけでも鏡神社、鏡山はまだまだたくさんあります。

全てがそうだとは思いませんが、今後とも探査は続きます。

最後に、上の地図で、牛尾神社と西川をマーキングしています。

これも宮崎県日南市の潮嶽神社(阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ)と関係がありますので、関心をお持ちの方は次のブログをお読み下さい。

そして、この牛尾神社(宮崎県日南市北郷町北河内8901-1)+西川(現地音はどうであれサイ川と読め)という複合は、人吉盆地の奥地にも認められるのです。


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日南市の潮嶽神社は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミ=武甕槌=春日大神…と認められます。

 しかし、熊本県の人吉盆地の最奥部の潮神社、塞神社は男女が逆転しているようです。

 つまり、ヒコヤイミミとそのお妃の一人である市杵島姫(別名佐用姫、佐代姫)の佐用、佐代が「西」、「佐井」「塞」とされているのだと考えているのです(恐らく大分市の大在、小在も)。

 これが、遠賀川の西を北流する西川であり、塞神社と考えているのです。牛尾が潮の置換えであることは言うまでもありません。


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百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

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