232 日本型姥捨ての薦め
ブログ232は後日公開させていただきます。
232 日本型姥捨ての薦め
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233 日之影町見立渓谷から山上楽園へ ① “25年来の川遊びの場が破壊された”
ブログ233は後日公開させていただきます。
extra021 宮地嶽神社と安曇磯羅 ① “五人寄れば文殊の知恵”
20150214
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
この間、草部吉見神社、高良大社、太宰府天満宮、宇佐神宮、宗像大社…について、例えば「宗像大社の本当の祭神は大国主命である…」といった事を書いてきました。
そのこともあってか、当方に対して「宮地嶽神社と安曇磯羅との関係が良く分からないのでアドバイスしてもらえないか」といった趣旨のお話が舞い込みました。
勿 論、本ブログは神社庁のお気に召すような(彼らが現天皇家に繋がるとする大和朝廷像から「古事記」「日本書紀」に基づく神代史観、それを支えた多くの神社 群の正当性の賛美)表面的な神社の解説を行っているものではなく、九州王朝論の延長上に「日本神話」の深層に潜行し少しでも古代の真実に近づこうとしてい るものであり、基本的には高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書同紙得背」をベースに神代史の再構成を目指された故百嶋由一郎氏の神社研究を私的に追及す る作業ノートです。
ただし、将来的な保存と深化のために作成すると同時に、多方面からの批判検討を受け入れつつ、加えて修正するために敢えて公開しているものです。
現段階ではこの提案がどちらから持ち込まれたのかについて一切申し上げられません。
また、私自身が「宮地嶽神社と安曇磯羅」というテーマ自体に特別に重要な要素があると考えている訳ではありません。
こ こからは推測でしかありませんが、一般から神職レベルでの認識は元より、ネット上、さらには研究者レベルでの理解が安曇磯羅と宮地嶽神社とに関係があるの ではないかといったところにまで進み、結果的にその評価が依頼してこられた方の認識に反映しているものと考えています。
少し前置きが長くなりました。このような依頼に対して神社研究でも極めて異端的な百嶋神社考古学の入門者でしかないものとしてどの程度のお答が出せるかは分かりませんが踏み出すことにしました。
た だし、このようなテーマについて私からの視点だけで書いたとしても、それは一つの面について取上げたに過ぎないため、地名研究会には既出版、出版予定の多 くの論者がおられることから、同様の趣旨で四人の方(内倉武久、伊藤まさ子、彩杉るな、吉田正一)に無報酬を前提に小論の作成をお願いしています。
今後、これ以外の方にもお願いするかも知れませんが、とりあえず五人の知恵を集めれば、依頼者に対して何がしかの真実をご提案する事ができるのではないかと考えています。
その前に現在の宮地嶽神社の祭神を同社の公式ホーム・ページから見ておくことにしましょう。
ご創建は、約1600年前。当社のご祭神「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)」別名「神功皇后(じんぐうこうごう)」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。
古 事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に 渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神 を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りしました。
以来、宮地嶽三柱大神のご加護のもとで事に当たれば、どのような願いもかなうとして「何事にも打ち勝つ開運の神」として多くの方に信仰されるようになりました。
当社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮です。
extra022 宮地嶽神社と安曇磯羅 ② “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!”
20150215
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
既に、068 宮地嶽神社と安曇磯羅 ① “五人寄れば文殊の知恵”においてご紹介した様に、現在の宮地嶽神社の摂社を含めた祭神に「安曇磯羅」は祀られていません。
勿論、この祭神(息長足比売命 別名 神功皇后、勝村大神、勝頼大神)の勝村大神、勝頼大神の中に安曇磯羅が居れば話は変わってくるのであり単純に即断はできません。
ここでこのご配神がいつまで遡れるかを、まず、考えましょう。
数百年来、この通りだったと信じて疑わない方が大半かと思いますが、実は全く違うのです。
では、右のコピー・データからご覧いただきましょう。これは、昭和11年版「福岡県史」掲載の神社資料です。
これも故百嶋由一郎先生からお教え頂いたことですが、最低でも戦前の一時期、宮地嶽神社の祭神は阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)、藤高麿麻勝村大明神、藤助麿麻勝頼大明神とされており、主祭神 神功皇后 以下…)でなかった事は分かります。
藤高麿麻勝村大明神、藤助麿麻勝頼大明神が現在の勝村大神、勝頼大神であることは確実でしょうから、問題は阿部相凾が誰なのかに立ち至ります。
この分析には、まず、「福岡県史」において、いかなる補足資料が確認でき、その配神が何時から何時までのどのような背景において総であったのかを確認する作業が必要とされます。
現在、空襲にも関わらず、「福岡県史」全資料は閲覧できますので、昭和11版にこの通り書かれているかどうかについて知りたい方はご自分で確認して頂きたいと思います。
福岡県史編纂史料は、これまで(財)西日本文化協会が設置した福岡県地域史研究所において、福岡県の委託により調査・収集・整理・補修・保存作業ならびに公開を行ってきました。 これまでに収集された史料は10万点を超え、原文書のほか、多数のマイクロフィルム、地図、写真、絵ハガキなどが保存され、閲覧に供されていたところです。
九州歴史資料館では、これら福岡県史編纂史料を、福岡県地域史研究所からすべて移管を受け、閲覧およびレファレンス業務を引き継ぐこととなりました。
当館では、調査研究を目的とする方々に所蔵する史料等を閲覧に供していますので、ご利用ください。
ただ、故百嶋先生は、正確ではありませんが、記憶では“現在の宮地嶽神社の祭神は神功皇后とその家来(臣下)とされていますが、冗談じゃない、そのお子さんです…”と言われていたようです(音声データあり)。
もし、現在の神功皇后、勝村大神、勝頼大神が母と二子であるとすれば、阿部相凾とは父となる可能性が高いことになると考えられます。これについても、故百嶋先生は話しておられました。
以下、牛島稔太氏のHP「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜 ---」
久留米地名研究会 百嶋由一郎先生講演 2011年2月5日 から、
開化天 皇、高良大社と宮地嶽神社は同じですが、超極秘事項で一緒にできない。みやま市山川町の役場からあまり遠くない小高い山の上に、山に鎮座まします神とし て、高良大社の高良玉垂命と向こうの開化天皇が鎮座されています。表に玉垂宮、中に宮地嶽と書いてある何か変な神社がある。これを実現させたのが菅原道真 公です。開化天皇のことをある時期、あへのしょうじょう、藤大臣とも申し上げた。また、“わかやまとねこ”とも申し上げる。ヤ マトネコは日本の根本となる人という意味です。ネコ、猫で九州各地に広範囲に鎮座されている。大阪では高良大社ではなく高良神社がありますが、久留米の王 子宮では動乱蜂、動乱花火をやるが大阪の高良神社でもやる。また、名古屋のとなりの尾張津嶋神社(祭神:素戔鳴のみこと、開化天皇のご先祖の一人)でもや る。この三つの神社ではやけのやんぱち花火をやる。春日大社は現在、偉い神社になっているが、高良大社にお仕えした家来の地位だった。高良大社を別のとこ ろに持ってゆくと住吉神社となります。
伊勢皇大神宮の神紋に気ずかれたかたはいますか?門光です。開化天 皇が四王子山にお立ちになった時に、まばゆいばかりの光が周囲に散ったのです。現在では、花菱といいます。これが高良神紋であり、住吉神紋です。門光以前 の紋章は桐です。男は五七、女は五三の桐です。まだ日本が定まっていなかった頃は、九七があった。神武後継五瀬のみことが働いていた頃は九七の桐もあった のです。但し、十六葉菊は後鳥羽上皇が追加されたものです。従って、天皇家の紋章は、桐、門光(花菱)の二つです。宮地嶽さんは高良と同一神を祀っている ことを隠すために、紋章切替をなさっている。三階松です、江差追分の江差町、牛深天草ハイヤの連中は船で全国を廻っていた。九州の王朝の行事を日本国中広 めていた。…
と、一気に凄い話に突き進んでしまいましたが、現在は検証作業を進めているだけであり、私にとっても永遠に続く作業仮説でしかないからです。
このため、直ぐに他人でしかない私の主張を信じ込まないで自分の頭で考え、調べるようにして下さい。
何故ならば「何を言っているんだ!神功皇后は第10代仲哀天皇様のお妃であられ、そのお子さんが応神天皇=八幡大神様となっているではないか!」といった話(現在、言えば嘘話)が巷に溢れているからです。
「日本書紀」「神功皇后紀」をお読みの方は、第10代仲哀天皇は短命だったことをご存じだと思います。でも、双子でなかったとしたら、神功皇后の夫とは誰の事でしょうか。
一人だけそれらしき人物が近くにおられるのです。
それは、久留米の高良大社の祭神である高良玉垂命(底筒男ノ命)その人なのです。「高良玉垂宮神秘書」の一部ですが、右をお読みください。
特に「古事記」「日本書紀」と全く違う異端の書「高良玉垂宮神秘書」もそのまま真に受けることはできない。
特にウガヤフキアエズの一族の影響からウガヤの業績を殊更大きく描いている部分があるとされていますが、深く読み込まなければ非常に難しく直ぐには理解できないのです。
特にフィールド・ワークを繰り返し、神社や神社伝承に詳しくならなければ見えてこないため、この段階では、記紀神話をそのまま信じ込み、判断どころか断定される方々に対して、警鐘の意味でご紹介したつもりです。
ただ、勝村大神、勝頼大神が神功皇后のお子さんだったとしても、実子であったのかどうかは、まだ、直ぐに結論を出せずにいます。
故百嶋先生は神功皇后と高良玉垂命(第9代開化天皇)には九人のお子さんがおられ(久留米市山川町高良皇子神社)、そのうち五人が皇后と開化天皇との間の実子であるといった趣旨の事を話しておられましたが、
九人の皇子(九躰皇子)斯礼賀志命(シレカシ)朝日豊盛命(アサヒトヨモリ)暮日豊盛命(ユウヒトヨモリ)渕志命(フチシ)渓上命(タニガミ)那男美命(ナオミ)坂本命(サカモト)安志奇命(アシキ)安楽應寳秘命(アラヲホヒメ)※読みは「草壁氏系図(松延本)」による。
朝日豊盛命、暮日豊盛命が勝村大神、勝頼大神であれば分かりやすいのですが。なお、那男美命以下四皇子は仲哀の子と「宮神秘書」にあり(15p)。
可能姓は低いもの勝村勝頼は仲哀の子かも知れない(これは当面保留)。
extra023 宮地嶽神社と安曇磯羅 ③ “安曇磯羅とは何者なのか?”
20150215
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「決 して安曇磯羅が祀られているのではない!」というのが当方の見解なのですが、にも関わらず安曇と宮地嶽神社の関係が取沙汰される理由は、一部に、その鎮座 まします神=九州王朝の大王=高良玉垂命の若き姿(ワカヤマトネコヒコ)を安曇磯羅とする説とまでは言えないものの、ネット上でかなり影響力を持った見解 (九大の故真鍋大覚からblog「ひもろぎ逍遥」)が存在するからと思われます(一例ですが、以下…)。
高良大社(高良玉垂宮)(Ⅱ) こうらたいしゃ(こうらたまたれぐう)
玉垂命とは干珠満珠を授けた海の神 高良山にはカペラの伝承があった
「玉垂(たまたれ)」について気になる事があって社務所に電話で尋ねた事があります。
それは合気道の開祖の植芝守平の本『合気神髄』に「高良の神」の事が載っていたからです。
植芝守平氏はNHKドラマの『坂の上の雲』とちょうど同じ時代の人です。
明治から昭和を生きた人です。
その人の語録集に合気道の呼吸について述べる時の象徴として「玉垂」が出てくるのです。玉依姫は白玉で潮干珠(しおひるたま)、豊玉姫は赤玉で潮満珠(しおみつたま)、その玉を使いこなすのが高良玉垂の神。
このような内容が合気道の本に書いてあったのでびっくりして、高良大社にお尋ねしたところ、やはり、玉垂とはこの干珠(かんじゅ)、満珠(まんじゅ)を指すとの事でした。
ほんのこの前まで、玉垂のことについては、常識だったのでしょうか。
「玉垂」が干珠満珠だとすると、高良玉垂命とは潮の満ち引きを司る神と言う事になります。
人は潮が引くときに、息を引き取ります。潮が満ちる時に生まれます。潮の満ち引きは月のなせる技です。
ですから、月の神様とも言われる訳です。これが御神徳の「延命長寿」にもつながってきます。
「玉垂」をよく考えると「玉を垂れる」という事ですから「玉垂命」とは「珠を与える神」という意味になります。では、それは誰でしょう。海神です。志式神社の神楽でそれを見て来たばかりです。
高良玉垂の神が海神だとすると、名前は綿津見(わたつみ)神という事になります。
まず、宗像が権勢を振うまで(それほど古いものではなくたかだか八世紀半ば以降か…)宮地嶽神社が、海神族、志賀島海人族、安曇族の上に君臨していたことは容易に想像できます。
その上で、「高良玉垂命の若き姿が分離され投影された姿が宮地嶽神社」との見解を繋げば、宮地嶽神社と安曇磯羅の関係が多少は浮き上がってくる事にはなるのですが、事はそう単純ではないのです。
「高良玉垂の神が海神」との等式=彩杉仮説に容易には乗れないからなのです。
ただ、ここではその論証を後回し(当面放棄?)にして結論だけを申上げておく事にします。
宮地嶽神社は海神安曇磯羅を臣下とした高良玉垂命の若き姿(ワカヤマトネコヒコ)=後の第9代開化天皇を分離し投影させたものという事になります。
※ 注)武内宿禰=安曇磯羅説もありますが、その否定はもとより、当方は高良玉垂命=武内宿禰説とも考えていません。
では、安曇磯羅とは一帯何者なのでしょうか?漠然としか見えていなかったのですが、ようやくその姿が多少見えるようになってきました。
百嶋神社考古学では、安曇磯羅をウガヤフキアエズをと父とし鴨)玉依姫を母としており、その父のウガヤフキアエズは、彦火々出見=山幸彦を父としヤタガラスの子である豊玉姫を母として生まれている。
その母の鴨)玉依姫はヤタガラス=豊玉彦と櫛稲田姫=イカコヤヒメの間に生まれたものとすることから、ヤタガラス=豊玉彦から見れば、いわば孫と子と子の子の関係、当の安曇磯羅から見れば父と母が甥と伯母の関係になっているエリートと言えるでしょう。
但し、高良玉垂命(第9代開化天皇)=ワカヤマトネコヒコとの関係を見れば一切なく、山幸彦の血統を取り込んだ極めて有力な臣下である博多の櫛田神社の主祭神、大幡主の一族といった表現になるのです。
従って、海神族の本体が八幡神の元祖大幡主と考えられる事から、安曇磯羅が海神族=海人族の長であるとすることは正しいのですが、高良玉垂命が単に海神族の王とだけは言えない事から、九大の故真鍋大覚からblog「ひもろぎ逍遥」の思いは思いとして無理があるのです。
ただ、九大の故真鍋大覚は菅原道真の流れを汲む歴法家の一族であり、道真が大幡主…ヤタガラスを先祖とする事から、彼の思いが海神族の長に延びた事は先祖への憧れと尊崇だったとは言えるのです。
では、ワカヤモトネコヒコ=後の第9代 開化天皇=高良玉垂命とは如何なるものなのかといった話になるのですが、宮地嶽神社の大王には海を支配する海神族の長としての性格だけではなく、陸を支配 する大地の王としての性格が重なっているのです。それは、孔子が理想とした中国ナンバー・ワン周王朝の流れを持つ呉の太伯の末裔として姫氏(後の表現では 紀氏)の姿が投影されていたのです。
それこそが、倭(人)は呉の太伯の末裔として多くの大陸系史書に書きとめられた栄えある流れだったのですが、ここでは、宮地嶽神社に海神族の大王としての 相島の積石塚群や安曇族の長としての姿だけでなく、背後の巨大石室を持つ古墳から出土した馬具や奴山古墳群に認められるように、同時に陸を制した大王の姿 があることを考えるべきではないかとだけしておきます。
extra024 宮地嶽神社と安曇磯羅 ④ “底筒男命と表筒男命”
20150219
久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
海人族の神と住吉大神を何か兄弟神の様に理解されている方が多いようですがそれは誤りです。
ただし、宮地嶽神社のワカヤマトネコヒコ=後の高良玉垂命(第9代開化天皇)と安曇磯羅は底筒男命と表筒男命に対応するのです。
ここらあたりも宮地嶽神社と安曇磯羅とが重ねて投影される理由なのかも知れません。
まず、右の資料「高良玉垂宮神秘書」の切り出しをご覧ください。
住吉大神には初代住吉であるウガヤフキアエズが住吉大神の座を返上した後、表筒男命(尊)底筒男命(尊)の登場が書き留められています。
このように住吉大神継承の問題があり理解が容易ではないのです。
さらに、血縁でないにも関わらず、三男月神底筒男ノ尊、嫡男日神ノ垂迹表筒男尊とウガヤ系が失敗したにも関わらず、系統を持ちあげて書いている部分があり、「高良玉垂宮神秘書」もそのままに読む事ができないと百嶋先生は述べておられました。
ここでは、ご面倒でもまず復習の意味から、「ひぼろぎ逍遥」155百嶋神社考古学では住吉三神をどう考えるか 20150115 を再度お読み頂きたいと思います(以下)。
住吉神社という海の神様を祀る神社があります。
住吉三神を祀る神社で、一部に息長足姫命(神功皇后)を併祀のものもありますが、一般には底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命とされています。
一般にも、何やら海人族の三人の兄弟とか、海底と中層と海上を支配する神とか、潮の満ち引きを象徴するもの・・・といった自由な考えで納得されているようです。
恐らく、この住吉の神について三神を分離しそれぞれに属性を与えておられる方はおられないのではないかと思います。
ところが百嶋神社考古学では全く異なります。
と いうより、住吉の神の起源は大阪の住吉神社と考えられているようですが、北部九州こそが起源であり、その現地を丹念に調べてこられた百嶋先生の話には極め て具体性があり、神社研究の中枢部におられたことから、当時でも最も神社に精通していた賢い神職の(これは百嶋先生の表現でしたが)非公式(秘密)の集ま りから、直接、生の情報が入っていたのです。
百嶋神社考古学における住吉の神
まず、底筒男命(ソコツツノオ)中筒男命(ナカツツノオ)、表筒男命(ウワツツノオ)に神格上の違いがあるのでしょうか。
実はあるのです。神職の中にはこのことに気付かれている方はおられるようですが、底筒男命が格上であり、残りの二神は臣下でしかないのです。
ま た、これは住吉神の別の面から見たものですが、元々、住吉の神は一神であり、彦火火出見(山幸彦)と豊玉姫(タゴリミホ)との間に生まれたウガヤフキアエ ズが担当していたが、三種の神器を高良玉垂の命に返還することをもって、新住吉が誕生するに至った…(「高良玉垂宮神秘書」)と言うのです。
百嶋先生のこの部分に関する講演中のドキュメントを元菊池(川流域)地名研究会メンバーの「牛島稔太のホーム・ページ」からお読みください。
その時は、開化天皇とは申しません。住吉様としてお立ちになった、先輩住吉様と交替なさるのです。先輩住吉様とはウガヤフキアエズのことです。そして交替なさって新しく住吉となられたのが開化天皇です。
また、「ひぼろぎ逍遥」079「玉名市大浜の外嶋宮は二人の住吉大神を祀るのか?」においても、この住吉の神(二人の住吉様の問題)を取り上げていますので関心をお持ちの方はご覧ください。
これなどを読まれればお分かりになると思うのですが、このように北部九州の住吉の神に関する話には極めて具体性があるのです。
では、百嶋先生が最後に残された神代系譜の一部をご覧いただきましょう。
底筒男命 開化天皇(1775) 久留米高良大社の祭神=高良玉垂命
中筒男命 崇神天皇(1805) ツヌガノアラシト(大山咋命の子)
表筒男命 安曇磯良(1815) 大川風浪宮の祭神
年齢は崇神や安曇の方が上ですが、開化天皇の配下であったと聴いています。
しかし、神社の現場では三神がセットで祀られており、それ(下剋上)がいつからどのような形で始まったのかは不明です。
このような形で祀られると誰が主祭神であるかが全く分かりません。
各々の住吉神社で主たる住吉様がおられるのですが、聴いている範囲でお話をしておきます。
底筒男命を祀るのが壱岐の住吉神社、大阪の住吉大社(三大住吉の一つ)、中筒男命を祀るのが博多の住吉神社(これも三大住吉の一つ)、表筒男命を祀るのが下関の住吉神社(これも三大住吉の一つ)となるのです。
ただ、有明海の島だった場所に鎮座する宇土市の住吉神社のように中世以降の勧請の場合は、判別は不能です。
しかし、その勧請前にも住吉の神が置かれていた可能性はあるのですが…。
まずは、玉名市大浜の外嶋神宮などから考えるしかなさそうです。
extra025 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑤ “志賀海神社と大川風浪宮”
20150219
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
安曇磯羅を考える時には単に住吉神社と走るのでなく、安曇磯羅を祀っている神社を考える必要があります。今は、住吉神社も三神を祀るところが多くなり神社側でさえも分からなくなっているのですが、ただ、基本はそうですと言う程度の意味です。
百嶋先生からは、下関の住吉神社は元々表筒男尊を祀る神社とお聴きしていますので、ここでは、下関の住吉神社、志賀海神社、大川風浪宮の三社を考えてみま しょう。それでも祭神には非常にバラつきがあります。恐らく、志賀島、大川風浪宮、下関の住吉神社は主神として安曇の磯羅を祀る神社でしょう。
① 下関住吉神社 式内社 長門國豊浦郡 住吉坐荒御魂神社三座 並名神大
長門國一宮旧官幣中社
御祭神
第一殿住吉大神・荒魂 第二殿応神天皇 第三殿武内宿祢命 第四殿神功皇后 第五殿建御名方命
日本書紀によれば、神功皇后三韓外征の際、「吾和魂は玉身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かん」と神託。凱旋の折には、「吾荒魂は穴門の山田邑に祀れ」と神託があり、当社に祀られた。
「住吉開基造営等之覚書」によると、応神天皇・武内宿祢・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑紫の宇美からの勧請。建御名方命は 後世に奉祭。「長門国一宮略記」には、応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、武内宿祢・建御名方命は、朱雀天皇の承平年中の奉祭。「長門国志」で は、応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑前より勧請。武内宿祢・建御名方命は、勧請年不詳。 五殿ならんだ本殿は国宝。応安三年(1370)大内弘世寄進による。九間社流れ造・正面五ヶ所・千鳥破風附檜皮葺。拝殿の額には、『住吉荒魂本宮』とあ る。境内西側の検非違使社の前に『神籠石』。
墨江三前大神
すみのえのみまえのおおかみ
別名
墨江神:すみのえのかみ
住吉大神:すみのえのおおかみ/すみよしのおおかみ
住吉三神:すみのえさんしん/すみよしさんしん
三筒男神:さんつつをのかみ
上筒之男命:うわつつのをのみこと
表筒男命:うわつつのをのみこと
磐土命:いわつつのみこと
中筒之男命:なかつつのをのみこと
中土男命:なかつちのをのみこと
赤土命:あかつつのみこと
底筒之男命:そこつつのをのみこと
底土命:そこつつのみこと……
航海の神、漁業の神、海洋神としての性格を持つ。さらに柿本人丸、衣通姫と合わせて和歌の神・和歌三神としても有名。
伊邪那岐神が死の国の穢(けがれ)を祓うため、筑紫日向の橘の小門の阿波岐腹で禊(みそぎ)した時、 水底で滌ぎ給うたときに底筒之男命、中程で滌き給うたときに中筒之男命、水の上で滌がれたときに上筒之男命が化生した。
『古事記』では、底筒之男命は底津綿津見神の次に、中筒之男命は中津綿津見神の次に、上筒之男命は上津綿津見神の次に生まれた。
『古事記』では、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江三前大神と呼ばれるが、 墨江とは住之江であり住吉のこと。 『日本書紀』には、住吉大神とあり、住吉の神として祀られている。
上記の禊において、同時期に化生した神直日神・大直日神・伊豆能売神(あるいは八十枉津日神)と、底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神を合わせて九柱の神を祓いの神とする場合がある。
「筒」はツチと同じで、ツが助詞、チは美称とされているが、その起源は定かではなく、 土(垂加神道)、伝う(鈴木重胤)、星(吉田東伍)、津之男(山田孝雄)、対馬の豆酘(つつ)、帆柱の筒などの諸説がある。
綿津見三神は阿曇連の奉祀する神々だが、記紀には墨江三前大神が奉祀する氏族が記されておらず、 『先代旧事本紀』には津守連によって祀られた神とある。
神功皇后に神懸りして、応神天皇の誕生を予言した神。さらに神功皇后の三韓征伐を守護した神。
(公式HPがないため「玄松子」による)
古 来、玄海灘に臨む交通の要所として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」とたたえられ、海の守護神として篤(あつ)く信仰されてい る。御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が筑紫の日向の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原において禊祓(みそぎはらい)をされた際に、住吉三神と共に御 出現された綿津見三神で、神裔阿曇族(しんえいあずみぞく)によって奉斎(ほうさい)されている。御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特 に嫌い、諸々の穢(けがれ)・厄(やく)・災(わざわい)・罪をはらい清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右す る御神威を顕現(けんげん)されている。当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。2世紀(遅くとも4世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、あわせて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀(ほうし)されたと伝えられる。むかしの社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元冦の役(げんこうのえき)など国家の非常の際に嚇々(かくかく)たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(1927年)には官幣小社の処遇をうけている。志賀海神社略記より
③ 大川風浪宮
御由緒
本官は神功皇后が新羅御新征よりの帰途(西暦一九二年)軍船を筑後葦原の津(大川榎津)に寄せ給うた時、皇后の御船のあたりに白鷺が忽然として現われ、艮(東北)の方角に飛び去りました。皇后はその白鷺こそ我が勝運の道を開き給うた少童命の御化身なりとして。白鷺の止る所を尾けさせられ、其地鷺見(後の酒見)の里を聖地とし、武内大臣に命じて仮宮(年塚の宮)を営ませ、時の海上指令であった阿曇連磯良丸を斉主として少童命を祀りました。(旧暦十一月二十九日)
古来より風浪の灘を守護し給うにより風浪を社号とし代々の久留米有馬藩主の崇敬厚く国司賢将始め筑後国一円の信仰をあつめ、俗に「おふろうさん」と呼び親しまれ勅命社として千八百余年の由緒をもつ著名の大社であります。
風浪宮外苑の一隅に阿曇磯良丸を祀る社があります。
磯良丸は、干珠満珠をもって皇后に従い船団の海上指揮をとった航海熟達の海士で風浪宮初代神官としてこの地にとどまり代々その後を襲ぎ現宮司を以って第六十七代を数える一系であります。
磯良丸に仕えた船頭のうち七名も此地に生業を得て当時の船名(興賀丸、六郎丸、古賀丸、石橋丸、徳丸)を襲ぎ宮乙名と称して恒例の神事に奉仕します。磯良丸は海洋族の酋長として、当時大陸との交易により大陸文化を導入し日本の農業、工業基他全般の産業を興して日本開国の基を築き、ここ大川の地の木工産業発祥の守護神として信仰されております。
今日船名に「××丸」と丸を附するのは磯良丸の丸に起因するものであります。
とりあえず三社をご覧頂きましたが、安曇宮司が神職を務める志賀海神社に安曇磯羅が祀られていないはずはありませんし、志賀海神社の参道を真っすぐ南に伸 ばすと大川風浪宮の正殿(元宮があったと思われる隣接する旧社地)を貫く、と、安曇宮司(風浪宮)ご自身も言われていましたので、この二社と百嶋先生が安 曇磯羅を祀ると言われた住吉神社の祭神を見ても大きなバラつきがあることがお分かりになったと思います。
しかし、大川風浪宮の少童命(二人は女神)の意味が解読できておらず実態を掴めないでいるのが実情です。
ただ、大川風浪宮にしてもどうも安曇磯羅は門番の様に立っており、別途、阿曇磯良丸を祀る社があることからすれば、やはり、磯羅=表筒男命は住吉の神の臣下と考えて良いように思えます。
ここでは触れませんが、はるかに年上でも、中筒男命=第10代崇神天皇(博多の住吉神社の祭神)も高良玉垂命、神功皇后ご夫婦にとっては遥かに格下の(しかし遥かに年かさの)臣下だったと言われていましたので、当方は安曇磯羅=表筒男命は高良玉垂命ではないとしておきたいと思います。
大川風浪宮に関しては、少童命の実体が掴めないでいるため一応保留しますが、初見以来、相殿御祭神とされている息長垂姫命、住吉大神命、高良玉垂命が本来の祭神であり、風浪宮では、元々、初代住吉神=ウガヤフキアエズノミコトを祀っていたのではないかと考えています。
ただ、大川風浪宮には幸神なる神が祀られており、それが高良大社下宮の右殿の神第8代孝元天皇(高良玉垂命の父神)=幸神であることから、ウガヤフキアエズノミコトか孝元天皇であろうとしておきます。
また、志賀海神社については、本来の祭神が入れ替えられていると考えています。
最後に大阪住吉大社について概括しておきます。
百嶋先生からも“こちらの神社は底筒男命を祀る本物の住吉様”との話を聴いています(大阪の「打上神社」も高良玉垂命を祀るものとして重要ですが今回は取上げません)。
④大阪住吉大社
祭神底筒男命(そこつつのをのみこと)第一本宮に祀られている神様。中筒男命(なかつつのをのみこと)第二本宮に祀られている神様。表筒男命(うわつつのをのみこと)第三本宮に祀られている神様。息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)[神功皇后(じんぐうこうごう)]第四本宮に祀られている。
底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を合わせ住吉大神と呼ばれているようである。
由緒、神徳 神功皇后が新羅遠征を行ったとき、住吉大神が現れ、その加護により大いに国威を発揮したため、戦勝と海上交通安全を祈って住吉大神を田裳見宿禰(たもみのすくね)に祀らせたという。これがこの神社の創始とされているようである。
後に、神功皇后自身も『私も大神と一緒に住む』といって祭神に加えられたといわれている。住吉大社は氏神としての性格を持っておらず、従って、太古の昔から朝廷との関わりが深かったという。
住吉大神は禊祓(みそぎはらい)の神格をもって出現したとされており、神道で重要な『お祓い』を司る神とされている。また、海上安全の守護神、和歌の神とされており、産業、文化、貿易の祖神として信仰されているようである。
神徳は上述のように、漠然とした分かり難いものから、具体的に分かり易いものまで多岐にわたっている。お祓いの神様というのも我々素人にとって何となくつかみ所がないような印象を受ける。
公式HPがないため「古墳のある街並みから」というサイトから引用させて頂きました。
当方は、10年ほど前に実見していますが、このサイトでも取り上げられている様に、四殿四神で男女の千木がきちんと区別されているのが印象的でした。
面白いのは、“後に、神功皇后自身も『私も大神と一緒に住む』といって祭神に加えられたといわれている。”という話ですが、無論、底筒男命は高良玉垂命であり神功皇后と後に夫婦となったのですから、その事実を側面から証明した証言とも言えそうです。
勿論、その『私も大神と一緒に住む』とした舞台は当然にも九州であり、百嶋由一郎氏は福岡県那珂川町の裂田神社において高良玉垂命となる前の若きワカヤマトネコヒコと仲哀死後の神功皇后が暮らしたと言われていました。
関心をお持ちの方は「ひもろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 015 天御中主神社が福岡県那珂川町片縄に現存する 017 那珂川町に「天御中主神社」が存在する訳 018 「日本書紀」の裂田の溝(サクタノウナデ)“裂田神社に神功皇后と一緒にいたのは誰か?”…をお読み下さい。
ただし、「三男月神底筒男ノ尊 皇后、夫婦トナリ玉フ、」の三男は実際には兄弟ではないため、彦火々出見=山幸彦 その子であるウガヤフキアエズ 安曇磯羅=表筒男命の流れが嫡男としての地位を確保するための工作と読むべきとされていましたのでクレグレもご注意を。
余白がありますので、最後の嫡男日神ノ垂迹表筒男尊…ですが、インデックスには豊姫と夫婦となりと書かれています。
この点についてはかなりの長文になりますが、久留米地名研究会のHPから「淀姫」をお読みください。
右の「宮神秘書」の切れた部分以降は、「表筒男尊ハ、皇后の御妹豊姫ト夫婦ナリ、此御子ヲハ、大祝日徃子尊ト申也、此ノ底筒男尊 同表筒男ノ尊二人ハ、皇后ト友如皇宮ヲハシマス、三男月神ノ垂迹底筒男尊、皇宮ニ住玉フ間、位ヲスヘリ、…と書かれています。
この部分は事実であったのか、それとも格式が低いウガヤ系(山幸系)がフレーム・アップしたものか判別は着きません(百嶋先生にはお分かりだったのでしょうが)。
ただ、神功皇后の妹である豊(ユタ)姫を妃としていることから、神功皇后を経由して考えれば義理の兄弟にはなるわけで、もしかしたら安曇磯羅が高良玉垂命から実質的な兄弟(義兄弟)として優遇されていた可能性があることはあながち否定もできないのです。
さて、「宮神秘書」には神功皇后の二人の妹の一人が宝満大(ホオリ=「宮神秘書」では略字が使われており記載できません)に、一人が川上大明神トナリ玉フとしています。
これだけならば穏やかなのですが、百嶋最終系譜では、この豊姫は逆賊河上タケルの妹だったとしているのです。
「淀姫」ではそこまで踏み込んで書いていますが、まだ、謎は解けません。
234 日之影町見立渓谷から山上楽園へ ② “売れない針葉樹林地に火を掛けろ”
20150814
久留米地名研究会 古川 清久
この写真は 233 日之影町見立渓谷から山上楽園へ ① で取上げた見立渓谷へと入る県道6号線を進む途上で見掛けた現場を写したものです。
針葉樹が切り出されたばかりの造林地(上)と放置され自然林が復活し始めた旧造林地(下)
宮崎県下の土砂災害の全貌
以下は2006年に「有明海諫早湾干拓リポート」として「環境問題を考える」のサブ・サイトに連載されたものですが、なお、意味を失っていないと考えられるので再掲するものです。
154 針葉樹林大崩壊(宮崎県内の全ての川が土砂で埋まる)
県北では高千穂鉄道が運行停止状態に陥った(既に一年が経過している)事に象徴されるように、高千穂町岩戸地区、椎葉村 上椎葉、栂尾地区、諸塚村、旧南郷村松の内地区、旧西郷村塚原村上下流域で顕著です。特に、旧西郷村塚原ダム上流の竹の八重地区の対岸では、巾一五〇メー トル、高低差三〇〇メートル、ダム下流五〇〇メートル地点では、巾三〇〇メートル、高低差二七〇メートルという想像を絶する巨大崩落が起きています。
県南では、山之口町の国道269号線沿いで、また、宮崎市の南に位置する田野町の 鰐塚山北側斜面で巾一五〇メートル、延長二七〇メートルで崩落が起こり、五〇センチ級の売れもしない杉もろとも土砂が押し流され、無意味な施設でしかな かった「鰐塚渓谷いこいの広場」が渓谷もろとも大規模に埋まってしまったのです。もはや、林政の恥知らずも極限まで到達した感じがします。
信じ難いことですが、ここには推定で五〇〇万立方メートルという凄まじい土砂が流れ出し堆積していると言われています。これは過積載の大 型ダンプが一度に運び出せる土石の量が五立方メートル程度ですから、百台で一万回という考えられない数字になります。恐らく処分場もないでしょうが、搬送 するにしても、一日一〇回程度と考えれば、フル稼働で一〇〇〇日、三年はかかり、後追いの新たな災害の発生を考えれば、ほぼ、処理する事が不可能な規模に なります。凡そ、県営クラスの大型ダムの容量に匹敵しますので、まあ、当局も搬出は諦めていることでしょう。現在は、パチンコの玉詰まりのように河川邂逅 部で、ある程度堆積しているのでしょうが、これが全量流れ出したとしたら、川が、深さニメートル、巾一〇メートル埋まったとして、一メートルで二〇立方 メートル、一キロで二万立方メートル、その二五〇倍、実に延長二五〇キロ分の土石の量が後に控えている事になるのです。
"宮崎県内の全ての川が土砂で埋まる"というタイトルが決して誇張ではない事がお分かりになるでしょう。しかも、崩壊個所はここだけではないのです。田野町の鰐塚山北側斜面は、全体のほんの一部でしかないのです。
今、考えれば、私達が足早に通り抜けたルートは、まだまだ、比較的被害の小さな場所だった事が分ります。これが国の宝と称せられた数十年にわたる拡大造林のもたらしたものなのです。まさに、過剰供給の飫肥杉に火を着けろ!火を掛けろ!です。
全文をお読みになりたい方は154 針葉樹林大崩壊(宮崎県内の全ての川が土砂で埋まる)をネット上で探して下さい。画像と共に空恐ろしい実体が把握できると思います。
良く、“山の木をみだりに切ってはならない…洪水が起こる…”と言われるのですが、崩壊し土壌を喪失した造林地にまで再び針葉樹の苗を植えさせるという奇行が行われるのですが、この背景にも官僚どもの無知に基づく開き直りと補助金へのあやかりが見て取れます。
前掲の上の写真は売れないまでも伐採処分された造林地であり、下のそれはもはや植林を放棄し自然林(雑木林)が再生し始めた旧造林地なのです。
木を切るな!の罵声にも関わらず放棄された造林地が増えているのが実情で、苦労して植林しても木は売れない、間伐、枝打ちも森林組合などに委託すれば金を注ぎ込まされ回収できない…という実態を経験した地主達がもうコリゴリと続出しているからなのです。
売れない針葉樹をこのような傾斜地に載せ続けている事の方がよほど危険極まりないものであって、伐採され陽が入り、数年を待たずして最低限の覆いが掛けられ三十年もすれば元の二次林が再生し、初めて土砂の流出が止まるのです。
売れもしない急傾斜の造林地からは土壌の流出は止まらないのであり、いずれ歯槽膿漏と同様に地山がそのまま崩れ落ちる事になるのです。
これが、大笑いの“山の木をみだりに切ってはならない…洪水が起こる…”の実情であり、苦労して植林し手を入れ続けた杉、桧が全く金にならなかった事に懲りるだけ懲りた結果が伐採後の放置林の激増なのです。
このように経済原則が貫徹することを持って、ようやく再生林の増大が始り、河川への土砂の流入に歯止めが掛る事になるのです。
豊かな川に土砂を押し流し続けた「拡大造林政策」の延長上に胡坐をかき暴利をむさぼった林野行政でしたが、この放置林地の造化傾向には歯止めが掛けられないはずなのです。
林野行政関係者には、なお、“針葉樹と広葉樹の保水力に差はない!“などと強弁する方がおられますが、その実験に使用された造林地の土壌そのものも数百年の時の流れを経て広葉樹の森が培った自然林を伐開し数十年維持された造林地での実験だった事を忘れてはならないのです。
20150815
久留米地名研究会 古川 清久
大峡谷の底を流れる残された清流の崖の上には楽園があった(上)大菅集落(下)
日向の高千穂と言えば神話の故郷として知らぬ人のないものですが、訪れた方はご存知の通り、町全体が断崖絶壁の上に成立しています。
ひところ前までは、一旦は谷底まで降り、険しい坂を登りつめようやく目的地にたどり着いていたのですが、今や、十数戸しかないような小集落にも大橋梁が掛けられ、秘境としての神秘性も神聖性も失われつつあるように思います。
と、言ってもそれは外部の人間の傲慢さでしかなく、僻陬の地に生まれ育った人には有難い事この上ないのであり、“何を言っているんだ”と直ちに抗議されることでしょう。
しかし、仮に十数戸の人々に、その大橋梁の建設費の十分の一どころか百分の一も分配するから移住して欲しいと提案すれば、住宅は元より、農地から墓地まで整理して大半が移住を決断される事になるでしょう。
それは、ほとんどが高齢化した限界集落予備軍とでも言うべきものでもあるからです。
簡単に言えば、何百億も掛けて大橋梁を建設するか、何億かで集落の移転を促進するかの選択になるのですが、その判断はこの山上集落の意味を考えた後にする事にしましょう。
仮に高地性集落と言えば別の意味になりますし、外に適当なものも無い事から山上集落としておきますが、言っている意味はお分かりになったと思います。
では、何故、彼らの御先祖様達はこのような山上高地に住む事を選択したのでしょうか?
二十歳の時に初めて高千穂に入った時以来の課題でした。
勿論、このような山岳地帯の上部に好んで住む理由は安全性でしかなく、「続日本紀」元明天皇和銅元(708)年 に「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して百日自首せねば、また罪すること初めのごとくせよ」…
とあるように、古代から、険しい政争に敗れた敗残者や政治犯の多くが人の寄りつかない山奥の小平地に自らの生き延びる土地を求めたと理解してきました。
この後に落人と呼ばれる一群の人々は、単に平家の落人に止まらず、物部氏の残党、奈良麻呂の変、南北朝争乱期の残党から多くの人々が追手から逃れるために峻険な地を目指したはずなのです。
勿論、それとは別に、戦乱を逃れ、また重税を逃れ、さらには自由を求めて、多くの人々がある種の難民として山上楽園を目指したと考えてきました。
ただし、これは一般論としての話であり、そのまま高千穂周辺に充てて良いかは分かりません。
ここから、この高千穂、日之影の話しに引き戻したいのですが、そのような基本的な理解を受け容れた上で、それで良いかと言えばそうとも言えず、疑問とも一抹の不安とも言うべきものが残っていました。
政争を逃れるにせよ戦乱を避けたにせよ、その必要性は長くても数世代に過ぎず、いずれは通常の民に還元してしまうはずであり、好んで条件の悪い地に住む必要はないのではないかと思うのです。
一つは、まず、生存資源を得るためには穀物の生産量が得られる場所が必要になります。
そう考えれば直ちに分かるのですが、日照量が半減する谷底に住む必然性は全くなく、水さえ得られれば、断然、山上に住むべきであり、むしろ好んで住み着いているとも言えるのです。
逆に言えば、山上こそが安全な一等地であり、谷底とは単なる交易地や物流の中継基地に過ぎないのでした。
ここから話が飛びますが、高千穂、日之影の大峡谷を免じて許して頂くことにしましょう。
二つは百嶋由一郎氏言われていた事なのですが、この高千穂の地の特殊性とも言うべきもので、天孫族が降臨する以前、この地(古くは三田井)は、島原半島から有明海東岸の熊本、阿蘇と併せて高木大神(高御産巣日神)
の領域だったと言われていたのです。
してみると、元々、無人で未開の地があったのではなく、それなりの支配者はいたはずであり、その人々がどこにどのような神や神々を祀っていたのかを調べる必要が出て来たのです。
このことなくしてはこの山上楽園にどのような民族、氏族が住み着き、どの順番で入って来たのかは分からないのです。
そこで、ひとまず結論を先送りにして、どのような神々が祀られているのかを少しずつ調べて行くことにしたいと思うのです。
高千穂神社や天岩戸神社は何度も足を運んでいますし、どなたも訪れておられるはずですので、この際省くとして、ようやくこの川遊びから離れて高千穂、日之影のフィールド・ワークに入る事が出来るようになりました。
分かっていたつもりではいたのですが、実際に大峡谷の底で最も深い淵に潜ることしか考えておらず、この吐の内の集落の上にこれほどの戸数の集落があるとは考えてはいませんでした。
直ぐ裏側にも見立を越える大峡谷があり、鹿川(シシカワ)神楽で知られた鹿川の大集落があるにも関わらずです。
神社を調べれば、谷底と山上集落の違いは自ずと明らかになるはずであり、今回はそのための第一歩でした。
その切っ掛けとなったのは農水省によって破壊された川に対する憧れが最終的に破壊されたからでした。
今でも、ダムの上流などに清流は残されています。しかし、そういった上流の川は水温が低く泳げません。
清流でなおかつ泳ぐのに適した川はほんの僅かしか残されていません。たまにでも尺鮎と一緒に泳げるような豊かな川を破壊した林野庁には怒りしか感じられません。
彼らの悪業のおかげで日之影の山上楽園に気付き、この地の神々に目が向いたのは、どうやら彼らのおかげだったようです。
236 日之影町見立渓谷から山上楽園へ ④ 大菅集落の大菅神社
20150815
久留米地名研究会 古川 清久
大菅神社
吐の内の上に大菅という集落があり大菅小学校があることは知っていました。その集落名からも、菅原系の神社があり、それを奉祭する氏族があるだろうことはある程度想像していました。
しかし、吐の内橋を渡り登り切った交差点のすぐ上にその神社が鎮座しているとまでは思いもしませんでした。
神社の境内には由緒書もなく良く手入れされた境内に掃除の行き届いた社殿があっただけです。
このような場合には墓に行きどのような姓の家がありどのような家紋を使用しているかといった事を見て回り、寺があるのならばその寺がどのような宗派であるかといった事を見るのですが、今の段階では日之影、高千穂全域の神社を見る事が優先されます。
ただ、正直なところ大菅神社、菅原神社、老松神社、天満宮、天神神社、埴安神社…の区別が未だに着いていないのです。
菅神社、須賀神社…がスサノウを主祭神としていることは承知しているのですが、大菅が何かは不明です。
神紋の梅鉢からは普通の天満宮以上のものとは思えません。
百嶋先生からは、“菅公はスサノウの系統と豊玉彦の系統の両方の血筋を受け継いでおられましたが、逆賊のスサノウ(その一流のナガスネヒコ)ではなくヤタガラスの系統である事を表に出しておいででした。”と言った趣旨の話をされていました。
まず、全国に数多くの天満宮とか天神様といったものがあることは皆さんご存知のとおりです。
また、道真が亡くなったとされた後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、藤原清貫などが死んだことから、道真の祟りとして多くの天満宮が創られたとも言われます。
その際に新たに創られた神社もあるはずですが、全ての天満宮、天神様が始めから道真を祀っていたとは到底思えないのです。
問題は、大菅神社、菅原神社、老松神社、天満宮、天神神社、埴安神社…が各々どちらの氏族(民族)を反映しているのかが分からないのです。
恐らく、百嶋先生はお分かりだったと思うのですが、まだ、文字資料などで確認する事ができないでいます。
ただ、スサノウ→ナガスネヒコの系統(アーリア系)とヤタガラスの系統(ヘブライ系白族)には各々の異なる特徴があるはずで、知見の絶対量を高める事によってある程度の推定は可能になるのではないかとも考えています。
この問題意識を持ったフィールド・ワークはまだ端緒に着いただけで、今後の課題です。
少なくともスサノウは新羅の王子様ですから、伽耶の古霊にいた高木大神とは関係無しとしないことから、高木大神の領域であった時代の痕跡の可能性もあるのかも知れません。このような話は荒唐無稽な事と一蹴されてしまいそうですが、日本最古の姓との説もある興呂木(コオロロギ)姓が高千穂にあるのもその痕跡かも知れないのです。
237 夢の大吊橋と白鳥神社
20150824
久留米地名研究会 古川 清久
九重町の夢の大吊橋
カーナビ検索 大分県玖珠郡九重町大字田野1208番地(これは吊橋へのアクセス)
大分県九重町に夢の大吊橋という人工的に造られた観光地があり多くの人を集めています。
景勝地九酔峡の真上に造られた観光用の人道橋ですが、建設以来900万人が渡ると言う繁盛ぶりで、まずは、産業に乏しい町にとっては救世主のように見えていることでしょう。
九酔渓の険しい道を登りつめ、筌の口温泉などに良く足を向けていたのは十年ほど前まででしたが、個人としてはこのような自然環境に直接的に手を入れる大規模な開発行為を苦々しく思うことから、また、渋滞と人込みを嫌ってこれまで一度も足を向けませんでした。
今回、甥にあたる優秀な青年がやって来て久住に行ってみたい、この吊橋から震動の瀧を見たいとの事から半分は渋々で吊橋を渡る事にしたものです。
従って、この恥ずべき900万人の一人に成り下がったのですが、最終的に渡ることにした理由は橋を渡った北方地区に鎮座する白鳥神社を見たいと思ったからでした。
白鳥神社は大吊橋の駐車場から400メートルもの仰々しい橋を渡り、対岸の北方地区に鎮座しています。
勿論、この吊橋を渡ることなく車でも同社に参拝はできるのですが、温泉目的でしかこの地に足を踏み入れた事はなかったため、今まで訪問した事はありませんでした。
橋にも白鳥神社の幟が飾られ参詣を呼び込んではいるのですが、橋を渡りさらに400メートルを歩き白鳥神社まで足を向ける人はありません。
道路地図には白鳥神社として搭載されていたため十分知ってはいたのですが、それほど大きな神社ではないと侮っていたのです。しかし、実際に現地を踏むと堂々たる社殿が目に飛び込んできました。
白鳥神社と言えば直ぐに民俗学者谷川健一の「白鳥伝説」が頭に浮かびます。
ヤマトタケルと白鳥伝説については多くの論者がそれぞれお書きになっていますので、ここでは触れません。
鹿児島から北部九州、そして畿内から東日本へと延びる冶金、製鉄の流れの中にこの集落も置かれていた時代があったのかも知れません。
白鳥神社参道(上) 同社参拝殿(下)
04 白鳥社の神罰 白鳥社伝説
周囲の山を庭と見立て川の瀬音を静め、夕日をも呼び戻すなど勢力を我が手中にした朝日長者は、何時しか自然の恵みを忘れ去り、したい放題に我侭な暮らしをしていた。
そんなある日、栄華をきわめる長者の跡取りとなる長女に、筑後から婿を向かえて祝宴が行われていた。
一族一門から村人里人と集まるものは数知れず、飲めや唄えの無礼講が十日十夜と続き舞や踊り等様々な余興が出されていたが、その種も尽きてしまい、何か変わった趣向をと考えた長者は、神前を見ると大きな鏡餅が目に付いた。
「そうだ、あれを的にして弓を射ろう」そう考えた長者は配下の者に鏡餅を下ろすよう命じた。
しかし 「餅は神聖なものそれを的にする等とは罰が当りますよ」と一族の者は長者を引き止めたが、今の長者は耳をかす様な人ではなく、神前から鏡餅を引きずり下ろすと的にして弓を引き矢を放った。
すると、矢が餅の中心に刺さった途端に人々の見守る中で、餅は一羽の白い鳥となって空高く飛び立って行った。宴を張っていた皆は不安を感じ てざわめきはじめ「今の鳥は長者の氏神である白鳥神社の使いの鳥ではなかろうか、神が我々を見捨てたのかも知れない」と、一同は酔いもさめ神罰の恐ろしさ におののき、長者一行は身を清め白鳥神社に向った。七日間神社に篭り一心不乱に祈った。
そして満願の日、境内に文字の書かれた一枚の白い羽が舞い落ちて来た。
「今日の日は西の山端にかかるとも明日は照らさむ天の八重雲」此れを見た一同は、やっと愁眉を開き神霊が帰座したと思っていた。
しかしそれは勘違いで、この頃から長者一門は衰運を向え、何時しか長く緩やかな下り坂を転がるかの如く家運は衰退していった。食物を粗末にした白鳥社の神罰であった
羽根に書かれていた文字は、今日の太陽が西に沈み、明日からは厚い雲に覆われた暗い日が続くであろう」
と言う神からの予告であった 人は太陽が照らなければ作物は育たず、食料不足で生きられない
長者は権勢を持ったことで、以前 山も田畑も枯れ、男池で雨乞いをし 自身が苦悩したことも忘れ去り、横暴を振舞った 「親の罰はじきばつ(直罰)、神の罰はじねんばつ(自然罰)」 と言うことわざがある
、親は直接罰するが、神は自然と当人に気付かせるという意味である 権力を持った者は我欲におぼれ、他をないがしろにし全てを思うがままに操ろうとする「弱者を苦しめる者は、我が身を滅ぼす」 神は長者一族に、罰として「これからは人生の暗い日が続くであろう」と告げたのである
餅、それは今も昔も変わりなく、貴重な食品で有りながら「神聖なるもの」と言えるのではないだろうか。
現代でも、正月には欠かせない飾り物であり、祝い事等にも必ず使用されている。
この白鳥社伝説では、餅、即ち食物全てが如何に大事で粗末にしてはならない物かを伝えている。
HP 「大分の伝説 長者伝説・大蛇伝説・湖伝説」 より
そもそも久住高原の長者原という地名は朝日長者と呼ばれる開発王に因むとされています。
白鳥神社もあることから、どうも筑後の匂いがすると思っていましたが、HP「大分の伝説 長者伝説・大蛇伝説・湖伝説」には、
事実、千町無田は明治20年代まで荒地だったそうな。その荒地を開拓したのが旧久留米藩士「青木丑之助」が率いる、筑後川下流域水害被災農家による入植者達だといわれている。
とも書かれています。朝日長者という名は久留米の高良大社の麓の旧参道に置かれた山川町の皇子宮の九人の皇子の二番目の祭神の朝日豊盛命を思わせますし、白鳥神社を奉祭する人々が入っているように見えます。
朝日長者を祀る朝日神社が九重町長者原にもありますので、それを見もしないで書くのも憚られますが、ここでは、白鳥神社の主祭神のヤマトタケルがどのような背景を持った神であるかについて、百嶋由一郎先生の神代系譜から見る事に留めておこうと思います。
ただ、朝日長者社が境内社とされていることからして、権力の移動が二度ほど起こっている様に思えます。
もともと居たのは白鳥神社の奉祭氏族で、後に筑後から入って来た朝日長者の支配を受け、その力が宇佐神宮の勢力によって抑えられた結果、白鳥神社が蘇ったように見えるのです。
祭神の配置がそれを物語っています。
大分である事から応神天皇は着け足しでしょうが、肥後の球磨郡、肥前の東部から筑豊に掛けて目立つ白鳥神社です。この久住連山の高原地帯の一角にも鎮座していたのです。
ここまで思考の暴走を重ねましたが、初めは無謀とも思える仮説を立て、誤りが判明すれば戻るだけの事なのです。失敗を恐れてはなりません。
そう考えた理由はこの白鳥神社の神殿の造りを見たからでした。
ご覧の通り神殿の外に覆いを掛け、直接の風雨を受けない様に設えられているのです。
これまでにも何度か触れましたが、この造り方をするのが筑後物部氏であり、鞘殿(サヤデン)と呼ばれる形式です。
全国的な展開も見せていますが、筑後地方に集中しています。
豊前、豊後でも散見されますが、宇佐神宮のお膝元の百体社にもその痕跡が見とめられます。
百嶋由一郎最終神代系譜
ご覧の通り、スサノウとクシナダヒメという神代史を飾るスーパー・スター同士の間に産まれたナガスネヒコの姉であるオキツヨソタラシヒコメと阿蘇の草部吉見の間に産まれたのが天足彦であり、その子がヤマトタケルになるのです。
スサノウ系=ナガスネヒコ系は神武天皇に弓を曳いた一族であり、そのことがヤマトタケル伝承にも影を落としていますが、ここでは、この認識を持って頂ければ良いのではないかと思います。
火山地帯の一角に白鳥神社=ヤマトタケルを見出すのは合理的ではあり、その子仲哀の子とされる応神別王が併祀されるのも着足しとは言え納得はできるのです。
extra26 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑥ “雑感”
20150219
久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
九州王朝論者には、“倭人=海士族=天族”とのある種固定したイメージがあります。
その思いがあまりにも強過ぎるため、宮地嶽古墳の被葬者の一人とされる勝村大明神、勝頼大明神も海士族の王、もしくは一族と言った評価に陥りがちです。
神功皇后とそれに仕えた海士族の長を祀るとするならば、この二柱と神功皇后の墓なのだ!といった声が上がってもおかしくなさそうですが、それはなく、安曇族の大王の墓との声が上がっています。
しかし、“果たしてそれで良いのか”という疑念が膨らみ続けています。
かつて、古田武彦氏は天族、天孫族の起源を求めて、対馬は小船越の阿麻氐留(アマテル)神社に辿り着きました。
ここを起点に天孫降臨神話の舞台を福岡市の西の日向(ヒナタ)峠とし、神話を歴史に引き戻すことをもって我が九州王朝論にまで発展させたのです。
そしてこの古代史界の注目を一身に集めた九州王朝論は次のステップに進みます。
クグツにより秘かに伝承された九州王朝の宮廷舞の発見に至ったのは、まぎれもなく古田武彦の功績でしょう。
あくまでも個人的にはとお断りしておきますが、現在、その「筑紫舞」が舞われていたという宮地嶽大古墳に何を求めるかを考える時、多くの馬具や長刀といったものと、海士族とがストレートには結びつかないという考えに思い至り、なお、その思いが拡大し続けています。
まず、馬具から得られるイメージをそのまま尊重すれば、それは大陸系の騎馬民族のそれであり、必ずしもバイキング船や八幡(バハン)船の長といったものではありません。
ただし、九州の装飾古墳にも巨大な船が描かれている例が多々ある様に、古墳に葬られた大王が海を支配していた、若しくは海を支配する海士族の長を臣下としていただろうことも確実なのです。
まず、対馬の民族学者永留久恵の「海神と天神 - 対馬の風土と神々」を読んで以来、海士族は海に向かって墓を造る。相島の積石塚(太宰府地名研究会の伊藤正子女史は影塚との指摘も)も含め海士族は沖の小島や岬に葬る(放る=葬るの語源?)と思い続けてきました。
勿論、津屋崎古墳群も宮地嶽巨大古墳も古代の海岸線にあることは間違いがないのですが、その国宝とされた大量の出土品に海士族を思い描くことはできません。
この一点において、宮地嶽神社の被葬者=海士族の大王=安曇磯羅説は行き詰まるのです。
まず、古代史の世界には“倭人は呉太伯の裔”といった定式が存在します。それは多くの大陸側史書に書き留められ続けたものであり、この問題を解決する一つの鍵と言えるように思います。
倭人、倭国は単純な海洋民族国家だったのではないという事です。
この国には、江南から福建、広東にまで展開していた閩粤(ビンエツ)の蛮族というイメージが付きまとうにも関わらず、そこには「秦の始皇帝よりさらに遡る周王朝の末裔なのだ!」という驚きとも憧れとも言うべき思いが込められている様に見えるのです。
つ まり、九州王朝の大王家とは秦の始皇帝どころかそれを上回る中国ナンバー・ワン周王朝の末裔(太伯王)であり、その誉を抱いた呉越の民(ビルマ・タイ系海 人族)が、呉、越の滅亡と共に、何派にも亘り列島に逃げ込んできたのが、倭人の、従って倭国の起源であったと考えられるのです(呉に亡命した太伯王兄弟に ついてはネット上に大量に出てきますので説明は省略します)。
こ のように、担ぎあげられた大王家と担いだ一族(実戦部隊)とは民族も風習も、恐らく言語さえ異なっていたはずであり、単に数名の王族が逃げ込んだだけでは なく、呉(勿論春秋戦国の呉であり「三国志」の呉ではない)には長期にわたって高度な知識や技術を身に付けた学者、文官、技術者、芸術家…が大量に逃げ込 み、さらに列島に雪崩れ込んだのだと考えるのです。
とすると、王族と臣下の属性が異なるとしても、殊更、それらに拘る必要はないのかも知れません。
一応、宮地嶽神社参道線上にある相島(250基の積石塚…)と宮地嶽神社の巨大古墳のその異なる性格とは、臣下とした海と陸の異なる民族、氏族の文化が反映されているものと考えておきたいと思います。
九州王朝の大王家は、海軍は元より海軍陸戦隊も、陸軍は元より、陸軍海上挺進戦隊も持っていたのです。最後になりますが、最近、過剰に持ち上げられている感のある安曇磯羅もどのような属性を持っているかを考えて見たいと思います。
こ れも故百嶋由一郎氏が作成された神代系譜の一つですが、安曇磯羅はウガヤフキアエズの子であり、ウガヤは彦火々出見尊=山幸彦の子であり、山幸彦の父親は 不明ですが(実戦で繋いでいないので注意が必要です)、系統としては高木大神の子であるニニギ尊の流れを汲むものとされています。
高木大神(「古事記」で高御産巣日神、「日本書紀」で高皇産霊尊)は新羅の領域(伽耶の最奥部)にいた言わば新羅系の人ですから、磯羅も単純には江南系の海士族とは言えないように思うのです。
あくまでも百嶋神社考古学ではそのように考えると言うまでの事ですので悪しからず御容赦。
百嶋神代系図(手書き資料データファイル)より
extra27 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑦ “「高良玉垂宮神秘書」では磯羅を玉垂命と別神扱いしている”
20150222
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
玉島川の半証
皇后は針を曲げて釣針をつくり、飯粒を餌にして、裳の糸をとって釣糸にし、河の中の石に登って、釣針を垂れて神意をうかがう占いをして、「私は西の方の財たからの国を求めています。もし事を成すことができるなら、河の魚よ釣針を食え」といわれた。
竿をあげると鮎がかかった。皇后は「珍しい魚だ」といわれた。ときの人はそこを名づけて梅豆羅国めずらのくにという。今、松浦というのはなまったものである。
それでその国の女の人は、四月の上旬になるたびに、針を垂れて年魚あゆをとることが今も絶えない。ただし男は釣っても魚を獲ることができない。
皇后は神の教えがその通りであることを知られて、さらに神祇を祭り、自ら西方を討とうと思われた。そこで神田を定められた。
全現代語訳『日本書紀』(講談社学術文庫)宇治谷 孟
日本書紀 巻第九(神功皇后 摂政前紀)神功皇后気長足姫尊
安曇磯羅=表筒男尊としたら
神功皇后紀に名高い玉島川での鮎釣りの故事ですが、「高良玉垂宮神秘書」には「玉嶋河ニテ、神功皇后 同高良アユヲツリ玉イシ時、サテ、表筒男尊ヲハシマシツル所ヲカヽミ山トハ申ナリ」とあります。
まず、神功皇后と高良玉垂命が夫婦であることは元より、一緒にアユ釣りをしていたという話も伏せられていますが、そう書かれている以上、普通に考えれば表筒男尊は高良玉垂命=底筒男尊とは同体でもなく、別神(人)であると言えるでしょう。
勿論、百嶋先生は多くの神社伝承を調べ、表筒男尊が安曇磯羅であることを把握されていたのでしょうが、直接的にそう言える証拠のようなものはありません。
「高良玉垂宮神秘書」16pには、安曇磯羅が登場します。
「アントンイソラ ト申ハ、筑前国ニテハ志賀…大明神と申也…」とあります。
「ヒタチノ国ニテハカシマ大明神、ヤマト国ニテ春日大明神ト申也…」は言い過ぎで、海幸彦(草部吉見)の業績を乗っ取ったものでしょうが、一応、志賀は本物の様です。
もう少し分かり易く書いて頂ければと思いますが、これまで生き延びて来た古文書であり、「記」「紀」の暗霧に灯された一筋の光ですから文句は言えません。
志賀大明神ならば、今なお、安曇氏が宮司を務める志賀海神社の祭神としての表筒男尊でも一向におかしくないのですから。
最後に、「高良玉垂宮神秘書」では、安曇磯羅をアントンイソラと書いています。安曇はまさにアントンと読めますが、ここにはこの一族が遠く中近東から流れて来た海神族であることを伝えている様にも思えます。ローマの皇帝もアントン、アントニーでしたね。
倭の五王ならぬ大秦国=ローマの五賢帝は、ネルバ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウスピウス、マルクスアウレリウス・アントニウスでしたね!
ここから先は「ひもろぎ逍遥」にお任せしておきます。
中身が非常に濃くなっていますので、ここで留めておきますので、「古事記」が描く古代史とは全く異なる古代を見せてくれる貴重極まりない「高良玉垂宮神秘書」に可能な限り目を向けて下さい。
extra28 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑧ “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(上)”
20150222
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「宮地嶽神社と安曇磯羅」というテーマで雲を掴むような話を書いてきましたが、ここで、この神社に対する現時点での評価を推定も交え概括しておきたいと思います。
まず、全国に3000社近く存在すると言う宮地嶽神社の総本山という事実があることから、全国津々浦々にその神威が広がったことの背景に古代から海人族が奉祭していた事が見て取れます。
このことは、単に現地の伝承といったものからも見て取れるのですが、宮地嶽神社の境内に残る元宮から西へと一線として延びる参道ラインは相島(新宮町)の250基に上る多くの積石塚群のある点に延びており、定まった時期に正確に太陽が沈んでいく事からも推定できるところです。
一方、宮地嶽神社の奥の院とも言うべきハート・ランドに置かれた不動神社には、5メートルを超す巨石を組み合わせて造られた全長23メートルという大規模な石室を持つ古墳があるのですが、ここからは、馬具、刀装具・瑠璃玉など300点の副葬品(玄室外から出土)が発見され、うち10数点が重要国宝に指定されるという、まさに大王級の墓なのです(宗像徳善の君とか臣下の墓などチャンチャラ可笑しい)。
さらに、幻の宮廷舞とも言われる「筑紫舞」や「筑紫神舞」が、今尚、舞われ続けているのです。
特に「筑紫舞」は宮地嶽古墳の玄室(岩屋=不動洞窟)において謎の芸能集団クグツにより秘かに伝えられていたことが古代史研究者の古田武彦氏によって明らかにされた事は、尚、記憶に新しい事です。
現在、この舞は神社の努力により復興され、幻の宮廷舞「筑紫舞」、「筑紫神舞」として毎年10月22日に本殿正面で奉納され続けています。
これらの舞の存在は、弥生時代より3~4世紀に掛けて(実際には8世紀初頭まで)北部九州を中心とした非常に大きな文化とそれを支える大きな権力が存在したことを証明するものでしょう。
これらの事だけからも、この神社が単に海を支配した海士族、海神族のものだけではなく、陸をも支配した大王のものであった事が見て取れるのです。
さて、ここまでは言わば物証の伴う推定ですが、以後は思考の冒険とも言うべき領域であり、限られた情報から神社の性格を読みとる作業になります。
まず、宮地嶽神社と言う社名ですが、一般的に「嶽」が付されたものにはそれだけで山岳修験や神仏習合を思わせ、仏教も呑み込んだ古代の神道の流れを見て取ることができます。
このことからも、宮地嶽神社が単なる海人族の神社ではないと言えるのですが、まず、同社のシンボルとも言うべき三階松の神紋に目が行きます。
この三階松は、時折、老松神社などでも見掛けるものですが、「松」に象徴されるものの古層には中国ナンバー・ワン周王朝の一族の姓である「姫」が見えてくるのです。
「倭(倭人)は呉の太伯の裔」とは、多くの中国系史書(「翰苑」「魏略」「梁書」「史記」…)に認められ一般にも良く知られるところですが、この姫氏が後には「木」「紀」を姓とし、宮地嶽神社とも最も関係が深いと考えている久留米市の高良大社に残る「高良玉垂宮神秘書」でも高良の一族は「紀」を姓としたことが書き留められています。
これは、古代史研究者の内倉武久氏の言うところですが、松、松野、松原、松木、松尾…といった多くの松を冠する氏族には、紀氏の後裔としての誉れ(松=木+公 キミ=つまり姫氏)が伝えられており、今となっては意識されてはいないものの「姓」やその紋章として留められていると考えられるのです。
そして、この栄えある三代連続した紀氏の流れを象徴しているのが三階松であり、「九州王朝でも第7代孝霊、第8代孝元、第9代開化として表現された紀氏系の正統皇統九州王朝の大王の流れである」としたのは旧草ケ江神代史研究会の後期の主宰であった故百嶋由一郎氏でした。
勿論、何故か都合が良いように初代神武(カムヤマトイワレヒコ)だけを除き、第2代から第9代までの天皇は元より、北部九州に多くの伝承を残している神功皇后さえも全て架空としているのが国史学会の通説である事は承知の上で申上げているのですが、それこそが九州王朝の正統皇統(初代神武、第4代懿徳を含め第16代仁徳で最後となる九州王朝の天皇)に、後に近畿大和王朝の重要な臣下となって行く事となった祖神に、別王、贈王として天皇に仕立てて挿入したのが、藤原が捏造した架空の神代系譜だった!としたのも故百嶋氏でした。
このため、正しい古代史像を掴むには、「古事記」「日本書紀」によって固定された観念から離脱することが必要とされるのですが、それは、通説から独立した思考を追求し続けているとする九州王朝論者に於いてさえもままならぬものであり、哀れな事ですが利権集団と化した学会通説のプロの学者には期待すべくもなく、今後とも我々の手で追求し続けて行かなければ開けてこない苦難の道と言えるでしょう。
extra29 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑨ “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(中)”
20150223
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「ひぼろぎ逍遥」159 秦の始皇帝と市杵島姫 においてこのように書いています。
奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。
秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、
1. 【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した
と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。
ところが、この秦の始皇帝嬴(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがい日本のというより直ぐ近くにいるのです。
宗像大社の瀛津嶋姫命(イツキシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。
そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。
市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと
筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。
一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。
瀛州(えいしゅう)は、
古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱•方丈)の一つ。
転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。
魏晋南北朝時代の487年から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。
では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。
これについても百嶋先生はお話をされていました。
古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方に ある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海 から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃ まぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイス ラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年 昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に 行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというとこ ろです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、 アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレ キサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。
相 良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝 第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地がありま す。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに 住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをも らって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観 音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれた うちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右 下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さ んも全く気づかなかったよとおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というのは 日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽神 社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名前 で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなった かというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わないの ですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。
以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより
お分かりいただけたでしょうか?
百嶋先生は漢籍が文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。
紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのですが、彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。
その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し「瀛」を姓としたのでしょう。
ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話です。
この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。
ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこの瀛族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉彦(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。
ただ、瀛氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉彦(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。
一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などでは全くないのです。
日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。
政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。
長々と再掲載しましたが、正確にはスセリ姫=宗像三女神のお一人(瀛津嶋姫命)=市杵島姫は、金山彦と姻戚関係を結んだ大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)の姉の子であるが故に栄えある瀛津嶋姫命という名を頂いているのです。
宗像大社が「古事記」により天照大神とスサノウの誓約(ウケイ)により生まれたなどと妙に格上げされている背景にはこのような事実が存在したからなのですが、では、私達、百嶋神社考古学の立場から主張する隠された宮地嶽神社の本来の祭神、阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)こと高良玉垂命の若き姿を投影したワカヤマトネコヒコとはどのような流れを汲んでいるのでしょうか。
なお、秦の始皇帝と縁組した瀛の一族については「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 069 宮地嶽神社と安曇磯羅 ②“安曇磯羅が祀られているのか? 否!!”を参照して下さい。
簡単に言えば、孔子が褒めそやし、秦の始皇帝に遡る権威を持つ中国ナンバー・ワン周王朝の末裔とした呉の太伯王の流れを汲む大王だったのです。
だからこそ、高良玉垂命に金山彦の流れを汲む瀛(イン)氏も櫛田神社の祭神である白族の大幡主やその子ヤタガラスも阿蘇氏も従ったのであり、宗像族も九州王朝の忠実なる臣下であった大国主命(瀛津嶋姫命=スセリヒメも田心姫=タゴリヒメも共に妃)を頂き神額には「奉助天孫来而為天孫所祭」(天孫を助け奉り天孫に祭られる所と為そうではないか)と書いているのです。
宮地嶽古墳の被葬者が宗像徳善君(天武天皇の妃、尼子娘の父である「胸形君徳善」)と か、それに縁のある豪族などと間の抜けた話をする方(九大=実は国士舘のNなど)などがおられますが、とんでもない酷い誤り(一応意図的ではないとはして おきますが…)であり、宗像族も天孫族(九州王朝)の臣下の一つでしかないのです。なぜならば、「天孫を助け奉り…」と臣下の礼を尽くした天孫こそが呉の 太伯の裔=高良玉垂命の若き姿である第9代開化天皇(ワカヤマトネコヒコ)だからです。
否定されるのは神社の御都合であり、お好きなようにとしか申上げませんが、当方が考える九州王朝の本拠地久留米高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」169pには異国征伐(神功皇后の三韓征伐のこと)時三百七十五人ノ神立が書き留められていますが、中級以下の神として大国主も書かれているのです。
このように、天孫たる九州王朝は大国主も臣下としていたのであり、その大国主を入り婿として受け容れ姻戚関係を結んだ宗像族だからこそ、本殿の千木は男神であることを示しているのです。繰り返しになりますが、宗像大社の巨大な神額に残された「奉助天孫来而為天孫所祭」との十文字は、天孫への帰順と奉仕を宣言し呉の太伯への肖りを高らかに宣言したものだったのです。つまり、宗像は宮地嶽の臣下だったのです。
extra30 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑩ “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(下)”
20150223
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「記」「紀」の系譜や皇別氏族から見ても、第8代孝元、第9代開化天皇周辺と宮地嶽神社との間には何らかの関係があるように思えるのですが、そのように言ったとしても皇別氏族の多く(三分の一)が孝元天皇を出自としていることから、直ちに意味があるようには聞こえないでしょう。
戦後、欠史八代を声高に主張した通説派の学者も、平安時代に於いてさえ第8代孝元から皇別氏族335氏族中108氏族が出自している事を知ると、架空とした天皇から実在する多くの神社関係者など有力氏族が存在することを納得できなくなり、勢いトーンダウンせざるを得なくなってしまうのです。
「記」「紀」も各々バラバラで説明しにくいのですが、「四道将軍」として東西日本の統一に活躍したとした意富(オホ)、和邇、吉備、阿倍の四皇別氏族も神武と欠史八代から派生したのであり、いっそ「記」「紀」は全てでたらめだとでも言えば良いものを思うものです。
「四道将軍」として北陸を制圧したのが、大彦命(実は第9代開化の腹違いの兄)で、連動して東山道、東北南部を征服したのも大彦命の子である武渟川別(?)であり、実はその武渟川別から東北の阿倍氏が出自しているのです。
また、前九年の役で敗れた安倍宗任が太宰府に流されるのですが(「平家物語」)、なぜか宗像氏の配下として筑前大島の統領となり、後の松浦党の一派を形成することになったという話があるのです。
前九年の役
奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(『平家物語』剣巻) 「ウィキペディア」による
安東氏略史
安東氏については安倍貞任の第二子、高星から始まるとされる。父貞任が討たれた後、津軽に流浪し、高星の子の時代に藤崎(青森県南津軽郡藤崎町)を本拠としたという。(一方鎌倉時代、得宗領だった藤崎の地に北条氏の代官として入った「身内人」の一族ではないかという説も出ている。『保暦間記』によれば「安東五郎ト云者。東夷ノ堅メニ義時ガ代官トソ」との記述があるという。)
鎌倉末期に安東氏は一族で争い(津軽大乱)、本拠に残った「上国安東家」と十三湊(とさみなと、北津軽郡市浦町)に拠った「下国安東家」に分裂した。上国安東家のその後は不明である。さらに下国安東家は「(土崎)湊安東家」(秋田市)と「十三湊安東家」に別れる。「十三湊安東家」は南部氏の攻撃により一時蝦夷地に逃れ、(このとき逃れた安東政季の弟が下国家政で「下之国之守護」に任じられたとされる。)本州に戻ったのち、十三湊から檜山(秋田県能代市)に本拠を移し「檜山安東家」となる。この「檜山」「湊」両安東氏が室町時代から並立していくことになり、「檜山」は「安東太郎」、「湊」が「安東二郎」を代々名乗るのである。 戦国時代に入り、両安東氏は互いに争うが、「湊」の家系が絶え、愛季の弟である茂季が養子に入ることで実質的に「檜山」の安東愛季が「湊」「檜山」両安東家を併せ、安東氏(のちの秋田氏)が統一される。しかし、天正十五年(1587)、愛季が死んで幼い実季が跡を継ぐと、天正十六年末頃より、それに乗じて茂季の子である湊(安東)道季が湊氏の独立を画策して戸沢氏など近隣諸豪族と結んで反乱を起こした。この乱は翌十七年に至って大規模な争乱に発展し、実季は一時、男鹿の脇本城でなく守りの堅い檜山安東氏の本拠、檜山古城に退かざるを得ないなど、苦境に陥った。しかし実季側への由利衆らの加勢もあって湊氏の諸勢力を駆逐し、秋田周辺の領域や安東家一族を完全に掌中に収めるに至り、湊安東家の檜山安東家への吸収、安東家の統一を実現した。
しかし、この合戦は豊臣秀吉から「私戦」と見なされ、その弁明のために実季は上洛し秀吉に臣従、領知を安堵されて豊臣大名としての一歩を踏み出した。豊臣政権下では秋田地方の太閤蔵入地の代官に任命され、また朝鮮出兵のための安宅船や伏見作事用の材木を運送するなどの役目を担った。天正十九年(1591)ころより、安東実季は「秋田」姓を名乗り、一族にも「秋田」姓の下賜を行っている。
その後、秋田氏は関ヶ原合戦後の慶長七年(1602)には佐竹氏処分の余波を受けて常陸宍戸への転封を命じられた。そのため、秋田氏一族は「秋田」姓を廃し、先祖である安日(あび)が破れはしたが神武天皇の東征に対して生駒嶽で戦った、という伝承にちなんで「伊駒」姓を名乗った。(のち「秋田」姓に復姓)その後、実季は寛永七年(1630)に伊勢国朝熊へ閉門を命じられた。実季の子、俊季は正保二年(1645)に陸奥三春に移封され、幕末に至った。
「武将列伝」による
十年ほど前から松浦党の主要な一派が阿部氏であったことには気付いていましたが、宮地嶽神社の宮司家が阿部(阿部氏は現櫛田神社宮司)であった事にまで思い至ると、故百嶋由一郎氏が言われていた「宮地嶽神社の元の宮司である阿部さんは開化天皇の御一族…」(ただ大彦命の一族は民族が異なる腹違い)云々の話が真実味を帯びて実感され、一気に古代までフラッシュ・バックするに至った事がありました。
半信半疑ながらも近畿大和朝廷の業績として扱われている「四道将軍」ですが(通説派は第10代贈)崇神天皇さえ疑っているのですから…)、この「四道将軍」も当然ながら九州王朝が派遣した国家統一作業の一環であり、それに強く関わったのが第8代孝元天皇の長子大彦命(第9代開化の腹違いの兄)とその子武渟川別であり、その武渟川別が東北の安倍氏になったのであろうと考えています。
そして、その安倍氏が亡ぼされ、帰順した安倍宗任を九州の安定のために大和朝廷が利用しようとしたのが阿部氏であり、現首相の安倍晋三にも繋がっていると考えているのです。
やっかみ半分の安本美典により不当に中傷された「東日流外三郡誌」問題でしたが、安倍首相の御母堂が「東日流外三郡誌」の和田家に弔問に訪れたとの話を聴くと古代と現代は尚、通底していると感じるところです。
大和朝廷に帰順した東北の安倍氏が、何故、九州に送り込まれたかを改めて思えば、その出自が北部九州の一帯だったと言う事に尽きると考えるのです。
敵をもう一方の敵に向けるのは戦の定道である上に、戦を起こさずに治まるのならばそれを越える策はない訳であり、その四道将軍の末裔の帰還であったが故に、宗像、津屋崎、志賀も全て治まったと考えられるのです。
分かり易く言えば、現在の宮地嶽神社に投影されている神功皇后(現在、実際に祀られているのであり、それ自体は事実として受け容れますが)の継夫であり九州王朝の大王である第9代開化天皇の腹違いの兄である大彦命の長男が阿倍氏の祖となるのであり、三男の布都押優信(佐賀県武雄市の武雄神社主祭神)と山下影姫(佐賀県武雄市朝日町河上の黒尾神社主祭神)の間に生まれたのが武内宿禰(後の葛城一族)となるのです。
宮地嶽神社の元の宮司家である阿部氏も実は四道将軍として東北に送られた阿倍、安藤、安東の一族の帰還だったのであり、もしかしたら十三湊の安東氏も佐賀県唐津市湊から数えて十三番目の湊に展開した九州王朝の一族だったのかも知れません。
安倍宗任という名も、「大和朝廷帰順派として宗像を任せる…」と読めない事はないため多少は気にしていますが、大和朝廷徹底抗戦派であったと言われる安東氏も「アンドン」、「アントン」と読めることから、安曇磯羅の流れを汲むとする事ができるか?については「ひもろぎ逍遥」女史にお任せしたいと思います。
四道将軍
四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。
『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ[1]、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀の人物とされている。『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。
また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。 「ウィキペディア」による
238 山陰土産 ① 夏の終わりの長門、石見、出雲、因幡の神社実見 “長門市境川荒神社”
20150828
久留米地名研究会 古川 清久
「暑さ寒さも彼岸まで」とは良く言ったもので、標高450メートルの日田市天ケ瀬温泉五馬高原にある久留米地名研究会研修所でも日中の外気温が30℃を下回るようになってきました。
朝方には20℃程度まで下がるようになって来ると、いつまでも避暑地に立て籠もっている必要も無くなり、そろそろフィールド・ワークに出たくなりました。
研究会のスケジュールにもある程度の余裕ができたことから、ブログの取材のためにも日本海と山陰の寒村に足を伸ばしたくなり、研修所に居着いた野良猫にも五日間ほどの餌を置いて、島根県へと出かける事にしました。
「山陰土産」という奇妙なタイトルにしたのは少し訳ありで、島崎藤村の随筆に「山陰土産」があります。
志賀直哉の「城崎にて」は知られていますが、島崎藤村も鳥取の三朝温泉に宿を取り「山陰土産」と言う小編を書いています。
以前、三朝温泉の高級ホテル依山楼岩崎に一泊し、三朝館、万翆楼、旅館大橋、斎木別館…と名だたる名旅館、名湯の梯子をした経験があるのですが、それだけでは余りにもつまらないと考え、戻ってきて、せめて「山陰土産」ぐらいは読んでおこうと探したのですが(恐らく熱心な藤村ファンとかも読んでいない方がほとんどではないでしょうか…)、普通の全集には全く搭載されておらず、苦労して探し出して読んでみたものの、あまりにも退屈な随筆で拍子抜けしたのでした。
今考えれば全集に搭載されなかったのも理解できるような気がするのです。
御迷惑でしょうが、その二番煎じをやろうと言うのが今回の思い立ちです。
売店「山陰土産」は、昭和2年、山陰・三朝温泉を舞台に書かれた、島崎藤村著の「山陰土産」から命名いたしました。この紀行文の一節に当時の様子が描写されており、当旅館、依山楼岩崎で過ごした話も描かれております。 ご迷惑かも知れませんが、同ホテルのHPから
依山楼岩崎のような高級ホテルに泊まっていた頃を懐かしく思いますが、今は、自由気ままなホンダ・フィット・シャトルHBを頼りに車中泊で多くの神社を見て回る方が遥かに楽しい事に気付いているのです。
昼食を済ませ、にっくき国土交通省、高速道路公団の売国奴どもにビタ銭一枚払いたくないと普通道(150円の関門トンネルは例外)でのんびり神社調査に出かけたのでした。
夕方6時半には山口県長門市の中心部に入っており、普通は長門湯本温泉の御湯か礼湯の共同浴場に入るのですが、今回は長門市の中心部から西5キロの黄波戸温泉交流センターに入り、そのまま車中泊する事にしました。既に外気温は25度前後で、涼しい風が吹いていましたので、暑さは全く気になりません。
深川湾と言うか仙崎湾の西の山影のような場所で、露天風呂からは沖合に青海島の島影が浮かび、仙崎港、長門市の夜景が映えていました。
翌朝、8時にはある神社に足を踏み入れていました。
長門市を貫く国道191号線の黄波戸温泉入口の道を挟んだ反対側に鎮座しているのが荒神社です。
山陰に多い荒神神社ですが、実はカグツチの神金山彦の一族を祀る神社である事はほとんど知られていません。
社殿は最近改築されたようで小さいものの立派なものでした。
黄波戸は北西風が当たらぬ日本海側では天然の良港であり、海士族が住み着いた所である事は明らかですが、所在地が旧日置町、現長門市日置上にあたります。
この荒神社が日置町だったかまでは確認していませんが(カーナビを詳しく見れば良かったのですが…)、今のところ境川と言う社名からして、旧日置町と旧長門市の日置側だったと考えています。
概して山陰の神社はどこに行っても祭神が表示されていない事が多く、おらずほとんど顔が見えないのですが、ここも、荒神社という社名以外手掛かりがないのです。
その前に、朝一番嬉しく感じた事がありました。
それは、参拝道の階段が古い束石をそのまま再利用し修復されていた事です。
社殿の改築はやむを得ないとしても、コンクリートで固めた施工が目立つ中、きちんと古材を利用し昔の雰囲気がそのまま残されていた事でした。
石が一番強い!と言ったのは司馬遼太郎でしたが、まさにその通りで、風雨にも地震にも道路の振動にも一番強いのは実は不規則な形状の石を並べた施工方法なのです。
もちろん、その背後には石を使う技術があり、裏繰りをきちんとやれる技術があるのです。
一見、強固に見えるコンクリートは、酸性雨にも、ひび割れにも、凍結にも弱く、しばらくすれば割れが入り、数十年を待たずして崩れてしまうのです。
まさに、今だに赤い石州瓦を使う和風建築が多数派を占める山陰と感心したばかりです。
真新しい石段修復工事の名残
まず、カグツチの神=金山彦としましたが、但馬から周防、長門まで山陰にはかなりの数の三宝荒神、荒神神社が数えられます。
一般的に、荒神は神社庁が管理しない(神社扱いしない)神仏混淆の神社が多いとされています。
しかし、熊本市西里の三宝荒神のように、神社庁の管理(庇護)を受けないからこそ流行っている神社もあり、単なる民間信仰と馬鹿に出来ない部分もあるのです。
さて、我が宮地嶽神社にも三宝荒神がありますが、この祭神についても百嶋先生はコメントを残しておられました。
以下をご覧ください。写真は本物中の本物、宮崎の白髭神社の祭神です。荒神様とはカグツチ神=金山彦の事なのです。実は、日置、疋野…という地名からも金山彦の御一族の本願地と言えるのですが、少なくとも三宝荒神とは、金山彦とスサノウの孫と大幡主の孫の大山咋神=佐田大神夫婦の事になるのです。
239 山陰土産 ② 夏の終わりの長門、石見、出雲、因幡の神社実見 “阿武町惣郷の御山神社”
20150828
久留米地名研究会 古川 清久
過去何度となく入っている山陰地方ですが、長い海岸線を踏破する事に追われ、なかなか山間深部に入る事が出来ない事から、最近といってもここ五年程度の事ですが、極力枝葉の山間地域に入る事に努めています。
長門から萩に掛けての海岸線もコンクリートが放り込まれていない地域が比較的多く、まだ気分が悪くならないで走れる貴重な沿岸域ですが、そうは言っても、集落周辺を中心に大量のコンクリート構造物が不必要に放り込まれているのが現状です。
国道191号線と山陰本線(と言っても単線です)が並走するこの地域は人口も少なく、信号など皆無のため快適なドライブができるのです。
萩を過ぎ阿武町に入ると、駅名も奈古=ナゴ、木与=キヨ、宇田郷=ウタ(ごう)、須佐=スサ…と、海士族が付した地名と言うより符合でしかない二音地名が続きます。
その宇田郷を過ぎ惣(ソウ)郷に入ると、尾無(オナシ)という妙な地名の海岸集落に出くわします。
カーナビとは有難いもので、走っていると神宮山、御山神社という組合せを発見し、これは尋常ではないと、急いで引き返すことにしました。
何故とならば、神宮という社号は、余程の大社でなければ付される事はない訳で、現在、神宮を名乗れるものは数社しかない事でも明らかでしょう。
もっとも、それは九州王朝を葬った近畿大和朝廷が仕組んだことで、宇佐神宮であっても、本来は九州王朝の神宮であった事を見逃してはならないのです。
しかし、滅んだ九州王朝の神宮も移動しているのであり、それが、変質したとは言え、大江山を始めとして伊勢神宮に投影されているのです。
しかし、その移動にも中継地はあるはずで、九州王朝は但馬に避退したというテーマで長文を書いてはいるのですが、まだ、公開には至っていません(来年には何とか実現すると思っていますが…)。
しかし、「この辺鄙な…」と言えば失礼ですが、僻陬の地に何故このようなどえらい名の神社、神体山が鎮座しているのか驚くばかりです。
今回は、その驚きだけで書いているため、周辺調査はこれからになります。
まずは、ご覧いただきましょう。
非常に手入れの行き届いた御山神社の参道です
この神社が九州に縁のある神社である事は、この鳥居に掛けられた三つの蛇型の下がりがあるのを見ただけでも直ぐに分かります。
相当古い時代、この地に北部九州のどこからか移動した人々によってこの神社が祀られた事だけは間違いないでしょう。
今回の神社調査でも、最も驚いた一社でした。
今後とも何回か足を運ぶことになりそうな気がしています。
境内には大きな神楽殿が置かれていますので、早くも、来年の神楽の時期に訪問し直に地元の方にお話をお聴きしたいと思っています。
国道から数百メートル登ると、直ぐに鳥居が見えてきました。
同社参拝殿(上)、同社神殿(下)
驚いたのは、神殿に付された五七の桐の神紋でした。
既に、自らの経験からも、百嶋由一郎先生の話からも確信しているのですが、何度もお話して来たように、五七の桐は第9代開化天皇の、三五の桐はお妃の(仲哀は短期間でしかない)神紋だからです。
ただ、注意すべきは、この神紋は、頂いているものであり、直接、両神が祀られている場合と、その傘下で別の神霊が祀られている場合があり、軽々には結論を出すことはできません。
今後とも、丁寧にお話をお聴きしたいと考えているところです。
どう見ても五七の桐の神紋ですね
神殿には五所神社とも、まさか御所のカモフラージュではないでしょうね…
カーナビ検索 山口県阿武町大字惣郷93番地 堀宮司様
どう見ても、7世紀前後に北部九州から入った人々が奉祭った神社に思えるのですが、神殿内部を見せて頂ければ多少見当が着くかも知れません。
この惣郷、尾無の付近には弁天崎(弁天様は勿論宗像大社の市杵島姫ですね)、黒崎岬(これも宗像周辺にも、北九州の黒崎窯業の黒崎でも)、 さらに、一つ西の宇田郷には平原(これがヒラバルと呼ばれているなら凄いのですが、バル地名は九州限定ですのでそううまくは行かないでしょう)という地名 が、その沖には姫島という小島(岩礁)が浮かんでいます。
国東半島沖の姫島かそれとも糸島半島沖の姫島かは判別できませんが、いずれにせよ九州の地名が直ぐに拾えます。東の須佐まで広げれば、沖ノ島、地ノ島という無人島(岩礁)が浮かんでいます。
これが、北九州市の沖に浮かぶ島の名であることは北部九州の方なら直ぐにお分かりになるでしょう。
“同じ地名は全国に幾らもある…”と反論される方は多々おられますが、これだけ多くの地名が対応するという事は、組織的移動が行われた証拠であり、50世代ぐらい前まで遡る御先祖様は九州から新天地を求めておいでになったのではないでしょうか?
参拝殿には三五の桐が…これは神功皇后の神紋であることは既に書きました
あまりに立派な参道のため再度、正面から見て頂きます
お盆過ぎに訪問させて頂いたからかも知れませんが、立派に手入れされた参道は、それだけで、集落のお心持ちとお力とが垣間見られる気がします。
始めてお読みの方はびっくりされると思いますが、久留米の高良大社の「高良玉垂宮神秘書」には、神功皇后と高良玉垂命とは夫婦であるとはっきり書かれています。
詳しくお知りになりたい方は、まず、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の方で、宮地嶽神社に関して書いた12本のブログなどをお読みください。
240 山陰土産 ③ 夏の終わりの長門、石見、出雲、因幡の神社実見 “佐毘賣山神社”
20150828
久留米地名研究会 古川 清久
惣郷と尾無で祀られる御山神社発見の興奮もさめやらぬまま、須佐を抜け、萩を抜け山陰自動車道の無料区間を利用し一気に益田まで移動しました。
いよいよ、島根県でも石見の山間部を中心に神社を見ることにします。
海岸部の神社は粗方見ていますが、まだまだ見ていない神社がゴロゴロ転がっています。
益田の市街地で、山口から入って来た幹線国道の9号線は海岸線を走り浜田に向かいますが、長門から東へと向かう191号線は、逆に山間部に入って行きます。
とりあえず目的地を決めず美都温泉方面に向かい気になった所を随時潰して行くことにします。
191号線を走っていると、益田の市街地から5キロも走った辺りで、佐毘賣山神社の看板が目に入りました。しかも、カーナビを見れば背後の神体山と思しき山の名は比礼振山で、その中腹に同社は鎮座しているようなのです。
近年、佐賀県の唐津市の鏡山の東に比礼振山があり、松浦佐代姫と領巾山の話があることは知られています。
松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、現在の唐津市厳木町にいたとされる豪族の娘。単に佐用姫(さよひめ)とも呼ばれる。弁財天のモデルであり、日本全国にある同様な伝説の本家である。
伝承[編集]
537年、新羅に出征するためこの地を訪れた大伴狭手彦と佐用姫は恋仲となったが、ついに出征のため別れる日が訪れた。佐用姫は鏡山の頂上から領巾(ひれ)を振りながら舟を見送っていたが、別離に耐えられなくなり舟を追って呼子まで行き、加部島で七日七晩泣きはらした末に石になってしまった、という言い伝えがある。万葉集には、この伝説に因んで詠まれた山上憶良の和歌が収録されている。
また肥前国風土記には、同様に狭手彦(さでひこ)と領巾を振りながら別れた弟日姫子(おとひめこ)という娘の話が収録されている。こちらでは、別れた後、狭手彦によく似た男が家に通うようになり、これ が沼の蛇の化身であると正体がわかると沼に引き入れられ死んでしまうという話になっているが、この弟日姫子を佐用姫と同一視し、もう一つの佐用姫伝説とさ れることもある。
20150829(16:30)ウィキペディアによる
万葉集にも佐用姫は登場します。
海原の沖ゆく舟を帰れとか領巾(ヒレ)振らしけむ 松浦(マツラ)佐用姫 (万葉集 巻5-874)
「弁天様のモデル」とウィキペディア氏も書いていますが、百嶋神社考古学では、佐代姫は時代も含め置き換えられた話で、実は宗像大社の市杵島姫を佐代姫とします。
兵庫県姫路市の北西に鎮座する旧佐用町の佐用姫も実は市杵島姫なのです。
佐用都比賣神社さよつひめじんじゃ 兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261
式内社 播磨國佐用郡 佐用都比賣神社 旧県社
御祭神 市杵嶋姫命(狭依毘売命)配祀 素盞嗚尊大國主命誉田別命天児屋根命
兵庫県の佐用町にある。通称は、佐用姫さん。
式内社・佐用都比賣神社に比定されている古社
敬愛するHP「玄松子」による
まずは、社殿をご覧ください。
始めは比礼振山から播磨の佐用神社と市杵島姫を繋ぐものと考えたのですが、大きな間違いでした。
恐らく天台系の山岳修験が関わっている事は蔵王権現の名からも明らかですが、佐毘賣とは、三姫の事で、金山姫、埴山姫、木花咲耶姫の三柱の意味だったのです。
製鉄の国、石見、出雲、因幡、伯耆の事ですから当然ではありますが、何でも八幡神のような権力に尾を振る神社が多い中、歴史の化石の様な、燻銀のような鋭い神社と言うか秘密結社的神社を発見したようです。
「古事記」で波邇夜須毘売神、「日本書紀」で埴山姫(ハニヤマヒメ)、埴山媛、埴安神(ハニヤスノカミ)と記されていることから、埴山姫とは大山祇のお妃の草野姫の事で良いでしょう。
木花咲耶姫も大山祇の次女で大国主の妹になります。
問題は金山姫です。百嶋神代最終系譜によれば、金山彦は埴安媛も越智ノ姫もお妃にされていますので、判別が難しくなります。
ただ、埴安媛では重複しますので、大山祇の妹の越智ノ姫で良いのではないでしょうか。
して見ると、製鉄を絡めて越智族、白族、瀛族がガッチリスクラムを組んだ初期の九州王朝を支えた有力民族(氏族)集団を表現する神社であることが分かるのです。
蔵王権現とも称している事から、その点にも触れておきましょう。
さて、イスラエルの神様は、まず、愛宕地蔵:京都、奈良蔵王権現:奈良・吉野、秋葉権現:浜松、そして八天宮、こういう修験道は全部イスラエル系が握っています。そのようなところにはダビデ王の星が残っています。
牛島稔太のHP「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界
「もう一つの神々の系譜」より
始めは比礼振山から播磨の佐用神社と市 杵島姫を繋ぐものと考えたのですが、大きな間違いでした。と前述しましたが、この一帯には、比礼振という地名ばかりではなく、朝倉集落(朝倉市)があり、 四ツ山(荒尾市にも)城、飯盛山(福岡市にも)…といった地名が拾え、その意味でも九州からの植民、避退、移住…を考える余地が十分あるでしょう。
extra31 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑪ “宮地嶽神社について現在分かる範囲で”
20150225
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 069 宮地嶽神社と安曇磯羅 ② “安曇磯羅が祀られているのか? 否!!”において、同社の祭神が神功皇后ではなく 阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)、藤高麿麻勝村大明神、藤助麿麻勝頼大明神であった事は述べましたが、ネット上でも「筑前國續風土記拾遺」によるとして、HP「古代妄想」氏が以下のように書かれています。
古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。
筑前國續風土記拾遺によると「
中 殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げ られたりと祀る。」とある。藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。 「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である。
塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。
津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。
では、阿部相凾 阿部丞相とは誰の事なのでしょうか?
神功皇后の夫である第14代仲哀天皇とすれば都合が良さそうですが、それならそう書いたはずで、そうではないはずなのです。
ここから先については故百嶋由一郎氏の話になりますが、後の高良玉垂命=ワカヤマトネコヒコは、当時、津屋崎一帯にいたようで、若宮、猫峠、猫塚に名を残している。
「高良玉垂宮神秘書」に書かれるように太宰府四王子山でウガヤフキアエズから三種神器の返還を受けている(これが第二期の本物の住吉神の誕生)。
その後、高良山に登り、「記」「紀」が第9代とする九州王朝の天皇(開化)となった。
つまり、高良玉垂命の誕生です。
ただ、当時の情勢の中で、一時的に母違いの兄である大彦命の阿部姓を使用されていた。それが、「阿部相凾」「阿部丞相」(総理大臣より上)であり、藤大臣(トウノオトド)とも呼ばれていた(玉垂命は藤を好んでおられたことから九州王朝系の神社や仏閣に藤棚が多いのはそれが理由である)。
その高良玉垂命は、仲哀死後の神功皇后と夫婦となられ、以後、死ぬまで(何十年と)共に過ごされた。
では、なぜ、その高良玉垂命が消されているのかですが、白村江の戦いに負けた事によって九州王朝が消滅へと向かい、最終的に九州の宗廟を宇佐八幡宮へと渡す(天平勝宝元年=749年)事により百年を掛けて九州王朝の存在そのものが消されたのだと考えられます。恐らくそれは唐を意識した「日本国」による「倭国」隠しでしょう。
勿論、現在の高良大社には表向きには神功皇后は祀られていません。
ただ、高良大社にも、一部に高良の神とは女神だったとの伝承が残っており、恐らくこれも、一時期、第9代開化天皇を消し、夫婦であった神功皇后をも消す必要性があったからだと考えられますが、最終的には高良玉垂命を武内宿禰とすることを持って解決が図られた(全国的には武内宿禰説が多数派、直近には有馬藩の判断)のです。
福岡県みやま市の旧山川町の山中には、山の神宮と呼ばれる神社があり、表から入ると高良神社だが中に入ると宮地嶽神社いう奇妙な構造になっていると言う話を百嶋先生から聴いています。
これなども、“無理やり分離はしたものの、七夕同様にせめて一年に一度は夫婦を一緒にさせようとしたものではないか”と言った趣旨で話しておられました。
一度、訪問したのですが、当時は良く分からなかったことから、再度、確認したいと思っています。
近畿大和朝廷にとって都合が悪い事は、①対外的には唐王朝に歯向かった倭国と、近畿大和朝廷(日本国)とは全くの別国であるとの国是に反する形跡が在るこ とであり、②外交上その可能性が高い北部九州に於いて栄えある九州王朝の大王とその継承者の痕跡を全て消し去る必要があったはずです。③これが、宮崎県以 外の九州に高良玉垂命を祀る神社が確認できるものの、表玄関の筑前、豊前に存在しない理由かも知れません。また、④対内的には大和朝廷は唐に対しては全力 を上げて戦ったとしつつ、その実、唐と繋がる事を持って漁夫の利を得た氏族も少なからずいたはずで、その系統がその後の権力を左右する事となり、ある神は 隠されある神は持ち上げられ、その事により下剋上も起きたはずで、九州王朝系の旧皇族も藤原の手により賎民へと落とされるものも数多く出たのではないかと考えています。
この点、九州王朝の影響がようやく及び始めた北関東以北にほぼ被差別部落が存在しない事実と対応しているものと考えています。
皇別氏族で考えれば、宇佐神宮の応神と高良玉垂命とが入れ替わった事は明らかであり、それに関連する一族が各々貶められ、成り上がったことは想像に難くないはずで、それらの問題が神社の祭神に影響を与えている事は容易に想像できます。
まず、高良玉垂命が第9代開化天皇であった事、半島にも轟いた名高い神功皇后と夫婦であった事、九州に近畿大和朝廷に先行する古代国家が存在した事、それら一切を消し去ることを持ってようやく奈良を中心とする王権が安心し存続できる基盤が確立したのでした。
そ のため、都合の悪い事はほとんど蓋にされ隠され続けてはいるのですが、九州には、地方の神社縁起、伝承、祭神、神体など、まだまだ不都合な事実が数多く 残っており、それらを容易に見ることができない、見ようともしない役人と化した学者や研究者によって歴史が捻じ曲げられたまま、全く真実に迫れなくなって いるのです。
下 は「追分」で有名な北海道は江差町の江差山車会館に置かれた二隻の船形のヤマ(博多と同じように呼びます)の写真が載る昔のパンフレットですが(故百嶋由 一郎保存)、ここには宮地嶽神社の神紋である三階松をあしらった宮地嶽大明神(恐らくこれが阿部相凾)を乗せる山車と抱き菊の葉に十六葉菊をあしらった神 功皇后の山車(姥神神社HPによると神功山車と説明)が、ある時期、揃って展示されていたのです。
このことだけでも、三階松が神功皇后の神紋でない事が分かるのですが、なにぶん、北海道の江差を踏んだこともないことからこれ以上の説明は保留します。
ただ、北前船が活動していた江戸期までは堂々とまかり通っていた訳で、宮地嶽神社では明治以降、高良大明神と神功皇后との分離が進んだものと思われます。
従って、宮地嶽神社の神体山の頂上の古宮には高良玉垂命(もしくは若きワカヤマトネコヒコ)の痕跡が残され祀られているのではないかと考えています。
勿論、目立つところは分離され、そうでないところは目が行き届かないことから残されるのですが、主祭神として高良玉垂命と神功皇后とが並んで祀られていたところがあります。旧瀬高町(現みやま市)河内の河内玉垂宮(現仁神社)です。
ただ、これについては、つい最近、安置されていた神功皇后の像までがなくなり、現在では高良玉垂命の神紋五七桐と神功皇后の神紋である三五桐が並んで置かれているだけです。
このように時代の流れと政情の変化によって、絶えず祭神、社名、神紋は変わる事を理解しておいて下さい。
変わる事によって全く分からなくなる場合もありますが、逆に我々が予想していた通りだったということが透けて見える場合もあります。
日本人の特性として不味い場合でも神様は粗末にできないという気持ちから、普通は極力残そうとするものなのです。
あとは神社を見る目を鍛える以外古代の深層=真実に迫る方法はないのです。
この資料は2013年1月に宮地嶽神社で予定されて新春神社考古学研究会(久留米地名研究会主催)に向けて故百嶋由一郎先生が準備されていた資料の一部です。
この話をされることなく旅立たれて行きましたが、これについて当方の解釈を加えて説明させて頂きました。
なお、在自山の金毘羅神社には、秦の始皇帝と縁組をした瀛氏の頭領の金山彦が祀られています。
未確認ですが、恐らく元宮もそうだと思います。
これについても、百嶋先生は「第一期の九州王朝を支えたのは金山彦だった」と言われていました。
宮地嶽神社の背後に金山彦が鎮座されていることは、庇護者として背後からの敵(近畿大和朝廷と連動する輩かはたまた新羅か?)を防衛しているように思えるのですが、考え過ぎかも知れません。
ルートが確認できれば、宮地嶽神社に集まり両方の元宮を巡るトレッキングを行っても良いのですが…。
と、ここまで学会通説から外れるどころか、それを批判する九州王朝論者の中でも異端派に入る非古田系の九州王朝論者の説からも大きく離脱した内容で展開してきました。
勿論、これは一過性の作業仮説でしかなく、調査の進展によっては大きく変わる可能性もありますが、現段階で言える事、書き遺しておく必要性のあることを書き留めた演習ノートと考えて下さい。
所詮、何の権威もない神社研究者のはしくれの戯言ですので、対外的な問題が生じるとも思えませんし、大家の先生方の御高説は有難く拝聴したいと考えています。
最後になりますが、少し緩和した内容で、普通の方々にも理解できる宮地嶽神社のアウトラインを描いて見たいと思います。078 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑫ “将来の宮地嶽神社参拝者のために”…に継ぎます。