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extra32 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑫ “未来の宮地嶽神社参拝者のために”

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extra32 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑫ “未来の宮地嶽神社参拝者のために”

20150228

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


宮地嶽神社は、今なお、九州でも二番目に多い参拝客が訪れる神社として知られています。

 一方、神社に何かを求めて訪れる若い人が増えている事も確かです。


無題.png

20111022日「筑紫舞」


し かし、多くの神社を巡る若者が増えているとしても、正月の三社詣や真剣にお願いするとなると、やはり、自分達の父祖の代から培われた一族の記憶の様なもの が働き、亡くなったおばあちゃんが自分の安産を願って何度も通った神社とか、南方に出征する前におじいちゃんとおばあちゃんと二人で武運長久を願って参詣 に訪れた神社といったものに自然とその足は向かうものです。

 一般の人が神社への足が遠のいたと言われて久しいのですが、逆に、社会の変化が速過ぎ、将来が全く見通せなくなればなるほどその傾向も強まり、やはり、父祖の代から崇拝し願ってきた神社へと頼ろうとするとも言えるでしょう。

 宮地嶽神社について以前から思っていたことを述べたいと思います。

私 は、佐賀県の西方にある小都市に住んでいたのですが、子供のころから「宮地嶽神社」というお守りの存在が不思議でなりませんでした。バスに乗っても、タク シーに乗っても、トラックに乗っても、何故か「地獄」(もちろん違うのですが)と書かれた神社の御札が運転席に置かれているのが不思議でした。

身近にその神社の存在が実感できなかった事から、何か特殊なしくみが背後に存在しているのではないかとさえ考えていたものでした。

 勿論、時代と共に、崇められ信じられる神社や寺は変わり移ろい行くものですが、一時的な流行り廃りといったものとは別に、ある種、氏族(民族)の記憶といったものに関わる基層となった信仰心というものは容易に動かすことが出来ないような気がしています。

  それは、国家の威信と民族の存亡を掛けて闘われた古代の戦いに関わるものであり、勝利者である新たな権力者に屈服し従いはしていても、それは、所詮、面従 腹背でしかなく、民衆はそれを事あるごとに何らかの形で子孫に伝え、「あの神さんは自分達の神さんじゃなか…」「あの神さんは羽振りの良かけどうちらの神 さんはこっちじゃけんこそっとお賽銭ば増やしとかんば申し訳なか…」といった伝承が永い時の流れの中では効いてくるように思えるのです。

 なぜならば、神社への参詣とは、完全に「ヤラセ」なしで行われる全員参加型「住民投票」であるからです。

 古代に於いて、民族の存亡に関わるほどの大敗北にも関わらず、その戦の先頭に立ち、雄々しく闘い散っていった先祖の霊を鎮めるべくその役目を負わされた神社がこの宮地嶽神社だったのではないかと考えるのです。

 言うまでもなく、その戦いとは一連の半島を巡る何派にも亘る戦争であり、その延長上に行われた最後の死闘が「白江戦」=「白村江の闘い」だったのです。

 一方、蒙古襲来と言われる、文永の役、弘安の役は明らかな祖国防衛戦争でした。

 その時代の迎撃のための参謀本部は愛宕神社から太宰府辺りであったと推定されているのでしょう。

一方、秀吉による文禄・慶長の役は、既に半島への足掛かりも手掛かりもない全くの外地への侵略戦争でした。ただ、その戦いは先行する蒙古襲来への報復戦争という側面も否定できません。

何故ならば、モンゴル兵は将官クラスとして一握りの指揮者が居ただけであり、江南軍は始めから戦意が乏しく、実態としては、大半朝鮮半島の軍隊が主敵だったからです。

 ここで、「白江戦」を考えると、そもそも列島の人々とは、紀元前後に中国大陸や半島から国を追われ、国を失い、土地を奪われ、命からがら追われ続けてこの列島へと辿り着いた人々だったからです。

 いわば、当時の半島は、決して、居留地や租借地(倭館)といったものではなく、現に同族が住む先祖の墓が残された古地であり、祖国回復戦争の色彩を帯びたものだったのです。

この自らの同族の救出に向かう一連の半島作戦の先頭に立ったものこそ神功皇后であり、その臣下とされる二人の子だったのです。

そもそも、子は応神天皇だけと教えられているのですが、実は、仲哀天皇死後に一緒になられた方がおられるのです。

実はそれこそが、高良大社の祭神である高良玉垂命その人なのです。

事実、高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」は「古事記」「日本書紀」と全く相容れない内容を持っており、「高良玉垂の命は神功皇后と夫婦なり」と書いているのです。

そして、我々神社考古学研究班の全てはその高良玉垂命とは第9代開化天皇であるという事まで知っているのですが、「記」「紀」を金科玉条の如く扱われる方は、依然、多いもので、「それは全くのデタラメだ!」と言われたい方は声高に叫ばれておられれば良いだけの話です。

地元に居ながら古代の真実に迫ることができる機会を自ら捨てておられるだけの事だと考えます。

正しくその隠された真実に封印をしておくために千数百年掛けて行われて来たのが高良大社の神宮皇后隠しであり(古くは開化天皇隠し)、宮地嶽神社の高良玉垂命隠しだったのです。

だからこそ、宮地嶽神社の最深部に置かれた古墳から多くの大王級の国宝が出土したのであり、謎の九州王朝宮廷舞と言われる「筑紫舞」が戦前まで秘かに傀儡子によって舞い続けられたのであり、その「筑紫舞」という名称も多くの先人たちの努力により「続日本紀」に書き留められてきたのです。


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筑紫舞が舞われてきた宮地嶽古墳玄室


最後に、宮地嶽神社は、古来、阿部家が神職を司ったと聞き及びます。

高良玉垂命とは異なった母方である孝元天皇の長子(大彦)の家系である阿部氏が、元はアヘ、アエ、饗(能登半島加賀屋の姉妹店あえの風は有名)の意味を持つ、大王の食事から資金まで一切を取り仕切る兵站、財務部門の長であったのではないかと思い至ります。

四道将軍として九州王朝から東北に派遣され地盤を築いた高良玉垂命=第9代開化天皇の義理の兄の大彦命(阿部氏の祖)は、後の安倍貞任をもって終りますが、一部は安東氏として十三湊で繁栄します。

また、貞任の弟である安倍宗任は大和朝廷に帰順し太宰府に送られたとされますが、後には許され、松浦党の一派を形成したとも言われます。

正しく、近畿大和朝廷占領下にあってマッカーサー宜しく送り込まれた阿部家(現安倍晋三もその流れを汲む)とは、一方に於いては九州王朝の中心的戦闘集団であったと考えられる安曇族に送り込まれた庇護者という複雑な側面を持った同族の総督だったのです。


大彦命(おおひこのみこと/おおびこのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族

日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。また稲荷山古墳出土鉄剣に見える「意富比垝」に比定する説がある。

8孝元天皇の第1皇子で、第11垂仁天皇外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍1で、北陸に派遣されたという。

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ウィキペディア(通説の系譜によるとしても九州王朝の四道将軍大彦命の痕跡は消せない)による


このように、阿部氏が近畿大和朝廷によって送り込まれた宗像~津屋崎~志賀~呼子(湊、田島)から遠く有明海沿岸の一帯まで、遡ること数百年の間、働き手であった多くの若者を戦闘により外地で失った敗戦国家として立ち直る途上にあったのです。

恐 らく、新生国家(新参国家)の大和朝廷と言えども、この地の経営には細心の注意と資源、人材の投入を怠らなかったはずであり(肥後にかけても道君主名は有 名)、そのような土地柄であったからこそ、ただのカモフラージュとしても帰順した安倍氏が送り込まれたのであろうと思われるのです。

それを温情と考えるか巧妙な策略だったと考えるかは、方々の立場により異なるでしょうが、近畿大和政権の前身であったと考えられる対外戦争サボタージュ派や唐、新羅内通派(これについては古田武彦氏の同調者であった中小路駿逸教 授の分析がある)から出世した新生権力に対して、敗戦後の民衆がどのような気持ちを持っていたかは言わずもがなであり、志賀から博多、そして津屋崎の一帯 の民衆は等しく犠牲となり死んでいった夫や息子を思い、また、この宮地嶽神社に対して尊崇の念抱き参拝を惜しまなかったのだろうと思うものです。

無題.pngそれこそが、現在、なお辺鄙としか言い様のない地(宮地嶽線の復活を…)に鎮座する宮地嶽神社に参拝客が絶えない理由であり、その思いは遠く古代に根ざしていたのです。

民は負けたとしても共に戦ったものを崇め、決して勝ったとしても裏切者を崇めようとはしないものです(仮にそれが誤った戦いであり嵌められた戦いであったとしてもです)。

恐 らく、宮地嶽神社に象徴される失われた祭神と、太宰府天満宮の前身と考えられる菅原道真侯の祖神(これまた隠された祭神=博多の櫛田神社の大幡主=埴安 彦=地録様…)の一族は、共に戦ったが故に、なお、崇められ続けているのです。民は自ら崇めるものを意識することなく伝え知っているのです。

そして、十三湊を拠点に最後まで抵抗した津軽の安東氏に、「高良玉垂宮神秘書」17pに「アントンイソラト申ハ…」と書かれた=安曇磯羅が投影できるとするのは許されざる思考の暴走になるでしょうか?


extra33 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑬ “宮地嶽古墳の被葬者藤 高麻呂、藤 助麻呂とは誰か?”

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extra33 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑬ “宮地嶽古墳の被葬者高麻呂藤 助麻呂とは誰か?

20150911

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今年も宮地嶽神社に継承された謎の九州王朝宮廷舞「筑紫舞」の奉納の季節(例年10/22)が近づいてきましたが、同社の奥の院とも言うべき場所に日本最大級の石室を持つ円墳の宮地嶽古墳があります。

ただ、この古墳に葬られた被葬者については、何でも近畿大和朝廷と結びつけたがる利権集団ともいうべき京都学派系(もっとも国学院出身だそうですが)の□ダニとかいう方が言いだした「宗像の君徳善とかその一族」といったにわか仕立ての説が横行しています。

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宮地嶽神社については当ブログに於いても過去12回に亘って宮地嶽神社と安曇磯羅」として書いてきました。

特にこの古墳の被葬者については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)078 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑪ “宮地嶽神社について現在分かる範囲で”として、同社の祭神が昭和11年当時には「阿部相亟」(アヘノショウカン)=宮地嶽大明神、藤 勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神とされている事をお知らせしました。

被葬者が三者であった可能性も指摘されていますが、昭和11年当時の祭神とも対応する関係にある事から、最低でも被葬者の二者は藤 高麿勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神であろうと考えています。

昭和11年当時に於ける宮地嶽神社の祭神に関しては津屋崎一帯における世情にも適合し、正しくも阿部の名が出てきます。

欠史(第2代から第9代開化)8代を公言して憚らない通説に思いっきり尾を振る御用学者に於いてさえも、多くの皇別氏族の中に阿部氏があり、その阿部氏が8代孝元天皇の大彦の流れを組む事は知らないはずはないでしょう。

ど のように考えても安曇族が跳梁した地域を見渡せる場所に造られた大王級古墳の被葬者を、山を背にする宗像族の一主首長に過ぎない宗像族の徳善の君とその関 係者と考える甘い思いつきは置くとしても、その背後に古代沖ノ島祭祀に関してはそれを司ってはいなかった宗像族(これについては小田富士夫報告が否定して いる)による世界遺産登録と連動させたいとするさもしい利権構造を見るのは私だけでしょうか?


「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)041 沖ノ島祭祀は宗像一族のものだったのか?小田富士夫説から

「ひぼろぎ逍遥」    115 宗像大社の本来の祭神とは何か? 他をご参照下さい。


神功皇后に従い新羅で大功をたて、帰還後この地を支配したとされる高麿勝村大明神、藤 助麿勝頼大明神ですが、「勝村」「勝頼」…が中近世のような印象を与える名で後代の人物ではないかなどと短絡される素朴で皮相な向きもともかくとして、この人物が誰なのかに付いては、以前から注目していました。

ただ、現在、祭神とされる 神功皇后に関係する直接の縁続きの人物なのか、その後代の一族なのかについての確信が持てなかったために、多分、通説で欠史8代と併せ架空とする神功皇后の子ではないかと考えてはいたのですが、これまで保留していたものでした。

勿論、百嶋由一郎先生は、「神功皇后の一族などトンデモない…お子さんです」とハッキリ仰っておられたのですが、その意味でも誰なのかが分からなかったために踏み切れないでいたのでした。

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30人以上も入る宮地嶽古墳の大王級巨大玄室


今回、百嶋先生が残された多くの手書き資料を整理していたところ、これに直接関係する部分が出てきたことから、ようやく百嶋先生が言われていた意味が分かり公開する事にしたものです。

百嶋神社考古学に関しては40時間を超える音声データと多くの手書きデータが残されています。

私が確保したものに関しては全てデジタル化作業が終了したことから、フィールド・ワークと併せ、その解読作業に入りたいと考えています。

今回収録した手書きデータの一つに宮地嶽神社の御祭神である藤 高麿勝村大明神が誰であるかに関する百嶋先生の見解が書き込まれていたのです。

下、右側の神社縁起はご覧の通りですが、久留米高良大社の麓(久留米市山川町にある旧参道)に鎮座する高良皇子神社(王子宮)高良皇子神社 カーナビ検索久留米市山川町王子山596-1 の祭神の一人である「朝日豊盛ノ命」こそ宮地嶽神社の祭神のお一人である藤 高麿勝村大明神と百嶋先生はお考えだったのです。

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無題.png斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
渕志ノ命神(フチシ)
谿上ノ命神(タニガミ)、
那男美ノ命神(ナオミ)
坂本ノ命神(サカモト)  
安志奇ノ命神(アシキ)  
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)

 この皇子たちの名が書かれていた境内の由緒書をもう一度読んでみましょう。

「起建」高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿) 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会

九躰皇子は「高良玉垂命の御子」と書かれています。

blog「ひもろぎ逍遥」より


綾杉るな女史のブログから引用させて頂きました。「斯礼賀志ノ命」神は、当方のブログでも取り上げましたが、宇佐神宮の中宮にも祀られ、藤原によって第14代とされた仁徳天皇です。

その次男 朝日豊盛ノ命(アサヒトヨサカリ)こそ 宮地嶽神社の祭神のお一人と考えておられた事になるのです。では、もうお一人の藤 助麿勝頼大明神はどうなるのでしょうか?

普通に考えれば、神功皇后の三男である暮日豊盛ノ命(ユウヒトヨサカリ)であっても良さそうですが、それで良いか?…は今後の調査を待ちたいと思います。

以前のブログをお読みでない方のために再度申上げておきますが、この高良皇子の母は当然にも神功皇后であり、父は高良玉垂命=第9代開化天皇なのです。

とんでもない!神功皇后の御子は応神天皇であり、仲哀天皇の御子のはずである!…という方は、宮地嶽神社と安曇磯羅」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)とダブル検索を試みて下さい。ここにこそ、古代倭国最大の謎が存在するのです。

古代を本気で探査しようと思われる方は、高良大社の「高良玉垂宮神秘書」を是非、お読みください。

なお、百嶋メモ左側に書かれた神社が、この朝日豊盛ノ命を祀る神社であることは間違いないのですが、百嶋先生の御指示もありますので、この神社がどこにあるかを含め、当面の間封印したいと考えています。

神社を巡る情勢も政治情勢と絡んで風雲急を告げています。真実の倭国の古代を探る研究に御支援と御理解をお願いします。今後、経済的御支援も含め必要になりお願いする事になるかも知れません。

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241 山陰土産 ④ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “都茂八幡宮”

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241 山陰土産 ④ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “都茂八幡宮”

20150829

久留米地名研究会 古川 清久


次に車を停めたのは、益田市美都町都茂という国道191号線沿いの比較的開けた町でした。

 立派な木の鳥居があったからでもあったのですが、以前も何度か通過しており、前回は4キロほど離れた金谷の製鉄地帯を見に行ったのではなかったかと思います。

 山陰に入ると八幡宮が九州に比べて格段に少なくなるのですが、ここでは、石清水八幡系か鶴岡八幡宮系か宇佐八幡宮系か…といった話をする訳ではありません。


241-1


初見ながら印象は参拝殿への違和感がどうしても付きまといます。どう見ても寺の本堂 正面に思えますが、これは長門、石見では多く見かける様式です。そのためではないでしょうが、何をどう見ればよいかしばし途方に暮れていました。思い直し て境内を見て回ると別の感想が湧きあがりました。

付近には大元神社(宇佐の大元は有名ですね)はあるものの、熊野神社もあり、どう見ても、元から応神天皇などが祀られているような場所ではないという印象が強かったのですが、境内社の配神を見てやはりと思ったところです。

大雑把ですが、五穀はスサノウですか、愛宕もヘブライ系、金刀比羅は大山クイ、粟島は少彦名、足王は山幸彦=ニギハヤヒの随神ですかね…(これは最近気付いた神様です)、一畑は金山彦?出雲大社は大国主…となりそうです。

阿蘇系は見掛けませんが、半分だけですが大山クイがおられます。

応神天皇が覆いかぶさってくる以前の祭神が決して粗末にされることなく残されていると見えたのでした。


241-2


同社境内摂社の神々

 

政争に敗れた場合、中国大陸や朝鮮半島ではそれこそ命はないのですが、日本では抵抗しない限り許され、仲間としてさえ受け入れられるのです。

それは、農耕民だからこそで、最低でも労働力としては許されるのです。ところが、砂漠や草原ではそうは行きません。通商民、遊牧民ではありえない話なのです。このように、日本では決して元の崇められた神様も粗末にされず残されるのです。

さて、山口県では海を挟んだ正面からか周防を中心に八幡神を良く見かけますが、長 門、石見に入るとこれが少なくなりほっとします。山陰に惹きつけられる理由の一つかも知れません。同社も八幡神へのコメントは一切なく、何故か摂社には顔 があります。八幡神は後代に持ち込まれたもので、この地域の方達が本当に崇めておられた神様は摂社の方なのではないでしょうか?


242-3



242 山陰土産 ⑤ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “足王神社って何?”

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242 山陰土産 ⑤ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “足王神社って何?”

20150830

久留米地名研究会 古川 清久


益田市の美都町都茂から美都温泉は直ぐですから、二度目でしたが温泉に入らせて頂き、しばらく休憩した後、191号線を南下し、道川まで出れば良かったのですが、県道307号という未踏のルートを走ろうと色気を出し、始めは快調で良かったのですが、悪路難路に嵌り込み、安心するまで二時間余り緊張の連続でした。ともあれ、なんとか脱出し、浜田市金城町波佐から金城温泉に辿り着きました。

翌朝早く浜田の市街地に出たのですが、三宮神社、足王神社に足を止め、しばし初見の神社を見学させて頂きました。

カーナビ検索 島根県浜田市相生町


242-1


始めに目に入って来たのは足王神社の看板でした。

しかし、同じ境内にあるものの、社殿の規模から言えば主祭神が天石門彦神社で足王神社は摂社なのでしょうか?

天石門彦神社については、既に「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)118 川崎町(福岡県田川郡)大石神社の「石」の字には何故「、」が付いているのか? でも取上げましたので、直ぐに、見当が付きました。

この神様は実はスサノウノミコトの事なのです。

問題は足王神社です。初見でもあり全く見当が付きませんでした。ただ、良く考えれば「足」が付く神様は皆さんも心当たりがあるのではないでしょうか?

ただ、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)13 石上神宮所蔵の国宝七支刀はみやま市から美作を経由し奈良天理へと移された!“石上神社の元宮は美作の石上布魂神社、元々宮はみやま市のこうやの宮と田中神社”で岡山でも物部の領域 作州の調査で石上布魂神社を訪問した際、足王神社も見掛けた記憶があったことから岡山県で調べると、堂々たる足王神社に関する情報があったことからようやく見当が付きました。


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と、は言うものの、「※当サイトの無断複製・複写・転載を禁じます。」と書かれています。法律的根拠はありませんが、ご迷惑にはならないと考えることから学問研究のためにもとお許しを頂き、以下、岡山県足王神社のHPから必要最小限の範囲で引用させて頂きます。


242-3


十分にお分かり頂けたと思います。詳しくは同サイトをお読みください。

出雲のことです。スサノウの命がヤマタノオロチを退治する際に出会い、櫛稲田姫を助ける切っ掛けとなった、アシナヅチ、テナヅチの夫婦のお父(お爺)さんの方がアシナヅチですね。

ご利益があるからでしょう。浜田の足王神社には大きな草鞋が奉納されていました。

足王とは足の翁かも知れませんね。


242-4


浜田市の足王神社参拝殿と神殿


普通はこれで終わるのですが、当然ながら「ひぼろぎ逍遥」はこれから先が重要になります。

何故ならば、出雲神話の舞台は九州であると考えているからです。

まず、百嶋最終神代系譜(一部)からご覧いただきましょう。


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ご覧になればお分かりになるでしょうが、櫛稲田姫は確かにスサノウのお妃になられていますが、櫛稲田姫は金山彦を父として、大山祇のお妃でもあった埴安姫を母として産まれておられ、共に九州におられたからです。

してみると、テナヅチが埴安姫に相当し、アシナヅチは金山彦になるのですが、百嶋由一郎先生は、熊本県山鹿市の来民(クタミ)で産まれておられますと言われていました。

いつも言う様に、出雲は国譲りをした結果移動した先=転勤先の地であり、大国主はそこに大きな社を貰ったのでした。いずれにせよ櫛稲田姫のお父さんと婿のスサノウが祀られているのは理にかなっているようです。


242-6


この辺りの話もいずれ詳しくと思っていますが、百嶋先生の残された宿題はあまりにも難しく、それこそ手子擦り、足子擦りしており、足王神社に肖りたいところです。

さて、肝心の天石門彦神社ですが、百嶋神社考古学では、山幸彦=伊都の長官ニキ=ニギハヤヒ=猿田彦=手力男命としており、主祭神は山幸彦を祀るものであると理解しています。

ただ、配神の建御名方命については注意を要します。

一般的に大国主の息子のうち、長男で帰 順派の事解主に対して、弟で諏訪に幽閉された抵抗派の建御名方命とされます。百嶋最終神代系譜では親と子としてのラインがはいっていないので全く無関係の 神と考えていました、最近整理して出て来た神代基本系譜では間違いなく市杵島姫との間に産まれた兄弟のようです。いずれご説明することに致します。


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百嶋最終神代系譜(一部)


ご覧の通り、建御名方命は長脛彦の義理の息子で、山幸彦の養子(?)にあたるのです。

最後に、同社の背後地(神殿裏)に巨大な磐盾があるのがお分かりになると思います。

ある時、神話に合わせて手力男命が居たはずだとして造られたテーマ・パークに見えるのですが、いかがでしょうか…お叱りは覚悟の上です。


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参考


手力男のミコトノ話
もし、古いお宮に行かれて、手奥帆負の神(たおきほおいのかみ)の名前をみたら、思い出してください。字で説明(○○○)ひっくり返したら、天岩戸を押し開いた手力男の神のことです。弟さんであるヤタノカラスと、手力男(すさのお)のみことのお嬢さんである伊勢の下宮様が裸踊りをしたことに神話ではなっている。野毛櫛田神社では、ごまかし以前の姿が昔、残っていたので写真を撮っている。

牛島稔太のHP肥後翁のblog民俗・古代史及び地名研究の愛好家


春日神社について、百嶋由一郎先生講演2011年4月23


 より

スポット019 豊の国古代史研究会が動き出した!

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スポット019 豊の国古代史研究会が動き出した!

20150712

久留米地名研究会 古川 清久


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第一回目の豊の国古代史研究会(上)と講演中の内倉武久氏(下)


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久留米大学公開講座(古代史)九州王朝論の急拡大(年間30セッション)によって、同じく九州王朝説の立場に立ち古代史を探求して来た久留米地名研究会の競合は意味が失われたことになり、20154月の


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「炎のピラミッド」田尻盛永阿蘇八坂神社宮司講演を最後に休会状態に入りました。

勿論、公開講座の間隙を縫い必要な時にはいつでも再開しますが。

243 山陰土産 ⑥ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “江津市桜江の大山祇神社”

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243 山陰土産 ⑥ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “江津市桜江の大山祇神社”

20150831

久留米地名研究会 古川 清久


天石門彦神社、足王神社をあとにして、一路、東隣の江津市へと移動しました。ラッシュ・アワーとは言え、土曜日の益田は交通量も少なく高速道路を利用する気はさらさらなかったのですが、無料区間と勘違いして山陰自動車道に放り込まれ、法外な410円をせしめられ朝から気分が悪かったのですが、山陰最大最長の江の川を遡上し、江津市、川戸、今田、江尾周辺の神社を見て回る事にしました。

 本日、(この本日は29日の事ですが)二つ目の神社は、結構見慣れた大山祇神社です。

 ただ、山陰では珍しいという印象があり(誤りかも知れませんが)、おっとり刀で現地に入りました。


カーナビ検索 江津市桜江町今田 今田集会所前付近


 江の川は、入江とも川ともつかない、形状で、古代にはさらに川幅が広く、それこそ数十キロも川を遡上できたのではないかという印象を持ちます。

 佐賀では、大半が干拓によるものですが、オランダ並みに低平地が広がっており、現在でも高潮位の場合は数十キロ奥まで潮が入り、そういう地形を江湖(エゴ)と呼びます。

表記は江+湖であっても、実際にはエ+ゴウが本当であって、江の川のゴウと通底しているのではないかと思います。

 つまり、江は入江であり、江の川の江も海がそのままフィヨルドのような谷に溺れた川であり海であり入江であったように思うのです。

 桜江も県道41号線の南は奥行きの深い広い入江であり、その後干陸化して、広い耕作地になったようです。

 今田も、大堤防の建設によって農耕地へと転換した事を意味する地名のようです。


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この今田の枕の滝川と宮の谷川の合流し八戸川に落ち、江の川に注いでいるのですが、その宮の谷川の辺に鎮座しているのが今回の大山祗神社です。

 別に大社と言う訳でもなく、珍しい神社でもないのですが、この海士族の集中する江の川流域に鎮座しているのが珍しい事から訪問させて頂いたものです。

 そうは言うものの、今現在、大山祗神社の本山が鎮座しているのは伊予の大三島であり、お隣の、周防にはこの伊予の大三島から勧請されたとす る大山祗神社や三島神社が多数鎮座しているのであって、海士族の領域なのに、大山祗神社があるのが奇妙だと申上げているのではありません。


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確かに大山祗神社です。しかし、社殿はというと何やら公民館か神楽の練習場といった面持ちで、肝心の神殿が見当たりません。

こう言うのもありかと考えたのですが、気になり裏に回ると謎が解けました。

神殿は川を挟んだ禁則地か清浄地と言った森の中にあり、本来の神域はここだったのです。

欲を言えば河川改修事業が行われる前の姿が見たかったところですが、これでも古代の神社の原形が見て取れる良い経験をしたと思うものです。


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神殿はなく、宗像大社の高宮同様の降臨地風の基壇があるだけでした。

 話しはここまでですが、出雲に隣接する江津市の一角に、大山祗神社があることは、多少考えさせられることがあります。

 一般には“出雲は大国主の国”といった俗説が遍く広がって久しいのですが、百嶋神社考古学に触れた者には別の世界が見えています。


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百嶋神代最終系譜


百嶋系譜でお分かりのように、半島から入って来た越智族の首領の大山祗命=月読命と白川伯王の娘である埴安姫の間に産まれたのが大国主命であり、大山祗と大国主とは父と子にあたるのです。

してみると、この集落は出雲神話に言う 白族=博多の櫛田神社の大幡主系と九州から伊予の大三島に移動した大山祗の両方が混住しているのではなく、もちろん大国主以降の氏族でもなく、九州から直 接この地に入って来たか、伊予大三島から移動して来た大山祗系の集落である可能性があるのではないかとは一応は言えそうです。

勿論、海人族との関係はあるはずで、この集落のお隣の集落にその痕跡があるのです。

関心をお持ちの方は、次ブログ 244 山陰土産 ⑦ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “ここにも江尾地名があった”を参照。

244 山陰土産 ⑦ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “ここにも江尾地名があった”

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244 山陰土産 ⑦ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “ここにも江尾地名があった”

20150901

久留米地名研究会 古川 清久


いわゆる永尾(釜蓋)地名については、「ひぼろぎ逍遥」 202208「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”① ~ ⑦ において多くの話をしてきましたので、読まれた方は十分お分かりかと思います。

 また、「ひぼろぎ逍遥」211「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”⑧ においても、宮崎県高原町の狭野神社が鎮座する地に永尾(釜蓋)地名があることを書きました。

この谷川健一によって見出された「永尾地名」が、「江尾」という表記で存在している事に気付きました。

 下図の左の吹き出しの位置に河川邂逅部が形成され、「永尾」のバリエーションの一つと考えられる「江尾」と呼ばれ集落名にまで高まったものと考えられるのです。


244-1

244-2

県道297号線の江尾消防ポンプ格納庫      えのおばし


この地名の元となるエイの尾型地形は、突き出した岬の両脇にエイの鰭のような孤状地形が形成される事もありますし、このような川の合流部に形成される事もあるようで、それこそ日本列島の全土に発見できるでしょう。

 しかし、その全てにこの地名が付される訳ではなく、その様に見える民族、氏族が住み着いてこそこの地名が成立するのです。

 今のところ、この地名を付した人々とは、一般的な漁労民ではなく海人族でも南方系の通商民(家船、バジャウ)ではなかったかと考えています。

 一方、前ブログで取上げた今田の大山祗を奉祭した氏族は、恐らく九州から、もしくは伊予を経由して入って来た人々だったように思えるのです。

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この地名が形成された当時、ここにはもっとはっきりし

たエイの尾の形状を示す突き出した砂洲があったはずです


「可愛」の「えの」


この永尾(エイノオ)=江尾という地名の典型的なものが、鹿児島県薩摩川内市にあります。

皆さんご存知のニニギ山陵=「可愛」(えの)山陵です。

ニニギと言えば、天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命の子とされ、「古事記」「日本書紀」ともに登場し、瓊瓊杵尊などと書かれる日本神話のスターですが、降臨後、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火照命(海幸)や彦火火出見尊(山幸)を生んだとされています。

そして、この山幸の孫が神武天皇になるのですが(あくまで通説に沿えばであり、百嶋神社考古学はそれを認めません)、ニニギは、亡くなった後「可愛山陵」に葬られ、それは「エノ」と呼ぶとされています。

もちろん、普通は「可愛」を「エノ」と読むことは出来ません。ただし、そこがどこかはともかくとして、地元では読んでいた可能性はあるのです。

これまで見てきたように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

もちろん、水戸光圀公であろうが、本居宣長先生であろうが、「可愛、此云哀」については古来「エ」と呼び習わしていたからこそ、岩波書記も「エ」と振り仮名を付しているはずです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」「エイノオ」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

お 分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイント(必 然的にエイの尾形の地形を形成する)は交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾 (エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼び習わすようになったのです。つまり、「可愛」も永尾地名なのです。では、その「可愛」を紹介 しましょう。

もちろん、九州王朝論者にとっても、ニニギの墳墓は降臨地ではないのであって、薩摩川内にあっても一向に構わないのですが…。

どうやら、川合、川会…エイの尾の形状を「エイノオ」「エイノウ」「エノ」「エノー」と呼ぶ海洋民族系の人々がここにも住み着いたようです。私にはその事が分かるのです。


244-4

実は、江の川の上流、と言っても広島県側はかなり長いのですが、この部分は「可愛川」と呼ばれているのです。この呼び方をする人々が、広島県側に移動し展開して行った事が見えてきます。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)009 なぜ、「可愛」と書いて「エノ」と読む(呼ぶ)のか? を参照して下さい。


可愛川 えのかわ

広島県中北部の川。江川 (ごうがわ) の上流。全長 98km大朝盆地に源を発し,北広島町安芸高田市などを経て,三次盆地で他の諸支流を合わせて北西流,島根県に入って江川となる。江戸時代には,かんな流し (砂鉄採取) が盛んに行なわれ,そのために河床が上昇して洪水がしばしば起こった。

「ブリタニカ国際大百科事典 」小項目事典の解説 より

245 山陰土産 ⑧ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “客神神社とは何か?”

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245 山陰土産 ⑧ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “客神神社とは何か?”

20150902

久留米地名研究会 古川 清久


次に向かったのもお隣の集落、江津市桜江町川戸の三田地地区でした。

ここに客神神社という妙な名前の神社があるからでした。

確か、広島県の湯来温泉に行った時、一度、見掛けた記憶があるのですが、客人(マロウド)神社として頭に浮かぶのは出雲大社の客人(マロウド)の間に匿われているウマシアシカビヒコチの神です。

百嶋由一郎先生によれば、この神は天の御中主命(久留米水天宮の主祭神)の夫で朝鮮半島に居たという日本でも最も古い神様なのです。


ウマシアシカビヒコヂは、日本神話に登場する天地開闢において現れた別天津神の一柱である。『古事記』では宇摩志阿斯訶備比古遅神、『日本書紀』では可美葦牙彦舅尊と表記する。

『古事記』では、造化三神が現れた後、まだ地上世界が水に浮かぶ脂のようで、クラゲのように混沌と漂っていたときに、葦が芽を吹くように萌え伸びるものによって成った神としている。すなわち4番目の神である。『日本書紀』本文には書かれていない。第2・第3の一書では最初に現れた神、第6の一書では天常立尊に次ぐ2番目に現れた神としている。独神であり、すぐに身を隠したとあるだけで事績は書かれておらず、これ以降日本神話には登場しない。

ウィキペディア201509020830による


 そのウマシアシカビヒコチに直接繋がるかどうかは不明ですが、このような稀な神社を奉祭する人々とはその末裔以外にはありえないと思うのですが、まずは実見とばかりに同地へと向かいました。

 ところが、その神社が見つからないのです。現地の方に尋ねるにも過疎地の事そうおいそれと人には出会わないのです。

仕方がなく昭文社の県別マップル32島根県を頼りに探すのですが見つからないのです。

勿論、カーナビにはこのような小さな神社は出てきません。実は地図の誤りだったのです。地図では三田地川の左岸にこの神社があるはずなのですが、それらしきものには出くわしません。ようやく地元の方に二度お聴きして、右岸側のかなり奥にある事が分かったのです。

昭文社の地図には誤記、誤字、場所の誤り…とこれまで数十ケ所は見てきましたが、今回も一時間は無駄にさせられました。

しかし、それに頼るしかない以上、文句は言えません。むしろ有難いというべきなのでしょう。


245-1

ようやく辿り着いたのは小さな祠程度のものでしたが、ようやく存在が確認できました。


245-2

当然、客神神社という社名以外、何の情報もありません。

このような時は、他の同種の神社を調べ帰納的に演繹する以外方法がありません。

ざっと、検索しただけでも直ぐに数社が拾えます。


広島市佐伯区湯来町大字葛原郷589番地 客人神社

長崎県南松浦郡新上五島町網上(あみあげ)郷 客人神社

栃木県太平山神社摂社 客人神社御祭神 武御名方命 (たけみなかたのみこと )

千葉県八街市東吉田348番の1客人神社


ただ、この程度では、客神神社が何であるかは判別できません。このような時頼りになるのは「玄松子」「神奈備」氏です。

敬愛するHP「神奈備」には「客人社と荒波々幾神を祀る神社一覧」があり、既に、「客人神社」、「客人社」…の拾い出しが行われていました。

これを見ると、少彦根名命、大国主、スサノウノミコト、塩鎚命…とバラつきが大きく全く見当が着きません。

 やはり、客人神社とは特定の神を祀るものではなく、その地の氏神に対して、特別に受け容れたものでそれには色々な神様が該当するのかもしれません。

 ただ、問題は残ります。それは、この小規模な三田地上集落には他に祀られる神様がおられないのです。

 とすると、やはり近い出雲の“マロウド”と考える余地はあるのではないかと思います。

 そこで、広島県湯来町の客人神社をネット上で見せて頂きました。


客人神社まろうどじんじゃ

 客人神社は湯来町の葛原にある土井地区の旧河内神社と大古谷地区の旧大年神社の御祭神を郷の客人神社に合祀させ頂いた神社です。


245-3


鎮座地: 広島県広島市佐伯区湯来町大字葛原郷 589番地

御祭神: 大穴牟遅命 相殿 豊受姫命(大古谷:旧大年神社) 水波女命(土井:旧河内神社)

例 祭: 1020

客人神社古老の伝承によると、宮島の神様が旅に出られて途中立ち寄って休まれたという


以下は広島県神社庁のサイトから



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大国主命を「客人」としている神社のようですが、やはり判然としません。

一応、ウマシアシカビヒコチを祀る神社である可能性も残し、そのような神社ある事だけをお知らせするに留めます。

 ただ、この集落の裏山が鳶ノ子山と呼ばれていることから、この一帯(この山を裏山にしている集落は外に数多くありますが)が博多の櫛田神社の大幡主の影響下にあった事が見えます。

 大穴牟遅命も大幡主の孫(子はヤタガラス)にあたるスセリヒメ=市杵島姫を妃とし姻戚関係により大幡主の傘下に入っている事から亀甲紋章の使用を許されているのです(決して亀甲神紋のルーツは出雲大社ではありませんのでくれぐれもご注意を)。


スポット020 阿蘇の野焼きはいつから誰の手によって始められたのか?(前)

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スポット020 阿蘇の野焼きはいつから誰の手によって始められたのか?(前編)

20150501

久留米地名研究会 古川 清久


以前、スポット008 久留米地名研究会日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所から見る春の胎動 primavera

20150309

において、阿蘇の野焼きを取り上げました。以下、まず、その一部…を掲載します。


さて、次をご覧ください。これは約一月後、39日の阿蘇の一角を写したものですが、一見して山火事(野火)ですが、有名な阿蘇外輪山の野焼きです。

これは春の始りを告げるもので、阿蘇外輪山に連なる日田市の五馬高原でも同時に春がはじまるのです。


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次もなかなかお目に掛からない阿蘇外輪山北壁の写真ですが、今まさに火の帯が外輪山の内側に(右から左に)進もうとしているもので、これも春の訪れを告げる狼煙と言えそうです。


これを、何故、再び持ち出したのかと言うと、熊本県内にお住まいのある高名な医学博士から、非公式ながら「阿蘇の草原はいつから始ったのか?」「どのような人達がはじめたのか?」と言った趣旨の問い合わせが寄せられたからでした。

 まだ、詳しくは申上げませんが、その方とは、「砷地巡歴 水俣-土呂久-キャットゴーン」熊本出版文化会館刊 2013810日)を世に問われた堀田宣之先生です。



sぽt20-2


熊本市西区二本木3丁目128 熊本出版文化会館(℡096-354-8201)刊
頒価2800

大家の風の大学病院の奥御医師(オコウイシ)を好まず、町医者、良医を由とするのが古川定石ですが、近年亡くなられた水俣病の原田正純先生とも一緒に活動されていたようです。

原田先生とは福岡市でご一緒した事もあり、その時の事をついつい思い出してしまいました。

全世界的な砒素中毒に関するこの本とその内容の重大さについての話は別稿としますが、ご依頼のあった件については既に菊池(川流域)地名研究会でも議論になった事でもあり、まずは、叩き台として試の仮説を出しておきたいと考えています。

そもそも堀田宣之博士が「阿蘇の原野の起源」を世に問われた理由は、熊本県内の河川の危機、ひいては日本全体の河川の問題を意識されての事 だったのですが、菊池(川流域)地名研究会の中原 英先生の古代湖「茂賀浦」研究を知り、また、拙著「有明海異変」(不知火書房)の第4章 税金のダム遣い、第5章 高級すぎる源流問題 を先行して読まれていたからだったようです。

まだ、お手紙だけの関係ですから軽々にはご紹介できないのですが、阿蘇の草原の存在そのものを由とすべきであるのかという問題も含め、農業 そのものも自然環境の破壊の一つである事は否定できず、深部には人間の生産活動全般が反映しているという要素が隠れているような気がしています。

ただし、それがドクトル堀田の関心事なのかは、なお、不明です。

元より、阿蘇の草原は何時から開かれたかをはっきりと書き留めた古文書などあるはずもなく、野焼きが行われた考古学的痕跡や遺跡なども確認しようはないでしょう。

ただ、古文書から阿蘇の古代の一端と多少の推定ができるだけなのです。

しかし、植物学者の目からは見れば、阿蘇の植生がどのように入れ替わってきたかは大きな単位では分かるのかも知れません。

前述の、スポット008久留米地名研究会日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所から見る春の胎動primavera20150309の最後には以下の様に書いていました。


最近は少し減った気はするのですが、ひところ女子大生やOLといった方達が阿蘇にくると決まって「雄大な阿蘇の大自然…」といったステタイプ(stereotype)の表現で写真を撮り廻る風景があるのですが、阿蘇程度の緯度と 標高では、火山活動さえ拡大しない限り、放って置きさえすれば百年を待たずして巨大な森林が復活するのであって、古くは阿蘇国造神社、阿蘇神社の号令の 下、この時期に野焼きが行われ続けて来たからこそ大規模な草原が維持されるのであって、自然に対して人為的に干渉し複林を防ぐ言わば環境破壊が続けられて いるからこそ大規模な草地が成立しているのです。そして、その背後に焼き子の営々たる作業が存在している事には頭が向かないのです。


もし、阿蘇国造神社と阿蘇神社の号令のもと野焼きが行われてきたとすると、彼らの出自を探れば、阿蘇の野焼きの起源は自ずと分かるのではないかと思うものです。

まず、「日本書紀」景行紀には、“天皇は九州各地を経て阿蘇の国にやって来たが、野は広く人家が見えなかった。天皇がこの国に人はいるのかと尋ねたところ、阿蘇都彦(アソツヒコ)、阿蘇都媛(アソツヒメ)の二神が出てきて私達二人がいます…”といった話があります。

これが直ちに阿蘇では、当時(学会通説派も景行は九州を制圧したと喜んで、この辺りから勝手に実在としているようですが…)から原野(自然の草原かも)が広がっていた可能姓を考えられそうです。

また、阿蘇の旧一の宮町「一の宮町史 草原と人々の営み」(大滝典雄著)には


法律「延喜式」第二十八巻(兵部軍事関係の項)に阿蘇の牧野に関して記述が見られる。
  延喜式では、肥後の国の「二重馬牧(ふたえのうままき)」と「波良馬牧(はらのうままき)」という、阿蘇郡内と推定される地名が記載されたあとに、「肥後 の国の二重牧の馬は、もし他の群より優れた馬があれば都に進上し、他は大宰府の兵馬及び肥後国その他の国の駅馬として常備するように。(意訳)」と記され ている。このことから、当時阿蘇では優れた馬を生産する牧(原野)があり、その名が中央政権まで知られていたと判断できる。


まず、本来、森林地帯であり(あった)はずの土地を、労力を加えて伐開しながら、敢えて耕地とはせずに草地とするのは牛馬の放牧のためとしか考えようがありません。

勿論、最初の初形は火山爆発による山火事や降灰によって自然発生的に成立した草地を復林させずに火を入れ続け、結果、草地を維持し広げるものだっただろうことは容易に想像が付きます。

さらに言えば、通作距離から考えると、焼き畑の延長上に現在の阿蘇の大草原が成立したとは考えられず、乱暴ではありますが、人為的火入れによって冬場に山火事を起こして草地を造っていたのではないかと考えています。

ただし、例え、自然発生的に成立した草原であっても火を入れ続けない限り、森林が再生するのは明らかであり、最低でも千数百年、もしかしたら二千年という単位で火が入れられ続けているのかも知れません。

では、放牧のためとした場合、その必要は何に由来したものでしょうか?

農 耕用牛馬、軍馬、食肉用牛馬、乳牛の生産しか考えようがありませんが(牧羊は温暖地のため、元々存在しなかった)、現在の放牧は食肉用の阿蘇の赤牛(肥後 牛)生産が中心であり、実際には放牧もされますが、サシの入った高級和牛肉の生産のためには、牛舎に入れ栄養価の高い配合飼料が使われる事から、現実的に は、採草地として配合飼料の補助的な飼料栽培が行なわれているものと理解しています。

採草地を必要とされるようになるのは、牛馬の生産が組織的に要求されたからとは考えられますが、農耕用に牛馬が利用されるようになったためか、それとも、騎馬を中核とする軍事(武装)集団が登場したからのどちらかでしょう。

荷 駄搬送用も含め、遠距離輸送用や農耕用の牛馬はそれほどまとまった大量の数が必要とされたとは考えられず、半世紀前でも農村では普通に繁殖(交配)がされ ていたことから、組織だった草地の維持は、やはり軍事目的の騎馬生産が行われるようになって以降の話ではないかと思うものです。

ほんの五十年前までの日本でも牛馬による耕作は普通に見られる風景でした。

テーラー(もうご存知でない方が多いと思いますが米国テーラー社製の耕運機が起源)が村にやって来ると、牛馬による耕耘は十年ほどで消え、馬小屋や牛小屋はテーラー社製の耕耘機置き場に替わってしまいました。

農業史関係の資料を読むと、荘園制下では既に牛馬による犁耕が始まっていたとされますが、江戸時代においてさえも、牛馬や鋤、馬鍬を所持しているのは大百姓(高持ち百姓)に限られていたとされており隅々まで行き渡っていたと言うほどの物でもないようです。

そこまで考えて来ると、現在でも牧神社や牧地名が熊本県内にも散見されます(宇土の馬門地区など)。これらが荘園時代やそれ以前にまで遡るものなのか、藩政時代のものなのかは中々判別が付きません。

現在でも、騎馬戦を彷彿とさせる福島県の相馬野馬追や南部藩のそれは有名です。

史上、騎馬を最も巧みに使用したのは、将平の乱や源平合戦に象徴される関東武士団であり、甲州騎馬軍団に象徴される戦国武士団だったことはどなたもご存知のとおりです。

ただ、九州でも騎馬が組織的に生産されていた事についてはあまり知られていません。

「平家物語」に登場する名馬と言えば、宇治川の先陣争いの佐々木高綱が乗る池月(イケヅキ)と梶原景季が乗る(スルスミ)が有名ですが、名馬「池月」は薩摩半島の池田湖周辺で生産されていたという伝説があります

その真偽のほどは置くとしても、日向の国は古代からかなりの馬を組織的に生産していたという話があるのです。

これはネットでも検索できますので試みて下さい。他にも薩摩、大隅でもこの手の話は拾えるのです。

肥後の場合でも軍馬の生産は行われていたと見る方が正しいと思うものです。

ただし、戦国期、南北朝期と言わず、肥後は絶えず争乱の中心にあった訳で、自国の生産で間に合わない部分が日向、大隅、薩摩で補う形になっていたのかもしれません。

この程度の事までは言えそうですが、纏まった研究を知りませんのでご存知の方はお教え願いたいと思います。

組織だった軍馬生産の必要性は騎馬戦の発生にあります。

一人の騎兵が一頭の馬を操っている様にお考えかもしれませんが、モンゴル軍は一人の騎兵が交代用の馬も含めて五頭程度の馬を常備して絶えず最高の戦闘能力、機動力を維持していたと言われます。

従って、千人の騎兵隊を維持するためには最低でも五千頭の軍馬が必要になってくる訳です。

その飼葉、水、塩…の調達だけでも相当の兵站が要求されるはずであり、圧倒的な騎兵隊を維持するためには広大な草地が必要になることがお分かり頂けたことと思います。

そこで阿蘇を考えると、透水性の土壌のために水田稲作に不適であるため通常の農耕民との衝突もなく火山性の噴出物が大量に存在する阿蘇は、方々に大量のミネラル塩や水と草が調達できることから、まずは最適の放牧地となる条件を持った土地だったのです。

ここまで見てきて、ようやく阿蘇の野焼きを考える条件は整ったように見えます。


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もしも思考の冒険を許されるならば


以前から気になっていた事に納豆に対する嗜好が東西、南北に分裂している事があります。

水戸納豆に象徴される関東以北の納豆文化に対して、九州でも肥後以南に納豆を好む傾向が強く認められます。これは焼酎に対する嗜好とも対応するため、民俗学上は非常に興味深いテーマです。

また、前者は当然ながら照葉樹林文化ですからこ、れとは全く対応しないと思うのですが、馬肉(特に馬刺し)を食べる傾向が、肥後と中部山岳地帯の甲斐、信濃一帯(一部東北地方)に認められます。

この「馬刺し」に対する著しい嗜好の東西分裂には何らかの関連があるのではないかと以前から考えてきました。

馬を食べると言う習慣は、朝鮮半島南半部にはないようですが、モンゴル人からモンゴル西部のカザフ人に広く見とめられ、ヨーロッパでもフランス、ベルギー、ポーランド、 ドイツ、イタリア、ブルガリア… と昔から盛んです。

問題は生食についてです。朝鮮のユッケ(恐らく馬肉はないと思いますが…)はともかく、タタールスタンのタルタル・ステーキ(牛、馬)は良く知られています。

トルコ系匈奴(シュンヌ)(フン族)がタルタル(ギリシャ語のタルタロス)人と同一視されたことは有名です。

この文化が、肥後、信濃、甲斐、東北地方に分布している馬の生食と関係があるように思えるのですが、その理由は、当然にもそのトルコ系匈奴は一世紀頃分裂し、その一部が半島経由で日本に入っているのではないかと考えているからです。

ここまで踏み込むと、既に「ひぼろぎ逍遥」のバック・ナンバーを読まれている方は思い当たられる事があるでしょう。

阿蘇の草部吉見神社の祭神のカミヤイミミ、ヒコヤイミミの流れを汲む阿蘇氏の一族(黎族)は、中国の雲南省の麗江からメコン川瀾滄江)を 降ってサイゴンのデルタから海路北上し海南島に入り、そこから天草芦北経由で阿蘇に入っていること、また、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の一族(実 はヘブライ系白族=ペイツー)は雲南省の省都昆明からファン河(紅河)を降り、ハノイ(ハロン湾)に出て正面の海南島に集結し、同じく肥後に入っている事を書いています。

スポット020 阿蘇の野焼きはいつから誰の手によって始められたのか?(後編)

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スポット020 阿蘇の野焼きはいつから誰の手によって始められたのか?(後編)

「ひぼろぎ逍遥」 033 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那

「ひぼろぎ逍遥」 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?


肥後に入った阿蘇氏=多氏=耳族=黎族=支那族、同じく肥後から博多湾岸に移動した白族(彼らが白川=白水地名を残す)に後れて、彼らとは別に半島経由でモ ンゴル高原からトルコ系の人々が大量に入って来ていることを百嶋由一郎氏は語っていますが、この話をすると全く荒唐無稽な話として排撃されてしま

います。


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志々岐神社境内に鎮座まします大国主命


そ のことは十分理解できるのですが、私達、百嶋神社考古学を追求する者としては、百嶋先生から “天御中主(白山姫)を妃としたウマシアシカビヒコチ(金 越智)はトルコ系(匈奴)の一族で、二世紀前後に金海伽耶から大量に入って来ている。”“その子が大山祇(月読命)であり、瀛氏の一族の埴安姫との間に大 国主命が産まれている。”“従って大国主命は一応トルコ系匈奴の流れを汲むものである”…といった話を何度も聴かされており、その事によって、鹿児島の桜 島の正面に何故月読命が祀られているのか、薩摩の吹上浜や福岡県の旧夜須町、岡垣町に、さらには、熊本県熊本市の西里…にあれほど立派な大己貴神神社が存在しているのかが理解でき、日向国一の宮の祭神が何故大国主命されているかも納得できるのです。

このことに気付いたのは、出雲神話など全く関係の無い熊本県山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社に大国主命の大きな石塔が立てられている事を本気で考え始めた事が切っ掛けでした。

どうも、肥後から薩摩、大隅、日向に掛けて騎馬を使う集団(民族)が大量に入っているのではないか?

そ して、どうもそれが卑弥呼の女王国連合国家群と対立した狗奴国と重なり、停戦協定の中で、出 雲、伊予へと国変えが行われた結果が、神話に言う出雲の国譲りであり、大国主の出雲=出雲大社(実は大幡主の管理下)、大山祗の伊予=大三島神社(ここも 大幡主の管理下)だったように見えるのです。

出雲神話の国譲りの中心的舞台は実は九州であり、政治的に敗北した大国主が所替えにより移動した場所が現出雲なのです。

これについては現在の最大の関心事であり、内倉武久氏による新著「熊襲は列島を席巻していた」(ミネルヴァ書房)とも実は重なっているのではないかと考えているところです。


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地 図は現海南省の南の一角ですが、中国の海南島には今でも多くの黎族が住んでいます。この人々は阿蘇の人々の一部(と言ってもかなりの部分を占めますが)と 同族と考えています。この地図に加茂地名があるのですが、豊玉彦=ヤタガラスの本拠地である下賀茂神社の賀茂と重なるのはヤタガラスの父にあたる大幡主、 その父の白川伯王家の故地と考えているところでもあるのです。

こ こから先は、限られた僅かな数の、しかも小さなピースで立体的な弥生式土器を復元しているような話であり何の意味も無いとお考えの方は無視されて一向に構 いません。しかし、その方に改めてお尋ねしたいのです。阿蘇の草原は何時から開かれ、鎌倉から室町末期の騎馬軍団は如何に登場したのかと。


四ツ目紋から見る試論

 

武田信玄と言えば甲州騎馬軍団が頭に浮かびますが、彼らの家紋(表紋)は四菱です。

ただし、それは簡略化されたもので、本来は四ツ目菱だったのではないか?少なくとも一部には四ツ目菱紋を使う人々がいたのではないかと考えられます。多くの例がありますが、幾つかご紹介しましょう。


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武田鉄矢さんの武田姓は母イクさんの苗字です。
  父親の嘉元さんは婿養子で、旧姓は村上。イクさんの父親は計早蔵(けさぞう)といい、その父親は喜十郎。喜十郎は鉄矢さんのひいおじいさ んにあたりますが、熊本県阿蘇郡南小国町中原(なかばる)樋ノ口で区長や南小国村村会議員をしていた大地主でした。ところが喜十郎が昭和2年(1927) に死亡すると、一人息子の計早蔵は先物取引で失敗し、瞬く間に破産してしまい、妻ヒロとも離婚。失踪してしまいました。一家が離散したため長女のイク(鉄 矢さんの母)は博多の親戚の家に預けられてしまいます。
 この樋ノ口の武田家。
 第56代清和天皇(850-881)の流れをくむ清和源氏武田氏族の一族で、鎌倉時代(1185-1333)に甲斐国(山梨県)からやって来たといわれていますが、具体的なことは分かっていません。
『姓 氏家系大辞典』によれば、武田信義の四男兵衛尉(ひょうえのじょう)有義の二男為太郎信盛の流れが五島列島(長崎県五島市)に移り住んで、福江藩主五島氏 になったとありますから、もしかすると樋ノ口の武田家もこの一族と関係があるかも知れませんが、距離的にかなり遠いのでなんともいえません。
 い ずれにしても樋ノ口の武田家のご先祖をさかのぼるためには、まずは武田一族の菩提寺で過去帳を調べること。そして墓石の戒名や没年月日・俗名を調べるこ と。さらに熊本県立図書館などにある『小国郷史』『続小国郷史』のような郷土誌を丹念に読んでみる必要があるでしょう。
 テレビに映った武田喜 十郎の紋付は「丸に四つ目菱」。一方、樋ノ口の蔵に付けられていた家紋は「武田菱」 でした。喜十郎の使っていた四つ目菱は武田菱をアレンジしたものでしょうが、通常、家紋を変化させるのは分家です。喜十 郎は所有していた財産から考えて樋ノ口武田一族の本家筋と想像されますので、その喜十郎家が武田菱ではなく、四つ目菱を使っていたということが、いまいち 腑におちません。とはいえ家ごとの家紋の変遷はまさに千差万別で、とてもひとつの法則ではくくりきれませんので、本家が四つ目菱を使っていても不思議とい うほどのことはありません。
 鉄矢さんは現在、「丸に割り菱」を使っているといわれていますが、武田菱と割り菱は変化が微妙で区別しづらいため、実際は「武田菱」を使っているのに、「割り菱」と喧伝されているのかも知れません。
  もうひとつ鉄矢さんの家系で気になるのは、北里柴三郎とつながりがあるという噂です。細菌学者の北里柴三郎男爵は阿蘇郡小国町の出身で、武田家の南小国町 とは隣町です。両家のつながりについて詳しいことは分かっていませんが、喜十郎の妻か計早蔵の妻ヒロが北里家の縁者なのかも知れません。このへんのことは 武田家の除籍謄本を取り寄せればはっきりするでしょう。

 なお北里家は小国町北里から発祥した家で武田家と同じく清和源氏の末裔と称しています。戦国時代は阿蘇氏や大友氏に従い、江戸時代になると加藤家臣をへて熊本藩細川氏から惣庄屋に任命されました。柴三郎の家はその分家筋にあたります。
HP「ファミリーヒストリーあなただけの歴史」より

武 田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、文政10年9月15日(1827年11月4日) - 明治13年(1880年)1月28日)は、日本の武士(伊予大洲藩士)、科学者、教育者、陸軍軍人。函館時代までは斐三郎、明治政府時代からは成章(しげ あきら)の名を使った。竹塘(ちくとう)と号す。
緒方洪庵や佐久間象山らから洋学などを学び、箱館戦争の舞台として知られる洋式城郭「五稜郭」を設計・建設した。明治7年(1874年)3月、陸軍大佐[1]。 陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、陸軍幼年学校長(初代)。
文 政10年(1827年)、伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)にて誕生。先祖は甲斐武田氏の出で、大洲藩加藤氏に 仕えたが、名をはばかって江戸時代は竹田姓を名乗っていたこともある。家紋は四つ目菱(甲斐武田の本家は四つ菱)である。

ウィキペディア20150504 7:03

四面神から見る試論

 

まず、「古事記」に「次生筑紫島此島亦身一而有面四面毎有名故筑紫国謂白日別豊国言豊日別肥国言建日向日豊久士比泥別熊曾国言建日別」とあります。

 

古事記の島々の生成説話に、伊耶那岐命、伊耶那美命の国生み譚では、淡路島、四国、隠岐の島の次に九州島を生んだとある。面四つあるとし、筑紫を白日別、豊の国を豐日別、肥の国を建日向日豊土比泥別、 

熊曾の国を建日別と言うとある。 筑紫の国魂であるとされる由縁である。  「神奈備」より

 

遠く甲斐源氏、武田信玄のルーツではないかと考えている神社が島原半島全域にあります。

それが、島原市有明町の温泉(ウンゼン)神社=四面神社(長崎県島原市有明町大三東<オオミサキ>丁531番)他…この一群の神社の神紋が四ツ目菱なのです。


 島原半島全域で見られる、四面信仰の末社の一つ旧三会村の三会神社。旧格付けでは、村社であったろうから、村の名前を冠して呼んでいるのだろうが、実際は温泉神社の末社。額束や神額にも「温泉神社」と記されている。

 四面信仰の中心となる雲仙の温泉神社は、現在でこそ温泉街に隠れているが、山岳信仰時代は、島原半島内の中心的神社で、女人禁制の霊山であり、また男であっても、簡単に参詣にいける場所ではないので、雲仙の麓に数多くの末社が祀られた。


SPOT20-8


島原鉄道の線路を挟んで、海から入る一の鳥居。

【祭神】

白日別命、豊日別命、向日豊久士比泥別命、建日別命、速日別命

東側に面した二の鳥居。

【創建】

旧四面宮の創建は、みな神亀5(728)年といわれる。創建当時は、礼拝所程度のものだったかもしれない。

ネット上の「三会神社(島原市三会町)」による


ここでは、何故面四ツ、四神が面五ツ、五神となっているかは不明。

いずれにせよ、四ツ目紋を使う一族が甲州、信州と島原半島に展開している事は見当がつかれたのではないでしょうか。

この四面神こそ高御産巣日神=高木大神(島原半島は南高来郡、諫早などは北高来郡)であり、天孫族が九州に入って来る以前に阿蘇から高千穂=三田井(南北を含む)高来郡一帯を支配していた先住神であったと考えられるのです。

阿 蘇の草部吉見神社が、何故、草部と称 していたかは朝鮮半島の伽耶と九州の大半を制圧していた高木大神の一族への入り婿として傘下に入った事をもって伽耶部=茅部=草部と称したのであり、鹿児 島県の甑島から旧溝部町に基盤を置いていた土俗宗教がカヤカベ教と呼ばれた事も同様に伽耶の高木大神の領域であった痕跡なのです。

ここまで見て来た上で、これまで百嶋先生が言われていた内容から想像を広げると、主として阿蘇高森の草部吉見=海幸彦に象徴される阿蘇系騎馬軍団と山幸彦に象徴される新羅系氏族、それに、新たに加わってきた大 山祇神とその子大国主に象徴されるトルコ系騎馬集団が九州の熊本以南に入り狗奴国と呼ばれ、その戦後処理=国譲りによって、大山祇系は愛媛に大国主系は出 雲に、他の領域の大半は博多の櫛田神社の大幡主の領域へと変わり、さらに崇神天皇が行ったとされる九州王朝の四道将軍の派遣による展開と、最終的には九州 王朝が白村江の闘いによって亡んで以降の避退、逃散によって、その戦闘集団の多くが、山陰から但馬へと展開し、さらに甲州、信州に展開して行ったように見 えるのです。

いずれにせよ海士族中心に論ぜられる倭人の古代国家ですが、後には陸戦を得意とする匈奴(トルコ)系氏族の流入を考えざるを得ないのであり、彼らによって騎馬戦が持ち込まれたと考えるのです。


四、伝説
(1)神大野宿禰に関する伝説
 此れは肥前風土記に関係ある伝説である。乃ち景行天皇が肥後の長渚浜の行宮におはしまして、我が雲仙岳をお望みになり、彼の山は島の様だが陸に続いた山か、或は島であらうかとお尋ねになったけれども誰も知るものがない。そこで神大野宿禰に詔して見に遣はされた、と言ふのが風土記の記事である。
  然るに此の大野宿禰の乗った船が果して何処に着いて上陸 したか、と言ふのが此の伝説である。それは長渚浜の真正面で最も近距離にある大三東村の大野であると言ふのである。大野は明治二十二年までは大野村といふ 一村であった。此の大野といふ地名も即ち大野宿禰から出たのだと言ひ伝へてゐる。風土記の記事が真実であるならば、当さにさもあるべき、極めて自然的な伝 説と言ふことが出来よう。

『島原半島史』 林 銃吉 編

HP仮称リアス式による

246 山陰土産 ⑨ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “浜田市旭町坂本の賀茂神社”

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246 山陰土産 ⑨ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “浜田市旭町坂本の賀茂神社”

20150902

久留米地名研究会 古川 清久

 

神社探訪も車中泊三日でいよいよ四日目に入ります。

天気も良くない事から前日昼過ぎには浜田市旭町に移動し、始めてでしたが旭温泉に入り、休憩室で長時間原稿を書いては温泉に入っていました。

八月末とは言え、外気温も夜十時になると25℃を切り朝方には20℃近くまで下がりますので非常に快適です。

国土交通省が70年掛って引起したヒート・アイランドに都会で苦しんでおられる方々が哀れでなりません。ともあれ、朝六時には簡単な朝食で済ませ、十キロ足らずの所に在る浜田市旭町今市に鎮座する賀茂神社に向かいました。


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浜田市旭町坂本集落(パノラマ撮影)


 朝まだきはとっくに過ぎていますが、賀茂神社は直ぐに見つかりました。

 賀茂神社については既に「ひぼろぎ逍遥」で書いていますが、


スポット017 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社① “福岡県うきは市 賀茂神社から”

スポット018 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社② “福岡県うきは市 賀茂神社から”(再考)


関心があったのはこの神社が上賀茂の系統なのか、下賀茂の系統なのかと言う点でした。



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賀茂神社正面参道


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同社由緒


雨上がり早々の境内に踏み入りました。

この坂本集落は草払いなど手入れが行き届いていることから神社も同様だろうと予想していましたが、良く手入れされた境内で村の人達の絆が強く感じられました。

関心のあった賀茂神社の系統はご由緒書きで直ぐに分かりました。祭神とされる賀茂別雷命とはツヌガノアラシト(ツヌガに入った阿羅伽耶の人)=中筒男命=御間城入彦五十瓊殖尊のことであり、藤原によって第10代と格上げされた贈)崇神天皇の事です。

 山王権現も修験が入り込んでいますが(権現は神仏混淆によるもの)、大山咋神のことでありツヌガノアラシトの父にあたるのです。つまり父と子が祀られているのです。神殿内の神紋を見たいですね。


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カーナビ検索 島根県浜田市旭町坂本イ-96


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百嶋先生は詳細なヤタガラス系譜(橘一族)系譜を残しておられます

247 山陰土産 ⑩ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “益田市木部町の木部八幡宮”

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247 山陰土産 ⑩ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “益田市木部町の木部八幡宮”

20150903

久留米地名研究会 古川 清久


そろそろ九州に向かって戻ることにし、島根県西部でも中央部に近い山中から西に向かうのですが、一旦は海岸部に出て食料や燃料の調達などが必要です。このため、浜田に出て海岸部から西の益田に移動する事にしました。

益田の手前、木部町に木部八幡宮があります。山陰では必ず通過するポイントであることから、これまでにも二、三度見せて頂いているのですが、八幡宮とある以外何の表示も無い、所謂、顔の見えない神社の一つです。

このような神社であっても、経験を積む事によって多少の見当は付くようになってくるもののようです。


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国道9号線沿いの、一目、古代の潟(せき)湖の辺といった場所に静かに鎮座する木部八幡宮


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JR山陰本線石見津田~鎌手 間の海岸性集落が木部です

カーナビ検索
島根県益田市木部町217


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まずは、神社庁のデータを見ましょう。主祭神は應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、事代主神とされています。

事代主神が加わっているのが実に特徴的で八幡神が覆いかぶさってくる前の本来の祭神の可能性があります。

まず、事代主神を除く三神の組み合わせは、八幡宮の総本山とされる宇佐八幡宮とも異なり、比較的少数派になりますが、大分市に鎮座する豊後国一宮の一つ梼原八幡宮と同じです。

 従って、宇佐八幡宮直系の神社でないとだけは言えそうです。

 この地は、木部と呼ばれています。

 これまでのブログでも何度か書いてきましたが、木部は紀氏の入った領域に付される地名であり、近いところでは、山口県吉賀町柿の木村の木部谷(間欠泉の木部谷温泉でその筋には有名)や大分県の国東半島の岐部が拾えます。

 この国東の岐部も、古来、紀氏が盤居した領域として知られており、直ぐお隣の宇佐八幡宮とは別系統の石清水八幡宮系の神社が置かれています。

代表的なのが姫島正面の伊美港に鎮座する大社の伊美の別宮社(石清水八幡の別宮の意味)でしょう。この国東の紀氏の領域の社殿の造り方が同じで、国東の岐部の岐部八幡宮の神殿、参拝殿の左奥に謎の

摂社が鎮座しているのと対応を見せているのです。


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詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)124 宇佐神宮とは何か? ⑲ “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する八幡神社の境内社について”を読んで頂きたいと思います。


写真は国東半島国見町の岐部神社境内から見た岐部の集落です。


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国東は一般にも、古来、紀氏の領域であったと言われてきました。

岐部の「岐」も「紀」を置き換えたものなのです。一部の例外はあるものの、国東半島全域に宇佐とは異なる岩清水神社系の八幡神が勧請されており、境内社として頻繁に見かける若宮社もこの地では応神ではなく仁徳が祀られています(宇佐八幡宮の若宮も仁徳ですが…)。

そもそも、岩清水八幡は橘 諸兄の末裔が宇佐から勧請したもので、岩清水の正面には、今も、高良神社が鎮座しているように、この一帯にも高良社を祀っているものがかなりあります。

現在、国東といわず筑後以外に高良玉垂宮はあまり確認されません(九州でも島原半島、武雄市、日田市、南さつま市などに数例があり、四国に8社、中国地方に数社ありますが)。

この伊美別宮、岩倉社、岐部神社…は、いずれも元は高良神社であった可能性があるようです。


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国東半島 伊美の別宮社の境内摂社


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国東半島 国東市岐部八幡宮の境内摂社


根拠も無く地名だけでここまで踏み込むのは問題がある上に違法でさえありますので、ここでは紀氏が入っているのではないかとだけしておきます。

 依然、この木部八幡宮の二つの摂社が何かは気になります。

 もう一つの考え方として、通常の八幡神とは異なる事代主と、稲荷神が合祀された形跡があるようで、豊受大神が祀られているのかも知れません。

あやふやな話はここまでとして、百嶋神社考古学に於ける事代主が何かを考えて見ることにしましょう。


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スポット021 地名研究会グループの第二番目の研修所がオープンしました! (詳報後日)

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 スポット021 地名研究会グループの第二番目の研修所がオープンしました!(詳報後日)

20151226 

久留米地名研究会 古川 清久

 

地名研究会グループの第二番目の拠点とも言うべき研修所がオープンしました。

今度は温泉地帯でも高原地帯でもないのですが、福岡県でも筑豊のど真ん中、田川市の南、川崎町役場の直ぐそばといったところです。なお、最寄の駅はJR日田彦山線の池尻駅になります。


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非常に天井が高く広さを持つ研修室兼スタジオ兼宿泊所です


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日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所と豊前、筑豊研修所の間は車で70キロ70分ほどの移動が可能です


 豊前、筑豊研修所は、元々電気関係の会社の研修所だったものですが、今回、改装し研修所として利用する事としたものです。

既に、パソコン、プロジェクターは元よりプロジェクター用の大型電動スクリーン、薄型大画面テレビ、超高音質の音響設備を備えており、ユーチューブへのネット放送へのスタジオとしても十分に利用出来るもので、講演者へのインタヴュー、シンポジウム、講演そのものの収録は元より、バス、トイレ、キッティンもあることから1015人ほどの宿泊も可能な施設です(連絡先ケイタイ09062983254古川)。

 邪馬台国畿内説論者などは勿論お断りしますが、地名研究会の会員の方を中心に、真面目に古代史を研究されている方、九州王朝論の研究者などは、一泊朝食付き1500円(朝食なし1000円)程度の御寄付で長期間の調査旅行などに活用して頂きたいと思います。なお、地名研究会への入会金は1000円です。

248 山陰土産 ⑪ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “山口県柿木村の三嶋神社”

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248 山陰土産 ⑪ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “山口県柿木村の三嶋神社”

20150903

久留米地名研究会 古川 清久


島根県西部は山口県から阿東町が東の津和野町に突き出していますが、西南部は吉賀町が山口県に張り出しています。この部分にあるのが旧柿木村です。

南には平家ケ岳を始め1000メートル級の脊梁山脈が連なり、東西、南北の移動を遮っており、普通、一般の観光客が全く足を踏み入れない秘境を蓋い囲っています。

この地に足を踏み入れるのは今度で四度目ですが、あまり人が入らない清浄な地であり、僅かに残された心惹かれる土地です。


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旧柿木村は“美しい”の一言です。まず、山は針葉樹の植林率が非常に低く、広葉樹林に満ちています。川も不必要なコンクリート構造物が控えられ、それだけでも心が癒されます。


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三嶋神社(柿木村白谷)


カーナビ検索
鹿足郡吉賀町柿木村白谷61


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島根県神社庁の資料によると柿木村白谷の三島神社は祭神が書かれていません。

柿木村大野原の三島神社も同様です。

しかし、柿木村下須の田中神社も、同様の神社の様で、他の三島神社がそうであるように大山祇を祀るようです。

してみると、柿木村では大山祇を祀る神社がかなり卓越している事が分かります。

しかも、柿木という地名と三島にも、柿木と大山祗にも何らかの関係があるはずなのですが、今のところ分かりません。物部氏が関係しているのではないかとは思うのですがこれからです。


新潟県三島郡出雲崎町柿木 岩手県岩手郡雫石町柿木埼玉県草加市柿木町

静岡県伊豆市大平柿木本柿木岡山県総社市清音柿木 岡山県 高梁市柿木町


ともあれ三島神社が瀬戸内海の大三島の三島であり、大山祗命を奉祭する人々がある時代に大量に入っているのではないかと思います。

 これも今後の課題として、百嶋神社考古学では大山祗命をどのように位置づけるかを見て頂く事にします。


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249 山陰土産 ⑫ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “柿木村の奇鹿神社とは何か”

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249 山陰土産 ⑫ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “柿木村の奇鹿神社とは何か”

20150904

久留米地名研究会 古川 清久


 柿木村には大山祇神社と並んで、奇鹿神社という気になる神社が二社確認できます。

写真左が木部谷の奇鹿神社、右が七日市の奇鹿神社です。

 島根県神社庁の資料によれは、七日市の同社は祭神を天児屋根命としますが、岐部谷のそれは不明とされています。

が多少思い当たることがあるので取上げる事にしました。

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七日市の奇鹿神社が祭神を天児屋根命としているのは、天児屋根が春日大神と同一視され、中臣連の祖神であり藤原氏氏神として信仰されたことから、帰順の結果受け容れた神と考えるのが順当で、そのまま真に受けることはできないでしょう。

ここでは無理な判断を止め、このような神社が存在する事を確認するに留め、今後の二次、三次の調査に待ちたいと思います。さて、地元には立派な研究者がおられるようで、


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というサイトがあります。

 全文は直接見られるとして、勝手ながら一部を引用させて頂きます。


要約すると、文武天皇(西暦697年~西暦707年)の頃、現在の福岡県あたりに悪鹿が出現。奇形で八足角は八つに分かれていた。この鹿の毛は赤く30㎝ほどもあったという。口は穀物を入れたり選別に使用する箕(み)のようだと言う。天を駆け地を走り鶏(鳥?)、動物を食い(鹿は草食のはず?)、人をも殺したと言う。そのため農作業もできなかった。天皇の命により江熊太郎がこの猛獣退治を始めた。

猛獣は追跡を逃れ小倉から山口県に逃げ、さらに鹿野を通りこの地に入り、大岡山の麓三つ岩に留まった。
江熊太郎は立戸の金五郎岩まで迫り毒矢を放った。悪鹿に矢が当たるとその本性を現し、江熊めがけて襲いかかってきたのを二の矢で射止めた。
 するとにわかに霧が立ちこめ天地が震動した。この悪機に触れ江熊太郎はその場に倒れ死んだ。
役所に報告し悪鹿の遺骸は引き出され、今の月和田に運ばれその形態を写生し解体した。その解体した場所を「骸崩」(からだくずし)と言い、解体するのに柚の木に引っかけて解体したので、以来、柚の木は育たないという。(大明神記には悪鹿は月和田まで逃げそこで絶命したともある)

 江熊太郎は荒神明神として祀られ鹿の霊も立戸の田んぼの中に大明神として祀られた。
悪鹿のたたりを恐れ良い鹿、良を吉とし鹿を賀(めでたい出来事祝う意味)にあらため「吉賀」とし、この地方の名前となった。

 

これ以外にも所謂「悪鹿伝説」に関しては多くの話しがネット上でも拾えますので試みて頂きたいのですが、柿木村一帯は古代から秘境中の秘境であったはずで、多くの政争に敗散した善良な人々が何派にも亘って入って来たものと考えられます。

それを受け容れるだけの広い領域が残され生きて行くことが可能だった桃源境が柿木だったのでしょう。

奇鹿神社の祭神に見当が着いた訳ではないのですが、他のサイトも含め、「柿木あれこれ」氏も奇鹿神社は明治まで鹿大明神と呼ばれていたとのことですので、まずは北部九州を中心とした海人族の一派が七世紀初頭前後に入って来た可能姓を否定できません。

博多湾沖に浮かぶ志賀島を中心とする安曇族が「シカ」「アズミ」「アド」(滋賀、鹿町、安曇野、安土、安曇川、熱海、渥美…)と言った地名と関係があることは古来多くの論者が述べてきたところです。



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HP「柿木あれこれ」より


また、これは当研究会のメンバーである 吉田宮司が言われている事ですが、古代の海洋民にとっては鹿角(骨ではなく爪と同じ弾力のあるタンパク質の塊)は黒曜石を効率良く応圧剥離し破片を取るの に必要なものであり、同時に、鹿角を加工するためにも黒曜石が必要なため、その黒曜石の採取者、運搬者、交易者として海人が大きな役割を果たしていたとす るのです。

このため、本州の黒曜石の産地である長野県の和田峠に和田(綿津見のワダ)が付されており、現在も志賀島の志賀海神社には鹿角堂(倉庫)が置かれている…。というのです。

ここでは、鹿大明神を奉祭したのは海人族の末裔の可能性があるまでは言えそうです。

問題は「奇」とされた意味ですが、卑字の可能性もあり、好字の可能性もあり今のところは判断が着きません。

 我々九州王朝論者にとって、“文武天皇の七世紀前後に海人の侵入があった”とすれば、それは、九州王朝の敗北と、近畿大和朝廷による本格的九州制圧の時期だけに、続日本紀に言う、「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、復(また)(つみな)ふこと初の如くせよ。」『続日本紀』元明天皇和銅元年(七〇八)正月条 に相当し、多くの避退者、抵抗者、落武者が発生した時期に対応しそうなのです。

ここで話しが変わりますが、一つの面白い現象に気付きます。

この吉賀町七日市の奇鹿神社の正面、隣には「朝倉」(朝倉折…)という地名があります。

実は、兵庫県の日本海側の但馬地方になりますが、城崎温泉で知られる豊岡市の南隣の養父市朝倉に「九鹿」(現在はクロクと読む)という地名があり、以前から気にしていました。

 既に、この朝倉地名については、「ひぼろぎ逍遥」144 「朝来」地名について ① “兵庫県朝来市の朝来山から”145 「朝来」地名について ② “但馬、朝倉、養父、志波” 146「朝来」地名について ③ “朝倉氏と小佐氏”において取り上げているように、熊本市の南(益城町)から福岡県朝倉市、兵庫県養父市朝倉を経由し戦国期の浅井、朝倉の朝倉氏の居城金ケ崎城(福井の「金ケ崎」地名も宗像大社に近い鐘ケ崎の地名移動)へと朝倉地名を運んだ一族が居た事を確認しています。

今回、この吉賀町の「朝倉」地名の存在を知った時、直ちに吉賀町が「朝倉」地名の移動の中間点である事に直ちに気付きました。

 その吉賀町に奇鹿神社を見出した時、養父市の九鹿地名の事が頭に過りました。

 そもそもこの「朝倉」地名を移動させた人々とは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の一族である事を故百嶋由一郎先生から教えて頂いています。

 ただ、百嶋説によれば、造化神のイザナギ、イザナミのイザナミ命は、イザナギと短期間で別れた後、大幡主の妃となりヤタガラス=豊玉彦の母となっているのです。

 このため、一概に大幡主の一族と言っても、大幡主そのものの白族、金山彦の妹であるイザナミ(大幡主のお妃となり熊野夫須と名を変える)の流れの瀛氏の一族、豊玉彦=ヤタガラスの一族と、それぞれ氏族が異なる事が分かります。

熊野三山でも熊野夫須美命を祀るとする熊野那智大社は実はイザナミ命を祀る神社です。

 ちなみに、熊野速玉大社は速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神としますが、大幡主とイザナミ命の夫婦神を祀る神社と考えられます。

熊野本宮大社ですが、実は前者の間に産まれた細石神社のイワナガヒメを祀る神社なのです。

 いずれ、熊野三山の解読に取り組みたいと考えています。

 そして、吉賀町朝倉にも那智神社があるのです。

ここで、但馬の朝倉をご紹介したいと思います。以下…。

…兵庫県の但馬地方に御井神社があります。

この但馬という地名も宗像大社の大字田島の地名移動であることは、まず、間違いないでしょう。

神額に式内「御井神社」と書かれています。ただ、この神社がある場所をお分かりになる方はまずいないのではないでしょうか。


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神額に式内「御井神社」と書かれています。ただ、この神社がある場所をお分かりになる方はまずいないのではないでしょうか。

兵庫県の日本海側、但馬の国は養父市大屋町という奥まった山村です。九州王朝の近江遷都が取り沙汰される中、但馬の御井神社が九州王朝と全く関係がないとは考え難いように思えます。

 そもそも、久留米市の目と鼻の先、佐賀県鳥栖市の中心部に養父町があり(明治には養父郡養父町)、現在でも旧三根、養父、基肄の三郡をもって成立した三養基郡が残っているのです。…

朝倉氏の出自が但馬の養父市に端を発し ていることは明らかなのですが、それに加えて、このような多くの地名対応が認められることから、この養父市の朝倉氏のさらなる起点を福岡県の朝倉市に求め たいと考えています。では、ここでは養父市の中心部に朝倉という字地名があり朝倉と言う交差点があることをお知らせして次回に繋ぎたいと思います。神社調 査は根気とフィールド・ワークの積み重ねなのです。


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朝来市から養父市への幹線道路の終点付近にこの交差点があります  養父市八鹿町朝倉

スポット022 新著のご紹介 「古事記歌謡全解」「辰国残映」

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スポット022 新著のご紹介 「古事記歌謡全解」「辰国残映」

20151226

久留米地名研究会 古川 清久


最近、地名研究会グループ宛てに多くの著書が贈られてくるようになりました。

会の活動が全国的にも知られるようになっているからかと思われるのですが、その分責任も大きくなり、過重な責任に答えるのもかなり大変になってきました。

利権がらみの学会通説派などが多少は悔い改めて、少しは真面目な研究を行うなどと考える事は全く出来ないことから、むしろ、地下組織的、秘密結社的な小グループで訳の分かった人だけの研究会にする方が効率的ではないかとも思うこの頃です。

今回ご紹介するのは、坂田 隆氏による「古事記歌謡全解」と安部裕治氏による「辰国残映」の二著です。

坂田 隆先生とは面識もあり、数あるご著書の一部は読ませて頂いていますが、安部氏とは面識も無くご努力とご研究にはただただ敬服するばかりです。

この本に関しては自費出版本でり把握が遅れた事から、新著とは言っても実際には20151月に発刊されているものでした。改めてお知らせするものです。


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坂田先生に関しては、福岡県内の某古墳に関してご協力を頂いている関係にあり、新著の内容に拘らず久留米大学の公開講座(九州王朝論)でもご講演頂く事を考えているところです。

 先生は理工系の方と理解していましたが、言語にも精通された方である事を改めて再認識させられ、今回の著書には驚くばかりです。

 前著と経歴については下にプロフィールを掲載していますのでご覧いただきたいと思います。

  「辰国残映」については、「契丹古伝」による倭人と倭国の新解釈であり、邪馬台国畿内説などと言う利権まみれの愚かな妄想や邪馬台国東遷説といった通説に 擦り寄る俗説に踊らされておられる救い難い方達は致し方ないとしても、古代史から九州王朝論に精通した方でもあまりご存じではない方が多いと思います。

 ただ、九州王朝論の中でも佃収研究、とりわけ、佃先生の「倭人のルーツと渤海沿岸」(「古代史の復元」全9巻シリーズ①)を読まれた方には、見過ごすことのできない新研究の要素を予感させるものです。

 佃収先生に関しては、既に、久留米大学でも提携団体の菊水史談会でもご講演頂いており、その二度の講演に於いても、今回の「辰国残映」が取上げている安(日の下に免)辰(水に云)氏がテーマであったために興味津津といったところです。

 いずれも、久留米大学の公開講座で是非とも講演して頂きたい方です。


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   講演中の佃 収 氏       佃氏の第一著


「辰国残映」については著書の送付に際して内容の概要が書かれていましたので全文を掲載しておきます。


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250 山陰土産 ⑬ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “4泊5日の調査旅行が終了しました

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250 山陰土産 ⑬ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “45日の調査旅行が終了しました”

20150905

久留米地名研究会 古川 清久


 今回の調査探訪は45日(延べ10湯)25社、往復1000キロ(食費燃料代込み総額13,000円)という行程でしたが、ブログで取上げた12の神社の外にも多くの神社を見て回りました。

 現在は、ネット上で多くの情報が拾えることは間違いなく、効率を考えても百嶋先生のご努力の十分の一以下で資料が収集できるでしょう。

 しかし、現地で実際に入手できる知見は多岐にわたる四次元的情報であり、やはり無視できるようなものではないのです。

 インターネットは平面的で実に無味乾燥で、ただの一次元的な文字データが並んでいるだけです。

もし、インターネットの検索だけでリポートを書くとしたらどうでしょう。

確かにそれなりのものは書けるかもしれませんが、それなりのエッセンスと言うか、ひらめきと言うか、ヒントと言うか、記録に残したいと言う動機は、やはり、現地でしか調達できないものなのです。

最後に編集の都合もあり、予定にはなかった恵美須神社についてお話をして山陰土産の終りにしたいと思います。


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恵比寿とか恵美須とか書かれ、大国様と並んで登場される人気者の神様がおられます。

打出の小槌をお持ちの大国様は、大国主命としてそれなりの実在性を感じさせるイメージ実体があるのですが、鯛を小脇に抱え釣り竿を持っておられるエビス様は、エビス・ビールの具体性以外にその実体が何なのか疑問をお持ちなのではないかと思います。
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えびすは日本ので、現在では七福神の一員として日本古来の唯一(その他はンド中国由来)の福の神である。古くから漁業の神でもあり、後に留守神ともされた。蛭子蝦夷恵比須恵比寿恵美須などとも表記し、えびっさんえべっさんおべっさんなどとも呼称される。

えびす神社にて祀られる。日本一大きいえびす石像は舞子六神社に祀られており、商売繁盛の神社とされている。

「えびす」という神は複数あり、イザナギイザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多い。少数であるが、えびすを少彦名神彦火火出見尊とすることもある。また、外来の神とされることもあり、「えびす」を「戎」や「夷」と書くことは、中央政府が地方の民や東国の者を「えみし」や「えびす」と呼んで、「戎」や「夷」と書いたのと同様で、異邦の者を意味する。このように多種多様の側面があるため、えびすを祀る神社でも祭神が異なることがある。

ウィキペディア201509061100による


 当方は恵比寿(エビス)をM音とB音の入れ替わり現象で、エミス(エミシュorエミシ)と考えていますが、百嶋由一郎先生は、エビスは古い神様で、紀元前後に列島に入って来た新ヘブライ系の金山彦や白族に対して、紀元前千年以前から列島に入っていた古々代ヘブライ系の人々とされていました。


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今回、この神社が何かと言う話はしませんが、エビスの神紋ははっきり打たれていました。

もちろん、他の恵比寿神社がそうだからそれを真似しているのかも知れませんが、それも関係はありません。

このエビスが使う神紋が所謂蔦紋なのです。


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ここで、ユダヤの神紋と言われるメノーラの神紋をいくつか見て頂きましょう。


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少しは百嶋先生が言われる事を分かって頂いたのではないでしょうか?

251 鬼怒川大水害と災害後しか関心を持たれない「災害地名」

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251 鬼怒川大水害と災害後しか関心を持たれない「災害地名」

20150916

久留米地名研究会(編集員)古川 清久


先に「ひぼろぎ逍遥」209 災害後しか関心を持たれない「災害地名」においてこのように書いていました。


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災害がなければ注目されない歴史、危機に陥らないとお呼びじゃない変革者や預言者


 災害があると、ようやく「この現場は元々危険な場所だった…」などといいった普段は見向きもされない古老とか識者の見解が妙に持ち上げられ、埃が払われて当然でもあったかのように持ち出されて来るのです。

 津波が入る湾奥地、大型活断層直上地、洪水常襲地、崩壊地、鉄砲水経験地…など日本の 様な災害常襲国では少し考えれば幾らもあるのですが、普段、そんなことを言えば「年寄りの戯言だ!」「町興しに反対するのか!」「地価が下がるじゃない か!」「営業妨害だ!」「地権者でもないのによそ者が何を言うか!」となってしまうからです。

 東北大震災後、津波絡みの災害地名の本(「あぶない地名○○」「地名は警○する」「災害・崩壊・津波地名○○」…)といったものが出されましたし、広島の土石流災害後に同地が元は蛇落地悪谷」(ジャラクチアシタニ)だったと言った話が面白おかしくにわか仕立てでクローズアップされました。

 これはこれで立派な調査や研究であり敬意を表するのにやぶさかではないのですが、結局は時流に乗る商業目的(悪いと申上げているのではないのでクレグレモ…)か、良く言って、情緒的な免罪符か諦めとか癒しのためのセレモニーに近いものではないかと思うばかりです。

 とは言え、確かに過去災害に見舞われた土地、頻繁に土石流が襲う土地、ここだけは不思議と助かる土地、ここまでは津波が やって来なかった土地、よそは全て水没したがここだけは漬らなかった…と言った特徴的な土地は、それなりの地名が新たに付され、古来、刻み込まれている場 合があることは確かで、その事例は経験を積めばある程度は見当が付けられそうです。

 ただし、古語や方言や外来語に対する素養とか、地形、地質、植生、土質を読む総合的な知識が要求される事になり、我々の様な田舎地名愛好者ぐらいではなかなか追いつかないものです。


国、地方行政機関自体がその貴重な地名を破壊し続けている


 谷川健一をして「文化遺産」と言わしめた貴重この上ない宝物としての地名を、効率性とか差別地名や不明地名の排除とかいった勝手な判断によって徹底して破壊し(国土調査、町村合併、区画整理、換地処分…)続けている張本人が行政です。

 そのくせ、災害があると、国土交通省などは自らの子飼いの風土工学系研究者などを動員し、天下り先にしているコンサルタント会社などに災害地名拾い出し(パンフレット作成)させて天下りのお土産や商売にしているのです。

 まず、地名など不確かなものに頼る前に、その土地に永く住み、地元の事情に精通してい る識者に聴きしすれば、住んではならない土地、買ってはならない土地、できれば避けなければならない土地は分かるはずですが、問題は皆が都市に集中するよ うになり、そのような情報から全く切断され、分譲業者やディベロッパーといった利潤優先の他人から買わざるをえない状況に陥っている事実そのものが問題な のです。

 昔は全ての人間が自分達の住んでいる土地の事を知っていたし、頻繁に山や谷や川と関係 を持って生活していたために、例えば、山にどのような木が生えているかだけでも、滑り易い土地、崩れやすい土地は知っていたし、同じ杉山にしても、幹が曲 がった山は地滑りや表層崩れが起きている事から、その下に家を建てる事は決してしなかったものです。

 まず、農水省の拡大造林政策によって、本来、落葉広葉樹や常緑広葉樹で維持されていた山体の勾配が針葉樹に植え替えられれば危険極まりないものになっているのであって、単に山に緑があるからと安心してはいけないのです。

 本来、蛇落地悪谷」といった特殊な痕跡地名を探る前に、最近開発された(山を切り、谷を埋めて造られた)にわか仕立ての急造地こそが危険であり、こういう土地は、決まって、何々ケ丘、何々台、何々タウン、平成○○ヒルズ…と名付けられているのです。

 むしろ、逆に、好字、好感、高アピールの土地こそが怪しいのです。

 何故なら、福岡市内では5000万円以下ではまともな敷地面積の戸建は取得できないとされているように、人が住まない、住んではならない、危ない土地だからこそ売れずに残っていた安い土地である事から開発する価値があるのです。

 実は、このような新造地の下に、多くの人命を奪ってきた危険を告げる情報が刻まれた小字名、四股名が残っているはずなのです。

 このことを頭に入れた上で地名を考えると、最近の急造地ばかりではなく、その時代ごとにそのような事が起こっていると分かって来るのです。

 良い例が、長崎県島原市にあります。海岸部の島原温泉は知られていますが、観光客は振り向きもしない地元の人だけが行く山手の温泉に、「上の湯」、「新山鉱泉温泉下の湯」があります(最近は入っていないので一方は閉鎖されているかも知れません)。

実はこの一帯が「新山」と呼ばれているのです。つまり、「島原大変肥後迷惑」における山体崩壊=大規模土砂崩れによって埋まった地域が新山(まさにニュー・ヒルズ○○)と呼ばれたのです。

 この新山の北には、正直に崩山(クエヤマ)町や栄町が、南には緑町(まさにグリーンタウン○○)が、山そのものが滑り落ちた海岸部には、湊新地町(ポートorハーバー・ニュー・タウン○○)があるのです。

 次はそれに続く大規模災害が近年にも存在した事をお知らせしておきます。


です。

広島の大規模土砂災害に関しては、「蛇落地悪谷」という地名の話が興味本位で取りざたされたのですが、今回の鬼怒川の大洪水についても、福岡の某テレビ局から久留米地名研究会に対して「福岡県の災害地名についてどう考えておられますか…」といった問い合わせが舞い込みました。

この手の問い合わせに関しては前述した通りですが、今回は広島の場合と異なり、土石流ではなく堤防決壊に伴う洪水、浸水災害です。

これについては、「鬼が怒る」と尋常ならざる表記がされた地名であり、どのように考えても後世に教訓を残し警告している地名と考えられるのであり、元々、そのような土地に住み着くべきではないはずなのです。

しかし、そのような事を一言でも口にすれば、開発業者、行政から袋叩きにされるのは明らかであって(過疎化の後押しするのか!)、結局、警告も教訓も生かされずに災害が繰り返すだろうとしか思えません。

このためこのような拝金主義と無責任体制への侮蔑のみに留め、純粋に地名研究の立場から古代への探査へのビームを伸ばすことにしたいと思います。

詳細な検討は今後行うとしても、面白い事実に気付きました。

まず、「鬼怒川」は古くは「毛野川」と書かれ、「上毛野」、「下毛野」という大分県の耶馬渓一帯の地名と対応する上に、鬼怒川の東にはこれまた氾濫を繰り返してきた「小貝川」が流れているのです。

しかも、「小貝川」は古くは「子飼川」と書かれていた様で、「子飼」と言えば、熊本市の白川沿いに掛る橋が「子飼橋」であり、古代には蚕を飼っていたと言われる「子飼」という地名であるのです。


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仮に、「絹の川」「絹川」があり、蚕を飼う「子飼川」があったとすれば話は旨い訳で、先ほどの上毛野、下毛野という大分県の耶馬渓の地名と併せ考えれば、肥後から豊前に掛けての人々が遠い古代に進出した痕跡地名に思えて来るのです。

既に、「常陸国風土記」に見る「杵島ぶり」の話は九州からの「建借間命」の進出を思わせるものであることは前のブログでも触れています。


古老の話によりますと、崇神天皇の時代に、東国に住む凶暴な賊を平定するため、建借間命(たけかしまのみこと)を派遣しました。(中略)そこには、夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)という二人を首領とする賊たちが穴を掘り要塞を造って住んでいました。彼らは命の軍隊が来ても降伏せず、手向かいました。建借間命が軍勢を差し向けると、賊は逃げ帰って要塞を閉ざしてかたくなに抵抗しました。
そこで建借間命は賊たちをおびき出すために、策略を思いめぐらしました。まず勇猛果敢な兵士を選び出し、これを山の隅に隠れさせ、兵器を 作って備えつけました。それから海岸に船や筏を組んで、雲のような大傘を張り広げ、虹のような旗をなびかせました。そして天の鳥琴と天の鳥笛を美しく鳴ら して肥前の国(現在の佐賀県・長崎県)に伝わる杵島曲を、七日七夜も奏で歌い舞ったのです。
そのうち、賊たちは賑やかな音楽にひかれて要塞から皆出てきて、浜辺いっぱいに浮かれだしました。その時建借間命は、騎兵に命じて要塞を閉 ざさせて退路を断ち、後ろから襲撃して、ことごとく賊の仲間を捕らえ、同時に焼き殺してしまいました。                 「常陸国風土 記」より


「杵島の唱曲(きしまのうたぶり)2014-05-15 00:52:24 | 「潮来・茨城の歴史」
より


今回の鬼怒川の洪水騒ぎについては、被災者の方には非常に申し訳ないと思うのですが、“また、愚かな事が繰り返された”といったといった感想しかありません。

元々、人が住み着くべきではない土地に住み着いたことが全ての誤りであり、このような危険極まりない低地に住宅の建設を認めたのが誤りであ り、行政はとうの昔に危険性を十分に把握していたのですから(後から作られたものであってもハザード・マップは水没の危険性を指摘していたのでした)、江 戸時代の行政であれば住居の建設は認めていないはずであり、そもそも危険性を知っている地元の百姓は水田にはしても住居は建てていなかったはずなのです。

この地に古くから住んでいた人は、いつも洪水になる土地であるという事は語り継がれ十分知っていたのであり、古来、安全な所の一等地には古社が置かれ、今も豪族の末裔といった方々が好(高)地を占拠し安全に暮らしているはずなのです。

愚かしいのは、常総市役所をこのような低地に置いたことです。

無理して合併したのであれば、長期的展望を持った行政の中枢を得るべきだったはずなのですが、またもや大失敗、大失態を演じてしまった(シマッタ)ようなのです。

行政の長がこのような平和感覚では、始めから危機管理を期待することなど凡そ無理なのであって、行政自体が救援を求めてしまわざるを得なくなっているのでした。

増してや少しでも安い土地を求めてギリギリのローンでようやく得たマイ・ホームを流された方々はお気の毒としか言いようがありません。

安い土地は元々売れない土地だから今まで残っていたものであって、だからこそディベロッパーはこれ幸いとばかりに住宅や宅地を供給したのであって、危険には目を瞑り金儲けを優先させたのでした。

民衆は、中古住宅でも良いから安全な場所を選択するべきだったのです。

行政に頼らず、一切期待せず、一切信ずることなく、自らの頭だけで物事を考え、自らの居住地を選択するべきなのです。

不動産業者、ニュータウンのディベロッパー…は営利しか考えていないのであって、元々、人が住み着いていない、住み着いてはならない土地であった事などは知っていても黙して語らないはずです。

今回も、警告地名としか考えようのない「鬼怒川」は、古くからの伝承や地元の知恵を一切顧みようとしない拝金主義によって、せっかくの次世代への警告は一切警告となることなく鬼の冷笑にしかならなかったのでした。

「広島」、「鬼怒川」の場合と同様に、再び、第二、第三の大規模災害は間違いなく起こることになるでしょう。

このように繰り返される馬鹿げた現象に一喜一憂することなく、ここでは地名そのもの問題を考えて見ましょう。

今回、おぼろげながら持っていた薄いイメージに対して、改めて古代常陸国に九州から進出した人々がいた事を確信するに至りました。

その一つが、茨城県の古河(コガ)市に見られる古賀(古河)地名の存在です。

既にこの事については久留米地名研究会のエース永井正範氏が「古賀」地名としての常陸の「古河」地名の存在を指摘していましたが、このほぼ 九州限定の「古賀」地名と対応する常陸の「古河」地名とは、河道を変えた旧河川の跡地である「古川」と同様、「古賀」地名の原形であろうと考えられるので す(「古河」は好字令によって「古賀」と変わった713年以前の地名か)。

通説は、ほぼ、九州限定の「古賀」地名に対して「空閑」(クウガ)を想定していますが、河の流れが洪水によって変わり、残された元々の旧河道を「古河」(コガ)「古川」(フルカワ、フルコウ、フルコ…)と呼んでいた可能性が高いと考えています。

従って、「古賀」という古(イニシエ)のめでたいという意味の好字は茨木の古河(コガ)が原型ではないかと考えるのです。

と、すると、「古賀」地名の集中する場所(例えば古賀市、太宰府…)も河川氾濫の常襲地帯であり危険な低地なのです。

太宰府の「通古賀」は北陸出身の旧帝国大学の長沼某教授が始めて「古賀」地名に遭遇したことから「遠ノ国衙」と思い込み、教育委員会も含め 「トオオノコクガ」説がまことしやかに語られていますが、貝原益軒も「トオルコガ」としており、「通古賀」の周りにも多くの「古賀」地名もあり、それこそ とんでも説が一般化しているのです。

こうして、氾濫地名としての「古河」、「古川」も「古賀」という好字に変えられ、「遠国衙」トンデモ説に変えられ警告の意味が忘れられて行くのです。

詳しく読みたい方は、「久留米地名研究会」のHPから、027「通古賀」(トールコガ)“通古賀はトウノコガと読むべきか?”を検索して下さい。


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平成27年台風第18号による大雨等に係る被災状況図(平成27年9月11日午前)


内閣情報調査室では、台風第18号 による大雨等に係る被災状況について、情報収集衛星によって必要な情報を収集し、関係省庁に提供しております。この度、今月9日に公表した、大規模災害時 における情報収集衛星画像に基づく加工処理画像の公開の考え方に基づき、被災地域の加工処理画像等を公表することといたしました。

内閣情報調査室より

252 千木について “男千木と女千木、そして千木は日本だけのものなのか?”

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252 千木について “男千木と女千木、そして千木は日本だけのものなのか?” 


「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)共通掲載

20150516

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


神社を見て回っておられる方で、千木の男女を云々される方をお見かけします。

 ところが、神職側には「男千木、女千木にはほとんど根拠が無い」と言われる方が多いように見受けられます。

 というよりも、“そう言っておく方が事情に通じている”とでも言いたげに話される方が多いようにさえ思います(多分、神官養成の過程での影響によるところが大きいのでしょう)。

 中には、“あんなものは全くあてにならない! そんな話は素人の戯言で聴くに値しない…”といった扱いをして軽くあしらっておられる御神職の方の話も何度か傍で聴いております(具体的には伊勢神宮の内宮の方 他でしたが)。

 勿論、訊ねられている方はそれなりに真剣そのもので、少しでも神様や神社の事を知りたいからなのですが、当の神職の方が鼻であしらうといった雰囲気なのです。

千木、鰹木のない神社もありますが、あくまでも一般的にですが、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(楯向きに削る)にし、女神の社は内削ぎ(横向きに削る)にしています。さらに、鰹木の本数も、奇数は男神、偶数は女神とされます。


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まあ、これが現在の“神社業界”の実態といったところと理解していることから、巷の議員先生同 様、こちらもあまり真顔で反論する気にもなれないのですが、どうも明治期に時流に乗り成り上がった伊勢神宮などが、終戦直後の大恥かきも忘れて、公開講座 (九州王朝論)の講演内容に対して口出しをしてきたりするようになってくると、言うべきことは言っておかなければならないという気にもなってくるのです。

 久留米大学の公開講座の開始早々の頃ですが、某講演者が伊勢神宮について学問的に言及したことに対して、戦前の国体明徴運動期の手痛い反省も忘れて大学側に対してクレームを付けてきたという話があるのです。

 事実、久留米地名研究会の活動開始当初においても、伊勢神宮からの圧力についての話は別の件で何度か耳にしていましたので、個人的には大方想像が着く気がします。

要は九州王朝論そのものが不敬であり許しがたい。少しはお灸を据えてやれ!(神社でお灸はおかしいですが)との皇国史観丸出しの教条的な筋からなのか?個人的パフォーマンスによる点数稼ぎだったのかも知れません。

まさか、大神社(宮)が本気で一大学の講義内容に対して口を挟んでくるなどといった時代錯誤の憲法違反を正面切ってやってくるとは考えられませんので。

最も必要ならばいつでも憲法など破り…というより、一度として憲法を守って来たことない国で憲法を守れ!などと馬鹿騒ぎをするほど愚かではないつもりですから、当方もそのつもりで書いてはいるのですが…。

その実、藤原天皇制成立以降、伊勢は一度として天皇家の公式参拝など存在しなかった(つまり近畿大和朝廷にとっては祖先神などでは全くなかったからなのですが)のです。

このため、高々百数十年前に陽の当たる場所に這い上がって来た自らこそが、千数百年の長きに亘って近畿大和朝廷から排除されてきた九州王朝系の神社(特に上下宮ともに)でしかなかったのです。

その実、自らの出自を忘れて九州王朝論をやり玉にしていること自体が極めてアイロニカルに見えてくるのです。

それは、百嶋神社考古学最終神代系譜の左半分を見れば伊勢神宮が如何なる存在であるかは一目瞭然でしょう!

内宮=天照大御神=神武天皇の腹違いの実の姉=卑弥呼(九州王朝実質第2代天皇)

下宮=豊受大神=辛国息長大姫大目命=卑弥呼(天照)代行 宗女壱与までのアンカー

(百嶋神社考古学最終神代系譜参照)

そもそも、神武、天照(弟、姉)も共々架空のでっち上げだとしてきたのが、近畿大和朝廷一元史観の馬鹿学者どもなのです。

 これらについては当事者でもなく、クレマーも点数取のための個人的キャンペーンかも知れないことから大人の対応として話を戻すことにしますが、既に特高警察が公演中止の指示を出す時代は目の前まで来ているのではないかと考えているところです。

 さて、千木の話に戻りますが、多くの神社(伊勢内宮下宮も決して例外ではない)は、権力者の交代や世情の移ろいに合せ、自らの祭神を隠し又、神名を変え又、そのものも入れ替え又、追加し又、裏では祀りながら生き延びてきたのです。

 それが多くの神社に境内、境外の摂社(本殿から排除することで許されてきた)が存在する理由でもあるのですが、同時に列島の神には実体があり、妻、夫、側室、前妻、後妻、再婚、複婚、正側室の子もあるのです。

 簡単に言えば、古代の有力者である神々の結婚は大半が政略結婚であり、時代に併せ、特に有力家系の女子には列島に侵入してきた有力民族の男子が取り込まれ、また入れ替えられてきたのです。

 その結果、本来は女系の女千木の神が祀られていたものであっても、種馬でしかなかった男神が表 に出され千木がそのまま残されるとか、同等民族同士の政略結婚によって夫婦神として祀られたものであっても、時代が入れ替わると片方の神が隠されると言っ た具合に(ウマシアシカビヒコチを隠した水天宮など)、祭神が入れ替えられても初期の祭祀形態が千木に残されたり、逆に密かに祭祀が守られても千木だけが 変えられたりという事が繰り返されてきたのです。

 そのうちに、不勉強な神職のいる神社ほど、その神社の歴史を忘れ、いつしか表面だけしか理解できなくなり、冒頭の“あんなものは全くあてにならないもので、そんな話は素人の戯言”といった暴言を吐く間抜けな神職がのさばりだす事になるのです。

 また、政治情勢の変化は絶えず起こるため、戦国乱世の時代同様に敵方同志であっても政略結婚の 網を張り巡らし、相互に男系、女系で保険を掛けておく事が当たり前であって、次世代は生き延びた、男系か女系かの血筋で一族としては生き延びていくという 事になったものなのです。

 この結果、夫婦神であっても表向きはある時は夫神を表に出し、ある時は妻神を表に出し生き延びてきたのです。

 中には菅原道真を祀る天満宮においてさえ女千木の神社があり(福岡県内某社)、それは九州に左 遷された時に宿された側室(現地妻)家系が守る神社だからそのようなシンボル(怨念)として女千木が採用されているのであって、冒頭の浅はかな伊勢の某神 職の暴言によれば、それこそ何の根拠もない例とされてしまいかねないものなのです。

 そこには、間違いない現地妻との間の血統(道真直系)が残されている可能性が高く、物事の表面しか見えない、見ようともしないつまらない人間が神職になっていることが垣間見えて来る事になるのです。

 死んだことにされた(恐らく双方で納得した)結果、道真は薩摩に落ち延び、薩摩川内市の藤川天神辺りで余生を全うしたのです。藤川天神については、「ひぼろぎ逍遥」019 「道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!」を参照してください。

 特に、伊勢の下宮の主祭神=豊受大神には、古代の有力民族の若頭同志である海幸彦、山幸彦が入 れ替わり立ち代わり夫として(奉仕して)仕えておられ、表向き海幸彦で祀られる神社が在ったり、山幸彦で祀られる神社が在ったり、豊受大神が表に立たれた 神社であったりする色々なケース(従ってその千木もその時々の事情や、奉斎する氏族の力関係が反映する)が成立する事になるのです。

 この場合でもその勢力の盛衰によって、海幸は傍に控えているが山幸は隠されているとか、その逆 もありますし、両方とも別社にされているとか、両方とも境内摂社になっているとか、全くの下剋上ですが、海幸、山幸が正面に出て豊受大神は隠されている場 合すらあるのです(但し千木は女千木)。

 この点を見抜かなければ、その神社の本来の性格は理解できないのであって、全く厄介な事になるのです。

 最後に非常に解り易い例がありますのでご紹介します。宗像三女神を祀る宗像大社(宗像市田島)の辺津宮です。


福岡県の宗像大社は三女神を祀る宮ですが、「辺津宮の千木が外削ぎなのはどうしてだろう」というコメントをいただきました。神社の屋根にある千木は内削ぎが女神、外削ぎは男神を祀ると言われているからです。辺津宮の写真を見直すと確かに千木は外削ぎです。祭神は女神ではないのでしょうか。


252-2

…中略… 宗像大社の説明では「男千木・女千木については俗説で、辺津宮が外削ぎだという事について説明する伝承もない」とのです。

「ひもろぎ逍遥」 宗像大社 辺津宮 千木が外削ぎなのは何故? 結末編


ここでもステロタイプの回答で、うんざりしますが、宗像大社だけではなく神社庁全体の云い訳でしかありません。宗像大社辺津宮(高宮)には実は大国主命が祀られているのです。

詳しくは、「ひぼろぎ逍遥」105 宗像大社の本来の祭神とは何か? 同(跡宮)067 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して。僭越ながらも… 。などをお読みください。


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百嶋神社考古学最終神代系譜(一部)


くどいようですが、「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」076 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑨ “宮地嶽神社とは如何なる性格を持たされた神社なのか?(中)” においてもこのように書いています。


正確にはスセリ姫=宗像三女神のお一人(瀛津嶋姫命)=市杵島姫は、金山彦と姻戚関係を結んだ大幡主の子である豊玉彦(ヤタガラス)の姉の子であるが故に栄えある瀛津嶋姫命という名を頂いているのです。

宗像大社が「古事記」により天照大神とスサノウの誓約(ウケイ)により生まれたなどと妙に格上げされている背景にはこのような事実が存在したからなのですが、では、私達、百嶋神社考古学の立場から主張する隠された宮地嶽神社の本来の祭神、阿部相凾(恐らくアヘorアベノショウカン)こと高良玉垂命の若き姿を投影したワカヤマトネコヒコとはどのような流れを汲んでいるのでしょうか。

なお、秦の始皇帝と縁組した瀛の一族については「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 069 宮地嶽神社と安曇磯羅 ②“安曇磯羅が祀られているのか? 否!!を参照して下さい。

簡単に言えば、孔子が褒めそやし、秦の始皇帝に遡る権威を持つ中国ナンバー・ワン周王朝の末裔とした呉の太伯王の流れを汲む大王だったのです。

252-4だ からこそ、高良玉垂命に金山彦の流れを汲む瀛(イン)氏も櫛田神社の祭神である白族の大幡主やその子ヤタガラスも阿蘇氏も従ったのであり、宗像族も九州王 朝の忠実なる臣下であった大国主命(瀛津嶋姫命=スセリヒメも田心姫=タゴリヒメも共に妃)を頂き神額には「奉助天孫来而為天孫所祭」(天孫を助け奉り天 孫に祭られる所と為そうではないか)と書いているのです。

宮地嶽古墳の被葬者が宗像徳善君(天武天皇の妃、尼子娘の父である「胸形君徳善」)と か、それに縁のある豪族などと間の抜けた話をする方(九大=実は国士舘のNなど)などがおられますが、とんでもない酷い誤り(一応意図的ではないとはして おきますが…)であり、宗像族も天孫族(九州王朝)の臣下の一つでしかないのです。

なぜならば、「天孫を助け奉り…」と臣下の礼を尽くした天孫こそが呉の 太伯の裔=高良玉垂命の若き姿である第9代開化天皇(ワカヤマトネコヒコ)だからです。

否定されるのは神社の御都合であり、お好きなようにとしか申上げませんが、当方が考える九州王朝の本拠地久留米高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」169pには異国征伐(神功皇后の三韓征伐のこと)時三百七十五人ノ神立が書き留められています。中級以下の神として大国主も書かれているのです。

252-5このように、天孫たる九州王朝は大国主も臣下としていたのであり、その大国主を入り婿として受け容れ姻戚関係を結んだ宗像族だからこそ、本殿の千木は男神であることを示しているのです。繰り返しになりますが、宗像大社の巨大な神額に残された「奉助天孫来而為天孫所祭」との十文字は、天孫への帰順と奉仕を宣言し呉の太伯への肖りを高らかに宣言したものだったのです。つまり、宗像は宮地嶽の臣下だったのです。



千木は日本だけのものなのか


最後に、千木、鰹木の千木は日本特有のものと考えられている方が多いと思いますが、実はそうではありません。

 以前もご紹介した、敬愛する故渡辺光敏氏の「日本語はなかった」にその事が触れてありますので、少し紹介しておきます。

252-6元々、石ころと砂の砂漠と草原しかない北方系民族が千木や鰹木など使えないのは考えなくても解る事です。

ウダツでも同様ですが、社を競うことが許されるのは木材の豊な中国江南からインドシナに掛けての文化であり、列島に千木があること自体、倭人がどこからやってきているかをしめしているのです。

問題は、明らかに北方系と見られる民族の神社であっても、千木を継承している事は、先住者への入り婿として彼らの文化を受け容れ、いつしか自らが首領であったかのように振る舞いだしているからなのですが、戦利品として理解しているのかも知れません。


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253 再び山陰土産 ① 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “吉賀町朝倉の那智神社“

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253 再び山陰土産 ① 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “吉賀町朝倉の那智神社“

20151007

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


10月になり、車中泊に最高の季節になってきました。

しかし、研究会のスケジュールもあり、なかなか長期の遠征に行けなかったのですが、ようやく合間を見つけ再び山陰の神社調査に出かけることにしました。

毎日、数社から十社に近い神社を見て回るのですが、中には二度三度と足を運ぶ神社もあります。

高速道路を一切利用しない旅ですので大変ですが、途中は、百嶋先生の講演録(玉音放送)CDをカーステレオで聴きながら、合間に落語やアルゼンチン・タンゴで休憩しながらの旅ですので全く苦にはなりません。


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那智神社 カーナビ検索島根県鹿足郡吉賀町朝倉673


今回どうしても見たかったのが、前回パスしてしまったこの神社(島根県吉賀町甘木の那智神社)です。

当ブログの読者は、まず、九州でも福岡の方が多いと思いますが、“朝倉の那智神社“と書けば、「福岡県旧朝倉町(現朝倉市)にそんな神社があったかな?ないはずだが!」となることは間違いがないでしょう。


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島根県吉賀町(旧六日市町)朝倉の朝倉郵便局


場所が分かり難いとは思いますが、島根県津和野町の南東10キロの中国山地のど真ん中、直線距離で山口県萩市から東に40キロになります。

 ただし、高速道路使わなければ島根の山奥ですから、この移動距離は倍から3倍になると考えて下さい。

 まず、「朝倉」という地名が単独で存在している訳ではありません。

 兵庫県の日本海側の但馬地方の養父市に朝倉という大字があり、戦国武将の浅井朝倉の朝倉氏の故 地とされていますので(これは通説でも支持されているようです)、九州からの移動と考える者としては、そんな馬鹿な事はないと言われる方々に対して、九州 の朝倉の人々が移動しルート上の中間点と考えられそうです。また、出雲市にも町のど真ん中に朝倉地名が存在します。

 中間点と言う意味では、島根県益田市の美都町に朝倉という大字があり飯盛山(福岡市の飯盛山にはイザナミを祀る)がある事も確認しておきたいと思います。

兵庫県朝来市も朝倉氏と関係があり朝来(アサゴ)市は朝倉地名の置き換えの可能性が高いのです。

同様に、熊本市の南の益城町の朝来山(アサクナ山orアサゴ山orチョウライ山)が地名移動したのが福岡県の朝倉であり甘木なのです(甘木はウマシキと読み実は熊本の益城の地名移動)。

 これについては、この「朝倉」の中心的な神社であるからこそ、今回、どうしても見落とした神社を実見したいと考え再度長駆の遠征に出たのでした。

 地元の方でなければ分からないようなかなり分かり難いところでしたが、入口には旧神宮寺としか考え用の無い隣接する曹洞宗の寺にならんで神社の案内板が置かれていました。


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 百嶋神社考古学では、先生が“曹洞宗は全てヘブライ系の人々の住む地域を対象に教線を張ったもの…”といった趣旨の事を話されていた事から考えれば、那智神社という社名だけでも理解できる部分があるのです。

 それは、那智神社とは熊野那智大社の祭神がクマノフスミミコト=イザナギと別れた後、博多の櫛田神社の大幡主(秦の始皇帝と姻戚関係を結んだモーゼ系の一族で実は「古事記」では神産巣日神「日本書紀」では神皇産霊尊とする系統)と一緒になったイザナミであり、瀛(イン)氏=ヘブライ系の神なのですから「やはり」と納得できるところなのです。

 ところが社殿を実見し、また驚きました。参拝殿、社殿には四ツ目の神紋が打たれていたのでした。

 旧柿木村から旧六日市町の吉賀町一帯では結構見掛ける神紋であり、この地域が単に大三島の大山祇(月読命)の神威が卓越した領域ではない事が見えてきました。

 この四ツ目の神紋は、長崎県の旧南北高来郡の島原市、諫早市、雲仙市…の高木大神の領域の四面神社などで多く見掛けるもので、「古事記」「日本書紀」に登場する高木大神=「古事記」では高御産巣日神、「日本書紀」では高皇産霊尊として登場する高句麗系=ヘブライの神の紋章なのです

 このため、ここでは、タカミムスビ、カミムスビ、大山の混じり合った混成軍団が入ってきている事が見えて来たのです。

 してみると、背後地の山にイザナミを祀る飯盛山という名を付した島根県益田市の美都町の朝倉の人々とは福岡市内に進出した朝倉市の人々が、山口県吉賀町に入り、さらに、養父市の朝倉に展開し、福井県金ケ崎城に展開した事が分かるのです。

 これについては、ネット上の「ひぼろぎ逍遥」144146朝来」地名について ① “兵庫県朝来市の朝来山から”「朝来」地名について ② “但馬、朝倉、養父、志波” 「朝来」地名について ③ “朝倉氏と小佐氏”をお読みください。


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四ツ目の神紋を持つ那智神社(島根県鹿足郡吉賀町朝倉673)熊野の那智大社はイザナミを祀る!


この四ツ目の神紋はかなり難しい問題がありますので、ここではご紹介するだけにとどめ、朝倉地名の移動を考える中で、この那智神社の意味を考える事にしましょう(地図は昭文社より)。


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那智の滝で知られる熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)は熊野三山の一つで、熊野夫須美大神を主祭神とする神社ですが、古くは那智神社、熊野夫須美神社、熊野那智神社などと称していました。

問題は熊野夫須美命(クマノフスミミコト)とは何なのか?なのです。

これについて、百嶋神社考古学では前述の通り、イザナギと別れた後で博多の櫛田神社の大幡主(秦の始皇帝と姻戚関係を結んだモーゼ系の一族であり実は「古事記」では神産巣日神「日本書紀」では神皇産霊尊とする系統)と一緒になったイザナミであり、瀛(イン)氏(実はヘブライ系の神)なのです。

当地、島根県吉賀町朝倉の那智神社の神は、イザナギ、イザナミ…とはしていますが、やはり2015年国宝大神社展の表紙を飾ったクマノフスミミコトであろうことは間違いないでしょう。


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同社由緒


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百嶋極秘神代系譜(一部)


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島根県益田市美都町朝倉


この益田市美都町朝倉で面白いのは四ツ山城跡があることです。

もし、この四ツ山が福岡県荒尾市の四ツ山(山頂には通称虚空蔵神社=コクンゾサンと呼ばれる四ツ山神社があることで有名)と対応するとすれば、やはり、イザナギ、イザナミもしくはイザナミを祀る部分で対応する事になり、今後、現地の郷土史関係を調べる必要があるでしょう。

もしかしたら、戦国大名の朝倉氏のルーツが分かる事になるかも知れません。


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兵庫県養父市の朝倉も見て頂きましょう。

 養父市の朝倉はご覧のとおりですが、この養父地名も佐賀県鳥栖市の中心部養父町の養父からの地名移動と考えられるのです。

九鹿(クロク)地区には熊野神社があり、朝倉地名と関係がありそうです。

この九鹿(クロク)地名が、吉賀町(旧六日市町七日市)でも朝倉正面の奇鹿神社と関係ありと睨んでいるのですが、まだ、確証を得ません。

また、養父市の北、城崎温泉のある豊岡市(旧日高町)にも浅倉地名があることから、この豊岡も九州の豊の国の置き換えであり、岡も遠賀川の岡垣、遠賀と対応していそうです。


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