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573 藤川天神の下見で遭遇した興味深い地名について“旧祁答院町馬頃尾(現薩摩川内市)”

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573 藤川天神の下見で遭遇した興味深い地名について“旧祁答院町馬頃尾(現薩摩川内市)”

20180201

太宰府地名研究会 古川 清久


 現在、一泊二日のプランで薩摩川内の藤川天神へのトレッキングを企画しています。

 菅原の道真公は太宰府で病死した事になっていますが、実は船で南に逃れ鹿児島県阿久根市辺りで上陸し陸路で山を越え薩摩川内の山奥で生き延び余生を送ったという伝承があり、その証拠が藤川天満宮なのです。

 当会には熱心な道真ウォッチャーもいることから、最低でも藤川天神を見て頂こうという思いから企画しているのです。このため、単に藤川天神への参拝などと言ったどこかにあるような郷土史会や史談会の慰安旅行にはしたくない事から、藤川天神内の道真墓地と本物の墓地と併せ新田神社か可愛山稜背後地の伝ニギハヤヒの墓の探訪を行なおうと考えているのです。

 それはともかくも、藤川天神については過去数回入っており、初期の ひぼろぎ逍遥 で取り上げています。これについては、 019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! をお読み下さい。

 そこで、下見も兼ねて、このニギハヤヒの墓と藤川天神の道真の本物の墓所に詳しい現地の神社ウォッチャーと会う約束をして薩摩川内を目指しました。

 どのような方がおいでになるかと思っていたのですが、私より多少若い年配のアン・ルイス風の知的な女性でした。


 一日中神社をご案内頂いたのですが、その帰路の途中、見た目で理解できる興味深い地名に遭遇した事からお知らせしたいと思います。


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この地が瀬早川~久富木川という川内川に流れ込む支流の流域である事は一目ですが、大きな蛇行を見せている事から、平坦地で溢流しやすい場所である事が分かります。

 つまり、水が滞留しやすい水捌けの悪い土地である事も同時に示しているのです。

 そこに「馬頃尾」(マコロベ)という地名があるのです。国土地理院地図では(マコロベ)です。

 始めは、「マコロビ」と呼ぶのだろうと思ったのですが、付近におられるご老人にお尋ねすると「マコロブ」との事、やはり確認すべきでしょう。

 まず、単純には言えませんが、三文字表記の地名は相当に古いものと考えられ、というのは好字令による二字地名化以前の地名であることが推定できるからです。


律令制確立直後の、大宝4年(704年)に全国の国印が一斉に鋳造された。それを機会に国名に用いる文字が改定され、現在までつづく表記となった。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、元明天皇は、令制国毎に『風土記』という地誌の編纂を命じた。現在、出雲国、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国の物が、一部残存している。同年5月に畿内と七道諸国の郡(こおり)・郷(さと)の名に好字を付けるように命じた。上毛野国・下毛野国・木国・粟国の国名が漢字2文字に統一された。

ウィキペディア(20180204 1037による


 そこで、三文字表記をそのまま受け入れたとして表音表記と考えれば、馬が湿地に足を取られて転ぶという意味の“馬転び”をそのままの地名にしか思えないのです。


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これは馬頃尾バス停正面の風景ですが、完全な水平堆積が起こっており絶えざる氾濫によって真っ平らな土地が生まれている事が分かります。

 はたして“馬が転ぶ”というそのままの地名…が七世紀以前に化石の様に閉じ込められているかどうかは分かりません。

 さて、「マコロビ」ではなく「マコロベ」と読まれている事です。

 「尾」を「ビ」ではなく「ベ」と呼ぶ例は知りません。

 敢て考えれば「マコロビ」+部(ベ)が「マコロベ」と呼ばれているぐらいにしか思えません。

 下手すると自分自身が転んでしまいそうです。

 この「馬転尾」の地名の話はここまでです。しかし、佐賀県唐津市には「馬部」(マノハマリ)という奇妙な地名が存在しました(現枝去木)。

 これも“馬が沼地に嵌ってしまい動けなくなるという”地名であろうと考えていました。


574 藤川天神再訪 “鹿児島県薩摩川内市藤川”

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574 藤川天神再訪 “鹿児島県薩摩川内市藤川”

20180204

太宰府地名研究会 古川 清久


 現在、一泊二日のプランで薩摩川内の藤川天神へのトレッキングを企画しています(公開時は既に実施)。

 菅原の道真公は太宰府で病死した事になっていますが、実は海路南に逃れ鹿児島県阿久根市辺りで上陸し陸路で山を越えて薩摩川内の山奥で生き延び余生を送ったという伝承があり、それを裏付ける実物が藤川天満宮という訳です。


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菅原神社(藤川天神)カーナビ検索 鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川1767 ℡0996-42-0753


菅原神社 (薩摩川内市東郷町藤川) 菅原神社(すがわらじんじゃ)は鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川にある神社。鎮座している地名から「藤川天神」(ふじかわてんじん)と称される。

境内には国の天然記念物である「藤川天神の臥龍梅」がある。

菅原道真を祀る。学問の神として、受験シーズンは祈願者が多い。

大宰府に左遷された菅原道真が隠棲した跡に創建されたという伝承がある。実際はこの地は太宰府天満宮の荘園「安楽寺領」で、そこに勧請された神社が発祥であるとされている。

しかし九州征伐で豊臣秀吉に焼き討ちされ、社殿・宝物など全てを失い、創建の正確な経緯は不明である。その後は薩摩藩主島津氏の庇護を受けて再興され、文化年中(19世紀初)には島津斉宣により社殿の修造が行われた。

1910年(明治43年)に藤川にある現王神社などを合祀し、菅原神社の摂末社となった。現在は菅原神社の本殿の北側に鎮座している。

ウィキペディア(20180203 09:15による


 当会には熱心な道真ウォッチャーもいることから、最低でも藤川天神を見て頂こうとの思いから企画したものです。このため、単に藤川天神への参拝などと言ったどこかにあるような郷土史会や史談会の慰安旅行にはしたくない事から、藤川天神内の道真墓地と本物の墓地の確認と併せ、薩摩川内の新田神社や可愛山稜背後地の伝ニギハヤヒの墓の探訪を行なおうと考えているところです。

 それはともかくも、藤川天神については過去数回入っており、初期の ひぼろぎ逍遥 でも取り上げています。これについては、 019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! をお読み下さい。

 そこで、下見も兼ねて、このニギハヤヒの墓と藤川天神の道真の本物の墓所に詳しい現地の神社ウォッチャーと会う約束をして薩摩川内を目指しました。

 どのような方がおいでになるかと思っていたのですが、私より多少若い年配のアン・ルイス風の知的な女性でした。


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藤川天神には過去数回足を向けていますが、まだ梅は蕾のまま開いてはいませんでした。

 今回は落ち着いてこれまで見ていないものを見ようと思いましたが、まず、白太夫の墓をご紹介しましょう。

 参道右手にはこの白太夫なるものの墓があるのです。


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百太夫(ももだゆう、ひゃくだゆう)は、日本の民間信仰の神である。

出自は不明であるが、傀儡師(傀儡子)や遊女が信仰する神であり、特に西日本各地の神社の末社として祀られる。一般に男神とされ、多数の木像を刻んで祀る。大江匡房の『傀儡子記』に傀儡子が百神を祀るとあり、『梁塵秘抄』や匡房の『遊女記』に遊女が祀る神として百太夫の名が見える。また、道祖神や疱瘡除けの神としても信仰される。

北野天満宮の第一の末社に白太夫(しらだゆう)があるが、字が似ていることや「はくだゆう」と読むと「ひゃくだゆう」に音が似ていることから百太夫と混同されることが多い。白太夫は各地の天満宮に祀られる。一説には、菅原道真の従者であった外宮祀官・渡会春彦を祀るという。


ウィキペディア(20180204 14:00による


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当然にも道真の墓と称せられるものがあります。それが上の写真(左)なのですが、私は疑っています。

まず、参道脇の参拝者の足が入るところには墓所は造られないはずで、参道が後で造られるとしても避けて造られているはずです。これは宣伝と賽銭の騰がりと安全を企図したダミーにしか思えないのです。

そこで、以前からお聴きしていた案内者のアン・ルイス女史の説ですが、二本のオガタマとイロハモミジでしたか、古木の間に置かれた石塔こそ本来のものではないのかとの説に従うものです。

 道真は逃亡しながらも方々に子種を残しているので、道真はこの地で亡くなったとの説がないわけでもないのですが、それがこの藤川に当てはまるかと言うと、ダミーは太宰府の近辺ならば意味があるのですが、この藤川のような辺地、僻陬の地は潜行地ではあっても単なる眼晦ましではないと思うのです。

 そこで、この藤川天神から遠くない土地に、若宮神社なる小さな神社がありますのでご覧ください。

 道真公は大幡主系と言うよりヤタガラス系の武夷鳥の系統と金山彦~瀛ツヨソ足姫の系統の本家によって成立しているのです。してみると、この藤川の下流に鳥丸(薩摩川内市東郷)という地名も気になります。

 故)百嶋由一郎氏も道真公の潜行地、逃避行については、高知県の宿毛、大分市の邯鄲、大分県玖珠町の菅原…などお話になっていますが、直接藤川天神については話しておられなかったと思います。

 ただ、ご存じなかったとは考えられませんので、今後も調べたいと考えています(手書き資料に有り)。


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スポット191(前) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没

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スポット191(前) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久


sp191-1翌日には書き始めていましたが、ストックが多い事から、結果、2ケ月後のオンエアになりました。そのつもりでお読み下さい。以下。

岡山県倉敷市の北部を東に流れる小田川流域の町真備町(倉敷市に編入)の29%が水没しています。

私も総社市~真備町~旧矢掛町に掛けても何度か入っています。

山陰道に比べてフィールド・ワークが薄い山陽道でも比較的神社を見て廻った地域です。

まず、真備(マビ)町とは奇妙な町名ですが、当然にも筑前守、肥前守にもなった(左遷なのですが)吉備真備(キビノマキビ)にちなんで付された町名なのでしょう(彼は矢掛町の出身なのですが…)。

神社研究に於いては、湯原や中山を別にすれば、岡山市、総社市、井原市の一帯は岡山県でも最も重要なエリアになるのです。古代史に多少とも関係する者としては、以前から、この小田川に沿って古代の官道が通っていたのではないかと考えていました。

勿論、我々にとっては九州王朝の古代官道になるのですが、それはともかくも、相当に広い平坦地が続く一帯で穏やかに東流する小田川が印象深い土地と言えそうです。


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まず、東の総社市には吉備津神社、吉備津彦神社、総社宮…と重要な神社が揃い踏みしています。

 十五年以上前でしたが、天子宮調査のために真備町の西隣、矢掛町小田の武荅天子宮(ムトウテンシグウ)に足を運び、その後も何度か周辺の神社を探訪しています。

 このため一帯の地形は今でもある程度頭に入っているのですが、当時の印象もこの一帯は古代に於いては汀線だったのではないか…、最低でも海岸に近い湿地帯か沼地だったのではないかといったものでした。

 まず、倉敷と言えば児島湾干拓の児島が頭に浮かびますが、岡山から倉敷には海起源の非常に大きな平地が隅々まで広がっているのです。その延長と言えば良いのでしょうか?この小田川流域にも長閑な平地が続いているのでした。しかし、今回は神社の話をする訳ではありません。

 既に災害報道によって良くご存じの通りですが、矢掛町と併せ倉敷市に編入された真備町の話です。

この町の平坦部が水没しているのですが、平坦地とは事実上の中心地でもあることから、どうやら中心部が壊滅的な被害を受け、町としての機能も麻痺してしまっているのです。

 では、どうしてこのような事が起こってしまったのでしょうか?

 勿論、西日本全域と同様に、数十年に一度のような豪雨によるものとか、高梁川からの逆流とか、真砂土の堆積…、それに何故か小声ながらも流木が堰き止めたからなどと言われていますが、まずは、決堤(堤防決壊)こそが最大の原因である事は間違いがありません。


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真備町の冠水地域


 これが、最も重要なポイントなのですが、あまりにも大きな豪雨による災害という宣伝=情報操作に誤魔化されたからか、マスコミも含めて(彼らは知っていて黙ります)殆ど議論さえされていないようです。

 そもそも、溢流(オーバー・フロー)と決堤とでは意味が全く異なります。雲泥の比があるのです。

 溢流の場合は、水が入ったとしても徐々に水位が上がるだけで、仮に水浸しになったとしても破壊力はそれほど大きくありません。

 考えて見れば分かる事ですが、一人暮らしの在宅介護の老人の移動とか言った問題を無視すれば、単にじわじわと水位が上がるだけで、通常はそれなりの対応も可能でしょうし、建物被害も少なく、真夜中に急に人命が失われる事までは発展しないでしょう。

 しかし、堤防決壊となると全く話は異なります。一気に大量の土砂や昨今急増している放置された人工林の杉や桧などが雪崩れ込む事から、当然にも桁違いの破壊がもたらされる上に、その後も大量の水が間断なく襲い続けるのです。

sp191-4 今回の三~四ケ所(実際にはもっと増えるでしょう)の決堤のポイントは、詳細には確認していませんが、風化花崗岩真砂土中心の土質である事を考えると当然にも天井川でしょうし(真砂土の場合は粒子が大きい為天井川になりやすいのです)それだけでも影響は大きかったはずです。

確か私が訪れたのは三~四回程度ですが、どの当時(妙な表現ですが)も河川改修工事は行われていたと記憶していますが、


倉敷・真備の堤防3カ所決壊確認 豪雨浸水被害で国交省調査団

“…調査団の福島雅紀・国交省国土技術総合政策研究所河川研究室長は「堤防ができた当時に想定していた水位を超えた」と指摘。増水した水が堤防上部からあふれ、川の外側から堤防の土を削って崩壊させた可能性があるとみて、決壊の原因を詳しく調べる。…

…小田川では別にもう1カ所決壊しているとの情報を得ているとした上で「現地で見て被害の
sp191-4大きさに改めて驚かされた。この規模の河川で堤防の上部まで水が達することはめったになく、降雨がいかに激しかったかがうかがえる」と話した。”


と、一ケ所で百メートルの決堤を引き起こしたにも拘わらず、豪雨の責任にすることについてだけはしっかりと怠りないようです。

 まず、これだけ破壊的な洪水を引き起こしておきながら自らの責任など全く考えていないのであり、国土交通省は、堤防決壊による被害の責任は一切被災者持ちで、自らは全く何の責任もないと考えているのです。実に酷い話です。哀れなのは棄民化された被災者のみと言う訳です。

 戦後70年もの間、大規模な予算を使い継続的に河川改修を続けておきながら、一体この後何十年経ったら責任を取るつもりなのでしょうか?これでは膨大な予算を引出し土建屋どもに配り続ける事だけが仕事であって、自分達だけはその余禄と言うか甘い汁を吸い続けているだけになっているのです。

 “小田川では、昭和477月洪水、昭和519月洪水により、大規模な内水氾濫が発生し、昭和49年~平成11年にかけて沿川11箇所において排水機場が整備され、合計約26m3/sの排水ポンプが増強されました。”(国土交通省)

 幕藩体制下でも河川改修の指揮をとった普請方の役人が堤防決壊の責任を取って切腹した話は方々に残っていますし皆さんも幾つかは聴かれた事があるはずです。

つまり、国家のためにも国民のためにも国土のためにも国民経済のためにも一切働かず、ゼネコンへの天下りと高額年金や退職金の事しか考えていない連中ばかりがいるのが国土交通省なのです。

まあ、農水省所管の林野庁が暴走させた拡大造林の放置が保水力を喪失させ、大量の雨水どころか土壌流出と人工林の大規模崩落を齎している事ははっきりしていますが、両省ともこの失策は全て経験した事もない大豪雨のせいにすれば良いとでも考えているのでしょう。

それはともかくも、まさか、鬼怒川水害の時の様に指揮拠点となるべき行政官庁は元より、警察署や消防署などは水没してはいないでしょうが、ここまで行くと馬鹿さ加減だけが見えて来るのです。

 地元なのにそんなことも分からないのか…と言いたくなるのですが、こういうものは、本来、丘陵地にこそ置かれるべきなのです。それが不可能なら最低でも全てを高床式にすべきですが、結局は車が移動できなければどうしようもないのです。まさかとは思いましたが調べると案の定でした。

 話では合併によって支所はハザード・マップの水没エリアにあるとの事(こいつら馬鹿か?)、関心があったのは予算の問題と土地取得の問題だけで、長期的視野を持たなければいざと言う時に行政機関そのものが救援の対象(助けてくれとばかりに手を振る事は無かったでしょうが…)になりかねないのです。



 

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sp191-6倉敷市、実態把握遅れ対策後手に 真備支所の水没響く

…最大の要因は真備支所の水没とみられる。市地域防災計画では、市本庁舎への災害対策本部の設置に伴い各支所に地区本部を置き、各地区本部は現地の災害情報や活動状況を災害対策本部に報告することとしている。真備町地区でも5日夜の災害対策本部の設置後、地区本部を開設したが、7日未明に小田川の河川堤防が越水すると、3階建ての真備支所は2階まで冠水。災害対策本部と連絡が取れなくなった。…



スポット191(後) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没

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スポット191(後) 日本版ニューオーリンズと化した倉敷市真備町の全町水没

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久


同じような記事ですが、何故かNNNの記事は削除なのか開けません。削除依頼か自主規制なのか情報操作とも考えました、多分勘繰り過ぎでしょう。

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彼らは、庁舎の発注をどの業者にするのか、キック・バックが幾らになるか、と言った事しか関心が無いのかも知れません。もはや使命感も長期的視点もないのです。

 災害が起こっても、その責任は豪雨をもたらした自然のせいにし、想定を超えた水量…などと繰り返しているのですから、知識も技術もない上に誇りも使命感もないと言う事から日本も終わりなのです。

 市町村も県もやたら責任逃れのために警報を乱発するだけで(オオカミ少年)、気象庁も線状降水帯などと言った新造語を持ち出し、何やらとんでもない大雨が降ったかのように説明しているのです。

 では、今回の豪雨も本当にありえないような水量だったのでしょうか。

 最近の傾向ですが、豪雨災害の責任回避のためには24時間では足らなかったと見えて48時間どころかとうとう72時間降雨量が軒並み600㎜を超え、前後を併せると1,000㎜にもなるなどと大騒ぎをしていますが、単純に比較はできませんが、この程度の大雨はそれほど珍しいものではなく、事実、昭和32年の諫早大水害では南高来郡瑞穂村西郷(現・雲仙市)の24時間降水量が1,109mmという遥かに凌駕する降水量を記録しているのです。

 たかだか60年程度の前にもこの程度の雨は降っているのであって、想定外などとは到底言えるはずなどないのです(調べれば直ぐに分かるはずです)。

 こんなことは、顔だけで多用されるお天気お姉さんなどのお母さんさえも産まれていない記憶を持たない時代の事であって、経験した事もない大雨…と大騒ぎする事になっているのです(意図的でも)。

 所謂、陰謀論扱いされる気象兵器HAARP(ハープ)云々…といった話も巷では潜行どころか公然と飛び交っていますが、それは置くとしても、局所的であった昨年の九州北部号災害の五倍どころか、西日本全体で考えれば十倍を超える規模の大災害の常態化している事になっているのです(朝倉、伊勢、鬼怒川…)。

 東では福島県と言う日本で三番目の大県を人工東日本大震災と原子力災害?によって潰し(潰され?)、「熊本人工地震?」から今回の西日本豪雨災害によって、どうやらこの国も災害に対する国家の弾力性が奪われ、容易には立ち直れない所にまで追い込まれているかのように見えてきます。

 今回も熊本、朝倉、日田と同様に、頼りはボランティアと自衛隊だけ…行政は災害復旧工事の発注だけといったところでしょう。

 もはや、議員は元より、行政の首長の大半が土建屋と産廃業者といった連中なのですから最早救いようがないのです(彼らだけは災害復旧費と言う打ち出の小槌を手にして内心は将来まで大喜びなのです)。

 かなり話が逸れましたので軌道修正しますが(どうなろうが自由のはずですから修整はしませんので…)、

 そもそも、この小田川流域とは、本来、人が住み着くべきところではなかったはずなのです。

 現地を見れば一目瞭然ですが、低平地が広がっている所とは、そもそも、湖など水中で水平堆積が起こるような湖か沼のようなところだったのであって、こういう場所には、元々住めないどころか住んではならないのが当たり前で、まともなと言うのは失礼でしょうが、古くから住み着いておられる家系の方々は、自らと一族の安全だけを考えて水が得られる程度の緩傾斜地に住み着いてきたはずなのです。

 その理由は、前述したように風化花崗岩真砂土は堆積しやすい事から天井川になり易いうえに、元々、古代の湾奥か低湿地の沼地や湖のような排水がされ難い土地を農地や水源地として利用するならいざ知らず、間違っても住宅地や工業団地などとして利用する事は愚かな行為だったのです。

 そもそも、小田川の小田とは九州の人間には直ぐ分かるのですが、小田(オダ)は元々「ウダ」「ウーダ」と呼ばれていたはずなのです。これは九州から人が入っているとの地名や神社の考察からは十分わかるのです。まず、通説派は決して認めようとはしませんが、九州方言とは古代の標準語だったのです。

 九州では、つい最近まで「大事(オーゴト)をしでかした」を「ウーゴトヲバシデカシタ」と発音していました。

 従って、小田とは小さな田んぼの意味ではなく、非常に大きな田んぼが広がる土地という意味なのです。

 つまり、水害さえなければ、大きな田んぼが広がる夢のような穀倉の意味であって(あくまでも歳年の条件が良ければですが)、旧小田郡とは巨大穀倉地の意味だったはずなのです。

この事だけからも、本来、覚悟を持った人以外は田んぼには住んではいけなかったのでした。

 従って、古くからこの地に住み着いている人々は南に面した北側の丘陵地に住み着いているのであって、

自分たちは安全な土地に住みながら、“他所からやって来た地元の事を知らない人はああいう土地に家を建てるもんな…昔は一雨降れば水が引かない「海」(沼の意味ですが)だった”などと嘯いておられるはずなのです。

 その実、このように自分はそこには住まないと言う人も、往々にして先代、先々代がその湿田を売って土地成金になっているからこそ高みの見物をしているのですが、ここまでくると、土地は値段を見て買うのではなく、きちんと標高や付近の河川それに地形を見て購入すべきであることが分かるのです。

 後は、知識や経験が得られないならば、地元の古老などに聴きこむ事が必要(どうせ不動産屋も行政もグルですから“堤防は近年改修されていますから大丈夫でしょう”などとその場凌ぎの事しか言うはずはないのです)になるのです。

 結局、戦後復興期に瀬戸内海の水島コンビナート(倉敷市)などがだるま船などで大量に採取された瀬戸内海の砂で海立てられどんどん造成されるようになり人口が急増してくると、少しでも工場に近く交通の便が良い安い土地を求めて殺到した事から、本質的に危険で、藩政時代などは鶴の一声で“この地には住み着いてはならぬ!”で実質的な遊水池にされた土地だったところなのですが、戦後の農地解放から愚かな民主主義の時代になると、金儲けのために農地を金に換えようとする輩が続出するようになるのです。

 こんな時代に“ここは低い土地で水没しやすいから止めておいた方が良いですよ”などと少しでも本当の事でも言おうものなら、地域振興だけに狂奔する行政も巻き込んで、金が欲しい地権者などから寄って集って袋叩きにされたはずなのです。その時代にハザード・マップなど作ればそれこそこぞって叩かれた事でしょう。結局、人々が大量に住み着いたからこそ作られることになっただけの事なのです。

 こうして、何時の時代でも貧乏人は犠牲の上に犠牲を強いられ、世代を重ねていくことになるのです。

 今になって考えれば、少子化によって造成地もバリバリのマンションも中古住宅もダブついているので、このような今後も水没を続ける様な土地にしがみつく必要などないのですが、ローンで縛られた低所得層は市役所支所と運命を共にせざるを得ないのです。何やら羽柴秀吉による備中高松城の水攻めを思い出してしまいますが、役所がアホやけ野球がでけへんが次の連想でした。建物が真新しいので支所の選定は地域を知らない倉敷市主導だったのかも知れませんが、またもや鬼怒川大水害と同様の結果となったようです。

 仮に利便性だけを考えてこの地に住み着いた金持ちが水没したとしても、岡山などの高級マンションを購入し直ぐに快適な暮らしを始めるはずで、復旧が終わった頃、元々の家を移転する事になるのです。

 くだらないのはハザード・マップで、始めから分かっているならば、建築確認申請を降ろさないとか、そもそも都市計画法に基づく規制措置などを被せるべきなのですが、そんなこともできやせずに、結局、国交省、県の河川局などの技術系の役人どもが退職する時に、天下り先になっているコンサルタント会社などに持参金同様の手土産として発注されることになるだけなのです。

 表向きはどうであれ、要は、水没すると言う事は始めから分かっていましたし、こんなところに住む事は自己責任です。…とばかりに、自らの自己保身のために作られているだけであって、予算の切出しの中で、定期的に国交省系のファミリー企業に仕事をさせるだけのお仕事でしかないのです。

 結局、ハザード・マップなど何の役にも立たないのであって、もっとこれを周知させるべきだなどと騒ぐ半端な方々がおられますが、実情を知らないとしか言いようがないのです。

さて、岡山県の一級河川は、東から吉井川、旭川、高梁川の三河川とされています。

どうせ高梁川に西から直角にと言うより鋭角に合流する小田川の上流にもダムが造られていると思っていたのですが、小田川は、珍しくも高梁川に合流するまでダムの無い自然な川でした。

そうでなくても、岡山県と言えば、史上最悪の公共事業といわれた苫田ダムの事が頭に浮かんで来ます。

NHKが全国ラインで特集を組んだ事から高校生の私もしっかりと記憶していますが、当時の岡山県知事長野某がどんなにひどい反対運動潰しをやったかだけは鮮明に記憶しています。

この当時から行政とは汚い事をやる連中だと刷り込まれたのでした。

ここでは、おだやかに書かれているもので一応ご説明申し上げますが(当方が書いた文章をお出ししても良いのですが…実は「ひぼろぎ逍遥」で苫田ダムとダブル検索されれば出てくるはずです)、それほど長野某は本当に汚い手を使い酷い仕打ちをし続けたのでした。

あの時代にこれほど酷い事をやった岡山県ですから何だってやったのだろうと思ってしまいます。


苫田ダムは計画段階で激しい反対運動が行われていた事で知られています。

ダムの建設により、水中に沈んでしまった地域は旧奥津町(現・鏡野町)ですが、そもそも奥津町は、ダムに反対の三村(苫田、奥津、羽出)が合併して誕生した町です。

反対運動は38年もの長期に及びました。

その間、対話を進めて住民の理解を得た上での着工とされていますが、反対を譲らない町に対して、県は補助金や起債の手続きを故意に遅らせる等、いわゆる【圧迫行政】を行ったと言われています。

1990年にダムの受け入れを表明しますが、その直前となる1986年~1989年の間で、3名の町長が任期途中で交代しています。

ダムに賛成する町長が出ない限り、奥津町は圧迫され続けたのです。

一方では住民に対し、移住までの資金として多額の現金を支払う事でダムに賛成するように根回しをし、やがて奥津町は追い込まれた末に、計画を受入れざるを得なくなったのです。

当時の県知事は、地方自治の神様とまで評された長野士郎さんでした。

よくも悪くも、やり方を良く心得ていたのです。

sp191-8による

当方の辛辣な文章がお好みの方はひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下を検索してください。


386

2016年真夏の津山の神社探訪 ④ “悪名高い苫田ダム建設で

犠牲となった久田神社”(下)

385

2016年真夏の津山の神社探訪 ③ “悪名高い苫田ダム建設で

犠牲となった久田神社”(上)


このことからもダムがないというだけで小田川には愛着を持ってしまいます。しかしダムを造りたくてしかたがない河川局のダム屋共は、この間ダムが絞られている事からも河川工事を疎かにし、少々の洪水を人為的に起こしてでも“だからダムを造るべき”として早期のダム建設に持っていこうとしているのでしょう。一方、高梁川という北の中国山地から流れ降る大河川の水圧に阻まれ、古くから沼沢地だったはずなのです。

もともと小田川流域は中国山地の備中高梁方面から一気に流れ降る一級河川の高梁川の勢いに押し返され排水し難い川だった事は間違いないでしょう。

水系指定によって国交省河川局の直轄工事で高梁川の河川改修工事が行われると、流速が上がり当然水位も上がって、小田川からの水がさらに一層水が吐けない構造が造られたのです。


sp191-8


西日本豪雨で大きな被害を受けた岡山県倉敷市真備町、被害の発生前と後の様子を撮影した人工衛星の画像データからは、川の氾濫や浸水は少なくとも東西およそ7キロにわたっている様子がわかりました。専門
sp191-9家は「浸水が市のハザードマップに近い形で広がっている。こうした想定をしっかり周知する必要性を感じる」と話しています。


国土交通省のHPにはこの高梁川と小田川の合流部については、計画が立てられています。

これが完成するまで、また完成したとしても小田川流域には何度となく水没災害が襲でしょう。


sp191-11河川整備基本方針及び河川整備計画の策定


 平成9年の河川法改正を受け、平成198月には、今までの河川整備の基本となる計画であった工事実施基本計画に代わり、治水・利水・環境の総合的な河川の整備を目指し、河川整備基本方針を策定しました。河川整備基本方針における小田川の治水対策は、柳井原貯水池(旧西高梁川)を河道化し、小田川と高梁川の合流点を下流に移動させることにより、小田川水位の低下と高梁川酒津周辺への負担軽減を図るものとなっています。
 平成2210月には、今後概ね30年間に行う河川の具体的な整備目標や実施内容を示した「高梁川水系河川整備計画【国管理区間】」を策定し、河川整備が進められています。
 その後、進捗点検をを踏まえ、、①高潮堤の整備延長延伸、②施設能力を上回る洪水への対応 (危機管理型ハード対策)、③広域防災対策等を追加し、平成296月に高梁川水系河川整備整備計画【国管理区間】を変更しました。右は
高梁川水系河川整備計画


愛媛の野村ダムにしても大陸の中国並みにデタラメですし、国土交通省は酷土復元省とでも変え今までやって来たデタラメを元に戻させるために解体再編させるべき時代になってきたのではないでしょうか?

いずれにせよ水没され人生を失った方々には言葉もありません。

スポット192(前) 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発

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スポット192(前) 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発生した ① 

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久


昨年、スポット112 朝倉~日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした! 以下連続して色々な側面から同種のblog を10本ほど発信しました。以下はその一本目の一部の再掲載です。

再掲載(画像抜き)…以前読まれた方は2pほど飛ばして下さい。


20177月の九州北部豪雨では、福岡県朝倉市~大分県日田市に掛けての多くの山沿いの集落が悲惨な状況に陥っています。

しかし、本流の筑後川の堤防は決壊(決堤)、溢流(オーバー・フロー)もしていませんし、単に大雨が降って流れただけならば泣く人も全くいなかったはずなのです。


sp192-1

画像は一例ですが、良く知られた場所の朝倉市杷木町の杷木ICの西側の被災地です。

今のところどこが最も酷い災害地なのかが分からない状態ですが、まず、筑後川北岸(右岸)の朝倉から日田にかけての山間部を中心に局所的に被害が出ているようです。

実は、この局所的と言う認識が重要なのです。

一般的には朝倉市から日田市に掛けた全域で大規模な雨が降っているといった印象をお持ちの方が多いかも知れませんが(そういった発表がされているので当然でしょう)、メンバーにはブロガーでもある元気象庁の上級職員もおられ、等しくこの一帯に住む者として“全くそうではない”という話をしています。

大規模な災害が頻発した前後、私自身は日田市でも東の標高450メートルの阿蘇の外輪山の延長の様な所にいたからかも知れませんが、それほど大規模な大雨が降ったと言った印象はありませんでした。

あくまでも、被害は山崩れが起こった地域に集中しており、この人工林地の崩落が起こっていない場所では被害と言う被害は全く認められないのです。

問題は人工林地の崩落であり、テレビ報道を見続け確認を続けましたが、その崩落地の大半がと言うよりも殆ど全てが杉、檜(まあ大体は伐期35年のはずの杉林なのですが)の人工林地だったのです。

その前に気になる事があるので先に触れておかなければなりません。

それは、「線上降水帯」とか48時間降水量(見せかけ上これまでにない大雨が降った印象を与える)で550と言った新表現によって過度に大規模な大雨が降っているといった印象を植え付けようとしている(印象操作)ように思える事です。

それに連動して、“焼け跡に焼夷弾”と言った感のある責任逃れのためのメールがやたらと乱発されているのです。

こういった事を奇妙に思っていると、武田邦彦教授がユーチューブ上で十分納得できる話を早々と出しおられました。


sp192-2

少なくとも私に関しては、行政や気象庁や大手マスコミは信用するに値せず、全くの嘘に近い情報を発信しているものと確信しています。

まずは、僭越ながらも武田教授の話を一つでもお聴き頂きたいと思いご紹介申し上げます。

今回の大雨報道、洪水報道の異常さについては武田教授が十分に話しておられますので付け加える必要などありません。

これも教授が指摘されていることですが、1957年の諫早大水害の降水量は、24時間(決して48時間ではないのです)1,109なのであり、遥かに多い(今回の4倍程度)降水量が確認されているのです。

つまり、この程度の雨(普通の大雨で来年でも今年でも再び起きる)はこれまでにも何度となく降っていたのであって、それ以上に大きな問題が背後に隠れている事に気付かなければならないのです。


諫早豪雨

諫早豪雨(いさはやごうう)は、1957725日から728日にかけて長崎県の諫早市を中心とした地域に発生した集中豪雨およびその影響による災害のこと。

諫早豪雨は気象庁が正式に命名したわけではないが、広く使われている呼称である。地元自治体やマスコミなどは諫早大水害(いさはやだいすいがい)の呼称も用いている。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

南高来郡瑞穂村西郷では24時間降水量が1,109mmという驚異的な降水量を記録し、6時間降水量と12時間降水量では日本歴代最高記録を記録している。


ウィキペディア(20170713 21:26による


長崎大水害(ながさきだいすいがい)は、1982年(昭和57年)723日から翌24日未明にかけて、長崎県長崎市を中心とした地域に発生した集中豪雨、およびその影響による災害である。

気象庁は長崎県を中心にした723日から25日の大雨を「昭和577月豪雨」、長崎県は「7.23長崎大水害」(7.23ながさきだいすいがい)と命名したが、本項では降雨・災害双方を区別しない通称の「長崎大水害」を項目名とした。

以下の記述では、市町村合併によりすでに消滅している自治体もあるが、原則として豪雨発生当時の自治体名で示す。

長崎市の北に位置する西彼杵郡長与町では23日午後8時までの1時間に187mmの雨量を観測。これは日本における時間雨量の歴代最高記録となっている。また西彼杵郡外海町では23日午後8時までの2時間に286mmの雨量を観測し、こちらも歴代最高記録となっている。…

…時間雨量では長与町役場に設置された雨量計で2320時までの1時間に187mmと、1時間降水量の日本記録となる値を観測。長浦岳の雨量計(アメダス)では19時までの1時間に153mm、同8時までに118mmの雨量を観測した。また、外海町役場に設置された雨量計で2320時までの2時間に286mmと、2時間降水量の日本記録を記録している。降り始めからの24時間雨量は長崎海洋気象台で527mmを観測した。

ウィキペディア(20170719 11:18による


299人の死者を出した長崎豪雨災害は527㎜であり、48時間で550㎜などと倍の嵩下駄を履いた朝倉は24時間に置き換えれば、その半分の規模でしかなかったのです。

今回の豪雨災害(一応豪雨としておきますが…)の特徴はどなたが見ても歴然とする杉、檜の流木の異常な多さで、どのように考えても売れもしない人工林を無理に植えさせ、売れないまま放置させていることから、急斜面に50年生、60年生といった通常の伐期を越えた大重量の危険な木材が崩れ落ちるのを待っていた事にあったのです(これを追認したのが「長伐期施業」という事実上の棚上げ政策です)。

これこそが拡大造林政策の付け回しによる負の遺産であり、今後、国民生活を脅かす危険な時限爆弾と言えるものなのです。

恐らく今回の災害復旧が完了する前後には再び別の豪雨災害が追い打ちをかけ、今回被災を免れた場所や復興したばかりの場所さえもが再び抜ける事になるでしょう。

事実、日田市の山国川流域では五年前の災害復旧の途上の場所が、またもや新たな洪水被害を受けている様なのです(まだ、現地に入れないため確認できないでいます)。


さて、話はここから始まります。

2018年の全域を襲った西日本豪雨災害(200人近い死者50人近い行方不明者…未確定)が終わると、

一転して35度どころか38度に昇るカンカン照りが続いています。

まずは、と言っても長文ですが、打ち水大作戦の大間抜け 古川清久/太宰府地名研究会なり① ひぼろぎ逍遥 スポット001 この耐え難い「ヒート・アイランド現象は国土交通省、農水省…が引き起こした!を読んで頂きたいと思ってしまいます。

勿論、このくそ暑い時にそんなものを読んでいられるか!とお思いの方は、水ぶろにでも入って本でも読まれた方が余程ましですので、間違っても無理に草むしりして熱中症で心肺停止に至るよりは、ペンギンのような生活の方が余程良いに決まっています。

事実、私もエアコンはあるものの水風呂と濡れたバス・タオルを背負って扇風機に当たりながらこのブログを書いている訳です。

生ぬるいエアコンよりは扇風機で濡れた皮膚に風を送れば気化熱(潜熱)によって皮膚の温度が下がることからそれなりに快適なのです(エアコンが無い時代田舎の婆さんなどが濡れタオルを背中に掛けていた事を懐かしく思い越しています)。

どうせ、死ぬまでにあの懐かしい四季のある古き良き日本列島や夕立の風情が戻るとは思えませんので、来世はペンギンに生まれ変わりたいと思うばかりです。

石原莞爾排除後の現代版関東軍とも言える国土交通省と、格下ながらも農水省の二省庁が列島に巨大なヒート・アイランド現象を引き起こし、大豪雨と軒並み35度を超える(室内では体温を上回る40度)カンカン照りが続く国土(酷土破壊)を齎したことはもはや疑う余地がありません。

彼らは、今尚、開発と称し利権構造を維持しながら、自分達だけはのうのうと天下りし甘い汁を吸い続けているのです。

まさしく国家のためにも国土のためにも国民のためにも国民経済のためにも働かない寄生虫とも言うべき国賊なのです。

この中で、数十万の直接的な犠牲者が産み出され、人生を失った国民が死ぬまで働かされようとしているのです。


 ひぼろぎ逍遥 スポット001 

この耐え難い「ヒート・アイランド現象は国土交通省、農水省…が引き起こした!

 打ち水大作戦の大間抜け 古川清久/太宰府地名研究会

 熱 禍 (打ち水するより、コンクリートを引っ剥がせ!)アンビエンテ


これから今回の原因であるヒート・アイランドの話を書きますが、余程気に障ったと見えて、槌田エントロピー理論の槌田敦教授と近藤邦明氏が継続している「環境問題を考える」“その科学的根拠を論じる”というサイトのサブ・サイトとして10年以上前ですが「アンビエンテ」内にヒート・アイランド問題を書いたアンビエンテⅣの56本が、アクセスできない様になっています。

どうせ金で雇われた国交省かどこかの別動隊でしょうが、不都合な記事をネットから消して廻っているようですので、こちらも対抗措置としてこれからも乱発したいと思っています。幸いにも今のところは上の三本は系統が異なるからか生きていますのでお読み頂きたいと思います。ただ、「打ち水大作戦の大間抜け」は相当の長文ですので覚悟してお読み下さい。

スポット192(後) 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発

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スポット192(後) 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発生した ① 

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久


雨はどうして降ってくるのか


sp192-3このような表現が地球物理学的に正しいかどうかは一先ずおくとして、単なる公務員上がりの初老人間の話として聴いて頂きたいと思います。

まず、湿った大気が移動し山にぶつかることによって高空に押し上げられた水蒸気は高空の冷たい大気で冷やされ雨や氷に変わり、大半は雨となって山で降りそれが急流となって里の田畑を潤すというのが列島の伝統的な気象現象でした。

しかし、このような湿った大気が横に移動する事によって押し上げられ降ってくるばかりではなく、単に上下に移動するだけでも雨は降って来ていたのです。夕立です。

夏の炎天下で温められた水は水蒸気となって空に上がって行きます。

当然、気圧が下り断熱膨張して温度が下がり細かい水滴として上昇気流の雲の中で浮かんでいるです。

しかし、いつかは飽和し上空に留まる事ができなくなって落ちてくるのですが、それが雨となって一気に降って来るのが夕立だったのです(もはや自分でも過去形で書いているのが情けないですね…)。

これで、日中に熱せられた地表は急速に冷やされ、なんとか快適に寝られる温度となったのでした。

夕立は瞬く間に乾燥した地面に吸い取られました。昔は草むしりをしたくないからとか、蚊が湧かない様にといってコンクリートで固めたりなどされていませんでしたから、地表には土も溝(これも死語になりつつありますが)や家庭菜園があり、それなりの保水力があって実際にも地表にも水があったのでした。

sp192-4翌朝、再び太陽が昇ってくると、この夕立を受け止めた広い大地から再び多くの水が水蒸気となって高空に上がって行きます。

まず、地表の水が水蒸気となって上空に上がって行く時に、地表の水を蒸気と変え地表から多くの熱を奪う事によって地表の温度を下げますし、上空に持ち上げられた水蒸気が冷やされた水となって落ちて来て地表の温度を下げることによって人々は、「ここらで一雨降らないか…」と夕立を待っていたのでした。


駆逐艦 夕立(帝国海軍は伝統的に「万葉集」なみに優雅な艦名を付けるのです)


フィリピンのリンガエン湾上陸作戦からガダルカナル島、そして第三次ソロモン海海戦まで大東亜戦の緒戦から激戦を闘い抜き最期はソロモン海で海没した白露型の4番艦


こうした水循環によって地表の水は空と往復し、同時に熱循環が起こり、室温4045℃などといった気違いじみた部屋で独居老人が孤独死する事など全くなかったのが江戸、大阪の町屋の風景だったのです。

一方、村では方々に堀が残り、ゴミなど一切ない(あったとしてもプラスチックではないため自然に分解するものだったのです)美しい水路が張り巡らされメダカやタガメなど多くの水棲生物がいたのでした。

勿論、山も戦前までは人工林地は非常に限られた地域に管理された一部の杣山だけがあっただけで、大半は広葉樹の森が広がっていました。このため日本の山は多くの水を含んで保水力が豊かであったことからその面積の大きさからも全体としての列島の気候を穏やかに保っていたのでした。

こうして、この最も暑い時期には田んぼには水が入れられており、夕立の材料となる水はふんだんにあることから、毎夕方決まって雨が降って来たのでした。

このように海辺も街も村も山も間断なく穏やかな雨が降る事によって美しい風土と穏やかな気候と豊かな人情と国土が保たれていたのでした。

簡略化して言えば夏のカンカン照りは地表の水を上空に運び、再び夕立として地表に戻し、翌朝、新たに雲(夏の場合は入道雲ですが)となるという水のキャッチ・ボールのような循環によって、実は同時に熱のキャッチ・ボールも行なわれていたのでした。

この機能を戦後70年掛かって徹底的に破壊したのが国土交通省であり農林水産省だったのです。

そして、一層問題なのは二組織ともこの重要な事実に全く気付いていない事なのです。

勿論、いくら頭の悪い土木系とは言いながらも、高級官庁には賢い人間もいるのですから、当然にも知っていて口を噤んでいる人もいるはずでしょう。しかし、本当の事を口走ろうものなら、当然にも出世が出来なくなるとか、天下り先にも煙たがられるだろうからと口を噤んでいるはずで、組織だった発言、評価に至らないために表面的には気付いていないとしか言えないのです。

つまり、大東亜戦末期に“本当は連戦連敗”と言えなかったと同じ構造の空気に支配されているのです。

都市部は当然ながら農村地帯から山岳地帯まで保水力が事実上存在しない国土と化しているという事実については前述の三本を読んで頂くなりする事にしますが、一応、概略だけを述べておきましょう。


 都市部のヒート・アイランド

まず、都市部ですが、昔の河川は表面が覆われているのは橋の下だけで、今の様に全面伏流化した暗渠になっているような事はありませんでした。

その上に重要なのは、炊事から風呂場に至るまでほとんどの水が下水道とか大型地下水道として浄水場はおろか海に直接捨てられることによって地表には事実上水が消えてしまっていることなのです。

僅かに残された公園も管理が簡単なコンクリートで固められたヨーロッパ式(風)の庭園と化し殆ど水はありません。

仮に雨が降ったとしても三面張りの水路でたちどころに地下(下水道の意味)に吸い込まれ、土の地面は鎮守の森に僅かに残された猫の額ほどの小さなものしかなく、ラーメン屋の駐車場から大店舗の駐車場までもがアスファルトで固められ地表に水がある所を探すのが非常に難しいのです。

もしあるとしたら、小泉竹中改革によって国民所得が半減させられ、瞬く間に後進国並みとなってしまった結果、低開発国並みの比較的安い(OECD最下位の一人当たり国民所得)観光地として多くの外国人が押し寄せる事となった結果、韓国人と中国人と在日が立小便する程度しか地表に水が存在しなくなっている事なのです(こいつらは京都の御所や寺や神社でさえ立小便する)。

熱物理学など分からないのか、国土交通省も農水省もただただ河川を直線化し大型化させ、雨が降ったら一刻も早く海に押し流す事しか考えていないのです。

こうして、都市部は全て水循環が切断され、地表が受け取った太陽熱は蓄積される一方となったのでした。もし違うと言うなら出て来て文句を言え!

最低でも都市部のヒート・アイランド現象が国土交通省以下の行政によって引き起こされた事がお分かり頂けたと思います。最低でも疑問を持っていただければ幸いです。

ただ、CO2温暖化論という国際的な国家的なデマの問題があるのですが、そもそも定点観測が行われている土地の周りがヒート・アイランド化によって軒並み(全国どころか全世界規模で)気温上昇しているのです。つまり、現在の観測網では本来の大気現象が把握できていない可能性があるのです。


 農村部のヒート・アイランド

農村部は大丈夫と思われている方は多いかも知れませんがこれも全く違うのです。

農村部でも地方都市は下水道化が多少遅れているとは言いながらも基本的な構造は大都市と全く同じですので、中小河川と農耕地を考える事になります。

実は、ほぼ二十年前に大半が完了した圃(ほ)場整備事業によって、田圃の構造が大きく変わっているのです。

昔の水田地帯は曲がりくねった水路の端々に沼地や湿田や葦原が広がり多くの生物が棲みかとしていました。

しかし、伝統的な湿地帯から小河川扱いの沼地は色々な方法で地区内に取り込まれ、大半の湿田は消えましたし、公有水面(原則国有地)とされていた面積は数字のマジックによりかなりが失われた上に、二面張りの直線的な水路と化してしまいました。

その上に、田畑の切り替えやハウス栽培などといったものへの転換が可能なように、何時でも仮に隣であっても田畑が切り替えられるようにと、昔は段々畑状に上から下へと水が送られていた水田が各々取水し各々排水できる構造に変えられてしまったのでした。

この結果、ひとたび大雨ともなると雨は土壌丸ごと排水路に流し込まれ土も水も失うことになってしまったのでした。

結果、昔は平地にも見られた上の田植えが終わらないと水が下まで来ないとかいった関係が消えてしまったのでした。いずれにせよゴルフ場のような雨が降れば直接排水路に流し込まれ河川に入る事となってしまったのでした。

斑状に水田、畑、ハウス、駐車場、倉庫…などが相当に増えている上に、数年前まで強力に推進されてきた減反政策によっても全国の水田としての作付面積(夏季に水が入れられる水張面積)は半減しヒート・アイランドへの道をひた走っているのです。

従って、都市部だけではなく、地方でも急速に夕立が降らなくなっている事はどなたも経験的にお分かりになっていると思います。


 山間地のヒート・アイランド

この話は林業による人工林地の実態を把握されていないと全く理解できない話なのですが、山に入らない都市に住む方々には中々理解できない事かも知れません。

まず、戦後の農林省による拡大造林政策の発動とは、本当に必要な時には全く間に合わなかった用材林地(大半は杉と桧)の造成でしたが、平坦地はそれこそ米作推進の真っただ中だったため、大半は工業地帯から外れた兵庫、愛媛、福岡、佐賀、熊本、宮崎(何やら今回の西日本の災害地に重なりませんか?)…などが林野庁から狙われた結果(農家に民有林としての人工林育成を勧めた)、大量の杉山、桧山が急増したのでした。

結果、どうなったでしょうか、既に、少子化、無産化、人口減少(これだけでも住宅は余り続けているのです)の上に所得の半減化によって住宅の需要が激減した上に、相対的に所得を維持している都市住民の住居はマンションと化し鉄とコンクリートとプラスティックスとガラスと僅かな外材(米松)で建てられているのです。

こうして凡そ阪神大震災の頃から需要を失った国産材は急増したパネル工法に取って代わられる傾向が顕著となり、実質的に拡大造林政策以来の人工林は放置されたのでした。

結果、通常の伐期である4045年を大幅に超える人工林地が急増したのでした。

元々、針葉樹は広葉樹に比較して根を張らない上に、腐葉土を全く造らず土地が痩せ続ける上に、木材が売れない事から間伐、枝打ちがされずに間伐したとしても現場の急傾斜地に危険な倒木が放置(売れないからですが)される上に、間伐されない事から陽が入らず昼なお暗い中で下草も生えずに、剝き出しの土壌が一方的に雨に打たれて夥しい土壌が流出し続けているのです。

このため売れない木材が急傾斜地に放置され、年々、体積と重量を増した危険な人工林が支える土壌を失いながら崩れる順番を待っている状態とになっているのです。

また、山の奥までコンクリート構造物が造られ、三面張りの水路で水が奪われている事も山のヒート・アイランド化の大きな原因である事は言うまでもありません。

こうして、人工林の中も著しい乾燥化が進み、かつての広葉樹林の森に見られたスポンジのようなふわふわした腐葉土は全て押し流され保水力のない瓦礫のような砂漠地が広がっているのです。

瓦礫の砂漠からは蒸気は持ち上げられる事無く山にも雨が降らなくなっているのです。

これが山に造られるダムにも水が溜まらなくなっている理由の一つなのです(最近は関東地方のダムに水が無いと言う話は頻繁に聴かれるようになりましたね)。

これで、山岳地帯から里山まで人工林化された山地でもヒート・アイランド化している事が多少はお分かり頂けたと思います。

こうして、列島の全体が乾燥化しヒート・アイランド現象が進んでいる事がお分かり頂けたと思います。


 猛夏とも言うべき列島の高温化傾向は、国土交通省が地表から水を消し去った事によって発生しており、殆ど認識されていない農村から山林に掛けても農林水産省が地表から水を奪った結果発生しているのです。

 この熱物理学を全く理解していない国交、農水の二省を中心に戦後70年掛けて伝統的な列島が破壊され続けて来たことがお分かりになったと思います(詳細は前述の三本を中心にお読み下さい)。

問題はこの列島全体を覆う人為的なヒート・アイランド現象でしかないものを、なにやら亜熱帯から熱帯化している(これは全体の現象の一面の表面だけを見たものでしかありませんが…)とか、CO2温暖化による史上経験した事もない異常な豪雨の頻発と高温化によるものであり、とんでもない異常気象によるものであるとする大嘘にあります(史上経験した事もないような…と馬鹿騒ぎしていますが、気象庁や予報官も実はアメダス導入以来のほんの20年間程度の話を大騒ぎしているのです)。

その一部であるCO2温暖化論といった大嘘は、行政とそれに連動する気象庁などでは今も小声で主張する傾向はあるのですが、35度を超える様なこれほどの高温化傾向が出現しているにもかかわらず、今年は何故か比較的おとなしいのは、ホッケー・スティック捏造以来、CO2温暖化論が国家的な大嘘である事が一般にも理解され、小役人などよほどの大間抜け以外は、この大嘘を真顔で信じている人がかなり減っているからでしょう。

ここではこの問題についてはふれませんが、敬愛する武田邦彦教授が脚光を浴びる前、つまり二十年も前から、エントロピー理論の槌田敦と近藤邦明氏らによってCO2温暖化論が国際的、国家的デマであるという事を主張され続けて来ました。

私は、「有明海異変」を出した後(15年も前の役所にいた頃ですが)彼らと連携し、この「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”というHPのサブ・サイトとして下世話な公共事業を取り上げる「アンビエンテ」として足掛け五年程書き続けました。

 このため、CO2温暖化論がデマであることについては…大型サイトの「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”をお読み頂きたいと思います。


sp192-5

川についてはsp192-6人工林についてはsp192-7

人工林問題については平野虎丸氏のサイトをお読み下さい。

スポット193 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発生した

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スポット193 行政が引き起こした列島のヒート・アイランド化によって豪雨災害と灼熱地獄が発生した ② 

20180715

太宰府地名研究会 古川 清久


今さら言うまでも無い事ですが、西日本全域を襲った豪雨災害から一転、息をするのも辛いばかりの熱波が被災者と言わず行政担当者と言わず西日本全域の住民を襲っています。

この豪雨災害の大半が国土交通省と農水省によってもたらされているという事を(序)で書きましたが、これからは、何故、「線上降水帯」などという俄仕立ての「新造語」が作られたのか?を考えてみます。

下調べの段階で発見したのは二つの記事でした。勿論、これ以外にも本質に迫るリポートはあるのですが、これは一般にも理解しやすいものを選んだ一部と考えて下さい。

一から書こうとも思いましたが有難く借用させて頂くことにしました。私が書きたいのはこの先の話なのでお許し願います。

お誂え向きにsp193-1
が以下の記事を書いています。



梅雨前線、異例の居座り 大雨を招いたメカニズムは  2018772003


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sp193-3西日本に停滞し続けた雨雲


西日本を中心とする今回の大雨は、梅雨前線が東日本~西日本の上空で数日間ほぼ同じ位置に停滞したことが原因だ。

梅雨前線は、北側にある「オホーツク海高気圧」と南側の「太平洋高気圧」が、日本の近くでぶつかり、停滞することで生じる。太平洋高気圧の勢力が次第に強まり、前線が北上することで梅雨が明ける。気象庁の桜井美菜子・天気相談所長によると、今回は暖かく湿った空気が前線に向かって流れ込む梅雨末期の典型的な雨の降り方だが、前線が同じ場所に長時間居座ったことが異例だったという。高知県馬路(うまじ)村では3日間で、年平均の4分の1にあたる1091・5ミリの降水量を記録した。

 気象庁は6月29日に関東甲信地方で梅雨明けしたと発表したが、台風7号が日本海を通過したタイミングで、太平洋高気圧は南東に移動。このため梅雨前線が再び南下し、台風7号が運んできた暖かく湿った空気が雨雲の供給源となり活発化。広範囲に雨を降らせた。関東甲信地方でも6日は雨が降り、気象庁は「戻り梅雨」だと説明する。

 さらに、上空を流れる偏西風の影響などで、太平洋高気圧が北上できないまま、オホーツク高気圧との拮抗(きっこう)が続いたことで、停滞が長期間続いたとみられる。

 昨年7月の九州北部豪雨では、局所にとどまり強い雨をもたらす「線状降水帯」が突然現れ、数時間で記録的な雨を降らせたが、今回は広範囲で大雨が長時間にわたって続いた。

 名古屋大の坪木和久教授(気象学)によると、太平洋高気圧の位置は今回、九州北部豪雨に比べて東寄りだったことが、その理由だという。坪木さんは「太平洋高気圧が南東に移動したことで、東日本~西日本にかけて広範囲に暖かく湿った空気が大量に入り込みやすくなった」と話す。


もう一つご紹介しましょう。


湿った空気と上昇気流が積乱雲を作るんだ


森羅万象博士より 梅雨のころ、北海道の北側にある「オホーツク海高気圧(オホーツク海気団)」と南の海上にある「太平洋高気圧(小笠原(おがさわら)気団)」が日本付近でぶつかって、押しくらまんじゅうをしている。暖かい空気のかたまりと冷たい空気のかたまりの境目は線のように延びて「前線」ができる。これが「梅雨(ばいう)前線」だ。北と南の高気圧はがっぷり四つの状態だから、前線はあまり動かず、1カ月以上も雨やくもりの日が続く。

 梅雨が終わりに近づくと、南西の方から暖かくて湿(しめ)った空気のかたまりが押し寄せ、さらに南からも暖かい湿った風が吹きつけてくる。これが大雨をもたらす。よく天気予報で「前線を刺激(しげき)して活発になる」と説明する状況だ。

 このタイプの梅雨の大雨は西日本で起こりやすい。特に、九州や中国、四国地方に多い。約300人の死者と行方不明者を出した1982年の長崎豪雨や2012年の九州北部豪雨など、大きな被害(ひがい)をもたらす災害がたびたび起きている。

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このほか、新潟県などの北陸地方でも梅雨の末期に豪雨が多い。大雨が降るのは「暖かい湿った空気」と強い「上昇(じょうしょう)気流」がそろったときだ。水蒸気を多く含んだ空気が上空へ行き、膨(ふく)らんで温度が下がると、冷やされた水蒸気が細かな水のつぶになる。これらが集まって雲になる。上昇気流が強いと、空気はどんどん上へ向かう。雨つぶが次から次へと発生して雲が上へ延び、大きな「積乱(せきらん)雲」ができる。

 梅雨の終わりには、梅雨前線に沿うように中国大陸の南の方から湿った暖かい空気のかたまりが日本へ流れ込むようになる。この空気のかたまりは天気図で長く延びた舌(した)のようにみえる。「湿舌(しつぜつ)」と呼ぶ現象だ。湿舌が西から延びて東シナ海の上を通る間に、大量の水蒸気を取り込む。

 地上では、高気圧からは時計回りに風がふき出す。夏が近づいて太平洋高気圧が勢力を増すと、西側や北側へ張り出してくる。元気になった太平洋高気圧の西のへりでふき出す風によって、南の海から暖かくて湿った風が日本へ向かってふき込むようになる。もともと、湿舌では弱い上昇気流が発生している。そこに大量の水蒸気を含んだ南よりの風がぶつかると、一気に持ち上げられて、強い上昇気流になる。積乱雲が次々とできて、強い雨が長時間にわたって降り続く。それで記録的な大雨になるんだ。

 湿舌が発生しているとき、大雨が降るのは天気図にある梅雨前線よりも南側になることが多いよ。

 記録的な大雨には地形も関係することが多い。暖かくて湿った風が山の斜面(しゃめん)にぶつかると、強い上昇気流ができる。風がどんどん流れ込んでくると、積乱雲が次々と発生しやすい。

 太平洋高気圧の勢力がさらに強まると、梅雨前線は北側へ押し上げられる。そうなれば梅雨明けだ。梅雨前線がいすわり続けると、今後も大雨となる可能性がある。天気予報を注意して聞いてみよう。


(取材協力=竹見哲也・京都大学准教授)[日経プラスワン201679日付]による


ヒート・アイランド化した災害列島は国土交通省と農水省が造りだした


相当に多くのネット情報を拾いましたが、真新しい「線上降水帯」という奇妙な表現に相当する新現象、つまり、特別に変わった事が起こったという事実は全く得られませんでした。

まずは、一般的なモデルとして考えますが、要は、梅雨の末期に北のオホーツク高気圧と南の太平洋高気圧の接点に沿って南から湿った水蒸気が大量に流れ込み、そこで湿った大気が持ち上げられる事によって大雨が降った(降り続けた)という従来型の「発達した停滞前線豪雨」でしかなかったのでした。

そうなのです。スコール化して激しくはなっているものの、何も変わったことは起こっていないのです。

愛媛で72時間に1,100㎜降ったと騒ごうが、24時間に均せば高々200㎜台の普通の大雨でしかなく、この程度の雨ならば、古くは1957S32)年の諫早大水害や1982S57)年の長崎大水害の降り方には遠く及ばないのです。諫早大水害の降水量は24時間(決して48時間でも72時間でもないのです)1,109㎜なのであり、長崎大水害は、降り始めからの24時間水量が長崎海洋気象台で527mmを観測されているのです。

恐らく、テレビで大騒ぎするお天気おネイさんから若手の気象予報士の方々は、せいぜいアメダス導入後の20年程度の情報しか拾わずに、史上経験した事もないような大豪雨…と好い加減な情報を流しているのでしょう。ただし、降水量それ自体は同じだとしても、一気に降って一気に流れ降ると洪水にはなるため無視して良いと言っているのではないのです。しかし、実はこれが非常に重要なポイントなのです。

当然にも災害対策の遅れは指摘せざるを得ません。その原因は原発事故に伴い全く生産的でも将来を見据えたものでもないただただ意味のない後ろ向きの後始末(これも永遠に続く)のために続く東日本大震災への傾斜配分(しかもとんでもない法外な単価の支出がなされている…)の結果、必要な投資が行われずに全く意味のない工事に手を取られているのです。原発推進に旗を振った馬鹿議員や首長共は腹を切れ。

 さて、始めは東日本にさえ豪雨災害が発生するかのように大騒ぎされてはいたのですが、蓋を開けて見れば、結果として発生した災害は大きかったものの、実際に起こった豪雨の総量は言われるほどのものではなく、行政のために大袈裟に報道はされものの普通に頻発するレベルでしかなかったのでした。

 要はこれからも発生する程度の豪雨であったものの、他の要因、つまり、売れない人工林の崩壊による洪水や水没しやすい所に住宅開発を認めるとか、崩落しやすい崖地への住宅地の開発を認めるとか、全体として山の頂まで三面張りのコンクリート側溝を張り巡らせ、ちょっとした雨でも一気に水が住宅地に送り込まれる構造が造られてしまった事、大型河川の直線化が進んだ結果一気に流れる事(これによっても破壊力は等差級数的に増大する)によって水位は急激に上がり、二級河川以下は水が排出されずに水没し易くなる…と言った具合で、一気に水が吐き出され、所によっては一気に水が溜まる構造が造られてしまった事にあるのです。真備町の小田川流域については上流にダムを造りたい国交省のダム屋(ダム派、河川派の対立も)によるサボタージュもありそうですが(少しぐらい洪水を出す方がダムを造り易い…)。


 笑い話のような“これまでに経験した事もない数十年に一度の大災害”が毎年やってくる 


 問題は、ヒート・アイランド化されてしまった結果、都市部ばかりか農村部も山林までも全ての地表が乾燥化されてしまったために、間断なく上昇気流を発生させる構造(当然海面温度よりは高い)が出来てしまい、フライパンと化した列島の平坦地で上昇気流が発生し続け、あたかも熱帯のスコールのような雨が次から次に降ってくる装置が造られている事なのです。

 国土交通省と農水省が中心となって造り上げられた現在のヒート・アイランド化した列島の国土は南西の海から膨大な水蒸気を含んだ大気を呼び込み、線上降水帯などと名を変えられただけの発達した停滞前線に沿って間断なく上昇気流が発生し大雨が降るという現象が起こったのでした。

 問題はこの現象が頻発するヒート・アイランド化した国土が造り出された事にあるのです。

 この仕組みというか装置が出来上がったことによって、気象庁が声高に叫ぶ“これまでに経験した事もないような数十年に一度の大災害”が実に毎年起こる事になったのでした。

 結局、何のことはない、両省は戦後70年掛かって災害規模を大きくしたのでした。

災害を防ぐと称して国庫から貴重な税金を引出し、実質的にファミリー企業化した関連の受注業者に収賄の先付とも言うべきできるだけ美味しい単価で発注し、後付けの賄賂とも言うべき天下りをしているだけのことなのです。

 国民(住民でも納税者でも生活者…こんな名称など何の意味もない)でも何でも良いのですが、この土木工事に関わる実質的なマフィア、シンジケートが流すデマから独立し、自らの頭で考え行動する以外に自らの家族と生命と生活と財産を守る事が出来ないと言う事が鮮明になったのです。

 事実50年ほど前に起こった真備町の水害でも死者は12人と比較的少なかったのでした。

では、何故、線上降水帯などという恥知らずな呼称を使ったのでしょうか、探索はこれからですが、農水省の拡大造林政策によって生じた土壌流出(巨大な堆砂によってダムの洪水調節機能が消失している)と国土交通省によって河川、末端水路が雨樋化した結果、降雨と共に一気に洪水が起こる国土に変えられた事を知るべきなのです。今や穏やかな日本はありません。自らは自らで守るしかなくなっているのです。

575 古川という家系について ③ “「小鹿島橘氏」の治承・寿永内乱―から”

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575 古川という家系について ③ “「小鹿島橘氏」の治承・寿永内乱―から”

20180207

太宰府地名研究会 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 556557において、古川という家系について ①~② の二本を書きました。

これ自体は自らの家系が橘一族に繋がるのではないかと言う事に気付いた事から、その個人的な家系を探そうとしたところ、栄えある橘一族の本流の一流であり橘公業の流れを汲む橘公忠の後裔である 宮原 秀範から資料を頂きました。

 宮原 秀範氏はヤタガラス後裔である橘一族について575-1を書かれていますが、古代史~九州王朝探究のみならず、橘一族の末裔ではないかと思われる方(橘、立花、渋江、牛島、中村、宮原…)は是非ともお読み頂きたいと思うものです。

 氏から頂いたコメントは当方の不注意による部分的な誤り(公忠と公業との関係)を指摘頂いたものでしたが、それに加えて新しい資料も紹介して頂きましたので、古川という家系について ①~② への追加補足として留めることにしました。


575-2

2010年の京都女子大の紀要なのだと思いますが、岩田慎平氏による「小鹿島橘氏」の治承・寿永内乱―鎌倉幕府成立史に寄せて―です。この中には橘一族(公忠、公業)など鎌倉政権成立段階で頼朝に協力し橘一族の存立に腐心したいわば中興の祖を見るのです。部分的に切出してコメントを加えるべきですが、岩田氏の論考を傷つける事になりかねませんので、部分的ながら全文を掲載させて頂きます。


575-3

575-4

575-5

575-6

以下、宮原氏からのアドバイス


宮原メモ(20180206

1.橘公忠の消息は、はっきりしませんが吾妻鏡に記載が少なく、合戦で亡くなったか?不明です、公業は政治的素質が有り、朝廷に仕えたようです。

一部の系図には、名前は有るが内容が有りません、ほとんどの書物は公業から始まっています。尚、参考に岩田慎平氏の論文の一部を添付します。

2.橘町の歴史の中に、古川の記載が有りましたので、添付します。以上簡単ですが連絡致します。


黄色のマーカーは宮原氏によるものですが、氏は橘 諸兄以来の栄えある血筋の探索のために努力されており、九州王朝探究にも極めて重要な示唆を与えて頂いています。

青枠 は当方によるものですが、この岩田慎平氏による「小鹿島橘氏」の治承・寿永内乱―鎌倉幕府成立史に寄せて― は、奈良麻呂の変で勢力を著しく落した橘氏が中世を如何にして生延び、武家政権の過中でなんとか後世に地歩を残そうとした事が見て取れます。

 奈良麻呂の変後は平氏に従いつつ、期を見て鎌倉政権に協力し青森まで転戦し、愛媛に拠点を得て、本来の本願地と考えられる、熊本県の氷川流域、佐賀県の杵島山周辺(武雄市他)に展開するのですが、氷川流域に展開した公忠(公業の兄とは別)の系統は、八代、宇土、人吉に分散し宮原姓を名乗り、杵島一帯に入った公業の一族は後に渋江、牛島、中村の三家(正確には外にもあるのですが)を名乗ります。

しかし、武雄の後藤氏に追い落とされ、熊本県の菊池、金峰山周辺、佐世保市(波佐見)などに散開することになります。

 勿論、橘氏には奈良麻呂の変に参加しなかった中央の日和見派の橘氏もありますし、地方に下向していた反乱に無関係の橘氏もいたはずですので、ご紹介した二系統だけが橘氏であるとも言えないでしょう。

 しかし、抵抗派の橘氏本流の中興の祖とも言うべき公忠、公業の一族が展開した熊本県の八代から宇土に掛けての一帯(八代の妙見宮ほか)と佐賀県の杵島山周辺は、本来、中国大陸の辺境の雲南省昆明から海南島を経由し入って来た最初の橋頭保だったと考えられる場所であり、橘一族に繋がる白族の本願地だったように思えるのです。


575-7

古代には島だったと考えられる杵島山(佐賀県、白石町、武雄市、嬉野市)を鳥瞰する


576 古川という家系について ④ “「橘町の歴史」から”

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576 古川という家系について ④ “「橘町の歴史」から”

20180207

太宰府地名研究会 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 556557において、古川という家系について ①~② の二本を書きました。

これ自体は自らの家系が橘一族に繋がるのではないかと言う事に気付いた事から、その個人的な家系を探そうしたおり、栄えある橘一族の本流の一流であり橘公業の兄の公忠の流れを汲む宮原 秀範から資料を頂きました。

 宮原 秀範氏はヤタガラス後裔である橘一族について575-1を書かれていますが、古代史~九州王朝探究のみならず、橘一族の末裔ではないかと思われる方(橘、立花、渋江、牛島、中村、宮原…)は是非ともお読み頂きたいと思うものです。

 同氏から頂いたコメントは当方の不注意による部分的な誤り(公忠と公業との関係)を指摘頂いたものでしたが、それに加えて新しい資料も紹介して頂きましたので、古川という家系について ①~②、③ への追加補足として留めることにしました。

先に、ひぼろぎ逍遥 557 古川という家系について ② において、服部英雄教授の「景観に探る中世」に基づき 古川家のルーツを探りましたが、今回は地元郷土史の「橘町の歴史」から拾う事にしました。

この231pに橘 公業の一族が実際に住んでいた場所が分かる地図が添付されていますのでご覧下さい。


576-1

576-2



576-3災害復旧、河川改修、ほ場整備事業、増改築…などによって昔の地形がそのまま辿れる訳ではありませんが浄土真宗本願寺派の崇専寺(佐賀県武雄市橘町大字片白10536)℡0954-22-3024を目安に渋江、牛島、中村の三屋敷跡は辿れる事になります(勿論、ほ場整備によって現状は全く異なっています)。

私達は戦後馬鹿にされ見向きもされなくなった神社研究を続けている事から、この橘氏の一族こそが、列島本土においては熊本県の八代から宇土半島に掛けて展開した天御中主の妙見信仰=北辰信仰を持ち込んできた渡来系(雲南省昆明~海南島~列島)氏族=白族であり、同じく阿蘇氏(雲南省麗~海南島~苓北~阿蘇)と共に列島の主要民族、最重要氏族となっていった事が見えるのです。

このように言えば何を「とぼけたことを…」との御高説を垂れる方がおられるはずですが、では通説派の皆さんにお尋ねしますが、源平藤橘といわれた大族の一つの橘一族は単に県犬養三千代(橘三千代)、葛城王(橘諸兄)から派生しただけで、それ以前までは何の基盤もなかったなどと本気で考えておられるのでしょうか。それこそ不思議な話であって、山奥の片田舎でしかない奈良県の山の中から突然湧いて出てきたなどと本気で思われているのでしょうか?

 高給を貰い偉そうな話をされておられるならば、もう少し真面目に調べられたらいかがかと思うばかりです。まずは、ひぼろぎ逍遥から 以下の三本のブログでもお読み頂きたいと思います。


5457火の君とは歴代の橘一族だった ①~③ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ!“九州王朝の白族”


576-5

が渋江、中村、牛島の三分家の屋敷が在った辺りになります(以下省略)。

これが全ての渋江さん以下のルーツとまでは言いませんが、鎌倉期に橘一族の本流中の本流の一流が政権中枢への復帰の思いを持って機会を探っていた可能性は相当に高いものと思われます。

577(前)忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

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577(前)忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

20171212

太宰府地名研究会 古川 清久


思えば、列島の歴史においても明治とは大激震期でした。

日清戦争から台湾+澎湖島の併合(植民地化ではなく列島と同等の扱いをする)前後の話になります。


577-1

北白川宮などといった聴きなれない話は本ブログの対象でも、精通したジャンルでもないのですが、問い合わせが来れば、「分かりません」とお断りするためにもそれなりの調べはしなければならないため、今回、思考の片隅にある範囲でお話しする事にしたものです。


577-2

北白川宮(きたしらかわのみや)は、明治の初期に伏見宮邦家親王の第十三王子智成親王が創設した宮家。智成親王が兄宮嘉言親王から継承した聖護院宮(しょうごいんのみや)を改称したもの。

聖護院宮嘉言親王[編集]

先代嘉言親王は、1821年(文政4年)に誕生。天保2年出家し雄仁法親王を名乗った。同年光格天皇の猶子となり、天保3年に親王宣下。慶応4年還俗し聖護院宮を名乗るが、同年に薨去。聖護院宮は弟宮で元は同じ聖護院預かりとなっていた智成親王が継承した。

聖護院宮→北白川宮智成親王[編集]

初代智成親王は、1856年(安政3年)に誕生。慶応2年に親王宣下。聖護院に入る。出家し信仁入道親王と称した。明治維新によって還俗。照高院宮と名乗ったが、その後、兄宮嘉言親王から聖護院宮を譲られる。そののち、北白川宮に改称した。 1872年(明治5年)、17歳で薨去。兄の能久(よしひさ)親王を後嗣とするよう遺言した。

北白川宮能久親王[編集]

2代能久親王は伏見宮邦家親王の第9王子で、嘉言親王の弟宮、智成親王の兄宮に当たる。1848年(弘化4年)に誕生。1858年(安政5年)に仁孝天皇の猶子として11歳で親王宣下。上野の輪王寺に入寺得度し、公現入道親王と名乗る。戊辰戦争の時、幕府側に附く。彰義隊に担がれて上野戦争に巻き込まれ、その後 奥羽列藩同盟に擁立され仙台に赴いた(東武皇帝として即位したとする説あり)。維新後、蟄居・伏見宮家預りとなる。

1869年(明治2年)に許されて伏見宮に復帰する。1870年(明治3年)にドイツに留学。1872年に北白川宮を相続し、1877年(明治10年)に帰国した。帰国後は陸軍に勤務。 陸軍中将にまで進む。日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、1895年(明治28年)、現地で戦病死した。享年49。…

ウィキペディア(20171214 0945による


まず、何故、この地に北白川の宮の顕彰碑が存在しているのかと言う事からご説明させて頂きます。


明治26年(1893)馬見原町長崎で実施された陸軍第六師団の軍事演習で、検閲を行っていた北白川宮能久親王がこの松の枝に上着を掛けたとして検閲を行っていた北白川宮能久親王がこの松の枝に上着を掛けられたことに由来し、「服掛」という。

山都町指定文化財一覧による


要は、明治26年(日清戦争を想定した一年前)の陸軍の阿蘇での演習を北白川宮が閲兵した事実を後世に伝えようとした顕彰碑なのです。

ただし、我々、百嶋由一郎神社考古学の立場から言えば、「北白川」「聖護院」「奥羽列藩同盟」…といったフレーズからは、“南朝革命”(表向き現天皇家は南朝系とはしていませんが、戦時下でも皇居前の楠正成のブロンズ像が潰されなかった事や、帝国議会での南朝を正統とする天皇の裁可があったことなどから現在の皇室が北朝系でないことは推察が着きます)を体現した明治天皇制と消えた(消された?)宮家が「北白川」家という話は、それだけで興味をもつものです。

始めから脱線を覚悟で話しておきますが、何故、①熊本市内を貫流する大河が白川なのか?②京都の下賀茂=ヤタガラスの一族を奉斎する神社のルーツが八代の妙見神社~氷川町の火の国一帯であった…という事…③明治維新によって敗残した徳川幕府自体も概略三つ葉葵の紋章を使う下賀茂の流れを汲む人々(雲南省昆明~海南島~氷川~熊本~博多に入った白族=ペイツー)であった事を考えてしまいますが、それはこれまで書いてきた1500本のblogを読んで頂けなければご理解頂けないでしょう。

その話はしばらくおくとして…もう少し、この北白川について考えて見ましょう。まず、場所です。

お分かり頂けると思いますが、宮崎県五ヶ瀬町に近接する文字通りの阿蘇の最奥部になります。


577-2

北白川の宮とは何か?


さて、ある程度歴史に精通した方であれば、「明治天皇すり替え説」についてはどなたもご存じだと思います。この事を知らない方は当ブログにはアクセスされていないと思いますが、一般的にはとんでも説とか、歴史を知らない輩として排斥される類の話になります。

まず、教育委員会とか神社庁(これとて公的機関ではなくただの民間団体でしかないのですが)とか学芸員とかいった利権絡みの方々は、真実の一端を感じてはいても避けて通る話であり、中には声高に排斥し権力に尾を振り忠誠を示すと言うさもしい振る舞いをする方も多々見掛ける事もあるのです。

まず、訳も分からず騒ぐだけの安物のさもしい宮司輩などは、鼻から知識が無いだけの方ですので相手にする必要もないでしょうが…。

さて、明治天皇すり替え説については、鹿島 昇の「裏切られた三人の天皇」で良く知られていますが、今や明治天皇=大室寅之介説は知らぬ人のない話として広く流布され、今や裸の王様状態になっています。


577-3

特にユーチューブ上に公開されている、鬼塚英明氏の多くの話が全くの捏造とは思えず、最低でも、この「日本の真相」1 明治天皇すりかえ…以下十数本程度は は見られるべきで、その上で、ご自分の判断に任されるべきでしょう。

 ロスチャイルドに操られた明治維新の裏の姿が一気に浮き上がり、日清、日露を経て、第一世界大戦の火事場泥棒から、大東亜の敗戦も仕組まれ、今尚、日本の富がユダヤ金融マフィアに回収され続けている事、小○竹○偽「改革」以来、日本の国富の大半が米国金融資本に持ち出され続けている(最近のタカタ、東芝から、次はコベルコ…)背景が分かるでしょう。


577-4


577(後)忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

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577(後)忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”

20171212

太宰府地名研究会 古川 清久


この外にも多くの情報がオンエアされていますので、ご自分の判断で真相を把握されるべきでしょう。

そもそも西欧金融資本の援助を受け明治維新を実行した討幕派とは色々な思惑を持った野合勢力でしたが、最も不思議な事とされている薩長連合の成立(蛤御門の変では長州と会津、薩摩は敵味方になったのですから)の背景に“次の天皇は南朝方から出す…”という長州の木戸孝允(桂小五郎)の提案に薩摩の西郷隆盛(所詮は彼も工作員でしかないのです)が乗ったという有名 な話があるのです。

一般的に西郷は島津の下級藩士の指導者と思われていますが、南朝方として数世紀を闘いぬい
577-5た肥後の菊池氏、阿蘇氏、五条家…でも西郷の系統は菊池氏の早い段階での則隆の別れの後裔であり、現在でも熊本県菊池市七城町に西郷(熊本県菊池市七城町砂田西郷)があり、西郷隆盛の先祖の出身地とされているのです(右→写真)。

菊池氏は後に北朝方に追い落とされ、逃城としていた宮崎県西都市の東米良、西米良村一帯に生延び(白銀神社)、後に島津の傘下に入ったものと考えられています。

事実、安政の大獄に絡んで西郷隆盛は、勤皇僧の月照と共に錦江湾に身を投じた(これはどう考えてもおかしいですね)とされていますが、何故か蘇生し鹿児島の島津藩27代斉興の裁量によって幕府に対しては死亡したとの報告が行われ、菊池源吾と変名し奄美大島の龍郷に潜伏をしているのです。

このように薩長連合が成立した背景には、西郷に対して桂とか岩倉が“我々はこの南朝の御正系を立て王政復古する”と持ち掛けた事によって、本質的に南朝方であった西郷(菊池源吾)は賛同し、一気に薩摩が尊皇討幕に動いたと言われているのです。

一応、明治天皇はその名を睦仁親王といい孝明天皇の第二皇子として生まれているとされています。

ところが、この睦仁親王が殺され代わりに長州(萩だか多布施だかにいた)で囲い込まれていた南朝系の大室寅之祐と挿げ替えられたとの話が明治天皇すり替え説なのです(表天皇と裏天皇とが入れ替わったとの話もあるのですが)。

このように、幕末までは、南朝、北朝を問わず、実質的にないがしろにされていたのですが、北朝系の天皇家(孝明天皇~睦仁親王)である孝明天皇が消され、宮家や公家さえも一から創られ、鹿鳴館でワルツを踊っていた華族も大半急造された旧藩の名士だったりしたのであり、それらを隠すためにも皇居を京都から東京へと移し明治天皇も写真を撮らせなかったと言うのです。

事実、明治天皇のお妃であるはずの一条美子も、何故か昭憲「皇后」ではなく昭憲「皇太后」と呼ばれているのです。この事も睦仁親王が始めの明治天皇となり後に消されたため先の天皇の妃を「皇太后」と呼ぶ習わしが生きているのです(先の天皇のお妃が「皇太后」なのです)。

そこで、明治期には消された①明治天皇(睦仁親王)、続く②明治天皇(大室寅之祐)がいた事になるのですが、実はもう一人天皇を名乗った人がいたようなのです。それが、北白川宮能久親王なのです。

しかし、明治政府で親王として活躍されているではないか…と言われるかも知れません。


577-5

そこで少し長い為恐縮ではありますが、「驚愕の日本史②北白川宮家の悲劇・幕末天皇は三人いた。伯家神道の予言。3.11の隠された意味 日本の滅亡 をお読み頂きたいと思います。


そのひとつは幕末 京都明治天皇が弑逆されたあと 東京明治天皇の他に擁立された天皇があったことです。輪王寺の宮 ⇒ 東武天皇です。このとき東北独立北日本政府独立の動きがあったのです。

結局 会津降伏の東京明治天皇側と和解が成立し 北白川能久親王 となられるのですが 日本政府は突然戦死を発表 息子の 成久王 は事故死 そのお子の 永久王 も事故死 このおふたりの死もとても奇妙です。そして北白川能久親王と永久王が靖国神社の最高のご祭神なのです。

靖国神社の謎については過去記事をごらんください。⇒ こちら


①悲劇の北白川家

北白川宮能久(よしひさ)親王は幕末時の皇族である。幕末時に孝明天皇が急逝(殺されたとの説がある)、睦仁親王が擁立された。睦仁親王も間もなく急逝せしめられたとの説があり、長州が「成り代わりの睦仁親王」を明治天皇として即位させ、薩長同盟はこの明治天皇の朝儀を錦の御旗に掲げつつ幕末内戦に突入した。これについては「大室寅之祐→明治天皇考」で考察している。.....彰義隊は、「孝明天皇を殺して擁立した『成り代わり偽者の睦仁親王→京都明治天皇』などに従えるか」と反発して、輪王寺の宮(公現法親王)を擁立し東武天皇として押し立て対抗したことになる。これを輪王寺の宮から見れば、1868(慶応4).6.15日、 輪王寺宮公現法親王は、諱(い みな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇 帝」に即位。この日を以て、「大政」元年と改元。東北決戦に於ける会津降伏の際に、「成り代わり偽者の睦仁親王」と輪王寺の宮が講和を結び、

1・睦仁親王が明治天皇になること、2・輪王寺の宮が還俗して北白川能久親王となることで生命及び身分が保障される、との条件で和睦した。

1870(明治3)年、輪王寺の宮は、還俗(げんぞく)して伏見宮に御復帰、能久親王として軍籍に就く。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ぶ。1872(明治5)年、留学中、北白川宮を相続する。
 1894(明治28).1月、還俗していた北白川能久親王が近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、台湾植民地化に赴いた。同10.28日、日本政府が突然「マラリヤにより台南に於て薨去した(享年49歳)」と発表した。表向きは「風土病で死んだ」とされたが、現地情報では、生番義民軍のゲリラによって負傷し、その後出血多量で戦死した、とされている。これは日本皇族の最初の海外戦死だった。

成久王は明治20(1887)年に誕生。わずか8歳で父宮の死去によって宮家を相続。成久王は陸軍閥の北白川宮家の伝統にのっとり、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。陸軍砲兵少佐となり、大正 6年には大勲位に叙せられた。しかし同12年、視察のために訪れていたパリで自動車事故により死亡。37歳の宮さまざかりであった。

 北白川宮第四代永久王は成久王の王子として明治43(1910)年に誕生、大正12年父宮の死去により宮家を相続。父宮 と同様に陸軍士官学校、陸軍大学校と進み、これまた父宮と同じ砲兵少佐の任に就いた。この間、ホ○ナベ元帥と交友を深める。昭和10年、尾張徳川の裔、男爵徳川義恕(よしくみ)の娘祥子(さちこ)と結婚。幸福な人生を歩むかに思われた。昭和なって蒙古へ参謀として派遣される。昭和15年、現地の日本軍が歓迎の閲兵(えっぺい)分列していた時、デモ飛行機の曲乗り中に故障して操縦士の操作が誤り臨席していた宮様にぶつかり死亡せしめられた(享年31歳)。「蒙彊方面で演習中、不時着した飛行機にひっかけられて死亡」とされている。父永久王の跡を継いだ第五代道久王は昭和22年、臣籍降下。北白川道久を名乗り、ここに宮家としての歴史を閉じる。道久王はその後東芝に勤めた。引用(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._goshintai.htm)




577-6による


私達にとっては、以下の方が興味深くこの白川伯王家こそが下賀茂上賀茂に繋がる大幡主、豊玉彦(ヤタガラス)の裏天皇とも言われる一族なのです。


②伯家神道の予言 白川伯王家とは?

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の孫の延信王から始まり、古代からの神祇伯に伝えられた伝統を受け継いだ家柄である。 天皇家の祭祀を司どっていた伯家神道(白川流神道)の家元。 なお、花山天皇の子孫の源氏である花山源氏(かざんげんじ)に該当するのは、この白川伯王家のみであるため、両者は事実上同一のものである。 花山源氏と白川家 白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家。花山天皇の孫延信王(のぶざねおう)が源氏となり神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を独占。神祇伯に就任してからは王氏に復することとなっていたために、別名「王家」も称される。 しかし、室町時代になって吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して神職の世界を支配するようになると白川家の権威は衰退。江戸時代に伯家神道を称するも、寺社法度が制定されて以降吉田家の優位は動かなかった。 家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった。 江戸時代の家禄は200石。他に神祇領・神事料100石。明治時代には王氏を称することを止められ、子爵。 白川家の成立 白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、伯就任とともに「王」を名乗れたことである。「王」の呼称の権利は天皇との血縁関係で決まり、本来役職に付随する性質のものではない(詳しくは皇族参照)。臣下でありながら、王姓の世襲を行えるのは白川家にのみ見られる現象であり、特異なことである。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。 万寿二年(1024)に花山天皇の孫である延信王が臣籍に下り、源姓を賜った後、永承元年(1046)に神祇伯に任ぜられた。白川家はこの延信王に端を発していると言われている。当時の呼称は「源」または「王」であり、「白川家」や「伯家」「伯王家」と呼ばれるのはもっと時代が下ってからである。神祇とは神を祭ることで、その責任者は天皇であるほどの、朝廷にとって最も重要な行為であった。神祇伯は神祇官の長であり、最上位の官職であるとともに、奉幣使としても重要な職務である。

神祇伯家学則にある神道の大要 「神道というものは、古今を通じて変わらない根本原則であり、いずれの国においても通用する大道であり、神道と武道(相撲を含む)は一つであり、身を修め、家を整え、国を治める といったことの要領も、古事記・日本書紀・古語拾遺等の皇典を研鑚するうちにわかる。」とある。


伯家神道は今でもあるの?

白川家は明治に入ってから途絶えた。代々口頭で教えを伝えてきたため、伯家神道も一家とともに失われたことになる。だが その教えは平田篤胤など、伯家神道の影響を受けた学者や神道の教団があるので、彼らを通じて現代にまで伝わっていると言える。どうして伯家神道が話題になるの?

2012年に日本が滅びる」という予言があるから。「伯家に伝えられた祝の神事を授けられない天皇の御世が百年続くと、日本の国体が滅亡してしまう」というもの。「祝の神事」とは伯家が代々の天皇に伝授する行法のこと。最後にこの「祝の神事」を受けたのが明治天皇で、大正天皇が即位した1912年から100年後が2012年にあたる。引用終了


これで、分かって良い部分の話の概略はお分かり頂けたと思います。

しかし、これ以上の浅酌は薄汚い偽権力の逆鱗に触れる恐れもありますので注意してお調べいただきたいと思います。世の中には大嘘がまかり通っています。どうでも良いような「邪馬台国畿内説」などと言った嘘は元より、たあいもない九州説も許容範囲なのですが、本当の歴史はいつの時代でも封殺され続けるのです。


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577-7百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 白川伯王家とは八代の妙見宮(天御中主命)氷川の火の国に端を発し、白川伯王を継承する博多の櫛田神社の大幡主、豊玉彦(ヤタガラス)と続く雲南省昆明から列島へと進出した白族を意味した熊野三山、下賀茂、上賀茂の一族であり(特に重要なのは飯塚市の厳島神社です)、熊本市の白川、白川水源、高森町の上色見熊野座神社、色見熊野座神社…に通じる天皇家に匹敵する大族なのです。

 今はこの宮家は消されました。期を一にするかのように明治まで天皇家の宮廷祭事を取り仕切ってきた白川神道も明治維新と共に表面的には消え去りました。

 奥羽列藩同盟に担がれたもう一人の明治天皇がこの北白川の宮だったのです。

 今は、これら百数十年前に起こった歴史の一齣も全く理解されない時代となってしまいました。いずれにせよ、北白川宮も翌年の日清戦争から台湾併合の激動の中で消されて行ったのでした。

 
577-9ほんの150年前まで公家、皇室を抑え込み独立性を保持した列島は国際金融集団によって開放させられましたが、その際持ち出され利用されたのが天皇制だったのです。これをどう評価するかですが、司馬遼太郎が描いた歴史観は誤りで、坂本竜馬などは金融資本のエージェントでしかなかったのです。まあバラ革命ならぬ日の本革命でしかないのです。

スポット194 ことしもそのうちやってくる真夏の都市型豪雨も国土交通省が引き起こしたもの ②

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スポット194 ことしもそのうちやってくる真夏の都市型豪雨も国土交通省が引き起こしたもの ②

20180720

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に、夕立の仕組みについては前ブログで取り上げましたが、昨今、東京や大阪などの臨海部で大都市型の集中豪雨が起こっている事は皆さん良くご存じの通りだと思います。

ここ数年、日本各地で目立っているこの現象、中には特大級の雹が降ってくるなどこのタイプのゲリラ豪雨は一向に収まる様には見えません。

しかも、単に暑い日ばかりではなく、普通の日でも発生しているようなのです。

このことは、仮に冬場の寒い日であったとしても、周りよりも際立って暖かければ、雨や雹が降ってくるようで、その原因はスポット的に巨大な上昇気流が発生すれば何時でも起きるようなのです。


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現在のコンクリート化された都市の表面には水気が全くありません。

それを敢て探そうとすれば、地表を走り回る車の排気ガスに含まれる水分(炭とは異なり炭化水素は燃焼によりCO2と水を発生させる)や、僅かに残されたオアシスである鎮守杜の境内程度、ひたすら走り回る宅急便のドライバーの汗や、コネがないだけで就職にあぶれた優秀な学生の涙に、品性の低い中国人、韓国人観光客が撒き散らす立小便…ぐらいしか思いつかないのです。

それほど、現在の都市はコンクリートで覆われ、河川まで蓋がされてしまい、使用される膨大な量の水にも拘わらず大半が下水道を通って地下に深く押し流され続けているのです。

昔は神田上水や水道橋などという優雅なものがあったのでしょうが、上水道でさえ奥多摩などの遠い山奥ダムから持ち込まれる上水道も水管橋や地下管路に変わっているのです。

もはや都市で消費される大量の上水の多くが地下に潜り、延々と数十キロも地下の暗闇の中を通ってくるのですから、ここからの蒸散など期待することは不可能なのです。

最大の問題は、地表がコンクリートに覆い尽くされ、地面の保水性といったものがほぼ失われた上に、最低でも地表に還元されることが期待できるはずの排水さえもが下水道管という地下を通る魔物に吸い取られているのです。

こうして、極限まで奪われた都市表面の水分はいつしか夕立の材料であることを止め、当然ながら夕立は消え去り地表は雨によって冷やされることもなく熱帯夜の連続の中で加熱され続けることになるのです。

勿論、本来、自然な熱循環に寄与するはずの都市排水は暗闇の地下管路を通り下水処理場という限られた場所だけで蒸発しているのです。

都市部でこの構造を造りだしたのは、只々、国土交通省であり厚生労働省だったのです。

そもそも国土交通省の技術屋などと言うものは、退職金と年金と大手ゼネコンに天下りすることしか考えていない上に、物理や化学と言ったものが分からない連中だったから土木をやっているのであって、当然と言えば当然ですが、今後も「打ち水大作戦」なる恥知らずなイベント以外打つ手を持ってはいない事から良く分かるでしょう(詳しくは太宰府地名研究会のHPや「環境問題を考える」のサブ・サイト「アンビエンテ」から「打ち水大作戦の大間抜け」「熱禍」外をお読みください)。


都市型豪雨はなぜ起こっているのか


では、地表から水が消えた大都市で、どうして都市型豪雨が頻発しその水はどこからもたらされているのでしょうか?

言うまでもなくその原因は、今やフライパンと化した都市の構造にこそ原因が求められるべきであり、それをもたらした主因が、下水道の整備と都市舗装化、さらには三面張り水路で水が一気に海へと押し流されていることによって水循環が破壊され都市表面が乾燥され続けていることにあるとすれば、この水循環を破壊した国土交通省、厚生労働省…にあることは明らかでしょう。

国土交通省などによって極端に乾燥化された都会の地面からは一方的に上昇気流が発生します。

これは、単純な物理法則であって官僚の言い訳(都市整備の在り方は我々の所管ではない…云々)は一切通りません。極論すれば、熱帯夜、熱中症で死に追い込んだのは国土交通省なのです。

当然にも暑くなった都市は、最も熱せられた場所から一気に上昇気流を発生させます。

もし、そこに湿った大気が持ち込まれたとすれば、どうなるかは言わずもがなであり、熱せられきったカンカン照りの夕方に、仮に海から南風が吹き込みその上昇気流に湿った大気が巻き込まれたとすれば、水蒸気を含んだ湿った大気(大半は太平洋ベルト地帯では福岡などを例外として南の海からしか持ち込まれない)は一気に高空へと持ち上げられ続け、高空で一気に冷やされ地表に大雨や時として、また、大型の雹となって降ってくるのです。


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そうして、一時的に地表は冷やされるのですが、それらは、また一気に地下の大型下水道などに吸い込まれ、たちまち乾燥してしまうのです。

お分かりでしょうか?これが戦後70年間掛かって国土交通省がやったことだったのです。

こいつらは、未だに何をやっているかが分かっていないのか、さも良い事でもやっているかのように地下水道を造り続け大手ゼネコンに税金を流し込み続けているのです。

その証拠に、さも誇らしげにこの大間抜け共は地下にトンネルを掘り続けているのです。


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まず、この自らが犯した失策への反省がない限り、彼らは大型地下水道を造り続け、ゼネコンに天下りし、ホームレスやエアコンも節約する老人たちの苦しみを尻目に、自分たちだけは避暑地の別荘で快適な夏を楽しみ続けることになるのです。既に熱中症により倒れた者は万余りとなり死者も二桁を越えたのです。これが国土交通省がやったことなのです。


山で雨が降らなくなった


ここで、驚愕のシナリオが描けることになるのです。皆さんお分かりでしょうか?

問題となるのは夏だけでもないのですが、日本の夏は基本的に南から風が吹きます。

このことは、南の太平洋から大量の湿った空気が運ばれ続けていることを意味しています。

通常はこれが列島の脊梁山脈で持ち上げられ山岳地帯を中心に多くの雨が地表にもたらされ、海岸部に発達した都市に流れ下っているのです。

このため、山岳地帯を中心に今までにも必要以上のダムが造り続けられて来たのでした。

ところが、都市型豪雨によって大都市は大雨が降るものの、渇水期を中心に大都市から遠く離れた山のダムには水が溜まらないでカラカラといった話が面白おかしく報道され続けています(今年も同様で関東でも取水制限が始まりました)。

これが、面白い話で済む間は、ただの一時的な環境異変で済むのでしょうがそれでは済まないのです。

極端に言えば、太平洋ベルト地帯ではヒート・アイランドが止まる様子を一切見せず、南の海からもたらされた真水の元となる雨は列島の縁とも言えるウオーター・フロントの大都市の臨海部ばかりで巨大な豪雨となって降り、貴重な真水はそのまま海に押し流され、山岳地帯のダム周辺では雨が減り続けているという奇妙な現象が発生しているのです。

この現象が長期的に続けば、山岳地帯からその裾野である農村部一帯はにさらに乾燥化し、穏和で多彩な日本の風土が決定的に失われて行くことになるのです。

つまり、上昇気流が絶えず起こり続けている海岸部に巨大な熱せられた空気のカーテンが発生し続け、列島脊梁山脈の奥地に南からの湿った大気の進入する事をブロックし続けていることになるのです。

この馬鹿げた巨大な現象が、戦後70年掛かって不可逆的に起こり、豊かな日本の風土が失われ続けているのです。

もうお分かりでしょう、現代の関東軍とも言うべき国土交通省は、戦前の軍部と同様に国家の中に国家を造り、日々、日本列島を究極の破滅へと追い落とし続けているのです。

これが、水循環、大気循環、熱循環という物理法則の基本も分からないで、安易で金儲けに繋がる土木を目指した国土交通省の連中が日本にもたらした巨大な変化だったのです。

最大の問題は、彼らにそのことの認識が全く存在しない事です。気違いにというより間抜けに危険な刃物を持たせた事になるのです。


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こいつらはただただ水を押し流し地表を乾燥化させることしか考えていない


その証拠こそが、優雅に見えるだけの「打ち水大作戦」なのです(もしも自覚があればこんな恥知らずなチャラチャラしたイベントは間違ってもできないはずなのです)。

あたかも、都市の乾燥化は自分達がもたらしたものではないと考えているのか、それともそれを装っているかのようなのです。

問題の認識、自らの責任という自覚こそが改善への一歩なのですが、その自覚が全く存在しないことが、この馬鹿げたイベントに表現されているようです。

早晩、このたちの悪い連中によって再び列島の民はもっと酷い辛酸を舐めさられることになるでしょう。

578古川という家系について ⑤ “橘氏系図補足”

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578古川という家系について ⑤ “橘氏系図補足”

20180218

太宰府地名研究会 古川 清久


武雄の橘家の流れについて

2018.2.17 宮原秀範


元九州大学名誉教授の、服部英雄氏の著書『景観にさぐる中世』に記載された史実に基づいて、武雄市の橘一族の系図を説明します。

『吾妻鏡』によると、治承4年(1180)平家の盛家の家人であった橘公長がその子公忠(長男)・公業(二男)をつれて弓の試合を行った事で知られている。

しかし、公の通字を持つ橘一族の多くは平家と共に没落したが、公長は平家の盛家をみかぎり源治方に鞍替えして没落を免れたようだ。                平家滅亡(元暦2年)1185

その後、橘公業は家督を継ぎ、鎌倉幕府の頼朝の御家人として、奥州征伐へ行き恩賞として出羽国秋田郡小鹿島を領地として与えられ、小鹿島を名乗る。   (一部の橘一族が土着する)文治5(1189)

嘉禎2年(1236)四国の宇和郡の領土を、西園寺氏に取られ替地として、九州の4箇所を与えられた。

(肥前国長嶋床庄佐賀県武雄市)・肥後国久米郷(熊本県あさぎり町)・大隅国種子島・豊前の副田庄

橘公業は、一族郎党を率いて肥前国長嶋庄へ嘉禎3年(1237)に入部して、4年後には亡くなっている。

橘一族の家督は、公義(きみよし)が兄で十男、公員(きみかず)が弟で十一男、末子相続で公員が嫡子に定められていたが、のちに公義が嫡流を主張して3年後の寛元元年(1243)に幕府は長嶋庄の事実上の領主と認めています。

しかし服部教授は、公員やその子公綱は、肥後国久米郷を所有し、肥前長嶋庄も所有して京都でも活動していた為、公員こそが嫡流ではなかったかと言われています。

長嶋庄の公員の領地は、上村で河上村・大崎村・大渡村であった。公義は、下村を所領し渋江・中村・牛島等の今日の橘町一帯であった。以下の図面に所領地や系図を記載する。

その後公義の所領は下村を三家に分ける。公義は、渋江家の祖となり、公茂は牛島家の祖となり、公光は中村家の祖となった。公員は、公綱→公資(宮原彦次郎)→公高(宮原左衛門四郎)→公次→公忠(宮原公忠)八代の宮原城主とつづき宮原氏の祖となった。


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578-9メンバーの宮原秀範さんから資料を頂き大変有難く思っております。

 中近世は私のジャンルではありませんので、難儀していましたが橘一族研究のスペシャリストの秀範さんから救っていただきました。

 宮原一族は、公忠(キンタダ)の流れと聴いていましたので、てっきり公長の長男の事だと思い込んでいましたが、この公忠はあまり記録がなく、宮原一族も含めてやはり次男の公業(キンナリ)を数代経た公員(キンカズ)の後裔の公資(キンスケ?)から始まっているということなのです。

 ただ、公義(キンヨシ)の時点で渋江、牛島、中村に別れている事から、宮原姓はその後の成立とは考えなかったのでした。ひぼろぎ逍遥+跡宮のいずれからも「橘氏の末裔」にアクセスできます。

579 十種ケ峰の麓に金山彦が鎮座する “山陰 津和野の愛宕神社

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579 十種ケ峰の麓に金山彦が鎮座する “山陰 津和野の愛宕神社

20180221

太宰府地名研究会 古川 清久


 今年の冬は尋常ではない寒さに震え、太宰府地名研究会の研修所(標高450m)も凍結防止のために毎日水を流しっぱなしにしておくしかありません。

 勿論、源泉掛け流しの大浴場も僅かですが流しっぱなしなのですが、洗車用、洗面所から台所まで常時流しておかないと凍結から水道管破裂に繋がるため戦々恐々といったありさまなのです。

 この酷寒の中で温泉に入り続けブログを書き続けていますが、少し天気が良くなるとやはり遠征に出かけたくなります。

 九州内は簡単に移動できますが、関門海峡を渡るとなるとそれなりの心構えが必要になりますので、今回は但馬や丹後などへの遠征は止め、山口県と島根県の県境でも、あまりフィールド・ワークを行っていない領域に入る事にしました。

 しかし、山陰の山中である事からかなりの雪が残っている事は覚悟の上の遠征になります。

 近場とは言え凡そ700キロの調査旅行になりますので、「山口県神社誌」、島根や山口の道路マップを携えての雪中調査に踏み込みました。

 今回は目立った発見はなかったのですが、それでも幾つか気付いた事があるので簡単なリポートをしておくことにしました。

 現在でも時折皇室の神宝が運ばれる映像が報道されることがありますが、この三種の神器とは別に物部氏の神宝があります。

彼等のその後を追い求める人々にとって十草の神宝は良く知られていますが、この十種の宝はそれほど知られてはいません。


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十種神宝とは


 物部氏の祖、神饒速日命天神御祖より授けられた宝は、羸都鏡(おきつかがみ)一、邊都鏡(へつかがみ)一、八握劔(やつかのつるぎ)一、生玉(いくたま)一、死反玉(まかるがえしのたま)一、足玉(たるたま)一、道反玉(みちがえしのたま)一、蛇比禮(おろちのひれ)一、蜂比禮(はちのひれ)一、品物比禮(くさぐさのもののひれ)一の十種の天璽瑞宝である。

これらを授けるときの教えが「布瑠之言」である。
 汝命この瑞宝を以ちて 豊葦原の中国に天降り坐して 御倉棚に鎮め置きて 蒼生の病疾の事あらば この十種の瑞宝を以ちて 一二三四五六七八九十と唱へつつ 布瑠部由良由良と布瑠部 かく為しては死人も生反らむ

敬愛する「神奈備」による


まず、以前から気になっていたのが、山口県山口市徳佐町の徳佐とは「十草」のことではないのかと言う思いでした。


徳佐村 徳佐村(とくさそん)は、かつて山口県阿武郡の南東部に存在した村。

1955年(昭和30年)41日に新設合併で阿東町となり消滅した。現在は山口市阿東地区中部の一地域となっている。

ウィキペディア(20180221 10:20による


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山口市ではあるものの、それは平成の大合併の結果巨大山口市が成立した事から生じたものであって、山口の市街地からは島根への国境を過ぎた辺境のような地であることから「徳佐」とは物部氏の移動(通過)地ではないかと考えていました。ここから十キロも走ると直ぐに森鴎外の生地として著名な島根県津和野町に入ります。

 さて、今回は津和野周辺の山口県旧阿武町、萩市の旧むつみ村~島根県吉賀町柿木村、六日市町といった辺境でも、これまでの入り込んでいない谷々を巡る事にしました。


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ご覧のとおり、この辺境の地の真ん中に十種ケ峰があります


 この津和野町から阿武町に貫ける道も以前はハードでなかなか通過する事もありませんでした。

だからこそ興味深いものに遭遇するチャンスは増えるものです。道路整備も進みかなり走り易くなったことから文化の消失と利便性の矛盾はあるものの、茅葺の神殿を残す立派な愛宕神社に遭遇しました。

 この地区は林野行政の馬鹿げた針葉樹の人工造林の結果、頻繁に洪水に襲われていますが、何とかこの社殿だけは災害を免れたようです。

 この茅葺の茅も正面の川辺で集められたのでしょうが、今回の道路整備と併せた河川改修の結果、この萱、茅の収集も今後はできなくなりいずれ失われてしまう事になるでしょう。実に愚かな話です。


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この手の見せ掛けだけの親水性自然護岸(張ブロックを使っていないだけ)とは裏繰りにモルタルが充填されるため生物的再生が全く計れず、一方的に流速だけが上がり自然は再生しないのです(河川改修後)


 それでもこの集落名賀(ナヨシ)の愛宕神社は心惹かれるものがありました。

 概して顔の見えない(山陰では素性を隠した神社が多いため)神社が多い中、この神社には気品と風格が滲み出ており、図らずも金山彦の面影を拾うものとなりました。

 さて、愛宕神社とは何かですが、当然ながら火の神 火之迦具土神(ヒノカグツチ)であり、初期の九州王朝を支えたイスラエル系の神金山彦の事なのです。

 この神は同族であった秦の始皇帝と姻戚関係を結び、一足先に列島に海路移動して来た瀛氏(従ってサンズイ偏が付される)であり、昔(ソク)氏=イザナギ、白族=大幡主、越智族=大山祗と姻戚関係を形成するのです。

 当然にも製鉄、冶金の神であり、物部氏の中心的な勢力として崇められる神なのです。

 そこで、目を山に向けて見ました。

再び、道路に出て百メートルも走ると眼前に十種ケ峰が見えてきたのです。

 無論、カーナビは十種ケ峰を示していました。

 この神社自体がこの山を意識して建てられていたはずです。

 この十種ケ峰とは物部の十種の神宝のトクサを意味しており、この山の裾野に物部氏が展開していたと考えるべきではないかと思うのです。


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愛宕神社の由緒に登場する一族が金山彦を中心に形成されている事がお分かりになるでしょうか?


 まず、イザナギはなくイザナミだけである事(実は別れた後に博多の櫛田神社の大幡主のお妃になられている)、その子がヤタガラスになるのです。

 由緒の事代主は近年の合祀である事から無視して構いません。


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ネット検索によると、十種ケ峰と物部を意識している方もおられるようです。




579-9物部つながりで> ちなみに、山口・島根の県境に> 「十種ヶ峰」というさほど高くない山があります。別名長門富士> 「十種神宝」を埋めたという伝説があるとかないとか。物部氏の「十種神宝」リンク先見ると出雲の古墳の名前が出てくるんですが…黒曜石は夢見ている 番外編:出雲と物部 2


ようやく「徳佐」(合併により山口市となった)の意味が分かりました。 

物部と言えばニギハヤヒとなりますが、元々は金山彦系氏族こそが物部の本体であるとわかるのです。古代には山、川、集落名といった「地名」複合をもってしか同族性が共有できなかった事が良く分かる事例でした。

580 雪深い島根の山奥には大山祗祭祀が幾らもある “島根県吉賀町下高尻大山祗神社”

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580 雪深い島根の山奥には大山祗祭祀が幾らもある “島根県吉賀町下高尻大山祗神社”

20180221

太宰府地名研究会 古川 清久



今回の調査の最初の泊地は中国自動車道六日市インターに近いむいかいち温泉 ゆ・ら・ら (島根県吉賀町)としました。と言っても温泉に二度は入り、16時から22時まで休憩室でブログを書き温もった体で車中泊に入るのですから快適この上ありません。

 早朝から、と言ってもラッシュも無ければ人混みも全く無い中、三十センチを超える雪の残る谷へと車を進めます。

 吉賀町は旧六日市町と旧柿木村の合併による新行政単位ですが、その真ん中辺りから匹見町へと貫ける県道42号線を北東方向へと入る事にしました。

 スタッドレスは履かせてはいるものの、もとより山越えは不可能と思っていましたので、とりあえずは行けるところまで行ってみようと思い踏み入る事にしました。

 幸いなことに県道であるため除雪だけは行われています。この除雪というものは相当に高い単価が設定されているようで、地場の土建屋の法外な稼ぎ口となっています。

土建業者数名から聴き込んでいますので、ほぼ、半分に下げても引き受ける連中はいるはずなのです。


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豪雪から一週間は経過しておりかなり溶けていますが、いまだ圃場は数十センチの雪に覆われています。


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ほんの僅かな参拝者のためなのでしょうが、神社への参道だけはきちんと雪掻きが行われているようです。これも神社への思い入れを感じさせます。

 さて、旧柿木村~旧六日市町に掛けて数多く拾える三島、三嶋神社とは何だかお分かりになるでしょうか?

 言うまでもなく愛媛の大三島の大山祗神社の事であり、大山祗の名を憚って三島神社と呼ばれているのだと思われます。


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 この大山祗=月読命とはトルコ系匈奴であると考えていますが、それについてはここでは触れません。

 ひぼろぎ逍遥 トルコ系匈奴 でダブル検索をされれば幾つも出てくると思いますので試みて下さい。

恐らく吉賀町の半分である柿木村の柿木もトルコ系匈奴の後裔が残した痕跡地名と考えています。


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吉賀町には島根県神社庁の資料だけでも五つの三島神社が拾えます。

 ただ、三十社近い神社があるにも拘わらず、大半の祭神が神社庁のリストでも明らかではありません。

 十社程度しか分からないのですから最大勢力であったことは間違いないでしょう。

恐らく吉賀町の半分である柿木村の「柿木」もトルコ系匈奴が残した痕跡地名と考えています。

 これは多くの土地で多くの地名と多くの大山祗系神社を見た帰納演繹的解読方法によるもので、多くの類型を知らない人には凡そわからない話なのですが、恐らく「柿木」とは「石城山」(山口県田布勢町~光市の神籠石)と同様の意味、石木、石ノ城、石貫、岩城、石垣…で、「柿木」も九州全域でも最低10件は拾えます。

これらがシルクロードのタシクルガン=中国表記の石頭城、石城山の置換えである可能性が高く大山祗系氏族が好んで付す地名のようなのです。

 それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂く必要があります(以下)。

179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ④ “西都原に大山祗命の痕跡がある!”

今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です。


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以下、以前の記事から…西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にもほとんど知られていません。この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が九州北部には少ない事があり、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。ただ、天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。

由緒

 当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。 敬愛するHP「神奈備」より


石貫神社が本物ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社(ニニギと別れたコノハナノサクヤが祀られる)の存在があり、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。

  HP580-9より


580-10

この「石貫」地名は熊本県玉名市(玉名市石貫地区 横穴式石室を持つ古墳で有名)にもあり、故)百嶋先生は同民族の移動による痕跡地名とされていましたが、筑後川左岸(南岸)の久留米市田主丸町石垣地区、佐賀県嬉野市石垣地区など同種の地名があり、大山祗命=月読命の信仰圏でもあるのです。

 まず、石貫神社の「石貫」とは、「石ノ城」の置換えで(U音、O音の置換え)、「石城」「石垣」も「石ガ城」の置換えになるのです。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町には「石動」(イシナリ)があります。これも半島系の吉野ケ里の「里」地名ですが、金官伽耶から進出してきた同系統の地名と考えています。これこそが、「石和」が「石尊」と通底していると言った理由なのですが、これらについても故)百嶋由一郎氏は答えを出しておられたのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシクルガン)石頭山が「石城」とも表記され列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

さらに話を物部氏に広げます。それも「先代旧事本記」の筆頭に書かれた主力の二田物部との関係に踏み込みます。


580-11



580-12最後にこの三島神社に着く前に発見した小さな小三島神社をご覧に入れます。

 これも神社庁のリストに登載されていない神社でしょう。

 これまで見ると、何やら情念の様なものさえ感じてしまいます。

 個人持ちの屋敷神とは思えないのですが、大山祗祭祀の濃厚さには感じ入ります。

百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください


スポット195 2020年東京オリンピックは是非ともやってもらおうではありませんか!

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スポット195 2020年東京オリンピックは是非ともやってもらおうではありませんか!

20180806

太宰府地名研究会 古川 清久


 連日連夜9時になっても30℃を切らないような暑苦しい中で息も絶え絶えになっておられる皆さん。

 この夕立を消し去り焦土と化した灼熱の日本列島をもたらしたのは、水循環、それに伴う熱循環を忘れた(本当は知らなかっただけ…)戦後70年の国土交通省と農水省だったことはこれまでにも何度となく書いてきました。

 ご存じでない方は、“打ち水大作戦の大間抜け”など(他にも幾つもあるのですが…)を検索して頂きたいと思います。

 今回は、焦土で行われる東京オリンピックが酷暑によって破綻が約束されたようなもので、まずは馬鹿げた日程を選んでくれたIOC、JOCの大馬鹿連に感謝したいと思っています。

 そもそも東京商業オリンピック興業なるものの日程が真夏に設定された背景には、最大の視聴者を抱えるアメリカの放送権料が絡んでいると言う事は以前から指摘されてきたところです。


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夏季オリンピックが真夏に行われる理由

第二次世界大戦以降、夏季オリンピックの多くは7月から8月、もしくは8月のみの日程で開催されています。北半球ではちょうど真夏の季節に当たります。

“真夏”というと、競技する側も観戦する側も暑さ対策が気になりますが、高緯度のヨーロッパなどでは日本ほどの暑さ対策が必要でないことが開催できた理由の一つではないでしょうか。

とはいえ、真夏(7月~8月)以外に開催された夏季オリンピックもいくつかあり、前回1964年の東京オリンピックは1010日~1024日に開催されました。これはオリンピックの開催日としては異例に遅いものでした。

とはいえ、真夏(7月~8月)以外に開催された夏季オリンピックもいくつかあり、前回1964年の東京オリンピックは1010日~1024日に開催されました。これはオリンピックの開催日としては異例に遅いものでした。

ところが、2020年の東京オリンピックは724日~89日の日程、一年でもっとも暑い頃です。
なぜ今回は真夏に開催するのでしょう?前回のように秋に開催した方がいいと思う人が多いでしょう。しかし、この日程は招致段階から決まっていました。

近年IOC(国際オリンピック委員会)の方針では、夏季オリンピックの開催を715日~831日までとすることが開催都市に立候補する前提となっています。

これはIOCのオリンピック競技の放映権による収入が巨額になっているためです。
中でも、欧米のテレビ局が支払う放映料が多いため、それらのテレビ局での放送日程や時間を優先的に考慮する必要が出てきます。

例えば、アメリカで絶大な人気を誇るアメリカンフットボールのNFLのシーズンは9月~翌年の2月、ヨーロッパの多くのサッカーリーグは8月からシーズンが開幕しますが、欧州カップ戦の本戦が開幕するのは9月からです。

これらは人気のプロスポーツはテレビ放映も盛んなため、それらが開催されていない7月~8月にかけてオリンピックを開催することで、収入を確保するようになりました。

選手や観客への負担を考えると秋に開催しても良さそうですが、確実な収入を得るためにはオリンピックの開催を7月から8月の真夏に開催する必要があるのです。

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未だに「真夏の東京五輪、見直すべき」などとご心配されている惚けた方がおられますが、それはこのヨーロッパ不良貴族共が始めたただのストリップ興業などと変わらない見世物サーカス程度のものにシンパシーを寄せるお花畑的頭の人なのでしょうが、激増しているオリンピックに対して無視するなり何の関心も寄せない知的な人々にとっては、むしろ東京五輪そのものが熱中症で機能不全に陥り、今後のオリンピック本体さえもが臨終となる(そもそも次は北京じゃないか…)事を望んでいる者にとっては、東京五輪の大失態こそが、この悪しきユダヤ・マフィアの運動会を終わらせる切っ掛け、端緒(これこそが「福音」=グッド・ニュース)になるのではないかと思っているところです。

個人的には、あの1964年の東京五輪の日坊貝塚とロシアの金メダルを掛けた決戦さえも、そんな誰もが見る様なものは胡散臭く絶対に見ないと校庭で鉄棒をやっていた記憶を持っていますので(当時小学5年生でしたか)後者であることは言うまでもありません。


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ましてや、相撲協会のイカサマ構造、日大の不法タックル事件、アマチュア・ボクシング連盟のいかれた不正体質…と、スポーツなるものそのものへの嫌悪感と言うより敵意を抱くものとしては、こんなもははやくやめるなり潰すなりして、アマチュア精神(利権とか就職といった腐敗構造の無い)に基づく健全な「体育」にこそ戻すべきであると思うばかりです。


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一度も見たことが無いオリンピックですが 上は半世紀前の1964年東京五輪入場式


 どちらにしても、ユダヤ金融マフィア共が本性を現し、スポーツマン・シップに基づいた、アマチュア・スポーツの祭典、平和のシンボルなどという大嘘の金儲け興業にはっきりと変わったのはロスアンジェルス・オリンピックでしたが、何が健全で何が公平なものかを改めて考え直して貰いたいものです。

戦中、戦前までスポーツなどと言うお遊びは存在しなかった

 そもそも、スポーツなどといったお遊びは存在しませんでした。

 それよりも、食うや食わずの上に野良仕事でくたくたになるまで鍛え上げられておりスポーツが入り込む余地など全くなかったのでした。

 ただ、規律と軍事行動用の調教さえ行えれば、たちどころに軍隊が出来あがったのでした。

 それが、何故、昨今横行し顔に日の丸を塗り付ける様な馬鹿げた行為が横行するようになったのかは、マッカーサーによる日本占領政策の延長に3S作戦が実施されたからであって、スポーツがさも良い物でもあるかのごとく吹聴されたからだったのです。

 それが、占領下から日本に施政権が移行した以降も継続されスポーツ馬鹿が再生産される構造が産み出されたのでした。

 アメフトなどは最たるもので、アメリカ占領軍に尾を振り、自分たちはアメリカの手下です、是非お使いください、忠実な下僕を養成し、アメリカの支配を受入れ、それに忠実な学生を生産しますとばかりに本物の日本を支配する権力に対する姿勢を示したものでしかなかったのでした。

 それがポン大こと日大相撲田中体制であり、日大闘争で秋田明大(元・全国全共闘連合副議長)らが衝突した親米売国偽右翼勢力の本質ですらあったのでした。

 一方、軍隊の兵営などで内部争いを発散させる言わば安全弁としてフット・ボールとかラグビーとかサッカーなどといった肉弾戦まがいゲームが作られたのであって、言わば軍事行動の一部でしかなかったのです。

 そもそもアメフトなどは肉弾戦以外の何ものでもなく、海兵隊の訓練と背中合わせの代物でしかないのです。

 3S作戦についても、再度確認する必要があるのですが、要は、スポーツ、セックス、シネマ(スクリーン)によって日本人が二度と米国に刃向わない様にと仕組まれた日本人の愚民化戦略でしかなかったのでした。

 つまり、スポーツなどと言うマヤカシは70年前までの日本には全く存在しないものだったのです。

 スポーツに熱心な馬鹿大学が真の日本の権力(日米合同員会~検察)などに尾を振る国賊大学である事が少しはお分かり頂けたでしょうか。


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3S政策(さんエスせいさく)とは、Screen(スクリーン=映画)、Sport(スポーツ=プロスポーツ)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策であり、そのような政策があったとの主張である。

戦前では偽書『シオン賢者の議定書』以降、日本でも反ユダヤ主義が宣伝され、その中に「ユダヤ人の3S謀略」と呼ばれるものがあった。スクリーン(Screen、映画)、セックス(Sex、性行為)、スポーツ(Sport、運動競技)の頭文字をとって3S政策と呼称した(陰謀論)。

第二次世界大戦後、安岡正篤は連合国軍占領下の日本での諸政策を批判するものとして使用した。

日本を全く骨抜きにするこの3R5D3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります。-安岡正篤、『運命を創る―人間学講話』p.39 プレジデント社、1985

ウィキペディア(20180806 1016による


 私が噂に聴くオリンピックを一度も見たことが無い事、スポーツを親米右翼=体育会系を毛嫌いしている(百歩譲って本物の民族主義者は許しますが…似非左翼はどうにもなりませんね…)事と今にして思えば良く繋がるのですが、こういった相撲、プロレス、アメフト…などは占領政策に連動する仕組まれた日本の劣化作戦にあるのであって、所詮はアマチュア・スポーツも同様なのです。

今、面白おかしく伝えられているアマチュア・ボクシングのカリスマ男○根会長(男根と読め)の話も、基本的には劣化作戦以前に自ら劣化した人物によって始められている事が分かるのです。


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マッカーサーは日本軍が二度と再び刃向わない様にとしたのが(始めは将棋さえもそうだったのですが、益田幸三がそれを止めたと言うのは有名なはなしです)柔剣道、弓道、薙刀…であって、ただのイカサマ興業の相撲はストリップやプロレスや少女歌舞伎や蝦蟇の油売りなどといった興業(興す生業とはそもそも金儲けが目的の者であって…)でしかなく、貴乃花がどんなに逆立ちしても追放(自ら離脱)されざるを得なかった理由も、ヤクザに利用される金儲けこそが本質であり、所詮はガチンゴ相撲など夢のまた夢でしかないのです。

 これでスポーツの本質がお分かり頂けたはずで、体を鍛えたければ労働すべきであって、労働の必要のない大金持ちだけがテニスをやったり、スポーツ・フィットネス・クラブで配偶者を見つけようとしているだけの事なのです。

 スポーツ中継を辞めてしまえば、馬鹿げたお天気台風災害中継番組とお笑い芸人とオカマとハーフと外人にバケモノにAKBなどを多用する番組しか残らず、世界最高水準の4Kテレビ、8Kテレビを造る国に於いて、世界最低水準の番組を見せられているのが日本列島(劣等)民族と成り果てた今の日本なのです。

 西日本が大災害に逢っている中で、この期に及んで東京オリンピックで何兆円もの金をゼネコンとか早稲田裏口入学M喜朗(浄土真宗王国で火事に仏壇を最初に運び出したとして宣伝して議員になった町長のドラ息子)などに好き放題に使わせようと言うのですから実にとんでもない国になってしまったものです。

 この無駄遣いを止めさえすれば、国土交通省と農水省が引き起こした国土破壊によって引き起こされた西日本の豪雨災害による被災民の救済はたちどころに終わり、国力の復元もできるはずなのです。

 しかし、K、Mによる国富の無駄遣いは止まらないでしょう。

 こうして二年後も激化するはずの灼熱の炎天下に東京オリンピックが開催される事になるはずで、まずは、北欧などは元より、ヨーロッパ系の国や選手からは不平不満が噴出するでしょうし、選手、役員、観客からも万余の熱中症患者が産み出され国家のイメージ・ダウンは当然の事として、損害賠償請求さえも出て来る事に成るかも知れないのです。

 こうして、悲劇のオリンピックを最後に、馬鹿げた国際サーカス見世物興業としてのオリンピックにブレーキが掛かる事が明らかになって来たのでした。

 ましてや、次の次は北京なのですから、不正判定、妨害、嫌がらせにドーピングを国家的に誤魔化す事は容易に想像がつきますし、このような不正を中継し国威の発揚とか不正を横目に逸らそうなどとする愚かな行為から多くの見識ある人々は無視するなり海外旅行に行くなり、最低でも精神的に離脱こそすべきなのです。

 さて、ここまでお読み頂いた段階で、果たして二年後の東京五輪はどのような天候の中で行われるでしょうか?

 まさか、都合悪く(彼らにとっては都合良くですが)冷夏とか長雨にはならないとは思うのですが、もしも普通の夏であったとしても、夕立が完全に消失した東京都下においては、ヒート・アイランド化を止めるどころか金儲け天下りに奔走し促進させてしまった結果(戦後70年掛けて地表から水を消してしまった…下水道による雑排水の地下化、側溝の三面張化、上水の地下化、駐車場~敷地のアスファルト舗装…によって水循環と熱循環が破壊されてしまった結果止めどもない熱の蓄積によるヒート・アイランド現象が起こってしまった)、日中の気温が名目35度を超す普通の真夏日と熱帯夜が連続する客観的条件は十分に整っているのです。

 後は、普通の夏がやって来さえすれば大失敗する可能性は十分にあるのです。


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これは決してCO2の増加による地球温暖化などではないのです


 問題は、一重にこんな時期をオリンピックの開催期間としたJOC、オリンピック組織委員会に在る訳で、何の見識も持たず、ただただ理解の無い真夏開催というゴリオシを行なったアメリカの意向を唯々諾々と受入れた馬鹿さ加減が不幸をもたらしたことになるのです。

 一方、このヒート・アイランドをビジネスチャンスとしてこれまた金儲けに奔走する企業も現れています。

 ミスト・シャワー発生器であり、遮熱性舗装工法です。これ自体は正しいのですが、それなら、戦後70年も大型ショッピング・センターから企業の駐車場の舗装や雨樋でしかない三面張り水路を野放しにしたのか、カラカラの河川を造ってしまったのかという国交省の馬鹿さ加減が良く分かるのです。


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今さらミスト・シャワーを造らせるぐらいならば、何故、河川や道路整備をこのような馬鹿げたものにしてしまったのか?を良く考えろ!夕立を消してしまったのはお前らだろうが!


いずれにせよ熱中症の続出によりオリンピックが大失態を見せる事を期待している者としては、後二年、つまりオリンピックが終わるまでは灼熱地獄のままにしておきたいものです。外圧でしか変わらない日本は、国際的恥さらしと嘲笑の中に置かない限り、変わらない代わらないからなのです。

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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。

581 雪深い島根の山奥で発見した仁徳天皇 “島根県吉賀町上高尻若宮神社”

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581 雪深い島根の山奥で発見した仁徳天皇 “島根県吉賀町上高尻若宮神社”

20180221

太宰府地名研究会 古川 清久


581-1島根県吉賀町にゴギの郷ログハウス村があります。ゴギは中国地方に生息するイワナの一種とされ、放流イワナやアマゴなどとの交配によって純血種の存続が危ぶまれている希少種で広島県の天然記念物に指定されています。海釣りに40年関わったものとしては、関心が無い訳ではないのですが、ダム、砂防ダム、河川改修、ほ場整備、人工林…によって徹底的に生息環境を破壊しておきながら綺麗ごとを並べる行政には何の期待もしていませんので早晩絶滅するものと理解しています。

ともあれ、場所の説明のためには手っ取り早い為、免罪符的な(あたかも自然を保護していますと言わんばかりの)「ゴギの郷ログハウス村を取り上げたまでの話です。


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日程の都合もあり、このような神社に対して資料があるとも思えなかったため吉賀町の町史などに当たる事もしませんでした。事実、ネット上に公開されている「島根県神社誌」にも記載がないのです。

周辺には集落らしきものも乏しく生活臭もないような所だけに不思議です。

恐らく、さらにゴギを苦しめる道路拡張と河川改修を併せた整備によって古い祭祀が補償工事か移転補償によって再建されたものではないかと考えています。

ただ、吉賀の中心部から匹見町へのハードな道路の入口のような場所に、何故、高良玉垂命=開化天皇と神功皇后との間に産まれた長子(「高良玉垂宮神秘書」)=オオサザキことシレカシノミコト=若宮=仁徳天皇の祭祀が存在しているのかは謎としか言いようがありません。

通説では、贈)仲哀天皇と神功皇后との間に産まれた応神天皇の子などといった大嘘がまかり通っていますが、「高良玉垂宮神秘書」には高良玉垂命=第9代開化天皇と仲哀亡き後の神功皇后とは夫婦と書かれているのです。


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582 エントラーダ デ プロイビーダ entrada de prohibida 「立入禁止」

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582 エントラーダ デ プロイビーダ entrada de prohibida 「立入禁止」

20180302

太宰府地名研究会 古川 清久


確かアルゼンチン・タンゴにentrada de prohibida ありましたが、ブログのタイトルが思い浮かばず、ついつい好い加減なものを選んでしまいました。さて、一年ほど前ですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 378 伊佐市で「柴刺」(シバサシ)に遭遇した において「柴刺」という宗教儀礼について書きました。

 その後も意識しているとこの柴刺の名残と思えるものを鹿児島、宮崎でも良く見る様になったのですか、愛媛県、高知県にも存在している事に気付いた事から今回書き留めることにしました。以下、再掲載…。

この際、今回のテーマは祭神ではないためどうでも良いとして、この神社の一角に「柴刺」神
582-1事の名残と思えるものに遭遇しました。

 馬場紀美史(宇佐神宮福岡出張所長)が書かれた「柴刺」の販促用襷には、以下のように書かれていました。       …中略…

これについては、百嶋神代史研究会(仮称)グループの一員でもある スピリチュアルヒーラー宮古の縁側日記 の宮古女史によっても「柴刺(しばさし)古代の祭儀」として小論を公開されています。

 そうした中、鹿児島県伊佐市の外延部で柴刺神事の痕跡と思えるものを見

掛けましたので、記憶に留めておきたいと書き留める事にしました。

この際、今回のテーマは祭神ではないためどうでも良いとして、この神社の一角に「柴刺」神事の名残と思えるものに遭遇しました。

 馬場紀美史(宇佐神宮福岡出張所長)が書かれた「柴刺」の販促用襷には、以下のように書かれていました。


 …「柴刺」「柱立」は律令国家の誕生後、大きく変化していく。「柴刺」に限って言えば、祭場を修祓するための、或いは禁足境界を標示するための、つまり柳田國男が指摘する「忌刺」(斎刺)として変化していったのである。従ってこのような基本的誤謬が現在、「柴刺」イコール「注連張」の通念を生み出すに至ったものと考えられる。

 しかし何度も言うように「柴刺」は霊を虚空へ送りあげるための祭儀であり、決して注連を張るのと同義ではなかったものである。神―すなわち祖霊の還天と来臨が柴刺そのものであった事を理解する必要があるであろう。(本文より)

 

 一応、入門者の当方としては、「注連縄」による結界以前の聖域の表現と理解しておきます。

 この柴刺との遭遇については、熊本県芦北町を始めとして、これまでにも過去何回かありました。

 やはり、その多くが古い集落といった場所で、後しばらくの間はこの古い儀礼に遭遇する機会はあるものと考えています。以下はスポット68 「柴刺」(シバサシ)の一部です。


では、「柴刺」とは何でしょうか?実は中国の少数民族の一つ彝(イ)族の儀礼でもあるのです。

勿論、祭礼、葬礼などに於いて、色々な枝を刺すという儀礼、神礼の事なのです。

今でも茨城県では一部に残っているとも聴きますし、これに似たものを熊本県の葦北郡でも見たことがあり、列島にはどのような人々が入ってきたかを考える上で、重要な示唆を与えてくれるものとなっています。

…最後になりますが、“倭人とは何か“を考える時、「ワ」人と読むのではなく、「ウィ」もしくは「イ」=「ヰ」であるとすれば、この民族も列島に入って来ていたのではないかと思うのです。

それが「常陸国風土記」に出てくる武甕槌=鹿島大神による“同族だまし討ち”征服を思わせるのです。

その意味で同書の458pも我田引水的ですがご紹介しておきます。

雲南省麗江からの新興亡命者であった阿蘇氏に征服された先住者も広義の九黎族の一つだったはずなのです。だからこそ常陸の国の先住者は、歌や音色に魅かれて油断した所をだまし討ちされたのです。


彝(イ)族の儀礼が残っているから伊佐という地名になっているのではとまでは思いませんが、彝(イ)族と混住していた黎族が鹿児島に入っている事には疑いを持ってはいません。

 指宿に「今給黎」姓が集中し「喜入町」があり「嘉例川」といった地名があることは大陸から黎族(分かり易く言えば阿蘇氏のこと)が入って来ている痕跡と考えている事はこれまでにも何度か触れています。


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582-3これは馬場先生が「柴刺」の409pに挿入されていた雲南省の地図で、  が彝(イ)族の居住領域です。

これを見ると、雲南省麗江を主要な居住地としていた黎族(阿蘇氏)とも白族(豊玉彦=ヤタガラス、大幡主の御先祖)の領域であった昆明とも重なる事から、大口辺りに彝(イ)族が入っていても一向におかしくはないと思うのです。

 写真は神社の正面の風景ですが、古代には雲南省のような山上楽園だったように思えるのです。
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今般、五度目になるのでしょうか。香美市など高知県は高知市の東の物部川流域の神社調査をしていると、何故か水場と思える場所に「柴刺」の儀礼を頻繁に見かけました。

 まだ、寒い、寒い正月と小正月を過ぎ、二月の末に入ったからだったのでしょうか、多くの水場や滝などの脇に「汚すな」「清浄を保て」「禁足地」「清浄地」…とばかりに社名の付された
582-5「柴、刺」らしきものが数多く立てられていたのでした。

 意識して運転していると、川、滝、水路と道路が交差する場所に刺されている様で、辺境の集落程その傾向が強いように感じたのでした。

 勿論、御幣による結界もあるのですが、要は神社の鳥居型のマークと同様で、この鳥居型以前の様式である柴刺が普通に意味を持っている社会にタイム・スリップした様に思えたのでした。


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小便するな…などと卑近な例を出すつもりはありませんが、昔は車が生活領域の上を通過するような天空道路が造られるなどと言う事はほとんど無かったものです。しかし、トンネル、橋梁を駆使して道路が造られるようになってくると勢い上水が汚されるケースも現実化したのかも知れません。

 上水として利用する人々にとって命の水を汚される事は許し難い行為ではあっても、本来この一帯は尊い“水神様のおられる領域だから決して汚さないで下さい”とのメッセジが込められている事は当然でしょう。しかし、柴刺が行われる場所とは神が降臨し、また、天上界へと上がって行かれる場所であるからとの了解が広く行き渡っていたからこそこの柴刺の風習が成立していたのです。

これが、近年、希薄になって来ているのですが、恐らくこの風習は最低でも二千年間は続いているはずで(紙ができる前は?)、列島民族の姿を見出すのは私達だけでしょうか?

583 別役神社の祭礼に参加してきました

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583 別役神社の祭礼に参加してきました

20180303

太宰府地名研究会 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 に 548 別役さんからのコメントを頂いて を書きました。

2017年 1230日 に当方の橘一族と考える二人の宮原さんと併せ3人で別役さんとお会いしたのですが、高知県の別役一族の事を知り、なおかつ、来年33日に祭礼があるとのことから、単騎長躯、豊予海峡を横断し高知県の山奥に分け入りました。

別役さんからメールを頂いた直後から推定ヤタガラス後継=橘一族である事には気付いていましたが、祭礼に参加してその事をはっきりと認識するに至りました。

 高知県在住の別役氏とアンパンマン・ミュージアムなどという行政の無駄遣い(=土建産廃議員への税金の横流しと役人の天下り)施設といった只の客寄せ施設で待ち合わせ、直ぐに別役神社を目指しました。

 場所は、高知県高知市の東、物部川流域からさらに東の山中に入った香美市の山の中(香美市西川)です。


583-1

概して物部川流域の神社は大手を除いて祭神を含め、縁起、由緒の類が殆ど明らかにされていません。

神殿も鞘殿の形式を取っており、物部氏のそれを感じさせます。

さて、 33日のひな祭りの節句の日ですが、祭礼に集まって来られた多くの別役さん西川さん(共に同族なのだそうです)が川沿いの空地に少しずつ駐車され、川を挟んだ神社正面の小丘の集会所に急坂の坂を登って行かれていたのです。

 別役神社は別役城の直下ですが、川を挟んだ対岸の小丘に累代の別役一族の墓所がありその傍で大祭が行われ続けているのです。

 その途中には燦然と別役神社の幟が燦然とはためいていました。紛う事無き橘一族の旗指物でした。


583-2

少し登ると、別役家の法輪搭数基の正面に先祖発祥地なる石碑が建てられていました。

 ついつい微笑んでしまったのはこのお利口さんのワンコでした。

 橘一族の祭礼ですので、頭に過ったのは言うまでもなく橘一族の祖の犬養橘三千代の事でした。

 あまりにもお利口さんでしたので、再度、アップでご覧頂こうと思います。

 メス犬だったようですので、勝手ながら三千代様と名付けさせていただきました。

ワンコ、ニャンコの専門サイトではありませんので本題に戻りますが、別役さんからメールを頂いた瞬間から橘一族=白族ではないか?と考えた事は、この旗指物から紛う事無き橘一族と確認できました。

何故、橘一族と考えたかは、ひぼろぎ逍遥 548 別役さんからのコメントを頂いて に書いた通り、別役姓の分布状態やその祭礼が33日と聴いた事もありますが、別役氏の「役」が「疫」(エン)を修正した文字であり、エンノオヅノのエン「疫」に通じ、阿波の忌部の「忌」、陰陽師の「陰」…といずれも藤原によって貶められた文字であり概念であるからでした。

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橘の三千代さんです 来年の祭礼にもきっと登って来てくれることでしょう


県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665? - 51月117332月4))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。

三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に命婦として宮中に仕えたと考えられている。配属先についても不明であるが、和銅元年(708年)11月には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、また養老5年(721年)5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている(義江 2009)。

はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。

天武天皇13年(684年)に第一子葛城王を出生しているが、軽皇子(後の文武天皇)は天武天皇12年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている。時期は不詳であるが美努王とは離別し、藤原不比等の後妻となり、光明子・多比能を生んだ(多比能の母に関しては異説あり)。不比等は持統天皇3年(689年)段階で直広肆・判事の職にあった少壮官僚で、持統天皇10年(696年)には高市皇子の死去に伴い不比等は政権中枢に参画した。文武天皇元年(697年)8月には不比等の娘宮子が即位直後の文武天皇夫人となり、藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定され藤原氏=不比等家が成立する。こうした文武天皇即位に伴う不比等の栄達の背景には、阿閉皇女の信頼を受けた三千代の存在があったと考えられている(義江 2009)。

ウィキペディア(20180303 20:11による



また、この隠れ橘一族(中傷ではありませんので悪しからず)別役氏が何故33日に祭礼を行っているかも多少は見当が着きます。

 それは、藤原以前(つまり九州に皇室の本拠地があった時代)、橘氏とは天皇家へ娘を嫁がせ、命婦制の元その皇子を次の天皇とすることを持って天皇家との関係を保ち続けた一族であったからでした。

 ただ、743年(天平15年)の奈良麻呂の変など藤原氏との政争に敗残し、源平藤橘の栄えある一族でありながら後には中級以下の貴族として零落して行ったのですが、それでも武士政権の中に活路を見出し復活の機運を探り続けた人々だったのです。

 その一流が肥前、肥後に展開した橘 公業の後裔であり、当グループの両宮原氏は元より、かく言う私もどうやらその一族のようなのです(ひぼろぎ逍遥 556 古川という家系について ①~⑤) ”。

 してみると、橘氏というのは女系橘であり、娘の末子が跡を取る(跡目として一族の財産を引き継ぐ)のであり、優秀で美しく子宝に恵まれるお姫様を大切にするからこそひな祭りの日が祭礼の日とされたのでしょう。

 下世話に言えば古代に於いてはDNA鑑定などできない訳で、男にとってはその子が本当に自らの血をひいた子であるかは最後まで分かりません。

 しかし、母親にとってはその子がどの男との子であるかは元より、最低でも自分の子である事は確実なのです。

 さらに言えば、子は育ってしまえば、父親ではなく母親の言う事しか聴きません。

また、老いた両親を最後まで看取るのも、また子の面倒を見るのも実質的には母親なのです。

 してみると、女系橘と言われる意味とは事ほど重要であり、財産の保全にも効率的この上なく両親や一族にとっても安全なのです。


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神職は別役神社の方ではなく高知市の某大社の方の兼務なのですがお名前は別役様だそうです


 もう一つ、奉納者リストを見ていて気付いた事がありました。

 あくまでも偶然でなければですが、奈良麻呂の変に参画した橘氏(一応は武闘派のとしますが)の流れは橘 公○といった名を継承します。

 肥前、肥後の橘氏は明らかです(橘 公業、橘 公員…)。この作法を継承されている方がおられたので、橘一族でもかなり上のクラスだったのではないかと考えているところです。

 もう一つの問題は、何故、西川さんが同族とされているかです。

 山口県の佐藤と岸は兄弟であるにも拘わらず名を違えていますね、幕藩体制化に於いては、一家から二流の武家を出す事は出来ませんでした。

 従って、兄が武士として跡を継げば、弟は百姓分として別の扱いを受けるのです。

 百姓は姓がなかったような理解がされていますが、実は名乗らなかっただけで姓は持っているのです。

 それが侍分と百姓分として反映されているのではないかと考えていますが、無論、二階から目薬のため定かではありません。

 ただ、この西川が何かです。確かに別役神社がある一帯は西川です。しかし、何かの西でなければならないはずです。古代に於いて遠賀川河口はイヅノメ(豊玉姫=母神は高木大神系豊秋ツ姫)の拠点でした豊玉彦の後裔には幾つもの流れがありますがもしかしたらこの別役の流れは豊玉姫系なのかも知れません。

 橘一族の拠点の一つが九州の筑豊地方の遠賀川河口でした。

583-5その西側を流れる川が西川と呼ばれ、その上流にいたのが演歌歌手の西川峰子でもあったのです。

それは余談としても、鎌倉期の橘氏の本拠地の一つですが、佐賀県武雄市の肥前橘の明治の橘村の杵島山の西の裾野を流れる川も東川なのです。

いつか解明できないかなと考えています。

別記「鎮守の森は今」竹内荘市 にもこの別役神社は記載されていません。恐らく神社庁管理の神社ではなく、一族と言うよりも同族集団の秘密の祭祀ではなかったかと考えられます。

 その意味でも、重要な…と言うのは橘氏にとっても重要な一社だった事が分かるのです。


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しかし、神社探求者としては、問題は全く片付いていません。 それは、別役神社の祭神が分からないのです。ただ、これについては資料を入手していますのでいずれお伝えできると思っています。

その前に、あまりお気付きではないようですが、神社参道の右手に道が延びており、小さな祠が置かれていました。

これが単なる鬼門封じの社ならそれで良いのですが、気になります。

 別役神社の神様とはどなたでしょうか?

 佐賀県武雄市の潮見神社の祭礼などからある程度の見当は付くのですが、まずは、天御中主命、ヤタガラス=豊玉彦、橘 諸兄、イザナミ…当面、憶測は保留しておきましょう。

 土佐に展開した別役一族が、実際には、橘氏のどこからの別れなのかが今のところ把握できていません。

 また、何故、土佐に入ったのかも重要です。

 古来、薩摩に落ちると同様と言うよりもそれ以上に海路、陸路を問わず困難を極めたのが土佐でした。

 中央で敗残した人々は最も攻略し難い所に逃げ込み、勢力を温存し拡大させ、次の展開に備えたのでした。多分、兵庫県但馬も橘氏が展開したエリアですが、ここも平安遷都が起こるまでは同様です。

中央から逃れた場合、薩摩の様にあまりにも遠方に逃げると中央を奪還し難くなります。

 ところが、土佐は海陸とも僻遠の地ではあるのですが、いざとなれば海路一気に中央を攻略できるポジションにはあるのです。これこそが別役一族に魅力を感じさせるのです。


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元九州大学名誉教授 服部英雄氏の著書『景観にさぐる中世』に記載された武雄市の橘一族の系図


ご覧の通り橘 公○という名乗り方をしている事がお分かり頂けるでしょう(これは鎌倉以降のもの)。

 肥前の橘氏は、渋江、牛島、中村の三家に別れますが、その後も公+○という名の付け方の作法を継承されている方はおられると思います。

 最後に、この別役氏発祥の地の石塔が建てられた場所です。川を挟んだ別役神社の山上の別役城が望める=見守れる場所に墓所が置かれていた事を意味しています。毎年ひな祭りの日に集まり祖先の霊前で橘氏再興の決意を確認する血盟団的な色彩を帯びた秘密結社的な決起集会の意味合いを持った祭礼であったと思うのでした。まだ、調べ始めたばかりで頼りないので、その範囲でお読み下さい。

今回は別役様、西川様を始め、お尋ねをお受けします09062983254古川

スポット 196 読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…

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スポット 196 読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…

20180829

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログを
sp196-1お読みの皆様、暑い中、丹念にお読み頂き有難いと思っています。

 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。

 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜など文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者協力者が増え神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。

 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし(また新たにお一人加わられる予定です)、ブログは書かないまでも独自に神社調査を行い記録を残している方もおられます。

 勿論、今尚統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託し、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。

 百嶋先生と知り合いになったのは八年ほど前でしたが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。

しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。

さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。

 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくもないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)

さて、四月の近江~但馬、五月の糸魚川~諏訪~山梨、六月の青森と15日間づつ、三度に亘って長躯の神社調査を行いました。

ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書く必要も有り、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。

今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。

元々、福島の原子力災害辺りからこれ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのです)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。

人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。

基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二~三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。

今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオン・エアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。

 
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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。

振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。

 大分銀行 若宮支店 0183-000093-7505802 フルカワ キヨヒサ

 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ

また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。

 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp
携帯 09062983254 (常時対応)


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件へ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。ちなみに昨日のアクセスは両ブログで日量2000件を超えています。毎日続けば良いのですが。

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