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562 佐賀県に阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)を祀る神社がある ?“佐賀県小城市牛尾神社”

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562 佐賀県に阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)を祀る神社がある ?“佐賀県小城市牛尾神社”

20180103

太宰府地名研究会 古川 清久


一般的に山幸彦=ニギハヤヒを祀る神社は腐るほどあるのですが、海幸彦=草部吉見=ヒコヤイミミを祀る神社が数えるほどしか無いという事実は、神社に関心をお持ちの方にはある程度ご理解頂けるのではないのでしょうか?勿論、茨城の鹿島神社とか春日神社と言ったものは別の議論になりますが…。

 その一つが宮崎県日南市の潮嶽神社であり、もう一つが、丁度、九州山地を挟んだ反対側とも言って良い佐賀県の小城市にあるようなのです。佐賀市の西隣り、古有明海の最奥部にある小城市の牛尾神社です。

 「潮」と「牛尾」と文字が通底している事にも心が動かされますが、地元に居ながら、日南市の潮嶽神社を優先し小城市の牛尾神社を後回しにした理由は、同社正面が金毘羅神社であり、息子の大山咋神(=日吉神社=山王神社=日枝神社=松尾神社…)を祀るものであるとの認識を持っていたからでした。

 ところが、ひぼろぎ逍遥の前ブログでご紹介した鏡山神社を参拝したこともあって、良い機会とばかりに同社にも足を延ばし同社の下まで行ってみました。


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まず、若王子権現が気になります。通常、若王子とは熊野の若王子こと大幡主の王子たる豊玉彦=ヤタガラスを意味すると認識しており、どうも金毘羅宮が祀られる底流にはヤタガラスの祭祀が存在したようにも見えるのです。この問題は残すとして、まずは山頂の牛尾神社をご覧ください。


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佐賀県では自然陸化の延長上に成立した広大な干拓地が拡がっています。まさに列島のオランダです。

江戸期より前の干拓(肥前の籠コモリ干拓)と幕藩体制化の干拓(肥前の搦カラミ干拓)とによって産みだされたこの一帯の土地の形成過程を考えると、同地は有明海の最奥部に突き出した岬状地の管制高地だったと認識せざるを得ないのです。

 小城市と言えば、まず、須賀神社、男女神社、八天神社、松尾神社、天山神社…と、この牛尾神社が頭を過ります。

 これらの特徴的な神社が確認できる中でも、小城市の全域には金毘羅神社を含め松尾神社=山王神社=日吉神社=日枝神社…といった大山咋系神社の数の多さを意識せざるを得ません。

これらの神社のかなりのものが江戸期以降のものとはしても、この地がその神社群の父神たる草部吉見=ヒコヤイミミ=牛尾神社の祭祀の流れを汲む事を理解するならば、自ずと見えて来るものがあるように思うのです。


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牛尾神社の基層に如何なる神(金山彦orヤタガラス)が認められるかは今後の課題としても、「天之葺根命」が草部吉見(ヒコヤイミミ)=天児屋根命=表面的な春日大神=武甕槌の子神であり、後の藤原氏の祖である事についてはこの間何度もお伝えしてきました。

この事が、後の貿易拠点、重要港湾の傍には必ず春日神社が置かれると言う法則性のようなものを感じさせられるのです。

九州では、宇佐の駅館川の春日神社、唐津は松浦川の春日神社、春日市の春日神社、博多は息子の崇神を祀る住吉神社、熊本市も春日神社、小郡市の大中臣神社、八代市の球磨川沿いにも春日神社二社が…と正しく藤原による古代国家の利権の独占を見てしまうのです。


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この神社は小城市の西外れに近く、多久市東多久町納所と川を挟んで東に鎮座しています。附近は牛尾梅林と呼ばれる景勝地で、梅の開花時期には、梅の香に誘われて大変な人が集まるそうです。

 「牛尾神社参道」の案内がある石柱から、北北東に延びた参道脇には「牛尾公民館」が建設され、40m程で「若王子大権現」の額が掛かる一の肥前鳥居に行き着きます。この後参道は石段となり、途中、左手に金毘羅神宮が祀られていたり、中程より上には右に中宮が祀られたりしています。更に石段を上がると、境内下に市指定重要文化財・慶長2年(1597)建立の肥前鳥居が立ち、すぐ左手には嘗て山伏の拠点だった別当坊が残されています。

 境内に上がるとすぐに文化4年生まれの岩狛さんがおり、正面に唐破風付き入母屋造りの拝殿、流造の本殿が建立されています。又、境内右手奥には龍神、生田宮、辨財天等の石祠が纏められています。

 創建から1200年余りの歴史を誇る古社で、源氏との関わりがある牛尾別当坊は、箱根・熊野山・鞍馬山と並ぶ日本四別当坊の一つとして、威勢を誇っていました。現在は梅林の奥に密やかに鎮座していますが、閑かな佇まいの、整備が整った気持ちの良い神社となっています。

 御祭神:天之葺根命

 祭礼日:春祭・415日、例祭・1015日、秋祭・1217

 境内社:金毘羅神宮、龍神、生田宮、辨財天、大日尊、石清水、天満尊、稲荷社等

 由緒:当神社は延暦十五年九月九日大和国吉野の里良厳上人、桓武天皇の勅宣を賜い肥前国堡郡実万ヶ里(今に小城郡西郷という。)に下向ありて、山の頂上に若王子大権現を祭り、併せて一院を建て護国神宮寺福長寿院別当坊という、勅に依り日本四別当一に列す、(第一箱根山別当坊、第二熊野山別当坊、第三牛尾山別当坊、第四鞍馬山別当坊)之れなり。

 当山は専ら西海道鎮護の御祈願所として九国安寧の御祈願を掌れり、その後この僻遠の一霊場が如何に朝野の信仰を博し得たかは延久元年八月欽名天皇の御後胤に当たらせられる大覚僧正、花山院第三の宮覚実僧正の御師弟が遥々熊野から降らせ給ふたことや、保元二年花山院家忠公が一時中絶していた別当坊を再興せられて、琳海親王を別当坊の院主に任ぜられたことによって伺はれる。寿永二年夏源頼朝公が神田二十余町を当山へ寄進せられ同日その臣北条、北畠二氏が各々願文を奉つたことは東鏡(鎌倉幕府日誌)に明記してある。文冶元年源平合戦の砌参河守範頼九州に渡り参州豊前の敵を征し筑前の敵を伐つに当たり琳海親王は当山衆徒兵三千余騎を以つて、熊野山湛僧坊と諜合して豊前日田まで出陣す。平家一族を壇の浦にて殲滅した後天下泰平の御祈願の為に源義経の使者亀井六郎重清を遣はして義経自筆の願文並に義経、弁慶の腰旗、砂金五百両を当山に奉納ありたり。元亀年中鍋島直茂公、大友宗麟の大軍を川上村今山に於いて夜襲の時別当坊琳信一山の衆徒兵を引具して公の軍に加はり名誉の御勝利ありしを以て、勝茂公代より神領十六石三斗七升御改付ありたり。

 古来国主領主の崇敬極めて厚く、徳川時代に於いては旧佐賀藩主より華表並に社殿の造当修築等奉納のことはすべて藩費により支弁せられたり。

 明治維新に際し神仏習合分離と共に若王子大権現を牛尾神社と改称す。

 明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に昇格し現在に至る。


当方の写真が不鮮明のため敬愛する562-6による


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この山上には牛尾梅林があります。梅のほころぶ三月にもトレッキングを行ないたいと思うものです。


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「佐賀県神社誌要」によると、家津御子大神とは草部吉見と市杵島姫との間に産まれた大山咋神=松尾大神、山王宮…であり、だからこそ宗像三女神も書かれているのです。

 ただ、社名、地名からは、その底流に草部吉見=ヒコヤイミミ祭祀が存在して様に見えるのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで


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「佐賀県神社誌要」172173p


スポット187(前) 赤村の超巨大古墳 ⑨僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(上)

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スポット187(前) 赤村の超巨大古墳 ⑨僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(上)

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。


再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


 今般の赤村の前方後円墳としか思えない巨大古墳状丘陵に関して、町興し村興し宜しく「卑弥呼の墓」といった噂が飛び交っているやにも聴き及んでいます。

 古代史の世界に多少とも関わった者として、地域振興のためのマヌーバとして、一時的に「卑弥呼の墓」…といったデマに近い話が流れる事が全くの悪い事だとは思いませんが…(絹も鉄も出土しない奈良県桜井市の巻向遺跡や巻向古墳を卑弥呼の大城とか埋葬墓などとするような大嘘よりは余程真面なのですから)、この実に素人臭い卑弥呼の墳墓説には多少の気恥ずかしさを越え暴走にしか思えません。

 これについては通説派の考古学協会なども“どうせ素人ですから…”などと馬鹿にしきっている事でしょう。

行政や教育委員会や文化庁…といった悪の牙城が、これまで敵視続けて来た「九州王朝論」の探究などに踏み込むはずはなく、いずれはうやむやにしてしまい何時しか消されてしまう事でしょう。

ただ、卑弥呼の墓などといった説で大騒ぎしてしまう事は、通説派の揚げ足取りに手を貸す事にしかならないため、少しクール・ダウンの意味からグループのメンバーである石田さんのお話をご紹介する事にしました。古田史学の会系の方なのですが、実際には下部組織の東海の会で活動されておられるようです。

 直接は元より、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)からも入れますのでお試し下さい。


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卑彌呼の冢 
              2018/5/9() 午後 9:55


1 はじめに
 卑彌呼の冢(ちょう)の形状や規模については、古くて新しいテーマです。一般的には卑彌呼の墓といいますね。
 最近でも卑彌呼の冢について、依然として前方後円墳の円部とみなす通説がメディアで報道されています。こうした通説の問題点や新たな視点について述べたいと思います。
 しばらく、お付き合いください。


2 「径」についての確認
 卑彌呼の冢に関して『三國志』烏丸鮮卑東夷傳倭人条(以下『魏志』倭人伝と表示)に次のとおり記されています。
  卑彌呼以死,大作冢,徑百餘歩,徇葬者奴婢百餘人。
                   
(中華書局版『三國志』魏書、烏丸鮮卑東夷傳、857頁)
  卑彌呼、以て死す。大いに冢を作ること、径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。
                                               
(読みは筆者による。以下同じ)

 この記述にもいろいろ疑問点があります。例えば、「以て死す」とは何を以て死すというのかとか、「徇葬」(徇は原文では獣偏)は、本来は「殉葬」だけどなにか違うのかなど、細かい疑問はとばしていきます。
 焦点は「径」です。
 この「径」は、円形のさしわたしを言いますから直径を示すと思います。また、「冢」とは、その周囲の地面より、こんもりと丸く盛り上がった場所を指しますので、まず間違いなく円墳の直径を表していると思われます。

 しかし、『三國志』における語句について、現代の常識だけで理解しようとするのは危険です。古代では、現代の常識とは異なる語句の使い方があります。ですから現代人の思い込みにより古代史を誤ることが多々あります。そこで、本当に「径」は円の直径を表しているのか、まず間違いないと思いますが、念のため『三國志』魏書から「径」の語句の使われ方について、次回事例を確認したいと思います。


従来説

3 卑彌呼の冢についての従来説                   2018/5/12(土) 午後 11:41

 卑彌呼の冢の規模についての従来説は、古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(ミネルヴァ書房、2010年)にまとまっていますので、まずは、その関連部分を抜粋します。

 倭人伝中「卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩」の記事があることはよく知られている。
 従来、この「百余歩」は「約百五十メートル」等だ、とせられた。
 百五十メートル説  - 笠井新也「卑彌呼の冢墓と箸(はし)墓」  

 (『考古学雑誌』32-7)、小林行雄『女王国の出現』(国民の歴史Ⅰ)
 百八十メートル説  - 斎藤忠「統一国家成立前の社会」(『古 

  墳文化と古代国家』所収) (ただし、結論としては誇張説)
 七、八十メートル説 - 榎一雄『邪馬台国』、原田大六『邪馬台 

  国論争』(七十メートル)(この場合、「大人のじっさいの歩幅」と考えるようである)

 ために、一方では、三世紀には、このように大きな古墳はありえぬとして、この記事の信憑性を疑う学者があった(先の斎藤説)。
 他方では、この一事をもってしても、卑弥呼の国は九州に求めることはできぬ。このような大古墳は、近畿にのみ、これを求めることができるとみなす学者もあった(右の笠井説)。

古田武彦(19262015年)があげられた考古学者の笠井新也(1884-1956年)は、邪馬壹國の分析から着手して「邪馬臺国は大和である」(『考古学雑誌』1922年)とした上で、「卑弥呼の冢墓と箸墓」(『考古学雑誌』1942年)において卑弥呼を倭迹迹日百襲姫に比定し、卑弥呼の墓は奈良県桜井市の箸墓古墳であるとの説を初めて提唱しました。


 笠井は、邪馬壹國を大和とする理由として、大和と邪馬臺の語音一致繁栄した遺跡の存在行路・行程の一致の3点を掲げています。

 しかし、原文は邪馬臺(やまだい)ではなく邪馬壹(やまいち)であり語音は不一致であること遺跡は全国に存在し近畿だけを繁栄地とするのはあたらないこと『魏志』倭人伝の行路・行程は邪馬壹國が九州北部に位置することを示しており、いずれも事実誤認です。

 とりわけ投馬國、邪馬壹國の比定については自分勝手な原文改定を行っており、自分の説が正しいとする我田引水の最たるもので全くよろしくありません。
 先述のとおり「径」は円の直径ですから卑彌呼の冢を箸墓古墳のような前方後円墳とするのは理屈が通りません。したがって、笠井の箸墓古墳比定説は成立しないと思います。

しかしながら、一般的には、この笠井説が主流であって、宮内庁が孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を3世紀中~後期の築造と想定し、卑彌呼の冢とみる研究者が多いようです。

 全長約280mの前方後円墳で、後円部に当たる部分が直径約150mであるので、その時期と後円部の大きさを根拠にして箸墓古墳を卑彌呼の冢とされています。

 これに引きずられてマスメディアは、先に示した赤村の前方後円墳形状についても、あたかも卑彌呼の墓ではないかとしますが、こうした風潮の積み重ねは、日本の古代史の理解を混乱させる一因です。

 また、後世に名を残している笠井などの一流の学者が、平然と原文改訂を行う遣り口には、大いに問題があります。古田武彦は、こうした笠井説などに対して安易な原文改訂を批判するとともに、卑彌呼の冢の大きさや形状について疑問を投げかけたのです。


笠井新也の論理

3 卑彌呼の冢についての従来説 (つづき) 2018/5/14() 午前 0:42

 笠井新也は、「卑弥呼の冢墓と箸墓」の論考の「五 墳形の問題」において次のとおり記します。

 橋本博士等の主張は、要するに、「径」とあるから円墳であるといふのである。併しこの主張には、大きな無理があると思ふ。「径なる文字は常に円形の大さ(ママ)を示す場合に於てのみ使用せらるゝ」といふのは先づ可いとしても、(これにも異議はあるが如く差へえる)、それだからといって、径とあるから円墳であるとは、如何して云へるのだらうか。例へば、「径八寸の鏡」とある場合「これは径とあるから円鏡である、断じて柄鏡ではあり得ない」といへるだらうか。

   ・・・・<中略>・・・・

 方円式古墳の前方部は、勿論鏡や団扇の柄部とは、その形態・意義に於て相違するけれども、その主要部に対する附属的施設であることに於いては同一である。

最初の橋本博士とは、邪馬壹國九州北部説を主張する東洋史学者の橋本増吉(18801956年)であり、「必ずしも事実上卑弥呼の冢が円塚なりしことを確証するものではないといふ異論も生じ得ることであろうが、たとひその異論を許すとしても、だからといつて卑弥呼の冢墳が前方後円墳であったといふ何等の確証も存在しない」(『史学』2-3,4,大正12年の「邪馬臺国の位置に就いて」)とされます。

 事実、『魏志』倭人伝の記事をもって円墳の可能性は大いにありますが、前方後円墳とは認められません。

 これに対して、笠井は「径」が円形を示すのはわかるが、円墳とはいえないであろうとされます。そして鏡に例えて、「径」とあれば円鏡とは言えず柄鏡の場合もあるのではないかとして、柄鏡の柄と前方後円墳の方部とは附属的という意味では同じであるから、前方後円墳の円部だけを指して「径」と言えるだろうとします。

 この笠井の論は学者とも思えない屁理屈です。鏡の事例について『記紀』でも『三國志』でも鏡の大きさを径で示した記事はありません。まず、想定として全く当を得ていません。あえて鏡の大きさを示す例としてあげるとすれば、『日本書紀』にある「八咫鏡(やたのかがみ)」と『古事記』の「八尺鏡(やたかがみ)」があります。「八咫鏡」と「八尺鏡」は同じもので三種の神器のひとつであり、「八咫」や「八尺」については、大きい意味とする説と円周をあらわすとの説があります。

しかし、いずれにしても「径」ではあらわされておらず、しかも柄鏡でもありません。笠井はもっともらしく記すものの、具体的に記された事例がない架空の想定を述べて、難癖をつけているとしか思えません。

 さらに鏡の柄と前方後円墳の方部はともに附属的とする笠井の主張もおかしいでしょう。古墳の方部を円部と切り離して附属的とするのは笠井の概念であって、その考えは正しくないと思います。鍵穴型や壺型とされる古墳の円部と方部は一体的であって、方部を附属的とするのは全くの個人的解釈です。
 したがって、笠井の主張は妥当性を欠くと思います。


笠井新也の疑問                            2018/5/15() 午前 0:12

3 卑彌呼の冢についての従来説 (つづき 2)

さらに、同書で笠井新也は次のように記されます。

 一体墳墓の形式をやかましくいふのは、考古学者の事であって、考古学者ならぬ者に取つては、それが円式であらうと、方式であらうと、乃至は方円式であらうと、何等関心すべき問題とはならないのである。我が記録・風土記以下の国史・雑史の類を仔細に検閲しても、古代墳墓に関する記事は少なくないが、而も方円式古墳の形態を彷彿するが如き記載は皆無であることを見ても、思半に過ぎるものがあらう。されば、彼の魏代の史家に、卑弥呼の冢墓に関する資料を提供した者が、倭人であつたにせよ、韓人であつたにせよ、或いはまた魏人であつたにせよ、その報告者その者が既にその形式に就いて関心をもつてゐたかどうかは疑問であり、仮令関心をもつてゐたとしても、それを忠実に伝へたか否かは更に疑問である。況やそれを更に伝聞して記載した魏志或は魏略等の編者が、卑弥呼の冢墓の形式に就いて、明瞭な知識を持つてゐたか否やは、愈々疑問である。

 (『考古学雑誌』32-7、笠井新也著「卑弥呼の冢墓と箸墓」)

 笠井は、素人は古墳の形には関心が無いし、史料の編者が卑彌呼の冢の形に関する知識を持っていたのかは疑問であるとされます。

 しかし、こうした疑問はすべて笠井の想像で述べられているにすぎません。素人であろうと古墳の形状に関心があったかもしれませんし、関心が無くても知っていたかもしれません。報告者は忠実に伝えたかもしれませんし、史料の編者は古墳に関する知識を十分に持っていたかもしれません。笠井のいう疑問は、そうかもしれないしそうでないかもしれないといった類のもので有意義ではありません。

 また、『記紀』等の記事には方円式古墳の記述が皆無であることをもって前方後円墳の形状は特記されないという考え方はいかにも短絡的です。

 『記紀』編者にとって前方後円墳を十分に承知しているのでその形状を特記されないこともあるでしょうし、逆に『記紀』に記されている古墳は前方後円墳ではないから特記されていないなど、多種多様な考えの可能性があることを理解すべきでしょう。

 『魏志』倭人伝では、関心があるとかないとかではなく、倭人の生活や風習を詳細に記しています。万一、『魏志』倭人伝の記事そのものを笠井が疑問視し信用しないのであれば、卑彌呼の冢を論ずる以前の問題です。

 中国史書では、墳墓の大きさについて記述するとき、墳墓の周縁部の長さを示したり、縦と横の各々の長さや高さを示しています。

 こうした記述方法と同じように、前方後円墳の場合も同様の方法で大きさや形を示すことができたはずですが、なぜ卑彌呼の冢を表現するのに「径」の語句を使用したのか、笠井は素直に理解されたらよかったと思います。

 また、卑彌呼の冢の形状を「径」のみで示し、それ以外には何の修飾や補足もなされていない点に留意すべきであったと思います。



スポット187(後) 赤村の超巨大古墳 ⑨僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(上)

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スポット187(後) 赤村の超巨大古墳 ⑨僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(上)

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久


5 墳と冢 つづき  2018/5/23() 午後 9:17

 「冢」と「墳」について、『広辞苑』第四版では、「冢」は「土を高く盛って築いた墓、また単に、墓のこと」とあり「墳」は「土を盛り上げた墓」とあります。

 また、最古の部首別漢字字典『説文解字』(西暦100年成立)にて文字の意味を確認します。

  冢:高墳也。从勹聲。(中國哲學書電子化計劃、5783頁)

  墳:墓也。从土賁聲。(同、9095頁)

 陵:大𨸏也。从𨸏夌聲。(同、9569頁) 

 𨸏:大陸,山無石者。象形。凡𨸏之屬皆从𨸏。(同、9568頁)

「冢」は、「高い墳」を意味し、文字は「勹」と「」から成り「(ちょう)」が声音とあります。「冢」が本字で「塚」は、その異体字です。

 「墳」は、単に「墓」とあります。「土」と「賁」から成り「賁(ふん)」が声音とあります。

 つまり『説文解字』においては、「墳」には、「高い」や「大きい」の意味はありません。一方、「冢」は高い墳で、墳は墓を意味しますから、「冢」はすなわち高い墓です。

 なお、「陵」は、「大きな丘」を意味し古代も現代も意味に変わりはありません。


│区分│説文解字(古代)│ 広辞苑(現代) 

│冢 │高墳也(高い墓)│土を高く盛って築いた墓、また単に墓のこと

│墳 │墳也 ( 墓 ) │土を盛り上げた墓 

 「冢」は、古代には、高い墳だけを意味していたのが、近代では単なる墓をも意味するように意味が広がったようです。これに対して「墳」は、古代には単なる墓であったのが、土を盛り上げた墓に意味が限定されたようです。

 いずれにしても、古代では「高く盛った」のは「冢」の方です。したがって、古代における文字の意味としては、「冢」の方が「墳」より小さいとはいえません。むしろ「冢」は、高く盛られていたようです。


6 冢の高さ                             2018/5/24() 午後 1:50

「冢」は、棺を納める程度で足りるから、あまり高くないという宝賀氏の主張は、一般論としては十分に理解できます。しかし、『三国志』においては、明らかに陵墓とわかるものに、高さの記載が1か所もありませんし、「大作冢」と特殊な記載をした例もありませんので、卑彌呼の冢について高さが記述されていないから、あまり高くなかったという推論には不満です。

 先の「5 墳と冢」の項目で、古代における「冢」と「墳」の文字の違いを示したように、「墳」が単なる墓の意味であったのが「冢」は高い墓の意味であったので、むしろ「冢」の方が「高い」という意味合いが強いようです。

 倭人の冢について、次の記事があります。
 其死,有棺無槨,封土作冢。

(中華書局版『三國志』魏書、烏丸鮮卑東夷傳、855頁)


 倭人の冢は「封土」で作られているとされます。同様に、卑彌呼の冢についても「封土」で作られていることは言うまでもありません。「封土」は墳墓の盛り土をいいますから、ニュアンスの問題ですが、卑彌呼の冢には、高さがあまりないというよりは、一定の高さがあったと理解するほうが妥当です。

 また、卑彌呼の冢の大きさによっては、面的な大きさに比例して高さも増すことが考えられます。


7 墳墓の規模についての具体例                    2018/5/24() 午後 1:50

 宝賀氏は、先の論考で九州北部における弥生時代の墳墓の大きさについて、次のように具体例を示されています。

早良平野の樋渡遺跡(福岡市西区)の墳丘墓では、径二五~二六Mの楕円形土盛りであり(王巍氏は、東西約二四M、南北約二五Mの方形という)、高さが約二・五Mであって、中央部に木棺一基、少し離れて石棺が一基あり、甕棺も二五基以上(そのうち、六基に前漢鏡・銅剣・鉄剣などの副葬品がある)とされる。

<中略>

 佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、樋渡遺跡より格段に進んだ「版築」という大陸系の技法をもち(古墳にはよく見られるが、弥生遺跡では初めて確認された)、規模もさらに大きくなる墳丘墓が見つかった。環濠集落の北部にあって一番見晴らしの良い場所に位置する墳丘墓は、南北約三九M、東西約二六Mの長方形であり、現在の高さ約二・五M、本来では約四・五M以上だったとみられている。墳丘は地山整形したのち、黒色土を高さ一M強ほど積み上げ、さらにその上に版築状に盛り土をしている。このなかに十四基の甕棺墓が確認され、うち八基から銅剣などの副葬品が発見された。また、この墳丘墓の南約一キロの地点でも、ほぼ同時期の墳丘墓が発見されており、一辺三四Mの方形で現存の高さが約一Mとされる。

 <中略>

 こうした事情からみると、卑弥呼の墓が弥生後期ないし終末期の北九州にあったとする場合には、規模では最大三〇ないし四〇Mほどの径であって、封土の高さが最高で五Mほどとなろう。

要するに、冢の大きさについて、九州北部の弥生後期のいろいろな墳墓の具体例から、最大で40m、高さ5m程度であるので、卑彌呼の冢もその程度であるとされます。

 現在認められる九州北部の墳墓は巨大ではないとの状況は理解できますが、卑彌呼の冢がそれらの事例と同程度というのには疑問があります。

 というのも、例示された墳墓の樋渡遺跡や吉野ケ里遺跡の墳丘墓については、規模が最大40mほどですが、埋葬数は、樋渡遺跡が25基程、吉野ケ里遺跡の墳丘墓が14基であって、卑彌呼の冢の「殉葬者奴婢百餘人」には到底及びません。殉葬者数からして、卑彌呼の冢はもっと面的に広がりがありそうです。


大作冢8 「大いに」                         2018/5/28() 午前 8:03

古田氏は、先の著書において「大いに冢を作る」の記述に関して次のように説明されています。

 もっとも、読者の中には、つぎのような疑問をもつ人もあるかもしれない。“三十メートル程度の墓では、「大いに冢を作る」とは、いえないのではないか”と。

 これに対して二つの側面から考える必要がある。

 その第一は、「仁徳陵」や「応神陵」のような巨大古墳の存在を見た、その「同じ目」で、この「大いに」という修飾の文字を見てはならない、ということである。

   <中略>

 第二に問題とすべきは、この一句の正確な文脈理解である。

 これは、「大作レ冢」(大いに冢を作る)であって、「作二大冢一」(大いなる冢を作る)ではない。つまり、「大いに」という形容詞は「作る」という動詞に対する副詞的修飾語であって、「冢」に対する形容詞的修飾語ではない。

 だから、陳寿が「大」という表現を与えているのは、国家と民衆が寄りつどうて卑弥呼の墓を作った儀礼・労働全体の動きに対してである。当の墓はそのものに対しては、陳寿自身はけっして「大きな冢」という表記を与えていないのである。

 ここでは、近畿にある巨大古墳に惑わされて「大いに」を理解してはならないということと、「大作冢」(大いに冢を作る)は、「大きな冢」ではなく、大いに造墓に励んで冢を作ったという意味であると指摘されていると思います。

 いずれにしても、「大作冢」(大いに冢を作る)の解釈の問題になります。

 確かに「大作冢」の文法は、古田氏の指摘されるとおりで、多大な労力を要したということでしょう。ただし、この「大作冢」の記事は、中国正史の中で、『三国志』の本文に記された唯一の記事ですから、たいへん注目すべき特別な記事です。

 大いに労働に励んで卑彌呼の冢を作れば、それはやはり大きいサイズになるのではないでしょうか。つまり、 「大作冢」の記事の意図は卑彌呼の冢を作るのに多くの労力を使い、ことさら大きい塚となったために記されたと推測します。


8 「大いに」の続き


 「大作冢」の記事は、『三國志』の本文ではありませんが、次のとおり挟註に1か所のみありますので、参考のために書かれている内容を検討します。


 會夫人死,晧哀愍思念,葬于苑中,大作冢,使工匠刻柏作木人,内冢中以為兵衞,以金銀珍玩之物送葬,不可稱計。已葬之後,晧治喪於内,半年不出。國人見葬太奢麗,皆謂晧已死,所葬者是也。        
                  
(中華書局版『三國志』呉書、妃嬪傳、1202頁の挟註)
   

 夫人の死に合い、孫皓は哀愍(れんびん)思念し苑中に葬り大いに冢を作った。工匠を使い柏を刻み木人を作って冢の中に内し兵衛と為す。計りしれないほどの金銀珍宝を以て葬送す。葬儀の後、孫皓は、冢の内にて喪し半年出ず。国の人、葬儀の太く奢麗を見て、皆、孫皓は既に死すと謂いて、葬する所は是なり。

 孫晧(そんこう、三国時代の呉の第4代皇帝)は、殺害してしまった夫人を後になって懐かしく思い、その姉を強引に左夫人(第2夫人)としました。孫晧は、その夫人を溺愛したといいます。

 彼女が死ぬと、孫晧は嘆き悲しみ大いに冢を作り、莫大な金銀宝物と共に埋葬しました。その葬儀があまりにも豪奢だったので、人々は孫晧本人の葬儀と勘違いしたということです。

 したがって、ここで使われている「大作冢」は、古田説の大きな労力を使って冢を作ると理解するのが適切です。結果として、その冢は大きな冢であると私は考えます。

 というのも、その冢の中には木で作った衛兵を納め、さらには皇帝が半年もの間、隠(こも)ことができるほどのものとされますので、高さも含めて、それ相応の大きさがあったと推測されます。


 現在想定されている中国の皇帝の墓、たとえば、呉の第3代皇帝孫休の墓と目される安徽省鞍山市当涂県の墳墓は44×30mほどの大きさであり、また、魏の武帝、曹操の墓と目されている中国河南省安陽市安陽県西高穴村の墳墓が最大長60mとされます。

 しかし、これらの墳墓は「大作冢」とも「大冢」や「大墳」とも記されていません。孫晧の夫人の場合、「大作冢」と記されたのは、これらの墳墓よりは大きかったからだと考えられます。

 また、卑彌呼の冢は、孫晧の夫人の冢が大きさを示されていないのに対して、わざわざ「径百余歩」と冢の大きさを記していますので、具体的にその規模が大きいことを示したかったから特筆されたのではないかと考えられます。


 ネット上で、この古墳を最初に公開された石田さんの詳細な説明をお読み頂いたならば、卑弥呼の墓説が疑わしい事がお分かり頂けたのではないでしょうか。


2018415日現在のネット・ワークです


187-3

本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件の大目に見れば3000万件のアクセスはあるでしょう。

563 七山村に宗五霊廟があるのは何故か? “佐賀県唐津市七山村馬川の馬川神社”

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563 七山村に宗五霊廟があるのは何故か? “佐賀県唐津市七山村馬川の馬川神社”

20180103

太宰府地名研究会 古川 清久


多くの神社を見て廻っていると時として非常に驚かされるものに遭遇する事があります。

それが、旧七山村(現佐賀県唐津市)の通称宗吾郎神社です。

まず、これを宗吾郎神社と呼ぶべきかどうかも疑問なのですが、つい最近も隣接する三つ鳥居が印象的な神社をご紹介しました。この神社は馬川神社とも呼ばれているのですがそれは馬川地区にあるからであって、この神社の奥にあるのが明治期に造られた宗吾霊(廟)を以て宗吾郎神社と呼ばれているようでもあるのです。

一応は、ひぼろぎ逍遥のバック・ナンバーを見て頂ければお分かり頂けるでしょうが、今回はこの「宗吾霊」廟を考える事にします。


542

旧七山村の三つの鳥居は殷の鳥居ではないのか? 

”佐賀県唐津市七山馬川神社”


563-1

さて、宗吾郎とはご存じの通り千葉県佐倉市の佐倉宗五郎こと木内宗吾の事です。

 何分関東のことからご存じでない方もおられるかも知れません。

佐倉惣吾郎の怨霊を福沢諭吉が祀れと言った話までもあるのですが、下総200ケ村の百姓一揆の首謀者として死ぬ事となった義民中の義民であり英雄とも言うべき人物なのです。

しかし、自分自身も薄汚い権力者への怒りを抑えられないことから、この手の水戸黄門に登場するような悪代官だか家老だかに過剰反応しているのかも知れません。


563-1

佐倉惣五郎

佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳 – 承応283日(1653924日)?)は、江戸時代前期の下総国佐倉

藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)、通称は宗吾(そうご。惣吾とも)とされる。

領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。

ウィキペディア(20180104 21:14による


では、宗吾霊廟堂をご覧ください。


563-3

始めは寺なのか神社なのかを迷いましたが、列島の民族とは祖霊(先祖霊)を神として崇めます。

偉人とか武人である英雄も神として崇めますので、江戸初期の人物としても神として崇められたはずで、思い入れによっては神にも等しい扱いになる事を示す好例とは言えそうです。

 この霊堂が明治期に造られている事から、明治政府が幕藩体制を過剰に悪く宣伝する要素も加えられているとは思うのですが、この地に造られた背景については同地が肥前と言っても実質天領であった唐津藩であった事、山を隔てて背中合わせの現小城市が千葉氏のエリアであった事も関係しているのでしょう。

 何故ならば、肥前でも唐津藩以外の領域では見掛けた事が無いからです。

 天領であれば水戸学も奨励されているはずですし、その影響を受けた人が居たことは考えられるかも知れません。

 しかし、宗吾の悲劇性は語り尽くせません。結局、一族は皆殺しになるのです。


佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期の下総国印旛郡公津村(現千葉県成田市台方)の名主。義人と呼ばれる人であります。姓は木内氏、俗称宗吾。堀田領内佐倉城下に生まれ、本名を木内惣五郎と云う。

農民たちが飢饉に喘(あえ)いでいた。藩主堀田氏の苛政、年貢取立ての厳しさは年年増し、惣五郎は、藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかった。「一揆しかない!」と農民たちが思い詰める中、将軍徳川家綱への直訴を思い立つ。

しかし将軍家への直訴は死罪であります。其の為、妻おさんに離縁を促したが、おさんは離縁状を燃やし、4人の子供たちだけ離縁させた。一家全員を死罪から逃れる為であります。

承応元年(1652年)1220日、惣五郎は、上野寛永寺に参詣する四代将軍徳川家綱に直訴した。かいあって家綱は、佐倉藩への3年の年貢減免を決定してくれる。佐倉藩領民は危機を脱したのである。しかし、恥をかかされた領主堀田正信が宗五郎を許す訳が無い。宗五郎を捕らえ、拷問し、宗五郎の目前で、妻おせんと4人の子供を斬首。宗五郎は磔にかけられたまま憤死した。

しかし。其の後、夜中に磔のまま宙を舞う宗五郎の怨霊が目撃されるようになった。

領民を悪政で苦しめた佐倉藩役人たちが次々と怪死を遂げ、40日で全員死亡。堀田正信も血塗れの宗五郎を視て乱心。狂った正信は側近、腰元を次々と惨殺する。正信の妻も病に倒れ、正信自身は錯乱死。堀田家は改易(かいえき~更迭-クビ)となった。領民たちは宗五郎のための霊堂を建て、義人の霊を手厚く奉った。現千葉県成田市の東勝寺が其れであります。             

宗五霊堂(東勝寺)による


 さて、この霊堂が何故この地にあるのかについては他に類例がないだけに尚も悩みました。

 神社の分布と言い地名と言い領主の姓と言い、限られたピースながら気になる事があります。

 一つは、鎌倉期以来九州に入って来た千葉氏です。この桓武平氏の流れを汲む武士団は本拠地が千葉であったことから千葉氏(千葉県でも)と称していたのです。佐賀県では小城市に拠点を置き後に東千葉氏と西千葉氏に分裂し力を落しますが、この千葉氏が居た小城市は山を越えれば七山村に近接しており、このエリアからの働き掛けがあったのではないかとも思ってしまいます。

 もう一つは、この七山村の実質全神社調査を終えた事から感じたことは、この地の神社のほとんど全てが天御中主命=白山姫系~大幡主系~豊玉彦=ヤタガラス系=白族系である事に気付いており、どう考えてもこの地に住み着いた人々とは大幡主(ヤタガラスの父神)系氏族である事が見えて来たのです。


563-4

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


つまり、この赤枠内にある神々を祀る人々が七山村の人々なのです。

 もしかしたら、この神々の後裔である七山の人々の子孫が移り住んだ場所が千葉県であり、特に印旛沼周辺だったのではないかと思いついた時、多少の付合を見出したのでご紹介しておくことにします。

 そうです、天御中主命=白山姫神社=北辰宮=妙見宮を奉斎するのが、千葉県佐倉、印旛沼を中心とする千葉氏だったのです。

 では、中近世の武士団については殆ど知識を持たないため、いつも利用させて頂いている武家の家紋の由来、家紋拾い話から引用させて頂きます。

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である。


 十分にお分かり頂けたと思います。

 濃厚な妙見=北辰信仰のある七山村には以前から千葉の佐倉、印旛沼周辺を本願地とする千葉氏と連動する、従って、儀民佐倉惣五郎の事を十分に知った人々が住み着いていた事が分かるのです。

 とすると、印旛沼の「印」も忌部の「忌」であり、市杵島姫=瀛ツ島姫の「瀛」であり、北辰一刀流の千葉周作も妙見信仰=北辰信仰であり、周作の周も中国№1周王朝の「周」であり、北斗の拳の北斗も妙見信仰となるのです。


563-7



563-8九州千葉氏元寇の際、九州の防衛(異国警固番役)のため下総国より九州に派遣され肥前国に土着した千葉宗胤を祖とし、肥前千葉氏ともいう。宗胤が下総不在の間に弟胤宗に千葉氏宗家の家督を横領され、宗胤の子の胤貞は北朝方の足利尊氏に付き、宮方に付いた胤宗の子の貞胤と家督を争ったものの、貞胤が降伏した直後に自身が病没したため、宗家復帰はならなかった。胤貞の領地の肥前国小城郡、下総国千田荘・八幡荘は胤貞の次男の胤平から三男胤継に継承され、その後肥前国小城郡については猶子(宗胤の次男)の胤泰が継承した。

室町時代に全盛期をむかえた。このころ日本を訪れた李氏朝鮮の使臣・申淑舟の著書『海東諸国記』にも肥前国最大の勢力として千葉氏の名を挙げている。戦国時代初期に東西両家に分裂し、少弐氏の介入を受けその養子を当主として受け入れることを余儀なくされるほど衰退した。少弐氏が滅亡した際、東千葉家当主千葉胤頼は実兄少弐冬尚とともに自刃し、残った西千葉家は龍造寺氏に仕え、その部将として活動した。龍造寺隆信死後は、龍造寺家の実権を握った鍋島直茂が一時期、西千葉家の千葉胤連の養子だった縁もあり重用され、江戸時代には鍋島姓を与えられて、佐賀藩に家老として仕えた。            ウィキペディア(20180105 10:28による


福岡県の二丈町~佐賀県唐津市の七山村は白族系北辰信仰の神社ばかりであり白族の国だったのです。

赤胴鈴之助も千葉道場の門下だったのです…従って彼も妙見信仰を持つ白族だったことになるのです

564 唐津市の七山村~糸島市二丈町は妙見を奉斎する人々の国であった

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564 唐津市の七山村~糸島市二丈町は妙見を奉斎する人々の国であった

20180106

太宰府地名研究会 古川 清久


 太宰府地名研究会では福岡、熊本、大分を中心に月例のトレッキングを行なっています。

 天候にも左右され、実質、一日を要するトレッキングに多くの人々を集め毎月三ケ所に於いて神社、古墳…等の調査を続ける事は、その下調べや資料作成、コース選定から昼食場所、トイレの手配と実に気を遣いますので、実際には車一台程度の機動的な調査がやりやすいのですが、それでは波及力が欠け、独りよがりの思い込みに陥る事になります。

 ただ、毎回、三ケ所でやるべきかどうかは疑問であって、最も重要なテーマを持つ一ケ所に集中し、周辺では次の主要テーマへの下調べ、基礎調査として小規模かつ有機的に継続する方が良いのではないかと考える様になりました。

 ただ、それは個人的な考えであって、メンバーの皆さんとの中で自ずと決まって来ることなのです。

 これまで、私自身の作業としては阿蘇氏を中心として多くを書いてきましたが、多少遅れて、妙見信仰、北辰信仰を持つ白族系の人々こそが列島の最重要勢力であった事が分かってきました。

 つまり、ウマシアシカビヒコヂ⇔天御中主命、白川伯王~大幡主~豊玉彦=ヤタガラスへと繋がる勢力、熊野三山、忌部、下賀茂神社、上賀茂神社、妙見神社、白山姫神社、北辰信仰…の人々こそが、雲南省麗江から海南島を経由して阿蘇に入って来た(その後東行し熊野へ)阿蘇氏と雲南省昆明から海南島を経由し熊本に入って来た(その後北上)白族とが列島の主要民族となってきた事が見えるのです。


564-1

七山村馬川の馬川神社の三鳥居


 実は氷川を中心に八代から宇土に掛けての土地に展開したのが白族であり、この一帯には多くの白族系の神社が拾えるのです。

 一般的に秦氏と言われる人々が展開しているのは豊前であると言われますが、先住者として「瀛」の人々が展開している領域に、後から(秦が亡んで以降)「嬴」の一族(始皇帝の名は嬴政)が半島から入り京都に展開しているのです。

 少なくとも、不知火海東岸の八代~宇土と玄界灘に面した唐津から浜玉、七山、二丈の一帯が特に目立った白族の領域であった事が見えてきたのでした。

 してみると、九州の古代史でも重要なテーマである火の君が実はこの白族であったこと、糸島を支配していた一大率も含めた九州北岸の支配者もこの白族であったことが見えてきたのです。

 古代史でも文献史学だけで議論されている方には全く見えない世界が私達には見える様になってきたのです。そして、この白族でも最も重要な氏族の豊玉彦=ヤタガラス系の氏族こそが九州王朝を支え、橘氏=紀氏=石清水八幡宮系の人々であった事が分かって来るのです。たまにはトレッキング資料の一部をご覧に入れたいと思います。ただし今回の資料には神社の詳細については触れず場所だけを表しています。


564-2


564-3半島から対馬、壱岐を経て東松浦半島に入った魏使は、潮に乗って東の博多湾に向かえたはずですが陸路を通ったとされます。そこに住み着いていた人々が誰だったかを考えます。二丈町から七山村に掛けての一帯が大幡主系=豊玉彦(下賀茂神社)、崇神天皇系(上賀茂神社)系の人々が住み着いていた場所である事を確認するためのものでした。二丈町については春のトレッキングとしますが、二回に分けて七山村を中心に糸島~唐津に掛けてがいかなる領域かを確認します。



564-92017
1217日 日曜日
玄海、太宰府地名研究会トレッキング二丈七山の生白山宮を探る!」① 


2018年 121日 日曜日
玄海、太宰府地名研究会トレッキング二丈七山の生白山宮を探る!」② 


中島 茂が選ぶ「七山村の白山宮を探る!トレッキング」1217


集合場所:唐津市七山村 鳴神の庄 
佐賀県唐津市七山滝川1048-3 0955-58-2077


訪問予定の神社


 仁部の上下岩屋神社 ② 桑原の子安神社(賀茂族が祀る) ③馬川の宗五郎神社(八面権現)

④ 加茂神社 外… 


564-4中島)09052892994 参加費、資料代500


古川清久が選ぶ「七山村の白山宮を探る!トレッキング」121


集合場所:唐津市七山村 鳴神の庄 
佐賀県唐津市七山滝川1048-3 0955-58-2077


訪問予定の神社


 荒川の妙見神社 ②藤川の賀茂神社 ③白木の白木神社 ④浜玉町今坂の武雄神社

 寒い時期ですので三社詣りが終了した時点でななの湯で休憩します。入館料自前 510

温泉に入る方はタオルを持参して下さい。


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現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく5070万件になるでしょう…

トレッキング注意事項 玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば09062983254 古川までご連絡下さい。参加申込等:090-52892994(中島)

 今回のテーマは二丈町から七山村に掛けての一帯が大幡主系=豊玉彦(下賀茂神社)、崇神天皇系(上賀茂神社)系の人々が住み着いていた場所である事を確認するためのものでした。七山村については正月以降のトレッキングとしますが、古代の糸島~唐津に掛けての一帯がいかなる領域かを確認します。

郷の郷土及び八ヶ村の宗社として崇敬せり。祭日は春季御田祭三月十九日,例祭十月十九日なり。


以下は12月の第1回トレッキングの現場地図


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桑原は蚕を飼っていたから桑原で秦の始皇帝の元で、生糸の生産、絹織物の生産を行っていた人々=秦の始皇帝と姻戚関係を持った一族と後には秦の人々も入って来たのであり、大陸のヘブライ系氏族がヤタガラスの一族=賀茂族でった事が地名でも分かるのです。彼らは蚕も持ってきたのです。

 馬川の宗五郎神社(八面権現)


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今回で旧七山村の10社近くを踏破し、この一帯が天御中主~白川伯王~大幡主~ヤタガラス~といった白族系、熊野系、忌部、白山姫系の神社、上賀茂、下賀茂系で占められている事が確認できると思います。

 良く魏志倭人伝の松浦(末羅国)上陸以降のルートについて、何故、目と鼻の先の糸島まで船で行かなかったのかといった議論がなされますが、むしろ逆で、東松浦半島~唐津~旧七山村or旧二丈町(こちらは二月か三月に行ないますが、二月は佐賀県小城市の神社を廻る事にするかも知れないため…)の一帯は全て、白族系の集落に占められている事に気付かされるのです。

 つまり、この地域に呼び込み歓迎しながら伊都国に送り込んだ可能性があるのではないかと考えられそうなのです。

 すると、神功皇后紀の玉島神社周辺での故事で知られる「玉島」という地名も豊玉彦、鴨玉依姫との関係で考えるべき事が分かってくるのです。

 今回、再度、桑原の子安神社を再訪しますが、桑原と言う地名も、桑の木を植え蚕の生産から生糸生産、絹織物生産…による太秦の人々、下賀茂上賀茂神社、全体として秦氏、京都の繊維産業と言ったものにまで想像が及んでくるのです。

 5月に考えている熊本県氷川町流域が白族(白山姫)系の地である事と併せ考える時、如何にこれらの人々の影響力が古代にも強かったのかが見えて来るのです。

 どうやら、倭国から日本国と言う古代国家の成立過程の全期間を通じて影響力を維持し続けて来た人々こそ、この地に最初に住み着いた人々だったのではないかと言う想いを強くするのです。

 勿論、文献史学として頭の中で夢想されるのは良いのですが、唐津から糸島までの間がこの白族系統の祭祀で埋め尽くされているという衝撃の事実に気付く時(こんなことは百嶋由一郎氏の外誰も気づいていなかったのですし、実際、伝えてもおられなかったのです)、神社調査など全くできない人々が古代史をあれこれ考える事の危険性に改めて考えさせられるのです。

 今後とも、この白族の神社の調査を続ける必要性は極めて高いものと認識しています。

 ここには、荒川も白木も仁部も松坂も藤川も滝川も浮嶽も…気になる地名が揃っているのです。




564-132018年新春三社詣りも再び古川清久の選んだ七山村

の白族系神社を廻ります。


少数でも本気で神社を調べようとする方には真実の古代史が見えて来るでしょう。

新春1月にも七山村の神社トレッキングを行ないますが、同地域でも、最も重要な賀茂神社、妙見宮、白木の白山宮を巡ります。七山村は天御中主命、大幡主、ヤタガラスの王国なのです。


緊急時連絡 09062983254

スポット188(前) 赤村の超巨大古墳 ⑩ 僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(中)

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スポット188(前) 赤村の超巨大古墳 ⑩ 僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(中)

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。


再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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2018/03/20付 西日本新聞朝刊=

 今般の赤村の前方後円墳としか思えない巨大古墳状丘陵に関して、町興し村興し宜しく「卑弥呼の墓」といった噂が飛び交っているやにも聴き及んでいます。

 古代史の世界に多少とも関わった者として、地域振興のためのマヌーバとして、一時的に「卑弥呼の墓」…といったデマに近い話が流れる事が全く悪い事だとも思いませんが…(絹も鉄も出土しない奈良県桜井市の巻向遺跡や巻向古墳を卑弥呼の大城とか埋葬墓などとするような大嘘よりは余程真面なのですから)、この実に素人臭い卑弥呼の墳墓説には多少の気恥ずかしさを越え暴走にしか思えません。

 これについては通説派の考古学協会なども“どうせ素人ですから…”などと馬鹿にしきっている事でしょう。

行政や教育委員会や文化庁…といった悪の牙城が、これまで敵視続けて来た「九州王朝論」の探究などに踏み込むはずもなく、いずれはうやむやにしてしまう事でしょう。

ただ、卑弥呼の墓などといった説で大騒ぎしてしまう事は、通説派の揚げ足取りに手を貸す事にしかならないため、少しクール・ダウンの意味から石田さんのお話をご紹介する事にしました。

古田史学の会系の方なのですが、実際には下部組織の東海の会で活動されておられるようです。

 直接は元より、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)からも入れますのでお試し下さい。


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NEWSポストセブンの記事  2018/5/8() 午前 11:38


326日のNEWSポストセブンの記事の転載です。ただし、前方後円墳が卑弥呼の墓である可能性はほとんどないので勘違いしないように! 


福岡で卑弥呼の墓?発見か それでも調査の予定ない理由 2018.03.26 16:00


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古代史最大の謎がついに解明か──。福岡県の赤村にある丘陵をめぐって、西日本新聞が報じた「『卑弥呼の古代史最大の謎がついに解明か──。福岡県の赤村にある丘陵をめぐって、西日本新聞が報じた「『卑弥呼の墓では』巨大な前方後円墳? 謎の丘陵」(320日付)という記事が大きな話題を呼んでいる。
〈全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳『大山古墳』(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは『卑弥呼の墓では?』といった期待の声も聞かれる〉
 地域住民などによる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートルで、これは魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の直径の記録とほぼ一致するのだという。
 卑弥呼が治めた邪馬台国の所在地については、長く九州か畿内かで論争が続いてきたが、奈良盆地の纏向(まきむく)遺跡と箸墓(はしはか)古墳の調査が進んだことにより、近年は畿内説を有力視する声が強まっていた。しかし、この丘陵は、九州説巻き返しの切り札になる可能性を秘めているという。
「福岡は志賀島で漢の皇帝から送られた金印が見つかるなど、古代の中心地だったことは間違いない。この丘陵がもし前方後円墳だということになれば、再び九州説の可能性が高まることになり、古代史ファンとしては夢のある話です」                      (歴史研究家の河合敦氏)


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卑弥呼の墓? 巨大古墳? 注目すべき 宮原遺跡 •           2018/1/6() 午前 2:03

<復習と再考>仁徳陵で記したとおり、履中陵も「御陵在毛受也」「葬百舌鳥耳原陵」とあって、仁徳陵と同じく「モズ」に関わる地名のところ、すなわち物部一族の百舌鳥氏に関わるところです。

具体的には、北部九州の遠賀川流域、物部氏の本拠地です。

北部九州の香春町にある百舌鳥原の地名は、このあたりに、仁徳陵を始め、履中陵、反正陵があったことを想起させます。

 福岡県田川郡香春町には「河内王陵」と呼ばれる古墳があり、通称は「外輪崎古墳」とされています。被葬者は明らかではありませんが、宮内庁では陵墓参考地として「勾金陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇 皇孫長親王王子河内王)として治定されています。ただし、この古墳は、6世紀後半の円墳とされます。

 とすると、天武の王子の時代である7世紀とは異なります。また、仁徳の時代とも合いません。いったい誰の古墳でしょうか。


<河内王陵>


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Google mapによる。以下同じ。


ところが、香春町には、このほかにもっと注目すべき古墳があります。

 香春町教育委員会によれば、香原町の宮原遺跡(みやばるいせき)(福岡県田川郡香春町宮原大字採銅所4925)から、弥生の箱式石棺が4基のほか長生宜子銘内行花文鏡や壽如金石銘内行花文鏡等の青銅鏡、鉄剣(又は鉄刀)が出土していると報告されています。

 その出土地点には、次の写真にあるとおり、100m以上の大きさと思われる方円墳(前方後円墳)とおぼしき地形(以下「宮原古墳地形」と呼ぶ)がくっきり見てとれることから、築造時期や被葬者が気になるところです。

 左手前側が方円墳の円にあたるところで、方にあたる部分と共に開墾されています。


<宮原遺跡・宮原古墳地形>


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さらに、この宮原遺跡の東にも、宮原古墳地形とは逆向きに方円墳らしき形状が認められます。こちらについては遺跡かどうかもわからず、調査がされていないようですが、こちらも注目されます。


<宮原古墳地形の東>


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この南方には、さらに注目すべき古墳や古墳地形があります。次回、示します。

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新聞記事「卑弥呼も供えた?モモ」                 2018/5/15() 午後 11:33


中日新聞 20180515日付 朝刊の記事


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これがどうして邪馬壹國畿内説を補強することになるのでしょうか。

だいたい2010年に発掘したモモの種の年代調査に8年もかかるものなのでしょうか。今頃わかって新聞記事にしたのでしょうか。

九州と畿内

 纒向遺跡は大集落と言われながら、実際には、人の住む集落跡が確認されていません。また、現在確認されているのは、建物と土抗、弧文円板、鶏形木製品、土器などであって、その出土物の文化的水準は、吉野ケ里遺跡とは比べようもないほど低いです。

 纒向遺跡があたかも、卑弥呼と大いにかかわるような見出しですが、纒向遺跡では、朝鮮半島の遺物は、ほぼゼロです。半島との交流がない証拠です。とすれば卑彌呼とかかわらない遺跡だと思いますよ。

 少量の韓式系土器が出土されたとしますが、本当に朝鮮半島のものか不明であり、また少量であっては朝鮮半島との交流があったとはいえないでしょう。

 要するに、この記事の示すところは、2010年に発見されたモモの種が西暦180年前後のものと判明しただけであって、卑弥呼や邪馬壹國にかかわるとは全く思われません。

 纒向遺跡は、すでに100回以上の調査を実施しているものの、土器を中心とした遺物しか見つかっておらず、その土器も85%~90%は大和の土器で、一部に他の地域のものも含まれるということですね。

 関東から九州までの各地で作られた土器が纏向遺跡に集まっていると説明されると、纏向遺跡が日本列島の交流拠点であるかのように錯覚します。

 実際は、たとえば桜井市埋蔵文化財センターには、九州の土器は大分県出土の土器に似たかけらが展示されているのみです。どうみても纏向遺跡の外来系土器について、正確性を欠く情報を意図的に発表しているように思います。

 纏向遺跡では、祭祀で巫女が身に着ける勾玉や管玉などのアクセサリー類や銅鏡のほか、銅剣、鉄器などは発見されていません。

 これに対して、同時代の吉野ケ里遺跡では、勾玉や管玉などのアクセサリー類や銅鏡はもちろんのこと、鉄器、銅剣、織物、布製品など装飾品が種類、量ともに豊富であり、その差は歴然としています。

 また、吉野ケ里遺跡では、国内の他の地域や中国、朝鮮半島との交流、交易を示す遺物が数多く発見されており、はっきり言って、纏向遺跡は同時期の九州の遺跡より文化的に遅れており内容物も貧弱であり、とても邪馬壹國や卑彌呼とは関係するとは思えません。

新聞記事の「正確と公正」

 この新聞記事は、「正確と公正」をいう新聞倫理綱領に反していると思います。新聞倫理綱領にそって、「正確と公正」の立場から、近畿説と九州説の両方の意見を載せるべきでしょう。偏向報道や印象操作はやめましょう。

 「NHKNEWSWEB」では、邪馬壹國畿内説の桜井市纒向学研究センターの寺澤薫所長のコメントのほかに、”邪馬台国九州説の研究者「卑弥呼明確には結びつかず」 の小見出しをつけて、次の記事を載せています。

 邪馬台国が九州にあったとする説を唱える、佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は、「参考になる研究成果だが、邪馬台国の所在地や卑弥呼と結びつく明確な材料はなく、今回の成果で論ずるのは無理があるのではないか」と話しています。

 これが報道の正しい姿だと思います。

 一応、「新聞倫理綱領」の一部を載せておきましょう。

日本新聞協会の新聞倫理綱領 2000(平成12)年621日制定

<正確と公正>

 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。

<独立と寛容>

 新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。



スポット188(後) 赤村の超巨大古墳 ⑩ 僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(中)

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スポット188(後) 赤村の超巨大古墳 ⑩ 僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(中)

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久

「径」の事例2                            2018/5/11() 午後 6:26

(2)例2

 少しわかりにくいかもしれませんが、「径」が円の直径を表している二つ目の事例です。


 
太祖行酒,韋持大斧立後,刃徑尺,太祖所至之前,韋輒舉斧目之。
        
(中華書局版『三國志』魏書、二李臧文呂許典二龐閻傳、544)
 
太祖、行酒のとき典韋は大斧を持ち後ろに立つ。刃径は一尺あり、太祖が至る所の前(さき)、典韋はそのたびに斧を挙げてこれを睨む。

(読みは泉城、以下同じ)


 太祖とは曹操(そうそう)のことで、この記事は、曹操が荊州を討伐できたことを喜び、降伏した張繍(ちょうしゅう)やその将帥等を招いて宴会を催した際の話です。

 太祖・曹操が酒を注ぎに回る先々で、典韋(てんい)は大斧を持って曹操の後ろに立ち張繡らを睨みつけました。そのときに持ち上げた斧の刃径が一尺であったということです。


 問題は、この刃径です。

 古代中国の斧の形は、現在私たちが知っている長方形の形をした斧ではありません。イメージ図はこんな感じです。


<古代中国の斧>


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ですからこの刃径を刃渡り、つまり刃の部分の長さを示していると捉えるのは間違いのようです。
 矛の中でも刃が長いものは「長矛」と記され、「大矛」とは記されません。
 如立大邏便,我必守境,利刃長矛以相待。
                      
(中華書局版『北史』列傳第八十七、突厥、3290頁)
 大邏便を立てるが如く、我々も必ず境を守り、よく切れる刃の長矛を以て相待つ。


 これは、突厥(とっけつ)の第4代の王、他鉢可汗(たはつかがん)が亡くなり、国中は第3代の王の子、大邏便(たいらへん)を可汗にしようとしたのに対して、大邏便の母が卑しい身分の出身だったので、菴羅(あんら)の従兄の攝圖(せつと)は、他鉢可汗の子の菴羅を推挙しました。

 この記事は、大邏便から菴羅を守るために攝圖が言った言葉です。

 ですから、相手への毅然とした態度を示すために、よく切れて、長い刃の矛を以て対峙すると言ったわけです。

 このように刃が長い武器の大きさを示すときには「長」を使います。しかし先の例2の記事では「長」ではなく「大」が使われ「大斧」とされます。したがって、「大斧」の刃の大きさを表すときには「刃長」ではなく「刃径」とされています。

 というのも、中国の文献では、刃の長さ、刃渡りを示すときには、「刃長寸」「刃長丈六尺」「刃長至一尺」「直刃長八寸橫刃長六寸」のように「刃長」と記され「刃径」とは記されません。「大斧」だからこそ刃渡りで示すのではなく「刃径」が使用されています。

 古代中国で使用されていた斧は、半月のような形の半円や、半月の刃が柄の両側にある両刃の形をしていますので、「刃径」とは、この半円や両刃の形を真円にたとえた場合の直径で表しているのです。

 ここでは斧の「刃径」を一尺とします。魏代の尺は約24㎝ですので、もし「刃径」を刃渡りとするならば、弦の長さが24㎝となりますから、やや迫力に欠ける気がします。この「刃径」を例えば半円の形と見立てた時の直径とすると、半円周は、πrの数式でしめされますので、半円の弦の長さは、半径約12㎝の3.14倍、つまり刃長は1.5倍以上の約38㎝弱になります。

 要するに、この記事の「刃径」は、斧の刃が丸い形状をしているので直径で表し、大きさを特定しているのだと思います。

 以上の2つの例、とりわけ例1の「珠」の記事は、卑彌呼の冢の大きさを表している「径」が前方後円墳の全体の長さや、後円部だけの一部分の長さを示したものではなく、円墳の直径を示していると理解すべきでしょう。卑彌呼の冢の「径」を前方後円墳の円墳部分と捉える恣意的な解釈は大いに問題です。

 卑彌呼の冢の記事では、冢の大きさが「径」と記され、これは直径のことを表していると理解されますから、卑彌呼の冢は円墳が妥当と考えます。


卑彌呼の冢 2018/5/9() 午後 9:55

1 はじめに

 卑彌呼の冢(ちょう)


卑彌呼  
 

「大いに」の続きの続き

中国史書において「大冢」と記述があるものには、秦武王を始め、前漢の明帝や周景王などの墳墓がありますが、具体的な規模がわかりません。
 「大墳」の例ではありますが、ほぼ確実に規模がわかる一例について次に示します。
  起大墳于縣城南,民號曰竇氏青山  
 (中華書局版『後漢書』冀州、安平國、3435)
  縣城南に大墳を起こす。民は號して竇氏青山と曰う。

 

河北省衡水市武邑県城南にある、前漢の文帝の皇后である孝文竇皇后(こうぶん・とうこうごう)の父の墳墓です。父は早くに亡くなっており、その墳墓は孝文竇皇后が皇太后となってから作られたものです。

 竇氏青山墓(とうしせいさんぼ)と名付けられ、別名を安成候墓といいます。

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古い看板から

新しい石碑に


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封土で作られ、高さ41.4m、周長が600m以上であったとされます。

 不整形であり円墳に相当すれば直径200m程度となります。(現在は高さ22.9m,周長490m,敷地面積36,582m2

ちなみに、文帝陵は、質素倹約のため自然の山を利用して陵墓にしており、先に示した呉や魏の皇帝の墳墓より、はるかに巨大です。

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2018415日現在のネット・ワークです

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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では年間200300万件のアクセスはあるでしょう。

スポット189 赤村の超巨大古墳 ⑪ 僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して…(下)

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スポット189 赤村の超巨大古墳 ⑪ 僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して…(下)

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。


再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


 今般の赤村の前方後円墳としか思えない巨大古墳状丘陵に関して、町興し村興し宜しく「卑弥呼の墓」といった噂が飛び交っているやにも聴いています。

 古代史の世界に多少とも関わった者として、地域振興のためのマヌーバとして、一時的に「卑弥呼の墓」…といったデマに近い話が流れる事が全く悪い事とは思いませんが…(絹も鉄も出土しない奈良県桜井市の巻向遺跡や巻向古墳を卑弥呼の大城とか埋葬墓などとするような大嘘よりは余程真面なのですから)、この実に素人臭い卑弥呼の墳墓説には多少の気恥ずかしさを越え暴走にしか思えません。

 これについては通説派の考古学協会なども“どうせ素人ですから…”などと馬鹿にしきっている事でしょう。

行政や教育委員会や文化庁…といった悪の牙城が、これまで敵視続けて来た「九州王朝論」の探究などに踏み込むはずもなく、いずれはうやむやにしてしまう事でしょう。

ただ、卑弥呼の墓などといった説で大騒ぎしてしまう事は、通説派の揚げ足取りに手を貸す事にしかならないため、少しクール・ダウンの意味から石田さんのお話をご紹介する事にしました。

古田史学の会系の方なのですが、実際には下部組織の東海の会で活動されておられるようです。

 直接は元より、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)からも入れますのでお試し下さい。


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5 墳と冢 つづき                          2018/5/23() 午後 9:17

 「冢」と「墳」について、『広辞苑』第四版では、「冢」は「土を高く盛って築いた墓、また単に、墓のこと」とあり「墳」は「土を盛り上げた墓」とあります。

 また、最古の部首別漢字字典『説文解字』(西暦100年成立)にて文字の意味を確認します。

  冢:高墳也。从勹聲。(中國哲學書電子化計劃、5783頁)

  墳:墓也。从土賁聲。(同、9095頁)

 陵:大𨸏也。从𨸏夌聲。(同、9569頁) 

 𨸏:大陸,山無石者。象形。凡𨸏之屬皆从𨸏。(同、9568頁)

「冢」は、「高い墳」を意味し、文字は「勹」と「」から成り「(ちょう)」が声音とあります。「冢」が本字で「塚」は、その異体字です。

 「墳」は、単に「墓」とあります。「土」と「賁」から成り「賁(ふん)」が声音とあります。

 つまり『説文解字』においては、「墳」には、「高い」や「大きい」の意味はありません。一方、「冢」は高い墳で、墳は墓を意味しますから、「冢」はすなわち高い墓です。

 なお、「陵」は、「大きな丘」を意味し古代も現代も意味に変わりはありません。


│区分│説文解字(古代)│ 広辞苑(現代) 

│冢 │高墳也(高い墓)│土を高く盛って築いた墓、また単に墓のこと

│墳 │墳也 ( 墓 ) │土を盛り上げた墓 

 「冢」は、古代には、高い墳だけを意味していたのが、近代では単なる墓をも意味するように意味が広がったようです。これに対して「墳」は、古代には単なる墓であったのが、土を盛り上げた墓に意味が限定されたようです。

 いずれにしても、古代では「高く盛った」のは「冢」の方です。したがって、古代における文字の意味としては、「冢」の方が「墳」より小さいとはいえません。むしろ「冢」は、高く盛られていたようです。


6 冢の高さ                             2018/5/24() 午後 1:50

「冢」は、棺を納める程度で足りるから、あまり高くないという宝賀氏の主張は、一般論としては十分に理解できます。しかし、『三国志』においては、明らかに陵墓とわかるものに、高さの記載が1か所もありませんし、「大作冢」と特殊な記載をした例もありませんので、卑彌呼の冢について高さが記述されていないから、あまり高くなかったという推論には不満です。

 先の「5 墳と冢」の項目で、古代における「冢」と「墳」の文字の違いを示したように、「墳」が単なる墓の意味であったのが「冢」は高い墓の意味であったので、むしろ「冢」の方が「高い」という意味合いが強いようです。

 倭人の冢について、次の記事があります。
 其死,有棺無槨,封土作冢。

(中華書局版『三國志』魏書、烏丸鮮卑東夷傳、855頁)


 倭人の冢は「封土」で作られているとされます。同様に、卑彌呼の冢についても「封土」で作られていることは言うまでもありません。「封土」は墳墓の盛り土をいいますから、ニュアンスの問題ですが、卑彌呼の冢には、高さがあまりないというよりは、一定の高さがあったと理解するほうが妥当です。

 また、卑彌呼の冢の大きさによっては、面的な大きさに比例して高さも増すことが考えられます。


7 墳墓の規模についての具体例                    2018/5/24() 午後 1:50

 宝賀氏は、先の論考で九州北部における弥生時代の墳墓の大きさについて、次のように具体例を示されています。

早良平野の樋渡遺跡(福岡市西区)の墳丘墓では、径二五~二六Mの楕円形土盛りであり(王巍氏は、東西約二四M、南北約二五Mの方形という)、高さが約二・五Mであって、中央部に木棺一基、少し離れて石棺が一基あり、甕棺も二五基以上(そのうち、六基に前漢鏡・銅剣・鉄剣などの副葬品がある)とされる。

<中略>

 佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、樋渡遺跡より格段に進んだ「版築」という大陸系の技法をもち(古墳にはよく見られるが、弥生遺跡では初めて確認された)、規模もさらに大きくなる墳丘墓が見つかった。環濠集落の北部にあって一番見晴らしの良い場所に位置する墳丘墓は、南北約三九M、東西約二六Mの長方形であり、現在の高さ約二・五M、本来では約四・五M以上だったとみられている。墳丘は地山整形したのち、黒色土を高さ一M強ほど積み上げ、さらにその上に版築状に盛り土をしている。このなかに十四基の甕棺墓が確認され、うち八基から銅剣などの副葬品が発見された。また、この墳丘墓の南約一キロの地点でも、ほぼ同時期の墳丘墓が発見されており、一辺三四Mの方形で現存の高さが約一Mとされる。

 <中略>

 こうした事情からみると、卑弥呼の墓が弥生後期ないし終末期の北九州にあったとする場合には、規模では最大三〇ないし四〇Mほどの径であって、封土の高さが最高で五Mほどとなろう。

要するに、冢の大きさについて、九州北部の弥生後期のいろいろな墳墓の具体例から、最大で40m、高さ5m程度であるので、卑彌呼の冢もその程度であるとされます。

 現在認められる九州北部の墳墓は巨大ではないとの状況は理解できますが、卑彌呼の冢がそれらの事例と同程度というのには疑問があります。

 というのも、例示された墳墓の樋渡遺跡や吉野ケ里遺跡の墳丘墓については、規模が最大40mほどですが、埋葬数は、樋渡遺跡が25基程、吉野ケ里遺跡の墳丘墓が14基であって、卑彌呼の冢の「殉葬者奴婢百餘人」には到底及びません。殉葬者数からして、卑彌呼の冢はもっと面的に広がりがありそうです。


大作冢8 「大いに」                         2018/5/28() 午前 8:03

古田氏は、先の著書において「大いに冢を作る」の記述に関して次のように説明されています。

 もっとも、読者の中には、つぎのような疑問をもつ人もあるかもしれない。“三十メートル程度の墓では、「大いに冢を作る」とは、いえないのではないか”と。

 これに対して二つの側面から考える必要がある。

 その第一は、「仁徳陵」や「応神陵」のような巨大古墳の存在を見た、その「同じ目」で、この「大いに」という修飾の文字を見てはならない、ということである。

   <中略>

 第二に問題とすべきは、この一句の正確な文脈理解である。

 これは、「大作レ冢」(大いに冢を作る)であって、「作二大冢一」(大いなる冢を作る)ではない。つまり、「大いに」という形容詞は「作る」という動詞に対する副詞的修飾語であって、「冢」に対する形容詞的修飾語ではない。

 だから、陳寿が「大」という表現を与えているのは、国家と民衆が寄りつどうて卑弥呼の墓を作った儀礼・労働全体の動きに対してである。当の墓はそのものに対しては、陳寿自身はけっして「大きな冢」という表記を与えていないのである。

 ここでは、近畿にある巨大古墳に惑わされて「大いに」を理解してはならないということと、「大作冢」(大いに冢を作る)は、「大きな冢」ではなく、大いに造墓に励んで冢を作ったという意味であると指摘されていると思います。

 いずれにしても、「大作冢」(大いに冢を作る)の解釈の問題になります。

 確かに「大作冢」の文法は、古田氏の指摘されるとおりで、多大な労力を要したということでしょう。ただし、この「大作冢」の記事は、中国正史の中で、『三国志』の本文に記された唯一の記事ですから、たいへん注目すべき特別な記事です。

 大いに労働に励んで卑彌呼の冢を作れば、それはやはり大きいサイズになるのではないでしょうか。つまり、 「大作冢」の記事の意図は卑彌呼の冢を作るのに多くの労力を使い、ことさら大きい塚となったために記されたと推測します。


8 「大いに」の続き

 「大作冢」の記事は、『三國志』の本文ではありませんが、次のとおり挟註に1か所のみありますので、参考のために書かれている内容を検討します。

 會夫人死,晧哀愍思念,葬于苑中,大作冢,使工匠刻柏作木人,内冢中以為兵衞,以金銀珍玩之物送葬,不可稱計。已葬之後,晧治喪於内,半年不出。國人見葬太奢麗,皆謂晧已死,所葬者是也。        
                  
(中華書局版『三國志』呉書、妃嬪傳、1202頁の挟註)
   

 夫人の死に合い、孫皓は哀愍(れんびん)思念し苑中に葬り大いに冢を作った。工匠を使い柏を刻み木人を作って冢の中に内し兵衛と為す。計りしれないほどの金銀珍宝を以て葬送す。葬儀の後、孫皓は、冢の内にて喪し半年出ず。国の人、葬儀の太く奢麗を見て、皆、孫皓は既に死すと謂いて、葬する所は是なり。

 孫晧(そんこう、三国時代の呉の第4代皇帝)は、殺害してしまった夫人を後になって懐かしく思い、その姉を強引に左夫人(第2夫人)としました。孫晧は、その夫人を溺愛したといいます。

 彼女が死ぬと、孫晧は嘆き悲しみ大いに冢を作り、莫大な金銀宝物と共に埋葬しました。その葬儀があまりにも豪奢だったので、人々は孫晧本人の葬儀と勘違いしたということです。

 したがって、ここで使われている「大作冢」は、古田説の大きな労力を使って冢を作ると理解するのが適切です。結果として、その冢は大きな冢であると私は考えます。

 というのも、その冢の中には木で作った衛兵を納め、さらには皇帝が半年もの間、隠(こも)ことができるほどのものとされますので、高さも含めて、それ相応の大きさがあったと推測されます。


 現在想定されている中国の皇帝の墓、たとえば、呉の第3代皇帝孫休の墓と目される安徽省鞍山市当涂県の墳墓は44×30mほどの大きさであり、また、魏の武帝、曹操の墓と目されている中国河南省安陽市安陽県西高穴村の墳墓が最大長60mとされます。

 しかし、これらの墳墓は「大作冢」とも「大冢」や「大墳」とも記されていません。孫晧の夫人の場合、「大作冢」と記されたのは、これらの墳墓よりは大きかったからだと考えられます。

 また、卑彌呼の冢は、孫晧の夫人の冢が大きさを示されていないのに対して、わざわざ「径百余歩」と冢の大きさを記していますので、具体的にその規模が大きいことを示したかったから特筆されたのではないかと考えられます。


2018415日現在のネット・ワークです

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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200300万件のアクセスはあるでしょう。


565 クマリの団扇に六芒星が…

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565 クマリの団扇に六芒星が…

20180111

太宰府地名研究会 古川 清久


 NHKの正月番組(BSスペシャル)の二時間番組でネパールの生神様「クマリ」のドキュメントが放映されました。


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百嶋先生からの話として聴いていましたが、芸人とオカマと外人とハーフに化け物 で仕立てられる馬鹿番組や手抜き番組ばかりが怠惰に流される中でしたので、これは良い機会を得た見せて頂きました。

 ネパールの「クマリ」とは何か…と不信に思われる方は多いと思いますので、まずは、一般的な解説から見て見ましょう。


クマリKumariKumari Devi)は、ネパールに住む生きた女神である。密教女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが宿り、ネパール王国の守護神である女神タレージュやアルナプルナの生まれ変わりとされており、国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が初潮を迎えるまでクマリとして役割を果たす。中には初潮が来ず、50歳を過ぎてもクマリを務めているケースもある。

カトマンドゥのクマリの館に住む国王もひれ伏すロイヤル・クマリが最も有名であり、国の運命を占う予言者でもある。クマリという場合、概ねロイヤル・クマリを表す(ネパール国内の村や町にも多数存在するクマリはローカル・クマリと呼ばれている)。

先先代のロイヤル・クマリは2001710日に当時4歳で選ばれたPreeti Shakya、先代のロイヤル・クマリは2008107日に当時3歳で選ばれたMatina Shakyaであった。2017929日にTrishna Shakyaが3歳で新しいロイヤル・クマリに選ばれた。

9月に行われるインドラ・ジャートラーの大祭ではクマリが主役となり、王がクマリの元を訪ね跪き祝福のティラカ(Tilaka)を受ける。 顔は額から鼻筋にかけて赤い化粧が施されている。

ウィキペディア(20180111 23:18による


 一応、主だったメンバーに「クマリ」を見る様に連絡したのですが、それほど見て頂いた訳でもないでしょうが、ユーチューブでもある程度は把握できるため、そちらを見て頂ければそれで良いのかも知れません。


釈迦族(しゃかぞく、Śākyaシャーキャ)とは、古代北インドの一部族・小国である。釋迦族シャーキャ族とも。

インドではサンスクリット語शाक्य (śakya, シャーキャ) パーリ語 sākiya(サーキヤ)と言い、「有能」という単語に由来する。

概説[編集]

仏教の開祖ガウタマ・シッダールタが属していたことで有名である。

前6前5世紀ころ、インドの地には大小さまざまな国がひしめいていた。シャーキャはカピラヴァストゥに都を置き、ヒマラヤ山麓にあった。(場所は現在のインドネパールの国境地帯にあたる)。そして西隣のコーサラ国の支配下にあった。

シャーキヤ族は、政治形態としてはサンガを採用していた。つまり専制的な王を持たず、部族民の代表たちが集会堂に集まって政策を決定していたという。

系統[編集]

伝説では、アーリヤ人クシャトリヤ王統に属すると言われる。

一説には、日種英語版 (: sūryavaśa, : ādiccagotta) に属し、甘庶王英語版)(かんしょおう、オッカーカ)系といわれる[2][3]

漢書張騫伝の「塞王」について、顔師古による注は「即ち仏経に釈種と謂う所の者。塞・釈は声(発音)近く、もと一姓なるのみ。」とあり、塞(そく)と呼ばれる種族(サカ)と釈迦族がもとは同じ民族であったとしている。サンスクリット文法上は śākya(シャーキヤ)を śaka(シャカ(=サカの梵語形))の派生語とするのは自然であるが[4]、サカ族がインドに到達したのは紀元前2世紀で、仏陀の時代よりはるかに後であるという問題がある。

歴史家の中には、チベット・ビルマ系だと見なす人もいる。

釈迦族

釈迦族の家系は、経典によって内容に差異があるが、『佛本行集経』賢劫王種品・第三などによると、

衆許大転輪王 - 27- 大須弥小轉輪王 - 18 - 真生王 - 31 - 茅草王 - 甘庶王 - 別成王 - 拘盧王 - 瞿拘盧王子 - 獅子頬王

と続いている。この獅子頬王に四男一女(浄飯王・白飯王・斛飯王・甘露飯王・甘露味女)がいたとされる。

『起生経』では次のとおり。

甘庶種王(不善長) - 足瞿 - 天城 - 牛城 - 広車 - 別車 - 堅車 - 住車 - 十車 - 百車 - 九(十)車 - 雑(色)車 - 智車 - 広弓 - 多弓 - 兼弓 - 住弓 - 十弓 - 百弓 - 九(十)弓 - 雑(色)弓 - 智弓 - 獅子頬 - 浄飯

なお浄飯(シュッドーダナ)を父としてゴウタマ・シッダールタは生まれた、とされる。

逸話[編集]

律蔵』の「小品」には、釈迦族の青年たちの出家について述べている箇所があり、パッディヤ、アヌルッダがそろって出家したときの逸話なども書かれている。

釈迦族は自尊心が非常に強い民族だった、といわれる。釈迦が成道後、カピラ城に帰った際にクシャトリアである諸王子を差し置いてシュードラ出身の優波離が先ず弟子となった後に、諸王子が仏教の教団の伝統に基づき、阿難など諸王子達が優波離に礼拝して末席に連なったことから、釈迦仏が「よくぞシャカ族の高慢な心を打ち破った」と讃嘆したという。

シャカ族がコーサラ国の毘瑠璃王によって滅ぼされたのも、もとを正せば、この自尊心の強さによる高慢心が原因だったといわれる。

コーサラ国のヴィドゥーダバ王子は、コーサラ国のプラセーナジット王とシャカ族の女性との間に生まれた子であった。ヴィドゥーダバ王子は、ある時シャーキャ国の都カピラヴァストゥを旅していたが、その時シャカ族のなかに心ない陰口を言う者がいたという[6]。「ヴィドゥーダバ王子の母親というのは、シャカ族指導者マハーナーマンが召使に生ませた娘だ」などとシャカ族の者が馬鹿にするように話すのがヴィドゥーダバ王子に聞こえ、それをきっかけにしてヴィドゥーダバは母親・父親・シャカ族を憎み、いつかシャカ族に復讐してやると心に決めた、という。やがてヴィドゥーダバは父であるコーサラ王プラセーナジットから王位を奪い、プラセーナジットは失意のうちに死去。王になったヴィドゥーダバは大軍を率いてカピラヴァストゥに攻め込んだとされる。

釈迦族のその後[編集]

仏教文献等によると、釈迦族は釈迦の晩年の時期、隣国コーサラ国毘瑠璃王(びるりおう、ヴィドゥーダバ)の大軍に攻められ滅亡したとされる。

異説も有り、滅亡したのではなく、生き残った四人の王族がヒンドゥー教に改宗して釈迦族は存続したという伝承も存在する。

シャカ族で生き残った4人の男子は、それぞれ他の国へ行って、みなその国の王になったと伝える説も。

インドのウッタル・プラデーシュ州南部には釈迦族を自称する一族が現在も住んでいる。

ネパールのパタンネワール族のサキヤ・カーストという職人たちが存在している。このサキヤ・カーストは、コーサラ国によって滅ぼされたサーキャ族の末裔だと信じられている。パタンではネパールの他の街にくらべて仏教徒の割合が高い、という。そしてこのサキヤ・カーストは仏像や彫刻を彫ることで、古代仏教の伝統を今に伝えている、という。

ウィキペディア(20180111 23:18による


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ネパールでもインド国境に近いルンビニにいた非アーリア系氏族(釈迦族=決して多数派と言う意味ではないのですが)の釈迦族王子ゴウタマが釈迦牟尼、釈尊(まあ「仏陀」でも良いでしょうが)が仏様、御釈迦様になるのですが、一般にはネパール王国(現在では王制は廃止)から仏教が始まったと考えられています。

 実は、この釈迦族の中から今回取り上げた生き仏のクマリも選ばれる事になっているのです。

 ただ、この「生仏」(活仏)は何故か女の子であって、月経の始まりによってクマリではなくなるのです(閉経が無かったり異常に遅れた場合はどうするのかと心配しますが、それは下種の勘繰りになるでしょう)。

それはともかく、彼らが太陰暦(「ヴィクラム暦」ネパールの公式の暦)使っている事とも関係がありそうです。

 この仏陀を生み出した釈迦族を紛れもないイスラエル系氏族であると言ったのも故)百嶋由一郎氏でした。

 その話が今も耳に残っていますが、今回NHKのBS放送を見て確信を持つに至りました。

 恐らく、百嶋先生は直接カトマンズにも足を延ばしその感触を得ておられたのだと思います。


 今回報道に関して

関東の565-3565-4の二氏にもご連絡したところ、私はblogを書きながら好い加減に見ていたのですが、お二人は丁寧に見ておられたのでしょう。

常陸の国探検隊のK氏は、傍らに於いた携帯で直ぐに撮られたと見えて、クマリの団扇に刺繍された六芒星を見逃さず、テレビの映像を撮影されたのでした。それを送って頂いたのが以下の写真です。

 一方、宮古の縁側日記女史は 早々と Gautama Siddhartha を最新版としてオンエアされています。

 宮古の縁側日記最新版 №65 Gautama Siddhartha も併せお読み頂きたいと思います。


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お分かり頂けると思いますが六芒星がはっきりと映っていたのです


 少なくともクマリを釈迦族から選ぶ習慣(戒律)が残っている事から考えて見ても、この釈迦族が紛れもないイスラエル12氏族の一つであろうことは疑い得ないのです。


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ネパール人=釈迦族とは言えないが…日本人にも良く似ていますね

566 田川市の鏡山神社もカカの山だったのか?“故)吉野裕子(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山

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566 田川市の鏡山神社もカカの山だったのか?“故)吉野裕子(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山説

20180113

太宰府地名研究会 古川 清久


この間、何度か民俗学者の故)吉野裕子による「カガミ山」=蛇山説の事例を取り上げてきました。


ひぼろぎ逍遥

257

日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」と

する民俗学者吉野裕子説から”

392

佐賀県唐津市の鏡山はカカ(蛇)を見る山だった

539

鏡神社は 何故 鏡神社なのか?"佐賀県佐賀市三瀬村の鏡神社"

561

佐賀県にもう一つの鏡山を発見した “故)吉野裕子

(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山説


お読みでない方はこれらをお読み頂きたいのですが、2018年の1612日に掛けて大雪を覚悟した但馬の神社調査に行ってきました。

九州島に戻った後の帰りは、行橋~田川~飯塚~小郡を経由し久留米に向かう事にしました。

過去何度となく通った道ですから、仲哀トンネルを貫け田川に入って来ると右手に香春岳が見えその手前に鏡山神社があり、多くはありませんが何度か参拝させて頂いてもいます。

ただ、この神社が何故鏡山神社と呼ばれているかについては、“仲哀トンネル(峠)や神功皇后による鏡の奉納といった話があり、そうかも知れないなあ…”などとあまり深く考えもせず判断を保留してきました。しかし、どうやらそうではない事に気付いたのでした。

冒頭に書いた通り、民俗学者の吉野裕子(故人)は、蛇は「カカ」であり、一本足の案山子も「カカ」の「シ」「シト」(ツヌガノアラシトも「シト」ですね…)「カカノシ」(カカノ氏)であり、正月のお鏡餅も縁起の良い(餅を好む稲作農耕民にとっては穀物を食い荒らす鼠や虫や鳥を退治してくれる蛇を豊穣のシンボルとした)トグロを巻いた蛇の姿を模したものであるとしました。

神社研究として一旦は、神功皇后に準えた説話を受入れたのですが、ここでも吉野裕子説の方がより説得力がある事に気付き、今回、鏡山=カカ+巳山説としたいと思います。


仲哀天皇の御代、天皇は神功皇后と共に熊襲を御征伐になられたが、やがて陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲の叛服常なきは新羅の後援によるものとて、御親ら男装し舟師をひきい新羅に向はせられた。その途路、此の岡に天神地祇を祭り、必勝を祈願し御魂代として御鏡を鎮め給ひ崇め給いしが、御社の草創と伝えられるが、祭神は神功皇后を主神に仲哀天皇及び応神天皇(西暦二七〇年)を併祀せられたる神社にして御鎭座より此の方一千七百余年を閲する御宮居である。

神主は鶴賀氏が兼務であり、氏に、より深い由緒を確認したのだが、伝わっていないとの事であった。また現人神社の祭神の都怒我阿羅斯等からのツルガではと問いかけたが、付会であろうとの事であった。なお香春神社の隣の家も鶴賀氏で、神主さんのようだ。


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鏡山神社 カーナビ検索 田川郡香春町大字鏡山字南原705


豊前国風土記逸文

田河の郡。鏡山。昔、気長足姫尊(神功皇后)がこの山にいらせられて、はるかに国状をご覧になり、祈って申されるには、「天神も地祇も、私の(新羅征伐の)ために幸福を与え給え」と。そして御鏡をもってここに安置した。その鏡は化して石となり、現に山の中にある。それで名づけて鏡山という。(『万葉集注釈』三)         敬愛する「神奈備」による  まさか、鏡とは御鏡餅ではないでしょうね。


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これを見るとどう見ても山が御神体にしか見えないのですが


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写真が見つからないので「ひもろぎ逍遥」様から借用しました


まずは「福岡県神社誌」中巻210pを見ることにします。


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神功皇后と仲哀を祀る神社である事は説明がいらないほどですが、それは1700年前から始まった事であって、それ以前は別の祭祀が存在していたのではないかと考えるに至りました。

それは、以前のフィールド・ワークから、この一帯にはツヌガノアラシトこと神武僭称 贈)崇神を奉斎する現人神社が数社存在する事を確認していた事もあり、最終的には金も採れた採銅所を握った人々がこの勢力であった事が見えたからでした。

それ故に鏡山神社とは、現在境内社とされている稲荷社(保食神=ウケモチ)祭祀だったはずなのです。

それは、採銅所で採れた銅によって造られた(作られたと書くべきかもしれませんが…)鏡が宇佐神宮に納められる関係にあり(採銅所の古宮八幡宮)、今回、この勢力が、贈)崇神の権威を高めるためにも神功皇后+仲哀祭祀を生じさせたのではないかが見えてきたのでした。応神の背後にいたのは崇神なのです。

まず、採銅所の正面には辛國息長大姫大目命神社を主神として祀る式内社の香春岳神社があります。

私達百嶋神社考古学の者にはこの辛國息長大姫大目命が伊勢の外宮の豊受大神であり伏見稲荷でありニギハヤヒ(山幸彦=猿田彦)のお妃であり、当然、=天鈿女命(アメノウヅメ)=保食神(ウケモチノカミ)であることが分かっています。

一方、この贈)崇神が海幸彦の孫である事は何度も申し上げて来たのですが、ここにはニギハヤヒ(山幸彦)系物部氏主流派と海幸系の対立が見えるのです。

それが、この鏡山神社祭祀の背景に存在する事が見えて来ると、この神社が鏡の奉納といった事から鏡山神社と呼ばれている訳ではない事に五年も掛かってようやく気付いたのでした。


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 と…、すると、何故、鏡山神社と呼ばれているかについては、改めて民俗学者の吉野裕子に立ち返る必要がある事に気付くのでした。


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大雪の但馬の神社調査遠征から戻ってきて、行橋から大雪の田川盆地へと入り渋滞する中で、この鏡山神社とこの一帯が「鏡ケ池」と呼ばれている事に気付き(勿論知ってはいても意識していない以上パス・スルーしているのであり、「ゲシュタルト」心理学の見ていても見えていないのと同義なのです)、鏡を奉納したから鏡山神社と呼ばれているのではなく、鏡山と呼ばれていたから鏡山神社と呼ばれているのであり、普通に考えても鏡が奉納されたからと言って池まで「鏡ケ池」とは呼ばれるはずもないのであり、鏡山を島として浮かす池であったからこそ「鏡ケ池」と呼ばれたのである事が見えて来たのでした。

この位置からはお鏡餅状の山に見えますが、再度、始めの方に掲げた地図と俯瞰画像をご覧ください。

日田英彦山線がこの地(採銅所~香春)で大きく蛇行している事にお気付きになると思います。

これは古代遠賀湾、遠賀湖といったものの名残とも言うべき湿地を避けて(安全な回転半径を取る事は元よりですが、鉄路は安全な傾斜を維持するため地盤沈下を嫌いますので)、最低でも汀線の縁を通過するものなのであり、その内側が古代の池であった事も見えて来るのです。


再掲



もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。

 この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬製したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを豊穣のシンボルとし、感謝を表したもの…となり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考…


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日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。


日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」
より



お分かり頂けたでしょうか? 以上、再掲。

 さて、今回は唐津市の鏡山の意味です。

福岡市周辺の方が西に向かうと必ずこの山の下を通られるので鏡山については良くご存じだと思います。

一般的には「鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている」とか、酷い話では観光バスのガイドが言うような「鏡山は屈んでいるから低く見えるが、立ち上がったら本当は高い山なんだ…」といった話までが横行しています。


鏡山(かがみやま)は、佐賀県唐津市にある山である。標高284メートル。

鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている。また、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が山頂から大伴狭手彦の船を見送ったという伝説の地であり、佐用姫がそでにつけていた領巾(ひれ)を振りながら見送ったということから、領巾振山(ひれふりやま)の別名でも呼ばれる。

頂上には鏡山神社がある他、愛する人との別れで泣き続け石になった佐用姫の悲恋伝説にちなみ、恋人たちのパワースポットとして佐用姫神社が祀られている。

また、鏡山ができたとき、上を切り取って海に置いたのが高島、その上を切り取ったのが鳥島という言い伝えがある。鏡山と高島はともに台形であり、見た感じの大きさも丁度よいものである。同様に、巨人が鏡山に躓いて転んだため怒り、頂上部を殴り飛ばしたことで高島などが出来たという。


一例ですが、HP風水パワースポット検索 から


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神奈備氏が“神主は鶴賀氏が兼務であり、氏に、より深い由緒を確認したのだが、伝わっていないとの事であった。また現人神社の祭神の都怒我阿羅斯等からのツルガではと問いかけたが、付会であろうとの事であった。なお香春神社の隣の家も鶴賀氏で、神主さんのようだ。”と書かれている事は先に引用している通りですが、長い階段参道を歩かれれば直ぐに分かるとおり、香春神社の氏子には他にも多くの鶴賀さんがおられます。

やはり、これは付合ではなく古代の政争の結果が反映されているのです。

繰り返しますが、辛國息長大姫大目命とは伊勢の外宮の豊受大神であり伏見稲荷でありニギハヤヒ(山幸彦=猿田彦)のお妃であり=天鈿女命(アメノウヅメ)=保食神(ウケモチノカミ)なのです。

鶴賀さんが敦賀さんであり、ツヌガノアラシト(草部吉見=ヒコヤイミミの孫)=現人神(アラヒトガミ)、氣比神宮の後裔であろうことは十分に想像できるでしょう(これは血統が継承されていなくともその氏族の利益を継承する家系であっただろう事を示しているのです)。

要するに、ここでは山幸系が海幸系に排除され、採銅所という重要な拠点が支配されているのです。



百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

スポット190(前) 再び再び九州王朝論者の皆様に対して キリシタン史跡世界文化遺産登録から

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スポット190(前) 再び再び九州王朝論者の皆様に対して キリシタン史跡世界文化遺産登録から

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ059 キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て 外をオンエアしています。

そのほんの一部をお読み頂きますが、全体像を把握するには全文を、また、検索によって多くの情報が拾えますので、是非、自らの判断によりお読み頂きたいと思います。


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日本の婦女子をバダビアに売り飛ばしていたイエズス会系ポルトガル宣教師と貿易商人


 ほとんど知られてはいないのですが、肥前、肥後にとどまらず豊後も含め大量の日本人婦女子がポルトガル船の船倉に入れられバダビア(インドネシア)などに売り飛ばされていたという隠された事実があるのです。この問題は以前も取り上げましたが、再度、キリシタン史跡世界文化遺産登録 への狂奔に併せ取上げたいと思います。

 多くの情報が出ていますので、ヤフーでもグーグルでも 「ポルトガル宣教師」「人身売買」などでダブル検索を試みて見て下さい。後は、ご本人の判断にお任せいたします。

 こんなものはデマだとお考えになるのは結構ですが、そうだとしても自らが植えつけられているキリシタンへのイメージも所詮はマッカーサーの占領政府以来の事実上の検閲の結果与えられた餌のようなものでしかないはずなのです。


ポルトガルの奴隷貿易 アジア人の奴隷

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、1617世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した。

ウィキペディア(20180630 19:16による


実はカトリックの司祭ではなく新教の牧師さんも証言されているのです。以下一部ですが紹介します。


日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?                                 2006127日 金曜日

◆日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし

わたしは先に第4回「天主教の渡来」の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。

今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深くなりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追
sp190-2害の理由から始めたいと思います。

1.キリシタン遣害の理由

宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587724日(天正15619)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。…中略…

(2)奴隷売買

しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249257から、部分的に引用したいと思います。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。…以下も重要な話が書きつづられています。


 長々と引用させて頂きましたが、この牧師が書かれた話は10年前にも読んだ記憶があります。

 当時も今も最も良く整理されているものと考えますので、検索の末、以下も是非お読み頂きたいと思います。

マスコミも文部省も決して触れない歴史を探る


大西洋を挟む黒人奴隷の三角貿易の事は良く知られていますが、実は、太平洋側でもイエロー・モンキー扱いにされた日本の婦女子が火薬一樽と交換され、ポルトガル宣教師の手引きによって数十万人単位でジャワのバダビアなどに送り込まれるという(太平洋版三角貿易)が成立していたのです。

こんなことは、学校でも新聞でもテレビでも絶対に扱わないため誰一人知らされてはいないのですが、恐らく、信長も秀吉も家康も全て知っていたはずなのです。これこそが実に正しいキリスト教禁教の歴史だったのですが、知らぬは情報に溺れる現代人ばかりという有様なのです。

これこそが列島の近世史の隠された真実であり、それを表面に浮かびあがらせる事こそが歴史家、歴史研究者の使命と考えるのです。

これと同様に国家によって隠された古代史のベールを引っ剥がし、真実の歴史を探求せんとするはずなのが九州王朝論者のはずなのです。

これと凡そ逆のベクトルで動いているのが、行政主導の村興し町興し世界遺産登録運動(形を変えた国体明徴運動のようなもの)であり、それに協力しているのが愚かな俗流古代史ファンや郷土史会、史談会などの数を減らした老齢化した方々なのです。


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従って、日本の真実の歴史を探究しようとする九州王朝論者を自認する方々であるのならば、これらの行政主導、行政誘導型の捻じ曲げられた文化運動を批判しうる目と頭を持つべきであるはずですし、最低でも独立性を保たなければならないと考えるのですが、どのようにお考えになるでしょうか?

同様の問題を宗像三女神の宗像沖ノ島世界遺産登録問題がありました。

これについても、ひぼろぎ逍遥(跡宮)458 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした! として書いています。

結果的には、中間発表では部分的に見合わせの話まで進んだのですが、賄賂が贈られたのか、事実上丸呑みの形で認められると言う愚行がまかり通ったのでした。

現在、沖ノ島祭祀はみあれ祭として宗像大社が仕切っていますが、元々は津屋崎側の志賀島の安曇族側のエリア福津市の新原、奴山古墳群の一族が行っていた事を沖ノ島の発掘調査を初期段階から関わっていた小田富士夫が主張するに至り脆くも崩れ去っていたのでした(詳細は458号をお読み下さい)。

それも、日本の文化も伝統も、ましてや古代史も何も知らないヨーロッパ貴族の末裔どもによって是非が判断されると言う馬鹿げた現象が起こってしまったのでした。

以下一部を掲載します。


まずは、沖ノ島祭祀について小田富士夫氏の修整説を見て頂きましょう。

記事の内容は専門的で俄かには分かりづらいのですが、岩上祭祀から岩陰祭祀、半岩陰半露天、露天へと変遷してきた古代祭祀において、最も重要な後期の岩上祭祀に当たる沖ノ島21号祭祀遺跡の遺物と同時期の大首長墓(大王級)大型古墳である福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されているのです(20121026日西日本新聞)。


このことは、長らく元九大(実は国士舘)の○ダニ氏などが主張してきたところの(最近修整せざるを得なくなったようですが)、沖ノ島古代祭祀だろうが、宮地嶽巨大古墳だろうが、何でも「近畿大和朝廷の傘下=影響下にあった地元土豪(ここでは後の宗像徳善の君に繋がる一族)が関係している」などといったほとんどデマに近い非常に怪しげなものであったことが鮮明になった瞬間でもあったのです。

古来、最低でも福津市のエリア(本来は神湊以南)は志賀島の安曇族のエリアと言われており、相島も含め、新原・奴山古墳群(津屋崎古墳群)に宮地嶽巨大古墳、さらには、昨年馬具一式が発掘され話題となった古賀市の船原古墳なども、全て宗像徳善の君に繋がる一族などのものではなく、安曇族を支配下に置いていた一族のものであるという(安曇族の大王の配下といった話もありますが、逆に陸軍に支配された海軍陸戦隊にさえ見えるのです)地元に通用する普通の考え方が再考できることになってきたのでした。

福津市勝浦峰の畑古墳(100m超前方後円墳)との間に対応が認められるとの見解が提出されている事は極めて衝撃的で、沖ノ島の古代祭祀は福津市、古賀市から福岡市にかけての人々が祭祀を行っていた、少なくとも志賀島側の海人族(安曇族)が関与していた可能性を示すものだったのであり、既に鼻息の粗かった沖ノ島宗像族祭祀(権)圏説が早くも崩れ去っていたのでした(実際は沖ノ島は九州王朝の宝物庫だったのです)。


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スポット190(後) 再び再び九州王朝論者の皆様に対して キリシタン史跡世界文化遺産登録から

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スポット190(後) 再び再び九州王朝論者の皆様に対して キリシタン史跡世界文化遺産登録から

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久

世界遺産登録活動

 「沖ノ島を世界遺産に」という声は2002年に行われた沖ノ島物語実行委員会による「宗像大社大国宝展」をはじめとする市民の活動から高まり始め、世界遺産登録を目指す動きへつながりました。そして沖ノ島(宗像大社沖津宮)、沖津宮遙拝所、宗像大社中津宮、宗像大社辺津宮、新原・奴山古墳群から構成される「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は20091月にユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

現在、宗像市、福岡県、福津市、市民団体、経済団体、文化・教育団体等で構成する「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議を設立し、地域の人々によって受け継がれてきた遺産を人類共通の遺産として未来の世代に引き継いでいくことを目的に世界遺産登録活動に取り組んでいます。


そもそも、このような怪しげで根拠薄弱な背景の元動いていたのが宗像大社と宗像沖ノ島祭祀だったのですが、これに関する疑問は既に当方のグループばかりではなくネット上には飛び交っており、当然ながら諮問する側も多くの情報は収集しているはずで、ささやかながらも当方の見解も拾っているはずなのです。もしそうでなければ、表面の風評しか拾えない無能なウォッチャー、アナライザーとしか言いようがないのです。

恐らくこれらの事が文化庁、ユネスコにも多少は伝わったはずであり、当然、ダシとして利用されただけの形の古賀市、福津市の不満も伝わっていたはずなのです。

こうして、危うい事を避ける官僚の自己保身が働いたか…無難な沖ノ島祭祀のみの登録へと動いた可能性も考えられるのです。

ただ、IOCやFIFAのように一旦は脅しを掛け、結果、賄賂をよこせと言うメッセジである可能性も否定できない事から、最後まで、どんでん返しも考えておく必要はあるでしょう。

所詮は日本の伝統も文化も知らない、ましてや、列島の王権引いては古代史など一切知らない外国勢力の格付けやアドバイスなどどうでも良い事なのです。

冒頭で述べた如く、日本古来の文化伝統とその物証としての歴史的遺産をユネスコ如きのキリシタン伴天連の不良貴族の末裔どもに認定して頂くと言う奴隷根性は置くとしても、沖ノ島に限定された認定勧告は常識的な落としどころといったところで(本当はこんなくだらないミシュランまがいの格付けなど辞めるべきなのですが)、今のところ、表面的にはFIFAやIOCの様な賄賂話はなかったことから比較的クリーンな決着といった事になるのかも知れません(繰り返しになりますが、まさか賄賂をよこせと言うメッセジではないでしょうから…くれぐれも…両者の動きに注目し監視を続けようではありませんか)。

なお、これまで何度となく書いていますが、宗像大社の本来の祭神は大国主命であり、近畿大和朝廷(藤原)が捏造した現出雲は九州からの国譲りの結果成立した新出雲としてのテーマ・パークでしかないのです。

だからこそ、志賀島、宗像の沖に沖ノ島があり、現出雲の沖に隠岐の島があるのです。

これらの話については、ひぼろぎ逍遥 177 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…他多くを書いていますので内部検索を行い拾い読みして下さい。

なお、ネット上の中にかなり重要な証拠に近いものが発表されています。I女史作成のパワー・ポイントデータからご覧いただきましょう。


大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。

13歳頃に穂積皇に嫁ぐが霊亀元年(715)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。

坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。 ウィキペディア」による

 大友坂上郎女という重要人物の証言だけに非常に重い資料と言えるでしょう。最低でも、宗像大社の祭神は三女神などではなく出雲神話の神とされる「大国主命」「少彦名命」だったのです。

 出雲神話の舞台は九州だったのではないか?とした仮説は俄かに信憑性が高まってきました。

 きっかけは飯塚市桂川町に「出雲」という交差点があることに気付き、凡そ出雲神話など縁がないはずの九州各地に多くの大国主祭祀が拾えたからでしたが、さらに、日向の一の宮である都濃神社の主祭神が大国主であることや、宗像市、筑前町、熊本市、日置市、鹿児島市…にも大国主命を主神とする神社が存在している事を確認して行ったからでした。どうやら、「出雲」隠し「九州王朝」隠しの入口に入ってきたようです。今後とも、出雲神話の痕跡を探ることになりそうです。


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「万葉集」に証拠が残っていたのです


これらの事からお分かり頂けるように、ユネスコだかユニセフだかの官製文化運動の馬鹿げた構造を理解し、独立性を保つところから本当の文化活動とか研究といったものが始まる事を肝に銘じるべきなのです。

2018415日現在のネット・ワークです


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。

567 古代九州王朝の貿易港か? 熊本県八代市徳淵港の古春日神社

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567 古代九州王朝の貿易港か? 熊本県八代市徳淵港の古春日神社

20171206

太宰府地名研究会 古川 清久


 八代の徳淵港に(への)河童渡来伝説があることは比較的知られています。ただし、河童の話となると眉に唾して語られる事が多い事から、オーレーオーレー・デ・ライタオ 呉の国から頭領がやってきた(タオライ=到来、ライタオ=来到)と言った話も実際には真面目に考えられているとは言えないでしょう。


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八代の伝承によると、揚子江の流域から河童がやって来たという。彼らは球磨川流域に住み着き、9000匹の河童、九千坊(クセンボウ、グゼンボウ)は後に筑後川流域に移動したと言われているのです。

 今回この問題には立ち入りませんが勿論疑ってはいません。実はこの傍に古い春日神社があるのです。


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積み込み積み降ろしの列が衝突しない様に二本造られているのが今なおリアルで面白いですね


大陸から河童がやって来るほどだったのですから、昔から(八代の「河童共和国」は三国志の呉としていますが、それは全くの誤りで呉越同舟の呉なのですが…)貿易(交易)が行われていた事は間違いがなく、この春日神社には、その物流から税を徴収する場所であったと考えられるのです。


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春日神社が藤原の私的な神社である事から考えれば私的な関銭でしかなく正式には税ではないのですが、彼らは自らの支配下にある港から財力を養っていた事が分かる痕跡に思えるのです。

 これは、宇佐神宮に近い駅館川でも見られるのですが(上図)、福岡市にしても、下関市(木屋川)にしても、春日神社は藤原の財政基盤を支えた拠点の痕跡に思えるのです。

 ただ、これらも元々は九州王朝の重要港湾であった場所のはずであって、それらを占拠したのが、阿蘇氏をルーツとする藤原氏だったはずなのです。では、何故、そう考えたかをご紹介したいと思います。

 八代市の北に旧鏡町があり、印鑰(インニャク)神社もあるのです。

そこの掲示板に何故か八代の正倉院に関する記述があるのです。


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これは八代市教育委員会のある女性の学芸員によって書かれたものなのです。実際には白村江の戦いに負けたのも九州王朝なのですが、形式的には701年まで存続するのですから、大化の改新時代の正院も正倉院も九州王朝の事績でしかなく、その存在した場所(久留米市の某所も含め)の一つがこの徳淵だったと考えられそうなのです。

 これは、この地域の歴史に明るいこの女性学芸員によって小早川文書等を解析された結果のでしょうから尊重するとして、この問題に関してはこの古き春日神社の事を頭に留めておいて頂きます。


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こちらは立派な方のもう一つの春日神社 カーナビ検索 熊本県八代市本町1丁目9-26


 実は春日神社は八代市内に数社あり、その事が気になっていました。

 まだ、この解明はできていないのですが、この時代、九州西岸の最重要港湾だった事は間違いないと考えています。


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この徳淵港の直ぐ傍にはキンカンと枇杷が植えられていました。

 遠い古代、中国は浙江省辺りから持ち込まれていたものの生き残りに思えたのですが、無論、思考の暴走に過ぎません。


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568 南阿蘇村色見の熊野坐神社 “新たに作られたパワー・スポット上色見の熊野坐神社とは別の一社

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568 南阿蘇村色見の熊野坐神社 “新たに作られたパワー・スポット上色見の熊野坐神社とは別の一社”

20180117

太宰府地名研究会 古川 清久


 極寒20181月でも、束の間暖かい好天に誘われ、熊本の女性メンバー数名と懸案だった岩戸神社に行く事にしました。これについては以下をご覧ください。

ひぼろぎ逍遥 549 岩戸神社に行かねばならない “阿蘇は立野大峡谷の南崖に鎮座する重要な一社”

 ところが、現地に行くと神社の駐車場への橋は熊本地震によって崩れており、現在、災害復旧が行われていました。

 おまけに、岩戸神社直下の鳥居も壊れており、現場の工事業者に話を聴くと岩戸神社への参道も崩れており入る事はできませんよ…とのことでした。

 

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岩戸神社参道階段直下の崩れた鳥居


 そこで、急遽、西原村の鳥子三之宮神社を見て南阿蘇に入る事にしました。

 現在、南阿蘇に入るルートはある程度復旧しています。

 立野から栃ノ木へと立野穴あきダムのダム建設道路を拡充した道路が急遽整備され通行できますし、西原村経由で俵山トンネル・ルートも復旧しています。

 このため、往路は西原村から俵山ルートを、復路は立野ルートで南阿蘇に入る事にしました。

 いずれにせよ、雲一つない極寒の晴れ間を美女数名と神社調査に入れるのですから、これ以上の喜びはありません。

 さて、今回足を踏み入れるのは、色見の熊野坐神社です。

 最近、パワー・スポット・ブームが仕掛けられたのか、高森町を貫通する国道265号線沿いの上色見郵便局の正面に鎮座する上色見の熊野坐神社への参拝客が急増しています。

しかし、今回訪問するのはこの神社とは別の熊野坐神社です。

 一度、入って発見できずに戻ってきた事があるのですが、今回、新たに入る事ができたのでした。

 前述のパワー・スポット・ブームについては、以下をお読み下さい。

ひぼろぎ逍遥 540 南阿蘇に急造された新興パワー・スポット “高森町上色見の熊野坐神社”

 今回の調査目的は一体どちらが古い権威ある元宮なのかを把握することでした。

 以前は失敗している事から下調べをしていますので、井上という地区にあることだけは把握しています。

以前、失敗した辺りまでは難なく入りました。好天の上、付近にはところどころに雪が残っています。

同行者は3050代ながら雪の降らない熊本市内在住者のこと、これくらいの残雪にはしゃいで雪だるまを作る次第でなんとも和やかです。カーナビで井上地区は直ぐに分かりました。

しかし、谷あいの隘地の事、普通は見つからないのは致し方なく、これじゃ見つからないのは致し方ないと合点したのでした。それでも探していると、谷あいの一角の雪が残る木立の合間に社を発見しその荘厳さに心を打たれた思いがしました。

何を大袈裟な…とお考えの方もおられるでしょうが、そもそも、何故、この地に熊野系神社が鎮座している理由がお分かりになるでしょうか?


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では、神社をご覧ください。


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色見の熊野坐神社 カーナビ検索 熊本県高森町色見2649


熊野坐神社 『延喜式神名帳』には熊野坐神社という名前の神社が2社記載されている。

紀伊国牟婁郡の熊野坐神社 - 和歌山県田辺市本宮町本宮にある熊野本宮大社。明治時代から第二次世界大戦終了まで再び熊野坐神社を名乗っていた。

島根県意宇郡の熊野坐神社 - 島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社。

ウィキペディア(20180118 10:11による


 熊本県内にも氷川の立神峡谷の一角に熊野坐神社がありますし、他にも嘉島町浮島、人吉市、球磨川流域、天草などで見たことがありますので、もしかしたら県内には十社は存在しているかも知れません。

 しかし、中央の研究者は熊本県下にこれほど熊野坐神社があることは知らないのです。

それは熊野の起源を和歌山県だと思い込まれているからなのですが、私達百嶋神社考古学のものには別の世界が見えているのです。

一般的に熊野神社と言えば、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山の意味ですが、熊野坐神社と言えば、熊野本宮を意味しているものと理解しています。

ただ、上色見の熊野坐神社もそうですが、熊野三山を祀っているようです。

熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社と言っても誰を祀っているのかご存じない向きが熊野多いと思いますので、改めてご説明しておきます。

百嶋神社考古学では熊野本宮大社とは、スサノウが追ってきた磐長姫=アカルヒメ(細石神社の主神)=ヤタガラスの姉であり、熊野速玉大社は大幡主、熊野那智大社はイザナギと別れた後、大幡主と一緒になった元イザナミ=金山彦の妹=後にクマノフスミ命と呼ばれた瀛氏と白川伯王系の神社群なのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 分かり難いのは、アカルヒメですが、スサノウの妃となったものの豊の姫島に戻ってきた女神様であり(スサノウが追ってきたのであってそれなりの女性なのです)、同時にヤタガラスの姉なのですから白族でも最高格式の女神様なのです。

 良く言われる話ですが、大山祗がニニギの妃として磐長姫とコノハナノサクヤを送るのですが醜いとして返されたのが磐長姫とされます。

 実はこの磐長姫が細石神社の主神なのですが、百嶋神代系譜を良くご覧になって下さい。

 磐長姫とコノハナノサクヤはもちろん姉妹ではありませんが、大幡主と大山祗とが義理の兄弟(犠神体)を形成しています。

この事から考えれば、コノハナノサクヤと磐長姫とが共に娘同志なのですから互いに姉妹と言えない事もないのです。

従って、醜かったから返されたというのは近畿大和朝廷が熊襲(大山祗系)を貶めるための宣伝工作であって、スサノウが追ってくる女性であった事を考えれば、彼らのデマ宣伝が見えて来るのです。

熊野本宮大社の祭神を巡って、神社庁や通説の追従の学者どもが如何なるものかが見えて来ると言うものです。なお、擬神体については、以下を参照して下さい。

ひぼろぎ逍遥 367 甘木朝倉の田神社からタノカンサーが擬神体である可能性について を参照の事。

 いずれにしても、熊野神社の神々がどのようなものかはお分かり頂けるのではないでしょうか?

 問題は前述したとおり、どちらが根源的な神社なのかです。

 付近の敬愛する某神社の宮司からは、「色見の熊野坐神社の方が古いんですよ…」とはお聴きしているのですが、白川が上色見から流れ出している事から、白川伯王系である熊野神社の本流は上色見にも思えるのです。

ここからはそのお話に入りましょう。

「熊本県神社誌」によれば、色見の熊野坐神社は上色見のそれから分離された事になっています。

 これは、前述した白川の源流がこの上色見である事からそちらが元ではないかとした事とも符合するのですが、前述の宮司はそれよりも古層を伝承などから拾っておられるのかも知れません。


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熊本市のど真ん中を流れる白川が何故白川と呼ばれているかは、白川伯王 白山姫~大幡主~豊玉彦=ヤタガラスの系統が祀られる源流が白川と呼ばれていたからであり、だからこそ旧白水村もあったのです(白川も古くは中国風に「白水」と呼ばれていた痕跡地名です)。


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境内を見た時、やはり、上色見からの分離ではないかと考えた理由は、摂社として愛宕神社(金山彦)と上山鳥菅原神社があった事です。

これは合祀ではないようですので、これらを奉斎する人々こそが、この地の先住者だったと根理解できたのでした

 どちらにしても、熊本県に熊野坐神社がこれほど確認できる事は、南朝方として熊野と繋がっていた事に起源を求めるべきか、それとも、熊本(八代から氷川の一帯)こそ雲南省昆明から海南島を経由して列島に移動して来た白族の本拠地であり、それが東に移動したのが忌部の讃岐、阿波であり、白川伯王 白山姫~大幡主の本拠地が西から東に移動したからと見るべきかは今後の課題です。


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塩釜宮(塩土翁)は大幡主、愛宕大権現は金山彦、金刀比羅宮は大山咋上=日吉=松尾=日枝神社…

569(前) 佐賀市(旧富士町)の子安神社と唐津市(旧七山村)の子安神社 ジネコ神社協賛プロジェ

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569(前) 佐賀市(旧富士町)の子安神社と唐津市(旧七山村)の子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ⑦

20180122

太宰府地名研究会 古川 清久


 以前、ひぼろぎ逍遥 487492 として、安産の里無津呂の神々として以下の6本を書きました(現在、オンエアが始まっています)。従って、本編もその続編となります。


安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(下) 

ジネコ神社協賛プロジェクト ⑥

安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(中) 

ジネコ神社協賛プロジェクト ⑤

安産の里無津呂の神々 下無津呂の乳母神社(上) 

ジネコ神社協賛プロジェクト ④

安産の里無津呂の神々 上無津呂の淀姫神社  

ジネコ神社協賛プロジェクト ③

安産の里無津呂の神々 子安神社に隣接する鹽甞地蔵について 

ジネコ神社協賛プロジェクト ②

安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ①


 子安神社という九州では見かけない二つの神社が、何故か佐賀県の北西部の山中に峠を挟んでひっそりと鎮座しています。

再掲載


487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ①


 佐賀市と言っても遠方の方には“九州の佐賀県”と言わないとなかなか理解されないのですが、平成の大合併によって新たに佐賀市に編入された旧富士町の領域に子安神社という九州では珍しい名の神社があります。

 この神社が、何故、子安神社と呼ばれていたかについての説明をする事は一応可能でしょう。

 簡単に言えば、大山祗の娘である木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)が、邇邇芸命(ニニギノミコト)と出会い身篭るのですが、ニニギは一夜で身ごもった事から国津神の子ではないかと疑います。 

そこで、この疑いを晴らすためコノハナノサクヤは誓を立て産屋に入り「天津神のニニギの子なら何があっても無事に産めるはず」と産屋に火を放ちその炎の中でホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとされているのです(「古事記」)。

この猛火の中でも多くの神々を出産したとの神話からコノハナノサクヤを祀る神社が安産の神様として信奉を集め子安神社が成立したと考えられます(特に北関東に多く分布を示す)。

 ただ、百嶋神社考古学はその一般的なストーリーの下に隠された古層の探究を目的としている事から、それで良いかと言うと単純には乗れないのです。

その話は後段に回すとして、まずは、この神社のご紹介から入ります。

あくまでも一般的にですが、最も有名な子安神社と言えば、伊勢の子安神社になるでしょうか?

それほど多くはないのですが、それなりに有名なものを拾い出して見ましょう。


子安神社 /三重県伊勢市宇治館町1    祭神=木花開耶姫神(コノハナノサクヤヒメ)

子安神社 /東京都八王子市明神町4-10-3 祭神=木花開耶姫命 天照大御神 素盞鳴尊 大山咋命  奇稲田姫命

杉田子安神社 /富士宮市杉田215       祭神=木花之開耶姫

櫻井子安大神 /千葉県旭市櫻井1264     祭神=木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)            …以下省略


ご覧の通り、木花之開耶姫が主神としてされている事がお分かり頂けるでしょう。

ところが、旧「富士町史」によれば、“祭神 大山祇神 磐長姫命 保食神 源義経 安産の神”としているのです。

何故、このように通りの悪い、通説と全く異なる祭神としているのでしょうか?

勿論、大山祇神は木花之開耶姫の父神なのですから、多くの神社がそうしている様に、磐長姫命を木花之開耶姫へと祭神入れ替えをしてさえいれば済んでいたはずなのですが、それが行われていない事に逆に信憑性を感じてしまうのです。

当方も、大山祇神が祭神とされている以上、木花之開耶姫が正しかったのではないか…これは只の誤りではないかなどと安直に結論を出す事は容易いのですが、そうとも言えないのです。


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子安神社 カーナビ検索 佐賀市富士町大字栗並5861(左) 唐津市七山池原乙555(右)


佐賀県の神社を調べるには、非常に使い難い「佐賀縣神社誌要」(大正15年)に頼らざるを得ないのですが、実はこれにはこの子安神社は搭載されていません。

また、佐賀県唐津市七山池原乙555にも同名の子安神社があることからこれも頭に入れておいて下さい。


569-2

旧富士町栗並の子安神社から西にひと山越えた七山村桑原にもう一つの子安神社があります。


外の資料を探すとしても容易ではないため、とりあえずネット検索を行うと、569-3に以下の記述があります。

 二十年ほど前に「大和町史」は目を通していましたが「富士町史」はパスしていました。


祭神 大山祇神磐長姫命 保食神 源義経 安産の神

由緒 栗並地頭栗並因幡守子孫永久の大願で承久(121922)のころ勧請の由古老の口碑に伝え、神殿、拝殿ともその後の再建といわれている。

祭日 1月元旦祭、9月風祭、彼岸祭、刃の日祭、神宝 古刀1振、法螺貝

敷地面積 632坪。建物22坪。氏子 75

 本社は社名のとおり安産の神。ここの腹帯を妊婦が腹に巻くと安産と伝える。近くにある夫婦岩は良縁のシンボルといわれている。                      出典:富士町史下p.398


 改めてこの神社を考えると、この旧富士町の子安神社が本物中の本物の神社であり、東日本に偏在する子安神社の原型の可能性があるのではないかという印象を持ちます。

 まず、旧富士町の子安神社の祭神が大山祇神、磐長姫命…である事はお気づきになったでしょう。

 磐長姫命と言えば、天津神としての邇邇芸命に対して大山祇が木花開耶姫と共に妃として送ったものの醜かったことから返されたという曰くつきの嫌な話が伝わる女神様なのですが(木花開耶姫と共に有名な福岡県糸島市の細石神社の祭神)、その通説で大山祇の娘とされる磐長姫命が大山祇と共に祭神とされているのです。

 この背後にはかなり大きな謎があるのですが、…

以上、明朝体は前回からの引用部分。


569-5 まず、唐津市七山桑原の子安神社は本来の祭神を入れ替えているのは明らかです。

応神を抱いた武内宿祢と神功皇后の姿を良く見かけますが、このことから応神は武内宿祢の子であるなどと下ネタ風の話をする愚か者まで出てくる始末でどうにもなりません。

このため、これらが子安神社の祭神としてこじ付けられない事もないのですが、明治期なのか、宇佐神宮が権勢を振るい始めた武家政権の時期なのか、結果として子安神社としては似つかわしくない配神とされているようです。

 勿論、他の子安神社と見比べても一般的でない事は明らかでしょう。

 ただ、現時点の祭神としては神功皇后、応神天皇としている訳で、それをどうこう申し上げるつもりはありません。

 しかし、私達は古代史、神代史の深層を探索する者であって、この下には別の祭神が存在していたであろうと考えてしまうのです。

 それは、この神社の氏子を見れば一目瞭然であって、半分以上が「加茂」姓の方々なのです。

 加茂(中国風に発音すれば「チャマオ」ですが)は、「鴨」であり「賀茂」であり「蒲生」であり「鎌尾」…であり下賀茂、上賀茂神社に繋がる大幡主系~ヤタガラス~鴨玉依姫(決して
569-4ウガヤフキアエズの妃などではない)の流れを汲む人々なのです(中国の少数民族白族=ペイツー)。彼らは漢族や鮮卑族と最後まで闘い続け、遂には山岳地谷追い込まれ、雲南省昆明から紅河を下り、海南島(現海南省)を経由し九州西岸に入って来ているのです(事実、海南島には「加茂」地名まであるのです)。では、氏子の加茂さんをご覧ください。


569-6

この氏族が別王ごときの応神を祀るはずはないのであって、本来の祭神は別にあった(ある)はずなのです。


569-7

さて、ひぼろぎ逍遥 487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ① の最後尾にこの問題は、最低でも七山村の子安神社を訪問しないうちは結論など出せるはずがありません。」としました。

ところが、この唐津市桑原の子安神社の祭神を見て逆に混乱は一気に深まってしまいました。

それは、この桑原の子安神社の祭神が、一般的な子安神社としては全く異質だったからでした。

仲哀天皇、神功皇后、応神天神という祭神と全国の子安神社とはどう見ても結びつかないのです。

しかも、この地に住み着いておられる多くの「加茂」姓を持たれる方達が、博多の櫛田神社の主神である大幡主を支える白族の方達であることは疑いようがなく、この祭神は明らかに差し替えられているとしか思えないのです。

 まず、子安神社という社名は何でしょうか?

 子安とは子を“あやす”の事かも知れませんし、安産の神様かも知れませんし、子を安らか育てるの意味かも知れませんし、それ以前に子授けの神様なのかも知れません。

 凡そ明治の頃まで、仮に20人の子が産まれたとしても、順調に育って二十歳を迎えられるのは七人程度だったと言われています。それほど生存率は低かったのです。

 出産から育児まで極端に死亡率が高かった時代には、仏教系の子安観音、子安地蔵も繁盛していた訳で、少子化、無産化から未婚化、非婚化が進むとんでもない亡国への道を意図的に歩まされている列島(劣等)民族には子安神社の福音こそ必要になっているのです。

 ともあれ、最も知られた伊勢神宮の内宮付近には明治期に排斥されつつも、大山祗とコノハナノサクヤが祀られている事から、これを子安神社のプロトタイプ(原型)と考える事は、一応、許されるでしょう。

 と、すると、佐賀市富士町栗並の子安神社の祭神が、何故、大山祗とイワナガヒメとされている事に目が移ると言うよりもかなり強い違和感を持つのです。

 この山を挟む二つの子安神社の解析を行うには、まず、この二つの地域がどのようなものであったかを理解する必要があるでしょう。

 佐賀市側栗並の子安神社と唐津市側桑原の子安神社とは、現在こそ互いに離れている様に見えますが、それは国道323号線が新たに開削されたからであって、古くは樫原湿原を経由して互いに往来が出来る位置関係にあったようです。

 唐津市七山村が圧倒的な博多の櫛田神社の主神である大幡主(白族)系の集落である事に対して、佐賀市富士町大串~栗並~杉山は、子安神社(大山祗+磐長姫)、大串神社=別名櫛田神社(櫛稲田姫、スサノウ)、白石神社(恐らく白山姫=天御中主命)…と金山彦、大幡主、天御中主、大山祗という強面の神々が揃い踏みする山岳修験のエリアである事を示しているのです。

 そこでようやく大串地区とは佐賀県神埼町の櫛田神社の色濃いエリアである事が見えてきたのでした。



569(後) 佐賀市(旧富士町)の子安神社と唐津市(旧七山村)の子安神社 ジネコ神社協賛プロジェ

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569(後) 佐賀市(旧富士町)の子安神社と唐津市(旧七山村)の子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト ⑦

20180122

太宰府地名研究会 古川 清久


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


これまでにも何度か申し上げてきた事ですが、博多の櫛田神社と佐賀県神埼市の櫛田神社とは社名は同じものの、性格を全く異にしています。

スサノウのお妃となった櫛稲田姫は博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫と天下の金山彦との間に産まれています。これを理解するには多少は思考が必要になります。

まず、博多の櫛田神社とは櫛稲田姫の母方を祀る神社であり、これに対して佐賀県神埼市の櫛田神社とは父方の金山彦=カグツチが櫛稲田姫を祀る神社になるのです。

このため、佐賀市側栗並の子安神社にもこれらの事が反映されており、金山彦、大幡主、大山祗という三派の神々ががっちりとスクラムを組んだ中で、通常は大山祗とコノハナノサクヤヒメを祭神とする子安神社さえも唐津市七山の大幡主=白族系の人々を配慮してか、博多の櫛田神社の大幡主の直系のヤタガラスの姉に当たるアカルヒメ=実は磐長姫が、大山祗と共に祀られ、逆に、西の唐津市七山の桑原の子安神社では大山祗ならぬ金山彦とコノハナノサクヤヒメといった祭神が祀られ、唐津市と佐賀市と玄界灘側と有明海側を繋ぐ東西の交易路の両方にある子安神社を祀る風習さえも存在していたのではないかとまで考えるのです。これで、この佐賀市富士町栗並の子安神社の祭神が何故かコノハナノサクヤではなくアカルヒメ=磐長姫が祀られているという不思議さを解読するための一つの作業仮説を立てる事になりました。

 これが、正しいかどうかは分かりません。もう少し謎解きへのピースが揃えば正確な分析が可能になるのですが、将来、修整する必要が出て来るかも知れません。

 注意して頂きたいのは、スサノウにとってみれば、アカルヒメ=磐長姫も櫛稲田姫もともに相次いで妃となっているのであって、この事が関係している様にも思えます。今後の課題です。

 なお、全く、父、母ともに異なるコノハナノサクヤと櫛稲田姫とが、何故、姉妹であると言われているのかについては過去何度か述べて来ました。

 詳しく説明すると反って混乱が大きくなりますので、父も母も全く異なる他人同士が、相互の両親が婚姻関係を深め九州王朝を支えた姻族としての金山彦、大幡主、大山祗というスクラムを形成し、この三者が義理の各々兄弟の様な関係になっている事から、その娘同志も、互いに姉妹と言えない事はないとまでは言えそうなのです。そこで、敢て百嶋神社考古学の立場から際どい説明を行うならば、まずコノハナノサクヤヒメはニニギと別れた後、鹿児島県溝辺町に移動し名を前玉姫と換え(前玉神社)、後に富士山周辺(富士山浅間神社)から最終的には北関東埼玉県の「埼玉」の語源となる前玉神社の祭神にまで高まっているのです。そして、コノハナノサクヤは後にヤタガラス(大幡主の子)と一緒になっているのです。

 そのヤタガラスの姉がアカルヒメなのですから、現在の家庭生活でも兄の奥さんをお姉さんと呼ぶことは良くあることで、ヤタガラスのお妃ともなったコノハナノサクヤがアカルヒメを姉と表現しても決して奇妙とは言えないのです。その意味で、九州からはコノハナノサクヤは消えており、代わりにアカルヒメが祀られた可能性を考える事もあり得るかも知れません。


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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


参考

大串神社

佐賀県佐賀市富士町大字大串701(櫛田神社)

出典資料から記載. 祭神神功皇后武内大臣藤原広嗣源義経由緒創立不詳といえども、三瀬山の杉神社と同時の鎮座で、祭神も同体である。杉神社は小城山大宮司嘉村左京進宗章が筑前香椎宮から分霊を勧請したと伝えられている。祭日 10月初旬秋祭り。氏子 67戸。敷地面積 601坪。建物20.25坪。出典:富士町史下396p


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 栗並(恐らく栗ノ見の意味)の子安神社は登載されていませんが、桑原の子安神社は「佐賀県神社誌要」に搭載されています。

現在の祭神と大きく異なる事はお分かり頂けるでしょう。


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ご覧の通り、一般的な子安神社の祭神である大山祗とコノハナノサクヤの親神だけは痕跡を留めているのです。

この内、コノハナノサクヤがいつしか消された可能性も考えておくべきでしょう。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

570 熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

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570 熊本県西原村鳥子の鳥子阿蘇三之宮神社再訪 

20180122

太宰府地名研究会 古川 清久


 熊本市の隣、益城町と共に熊本(人工?)地震の犠牲となった西原村に「鳥子」(トリコ)と呼ばれる奇妙な地名の集落があります。これについては 


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

359

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” ②

358

鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート” ①


に於いて、八兵衛さんが頼って肥後から脱出しようとした鳥子の方様が何者なのかを詳しく書いていますので、その向きにはお読み頂きたいと思います。

 正月の好天気に熊本在住メンバー数人とこの鳥子神社に再訪しました。この「鳥」「烏」の付く地名は全国至る所にとまでは言わないものの気にしてさえいればかなり見掛けます。

 鳥山、烏山、烏集院、大鳥、烏谷、小鳥神社…といったものです。

 このかなりのものがヤタガラスの一流に関わるものであることが付近の神社の祭神などから多少は判別が付くようになってきました。

 現在、この鳥子にある阿蘇三之宮神社は内牧の阿蘇神社の祭神から見た場合の三ノ宮=草部吉見(ヒコヤイミミ)を意味しており、以下、阿蘇神社の祭神の一部からご覧ください。


一の神殿(左手、いずれも男神)一宮:健磐龍命 - 初代神武天皇の孫という

三宮:國龍神 - 二宮の父で、神武天皇の子という 五宮:彦御子神 - 一宮の孫

七宮:新彦神 - 三宮の子 九宮:若彦神 - 七宮の子

二の神殿(右手、いずれも女神)二宮:阿蘇都比咩命 - 一宮の妃 四宮:比咩御子神 - 三宮の妃 

六宮:若比咩神 - 五宮の妃 八宮:新比咩神 - 七宮の娘 十宮:彌比咩神 - 七宮の妃 


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鳥子三之宮神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡西原村鳥子2608


勿論、「神武天皇の子」という…との主張は、本物の初代神武天皇(神武僭称:贈崇神のではない)の本物のお妃であったアイラツヒメが、藤原によって第二代贈綏靖とされた金凝彦(カナコリヒコ)=神沼河耳に下賜されその間に健磐龍命が産まれている事から阿蘇家が神武天皇との関係を云々しているのです。

 ただ、古代は母系制社会であり、むしろ女性方の格式が髙かった(しかも金山彦と神大市姫の娘)事を考えれば、全く誤りとも言えない部分もあるのです。

 ただ、こういった話を阿蘇神社や熊本県神社庁などが認めない事は言うまでもありません。

ただ、故)百嶋由一郎氏とも親交が深く「熊本県神社誌」を編纂された故)上米良純臣宮司なども十分に理解されていたはずなのです。

 ともあれ、実際の祭神である三之宮とは阿蘇の三ノ宮の国龍神=草部吉見=春日大神=武甕槌=鹿島大神=海幸彦…の事なのです。

 しかし、それは阿蘇が権勢を振るい始めて以降の話であって、それ以前には別の神々が祀られていた事が十分に見えるのです。それが本来の祭神であった鳥子大神だと考えられるのです。

 

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本来 阿蘇氏は物部の鞘殿を使いません この点からもこの神社が阿蘇氏の神社ではない事が分かります


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百嶋由一郎鳥子系譜(部分)


今回、正月明けだったこともあり、参拝殿正面には名酒中の名酒が振る舞い酒として置かれていました。

 熊本の方はどなたもご存じの瑞鷹(ズイヨウ)です。クラスは不明ですが金箔入りのお神酒です。


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瑞鷹酒造は、今尚、数少ない赤酒(灰持酒)という古来の日本酒メーカーとして知られています。


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今回の再訪したのですが、興味深かいと思ったのはこの醸造所の所在地が熊本市でも白川の河口にも近い川尻町だったことです。

 それは、以前、鳥 子(トリコ) “宇土の八兵衛の逃亡ルート”で取り上げた八兵衛さん(1600年代初頭に細川藩によって処刑…)が鳥ノ子の方様を頼って日向に逃亡しようとしていたからでした。

 この島原半島の南端の口之津出身の八兵衛さんは刃物産地である川尻町で手に入れた針などを対岸の島原辺りで行商していた内にキリシタンに被れたものか、肥後藩に追われ逃亡した挙句、西原村から阿蘇の手前辺りで肥後の藩兵に捕らわれ殺害されているのです(詳しくは二本のブログをお読み下さい)。

 この刃物製作集団と鳥ノ子の方様の関係ですから恐らく金属加工の親方だったのでしょう。

川尻町との関係が鮮明であった事から、川尻の酒造メーカーの瑞鷹の金箔入りの酒が置かれているのが四百年前の事件を象徴している様に見え、それが、現在もなお続いている事に見え感動を覚えたのでした。


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これは島原の乱前後の事なのですが、その時代には金属加工集団の頭目と思えるとりのこの方様なるヤタガラスの後裔氏族のような人物が実際に存在していた様に見えるのです。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

スポット198 新刊案内 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房) 2018806

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スポット198 新刊案内 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房) 2018806


太宰府地名研究会 古川 清久


元)古田史学の会事務局長でもあり、久留米大学の公開講座でも一緒に講演して頂いた(「釜蓋」マンタ+「倭人も太平洋を渡った」)大下隆司氏が、山浦 純氏と共に『「日出処の天子」は誰か』を出版されました。

ここにそのご努力に敬意を表すると共に、併せて広くご紹介させて頂きたいと思います。


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新刊案内: 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房)

折しも、太宰府地名研究会協賛としてメンバーの伊藤正子女史による「聖徳太子」を探る小規模講演を熊本地震の最大被害地の一つである熊本県西原村で始めたばかりでしたので思いもひとしおでした。

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勿論、聖徳太子と「日出処の天子」とは同一ではないのですが、それは相互の研究に従うべきでしょう。

 では、新著の概要をお知らせします。


 聖徳太子はすでに一万円札から消え、教科書からも消えようとしています。それでは『隋書』に記された「日出処の天子」とは誰だったのでしょう、古代史学会はその取扱いに困っています。

【謎だらけの日本の古代史】

世界の歴史はシュリーマンのトロヤ遺跡発掘以後、科学技術を歴史研究に導入することにより、多くのことが解明されてきました。最近ではアフリカなど各地の古い地層から見つかった骨のDNA分析により、5万年、10万年前に住んでいた人類の動きもわかるようになってきました。日本でも、放射性炭素14年代測定法の導入により、縄文人は世界に先駆けて1万6千年前から土器を作っていたことが判明しました。

ところが日本国成立のカギをにぎる古墳時代に入ると、急に日本の歴史は「謎だらけ」になってしまいます。この時代の解明には全国各地にある大型前方後円墳の調査が不可欠です。しかし主要な大型古墳は天皇陵・陵墓参考地に指定されて立ち入り調査すらも許されない状態です。歴史を調べる手法として、それまでの時代の解明に使われていた科学的手法が、急に使えなくなるのです。

それでは、古代史・考古学者はどのように日本の歴史を組み立てているのでしょうか。 “大和朝廷が日本の始まり”とする明治以降の国の基本方針から逸脱することは許されないためか、未だに考古出土物が見つかると、“これは『日本書紀』にある大和のどの天皇に関係するもの”と、すべて大和に結び付けて解釈をしています。

さらにほぼ同時代(3~7世紀)に作られた「魏志倭人伝」や「宋書倭国伝」、「隋書国伝」など中国史書に記された地名・人名などを無理やり大和朝廷に結び付けています。同時代に記された一級史料を無視して、すべての歴史解釈を後世(8世紀)に作られた『日本書紀』をベースにして行っているのです。そして、その解釈がうまく出来ないと、それは謎です、と片付けます。

このため、世界のどの地域でもほぼ歴史が解明されている、わずか千数百年前の時代すら日本は「謎だらけ」になり、きっちりした歴史年表も作れない状況になっているのです。

“日本列島は万世一系の天皇家の統治するところ”とする思想をもとに作られた『日本書紀』に正しい歴史が描かれているのでしょうか。『日本書紀』の記述が違っていれば、日本国の成立はいつまでも謎につつまれたままです。

【本文の構成】

 『「日出処の天子」は誰か』は、特定の先入観や史観によりかかることなく、史書、金石文などを丁寧に読み解き、これらの史料が客観的に語ることに耳を傾けるという姿勢に努めました。そして、最新の科学的成果と知見を取り入れて、史料に記されている事実をできるだけ分かり易く語ることに心がけました。 

序章では、中国史書に描かれた「倭国」の興亡と歴史から抹殺された経緯、「日本国」の誕生を簡単に述べ、「日出処の天子」は「倭国」に実在した阿毎・多利思北孤であることを示しました。

第一章では、聖徳太子を巡る様々な謎を日本・中国の歴史書を比較検証し、かつ法隆寺にある釈迦三尊像の光背銘や古文書の分析から、聖徳太子の数々の業績が実は「倭国の天子」阿毎・多利思北孤のそれの盗用であることを述べました。

第二章では、「金印」授与の委奴国王や、女王「卑弥呼」の「邪馬台国」の所在地について検証します。また、中国史書に倭国の記述のない「謎の四世紀」については、韓国の史書を基に概観します。

第三章では五世紀の倭の五王の時代の日本列島、そして畿内で起きた武烈王朝から継体王朝への政権交代を取り上げました。

第四章では、六世紀の朝鮮半島の状況と九州王朝の誕生、全盛期を迎えた多利思北孤の時代、その後の朝鮮半島の同朋を救うため総力を上げ戦い、壊滅的敗北を喫した倭国の様子を示しました。

第五章では、乙巳の変、壬申大乱、白村江の戦いを通して天皇家が次第に権力基盤を固める一方、白村江の戦いで大敗し、衰退へ向かう「倭国」について述べます。

終章では、「倭国」滅亡と『万葉集』の歌に隠された「倭国」の風景、そして九州王朝の舞楽「筑紫舞」について語り、現代に蘇える「倭国」を描きました。

また、コラムにおいて、私たち現代人が知らされていない「倭人伝の短里(1里=約75m)」「二倍年歴」「太平洋を渡った縄文・弥生の人々」など、史料から見えてくる未知なる古代の姿を点描してみました。

さらに末尾には、古代日本において、中国・朝鮮と交渉していたのは九州の「倭国」だったということを、明確にするために、大和の近畿天皇家と北部九州の倭国・九州王朝を対比した年表を付しました。

 本書を読まれた方は、これまでの通説や学校で習ったこととあまりにも違う古代史像が提示されていることに驚かれると思いますが、これが中国史書等が証言している古代日本の真実の姿なのです。


701年に滅んだ倭国の痕跡は皆さんの近くにある古い神社の由緒のなかにも「九州年号」などに見出だすことが出来ます。是非この本を読み、「古代に真実を求める」旅に参加下さい。そして若い人たちに、わたしたちの祖先が残した素晴らしい足跡を伝えて下さい。

                               2018年8月大下隆司記

なかった別冊②

「日出処の天子」は誰か

よみがえる古代の真実

―――――――――――

2018年8月10日 初版第一刷発行

著者  大下隆司

    山浦 純

発行所 (株)ミネルヴァ書房

【目次】

はじめに

序 章 王朝の交代、「倭国」から「日本国」へ

 1 古代日本の姿 2 中国史書の中の「倭国」 3 日出処の天子は誰か

第1章 聖徳太子と多利思北孤

 1 日本人にとっての聖徳太子  2 聖徳太子をめぐる謎 

3 「隋書国伝」の多利思北孤 4 法隆寺の中の多利思北孤

第2章 金印・卑弥呼、弥生から古墳時代へ 弥生時代四世紀

 1 金印の時代 2 倭の女王卑弥呼 3 古墳時代の始まり

第3章 倭の五王と近畿天皇家 五六世紀

 1 倭の五王 2 「記紀」の天皇は倭の五王か 3 金石文解釈の疑問

 4 大和の王朝交代

第4章 九州王朝の成立から衰退へ 六七世紀

 1 六世紀、朝鮮半島の攻防 2 九州王朝の成立 3 多利思北孤の時代

 4 白村江の戦い

第5章 日本国の誕生 七八世紀

 1 大化の改新 2 壬申の乱 3 日本国の成立

終 章 よみがえる九州王朝

 1 疲弊にあえぐ倭国 2 万葉集の謎 3 秘かに伝えられた幻の筑紫舞

◆コラム

 ①「一寸千里の法」と短里――古代中国の天文算術書『周髀算経』

 ② 二倍年暦について

 ③ 太平洋を渡った縄文・弥生の人たち

 ④ ヨーロッパに伝えられた「九州年号」

 ⑤「君が代」は九州王朝の賛歌

 ⑥『古事記』と『日本書紀』

あとがき

参考文献

■資 料

 1 「魏志倭人伝」(紹熙本三国志)古田武彦による読み下し文

 2 「隋書国伝」原文(付古田武彦による読み下し)

 3 日本列島(倭国・九州王朝と近畿天皇家)の歴史年表

 4 倭国・九州王朝と近畿天皇家の系図


人名・事項索引

系図・史書・写真・史料・図・表 一覧


大下グループのブログへは、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)のリンクから「古田史学の継承のために」にアクセスして下さい。


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2018415日現在のネット・ワークです


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。

571 南阿蘇に急造された新興パワー・スポット “高森町の上色見熊野座神社”

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571 南阿蘇に急造された新興パワー・スポット “高森町の上色見熊野座神社”

20171129

太宰府地名研究会 古川 清久


 最近、阿蘇周辺に於いて、観光バスまでが入り参拝者が急増した神社があります。

南阿蘇高森の上色見熊野座(カミシキミクマノニイマス)神社です。

 恐らくこれも仕掛けられ創られたたパワー・スポット・ブームによるものとは思うのですが、人工的なブームとは永く長くことはありませんし、所詮は、村興し、町興し、果ては世界遺産登録と言った真実の歴史を無視した官製プロジェクトに絡め取られていくだけのものでしかないでしょう。

ここではそういった思いを抑えて極力この神社に向き合い、熊本には阿蘇系神社しかない…などと思い込まされている方々をも含め、多少とも正確な神社のアウトラインを描いてみたいと思います。


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この上色見熊野座神社は国道265線という九州山地を南から北のど真ん中を貫くハードな国道の東側にあり、南郷谷(南阿蘇)と阿蘇谷を繋ぐ阿蘇五峰の東麓に鎮座している一社です。

 この神社には長い石段と多くの灯籠群に穿たれた磐座や穿たれた池…とそれなりに人を惹き付ける魅力はあります。この手の話にはプロの手によって創られたホーム・ページなどがありますのでそちらを…。


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これは「熊本県神社誌」の同社に関する記述の一部分です。概して同神社誌はあまりにも簡略に書かれ過ぎていますが、同社の祭神はイザナミノミコトである事が書き留められています。残る三社が同社の摂社です。ただ、何故、夫神とされるイザナギが書かれていないのでしょうか?実は、イザナミはイザナギと速い段階で分かれクマノフスミと名を変えているのです。同様に色見熊野座神社もイザナミを祭神としており、色見地区でも菅原を祭神とする摂社が多い事から、同様の傾向が見て取れます。

 まず、熊野座神社と言えば、熊野本宮大社(実はスサノウのお妃となるも姫島に移ったアカルヒメであり=大幡主の子である豊玉彦=ヤタガラスの姉)、熊野速玉大社(速玉大神=実は博多櫛田神社の大幡主を主祭神とする)、熊野那智大社(実はイザナギと別れて大幡主の妃となったイザナミ=クマノフスミを祀る)に象徴される和歌山県(紀州)に鎮座する神社の一つであり、熊野三山とは神仏混合を残す熊野系神社の総本社を意味しています。

 では、阿蘇神社ばかりと考えられているこの地に何故、紀州熊野の神社があるのでしょうか?ただ、肥後3500社の内、菅原神社が1300社ある事もほとんど知られていません。勿論、熊野系は全国に3000社もあるのですから、この神社もその一つでしかないであろうと考える事は十分に可能かもしれません。

 ただ、山上の磐座やそれ以外にも山岳修験を感じさせるものもある事から(説明省略)、南北朝争乱期に宮方として連絡を取り合っていた(勿論、四国を経て熊野と九州の宮方の菊池、阿蘇、旧矢部村五条家)関係によるものであるかも知れません(神社縁起にはそれなりの起源は書かれてはいるのですが…)。

 通常、熊野座神社とはアカルヒメを主神とする熊野本宮大社を意味する事から、百嶋神社考古学から要約すれば豊玉彦=ヤタガラスの姉(市杵=瀛ツ島姫姫の母)を祀る神社となるのです。


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まず、「見」「美」…という地名語尾がキー・ワードになります。

有名な伊勢の二見ケ浦から、熱海、渥美、安曇、富海、温見、江見、伊見、宇美、尾身、鳥海(トノミ)、久美、古見、佐見、住江、能見(能見の宿祢の能見)、氷見…と全国に多くの事例が拾えます。

その大半が海岸部に集中しており、当然にも、表記が異なる式見が長崎市にもあります。


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式見は古代から大幡主の船団が有明海から対馬海流を利用し半島や大陸への寄港地だったはずです。

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「見」「美」…という地名語尾について考えて見たい方は、ひぼろぎ逍遥の045 という古いブログがあります。これら全てが実は博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神)の領域になるのです。


ひぼろぎ逍遥 バック・ナンバー 045 「花見潟墓地」の衝撃  20140310 をご案内しておきます。


鳥取県東伯郡琴海町に「花見潟墓地」と呼ばれる印象的な海岸性墓地があります。

この存在については以前から知っていましたし、類型墓については山陰の方々で出くわしていましたが、なぜか花見潟についてだけは何度付近を通っても通り過ぎ、これまで見る機会を持ちませんでした。

しかし、今回、長期の北陸遠征を試みたものの3月の大雪に阻まれ、すごすごと引き返す道すがら、ようやく思い立ち、無料の高速道路に乗らず、初めて、現地を踏むことができました。

予備知識は持っていたものの、現物を眼前にするとさすがに驚きました。… 以下省略。


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鳥取県東伯郡琴浦町赤碕 JR赤碕駅より徒歩約10


 これまで何度も申し上げてきた通り、博多の櫛田神社の大幡主とは神産巣日神、神皇産霊尊、神魂(カモス)と書かれる列島神話の最重要神の一柱であり、大きな武装商船団を組んで列島、半島、大陸、南方とも交易を行なってきた本当の意味での八幡(正八幡)神であり、八幡とは多くの大きな帆=八幡(バハン、ハバン倭寇=福建海賊)でもあるのです(ユダヤのヤファエでもあるのですが…ここでは触れません)。

 この阿蘇の上色見、色見とは熊本(実際には熊本城がある千葉城町の旧地名が隈本でありこれらが北上し日田の月隈とか佐賀の帯熊とか朝倉の隈江とか福岡の雑餉隈…といった多くの隈地名が派生しているのです)に一旦拠点を確保した大幡主の一族が大半博多など北に向かうのです。しかし、東に向かった人々が阿蘇の南郷谷、特に高森一帯に拠点を築いたと考えれば、この熊野座神社は相当に古い起源を持った物である可能性が高く、系統は異なるものの旧白水村(現南阿蘇村)の八坂(祇園)神社、西宮神社(高木大神系の高御産巣日神、高皇産霊尊)などと併せ考える必要性があるのではないでしょうか。

 驚かれるでしょうが、この大幡主の一族こそ雲南省の昆明から海南島を経由し熊本に入って来た中国大陸の白族=ペイツー=ペイホー族であり、天御中主=白山姫=ヤタガラス=熊野の父神の一族なのです。


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だからこそ熊本市内のど真ん中を流れる川が白川で、その白川の流れ出しがこの上色見であり、色見から流れ出しているのが色見川なのです(色見の本家集落が上色見)。同族の祖天御中主命も実は白山姫。


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旧白水(だからこそ白水水源や白川吉見神社もあるのですが)=現白川


 一方、雲南省麗江からメコン(瀾滄江)川を降り、海南島を経由して天草の苓北から阿蘇へと入ったのが、大陸で黎(リー)族と呼ばれた阿蘇氏=多氏=宇治族=耳族のヒコヤイミミ、カミヤイミミ、カミヌナカワミミ、キスミミ…の一族なのです。

 この黎族こそ本当の意味での阿蘇(高森の草部吉見神社)氏です。現在の阿蘇神社の阿蘇氏は、ヒコヤイミミらを受入れた高木大神の母系の一族であり、東に進出した阿蘇氏は(例えば鹿島大神=武甕槌=狭義の春日大神)その後藤原氏となり列島の支配的氏族に成長して行くのです。

 熊野の話からかなり逸れましたが、博多に拠点を置いた大幡主の一族は、阿波(徳島)、讃岐(香川)、紀(和歌山)を本拠地として、本家が移動し、再度、出戻り新山として博多に戻っていると言われたのも、故百嶋由一郎氏でした。

「熊」=「隈」であり、隈地名が集中する九州の北半部こそ、現熊野と併せ大幡主~ヤタガラス系の裏天皇の系統=白川伯王家に象徴される一族なのです。本物のヤタガラスの一族は博多に戻っているのです。

 「記」「紀」に縛られる方々のお考えは単調でほとんど漫画でしかありません。哀れとしか言えません。


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これが南北朝争乱期に熊野から持ち込まれたものか、遥か以前に成立したものかが重要ですが、色見の神社と併せ検討を進めます。

572 鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見

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572 鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見

20180201

太宰府地名研究会 古川 清久


 現在、一泊二日のプランで薩摩川内の藤川天神へのトレッキングを企画しています。

 菅原の道真公は太宰府で病死した事になっていますが、実は海路南に逃れ鹿児島県阿久根市辺りで上陸し陸路で山を越えて薩摩川内の山奥で生き延び余生を送ったという伝承があり、それを裏付ける実物が藤川天満宮という訳です。


菅原神社 (薩摩川内市東郷町藤川) 菅原神社(すがわらじんじゃ)は鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川にある神社。鎮座している地名から「藤川天神」(ふじかわてんじん)と称される。

境内には国の天然記念物である「藤川天神の臥龍梅」がある。

菅原道真を祀る。学問の神として、受験シーズンは祈願者が多い。

大宰府に左遷された菅原道真が隠棲した跡に創建されたという伝承がある。実際はこの地は太宰府天満宮の荘園「安楽寺領」で、そこに勧請された神社が発祥であるとされている。

しかし九州征伐で豊臣秀吉に焼き討ちされ、社殿・宝物など全てを失い、創建の正確な経緯は不明である。その後は薩摩藩主島津氏の庇護を受けて再興され、文化年中(19世紀初)には島津斉宣により社殿の修造が行われた。

1910年(明治43年)に藤川にある現王神社などを合祀し、菅原神社の摂末社となった。現在は菅原神社の本殿の北側に鎮座している。

ウィキペディア(20180203 09:15による


 当会には熱心な道真ウォッチャーもいることから、最低でも藤川天神を見て頂こうという思いから企画したものです。このため、単に藤川天神への参拝などと言ったどこかにあるような郷土史会や史談会の慰安旅行にはしたくない事から、藤川天神内の道真墓地と本物の墓地の確認と併せ、薩摩川内の新田神社や可愛山稜背後地の伝ニギハヤヒの墓の探訪を行なおうと考えているところです(今年の初夏に実施)。

 それはともかくも、藤川天神については過去数回入っており、初期の ひぼろぎ逍遥 でも取り上げています。これについては、 019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! をお読み下さい。

 そこで
、下見も兼ねて、このニギハヤヒの墓と藤川天神の道真の本物の墓所に詳しい現地の神社ウォッチャーと会う約束をして薩摩川内を目指しました。

 どのような方がおいでになるかと思っていたのですが、私より多少若い年配のアン・ルイス風の知的な女性でした。

 朝8時には薩摩川内に入っていましたが、どっちみちご自宅までお迎えに上がろうと、さらに姶良市まで足を延ばし、9時から再度、薩摩川内の新田神社まで戻ることになったのですが、その話は別稿とするとして、ここでは調査を終えて翌朝帰る途中で訪問させて頂いた大王神社なる初見の神社をご紹介する事にします。まず、大王神社と言えば人吉盆地に数社同名の神社がある事を承知していますが、確か中近世の武家の支配者か何かを祀っていたもので恐らく無関係と考えています。

 これ以外にも鹿児島県内の伊佐市に同名の大王神社があります。

572-1しかし、単に社名が同じだけで、各々系統の異なる神社の様であり事実上参考にはなりません。

 今回の下見で最も印象深かったのが、旧姶良町の大王神社でした。姶良市の山中に大王神社なるものを見た以上、雨など無視せざるを得ません。

 早速、見せて頂きましたが、愕くことに、ミズハノメが祀られていたのでした。

 大王神社ですから普通は男神だろうと早合点していたのですが、やはり、現地は踏まねばなりません。


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では、ご紹介しましょう。


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その神社は寺師の農耕地の最奥部の山際といった所にありました。

 神社自体は至って古風で、それだけでも心が惹かれますが、境内には寺師氏の出身地との石標が建てられていました。


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御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)


なんと御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)の一神でした。単独での祭祀は初見です。

非常に古い女神様ですが、寺師一族と何らかの関係があるはずで、少なくとも自らはその後裔と言った理解をされているのだと思います。

 一般的に天御中主命=白山姫(ミククルミタマノオオカミ)と弥都波能売(罔象女)の二神は共に水の神様とされる事が多いのですが(他に市杵島姫も…)、水波能売命と書かれている事もそれを象徴しています。勿論、逆に字面からかも知れませんが…。これも、農耕地の最上流に置かれている事も良く分かる気がします。

 さて、「記」「紀」の悪意に満ちた間の抜けた話よりも百嶋神代系譜を見ることにしましょう。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 百嶋神社考古学では、ミヅハノメこと神大市姫とは大山祗と大幡主の妹の埴安姫の間に産まれた娘で、大国主命とコノハナノサクヤの姉になる事がお分かり頂けると思います。

 あまり知られてはいませんが、大国主命、コノハナノサクヤヒメの実の姉に当たるスーパー・スター中のスーパー・スターなのです。

 まず、姶良市という名称からして大山祗と関係があるのではないかと思っていましたがその通りでした。

 また、本当の神武天皇(神武僭称贈崇神ではないという意味で)の本当のお妃だったアイラツヒメも、実はこの神大市姫と金山彦との間に産まれていたからアイラツヒメと呼ばれているのです。

 このことについては ひぼろぎ逍遥 スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”ほかでも書いています。


まず、百嶋神社考古学に於いて、アイラツヒメはヘブライ系瀛氏の金山彦とトルコ系匈奴(伽耶から侵入)である越智族の大山祗の妹である越智姫(神大市姫)との間の政略結婚で産れたハイブリッド中のハイブリッド・エリートとします。

ここで、百嶋由一郎説により母親がトルコ系匈奴の越智族であったとした場合、その娘の名がトルコ系言語だったのではないかと考えた事がありました。

ただ、昨年、少し「アイラ」がトルコ語ではないかと調べてはみたのですが、ayという語幹があることまでは見当が着いたもののそれ以上進めず踏みとどまっていたのです。

ところが、百嶋研究に関心を寄せる熊本の女性が、一週間ほど前に「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきたのでした。

急いで調べると、確かに彼女の言うとおりでした。


aylar- 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar"トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

572-9による


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そうです、トルコ国旗に描かれる通り、アイラツヒメとはアイラールaylar)姫の事だったのです。

してみると、父親である大山祗を百嶋神社考古学が月読命としている事とも対応するのです。

この辺りになると、通常の神社研究から逸れてくるようではあるのですが、百嶋先生の話には半島、中国から中近東にまで及ぶ膨大な情報が背後というか基層にあり、そのことによって神社を解説されている事から、どうしてもその基層の裏取りを行なう必要があったのです。

そこでお読み頂きたいと思うのが、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にリンクを張っている、百嶋神代史研究グループの一つ、「スピリチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」です。

当方には霊感などなくスピリィチュアルな世界は敬遠していたのですが、彼女の書く内容は、その感性の鋭さは言うまでもなく、愕くほどの幅広い知識、深い知識に裏付けられている事に気付き最近になって良く読んでいるのですが、実は、彼女もアイラツヒメの「アイラ」がトルコ語である事にとっくに気付いておられたのでした。

そのことを知り、逆に、「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきた某女性にこのblogを紹介したところ大喜びで感激したのでした。

では、縁側日記からお読み頂きましょう。

奇しくもあのくそ暑い夏の時期に、お二人は同じようなテーマに取り組んでおられたのでした。


 奇しくも、姶良市(現霧島市など旧姶良郡の一部)にトルコ系匈奴の大山祗の娘である神大市姫=ミヅハノメが祀られていること自体が、トルコ語のアイラール=「月」との関係を同時に示唆しているのです。

 してみると、鹿児島県、宮崎県に集中的に展開している寺師の一族も恐らくこの大山祗直系の氏族=つまりトルコ系匈奴の後裔ではないかと思えるのです。

 大山祗命は半島の金海金氏(ウマシアシカビヒコヂ)を父としと天御中主命を母として生まれたトルコ系匈奴の血を引く人物なのです。

 実際、旧姶良町には大山地区があり大山祗神社もあるのです。


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百嶋由一郎57年光武帝金印神代系譜


旧姶良郡の「姶良」という地名自体がトルコ語の「月」を意味するアイラールである事が分かると、大山祗系氏族の本拠地の一つががこの一帯であり、熊襲が褌を締めたような縄文人のような扱いで貶められていること自体が近畿大和朝廷による作為である事が見えて来るのです。


故)百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

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