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スポット197(前) 国際情勢が劇的に動いています

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スポット197(前) 国際情勢が劇的に動いています

20180806

太宰府地名研究会 古川 清久

 もうかれこれ47年も前の学生時代の話に戻ります。

 私自身の話で恐縮ながら、70年安保闘争(東大全共闘、日大全共闘…)が敗北し、連合赤軍による「あさま山荘事件」が連日連夜報道され、意図的な世論誘導が行われていた時期に大学進学を迎えていました。

丁度、私達の学年の高等学校の卒業式の日が機動隊によるあさま山荘への突入の日であり、大きな鉄のハンマーが山荘の壁を破壊し突入する映像が今でも目に浮かんで来ます。

あたかも、“これから大学に進む人間はこんな真似をするな”と言わんばかりのメッセジが繰り返し流されていた事を鮮明に記憶しています。これ以降、学生運動は解体し続け、いわば敗北の歴史に落ち込んでいきます。

あれから半世紀近い時間が流れ去り、私自身もこれまでの経験を次世代に託す年齢になってきたのですが、国家からの赤裸々な警告にも関わらず、大学に進むや既に全共闘運動の敗北によって潰れていた学生自治会の再建運動の主要メンバーとして活動し、自治会再建を達成するや(確か教養部学生の半数以上を集めたのです)、自治会の反主流派として別の運動を担い、数度の2000人級の街頭デモを指導する表向きの指導部(実質的な逮捕要員であって本当の地下指導部は一学年か二学年上の先輩たちだったのですが)として「全学闘争員会」(マルではないのですが)の書記長を仰せつかり、真面目に勉強もせずに週に3回も二千枚のビラを撒き、教養部フロアーでオルグを続ける中に身を置いていた事を思い出します。

その時の親友で全学闘の委員長をやっていた男は、現在も神奈川県の金属関係労組の極少数右派組合の委員長として活動を続け(裁判闘争、地労委闘争)、神奈川~埼玉県下では知らぬ者のないポーランド連帯労組のワレサのような人物になっています。

そう言えば、15年ほど前になりますが、役所に在職中に埼玉県の某大手自動車メーカーの子会社の埼玉県内の工場に40人近い動員(職制に排除されない様に人員が必要になるのです)で朝ビラを入れるために新幹線で支援に向かった事もありました。

そういった若かりし頃に議論していたのは、中国もソ連邦もスターリニスト官僚が労働者を徹底的に弾圧した結果成立した国家であって労働者階級の敵対物でしかない…、もしも、真の労働者による権力を樹立するとすればアメリカの第7艦隊を潰せる海軍力と工業力を再建し対ソ対中の労働者による反乱を準備できなければ勝利できないといったものでした。

このため、日共系のスターリン主義はそもそもアメリカの手先ですが、全共闘運動に毒され紅衛兵万歳とかホーチミン万歳などと騒いでいた大半の既成左翼から間の抜けた新左翼の方々とは思想的衝突を繰り返していたのでした。

当然、学生としてはベトナム反戦運動ナンセンス!といった変わったスローガンになっていた訳です。

その一端をご紹介しておきましょう。

太平洋戦争下の南ベトナムのサイゴンに於いて支配的な労働者組織を築き広範囲で活動していたタ・トゥ・タオらのトロツキスト組織を潰したスターリニスト=ホーチミン(ホーおじさん?馬鹿か)北ベトナム労働党に対抗する運動を行うべきだ…と圧倒的な少数派に傾注し、その思想的には過激性を純化させていたのでした。


タ・トゥ・タオ(ベトナム語:T Thu Thâu、漢字:謝秋收、19065
sp197-15 - 1945年)は、ベトナムのトロツキスト。

サイゴン(現ホーチミン市タンビン区)の小村落に貧しい大工の息子として生まれ、1927年からフランスで大学教育を受けた。1930522日、タオはパリのエリゼ宮前で、ベトナムのイエンバイ省で起きた反乱の鎮圧に抗議するデモに参加して逮捕され、ベトナムに帰国した。

当時、ベトナムではトロツキズムを標榜するいくつかの団体が存在したが、19315月にこれらのグループは共産主義者同盟に統合され、タオはその中でもっとも優秀な指導者と目されていた。1933年には、サイゴン地方議会の選挙でトロツキストとスターリニストの候補が最大票を獲得した。結果的にこの結果はフランス植民地当局によって破棄されたものの、ベトナムにおける革命派の躍進が明らかになった。

1939年、独ソ不可侵条約締結直後にベトナムのトロツキストとスターリニストは当局による大弾圧を受け、共産主義運動は非合法化されてタオはコンダオ諸島の刑務所に収監された。1945年にタオは釈放されたが、直後に行方不明となった。現在では、ベトミンのスターリニストによって殺害されたと考えられている。

ウィキペディア(20180818 1213による


タ・トゥ・タオについては、当時、山川出版の「東アジア現代史」?か何かで読んでいましたが、労働者を徹底的に弾圧したスターリニスト・ベトナム労働党による反米闘争を無批判に支援するベトナム反戦運動を全く否定的に考えていたのでした。

当時、私達はギリギリ左翼の範疇には入っていたのかも知れませんが、左翼としては、思想的には最も極端な左翼であって周りからは右翼か民族派に見えていた事でしょう。

このため、間の抜けた日本労働党やソ連邦に肩入れする社会主義協会向坂派と言った連中ならばいざしらず、ただの暴力的農民運動の指導者でしかなかった毛沢東などを無批判に礼賛する連中が多い中、新左翼系の連中でさえ「紅衛兵万歳」「造反有理」を叫んでいた訳であって、紅衛兵内部に毛沢東と衝突する意志を持った本物の労働者集団が居た事(例えば毛沢東に反対したウルトラ過激派の紅衛兵集団 516兵団湖南省無産者階級大連合=省無連…)を徹底的に弾圧したのも当時左派と言われた王洪文ら毛沢東、四人組一派だった事を知っていたのでした。

現在の中国共産党が労働者は元より、ウイグル、チベットから農民まで弾圧している実態を見れば、6070年代の新左翼運動がスターリニストを完全には、否、殆ど批判できていなかった事は明らかです。

従って、自分自身は護憲派などではさらさらなく、平和憲法を守れ!(元々一度も守られた事などない憲法を守る事には何の価値もない!)などと不思議な事は一度も言った事はありませんでした。

ましてや非武装中立などと言った馬鹿げたスローガンも掲げてはいなかったのでした(むしろ重武装中立によってソ連邦、中国、米国にも対抗すべき…と考えていたのです)。

従って、魂を抜かれたアヒルのような米国の植民地人に成り下がる気はさらさらなく、重核武装論に進むのは後一歩でしかなかったのでした。

さて、前置きが長くなりましたが、18ケ月前に ひぼろぎ逍遥 スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される! 20170224 を書きました。以下、一部を再掲載します。後はネットをお読み下さい。



sp197-2経済破綻から、さらに深刻な国家的消失へと進みつつある韓国(南鮮)ですが、一昨年の年頭以来、“北朝鮮主導により半島が統一される”という話がネット上では静かに流れていました。

他にもありますが、まず、中丸女史によるものが代表的でしょう。

明治天皇の落胤系の孫にあたる国際政治経済ジャーナリスト中丸 薫女史ですが、15年の冬に福岡市内で一度お目に掛かる機会を得て一言二言お話ししたこともあります。ネット上の有名人のお話しながら、半島情勢に関しては聴いた当初の段階では耳を疑ったというのが正直な実感でした。

ただ、サムソン危機、韓進海運倒産、大宇造船危機、朴政権の事実上の崩壊(オンエア時点では韓国の事ですから、弾劾か)…と、ここに来てその現実性、信憑性が急速に高まりつつあるように思えるのです。

元々、年から年中嘘をつき続け手のひら返しを繰り返しているような大陸人と半島人に対しては、敬遠(敬じながら遠避けて)し一切手を出さないのが肝要…と思い、考える事さえ避けていると言うのがこの間の正直な感想でした。

しかし、非常に突飛な話に思われるとは思いますが、歴史とか国際政治といったものには裏の裏にまた裏があり、その奥にも隠し袋があるというのが本質なのです。


これは、私が僅かながらも接触を維持している博多のヤタガラス系の組織の内部では数年前から議論されていた話なのです。実際にこのような形で世界情勢が動くことを目の当たりにすると、NHKから民放まで普通のありふれた官許の報道などほとんど漫画に近く、何の意味も無い事が良く分かるのです。

彼らは故)百嶋由一郎氏が言われていた出戻り新山 熊野の国から戻って来たヤタガラスの本流組織なのであり、実際に日本という国家を動かしている人々なのだと考えています。

二、三年前には“何を惚けた事を言ってるんだ…”と言われそうな話でしたが、トランプ登場後の現在の半島情勢、国際情勢を考えるならば違和感など全くない訳であり、世の中とはこのようにして劇的に変わって行く事が分かるのです。

ここで始めにご紹介しておきたい情報がありますのでユーチューブを開き、以下をご覧頂きたいと思います。


sp197-3

これも、恐らくトランプ政権の登場によってようやくチャンスと判断し公開されたものでしょう。

ユーチューブでこれをご覧になれば金 正恩の父である金 正日(ジョンイル)は日本人の畑中 理を父として産まれており、この正日と横田めぐみの間に産れた正恩には、日本人の血が3/4(厳密に言えば朝鮮の日本人ハーフと日本人の結婚による)は入っている事になるのです。

従って、普通に考えれば同族との認識を持つ列島にミサイルを撃ち込むはずはないでしょうし(勿論、日本を70年以上も占領し日本を堕落させている米国には敵意を持っているのですが)、むしろ北朝鮮のミサイルは旧瀋陽軍管区を支配する江沢民派の支援の元、直接北京に向けられている可能性があるのです。

これについても、スポット119 半島情勢急変の可能性 20184月 米国と中国が半島北に侵攻する … 20170916 を改めてお読み頂きたいと思います。

70年前まで日本は満州に進出し列島以上の投資を行い、ほぼ、全く回収できないまま新国家建設(石原莞爾)の夢は閉じられてしまいました。

sp197-4長城線の外側である満州に留まっていれば良かったのですが、熱河作戦などズルズルと北支、中支、南支へと拡大させ、最期には、大陸に百万人の陸軍を置きながら、兵力の逐次投入という最悪のパターンでガダルカナル以下の島嶼部戦闘に連戦連敗を喫したのが帝国陸軍だったのです。 この関東軍、関東庁…に拠点を置いていた帝国陸軍の一部が(復員して米軍の支配どころか処刑される事を由とせず実質的な関東軍の軍事顧問団のような存在として数千人単位で残り、勿論、ソ連軍との密約の元にソ連占領下の北朝鮮で国家の中枢に影響力を注いでいたという話は密かに伝えられていました)、北朝鮮という当初の親ソ反米政権のバック・ボーンとなっていたようなのです(事実上の軍事顧問団)。

極論すれば、北朝鮮とは米国に占領された日本帝国を奪還するために関東軍=中野学校などが人為的に造ろうとした半島の日本であった可能性(あくまでも意識的に残った関東軍の軍人、技術者、科学者の主観ですが)でさえあるのです。

これは中国でも同様で、私も中国の残留孤児の業務に携わったこともあったことから、当時、日本の技術者、軍人が復員、帰国を留めて残され、意識的に残り、ダムの発電技師とか航空機の整備や航空技術の伝授や鉄道輸送…の技術、技能を伝授し継承したという話は幾らも遭遇していました。

今回、「伊達家の御曹司…」が公開された事によって、ようやく単なる噂でしかなかったものが一気に現実性を帯びてきたのでした(まだ、そのまま信用して良いかどうかは不明ですが探索は続けています)。

ヤルタ・ポツダム体制という戦後処理が半島に於いては朝鮮戦争によって五、六年はずれ込んだのですが(遅れた)、基本的にはソ連邦と米帝による世界分割支配(虚構の対立)のいわば道具として人為的に造られたのが38度線による南北朝鮮だったのです。

このため、元モルドバ大使の真渕睦夫氏が言っている様に、マッカーサーは勝てる作戦は幾らもあったにも拘わらずワザと負けさせられ、分割支配構造が固定され残され、その恐怖の対立の装いの元に、米国による日本占領が実質的に今日まで継続され、法外な値段の二~三線級の兵器が売り込まれ(明治維新の兵器がアメリカ南北戦争の払い下げによる日本の「金」の強奪だったのであり、明治維新とはバラ革命などのユダヤ金融マフィアによる逆陰謀でしかなかったのです)、一方の北朝鮮、韓国の対立も、米ソが各々の支配を残す口実としていたのでした。

従って、恐らくスターリン(彼は私が産れた1953年に死にますが)の了解の元に、畑中 理 以下の北鮮への影響力が残されていた可能性は十分にあるのです。

問題は、世界分割の一環としての半島分割も、一方のソ連邦が198991年に掛けて崩壊したことによって劇的に変化します。

北朝鮮がソ連邦という庇護者を失い=放置された結果、実質的にそれを引き継いだアメリカのCIAの誘導下コントロール下にあったものの(だからオバマまではアメリカ=民主党政権の手駒として放任していた)、トランプの登場によって、“俺たちはどうすればいいんだ”とばかりに見せ掛けばかりのナイフを振り回したのがこの間の朝鮮労働党だったのです。

従って、北朝鮮の核ミサイルなど深刻に考える必要など全くないのであって、一発でも打ち込んで来れば数十分後には北朝鮮は焦土と化すはずなのです。

それよりも問題なのは史上最悪の国家中国の存在なのです。

田中角栄以来の日本の対中援助(円借款)の結果、無償援助は元より、技術開発、軍事予算に振り向けられ、口では綺麗ごとが言われていますが、恐らく真面目に返済するはずは全くないのであって、日本の援助によって造られた日本向けの核ミサイルが30万以上の都市には全て照準が合わせられている事になっているのです。

結局、対中援助とは日本の国力を落すためにアメリカからの要請で行われたものなのですが、実に馬鹿げた事をしてしまったのでした。

当時、上海や北京でも所得は日本の20分の130分の1であって、貨幣価値を考えれば日本から中国への借款供与、無償援助が如何に巨大なものであったかが分かるのです。

つまり日本の冨によって中国という巨大な怪物を育て造ったのでした。

これも日本に追い落とされる事を恐れたアメリカ=キッシンジャーが仕組んだ事でした。

今また、全く物を造らず造れなくなったアメリカが、日本を追い落とすために中国を利用しようとばかりに投資した結果、今度は無警戒に育て上げた中国がアメリカを圧倒する怪物に育ってしまったのでした。

毎日、毎日、呼吸するかの如く嘘をつくのが中国人であり、李舜臣を持ち出すまでもなく(停戦協定成立後に攻撃し唐軍も呆れて見ていたのですが、その程度の人物が朝鮮の英雄なのです)情勢の変化に併せ直ぐに裏切り態度を豹変させ続けてきたのが朝鮮人だったのです。こんな連中を信用する凡そ馬鹿げた事であって、結局、キッシンジャーもオバマモも、結局は中国に手玉に取られたことになるのです。

そこで、最近公開されたものですが、さらに衝撃的な話が飛び出してきたのです。

それは、日本は既に自前で核武装しているという話です。


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スポット197(後) 国際情勢が劇的に動いています

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スポット197(後) 国際情勢が劇的に動いています

20180806

                       太宰府地名研究会 古川 清久

日本が既に核武装していると言う話は以前からありました。

そもそも、ライシャワー元駐日大使の時代から(ライシャワー証言からも米軍艦船は元より米軍基地にも核があったのです)日本に寄港する米海軍艦艇が積み込んでいる核兵器については非核三原則には抵触しないという理解=日米コンセンサスがあり、曖昧な合意で逃げ回っていたであろう外務省も付けが廻っていたと言われていた訳です。

実はそれさえも偽装に近いもので、返還後も含め沖縄には大量の核兵器の貯蔵庫もあったと言われていたのです(列島の多くの基地には相当数の核兵器が存在していたであろうことは想像に難くない事だったのです)。

ところが、日本は秘密裏に当の昔にそのハードルを越え、自前の核武装が相当に進んでいるという話がネット上に踊り始めているのです(これは代表的な物であってこれ以外にも幾つか拾えます)。

それに加えて、都心には巨大な地下核シェルターが造られており(勿論、一般人対象ではなく一部の要人だけなのでしょうが)、「大深度地下利用」については私権が及ばないとされており、やたら深い地下鉄が走っている事は知られていましたが(大手ゼネコンの方なら十分にご存じではないでしょうか)、その上に地下シェルターが存在していると言うのです。

まずは、ご覧になってご自分で判断して頂きたいのですが、最大2000発とも1400発とも1200発とも400発とも見解が錯綜していますが自前の核武装が行われているとの説が出ているのです。

既に、50基以上の原子炉からは大量のプルトニウムが副産物として生成され保管されていましたが、その蓄積からは2000発の核爆弾の製造が可能とも言われているのです。

北朝鮮の核に対して日本は独自の防衛力を整備すべきか?とか核武装も考える必要が有るのではないかと言った歯の浮く様な議論を聴くにつけ、以前から気楽な人達であるとの思いを持っていましたが、真偽のほどは別として、このようなすっきりした情報が登場していると言う事実に驚愕を覚えるのは私だけでしょうか?実際のところ、個人的にはほっとしたと言った感想を持っています。

日本とは世界で唯一の被爆国であって、仮に報復権という権利があるとすれば、日本には第一義的に核武装し同時に報復のために攻撃できる権利があるはずなのですが、去勢された国家にはその能力が有るにも関わらずその技術と富とを戦後70年を超えてアメリカに奪われ続けているのです。

タカタ、東芝、コベルコ(安倍の古巣)…もう書きたくないのでここまでにしましょう。

従って、黙って開発始めてしまえば良いだけであって、攻撃されれば反撃すれば良いだけの事なのです。

3.11も熊本人工地震も金を脅し取られるために実行されてきたものでしかなく(勿論現在のトランプ政権とは全く別の古いアメリカによるものですが)、古くは日航機ジャンボ機の撃墜をやったのも米国だったのでした(中丸薫~ベンジャミン外)。

元々、一度として守った事の無い日本弱体化のためのものが「憲法」(アメリカに刃向わないための鎖)なのであり、アメリカの意向で押付けられたものだったのですから、中国だろうが、アメリカだろうが一切信用せず独自の国防を考えやれることをやって行く必要があるのです。

これぐらいのことは既に常識であって、陰謀論とか都市伝説とかトンデモ説とかユダヤ差別論…と言われようが、権力を握った連中が裏でとんでもない殺人、破壊行為、富の強奪…をやっていることを隠すためにマスコミを利用しているだけの事なのです。

私にはこれらのほうがよほど虚偽な報道なのであって、トンデモ説と批判するその根拠はと言われれば所詮は一般のマスコミ情報でしかないのです。

元々、NHKから官許のマスコミや日共、労農派はマッカーサーの占領政策に協力する事を前提に許された組織であって、アメリカに奉仕する範囲で活動が許されたものであったものなのです。

だからこそ、その範疇を逸脱した全学連(日共東大細胞…)や60年代のBUND共産同や革共同から民族派の一水会などが慎重に排除され続けたのでした。


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ましてや911は薄汚いブッシュが引き起こした自作自演テロぐらいは常識なのです


では、今後の日本はどう生きるべきなのでしょうか?これについても、以前、以下を書いています。


スポット109 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”①

スポット111 列島(劣等)民族の今後の生き方について“東芝が嵌められタカタも食い物にされた”②

584(前) 高知県の物部川流域にひそりと息づく仁井田神社

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584(前) 高知県の物部川流域にひそりと息づく仁井田神社

20180305

太宰府地名研究会 古川 清久


 今般、高知県香美市の別役神社の祭礼に参加してきた事は前ブログ ひぼろぎ逍遥583 別役神社の祭礼に参加してきました でもご報告しましたが、仁井田神社の存在だけでも知って頂く為に画像を見て頂くことにします。


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当日は春一番通過後の好天に恵まれ、明後日の祭礼の日(33日)まで十分に持ちそうな勢いであり有難い限りです。

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 香美市がどこかまではお示ししませんが、高知市以外にも、土佐市、南国市とどこだろうと思うような行政単位が多い中、香美市などと聴いても遠来の者にはおいそれとは見当が着きません。

 ただ、高知市の東に広がる深い山中をも領域とする物部川の大峡谷流域に展開した物部系氏族が実際には如何なる人々であったのかを探る上での重要な基礎調査とは言えるでしょう。

 まず、旧物部村の中心部である栃尾に入って来ると、右手に非常に印象的な山が見えてきます。

 その名も「天王」であり、それを見るだけでも圧巻ですが、ダムによって水面が上がっているとは言え、ダムが造られる前にはそれこそ大峡谷があったはずで、それを想うだけでも感動を覚えない訳にはいきません。

この天王は天王森とも呼ばれているようです。

地図をご覧頂ければ一目瞭然ですが、四国の南西部を中心(東北の半分は全て山は森と表記されています)に山、岳、嶽に相当するものが森と呼ばれる傾向が顕著です。

これは森が本来は「銛」を意味しているのではないかと考えていますが、村上水軍の「森家」が入った九州のど真ん中の大分県玖珠町にも森地名が拾えるのです。これは只の孤立した一例に過ぎません。

海神ネプチューンの三つ又の鉾も森なのです。


584-3

当然にも平家の落人伝説もあるのですが 物部氏とはそれに先行する事五百年前の落人なのです


物部村に入り、まず、最初に見たいと思ったのはこの仁井田神社でした。

 実は、この周辺には大峡谷を挟んだ対岸にも仁井田神社があるのですが(これは昭文社の道路マップにも出ているのです)、土地の方にお尋ねしても、当方で掛け摺り廻っていくら探して見てもとうとう分かりませんでした(「鎮守の森は今」竹内荘市によれば、仁井田神社は高知県内に47社とあります)。

 いずれにせよ、最初に向かった槇尾の仁井田神社については紛れもない物部氏の奉斎する神社であろうと思いました。

その理由は、「仁位田」が物部氏の中でも筆頭に掲げられた「先代旧事本紀」筆頭の二田(仁井田、新多、新田、仁多、仁田…)物部である事を知っているからです。

最低でも、この二田類型地名を追っていけば物部氏の移動が推定できるほどの痕跡地名であろうと考えています。


584-4

仁井田神社 カーナビ検索 高知県香美市香北町梅久保


584-5


584-6神社には祭神を探る手だてが残されていません。

地名以外には何の手掛かりもないのです。

 さて、これは高知県在住者のB氏から教えて頂いた事ですが、高知の神社資料としては、「鎮守の森は今」追補版「鎮守の森は今」竹内荘市が一般的で、他にもあるものの、県立図書館などに行かなければ手に入らないため、とりあえず、現在でも入手可能なものとしてはこれ以外には無いようです。

 それによると、この仁井田神社については、かなり簡略ですが、以下のように書かれています(58p)。

 

 香美市香北町梅久保

 山末大主神

 勧請年月縁起沿革等未詳。

 古来、当地域の産土神で仁井田大明神と称したが、明治元年3月の達しにより改称した。


記述はこれだけです。

 問題はこの② 山末大主神が誰なのかです。

 私達もこれを追い求めて来たのですが、現在のところ、大山祗命=月読命ではないかと考えています。

 これについては、ひぼろぎ逍遥スポット 069 で以下を書いていますのでお読み頂きたいと思います。

 この仁井田と二田には連続性、関係性が認められ、共に物部系氏族が付す地名であり従って社名でもあるのです。

 以下再掲載

スポット069 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か?      


1218日、太宰府地名研究会(20161218)に於いて、久留米市田主丸町石垣の二田の月読神社から朝倉市杷木町大山の大山祗神社への数社を巡るトレッキングを行います(公開時点では終了しています)。

 問題は、この月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのか?が、今回のテーマです。


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「古事記」「日本書紀」でも影が薄く、実体が見えないのが月読命=大山祗命ですが、これが隠されてきた理由が多少は見えて来ました。それは、その実体が狗奴国であり、物部氏であり(主力が二田物部=鞍手郡小竹町新多だった事を想起して下さい)、後に朝敵=熊襲とされたトルコ系匈奴を主力とする騎馬軍団だったからのようなのです。恐らく朝敵熊襲だったことが百済、新羅、高句麗、秦氏からペルシャまでは許されるものの、決して列島進入を認められてこなかった理由だったようなのです。

現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちの間で、最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこれら訪問する神社に関係しています。

神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜

源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 

肥後の翁のblogから一部切出し

まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

これに対して、田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(「講」を作り参宮したり、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、当然“うさぎ”などがシンボルになっています。また、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。さて、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいます。若干のコメントを加えておきますが、古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、恐らく、燕、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

584-8 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人、中国人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑など、入れ替わった人々のことなのです。つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。そこまで、理解して頂いたうえで、この月を愛で、うさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が主要なテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。

 本題はここからです。二田の月読神社が鎮座する場所は田主丸町石垣ですが(実際には移転により多少変わっていますが)、この地名が遠くアフガニスタンまで通底していると考えています。

そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

 それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂く必要があります(以下)。

179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ④ “西都原に大山祗命の痕跡がある!”

今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です。


584-9

カーナビ検索  宮崎県西都市三宅4615ロ 石貫神社



584(後) 高知県の物部川流域にひそりと息づく仁井田神社

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584(後) 高知県の物部川流域にひそりと息づく仁井田神社

20180305

太宰府地名研究会 古川 清久


西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にもほとんど知られていません。この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が北部九州には少ない事があり、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外、馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。ただ、今回の天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。

由緒


 当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。  敬愛するHP「神奈備」より


石貫神社が本物ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社(ニニギと別れたコノハナノサクヤが祀られる)の存在があり、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。

  HP より584-10


584-11


この「石貫」地名は熊本県玉名市(玉名市石貫地区 横穴式石室を持つ古墳で有名)にもあり、故)百嶋先生は同民族の移動による痕跡地名とされていましたが、筑後川左岸(南岸)の久留米市田主丸町石垣地区、佐賀県嬉野市石垣地区など同種の地名があり、大山祗命=月読命の信仰圏でもあるのです。

 まず、石貫神社の「石貫」とは、「石ノ城」の置換えで(U音、O音の置換え)、「石城」「石垣」も「石ガ城」の置換えになるのです。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町には「石動」(イシナリ)があります。これも半島系の吉野ケ里の「里」地名ですが、金官伽耶から進出してきた同系統の地名と考えています。これこそが、「石和」が「石尊」と通底していると言った理由ですが、これについても故)百嶋由一郎氏は答えを出しておられたのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

さらに話を物部氏に広げます。それも「先代旧事本記」の筆頭に書かれた主力の二田物部との関係に踏み込みます。


584-12

新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。


584-13

物部神社正面


物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。


物部神社参拝殿、本殿


 遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

 ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。


584-14

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。


584-16

参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)


立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」…584-17に助っ人を頼みたいと思います。以下。

584-18徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。


584-19

徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。写真:上賀茂神社の紋-二葉葵

 葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。………
・家紋:立ち葵紋


584-20

敬愛するHP「倭国九州王朝」より


 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。


 この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。

新田は○に一文字(一引き)です。

徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?


584-21

百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。

585 隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)“高知県の長谷寺の十二所大権現とは何か?”

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585 隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)“高知県の長谷寺の十二所大権現とは何か?”

20180308

太宰府地名研究会 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 583 別役神社の祭礼に参加してきました に於いて秘密結社的な橘一族の後裔同族集団の祭礼に参加した事はお伝えしましたが、その際、何故か臨済禅の古刹の住職が参加されていました。

神社の祭礼にお寺の…と多少違和感があったのですが、明治期まではそれこそ神仏混交が一般的であった事からその名残とも思えましたし、同族集団は神も仏にも同時に守護されているとする必要があったはずで、古来、毎年欠かさず参加されていたようだったのです(そもそも祭礼地は墓所でもあったのです)。

しかも、別役神社の裏側の山上とは言え、普通の道で廻れば40キロ以上迂回するべき道でもあり、その情念たるやただならぬものを感じた事から、最低でも寺だけは見ておこうと足を延ばしたのでした。

しかし、安全な道を辿ろうと450キロ以上を迂回して山上の寺を目指したのは良いのですが、最後の10キロ弱がハードこの上ない急坂の離合もできない道であったことから、神経をすり減らしながら、ただ、ひたすら山頂伽藍を目指したのでした。

これほどの山上に何故これほどの寺院が置かれたのかを改めて考えさせられましたが、どう見ても南北朝争乱期に思いを馳せざるを得ませんでした。


585-1

気付くのが遅かったのですが ここにも物部の仁井田神社があったのですね…これもこの寺の背景を感じさせます 次回があればですが もし機会があればこの神社を含め訪問したいと思います

585-2

槙 牧山平等院長谷寺といい、臨済宗妙心寺派の末寺で、本尊は十一面観音。伝説によれば、神亀4年に行基によって開山され、はじめは槙 山村の中津尾にあり、のち芸西村に移り、さらに現在地に移転したものといわれ、もとは吸江寺に属した。明治4年廃寺となったが、同12年大修理を加え、同16年再興した。


 寺院の縁起では畿内の長谷寺と同時に建立されたとか、並々ならぬ意図があったようで、それに橘一族がどのように関係しているかは今後の課題です。


当山は山号を豊山(ぶさん)と称し、寺号を長谷寺(はせでら)と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。

「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。

朱鳥元年(六八六)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち神亀四年(七二七)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩をお造りになられました。

徳道上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳(だいとく)であり、それ故に当山は三十三所の根本霊場と呼ばれてきました。

現在の長谷寺は、真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。


585-3

寺院の縁起では畿内の長谷寺と同時に建立されたとか、並々ならぬ意図があったようで、それに橘一族がどのように関係しているかは今後の課題です。


当山は山号を豊山(ぶさん)と称し、寺号を長谷寺(はせでら)と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。

「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。

朱鳥元年(六八六)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち神亀四年(七二七)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩をお造りになられました。

徳道上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳(だいとく)であり、それ故に当山は三十三所の根本霊場と呼ばれてきました。

現在の長谷寺は、真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。


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土佐の長谷寺の十一面観世音菩薩


 さて、当方が関心を持つのは神仏混交時代の祭神であり、白族の白川白王、天御中主命、大幡主、豊玉彦=ヤタガラスの後裔 橘一族の祭祀が如何なるものであるかを考えましょう。

 まず、境内には弁天様が祀られています。

 弁財天は江戸期に流行した七福神の紅一点インドの水の神様ですが、それは宗像三女神の市杵島姫(瀛ツ島姫)=大幡主の子である豊玉彦の子を弁天様と同一視したものなのです。


585-5

浮島に祀られている神様を見掛けたら普通は弁財天様ともされた瀛ツ島姫とお考えください


585-6

考えていた通り熊野系の祭神でした(熊野は天御中主命~大幡主~ヤタガラスを祭っているのです)


 熊野本宮大社の祭神と同様のものであることがお分かり頂けるでしょう(本宮大社の縁起から)。


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イザナミはイザナギと早々と分かれており(紀の一書を…)、クマノフスミノミコトと名を替え大幡主のお妃になっておられるのですが、イザナミとイザナギが分かれているなどとは言えないために、速玉大社の祭神である大幡主をイザナギの別名とされているようです。

 権力に受け入れられるようにかなり祭神の偽装が行われているようですが、まず、イザナミとは金山彦=カグツチの妹神となる訳です。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)と併せ考えて頂きたいと思います。


585-8

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 土佐の長谷寺はかつて熊野山岳修験のネット・ワークの四国側の中継地として宮方側=南朝側の重要な拠点となっていたのではないでしょうか。

 これが、肥後の菊池氏、阿蘇氏、五条家…とした宮方と繋がっていたものと思われます。


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254でご連絡ください

586 別役神社祭礼の日の前に見た心惹かれる一社“孝元天皇を祀る高知県香美市香北町の聖神社”

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586 別役神社祭礼の日の前に見た心惹かれる一社“孝元天皇を祀る高知県香美市香北町の聖神社”

20180308

太宰府地名研究会 古川 清久


 別役神社の例大祭の前々日から前日に掛けてかなりの神社を見て廻ったのですが、夕方の哀愁もあってか心惹かれる神社を何社も見かけました。

 まず、立派な道路の傍にありながら、進入路が全く未整備な隘路で、どう見ても良い扱いを受けなかった神社といった印象を持ったのでした(当然古代からの因縁を感じさせます)。

 別役神社の例大祭に参加するためにB氏と待ち合わせしたのが香美市の「アンパンマン…」などという安直な箱物施設でしたが、その傍らに著名な大川美良布神社があり、その向かいの聖神社が非常に気になりました。


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ご覧の通り付近には多くの神社があります。かなり狭い範囲ですが聖神社が3社拾えます。

 しかし、これほど多くの神社が集中している場所も珍しいもので、何らかの宗教都市的な意味合いも持っているような気がします。

 大山祗、三宝荒神に聖神社が幾つもありますので、何やら金山彦を中心とする物部系の強面の神様ばかりがおられる様な印象を持ちます。

 まず、鳥居の神額は元より神名も由緒もほとんど見えない神社でしたが、かろうじて参拝殿内の軒下にようやく聖神社と書かれた神額がある事に気付きました。

 「鎮守の森は今」竹内荘市 55pによれば、祭神は天照皇大神とされているのですが、これは明治期に行政に対して通りが良いものを祭神としたものとしか思えませんでした。が、…。


586-2

境内の一角には宮司家だか氏子総代だかの立派な墓が置かれていました 神紋は丸に三階松です


 始めは、この祭神が何かは直ぐには見当が着きませんでした。


586-3

神殿の造りは階段と言い屋根と言い覆い屋と言い物部を思わせます


決め手を欠きますが、仮に丸に三階松の家紋を使う武内様が奉斎氏族とすれば多少は思い当たるものがあります。

586-4まず、聖神社は全国的にもかなりの分布を示しています。

確か鳥取県で聖神社に遭遇しましたが、祭神は国魂命、稲脊脛命、大日霊命…とされていました。

 ニギハヤヒの可能性が高いようにも思えますが、それも違います。

 しかし、故)百嶋由一郎氏は答を残しておられました。やはり、切掛けとなったのは「“宮司家だか氏子総代だかの立派な墓が置かれていました。神紋は丸に三階松です”」とした写真でした。

 ようやくこの三階松の家紋を見て思い出しました。

 故)百嶋先生は多くの聖神社についてもお調べになっていたのです。


586-5

586-5

百嶋由一郎「聖」神社神代系譜


 欠史8代ともされる孝霊、孝元、開化ですが、学会の権威だった津田○○○は奈良近辺を盛んに探し回り、欠史8代については全く事績も痕跡もないので架空だろうとしてしまったのでした。

 それは奈良こそが古代の中心地だったと思い込んだお国自慢、里自慢の早とちりでしかなかったのです。

 ただの田舎の山の中の奈良如きに古代の中心地があるはずはないのであって、良く調べもせずに、奈良近辺だけを調べて事績が無いから全て架空とし、その後に続く追従学者どもは受け売り宜しく通説、定説としてしまったのでした。大陸や半島から遠く掛け離れた奈良みたいな山中の田舎が古代史の舞台であるなどとは…少なくとも神代史の舞台だったはずはないのです。この一事をもってしても邪馬台国近畿説などといったものが信用できないまやかしでしかない事は明らかなのですが、まるで愚か者ばかりが揃っているかのようです。実にお粗末な限りです。ただ、武内家と聖神社とには濃厚な関係があるのです。

 故)百嶋先生の神代系譜をご覧ください。聖神社とは第8代孝元天皇を祀る神社だったのです。天照ではない事は言うまでもありません。

百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

587 大川上美良布神社(香美市)には正面の聖神社の孝元天皇の孫にあたる仁徳天皇も祀られている

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587 大川上美良布神社(香美市)には正面の聖神社の孝元天皇の孫にあたる仁徳天皇も祀られている

20180308

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回、橘一族後裔別役一族の例大祭(別役神社)に参加したのですが、B氏と待ち合わせをした箱物施設の正面にはこの地域最大の美良布神社がありました。

 この延喜式内社自体についてのブログは後に回しますが、前日と当日二回に亘って見せて頂いた際に、右手奥に若宮神社が置かれている事に気付きました。

 四国は過去五回ほど踏んだ程度でしかなく、勿論、一般化などはできないのですが、これまで4県で高良神社は15社確認したものの、若宮神社は1社しか確認しておらず、これで都合2件目の発現事例を回収した事になります。さて、竹内荘市氏による「鎮守の森は今」には、高知県内の二千数百社中に10社以上ある神社群の一覧表が掲載されています(14p)。


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今のところ、この神社のカウントは境内社を含むものと理解していますが、高知県だけでも若宮神社がこれほど拾えるとは驚きです。

 まず、「古事記」が仁徳を応神の子などとしているのは全くの大嘘でしかありません。

九州王朝の本山、久留米の高良大社に奇跡的に残された「高良玉垂宮神秘書」によれば、高良玉垂命こと開化天皇と仲哀死後の神功皇后とは夫婦と書かれており、周辺の神社伝承などと併せ考えれば、その正室長子が仁徳(あくまでも藤原によって14代とされた)=シレカシノミコトとなるのです(四人は神功の連れ子…?)。まだ、この若宮が付近からの合祀なのか、神社基層にあった古層の神なのかは不明です。

斯礼賀志命(シレカシノミコト)朝日豊盛命(アサヒトヨサカノミコト)暮日豊盛命(ユウヒトヨサカノミコト)神渕志命(カミブチシノミコト)タン上命(タンカミノミコト)神坂本命(カムサカモトノミコト)神安楽応宝秘命(カムアラキオホヒノミコト)神安子奇命(カムアシキノミコト)神娜男美命(カムナオミノミコト)

 この大川上美良布神社に若宮神社が摂社として存在している意味を考えていますが、やはりこの神社の基層に九州王朝祭祀が及んでいた事を考えざるを得ないのです。


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大川上美良布神社の縁起も偽装が及んでいるとの印象を受けます。

主祭神の大田々祚古命は良いとしても、百嶋由一郎最終神代系譜との関係を見比べて頂きたいと思います。
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しかし、最低でも高知県内に24もの若宮神社が存在するとすれば、まだまだほんの一部しか見ていない事に気付き愕然としますし、フィールド・ワークの限界を感じてしまいます。


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活玉依姫は鴨玉依姫の娘ですから海幸(大山咋)系のつまり崇神系の神社であろうと考えられます


 いずれにせよ、大川上美良布神社の道を挟んだ正面にひっそりと鎮座する聖神社は物部の元祖 孝元天皇を祀るもので、高良玉垂命=開化天皇を挟んで祖父と孫との関係を意味しているのです。


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

スポット198 新刊案内 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房) 2018806

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スポット198 新刊案内 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房) 2018806


太宰府地名研究会 古川 清久


元)古田史学の会事務局長でもあり、久留米大学の公開講座でも一緒に講演して頂いた(「釜蓋」マンタ+「倭人も太平洋を渡った」)大下隆司氏が、山浦 純氏と共に『「日出処の天子」は誰か』を出版されました。

ここにそのご努力に敬意を表すると共に、併せて広くご紹介させて頂きたいと思います。


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新刊案内: 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房)

折しも、太宰府地名研究会協賛としてメンバーの伊藤正子女史による「聖徳太子」を探る小規模講演を熊本地震の最大被害地の一つである熊本県西原村で始めたばかりでしたので思いもひとしおでした。


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勿論、聖徳太子と「日出処の天子」とは同一ではないのですが、それは相互の研究に従うべきでしょう。

 では、新著の概要をお知らせします。


 聖徳太子はすでに一万円札から消え、教科書からも消えようとしています。それでは『隋書』に記された「日出処の天子」とは誰だったのでしょう、古代史学会はその取扱いに困っています。

【謎だらけの日本の古代史】

世界の歴史はシュリーマンのトロヤ遺跡発掘以後、科学技術を歴史研究に導入することにより、多くのことが解明されてきました。最近ではアフリカなど各地の古い地層から見つかった骨のDNA分析により、5万年、10万年前に住んでいた人類の動きもわかるようになってきました。日本でも、放射性炭素14年代測定法の導入により、縄文人は世界に先駆けて1万6千年前から土器を作っていたことが判明しました。

ところが日本国成立のカギをにぎる古墳時代に入ると、急に日本の歴史は「謎だらけ」になってしまいます。この時代の解明には全国各地にある大型前方後円墳の調査が不可欠です。しかし主要な大型古墳は天皇陵・陵墓参考地に指定されて立ち入り調査すらも許されない状態です。歴史を調べる手法として、それまでの時代の解明に使われていた科学的手法が、急に使えなくなるのです。

それでは、古代史・考古学者はどのように日本の歴史を組み立てているのでしょうか。 “大和朝廷が日本の始まり”とする明治以降の国の基本方針から逸脱することは許されないためか、未だに考古出土物が見つかると、“これは『日本書紀』にある大和のどの天皇に関係するもの”と、すべて大和に結び付けて解釈をしています。

さらにほぼ同時代(3~7世紀)に作られた「魏志倭人伝」や「宋書倭国伝」、「隋書国伝」など中国史書に記された地名・人名などを無理やり大和朝廷に結び付けています。同時代に記された一級史料を無視して、すべての歴史解釈を後世(8世紀)に作られた『日本書紀』をベースにして行っているのです。そして、その解釈がうまく出来ないと、それは謎です、と片付けます。

このため、世界のどの地域でもほぼ歴史が解明されている、わずか千数百年前の時代すら日本は「謎だらけ」になり、きっちりした歴史年表も作れない状況になっているのです。

“日本列島は万世一系の天皇家の統治するところ”とする思想をもとに作られた『日本書紀』に正しい歴史が描かれているのでしょうか。『日本書紀』の記述が違っていれば、日本国の成立はいつまでも謎につつまれたままです。

【本文の構成】

 『「日出処の天子」は誰か』は、特定の先入観や史観によりかかることなく、史書、金石文などを丁寧に読み解き、これらの史料が客観的に語ることに耳を傾けるという姿勢に努めました。そして、最新の科学的成果と知見を取り入れて、史料に記されている事実をできるだけ分かり易く語ることに心がけました。 

序章では、中国史書に描かれた「倭国」の興亡と歴史から抹殺された経緯、「日本国」の誕生を簡単に述べ、「日出処の天子」は「倭国」に実在した阿毎・多利思北孤であることを示しました。

第一章では、聖徳太子を巡る様々な謎を日本・中国の歴史書を比較検証し、かつ法隆寺にある釈迦三尊像の光背銘や古文書の分析から、聖徳太子の数々の業績が実は「倭国の天子」阿毎・多利思北孤のそれの盗用であることを述べました。

第二章では、「金印」授与の委奴国王や、女王「卑弥呼」の「邪馬台国」の所在地について検証します。また、中国史書に倭国の記述のない「謎の四世紀」については、韓国の史書を基に概観します。

第三章では五世紀の倭の五王の時代の日本列島、そして畿内で起きた武烈王朝から継体王朝への政権交代を取り上げました。

第四章では、六世紀の朝鮮半島の状況と九州王朝の誕生、全盛期を迎えた多利思北孤の時代、その後の朝鮮半島の同朋を救うため総力を上げ戦い、壊滅的敗北を喫した倭国の様子を示しました。

第五章では、乙巳の変、壬申大乱、白村江の戦いを通して天皇家が次第に権力基盤を固める一方、白村江の戦いで大敗し、衰退へ向かう「倭国」について述べます。

終章では、「倭国」滅亡と『万葉集』の歌に隠された「倭国」の風景、そして九州王朝の舞楽「筑紫舞」について語り、現代に蘇える「倭国」を描きました。

また、コラムにおいて、私たち現代人が知らされていない「倭人伝の短里(1里=約75m)」「二倍年歴」「太平洋を渡った縄文・弥生の人々」など、史料から見えてくる未知なる古代の姿を点描してみました。

さらに末尾には、古代日本において、中国・朝鮮と交渉していたのは九州の「倭国」だったということを、明確にするために、大和の近畿天皇家と北部九州の倭国・九州王朝を対比した年表を付しました。

 本書を読まれた方は、これまでの通説や学校で習ったこととあまりにも違う古代史像が提示されていることに驚かれると思いますが、これが中国史書等が証言している古代日本の真実の姿なのです。


701年に滅んだ倭国の痕跡は皆さんの近くにある古い神社の由緒のなかにも「九州年号」などに見出だすことが出来ます。是非この本を読み、「古代に真実を求める」旅に参加下さい。そして若い人たちに、わたしたちの祖先が残した素晴らしい足跡を伝えて下さい。

                               2018年8月大下隆司記

なかった別冊②

「日出処の天子」は誰か

よみがえる古代の真実

―――――――――――

2018年8月10日 初版第一刷発行

著者  大下隆司

    山浦 純

発行所 (株)ミネルヴァ書房

【目次】

はじめに

序 章 王朝の交代、「倭国」から「日本国」へ

 1 古代日本の姿 2 中国史書の中の「倭国」 3 日出処の天子は誰か

第1章 聖徳太子と多利思北孤

 1 日本人にとっての聖徳太子  2 聖徳太子をめぐる謎 

3 「隋書国伝」の多利思北孤 4 法隆寺の中の多利思北孤

第2章 金印・卑弥呼、弥生から古墳時代へ 弥生時代四世紀

 1 金印の時代 2 倭の女王卑弥呼 3 古墳時代の始まり

第3章 倭の五王と近畿天皇家 五六世紀

 1 倭の五王 2 「記紀」の天皇は倭の五王か 3 金石文解釈の疑問

 4 大和の王朝交代

第4章 九州王朝の成立から衰退へ 六七世紀

 1 六世紀、朝鮮半島の攻防 2 九州王朝の成立 3 多利思北孤の時代

 4 白村江の戦い

第5章 日本国の誕生 七八世紀

 1 大化の改新 2 壬申の乱 3 日本国の成立

終 章 よみがえる九州王朝

 1 疲弊にあえぐ倭国 2 万葉集の謎 3 秘かに伝えられた幻の筑紫舞

◆コラム

 ①「一寸千里の法」と短里――古代中国の天文算術書『周髀算経』

 ② 二倍年暦について

 ③ 太平洋を渡った縄文・弥生の人たち

 ④ ヨーロッパに伝えられた「九州年号」

 ⑤「君が代」は九州王朝の賛歌

 ⑥『古事記』と『日本書紀』

あとがき

参考文献

■資 料

 1 「魏志倭人伝」(紹熙本三国志)古田武彦による読み下し文

 2 「隋書国伝」原文(付古田武彦による読み下し)

 3 日本列島(倭国・九州王朝と近畿天皇家)の歴史年表

 4 倭国・九州王朝と近畿天皇家の系図


人名・事項索引

系図・史書・写真・史料・図・表 一覧


大下グループのブログへは、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)のリンクから「古田史学の継承のために」にアクセスして下さい。


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。


588 九州王朝研究者の人的資質について

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588 九州王朝研究者の人的資質について

20180310

太宰府地名研究会 古川 清久


最近つくづく思うのですが、九州王朝を軸として古代史の研究に踏み込むとすれば、「古事記」「日本書紀」を金科玉条として力説する教育委員会や学芸員それに追従する既存の郷土史会や史談会といった既成勢力と学会通説の障害を回避しなければなりません。

 情けない事に、九州王朝論者の中にさえ村興し町興し、果ては世界遺産登録などと言った官製文化運動に尾を振るさもしい者までいるのですが、権力が千数百年の永きに亘って隠し続けて来た秘密や、封印されてきた古代史の扉を開けるには、行政権力の主張やその広報機関でしかないようなNHKなどの古代史番組などに対して寛容な姿勢を取るような思考では何の発見もできないのは道理であって、報酬はおろか何の見返りも援助も得られず、本質的には僅かな理解者しかいないし、多くの聴衆がえられるなどあり得ないといった孤独な境遇に耐えられる強靭な精神性が要求されるはずなのです。

 つまり、武士道に根差したようなストイックな性格を維持し続けられる人でなければ、調査研究などできないのであって、「教育委員会とか行政との関係は無視できない…」とか「学芸員とか通説の学者などの協力も得なければならない…」などといったさもしい姿勢ではいずれ権力に懐柔されるのがおちであって、どこにでも存在するNHK、大手マスコミ御推奨の聞いた風な話に墜ちてしまうのです。

 では、どうすべきなのでしょうか?


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勿論、国家による情報操作や洗脳など全く意識もされないようなただののんびりした古代史ファンもおられるかも知れません。九州王朝論どころか他愛もない邪馬台国九州説さえもが学会や考古学協会などから無視され敵視されることの背景には、発掘調査の予算を畿内で独占したいとの思惑がある事については以前にも何度か書いてきました(以下直近のブログ)。

 安本ナニガシの「邪馬台国東遷説」なども、始めは『「邪馬台国」はなかった』以降脚光を浴びて飛ぶ鳥を落とす勢いだった古田に擦り寄ったものの袖にされた腹いせに通説に寝返っただけのさもしい連中でしかなく、その背景にも権力に対して“私どもにも目を掛けて下さいとの薄汚い思いがあった”だろう事はある程度想像が着きそうです。


ひぼろぎ逍遥 スポット137 

緊急リポート全国の九州王朝論者に告ぐ! “予算に群がる古代史研究会には研究者はいない”

 ほか

 何故、そういう現象が起こっているかは、再度、上記のブログをお読み頂きたいと思います。

 ただ、そういった社会の仕組みとか経済的背景にも左右されない孤高の研究者の一群はいつの時代でも登場するものです。

 つまり、研究者とは普通の人とは異なった感性と情熱をもった群れない人々の事であり、何時の時代でも電信柱の様に存在するものなのです。

 そもそも、古代の真実とは絶えず隠されているのであって、57年光武帝の金印(漢委奴國王印)とは別の卑弥呼が貰った方の親魏倭王の金印でさえも、発掘後某所に保管されているものの、畿内とは異なる領域だった事から隠されているという噂もありますし、九州王朝系の「記」「紀」以前の文書も保管されているとの話も伝わってきます。

 これらは、ある筋からの未確認情報ではあるのですが、それなりに権威ある人々の組織からの情報であって無視する事はできないのです。

 つまり、権力は知っていて隠しているのであって、それを暴くには国家の転覆や崩壊や革命や外国勢力からの占領といったものを待つしかないのです。

 結局、権力が意図的に隠している古代が何であるかを科学的調査よって日々新たに発見されているなどといった平和な話などでは全く無いのです。

現在、 太宰府地名研究会は熊本、大分も含め、現地のフィールド・ワークを続けていますが、同会のHPには多くのblogがリンクされています。当方が運営するもの
588-2は、古代史、地名研究、民俗学を対象とする「ひぼろぎ逍遥」と神社研究に特化した「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)という二本立のblogによって月間2030本程度を配信し始めて5年目に入りましたが、既にネット上には1200本(6,0008,000p)程度の記事が踊っています。勿論、主要なテーマは九州王朝の探究ですが、現在、二本立てのblogだけでも日量1,0001,200件(=年間45万件)程度のアクセスがあり、当面は年間50万件を目標としています。それ以上に連携するサイトの規模を考えてもグループ全体としては凡そ年間150200万件を軽く超えているものと考えています。この点、質が全く異なるハイ・レベルこの上ない格調高い古田史学の会の「新古代学の扉」が凡そ年間10万件=累計150万件程度であることを考える時、我々の下世話なサイトもそれなりに健闘している事がお分かり頂けるでしょう。当方の場合その背骨を支えてきたものは大学時代から読み始めた古田武彦3部作でしたが、後期三部作も含め、徐々に非古田、反古田系の九州王朝論にも目を向けるようになり、今や、佃収、内倉武久、米田良三…から神代史研究の第一人者であった百嶋由一郎神社考古学に焦点を絞った九州王朝論をも取り込み、blog連携を全国化しつつあります(次葉参照)。現在、当方のHP「太宰府地名研究会」「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)には25に近づくblogHPがリンクされています。このほとんどが多少の差こそあれ、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)をベースとした百嶋神代史研究の影響を受けており、今のところ中心は北部九州にありますが、北は青森~東関東、北関東、愛知、南は四国の高知県に百嶋九州王朝研究の立場から神社、古墳…を調べる文献史学派も含めた研究者、記録者、伝承回収者、映像収集家…のネット・ワークが急速に広がりつつあります。最低でも25人の研究者(只のブロガーじゃねいか…と言われそうですが、それでも恥をかかないようにと皆さん頑張って書かれておられるのです)が集まっておられるのであって、自らは何も調べようともせずに、他人の話を右から聴いて左に貫けて行くような只の「邪馬台国本」読みの愛好者ではないのです。勿論、最近スタートしたばかりの方もおられますし、休眠中だったものを復活させた方もおられます。しかし、最低、日量300件のアクセスでも年間では10万件にはなるのです。当然、全体では楽に年間150万件になると申し上げたのも極めて控えめな推計です。当方の二本立てと「常陸の国探検隊」に連動する「宮古の縁側日記」が先行していますが、この4本だけでも軽く7080万件のアクセスにはなるのですから、実際には年間200万件超えでも決しておかしくはないのです。ブロガーとは自分で調べ記録を残し後世に残そうとしているのですから、若者が目も向けない本を出したり、100部程度、多くても500部程の会報を出すよりも余程効率の良い媒体となっているのです。ところが、○○研究会とか○○地名研究会などと名乗っていても、所謂「邪馬台国本」を齧っているだけとか、研究会とか称する団体に入って仲間内の研究と称する講演でも学会通説派が作成したパンフレットをコメントなしで無批判に配り、インターネットから引っ張り出した資料の継ぎ接ぎによるコピーで熱弁を振るう仲間内の講演も右から聴いて左に貫け、貰った資料さえもいつしか置いた場所も分からなくなってしまうようなものを研究会と思うかどうかの問題でしかないのです。凡そこのような団体では10年を待たずして何の成果も残すことなく潰え去る事になるでしょう。ましてや、会計報告はやっても編集会議はおろか会報も出さないような団体では研究会でもなければ、外部にしか研究者もいない事になるのです。つまりカラオケ・クラブ同様の仲良しクラブの親睦会でしかないのです。今時本も出さずblogHPも持たない者とは研究者としては存在していない事と同義であり、研究者亡き研究会でしかないのです。そもそも九州王朝論とは国家権力が封印
588-3した禁断の研究であって真実であるが故に隠されたものなのです。そんなものを行政が認めるはずはないのです。

このような方々は行政主導の村興し町興し果ては世界遺産登録などといった学会通説派の尻押し団体に堕落するか、教育委員会や学芸員との連携を取り組むどこにでもある通説派の団体に成り下がり、その一部が“私にも講演させてください”とばかりに卑しくもさもしい擦り寄りを見せることになるでしょう。

しかしそれでも研究者とはいるものです。ただ、彼らは群れないからこそ研究者なのであって、孤立しているからこそ独自の研究や発見ができるのです。このように研究者とは、親睦会紛いの何々研究会の傘の中の裾野に産まれ成長するのではなくあたかも電信柱の様に散らばっているのです。してみると、その電信柱のネット・ワークにこそ価値があるのです。

ましてや、私達は百嶋由一郎という稀代の神社研究者の存在を知ったのですから、それを何とか後世に引き継ぎ、嘘で固められた「古事記」「日本書紀」、それを批判するとしてその延長上に組み立てられ登場した九州王朝論も通説の臍の緒を引き摺っている事に警鐘を鳴らすものです。

その意味で百嶋研究は本当の意味での九州王朝論に近接する強力なレーザー・メスなのかも知れません。

このため、どのような障害も抵抗も排除し後世に引き継ぐ任務まさにミッションを帯びているのです。

古田武彦を失い何の情念も持たない既存の九州王朝論では、いずれ、たあいもない「邪馬台国九州説」に後退し、ほどなく通説派に取り込まれていくことになってしまう事でしょう。

あくまでも、研究会とは研究者とそれをサポートする人々による団体なのであって、ただの「邪馬台国本」愛好会では一生を賭して切り開いた古田武彦九州王朝論を継承する事は決してできないのです。


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なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。百嶋神社考古学の拡散に役立っており非常に感謝しています。

青森~東関東に掛けて4件、愛知県1件、高知県1件、大阪府1件、大分県5件、福岡県10件の22

この外にも、鹿児島県、宮崎県、山梨県…も新規に参加する方向で検討しています。

現在、ネット上に継続して発信できない組織は事実上存在していない事と同義なのです。

将来を引き継ぐ人材を残す必要性からテーブルに着いた神代史研究会も残しますが、多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが連携しているのです。    関心をお持ちの方は09062983254まで

589 四国から山陰へ9車中泊10日の神社調査で見た最も印象深い一社

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589 四国から山陰へ9車中泊10日の神社調査で見た最も印象深い一社

20180311

太宰府地名研究会 古川 清久


 228日から39日に掛けて高知県香美市別役神社の例大祭(毎年33日)と将棋の王将戦第五局(島根県大田市国民宿舎さんべ荘)を目的とした神社調査半分将棋観戦半分往復1500キロの旅に出ました。

 228日はフェリーで豊予海峡を横断したのですが、本物の春一番に遭遇し、70分の予定が90分となる大波に船酔いまで起こしたのですが、何とか佐賀関から三崎港に辿り着き、その夜は伊方原発に近い亀ヶ池温泉で休憩し、遅くまで休憩室で大風の中ブログを書いていました。

翌早朝から檮原街道を坂本竜馬とは逆向きに東の土佐を目指しました。

国境いには、最後の雪が残っていましたが、好天に恵まれ一路土佐を目指す事になりました。

ここで、高知の西の須崎市の手前辺りになるのですが、津野町で立派な神社を見掛けたために休憩も兼ねて参拝させて頂きました。

多くの神社を見てきましたが、その正面のたたずまいというものはそれだけで神社の顔を表します。

その気品、雰囲気、街並み、家並一切が魅力的であると言う事は、まだ何とか、地域経済、氏子組織が健在で、神社への尊崇の念が衰えていない事を意味しているようです。

それは、境内や社殿の清掃にまで認められますが、多くの神社の地域組織が解体、絶滅へと向かっている中、これほど元気な神社もなかなか見られなくなりました。


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「鎮守の森は今」竹内荘市 1482              249p


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これは二の鳥居


「鎮守の森は今」の竹内荘市 によれば三島神社は19社カウントされています。

言うまでもなく愛媛県はしまなみ海道の大三島の大山祗神社(我々はこれを熊襲の本体トルコ系匈奴と考えています)であることは言うまでもありません。

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神殿入口の上部には三ツ矢風の神紋が打たれていました。これは山内家の家紋の変形と見て良いのでしょうか?

実は、この紋章もユダヤのメノラー=燭台のデフォルメなのですが、理解して頂けるでしょうか?

原型は左の丸に三つ柏紋でありユダヤの燭台である事がお分かり頂けるでしょう。

589-6 この三島神社に山内家の家紋が打たれている意味は土佐全域を支配した事の意味でしかありませんが、これが瀬戸内側ばかりではなく土佐にまで大山祗の神威が及んでいる事が分かればそれはそれで良いでしょう。

 四国はこれからですのであまり迂闊な事は言えません。

 大山祗は山の神として知られていますが、何故、瀬戸内海におられるのでしょうか、それについても徐々にお話しする事にしましょう。

590 3.11から七年目の現在

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590 3.11から七年目の現在

20180311

太宰府地名研究会 古川 清久


.11から早くも七年が経ちました。そう言えば、地震の日、百嶋先生のご自宅に訪問していました。

思えば、体力と能力の限界もあり、私が定年を数年残して役所を辞めたのもこれからしばらくしてでしたが、最大の理由は行政機関の末端として仕事をするのが国民や国家や国土や国民経済にとっても何の役に立たない事は承知しながらも、それ以上に害悪でしかないという思いが高まったからでもありました。

娘がそろそろ大学を卒業する時期でもあり、何とかなるだろうと考えたのですが、退職後に「お父さん大学院に行く事にしたよ…」と聴き「分かった…」とは言ったものの、低額の共済年金が出るまでの間の暫くは蓄えで生きることになった事は言うまでもありません。

このように、311を切掛けとして人生を失い、捻じ曲げられ、次世代も含めて将来を大きく変えざるをえなくなった人は数多くいるはずで、私の様に遠く離れた九州で嫌になったから辞めたなどと言うのは大甘の話かも知れません。

それでも、東北で5万人、熊本で1.5万人、人工林崩壊が主因の北部九州豪雨災害よっても…多くの人々が棄民とされているこの大嘘つき国家の犠牲となっている事実を思い知らされるこの頃です。

さて、陰謀論者などと日陰者、気違い扱いされてきた一部の特殊な論者ばかりではなく、普通はあり得ないはずの大手マスコミのTBSによって311人工地震説問題が最近になって取り上げられました。

CIA直系の放送局にしては英雄的な報道で、今はこのスタッフが犠牲にならない事を願うばかりです。


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勿論、ネット上には多くの人工地震説が飛び交っているのであって、こういったものを知らないのは、最早、村興し、町興し、世界遺産登録や通販番組と化した馬鹿番組や、戦後一貫して米軍の占領政策に協力してきた大手新聞(事実上の洗脳チラシ)を有難がって読んでいるようなデマ新聞の読者などのただのB層ばかりといった状態なのです。

少なくとも311によって列島で3番目に大きい福島県(北海道、岩手、福島…)という巨大県の未来が、事実上は永久に失われたのでした。

これを元に戻す事など全く期待できず、土建屋、産廃業者の巨大な運動場、税金回収場を造ってやったようなもので、今後とも将来に亘って復旧など全くできない傷を負った日本は、事実上の身体障害、精神薄弱、精神障害…を負った状態で、年から年中嘘をつき続けている最大の危険国家である中国に年から年中裏切り続けている詐欺国家の韓国を相手にしていかなければならないのです。

もっとも、最終的に韓国は北主導の連邦制国家として生き残る事に成るのでしょうが…。

これについては、以前書いていた スポット095 朝鮮半島が北主導で統一される! 20170224 をお読み下さい。

「経済破綻からさらに深刻な国家的消失へと進みつつある韓国(南鮮)ですが、一昨年の年頭以来、“北朝鮮主導により半島が統一される”という話がネット上では静かに流れていました。…」


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…外にもごまんとありますので、後はご自分でお探しください。今やこれくらいは常識レベル。

 311人工地震説が流布されており、先行するツイン・タワー攻撃=911についてもネオコン~ブッシュ~クリントン、オバマらによる自作自演説がトランプによっても暴露される動きがあり(最近のサウジアラビアでの政変もこれが関係しているとの話まであるのです)、さらには熊本地震まであるのですが、無論、これが事実であるのか、ただの突飛な話であるのかは不明です。

 “ネットのデマ情報に踊らされてはいけません”とか、“自分で見た事しか信用しないようにしましょう”…などといった話はもっともらしいのですが、そう主張された方自身が、NHKの報道や気象庁の報道をそのまま鵜呑みにされているだけの事であって、“それはそうと自分の目で確かめられたのですか?”とお尋ねしても特別の根拠とか確たる証拠をお持ちでは全くない事は言うまでもないのです。

 要はそう言う事を持って“自分は権力や通説にご奉仕致しますので末永く金儲けさせて下さい…”と権力にチンチンして尾を思いっきり振っているだけのことなのです。

 それは、原子力災害、地震災害、火山災害…で学者や行政がでっち上げた諮問員会などが大嘘つきでしかなかった事が一般の報道でも明らかになり多くの国民が良くご存じになられているのではないかと思うものです。

 しかし、戦争を放棄した平和な国家では、なかなかスクラップ・アンド・ビュルドが起こらない事から、人為的に公共事業が造られている可能性も否定できないのですが、これが単なる国内事情だけで引き起こされているというものでもないのです。

 既に、トモダチ作戦の空母ロナルドレーガン乗組員の大量被爆(フクイチの処理事業での被爆はひた隠しにされており別の問題があるのですが、何故か予定されていたかのように陸から遠く離れた福島沖に偶然居合わせた乗組員が大量被爆し、フクイチ周辺では被爆者はほとんど出ていないのですが)に関する損害賠償請求を東電に求めているのですが、大嘘つき者同士による争いが始まっているのです。


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トモダチ作戦に参加した海軍の兵士が原告となり、2012年に東京電力に対して総額11000万ドルの損害賠償を求めてアメリカの連邦地方裁判所に訴えています。

提訴理由は「福島原発事故で放射能の降下範囲を正しく伝えなかった」というものですが、連邦地裁判決は「それは裁判所が関与する問題ではない」として訴えを退けています。

原告側は再度、「福島原発事故によって放射線被曝を受けた」として、東電に東芝や米国GEゼネラル・エレクトリックなどの原発メーカー4社も加え、総額10億ドルの基金への拠出を求め再度提訴しているのです。

 戦後も続けられた原爆実験の時にも米軍(陸軍)兵士が実験動物として利用され、それをゴマかすために“喫煙による発癌が利用された”のですが(こんなことはまともな医者なら誰でも知っている)、今度はまさか海底での核爆発が影響する等とは思っていなかったのでしょうか?

 いずれにせよ数百人の洋上被爆が起こっていることだけは確実なのです。

 勿論、人工地震の技術に関しては戦前から確立しており、さらに発展している事も十分に想像できるところです。


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自民党の元議員の浜田復興担当政務官も民主党政権当時に公然と国会で話しておられましたが、これもネット上では現在閲覧できなくなっています。

 検閲が入っており、中国並みの統制が既に現実のものになっているのです。

 最大サイトのアメブロもこの傾向が出ているようで、後発のひぼろぎ逍遥(跡宮)が日量平均800件のアクセスとなっているにも拘わらず、先行のひぼろぎ逍遥が400件以下に停滞気味の頭打ちになっているのも行政庁などからのクレームをそのまま受け入れアクセス順位を下げるなどしているからと考えています。元々、さくらブログとの二本立てにしたのは検閲対策だったのですが、これほど鮮明になるとは思っても見ませんでした。いずれ、比較のためにアメブロを残し、離脱のために同じ内容で三本目のブログをスタートさせる必要があるのではないかと…考え、他のサイトに移行させなければと考えています。

 スマトラ沖地震も米国が引き起こし、テロリストの処理と石油利権が一挙にできたようですが、このような事を平然と行えるのが、トランプ以前の米国のブッシュ、ネオコン一派、クリントン…らだったのでしょうか?

 こうしてドルの基軸通貨としての地位は防衛され、いつしか列島の大企業もほとんどが筆頭株主は米国の金融マフィアどもとなってしまっているのです。

 その仕組に加担し日本の富を全て売り飛ばしたのが小○竹○政権だったのであり、それに協力した連中だけが良い目に逢い、国民は死ぬまで働かざるを得ないような低額年金から無年金社会へと進みつつあるのです。

とにかく、列島の富は全て米国の金融マフィアに巻き上げられ、その手助けをした連中だけがお零れを貰い、権力を操り続けているのです。

 まずは、ユーチューブでも開いて人工地震を検索し、肯定、否定を問わずランダムに読まれてご自分で判断されるべきでしょう。

 熊本地震をP波S波の初期微動継続時間も始めた聴いたような話で一笑に伏したK県K市K八幡宮の尾を振るさもしい宮司の様に知識もないのに否定するような事はすべきではないはずで、こんな連中が九州王朝論の古田史学の会の会員と言うのですからお笑い草も良いところです…。

591 橘一族三分流の「牛嶋姓」の起源とは何か?

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591 橘一族三分流の「牛嶋姓」の起源とは何か?

20180313

太宰府地名研究会 古川 清久


 豊玉彦=ヤタガラスこそ橘一族であり、遠く雲南省昆明から海南島を経由して不知火海東岸に拠点を築き、熊本から福岡へと北上し、「隈」地名を残した氏族(大陸の白族)の後裔こそ、後の県犬養三千代から橘 諸兄(源平藤橘の「橘」)の一族なのであり、阿蘇氏と併せ九州王朝を支えた最重要氏族であることについてはこれまで何度となくお話ししてきました。

この奈良麻呂の変以降の藤原の圧迫によって零落した中級貴族の本流に橘 公業があります。


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大荒れの中でしたが佐賀関からのフェリーで三崎に横断する途中で見た牛島 遠くに見えるのは四国


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高島の北に牛島があることがお分かりになると思います



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春一番に翻弄される中確認した牛島


 この橘氏の本流は鎌倉期に佐賀県武雄市の杵島山西麓一帯(明治の橘村)に住み着いているのですが、橘 公業(キンナリ)の時代以降に主として渋江、牛島(牛嶋)、中村の三家に分かれているのです。

 この三家の名称に多少の違和感を抱いていたのは私だけでしょうが、何故、この名称が使用されたのかが分からなかったのです。

 しかし、橘 公業の一族が京都で平氏に着き従っていたものの何時しか頼朝に鞍替えし、東北にも転戦するなど論功行賞によって伊予に領地を得るものの後に肥前に入っている事を考えると、この地名のルーツを探そうという思いに駆られたのでした。

 今般、伊予、土佐の調査が本格化してきた事から少し真面目に考えて見ようと思うのです。

 中村はどこにでもある地名でもあり姓名なのですが…。牛島、渋江についてはそれほど一般的な地名ではないでしょう。

 勿論、愛媛県伊予市中村があるように伊予にも中村は拾えます。

 しかし、橘氏に繋がる「渋江」姓の起源となるような地名といったものが分からなければこのテーマは全く奏功しません。

 「渋江」が地名だとして、意味は火山性で温泉起源の硫黄などが流れ込む(注ぐ)入江と言った意味であって、本来はそういった場所を探すべきなのかもしれませんが、未だに全く見えてこないのです。

 一応、橘一族が雪崩れ込んだ伊予への調査が増えて来ることを考えながら、将来への仮説として「渋江」「牛島」地名と伊予との関係を絶えず考えておきたいと思うものです。

 作業仮説

「渋江」地名拾い出し…

新潟県妙高市渋江町

宮城県遠田郡涌谷町渋江

富山県小矢部市渋江

埼玉県さいたま市岩槻区本町(旧:渋江)発祥。南北朝時代から記録のある地名

東京都葛飾区東立石付近(旧:渋江)から発祥。室町時代から記録のある地名


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スポット208 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

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スポット208 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

20180723

太宰府地名研究会 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。

 千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。

私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。

 このエリアでは、
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のお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。
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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 ②”を掲載しました。

 天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学
sp208-3では、呉の太伯の後裔列島大率の子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられたと知っているのです。

 このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告を書いて頂きました。

 既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。


悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。

(同社HPによる)

 では、お読み頂きましょう。


上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 2018-07-16 Mon 00:14


しばらく御無沙汰しておりました。弟橘姫シリーズまだ途中なのですが、HP「ひぼろぎ逍遥」の古川さんからの御依頼でコチラを先にお届けします。


上総国 一宮 玉前神社 千葉県長生郡一宮町一宮3048 一宮町の町名は上総国の一宮である玉前神社が鎮座していることに由来しています。

以下Wikipediaより。

式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。永禄年間(1558-1570年)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

また、上総国一宮として崇敬を受けたとされる。江戸時代、貞享4年(1687年)に現在の社殿が造営される。1871年(明治4年)近代社格制度において国幣中社に列した。1900年(明治33年)と1923年(大正12年)には社殿等の改修が行われた。取材の一回目が雨だったのでリベンジで晴れの日にも行きました。そのため二種類の写真でお届けします。

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内陣、神紋は菊だけ

左甚五郎が彫ったという「高砂」の御夫婦、近くで撮りたかった~!さて、御祭神についてですが、古来より諸説ありまして列記すると、「大日本一宮記」高皇産靈弟生産靈一男・前玉命「神名帳頭註」高皇産靈孫前玉命「神社覈録」前玉命「舊事記」振魂尊子前玉命「国華萬葉記」高皇産靈尊の弟生産靈尊の一男(又、系図に振魂命とあり)前玉命などなど。記録では玉前神社の御祭神は「前玉命」で「男神」だと記されています。ですが玉前神社では御祭神を「玉依姫」としています。地元でも昔から玉依姫だと伝えられていたといいます。では玉依姫は玉依姫でも、どの玉依姫なのでしょうか。


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神社の御祭神でよくお名前を拝見する「玉依姫」ですが、実は三人いらっしゃるのはご存知ですか?

1人目は神日本磐余彦(初代神武天皇)を産んだ「」玉依姫。

2人目は天太玉命と雷古要姫イカコヤヒメ(櫛稲田姫)の娘の「」玉依姫。

3人目は鴨玉依姫と大山咋の娘の「活ハエ」玉依姫。

玉依姫たちは3人いるにも関わらず頭文字が抜けているために、どの玉依姫なのかわからなくなり、

御祭神に関して混乱が生じているようです。何故こんな状況になっているのか。

理由は「活」玉依姫の兄弟・賀茂別雷が子孫に崇神天皇と格付けされハツクニシラススメラミコトになっている事に起因しています。

古事記と日本書紀の中では初代神武天皇の功績が崇神天皇の手柄へとすり替えられています。

この捏造を押し通すには崇神の出自が判ってはまずかったのでしょう。

母が「鴨」玉依姫で妹に「活」玉依姫がいることを伏せておきたかった。

そこで奉斎する神社に頭文字を外すように指示したのが真相だと思います。

ちなみに玉前神社のパンフレットでは「玉依姫」は豊玉姫の妹で鵜茅葺不合の嫁としているので「鴨」玉依姫と考えているようです。


 しかし百嶋先生は生前、玉前神社の御祭神は「神」玉依姫であるとおっしゃっておられました。

今回の取材で何か証拠を得られるかと期待していたのですが・・・ひよっこの私にはわかりませんでした・・・(ガクリ)そこで玉前神社の歴史、近隣の神社との関係、周辺の地理も含めて調査を行いました。その上で判明した事実から検証したいと思います。まず神玉依姫とは一体何者なのかから。彼女は奴国王家・白川伯王の娘で大幡主の姉にあたります。そして姫氏の血を引く「呉の太伯君」の嫁となり神日本磐余彦=神武天皇を産んでいます。玉前神社の神紋に「八咫鏡に御統の内に前の字」があります。御統ミスマルとは古代の装飾品で現代でいえばネックレスの事です。

この神紋はもしかしたら八尺瓊勾玉を現わしているのかもしれません。御神体も玉だといわれて
Sp208-6おり、赤い玉説、黒い玉説があります。また海から発見した玉を納めたという伝承もあるのですが、その数は8個だったり12個だったり様々です。共通しているのは「御靈代が玉」という点なので、これは間違いないと思います。玉前神社と近隣神社で行われる「上総十二社祭」は、海中から8個の玉を発見した際、平城天皇が霊夢を見て玉を奉斎する六社を創建したことに由来しています。

(現在は12社が参加しています)の六社は玉前神社の外、鵜羽神社(睦沢町岩井鎮座)南宮神社(一宮町宮原鎮座 元は宮原神社)二宮神社(茂原市山崎鎮座)三宮神社(睦沢町北山田鎮座)玉垣神社(睦沢町下之郷鎮座 元は若宮神社)です。この中で別格なのは鵜羽神社玉垣神社で、鵜羽神社の御祭神は彦火々出見(長髄彦)・豊玉姫・鵜茅葺不合の御一家です。例祭では他より早く祭礼が始まり、当神社のみ行う特殊神事があります。「一宮町史」によると鵜羽神社迎祭(九月十日)鵜羽神社の神輿、この日に玉前神社へ渡御する。

これには鵜羽神社より神職一名が立会い神輿・諸祭具をきよめ祭儀に列するのが古くからの慣例である。鵜羽神社旧神職毛に伝わる文書によると、鵜羽神社は彦火火出見命・豊玉媛を主神とし大同年間に大山祇尊を伊予国越知郡より分霊奉祀する由が記載され、玉前神社を御祖大明神と称し、渡御は竜宮臨幸の儀式を伝えるもので大同元年丙戌八月といわれる。とあります。

またこの日の直会の為に特殊なし神饌を用意します。

一つ目は「オホリ」または「牛の舌」といわれる9センチ×4、5センチぐらいの大きさの扁平状にした餅で12枚作ったもの。二つ目は「かすかみ」という一宮川で獲った鯔ボラを三枚に下ろし酢で鱠ナマスにし、それを濁酒の粕につけたもので一社伝来の神饌と伝えられているそうです。

また「房総志料続編」には「竜形餅」という平形の大小二枚の餅も記載されており、これは化して鰻に変ずると伝えられています。

これらの神饌は古来より矢前の役を継いできた河野姓の家の者が奉献する品を入れてきた俵状の藁つつみに入れて持ち帰り、後で鵜羽神社境内の小池に投じます。

神使の鰐にあげているのだそうです。

現在鵜羽神社の神輿が玉前神社にくる神事は鵜羽神社のウガヤが玉前神社の鴨玉依姫に会いに来るというストーリーになっています。ですが本来は神玉依姫ですから、解釈としては彦火火出見=懿徳がおばあちゃんに会いにきていることになりますね。ではダンナさんである「呉の太伯」はどこへ行ってしまわれたのか?コチラをご覧ください。


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すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。

久安3(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。

宝暦12(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。

また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。


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この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。


県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして「白子町」という町名の由来にもなった「白子」です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。族の孫の住む地、という意味でしょうか。

そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

sp208-9なんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下  諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮  八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台  八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮  海神社長生村一松戊  龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台  龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下  八龍神社白子町幸治字龍宮  八大龍神社白子町驚字龍宮下  面足神社がある白子町剃金字龍宮台  八龍神社白子町五井字龍宮台  八大龍神白子町浜宿  龍宮神社白子町南今泉  竜神神社白子町牛込字竜神下  龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前  八大龍王九十九里町真亀  龍宮神社九十九里町細屋敷  龍神社九十九里町粟生  龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。

地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。

それが「私幣禁断に類似する禁令」です。

以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは北辰信仰は一定の時期、禁止されていた北斗七星への星信仰は長く禁止されていた北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ~だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか~とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな~とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな~とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな~とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと「神日本磐余彦」なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。


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百嶋由一郎 極秘香良洲宮神代系譜


百嶋由一郎が残された音声CD、手書きスキャニング資料、神代系譜が必要な方は09062983254まで

592 古川と言う家系について ⑥

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592 古川と言う家系について ⑥

20180318

太宰府地名研究会 古川 清久


 人とは死が近づいてくると“自らが何者であってどこに行くのか…と言った事に関心が向かう”と言われています。また、そもそも民俗学とは死臭の漂う学門とも言われます。

もしかしたら古代史に関心を寄せる人々にもその傾向が強いのかも知れません。

 さて、当家はまがりなりにも台湾で成功しつつも一文無しで引き揚げてきた一族であり、一応は私で36代目とか聴かされたこともあります。

 ところが、家系を遡ると不思議と長男が跡を継いでいない例が非常に多いと言われた事を思い出します。

 つまり、長男は進取の気質が強いのか、妙な事をやって家を出て行き、娘が養子を取って跡を継いだとか、男子が跡を継いだとしても次三男になる事が多い家系だと言うのです。

 この話を聞いたのは二十年も前の事で、当時は聴き飛ばしていたのですが、ようやく古川家が下級としても橘一族の末流だった事が分かって来ると、少しずつながらもその謎が解けて来たのでした。

 理由は簡単です。橘氏には「女系橘」と言われる風習や習俗から制度とさえも言えるような仕組みがあるからなのです。

 それが末流の古川家にも伝搬していたとしたら、古川家が橘一族であるという弱々しい証拠だなどと勝手な想像をしているのです。

 橘一族には命婦制(ミョウブセイ)とか乳母(メノト)とい言った色濃い仕組みと関係がありそうなのです。


乳母(うば、めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。

かつて、現在のような良質の代用乳が得られない時代には母乳の出の悪さは乳児の成育に直接悪影響を及ぼし、その命にも関わった。そのため、皇族、王族、貴族、武家、あるいは豊かな家の場合、母親に代わって乳を与える乳母を召し使った。

また、身分の高い人間は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えや、他のしっかりとした女性に任せたほうが教育上も良いとの考えから、乳離れした後、母親に代わって子育てを行う人も乳母という。

また、商家や農家などで、母親が仕事で子育てができない場合に、年若い女性や老女が雇われて子守をすることがあるが、この場合は「ねえや」、「ばあや」などと呼ばれることが多かった。

日本における神話上の起源としては、『日本書紀』神代下の別説に、「彦火火出見尊が婦人を集め、乳母(ちおも)、湯母、飯かみ、湯人を決め、養育し、これが世の中で乳母を決め、子を育てることの始まりである」と記述している。…中略…

律令時代の日本では、一度に多産をした家には、朝廷から乳母一人を支給されていたことが、『続日本紀』などに記述されており、例として、文武天皇4年(700年)1128日条、「大和国葛上郡の鴨君粳女(かものきみぬかめ)が一度に21女を産んだため、(以下略)乳母一人を賜った」の他、和銅元年(708年)327日条には、「美濃国安八郡の人、国造千代の妻である如是女(にょぜめ)が一度に3人の男子を産んだので、稲四百束と乳母一人を支給した」などと細かに記録されている。

日本の場合、特に平安時代から鎌倉時代にかけて「めのと」と呼ぶ場合には「うば」よりも範囲は広く、「養育係」の意味もあり、女性だけではなく夫婦でそれに当たるケースが多い。例えば『奥州後三年記』の「家衡が乳母千任といふもの」などでは千任は男性である。また、養育係の男性を「傅(めのと)」とも呼んだ。

乳母に世話を受ける養い子にとって、乳母の子供は「乳母子(めのとご)」「乳兄弟(ちきょうだい)」と呼ばれ、格別な絆で結ばれる事があった。軍記物語においても、主人の傍に乳兄弟が親しく仕え、腹心として重宝される情景が少なからず描かれている(例:『平家物語』の木曾義仲と今井兼平)。源頼家のように、乳兄弟(比企氏)を優遇したために実母方(北条氏)に疎まれるということもあった。

イスラム教圏では乳兄弟は特別な関係とされ、実の兄弟と同等とみなされる。 このため、シャリーアでは乳兄弟にあたる男女の結婚を禁止しているほどである。

その関係は人外の伝承にもおよび人間がグールの母親の乳を吸うとグールと義兄弟となるという伝承がある。

ウィキペディア(20180419 1911による


60223日、皇太子さまがご誕生。美智子さまは手紙につづられたとおり、乳母制度も廃止し、皇室で初めて母乳だけの育児を実践された。


東宮侍医長を務めた佐藤久氏が撮影していた写真を、33年ぶりに入手し、公開したのが『33年間、秘められていた“皇室史上初”写真!』(1636号・’9332日号)。ご公務がお忙しいときなどは前もって搾乳され、冷凍保存したものを、哺乳瓶で授乳されることもあったという。

『女性自身』


命婦という言葉は、元は中国の『周礼』において内外の官として命夫・命婦の官が存在したこと
592-1が記され
ており、ここに由来があると考えられている。ただし、日本における命婦はその名称のみを採用して、その内容も全く異なるものとなった(命夫にあたる男官・呼称については採用されなかった)。

命婦は『職員令義解』の中務省条に規定があり、五位以上の女性を内命婦(うちのみょうぶ)、五位以上の官人の妻のことを外命婦(げのみょうぶ)という。但し、命婦は官職ではなく、所属官司の職掌に奉仕する地位であり、官位相当や定員はなかった。また、女王の場合、五位以上の位階なくとも内命婦に列せられた。奈良時代までは宮中に仕える女性は命婦を含めて宮人と称したが、平安時代以降は宮人と命婦は区別されるようになる。

命婦の奉仕する対象は、内侍司の務めである、天皇の儀式或いは神事に限られるようになり、朝賀や即位式などにおいて奉仕する女性は褰帳命婦、威儀命婦、立春の際の水取命婦、春日祭の際に奉仕する博士命婦などが置かれた。摂関政治がはじまる頃には、命婦は中臈の女房の称号となり、父や夫の官職に因んで、少将命婦、少輔命婦、中務命婦、小馬命婦などと称するようになり固有名詞となっていった。

ウィキペディア(20180419 1927による


命婦

律令制で,婦人称号の一。五位上の位階有する婦人内命婦五位上の官人の妻を外命婦(げみようぶ)という。平安中期頃からは,中級官位女官中﨟(ちゆうろう女房総称となった。この種の命婦は,父や夫の官名によって,靭負(ゆげい)の命婦・大輔(たいふ)の命婦などと呼ばれた。

中世稲荷(いなり)神の使いである(きつね)異名

辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書


 この乳母、命婦制が最も顕著だったのが県犬養橘三千代以来の橘一族だったのです。

 そして、古川の系統も橘氏の末端を汚していたとすれば、妙に腑に落ちるのです。

 そもそも、出家のような形で神社を調べて廻っていること自体がいわば瘋癲の寅さんであって、家系はそっちのけで、妹が家を仕切り娘が跡を取るといった事が見えて来ると、橘一族に特有の女系橘の血が私達にも注がれている事が見えて来るのです。

 子供が産まれたとして、父親にはその子が本当に血を分けたものかどうかなど全く見えないのであって、母親だけは誰の子であるかが分かるのです。


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また、一族に於いても、両親を看取り財産分与に関与するのも妻や一族の娘(姉妹)達であって、末娘が両親を看取り、財産を守ると言う制度は、古代に於いては非常に合理的だったはずなのです。

仮に、政争、戦乱に敗残したとしても、兄弟は抵抗を封じるために殺されますが、娘は残され新たな勝利者に取り込まれながらも最後は、子を支配する娘が力を発揮するのであって、一族の力は維持され何時かは復活するのです。

 それが、乳母命婦制だったとすれば、我がフーテンも多少は許されるのではないかと思うものです。

 今回は妙な話をしましたが、皇統を維持する宮室にこの制度が散見され、一部には武家にも認められた事は、列島にもそのような民族が入っていた事を意識せざるを得ないのです。

593 赤司八幡宮とは何か? “福岡県久留米市北野町赤司”

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593 赤司八幡宮とは何か? “福岡県久留米市北野町赤司”

20180318

太宰府地名研究会 古川 清久


 福岡県内の某大学の教授から“赤司八幡宮とはどういう神社なのか”という質問が持ち込まれました。

 個人的には正八幡系を除いて八幡宮に関心が薄い上に、高良大社との関係もあるこの複雑な祭祀について、表面的にはともかく、その本質に踏み込んだ解読が極めて難しくこれまで取り上げてきませんでした。 

簡単に言えばと言うか正直に言えば二の足を踏んでいたのでした。

 実際、質問を受けた直後から、そう言えば、身近な赤司八幡宮については取り上げていなかったと再認識したのも事実でした。まずは、場所からご説明致しましょう。


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まず、この赤司八幡宮を奉斎する一族が東進し兵庫県明石市に進出しているのではないかと考えています。

明石は数回踏んではいますが、交通渋滞が激しい場所でフィールド・ワークがやり難く数社しか廻っていないためネット検索で明石の神社を見た限りで済ませていますが、この赤司八幡宮の祭祀や祭神とそれを支えたと考えられる氏族とに対応する神社群が色濃く認められる事からそのように理解してきました。


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まずは、明石海峡正面の林神社は贈)崇神系大分県佐賀関の速吸姫神社の置換えではないかと考えていますので、グループの「ひとつあがりのカフェテラス」氏の3稿をお読み頂きたいと思います。


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大阪湾に蓋をしたように浮かぶ淡路島を越え、瀬戸内海西の九州、半島、大陸へと移動する事を考えた時、危険極まりない鳴門海峡を越えるならばいざ知らず、普通は明石海峡を通過せざるを得ないはずです。

 実は、この狭隘な海峡を制圧しているのが明石の海人族であり、これらの人々が有明海の湾奥の出口で海上交通権を制圧していた水沼(三潴)の君の一族であったのではないかと以前から考えていました。

重要なのはこの氏族が水沼(三潴)の君の一族ではないかという可能性です。

 百嶋神代系譜で考えるとその背景が良く見えてくるのですが、(ニニギとコノハナノサクヤの子である古計牟須姫)と(草部吉見とスサノウの娘である辛国息長大姫大目命=アメノウヅメの間に産まれた御年神)との間に産まれたのが武国凝別であり、その後裔氏族が水沼(三潴)の君の一族となるのです。

 この海上交通権を掌握した一族が古久留米海の湾奥の赤司にも拠点を持っていたと考えるのです。

 ただ、赤司の一族の明石への展開については思い付きでしかないため、いずれ誰かがやってくれないかと考えていますが、それは良いとして少しずつ赤司八幡宮に関する本来の祭神を探ってみたいと思います。


593-4

まず、「久留米藩社方開記」に遡る議論は「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原誠一氏にお任せするとして、その前に、「福岡県神社誌」を確認しましょう。

この同書中巻 170p には極めてシンプルですが、上のようにしか書かれていません。

 純然たる八幡宮であり(石清水八幡系)、境内神社にも神功皇后の片鱗は全くありません。

 ところが、現在の赤司八幡宮は対外的には ◎ 輿止比咩命  高良大神 (武内宿禰) ◎ 道主貴 止譽比咩命  八幡大神 (応神天皇 ◎ 三女神 息長足姫尊(神功皇后)  住吉大神  としているのです。

 直接的には神功皇后を祭神とはされていませんし、境内社にも神功皇后や淀姫に対応するものは一切なく、唯一、応神が祀られており「紀」が神功の子が応神としていることから、とりあえず取り込まれたと考える事は可能でしょう。

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百嶋由一郎(八女ツ姫)神代系譜(部分)


 一方、「高良玉垂宮神秘書」は神功皇后には二人の妹がおられ、一人は宝満大祝、一人は淀姫としていますが、何故かその輿止比咩命と止譽比咩命が前面に出されているのです。

 これらを、本来、密かに隠されてきた淀姫とか豊姫といったものを、社伝なり宮司家伝に基づいてようやく表に出す事ができたのならば、その背景を知りたいと思うものです。

 従って、「福岡県神社誌」が創られた戦前戦中に対して、戦後は全く異なる祭神に入れ替わっている事に何らかの根拠が存在するのかは始めに考える必要があるのです。

 現在、表に掲げられた祭神の盛りだくさんぶりに目を奪われ、何やら多くの神々が祀られ、それが、高良大社をも凌ぐ凄い大社であるかのような印象までも受けるのですが、戦前、戦中辺りまで遡り、「福岡県神社誌」からさらに信頼性の於ける17世紀の「久留米藩社方開記」辺りを良く調べるとその実体は極めてシンプルで、十世紀前後で成立した石清水八幡系の八幡神であるという結論に納まるのです。

 問題はこの赤司八幡宮の一族をどのように考えるかです。当方は、三沼(三潴)の君の後裔氏族と考えているのですが、現在の宮司家がどのようにお考えなのかは不明です。

前述の通り、現在の赤司八幡宮は対外的には ◎ 輿止比咩命  高良大神 (武内宿禰) ◎ 道主貴 止譽比咩命  八幡大神 (応神天皇 ◎ 三女神 息長足姫尊(神功皇后)  住吉大神  としています。

 特に、本来の縁起にない「輿止比咩命」「止譽比咩命」という神功皇后の二人の御妹君が躍り出ている事に関心を向けずにはいられません。

 この点、緊急ブログのスポット版で書いたスポット169170 ①② 僭越ながらも某大学教授からのご質問に対して…過激な神社考古学場から赤司八幡宮を考える(作業仮説)をお読み頂きたいのですが、


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「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)15pには、豊姫 玄孫大臣ハ、肥前国ニ留マリテ、豊姫ハ河上大明神トナリ玉フ、高良大明神 大祝日往子尊ハ、…

 と、書かれていますし、17pにも…


皇后ノ御イモト二人ヲハシマス、一人ハ宝満大祝、一人河上大明神トナリ玉フ…


と、書いているのです。


 この神功皇后の御妹のお二人のうち、豊姫 玄孫大臣ハ、肥前国ニ留マリテ、豊姫ハ河上大明神トナリ玉フ と書かれているのですが、私見ながら豊姫とは淀姫としか考えられないのです。

豊前、豊後を除き、九州全域ではO音が旧U音になる傾向があります。大事はウーゴトですね。

淀姫とはこの傾向の後付で、ヨドはユドだったのです。それを置き換えたのがユタ姫=豊姫だった可能性があるのです。それが現在の混乱に反映されているのかも知れません。

以下古川仮説(百嶋先生は全てを話してはおられませんので、現在も太宰府地名研究会内部の神社考古学研究班で取り組んでいます)。

淀姫神社とは何か?川上タケルの伝承は、淀姫神社の祭神を考察する上での重要な資料と考えています。

つまり、河上淀姫神社とは、滅ぼされた逆賊「川上タケル」を封じるために安曇磯羅=表筒男命の妃となった=川上タケルの妹豊(ユタ)=姫を合せ祀ったものであり(そのため河上の淀姫の本殿の千木は男神を示し大明神と二人の神が祀られているのです)、豊(トヨ)姫が混同されたのではないかという推測ができるのです。


593-7

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)



百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は 09062983254 までご連絡ください


スポット209 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

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スポット209 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

20180723

太宰府地名研究会 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。

 千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。

私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。

 このエリアでは、sp209-1のお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。


sp209-5

さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 ②”を掲載しました。

sp209-3 天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学では、呉の太伯の後裔列島大率の子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられた事を知っているのです。

 このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告をして頂きました。

 既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。


悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。

(同社HPによる)

 では、部分的に重複しますが後篇をお読み頂きましょう。


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すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。

久安3(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。

宝暦12(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。

また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。


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この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。


sp209-8県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして「白子町」という町名の由来にもなった「白子」です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。族の孫の住む地、という意味でしょうか。

そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

なんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下  諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮  八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台  八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮  海神社長生村一松戊  龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台  龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下  八龍神社白子町幸治字龍宮  八大龍神社白子町驚字龍宮下  面足神社がある白子町剃金字龍宮台  八龍神社白子町五井字龍宮台  八大龍神白子町浜宿  龍宮神社白子町南今泉  竜神神社白子町牛込字竜神下  龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前  八大龍王九十九里町真亀  龍宮神社九十九里町細屋敷  龍神社九十九里町粟生  龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。

地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。

それが「私幣禁断に類似する禁令」です。

以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは北辰信仰は一定の時期、禁止されていた北斗七星への星信仰は長く禁止されていた北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ~だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか~とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな~とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな~とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな~とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと「神日本磐余彦」なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。

ただし一つ残念なのは、現在の玉前神社は元々の鎮座地ではないということです。

実はすでに安房国一宮安房神社、下総国一宮香取神宮も取材しているのですが、他の一宮に比較して規模が小さすぎる!!摂社末社も少ない!!おかしい!と思い玉前神社の歴史を調べたところ、永禄9年(1566)に里見氏と北条氏の対立による戦禍で一宮城が落城、玉前神社も焼失していることが判明。

この時社家を含む城兵300名余りが御神宝を奉じて海上郡守・海上刑部左衛門常忠を頼り飯岡に逃れます。なぜなら飯岡には玉之浦(現在の九十九里海岸)を挟んで一宮・玉前神社と対になる、もう一つの玉崎神社が鎮座していたからです。途中敵の襲撃を受け東金市田間にて草叢に隠れて一夜を明かしますが、闇の中御神宝が輝き里人に発見されました。

しかし事情を知った里人から情を受けて無事に飯岡へと向いました。

里人はこの出来事から当地に玉崎神社を勧請、村の名前も「玉村」となったといいます。(現在は「田間」になっています)その後、玉前神社の御神宝はしばらく飯岡の玉崎神社にありましたが天正5年(1577)に一宮町に戻ります。

しかしすでに宮地の所有権が変わっており困ったようですが、里見義頼が土地を寄進して復興できたといいます。(現宮地は義頼が寄進した地ではないそうです)では元はどこにあったかですが、私は城山公園付近に鎮座していたのではないかと考えています。

ということでFloodMapsで海の高さを+20mに設定した地図をごらんください。

見えますか?上総国一之宮玉前神社の文字。海の底ですね。海の高さを+20mにした根拠は、実はもう千葉県の一宮はすべて取材しているのですが、創建年代は古い順に書くと安房神社→玉前神社→香取神宮だと考えておりまして、安房神社で発見された古代海人の遺骨があった海蝕洞窟が海の側にあったとしてFloodMapsを調整すると+30mなのです。縄文海進は次第に海水が引いていったので、玉前神社では+20mとしました。


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ちなみに玉垣神社と鵜羽神社はこうなります。

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水際に鎮座する形になりますね。現・一宮町に神が上陸したのは釣ケ崎海岸であったと伝承は伝えます。


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東京オリンピックではここがサーフィン大会の会場になるそうです。伝承ではこの海の沖に豊玉姫の化身の鰐鮫がいるとのこと、サーファーの人達を見守っておられるのでしょう。

釣ケ崎の地名由来は山幸彦が釣りをしたから、という「海幸山幸」の物語の舞台が当地ということになっています。九州の伝承がそのまま伝わっているところからも黒潮に乗って船で遥々やってこられたんだな~と感じます。「上総十二社祭」では当地に御神輿が集結します。千葉県では御神輿の御浜下りが普通なのですが、この神事も他の土地から船で渡ってきた祖霊を想っての儀式なんだろうなと思います。海を渡ってきた神々が水浴びをしたという地がこちら。


神洗神社一宮町綱田


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こちらは玉前神社の元宮であると言われています。玉前神社の宮司さんも認めておりました。

神洗池長い船旅で塩でベトベトだったでしょうから、真水は嬉しかったでしょうね。

特に女性であれば猶の事。こちらは海の高さが+20mだと・・・

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ちゃんと地上ですね。神々は上陸して割とすぐに真水を発見できたのでしょう。最後に玉前神社・白子神社の境内社を記載します。玉前神社の境内社本殿からは遠い場所にそれぞれ鎮座してました。

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十二神社・・・一宮町内にあった12社を合祀した神社愛宕神社  軻愚突智命八幡神社  誉田別命三島神社  事代主命白山神社  白山比売命日枝神社  大山咋命山神社   大山祇命浅間神社  木花開耶姫塞神社   八衢比古命・八衢比売命・久那斗命蔵王神社  大物主命粟島神社  少彦名命熊野神社  櫛御毛野命水神社   罔象女命

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三峯神社 不明

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稲荷社  不明 白子神社の境内社 本殿の後方、左右に鎮座。

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八幡神社 誉田別尊(本殿からみて右に鎮座) 仮安置 子安神社 木花咲耶姫大神


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面足神社 面足尊(本殿からみて左に鎮座) 仮安置 須勢理姫大神・事代主大神

オマケ 今回の取材で一番のオドロキ↑イケメン様!!!これからは面足尊をイケメン様とお呼びいたします。


お分かり頂けないかもしれませんが、息を呑むばかりのほぼ完璧なリポートを頂きました。

 これで、この間頭の片隅に張っていた蜘蛛の巣が解消されました。一点、加えれば、「●三峯神社 不明」は北関東、埼玉は秩父市の三峰神社と考えます。浅田真央さんが御注進の神社で参拝客急増の神社で、三つ鳥居(殷の鳥居)から金山彦~長髄彦系の神社と思います。これについても、スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”としてひぼろぎ逍遥に掲載しています。

594 石田泉城 古代日記 コダイアリーと肥さんの夢ブログ(中社)と提携しました

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594 石田泉城 古代日記 コダイアリーと肥さんの夢ブログ(中社)と提携しました

20180328

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、スポット173 赤村の超巨大古墳をグーグル・アースで発見された方とリンクしました 早速「淀姫命」転載します をお読み頂いていますが、肥さんの夢ブログ(中社)ともリンクを張る事にしました。

石田泉城 古代日記 コダイアリー氏は、一部ながらも百嶋神社考古学まで踏み込んでご検討いただいているサイトであり、早々にリンクを張らして頂きました。


既に前ブログ 536 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

ご紹介した594-1とリンクを張る事になりました。

 「古田史学の会」系の九州王朝論者であり、「東海の会」のメンバーでもある石田泉城氏は、本物の研究者中の研究者であることはブログのタイトルを見るだけでも分かります。

 特に「淀姫」に関して長文を書いている当方としてはコダイアリーに掲載されている「淀姫命」を掲載させて頂くことになりました。簡潔ですが必要な事は全て押えられており、どのようにして百嶋神社考古学の心臓部まで把握されているのか不明ですが、是非ともお読み頂きたいと思います。

 なお、当方の「淀姫」は太宰府地名研究会のHPから「淀姫」をお読み下さい。

では、コダイアリーの「淀姫命」をお読み下さい。以下。


一方、肥さんの夢ブログ(中社)は、十年以上前からネット上に登場していた古田史学の会系の老舗サイトであり、当方の天子宮に関する調査を評価して頂いていた経緯があります(天子宮リポートは、まだ、4割しか公開していませんが…)。

こちらは、百嶋神社考古学とは関連はありませんが、九州王朝論の本流である古田史学の会系の周辺情報が直ぐに拾えるサイトです。


594-2

594-1


こちらは201841日からリンクを始めているだけではなく、記事それ自体を転載させて頂いています。

 近々にも二本目の「淀姫命」を転載させて頂く予定です。

 先方には百嶋神社考古学に関する資料をお送りしている訳ではないのですが、既に二次的な派生が生じているようで有難い限りです。

 私達神社考古学のものも決して孤立してはいなかったと思うばかりです。


594-3

肥さんの夢ブログ(中社)はスタート以来、十年余りで累計120万件のブログですので、色々な疑問に十分対応できる優良サイトです。


このブログがオンエアされる頃にはさらにリンクが増えているかも知れません。

2018215日現在のネット・ワークです


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大阪から二本目、愛知県からも二本目のリンクが成立し、当面の目標であった25件のブログ連合体が成立した事になります。これで、百嶋神社研究はほぼ消し去る事が出来ないレベルにまで広がったようです。

青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県10件の24

この外にも、鹿児島県、宮崎県、山梨県…も新規に参加する方向で検討しています。

現在、ネット上に継続して発信できない組織は事実上存在していない事と同義なのです。

将来を引き継ぐ人材を残す必要性からテーブルに着いた神代史研究会も残しますが、多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが連携しているのです。


    関心をお持ちの方は09062983254まで

595(前) 伊吹山(滋賀県)調査事前準備資料

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595(前) 伊吹山(滋賀県)調査事前準備資料

20180328

太宰府地名研究会 古川 清久


 前回の丹波丹後調査に引き続き、滋賀県の東に聳える伊吹山周辺の調査を行う事にしました。

 竹野神社 斎宮神社 (京丹後市)は、福岡県久留米市の一部(田主丸町各町)うきは市の一部(吉井町長栖、吉井町鷹取) 明治初年時点では全域が筑後久留米藩領であった旧竹野郡からの移動であり、伊吹山の一帯に入った人々も佐賀~うきは市一帯の製鉄集団だったのではないかという点にあります。

 これについては、ひぼろぎ逍遥スポット版 171173 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々 姉川と妹川という地名を持ち込んだ人々 亀屋佐京 を書いています。

 その底流には神功皇后の両親とされる息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る下ノ宮が佐賀県佐賀市の三瀬村にあり、付近には神功皇后が産まれ育ったとする野波の里があり、それが元々琵琶湖一帯に居たとされる息長氏に先行するものではないかとの可能性が生じたからでした。

 これを探る手掛かりはスポット版を読んで頂くとして、本稿は調査用の重要ポイントを拾い出したものであり、取材用の準備シートいったものになります(太宰府地名研究会によるトレッキング資料も添付)。


 姉川、妹川河川邂逅部(高時川=妹川)カーナビ検索 長浜市難波町

 姉川、草野川河川邂逅部(草野は福岡県久留米市草野の地名移動)カーナビ検索 長浜市国友町

国友の鉄砲鍛冶は著名ですね

 妹川上流 余呉町上丹生、下丹生の神社調査 「神奈備」によれば上丹生に丹生神社あり

カーナビ検索長浜市余呉町上丹生378

 息長広姫御陵カーナビ検索米原市村居田 付近には勝山地区あり

30代敏達天皇の皇后「息長広姫(オキナガヒロヒメ)」の御陵で、今から1400年以上も前のもの息長広姫は近江国坂田郡の豪族息長真手王(オキナガマテオウ)の娘であったとされている

 姉川 道の駅伊吹の里、カーナビ検索滋賀県米原市伊吹1732-1 伊吹地名=佐賀市脊振伊福地名

 草野川流域 長浜市鍛冶屋町、草野町 上許曽神社カーナビ検索滋賀県長浜市高山町2

 温泉:かんぽの宿彦根 カーナビ検索彦根市松原町3759 ℡0749-22-8090 「温泉博士」可

 温泉:バーデあざい カーナビ検索長浜市野瀬町828 ℡0749-76-1126 「温泉博士」可


少し南に展開し数社見ましょう。当然ながら他の神社も可能な限り調査します。

甲良神社  カーナビ検索 滋賀県犬上郡甲良町尼子1 0749-38-2462

甲良神社  カーナビ検索 滋賀県甲良町法養寺

阿自岐神社 カーナビ検索
滋賀県犬上郡豊郷町安食西663 ℡0749-35-2743

  安曇川流域調査(時間が許す限り)小浜に抜ける… 丹波丹後調査に移行 


595-1


595-2九州山口にしか痕跡も伝承のない神功皇后ですが、何故か出身地は畿内だろうなどとされています。この間懸案とされてきた神功皇后ですが、今般久々にスポットを当て、
神功皇后の生育地を探る!トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)を行います。そこで、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます。なお百嶋神社考古学では開化天皇の妃は神功皇后です。  


595-4


まずは通説を考えて見ましょう。


神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40 - 神功皇后69417日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。

三韓征伐を指揮した逸話で知られる。

夫:第十四代天皇 仲哀天皇。皇子:誉田天皇、第十五代天皇 応神天皇。

皇子:誉屋別皇子(日本書紀では弟媛の子)。

日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住吉大神神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇
595-3という聖王あり。」と言い
白旗を上げ、[3]戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。

渡海の際は、お腹に月延石鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市月讀神社京都市西京区月読神社福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫宇美応神天皇を出産し志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰武振熊命の働きによりこれを平定したという。

武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。

また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。

今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。


新唐書』列伝第145 東夷 倭日本[4]に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国[5]に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『新唐書』が編纂されたのは10世紀であり、唐時代に日本からの留学生・留学僧が伝えた内容が掲載されたと考えられる。

明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書が多数あった。 1926(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された[要出典]

明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられており、大日本帝国による朝鮮半島支配の象徴・根拠として[要出典]も関連付けられ、有名人であり偉人であった。 現在では実在説と非実在説が並存している。

日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の女王についての記述が引用されている。このため、江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし、この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。

また、これとは別に、直木孝次郎は、斉明天皇持統天皇が神功皇后のモデルではないか、との説を唱えている。


595(後) 伊吹山(滋賀県)調査事前準備資料

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595(後) 伊吹山(滋賀県)調査事前準備資料

20180328

太宰府地名研究会 古川 清久

595-5

移動スケジュール(あくまで予定)


 集合場所:やさい直売所マッちゃん

 若宮神社:午後に回すかもしれません。

 野波神社

 下ノ宮 

 休憩昼食場所:久保田医師別荘にて昼食(予定)佐賀市富士町下無津呂三本松1559

 宮地嶽神社


5959-7

移動にはこの地図を確認して下さい

資料

① 野波神社

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは、中谷) 1358-41

祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)

由 緒(要約)

西暦268年に創立。

社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地に寄られたと云う。明治43年村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。

昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。

② 下ノ宮

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口

祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命

由 緒(要約)

創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に「下宮」となったのであろう。

野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

①「三瀬村史」による野波神社

社号 野波大明神

祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)

應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。

 文中2(1373)再興。長禄2(1458)再建。元亀2(1571)再々建。宝永元年(1704)再々々建。

 天保14(18433月、1575年祭施行。

今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。

社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。

室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(15731591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(16742月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。

近代になって、明治61031日村社に指定され、同431013日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。

昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。

  「七山宗廟野波大明神」-拝殿入口の額

  「七山宗社」-弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」 三、何れも木製

  「表札」-神社の伝説口碑を記したもの

御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。

昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。

淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。

和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。

野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。

出典:三瀬村史p710

②「三瀬村史」による「下ノ宮」

社号 下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口

祭神 息長宿祢命・葛城之高額媛命

創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。

下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。

野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。

出典:三瀬村史p712


595-8

まず、神功皇后の母親(神)とされる葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)ですが、三瀬村の東隣に脊振村があります(現佐賀県神埼市)。

ここに鹿路という集落があり(コミュニティ・バスのバス停は「桂木」)一言主神社までがあるのです。

実はこの地こそ故)百嶋由一郎氏が“昔はここも「高良」と呼ばれていた九州王朝の中心的な集落であり、初期の九州王朝の安全な中心地であった”と言われている場所なのです。

付近には、旧背振村永江(表記が長柄、永江、長江…だったか覚えていませんが)があり、そのまま、葛城長江曾都毘古(古事記)(カツラギノナガエソツヒコ)を思い起こさせます。

ソツヒコの「ソツ」は、佐賀県旧牛津町(現佐賀県小城市)の牛津(ソツ)かも知れません。

それだけに、その後裔である葛城高額比売命は旧脊振村、旧三瀬村一帯にいたと思われる葛城一族の後裔である可能性が否定できないのです。

一方、父親(神)の息長宿禰王(オキナガノスクネ)はひぼろぎ逍遥にリンクされておられる、「沖永氏は秋永氏である。」の顛末記というサイトにおいて書かれていますが、息長一族が現久留米市田主丸町一帯に拠点を持っていた事は確実で、その位置関係を考えると信憑性が極めて高いのです。

ここ十年程で、二、三度訪問した経験がありますが、当時は「神功皇后伝承」には関心がなく、野波神社、下ノ宮の事は承知していましたが、他の問題(米田良三氏が「長谷寺」で書かれた三瀬村に長谷寺があったという提起との関係も不明なまま)、棚上げ状態にしていました(古川)。

そもそも「源氏物語」にしてもそれは後世のパクリ文学でしかなく、その現場は九州北部であり、長谷寺も、現在の北山ダムに注ぐ初瀬川にちなんで付された長谷寺であり、その橋脚は現在の鏡神社にあったとされ(米田良三説)、その礎石もB29の爆撃目標探査用写真には見えるのです。

現在も長谷寺名の痕跡を留める寺が鏡神社の正面に長谷山観音寺が存在し、その梵鐘が知恩院の巨大梵鐘となったとのはなしがあるのです。


米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 〝初瀬の御寺〟 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」

 この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 〝感動〟 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。

595-9その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。

 ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。

 この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。

 後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。

 しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。

 ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。


倭国長谷寺跡の発見 - AB&JC PRESSによる

596 内倉武久ブログ“神功皇后は佐賀の山中で生まれた? 謎の〝女性天皇〟解明に新資料”の転載

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596 内倉武久ブログ“神功皇后は佐賀の山中で生まれた? 謎の〝女性天皇〟解明に新資料”の転載

20180313

太宰府地名研究会 古川 清久


久留米大学では、31718日に掛けて九州王朝論に関する公開講座が行われました。

 17日)福永晋三、内倉武久、18日)古賀達也、正木 裕、服部静尚の五人の論者です。

 そこで、今回は内倉武久氏の講演についてご紹介する事に致します。

 内倉武久氏は、三一書房とミネルヴァ書房から4著を公刊された朝日新聞の元記者ですが、古くからの九州王朝論者として現在も私達と共にフィールド・ワーク。調査、研究、講演へと飛びまわっておられます。


596-1

言わば、太宰府地名研究会の考古学顧問と言ったところでしょう。

 今回、内倉先生は「神功皇后は佐賀で生まれた 息長氏とその展開」というテーマで講演されましたが、パワー・ポイントをそのままブログ化するのも大変ですので、そのさわりの部分を昨年の暮れに書かれたブログを転載する事にしました。

講演では神功皇后の陵墓を含めさらに展開されていますが、それは内倉ブログの最新稿などをお読み頂きたいと思います。

なお、スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”20171010 でも公開していますので、内倉先生の目にはどう見えたのか?別の視点から何を見られたのか?をご紹介します。内倉ブログの続編も併せお読み下さい。


2017-11-27

神功皇后は佐賀の山中で生まれた? 謎の〝女性天皇〟解明に新資料


 『記紀』(『古事記』と『日本書紀』)に記される神功皇后(息長帯比売=おきなが・たらしひめ)は古代史上謎に包まれた女性の〝天皇〟だ。4世紀後半に朝鮮半島の新羅(しらぎ)に攻め入り、戦わずして新羅王を屈服させたという。

 いかがわしい古代史を説く国史学者らはこれまで、『日本書紀』の記述に惑わされて、「神功皇后(じんぐうこうごう)は大和にいた女性だ」と考え、さまざまな論議を交わし、発表してきた。

 これまで再々述べているように『日本書紀』は事実あった事柄を捻じ曲げ、あたかも権力の中心は古来奈良・大和にあったという虚構を作り出した〝史書〟だ。

 現在、われわれが目にする『古事記』は、本来のものにかなりな改作、削除が行われたものであろう。が、それでも『日本書紀』よりはまだ事実に近い歴史を綴っていると考えられる。

 それでも『記紀』ともにこの女性については多くを語らず、もっぱら「朝鮮征伐」関連の話や「皇位奪還」の話だけを記している。

まず『記』によれば、この女性は夫の仲哀天皇(帯中日子=たらし・なかのひこ)とともに筑紫の香椎宮(かしいのみや=福岡市東区)、それ以前は穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや=山口県下関市)にいた。

 仲哀が北部九州一帯にまで進出していた熊襲(熊曾於族)を駆逐しようと穴門の豊浦宮から出発し、香椎宮に移った。しかし「新羅を討て」という天照大神(あまてらすおおみかみ)のお告げに従わず、(あるいは熊襲の毒矢に当たって=『書紀』)死んでしまったという。

 この場面になぜか「武・内宿祢」が登場する。「天照」のお告げを請うたのは彼である、と。

この話はちょっと辻褄が合わない。管見では「内の宿祢」は熊曾於族のトップにいた人である(当ブログNO.3参照)。すでに九州倭(ヰ)政権の中心にいた人だ。

 皇后らが熊曾於族駆逐に失敗し、「内の宿祢」らと和睦した後の事情を考えてこういう話にしたのではなかろうか。

 久留米市の「高良(こうら)玉垂(たまだれ)宮紙背文書」の言い伝えによれば、息長帯比売は夫の死後、博多(はかた)の住吉神や武・内宿祢とただならぬ男女関係を結んだらしい。女傑(じょけつ)の本領発揮だ。

これらの話を総合すると、「仲哀」は、本来熊曾於族とは別の氏族の出身なのであろう。山口県周辺は故岸俊男氏(京都大学)の研究でも知られるように「紀氏」が盤踞していた地域でもある。だからひょっとすると「仲哀」は「紀氏」系統の人である疑いも生じる。

 『記紀』の著述からは、紀氏が熊曾於族と激しい主導権争いをしていた様子がうかがえる。神功皇后らも熊曾於族を目の敵にしていることが書かれている。

「松の連系図」(当ブロクNO.2参照)でも「紀氏」と「熊曾於族」とはある時点(4世紀ごろ?)に合体していたことを記している。

 前置きが少し長くなったが、「新資料」の話をしよう。

佐賀県東端の山中に「野波(のなみ)神社」とその「下ノ宮」があり、そこに「神功皇后」と両親の「息長宿祢(おきながのすくね)王」、「葛城の高額(たかぬか)姫」が祭られているという。

精力的に当地一帯の神社の調査を進めている宮原誠一氏が自身のブログに書いているのを見てびっくりした。

神功皇后の出身地についてはこれまで確たるデータはまったくない。『日本書紀』から導かれる「畿内・大和政権の人である」という誤った考えから「滋賀県の湖東、伊吹山西麓に息長庄がある。そこではないか」とされていた。


596-2

さっそく電話をして詳しい話や現地の状況を聞こうとしたら、「ちょうど1119日に当地一帯のトレッキングを計画しています。そこで現地を実見したらどうですか」とおっしゃる。さっそく参加させてもらうことにした。

「野波神社」(写真)があるのは佐賀県旧三瀬(みつせ)町(現佐賀市)、背振山脈の背に近い、北山(ほくさん)ダムの東側だ。

南北に糸島市や吉野ヶ里、神崎町、峠を越えると福岡市早良区に通じる。

熊曾於族の「武・内の宿祢」の生誕地もここから約30余キロ北西の佐賀県武雄市である可能性が高い(当ブログNO.68参照)。

由緒書き(下写真)によれば、この神社は元来ダムに沈んだ場所にあったのを現地に移したという。「下ノ宮」は以前から野波神社から約750メートル南の現在地にあった。                 

問題は母親の「葛城の高額姫」だ。「葛城」は氏(うじ)名か地名だ。「葛城」という所にいたからそう呼ばれていたのだろう。

実は背振山南麓一帯は古代「葛城」と呼ばれた地域であった。現地から約5キロ、地続きの神埼市には「桂木(かつらぎ)」という旧村(下写真)があり、古代豪族・葛城氏が奉祭していた「一言主(ひとことぬし)神」を祭る鹿路(ろくろ)神社写真)もある。

同社の由緒書き(写真)の後ろから13行目には「この辺りは古代葛城の峯と言った」ことが明記してある。

さらに隣接のみやき町にはずばり「葛城神社」(板部バス停前)も現存している。博多駅前の街路案内石碑のひとつには「中世、山伏の修行場としての葛城山があった」旨の表示がある。背振山系のことを指している。


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これらのデータから見て、神功皇后の母親がここにいたことはほぼ間違いないだろう。

では父親の「息長宿祢王」の方はどうか。「息長」というから鉄や銅の生産に関わった氏族の一員だろう。鞴(ふいご)に吹き入れる風のことを業界用語で「息」と表現している。それが長く続いてほしいという願いを込めた氏族の名だろう。

近くには「伊福(息吹く、か)」という出雲の鉄生産関連地名や姓に出てくる地名もある。みやき町の綾部神社は「風の神」を祭る神社で、その後背地からは多くの鉄滓が出土する。「風(息)」は鉄の製錬に使われる「野ダタラ」などに必要欠くべからざるものだ。

鉄の鉱脈をさぐる役目もしていたという山伏の修行場に背振山系が使われていったという博多の石碑の表記は納得できる。


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太宰府地名研究会によるトレッキング


要は、背振山脈西側一帯は古代の鉄生産基地でもあったし、そこには葛城氏や息長氏一族が盤踞していたということだ。皇后の父親もここにいたことは想像に難くない。神社の縁起は事実を伝えていると考えられる。


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息長氏の一部はその後、久留米市田主丸の耳納(美濃)山麓に移ったらしい。氏族の末裔を名乗り、ブログ「息長氏は秋永氏である」の筆者秋永祥治氏(大分・湯布院在住)はそう主張している。

滋賀県の「息長の庄」もおそらく北部九州にいた製鉄民・息長氏が進出した先であろう。故郷の伝説を氏族の誇りとして新しい故郷であったことにしたものと考えられる

また、神功皇后が甥にあたる香坂(かごさか)王、忍熊(おしくま)王の二人を攻め、殺して皇位を奪ったという現場も北部九州であることは確実だ。『日本書紀』は地名を入れ替え、あたかも畿内で起きた事件のように仕立て上げている。まったくとんでもない〝史書〟だ。


596-7

神功皇后と武・内の宿祢はいわば「同郷の人」であったことがわかる。同じ佐賀弁(肥前弁)で話しすれば意気も通じたことだろう。

北部九州などの神社の多くが今、「大和政権一元論の古代史の常識」から外れてしまい、草はぼうぼう、建物も今にも壊れそうになっている。地域の人々がなんとか守っているが、存亡の危機にある。近い将来〝いかさま古代史〟の反証が消え去る日がくるのだろう。何とかならないものか。

古代史を語るうえで「神社と言えば式内(しきだい)社」とされ、重要視されるが、もちろんこれらの神社は「虚構の大和政権一元論」にとって都合のいい神社や変節を余儀なくされた神社である。

野波神社など草むして顧みられることがほとんどなくなった神社にも本当の歴史が隠されていることがわかる。(201711月)


神功皇后 応神天皇の母親 夫は仲哀天皇(足仲彦)

父は、息長宿祢王、母親は葛城の高額姫 『日本書紀』では熊襲(熊曾於)族を破った。夜須の羽白熊鷲、山門県の田油津姫を殺した。那珂川町で裂田溝を造った。

神がかりして新羅を討つことにした。人質として奈勿王の子未斯欣を 取る(390年)、応神を伴い、武・内宿祢と大和へ向かい、カゴ坂、忍熊両王を討つ。南加羅など7国を平定・治世69年(267年)に死去。狭城盾列陵に葬った。

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少し分かり難かったかも知れませんが、佐賀県神埼市の旧背振村桂木には葛城氏の居留地があり、佐賀県佐賀市の旧三瀬村の野波には息長宿禰と葛城高額姫が住み、神功皇后も産まれ育っているのです。

 通説派は否定されるでしょうが、全国に息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る神社があったらお教え願いたいと思います。その後、北山ダムとゴルフ場建設に伴い二度移転し、神功皇后以下を祀る野波神社は現在の地に移転していますが、奇跡的ながらその縁起には、ご両親を祀る下ノ宮に関する記述が残されていたのでした。これも一重に太宰府地名研究会の中島 茂氏のフィール・ドワークの成果です。

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