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スポット022 五郎丸 朝日新聞2016年1月16日夕刊「福岡県に多い□郎丸の地名」によせて

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スポット022 五郎丸 朝日新聞2016年1月16日夕刊「福岡県に多い□郎丸の地名」によせて

20160126

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


朝日新聞2016116日夕刊48“知っとーと!”「福岡県に多い郎丸の地名」として、久留米地名研究会の事務局次長と外の方にも照会した記事が掲載されたことから、補足の意味も含めてコメントしたと思います。
まず、記事の全文は以下の通りです。
行政にた かる○○法人のように一辺の支援も受けずに運営している独立した民間の研究団体に対して大マスコミの全国紙から取材があること自体は有難い事であり、批判 の意図など毛頭ない事は始めに申上げておきたいと思いますが、前提として、私達が「丸地名」と呼んでいる地名としての「○○丸」と姓としての「○○丸」の 問題があり、前者が先行し、後者が後発のものであろうという一応の仮説を立てておきたいと思います。つまり、地名→姓名というベクトルです。
勿論、それは、姓名としての○○丸さんの方が、地名としての○○丸よりも多い事からある程度の推測はできるでしょう。
今回の朝日の記事は、たまたまラグビーでスポットライトを浴びた比較的珍しい「五郎丸」姓に関心が向けられた事から、これらの地名が集中する九州の「五郎丸」地名、ひいては「○○丸」地名全般について考えて見たいと思います。
まず、「五郎丸」姓の分布を考えておきましょう。
こう言う時にいつも利用している「姓名分布&ランキング」というサイトで同姓の分布を見てみると、

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全国177件中、①福岡県 76件 ②山口県 30件 ③広島県 13件 と予想通り大半が福岡県中心の分布を示していました。

予想通りと申上げたのは、この「丸持ちの姓」=○○丸の方の中心地がどこであるかを知っているためですが、それは後に廻すとして、次に数多い○地名の内、「五郎丸」に限定して地名の分布を確認しておきたいと思います。

新 潟県南魚沼市五郎丸 富山県富山市水橋五郎丸 富山県砺波市五郎丸 富山県中新川郡立山町五郎丸 福井県鯖江市五郎丸町 愛知県犬山市五郎丸 愛知県田原 市伊川津町五郎丸 愛知県犬山市五郎丸 広島県安芸高田市八千代町佐々井五郎丸 徳島県阿南市椿町五郎丸 愛媛県宇和島市寄松五郎丸 福岡県久留米市宮ノ 陣町五郎丸 福岡県宮若市下有木五郎丸 福岡県筑紫郡那珂川町五郎丸 熊本県山鹿市菊鹿町五郎丸 熊本県山鹿市久原五郎丸 大分県豊後高田市香々地五郎丸  大分県宇佐市安心院町五郎丸 宮崎県児湯郡高鍋町上江五郎丸 

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以前から○地名の分布については気に留めていましたが、ネット上にHP「民俗学の広場」というサイトがあり五郎丸地名が網羅されていますので使わせて頂くことにします。
これを見ると、九州から日本海岸を経由し越後から東海地方、さらには、豊後から瀬戸内海地方のかなり広範な地域に広がりを見せています。
これらが九州から展開した人々によって持ち込まれた地名である可能性はかなり高いでしょう。
それを思わせる地名の移動例があります。

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こ れは福井県敦賀市周辺の地図ですが、織田徳川連合軍が攻め込んだ朝倉義景の居城、金ケ崎が福岡県宗像市鐘崎の鐘崎漁港の鐘崎の、赤崎が北九州市若松区の赤 崎の、黒崎が同じく八幡区の黒崎の、岡崎が遠賀川河口の福岡県遠賀郡岡垣町の岡の岬(遠賀=岡の湊)の地名移動と考えられるのです。
当然、対馬海流に乗って日本海沿いに移動展開したのですが、このように書くと決まって「九州から移動して来たとどうして言えるのか…」と反論される方が出てきます。
このような場合、逆に「そうではなかったと証明して頂きたい!」と言う事にしています。
これらの地名の成立時期を考えた場合、ある程度の地名の支配力を持てる組織的移動が強い潮流に逆らって行われたとは考えにくいのです。
と、ここまで考えてくると、五郎丸地名の発信源がどこなのかのある程度の見当が着いてきます。
熊本県山鹿市久原五郎丸がそうではないかと考えていますが、無論、証拠がある訳も無く、ここでは一つの提案とだけしておきます。
ただ、ラグビーの五郎丸 歩選手の父親の出身地が、福岡県八女市黒木町の山奥との事であり、この山鹿市久原の五郎丸はこの黒木と背中合わせの場所であることから考えれば、五郎丸 歩氏の出身地に関してはかなり近い線ではないかと考えているところです。
それは、南北朝争乱期にも阿蘇氏と並び南朝方として戦い続けた菊池氏や五条家が一衣帯水の如く連携していた事を考えれば、納得して頂けるのではないかと思うものです。
五郎丸地名の震源地が最低でも九州ではないかという提案をしたうえで、もう一つ、五郎丸姓の震源地について提案したいと思います。
それは、佐賀県の北に聳える脊振山系の裾野に鎮座する白髭神社に伝わる伝承です。
それが、この事に深く関与している事を知るため、皆さんに御一考頂きたいと考えています。

白髭神社 カーナビ検索
佐賀市久保泉町大字川久保3466


祭神は、応神天皇・神功皇后・武内宿禰の三柱説と、豊受比売命・猿田彦神・武内宿禰の説、新羅神説とがある。
勧 請年代も、肥陽古跡記は金立権現鎮座の時(紀元前210年)、佐賀県神社誌要は継体天皇18年(527)、敏達天皇3年(574)は祭典記録、推古天皇 34年(626)は花納丸文書、三代実録では貞観12年(870)とそれぞれ異なっている。昭和49年に1400年祭が行なわれたのは、敏達天皇3年説に よる。

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白髭神社(佐賀市久保泉)


ここで、ネット上のWeblio辞書(佐賀市 白髭神社 丸持の家 でトリプル検索)を御覧頂きましょう。

白鬚神社の田楽は、佐賀市久保泉町大字川久保の白鬚神社の祭礼に奉納される芸能で、毎年十月十八日、十九日に川久保地区住民により演じられている。

白 鬚神社は、古代に近江の白鬚大明神の分霊を奉じて移住し、川久保の地を拓いた一九家により創建されたと伝えられている。この移住者たちは白鬚神社の周囲に 家を構え、代々「〇〇丸」という名前を称した。これらの家は「丸持【まるも】ちの家」と呼ばれ、地区の草分けとして高い誇りをもち、白鬚神社の祭を先祖祭 とあわせて行い、「丸祭り」と呼んだ。白 鬚神社の田楽は、長くこの丸祭りに付随して行われてきたといわれているが、現在は丸祭りとは切り離され、神社氏子総代を中心とする田楽保存会により執り行 われている。なおこの田楽に関しては、白鬚神社の享保十九年(一七三四)建立の鳥居に刻まれている「時奏村田楽」との銘文が現在確認できる最も古い記録で ある。

s@22-5による。

通常、地名から姓名が付されるという一般的な傾向があるのですが、ここでは例外的に、この白髭神社に伝わる丸持ちの家系(田中丸…)こそが全国の「丸地名」の発信源であり、通常、地名から姓名が付されるという一つの法則性の例外ではないかと考えています。

前掲の久保泉周辺に数社分布する白髭神社(司馬遼太郎が「街道をゆく」で取上げた琵琶湖の類社は元より、嘉麻市の馬見山中腹にも重要な白髭神社が鎮座しています)の縁起には白鬚神社は、古代近江白鬚大明神分霊を奉じて移住し」としています。

勿論、新羅からの移動を考えると山陰から若狭辺りに漂着する事から琵琶湖経由で九州に入っているようにも思えるのですが、百嶋神社考古学ではこの部分はベクトルが逆の可能性もあると考えています。

滋賀県高島市の白髭神社は主神を渡来神のそれも猿田彦としています。奇妙なことに、普通、猿田は国つ神として扱われるのですが、一応、この佐賀の白髭神社もそれに擬えているようです。

ただ、白髭大明神とはその原型を留める宮崎県川南町の白髭三宝荒神神社などの解析から、白髭大明神とは秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の可能性が高いと考えています。

この事については、梅原 猛氏も「神々の流竄」の中で触れておられ、少しはアレルギーを抑えて頂きたいと思うところです。

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勿論、百嶋神社考古学では、スサノウは新羅の国の王子様であり、猿田彦も国つ神とされてはいますが、新羅の影もチラチラする神様です。

一方、「白髭」という表記は新羅ではなく、百済(ペクチェ)を暗示しています。

三宝荒神の主神は金山彦ですが、それに続く奥津彦、奥津媛はいずれもスサノウの流れを汲む神々です。

詳しくは、以下で書いていますのでご覧ください。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)177

天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ③ “白髭神社に再々訪”宮崎県児湯郡川南町の三宝荒神


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久保泉町史跡等ガイドブックp.9697 より


ラグビーの五郎丸選手は福岡市の出身だそうですが、彼の御父上 は福岡県八女市のそれも旧黒木町の山奥の集落の出身で、若い時に福岡市に移住されたそうですが、以前、阪神タイガースで活躍した源五郎丸選手も同じく佐賀 の出身だったように、この丸持ち姓の方達のルーツが佐賀市の久保泉である可能姓を考えて見る価値はあると思っているところです。
なお、朝日新聞の記事(夕刊北部九州版)では、“「十」までにに「七郎丸」以外は見つかった”と書かれていますが、小字単位では大分県の国東市国東町原字七郎丸があるようですので、興味のある方はご自分で調べて頂きたいと思います。
さて、これからが本題です。丸持ち姓の震源地と丸地名の九州からの展開という現象がある程度想定できたとして、では「丸」とは何かという問題に踏み込み込むことになります。
このことについては、既に久留米地名研究会のHPにおいて、5.原(ハルとバル)としてかなりの長文を公開していますが、その内容については読んで頂くとして、その延長上に丸地名の事についても関係を考えているのです。

ここでは、簡単に箇条書きとしてその要旨だけを述べさせていただきます。
① 一般的には「ハル」「バル」地名は九州限定という特徴的な分布を示しており、そのことから、「ハラ」「バラ」と言う九州の方言と理解されていますが、それは全くの誤りで、「ハル」「バル」が「ハラ」「バラ」と混在している事からも明らかです。
② 原と書き、「ハラ」、「バラ」と読む地 名と、同じく原、春、治…と書き「ハル」「バル」と読む地名は似てはいるものの全く起源は異なり、前者は腹、孕むと関係のある小丘を意味するいわゆる野原 の原を意味している。一方、後者は開墾地(従って新しい居住地という概念も含む)を意味する新興の居住地を意味しています。

谷川健一と金達寿(キムダルス)両氏による対談をベースにした『地名の古代史』(九州編)にこの「バル」の話が出てきます。
谷 川 先程バルという話もあったけど、バルというのは、この前、対馬に行った時に老人と話していたら、老人がこれからパリしに行こうかと言う。朝鮮語と同じ で、パリしに、開墾しに行く、耕しに行く。畑に行くことをパリしに行くという。そのパリから出たに決まってるんですよ。『万葉集』のハリミチですね、開墾 することをハリ、新しく開墾したところが新治(にいばり)、四国にも今治(いまばり)というところがありますけれども、字は違うけどね。そういうハリとい うのは開墾すること。それがハルになってるんですね。沖縄なんかではハルと言うと、みな田圃や畑を表すんです。野原の原じゃないんです。原山(はらやま) 勝負と言って、どれだけ一年の収穫が多いか、村ごとに原山勝負に参加する。山は山林の勝負ですけれども、収穫が上がったことを、村ごとに懸賞をかけて競い あう。それを原山勝負と言うんですよ。墾道(はらみち)というのは畦道のことを言うんです。ですから、これはやっぱり朝鮮と密接な関係があると思いますよ。

久留米地名研究会「原」(ハルとバル)より


この「丸地名」が「原(ハル、バル)地名」と関係があるのではないかとの仮説を始めに提出されたのは、HP尚智庵」を運営されている方と考えています(以下)。


追記:2002年3月4日

 「~はる・ばる」以外に、九州に目立つ地名として「~丸」がある。「~はる・ばる」ほどではないが、同じ方法で調べたら、全国で232箇所、そのうち59箇所が九州だった。特に福岡県には37箇所もある。(田主丸、太郎丸、次郎丸、千代丸、王丸、武丸、犬丸など)
 また、九州以外に、北陸の福井・石川・富山で合計40箇所もある。(「~はる・ばる」地名についても、九州以外では富山であったことに注意。)

 ふと思ったが、この「~丸」地名も語源は「~ばる・はる」ではないのだろうか。BARUとMARUのB音、M音 はどちらも口唇音(唇を合わせて発音する)であり、比較的容易に交代しやすい。たとえば、標準語で「さむい」(寒い)を福岡では「さぶい」と言う。また、 汚い話で恐縮だが、大小便をすることについて、「まる、ばる」の両方を福岡では使う。「~丸」地名が分布している地域も「~ばる・はる」と似通っているよ うだ。

  もし、「~丸」が「~ばる・はる」から来ているとしたら、今回の私の推論にとって裏付けになる。なぜならば、ご承知のよ うに「~丸」は後に、城の「本丸」「二の丸」という風に使われている。まさしく「砦」なのである。ここでまたまた飛躍すれば、船の名前に「~丸」を付ける のも、一般には「麻呂」が転化したと言われているが、実は古くから半島・大陸と行き来があり、航海術にたけていた九州の連合国の言葉から来ているのではないだろうか。


再追記:2002年3月5日
 すっかり忘れていたが、韓国語にはマウルsp22-10という言葉がある。
「村、部落、里、郷、洞里」 という意味である。韓国を訪れたことがある方なら、「セマウル」という特急列車をご存知かと思う が、「セマウル=新しい村」という意味である。上述したように、「原=ボル」と読む地名は、現在の韓国には今のところ発見できていない。(ただ、ソウルの 語源をソラボル=大きな野原、とする説があるらしい。)しかしながら、この「マウル」は普通に使われる地名接尾語として、つまり「~村」の意味で、韓国の あちらこちらに見いだすことができる。意味も私が想像した「~ばる・はる」の原義と非常に合致する。

 この「マウル」が九州に入って、後に「~丸」で表記される地名になったのではないだろうか。この説は「~丸」地名が福岡と北陸に多いという地理的分布を良く説明できる。

 つまり韓国語マウル→~マル(丸)→~バル(原)、~ハル(原)というルートである。共通語の、「~原」(~はら、わら)はおそらく別語源の言葉であったのが、たまたま漢字が伝来してから双方に同じ字があてられ、混同されるようになったのではないか。これをもって、当ページ作者の当面の仮説としたい。

(なお、参考までに、現在も残っている韓国の「村(マウル)」として、安東の河回村の例を平石さんのHPにて確認できる。このページの河回村の写真は、私が今回想像した「バル・ハル」「マル」の原型に近いものがあると思う。)

再々追記:2002年3月10日

 谷有二著「山の名前で読み解く日本史」(青春出版社、2002年)という本でも、九州の「~丸」地名は、朝鮮語マウルから来ているのではないか、と主張していた。この本によると、日本統治時代の朝鮮半島の5万分の1地形図では、大里(クンマル)、官里(カンマル)、坪里(ポルマル)など、無数の「~マル」地名が発見できるそうである。

 また、吉野ヶ里遺跡のある佐賀平野の5万分の1地形図をチェックした結果、上記の分布図では少ないが、実際には多数の「~原(ばる・はる)」地名(中原、城原、境原、壱岐原など)、「~丸」地名(薬師丸→薬師丸ひろ子の名字はここから来ているらしい、四郎丸、持丸、鬼丸など)を発見することができた。

 「~丸」地名は、福岡県では、宗像市から鞍手郡にかけてと、甘木市・田主丸町周辺および周防灘側の築城町・豊前市あたりに多い。飯塚市周辺や、福岡市西部から糸島半島にかけても数ヶ所ある。

「~原(ばる・はる)」地名の銀座通りとも言える福岡市から太宰府にかけては、「~丸」地名はほとんどない。しかし、他の地域では「~原(ばる・はる)」と「~丸」は混在 している。はなはだしい場合は、嘉穂郡の「九郎原-九郎丸」のように、わずかな距離で同じ名前の両地名が共存している場所もある。したがって、両者の分布 に地理的な立地条件の差を見いだすのは難しい。


私もこの仮説を軸に考えていますが、少し違うのは、「丸」(マル)が原型で、その発音ができない人々が大量に移動して「丸(マル)」を「原ハル、バル」と呼び、表記したのではないかと考えている事です。

 HP尚智庵」氏も指摘されていますが、丸地名が原(ハル、バル)地名より高地の好地に分布しているように見えます。

 ここから先は、仮説と言うよりも思考の冒険とも言うべきものですが、久留米地名研究会のメンバーで久留米大学でも何度も講演されている永井正範氏が発表された“古代のM音とB音の交代現象”に関わる「日本語の漢字に残る漢音と呉音」YouTube…外)を受け容れ引き延ばしたものです。

  所謂原 (ハル、バル)地名が九州限定の地名であるとした上で、安全性や利水の容易さから考えても、古代には山手の小平野から開発が始ったものと考えられる事か ら、「丸地名」の居住者は先住者(といっても古い時代の渡来人でしょうが)であり、原(ハル、バル)地名の居住者は後から侵入して来た人々が「丸」を受け 容れ発音したものが「原ハル、バル」となっているのではないかと考えています。

 つまり、後からの侵入者は彼が持つ言語特性から考え、「マル」を「バル」としか発音できなかったのではないかと考えるのです。

 このような現象を現在でも確認できるのが、八女市の矢部町に八女津姫神社が鎮座し、矢部町に八女川が流れる事です。つまり、八女も矢部も全く同じ地名を双方から分けて発音していたものである可能性が非常に高いのです。

 これと同じ現象が、丸(マル地名)と原(ハルバル地名)ではないかと考えられるのです。


  かつて宮崎県知事として脚光を浴びたそのまんま東氏の姓が東国原(ヒガシコクバル)と いう「バル地名」の姓として注目されたことがありましたが、源五郎丸、五郎丸とその時だけ注目される地名と姓名の謎に引き寄せられ、多少とも古代の扉を開 けようとする人々が増えてくれればと思うものです。


254 再び山陰土産 ② 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口市の犬鳴川“

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254 再び山陰土産 ② 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口市の犬鳴川

20151008

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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犬鳴川と犬鳴の滝


再び石見の国(島根県西部)の吉賀町に入りました。

前回は益田、浜田、江津(直接的には益田)からの帰路に入ったので比較的楽なルートでしたが、今回は山口市の東部から、直接、島根、山口、広島県境が集中する山陰西部の再深部に入ったのですから、かなりハードな道になりました。

もちろん高速道路を利用すれば簡単なのですが、それでは面白くないうえに、神社調査や民俗調査には全くならないため、時間を掛けても平地を這いつくばって進むしかないのです。

それでも山口県内はまだ楽な方で、今回はその楽に走ることが出来るエリアでの地名の話です。

地名の話しはどうしてもローカルになりがちで、その地名をご存知でない場合はほとんど関心を示されないかも知れません。

山口市から萩市へと国道9号線を北に向かう方は多いと思いますが、9号線から分かれ、東に向かうと仁保下郷、中郷、上郷に入ります。

ここに犬鳴川という地名を見出した事からコースを変更し寄り道をしたのですが、広い谷間にかなり大きな田畑や農家や寺がある心惹かれる静かな田園風景が広がっていました。

谷間にある地名ですからそれほど多くはないのですが、筑豊の方なら直ぐに気付くような馴染みの地名がかなり拾えるのです。

谷間の西から「犬鳴川」が、東からは「白水川」が注いでいました。

そもそも「仁保」という地(集落)名自体が筑豊中心部の飯塚市にあり、「犬鳴川」は飯塚市の北、宮若市脇田温泉のある谷に注ぐ大きな川で今は一部がダムに沈んでいます。

白水も熊本市の中心部を流れる白川の古代名ですが、太宰府市に隣接する春日市に上、下白水(シロオズ)があることは近郊の方は誰でもご存知でしょう。

また、宮若市(旧鞍手町)に「古門白水」があります。

さらに、「野上」がありますが、これは飯塚市の東、田川市の地名です。

この外にも「蒲生」「長野」がありますが、二つとも北九州市小倉南区の地名です。

後で気づきましたが、「金剛」もあります。これも北九州市八幡西区金剛の「金剛」に対応しそうです。

この他にも「高野」がありますが、これも北九州市小倉南区の「高野」でしょう。

ここらあたりになるとありふれた地名になるので、外すべきかも知れませんが、「石坂」は太宰府市中心部の五条に隣接する地名です。

この全てが対応するかは不明ですが、この谷の半分ほどの地名が筑豊と関係があるように見えるのです。


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もちろん、珍しい地名、レアな地名は何らかの人々の移動を感じさせるものです


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解像度の問題で全ては表示できませんが、これほどの対応は、通常発見できませんので、物部氏の移動、逃散に関係があるのではないでしょうか?ところが、もっとはっきりしたものが見つかったのです。


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東から注ぐ小河川白水川(上) 現地の案内板(下)


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255 再び山陰土産 ③ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口県徳地町の「夏焼」地名“

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255 再び山陰土産 ③ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口県徳地町の「夏焼」地名

20151008

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次に向かった徳地町で「夏焼」地名を見出した時は正直言って驚きました。

犬鳴、白水…も全くない地名とは言えないのですが、この「夏焼」はめったに出くわさない地名だけに、

前ブログ 254 再び山陰土産 ② 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口市の犬鳴川で取上げたように、関連する地名、近接する地名がまとまって在る事で何らかの地域的関連を考えざるを得ないといったものではなく、単独でも考慮に値する地名なのです。

 勿論、現在のところ行政上はこの地名は存在しません。

 しかし、「夏吉」という地名は現在なお堂々とまかり通っているのです。

 これについては神功皇后伝承の解読が必要になりますが、まずは「ひもろぎ逍遥」の綾杉るな女史の話からご紹介することにしましょう。


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「夏焼」に関係する「日本書紀」の記述、現地伝承がコンパクトにまとめられています。

詳しくお知りになりたい方は、彩杉るな女史の「ひもろぎ逍遥」若八幡神社「若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…」ほか数編をお読み下さい。

ここでは、その一部を抜粋してご紹介いたします。


 若八幡神社(1)

福岡県田川市夏吉
妹を殺された夏羽は… ここには「日本書紀」の続きが伝えられていた


日本書紀の神功皇后の巻にこう書いてあります。

20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。皇后は側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。
25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。


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この話の舞台は福岡県の筑後地方です。
地元の伝承と日本書紀をまとめるとこうなりました。
仲哀天皇が殺された後、神功皇后軍は20日から羽白熊鷲と戦って勝利を収めた。
そして25日には田油津姫を攻撃するために小郡市上岩田の老松神社に布陣した。

青い陣営の内、中央にあるのがその老松神社です。
わずか一週間で二か所の敵を攻撃するのですから、
神功皇后を旗頭に据えた物部軍の勢いはすさまじいものです。
天皇を殺された怒りと屈辱に護衛隊は怒髪天を突くという状態です。
御勢大霊石神社の伝承によると、
仲哀天皇は「熊襲」の流れ矢に当たって死んでいます。
「熊襲」については付近に伝承が見つからないので、
「熊鷲」の事ではないかと私は思っています。
だから、羽白熊鷲を猛攻撃するのに躊躇が無かった訳です。
でも、どうして?
どうして田油津姫までも攻撃されなければならなかったの?
老松神社がその時の陣営だと知った時、新たな謎が生まれました。
それについて日本書紀には何も書いていません。
しかし思いがけず疑問はわずか二日後に解けました。
この若八幡宮にその原因と結末が伝わっていたのです。
それではまずは神社に行きましょう。
ここは田川市夏吉。気持の良い田園地帯を走ります。


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若八幡宮(田川市)


この神社の由緒書きは一の鳥居の所に大きく立てられていました。
それを読んで驚愕。

人皇第12景行天皇の熊襲征伐に際し、天皇を周防の佐波(今の防府市)まで出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。
「榊の枝に八握剣、八咫鏡、八坂瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した」と日本書紀には記されています。
年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)
それ以来、夏羽焼―夏焼とこの村が呼ばれる事になったのです。

夏羽(なつは)はこんな遠い所に住んでいた!
しかも、神夏磯姫(かむなつそひめ)の末裔だって?
あの景行天皇を迎えに行ったのはここからだった?
それに加えて田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした?
何故?どこに二人の接点はあるというのか?


現在、福岡県でも筑豊の田川市には「夏吉」(ナツヨシ)という地名があります。


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この地名は、逆賊夏羽を焼いた(ナツヤキ)と呼ばれていたものを、江戸時代に村名の「夏焼」を不吉として「夏吉(ナツヨシ)に改めたとされているのです。


それから127年後、神功皇后の御宇9(209)325日、 神夏磯媛の後裔にあたる夏羽(なつは)は、神功皇后の暗殺を企て、妹の田油津媛(たぶらつひめ)を援護するため軍勢を率いてかけつける途中、山門縣(やま とのあがた)【現在の福岡県山門郡瀬高町のあたり】で妹が敗戦したことを知り、夏羽(なつは)は館に逃げ帰り篭っていたところを追ってきた神功皇后の軍勢 に焼き殺されてしまいました。それ以来、その土地を夏羽焼(なつはやき)、夏焼(なつやき)とよばれるようになったそうです。江戸時代になって小笠原忠眞 が若八幡神社を参詣された時、不吉な村名の「夏焼」を「夏吉(なつよし)」に改め現在に至っています。

豊の散歩道~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michiより


 実は、この筑豊では有名な「夏焼」地名が、広島、山口、島根三県の県境が集中する寂地峡、山口県

国市錦町宇佐にもあるのですが、それは別稿とするとして、まず、この地名が筑豊から持ち込まれたものなのか?が問題になりそうです。


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この事を考える上で視野を少し広げると、この「夏焼」地名がある徳地町引谷は佐波郡であり、佐波川が流れているのです。

 「日本書紀」(景行紀)には、熊襲を征伐するために景行128月、天皇自ら西に下り、周防国の娑麼(サバ=山口県防府市付近)で神夏磯媛と接触したとあります。媛は佐波で生まれ、周防灘一帯を治める女王だったと思われのですが、その後裔が夏羽であり田油津姫だった可能姓があるのです。

 綾杉女史も、そのように考えておられるようです(以下)。


左の緑の丘が若八幡神社。主祭神は神夏磯媛(かむなつそひめ)。
神夏磯媛は夏羽から見たら、母か祖母に当たると思っています。
正面の山が香春岳の三山です。

さて、るなにはよく分からない謎がありました。

神夏磯姫は夏吉地区を開発した女神なのだけど、採銅所は香春岳の向こう側にあるので、姫が銅開発に関わったのかどうか、分からないままなのです。
 多分、神夏磯姫は佐波出身の姫で、景行天皇に無理矢理、この地域の長に据えられたのだろうと考えるようになっています。
 景行天皇は筑紫の女王たちを複数、殺しているらしく、夏羽の妹の田油津姫の終焉地とされる山門郡(みやま市)では、葛築目(くずちめ)という女王を殺しています。
 神夏磯姫が景行天皇をまつろわなかったら、多分、葛築目と同じ目にあっていたことでしょう。
 そんな背景があるから、夏羽は朝廷に恨みを持ったし、田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした。


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「ひもろぎ逍遥」若八幡神社(4)神夏磯姫の哀しみより


「この地名が筑豊から持ち込まれたものなのか?が問題になりそうです。」と前述しましたが、まず、周防の「夏焼」地名が熊襲と考えられる夏羽に拘わるものだっ たとして、単純に考えるとしたら、夏羽が神功皇后に殺されて以降、「夏吉」と改められる以前の地名が「夏焼」である以上、普通は、神功皇后の時代以降、西 (田川)から東(徳地)に持ち込まれたものと考える事は許されるでしょう。

そして、徳地の西、山口市の東の仁保に大量の筑豊、豊前、筑前に対応する地名が認められる事から、物部氏(もしくは熊襲)の追放、逃亡に拘わるものと考える事まで可能かも知れません。

そして、彩杉女史がお考えの様に、この一帯が神夏磯媛の領域と考えれば、夏羽の一族の故地(先祖の出身地)とも思えて来るのであり、だからこそ、亡ぼされた夏羽の一族が逃亡して戻って来たとも思えて来るのです。

いずれにせよ、香春岳の一帯は豊前であり、この周防、長門も豊田、豊北の地名が残る関門海峡を挟んだ豊の国だったのです。

しかし、まだ、結論を出すのは早そうです。ここでは対応する地名がある事だけを確認し、今後も調査することにしましょう。話は変わりますが、もう一つ思いついた事があります。

 それは、周防の「夏焼」地名がある「引谷」(ヒクタニ)です。

 景行天皇、仲哀天皇に関係する土地柄だけに、この「引谷」という変わった地名も、日置、比企 疋野氏大神比義氏に関わるもののように思えるのです。

 百嶋神社考古学では、これも、熊本県玉名市の疋野神社(贈考安天皇~贈景行天皇)に端を発する氏族と見なします。

してみると、この「引谷」地名は征服者側が付けたもののようです。この徳地町の隣の市である周南市の徳地町との境にも「夏切」地名がある事もついでにお知らせしておきます。


255-7


疋野神社(ひきのじんじゃ)は、熊本県玉名市に鎮座する神社である。延喜式内社で、旧社格は県社。

創建年は不詳であるが、社伝によれば景行天皇の九州巡幸の際に祀られたという[1]

平安時代の「続日本後紀」には承和7年(840)官社に列せられたとある。「延喜式神名帳」に記される肥後国四座のうちの一座であり、熊本県内において最も古い神社の一社である[2]

当時、この地方の豪族であった郡司日置氏(へきし)の守護神として崇拝されていたが、日置氏の没落後には衰退し、社殿の跡さえ不明になった。近世になり再興され、熊本藩細川氏は厚い崇敬をよせた[3]

主祭神 - 波比岐神(はいきのかみ、はひきのかみ)、製鉄の神

配祀神 - 大年神(おおとしのかみ)、五穀豊穣の神

「ウィキペディア」20151009 1430



255-8

256 再び山陰土産 ④ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “石見周防国境の深谷峡谷の奥”

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256 再び山陰土産 ④ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “石見周防国境の深谷峡谷の奥”

20151008

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ご覧の写真は向かって左が島根県吉鹿町(旧六日市町)、右が山口県岩国市(旧錦町)という石見と周防の国境(くにざかい)を成す大峡谷ですが、県道16号六日市錦線の深谷大橋の上から深谷川上流を写したものです。


256-1



以前から何度となく足を運び、この文句なしの秘境を憧れの目で見続けてきましたが、今回は時間的にも余裕があったことから、源流部に向けて足を運ぶことにしました。

 まず、境界は山の尾根を持って形成される事が多いのですが、熊本、宮崎の県境に五ヶ瀬川の大峡谷があるように峡谷が境界とされることもかなりあるようです。

 しかし、この大峡谷の奥にも集落があるのです。

 民俗学に思いを寄せる学徒の一人として、人の住まないただの自然、人跡未踏地というものは仮に清浄であり美しかったとしても興味がありません。

 人が自然に育まれ、人が自然を守り敬い共存できている環境こそが美しいのであって、間違ってもエベレストの頂上などを美しいと考えるべきではないのです。

 そこが、誰ひとりとして人の住まない美しい自然の景観を好みゴミを捨てて帰ってくる登山家という不見識な人々を好まないという自分の心の基層を形成しているのかも知れません。

 本来、山とは神と同様に遠避けて崇め、遠避けて敬うべきものなのです。

 ただし、神社調査を続けている理由は、偽りの歴史の元となっている偽りの神が横行している事から、それを探り、正し、崇め敬うために近づいているのですが、それについてだけは一時的にお許しを得たいと思います。

 その意味で、この大峡谷の奥に息づく小集落を確認する機会を得た事は人生の宝とも言うべきものでした。

 今回、改めて確信を深めた事の一つに川の位置がありました。


256-2

256-3


たとえどんなに水量の多い大きな川が流れていたとしても、大きく深い川は利用し難く集落は形成されず、逆に、たとえどんなに人里離れた山奥であっても、自らの土地に水を引き込みやすい川がある場所にこそ集落ができるという事が確認できたのでした。


この集落は、金山谷と名付けられています。当然ながら、銅か鉄か採られているから付く地名ですから、その面でも探っていると、両県を跨ぐ橋に驚くべき名が付けられていたのです。

 「甲羅ガ谷橋」です。

 民俗学の感覚で訪問していたら、「甲羅」というとんでもない高貴な地名に遭遇した事から、急遽、古代史探訪に切り替えようかと思ったほどでした。

  ただ、あまりにも唐突だったため、島根県側の方にお尋ねすると、このプレートを作られたのは山口県側の家の御主人とかで、さっそくお尋ねすると、この集落 は古くは蓑傘の蓑を作っていたことから、甲羅(カッパの甲羅)の意味で「甲羅ガ谷」と言うとのお話であり、納得し安心したのでした。


256-4


仲良しになったYさんから色々お話を聴いていると、「この小五郎山には銅山があって五つの坑道穴が残っている。」「教育委員会にも言ったが誰も調べに来ない…」今なら歩いて案内できるのだが、もうしばらくしたら歳も上がるし案内もできなくなる…とのお考えのようでした。

 じっさいのところ、今の教育委員会の職員は、高級を求めて公務員になることが目的で入って来た人間が大半で、学術研究に関心を持って入って来た専門家などいないに等しく、テーマを持って研究を続けている人などほとんどいないのが実情です。

これが九州ならば、当方の研究会には地質や文献や穴掘り考古学、民俗、言語学に明るい人を直ぐに動員できるのですが、あまりにも遠いため、おいそれとは対応できません。

教育委員会や文化課などといったところには全く期待ができないため、山口県、島根県、広島県の心ある民間研究者の方でこのご老人の願いを聴いて上げられる方がおられれば直接ご連絡して頂きたいと思うものです。橋のたもとの家にお住まいのYさんです。



小五郎山登山道入り口にはYさんが多くの鉱石の欠片や金糞などをいっぱいおいておられました


 また、近いうちに訪問したいとは思っていますが、自分は民俗学、地名研究、神社研究の者でしかなく、直接お役に立てない事から、昔の風俗、この集落の成り立ち、起源などを回収したいと考えています。

 この鉱山の存在から鉱山集落の可能性も出てきた訳で、国境の鉱山集落とは少し奇妙ですが、拾える話は今のうちに拾っておくしかないでしょう。

 従って、「大きく深い川は利用し難く、たとえ山奥でもこれぐらいの水を引きやすい場所に集落ができるのです」とした事に誤りはないと考えますが、鉱山労働者向けの米の生産から始った可能性もありそうで、まさに金山谷という地名の裏取りができた思いがしています。


256-5


お話をお聴きしたご主人は、しばらく前まで広島で林業関係にお勤めだったようで、今は、農業をしながら、蜂蜜を作り、静かな秘境で余世を過ごしておられます。

スーパーなどでは格安の中国産蜂蜜が売られていますが、水飴を硫酸で加工したようなデタラメナものが大半であることはあまり知られていません。

ちょうど本物の蜂蜜が欲しかったため、交じりっけの無い本物を手に入れ戻る事にした次第です。




256-6地図にはこの金山谷の奥の五キロほど上流の長瀬渓谷沿いに河津という集落があるようで、次回、再度入りたいと考えています。

山口、島根、広島の県境が集中する文字通りの秘境集落です。

帰りにこの金山谷集落の中心地に河内神社があることに気付き参拝させて頂きました。

いずれ、限界集落となり、祀る人のいない神社になるのでしょうが、この錦町(現岩国市)を中心に、河内神社なるものが数多く存在しています。 

この神社がなんであるかはいまだ見当がつかないでいます。    

その意味でも再訪したいと思います。

257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から”

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257 日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」とする民俗学者吉野裕子説から

20151026

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



久留米地名研究会の天ケ瀬温泉五馬高原研修所にいる事が多くなると、大分県日田市から久留米市や筑豊の田川市に向かう事が非常に多くなります。

そうなると、決まって、国道210号線の加々鶴(カカヅル)トンネルを抜け夜明ダム上流の夜明橋付近を頻繁に通過する事になります。

 以前から気にはしていたのですが、ようやく意味が分かりました。

今回は、この奇妙な「加々鶴」(カカヅル)という地名の話です。


257-1

国道210号(現386号)線の加々鶴バス停



もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。


257-2


この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬制したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で、「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを、豊穣のシンボルとして、 感謝を表したもの…になり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。 以下、ネット上から参考…



257-3


日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。

日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」より


257-2

お分かり頂けたでしょうか?

こ の吉野裕子の「かかし」=蛇説については、久留米地名研究会の永井正範氏から教えられ、以前から気にはしていたのですが、加々鶴トンネルの上の高井岳にそ れらしき形状(「おかがみ」山)を発見できなかった事から(ただし、一キロほど上流から見ると「おかがみ」山のように見えるため高井岳も可能姓はありそう です)、それっきりにしていたもののです。ただ、良く考えると、国道210号(現386)線から嘉麻峠へと向かう211号線の夜明鉄橋北側の小山が、まさしく「おかがみ」山だったのです(次の写真)。

この一帯は夜明ダムが完成する昭和28年頃まで、筑後川流域の旧安楽寺領(太宰府天満宮の前身)などのそま山から切り出された木材が、古くは太宰府まで持ち込まれるために筏に編成されて下流に送られる中継地だったのです。

右岸からは彦山方面から大肥川が流れ込み、筏流しを行う海人族により多くの木材が編成される場所だったのです。そのような場所だからこそ変則的な交差点には志賀島の志賀海神社が祀られているのです。

あとは、グーグル・アースや国土地理院による地図閲覧システムなどで、現地をご自分で検証してご判断下されることをお勧め致します。


257-4


この一帯が「筑紫」「豊」の国境をなす場所である理由は、大蛇行部の険しい地形にあることは明らかですが、この蛇行する大峡谷は詰まり易く、時として大きな堆積を起こす事によって、ダム化する事によって上流部に水平堆積が進み日田の平野が形成されたとも言えそうです。

 この加々鶴地名の「カカ」は「オカガミ」山か「蛇行部」を以て、蛇を神と見なす海人族に「カカ」と名付けられた可能姓はあると思います。

 では、「鶴」はと言えば、蛇行地を蔦の蔓とも見立てられますし、鶴(鶴自体が蔓から付された名称でしょうが)の首状の地形に見える事から「鶴」が充てられたとも言えるでしょう。

 なお、地名研究では「鶴」地名は断崖地名(足摺岬)ともされますので申し添えます。

258 再び山陰土産 ⑤ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “寂地峡の宇佐八幡宮”

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258 再び山陰土産 ⑤ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “寂地峡の宇佐八幡宮” 

20151103

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久  


山口、広島、島根の県境が迫る山間の僻地に寂地峡(山口県岩国市錦町)があります。

秘境の地ながらその水は宇佐川となり錦川となり、岩国は錦帯橋が跨ぐ景勝地の源流をなしています。

実は、ここに岩国市宇佐があり、宇佐八幡宮(岩国市錦町宇佐1542があるのですが、今回は秘境の宇佐八幡宮をご紹介したいと思います。


258-1

景勝地錦帯橋の最奥部に静かに鎮座する宇佐八幡宮の起源については、縁起を読めば一応は理解できるのですが、画像を調整しても判読しにくいため、ネット上の縁起をお読みください。

十ニ世紀、宇佐神宮の権勢が振るった時代、豊後の宇佐神宮から勧請し、宇佐地名も成立した事は分かりますが、この地に住み着いた人々がいかなる背景を持っていたのかは今後の課題です。

ただ、この地にも「ひぼろぎ逍遥」 255 再び山陰土産 ③ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口県徳地町の「夏焼」地名“で取上げた「夏焼」地名を発見し、神功皇后に歯向かったはずの熊襲と思われる 夏羽 絡みの地名があり、そこに豊前国の宇佐八幡宮から分霊が勧請されている事に、大きな謎を思わざるを得ません。

 その意味でも、この岩国の宇佐地名と、宇佐八幡宮には心を魅かれてしまいます。


 

258-2

 

由緒(現地案内板より)

総鎮守の宇佐八幡宮は、第74代鳥羽天皇の御世天仁元(1108)年、常国太郎右衛門尉が豊前国宇佐八幡宮から御分霊を勧請し、当初日和開きに鎮座したのが起こりで、其の後夏焼中ノ御前社附近に奉遷し

第95代花園天皇の御宇正和元(1312)年に現今の地に奉遷したものである。宇佐の郷名は八幡宮勧請の宇佐八幡宮より賜ったものである。


縁起をそのまま受ければ、豊後の宇佐神宮が勧請され宇佐地名までも頂いたという事で、それ自体に謎は無いのですが、もしかしたら、九百年前の宇佐神宮のスタイルがそのまま凍結保存されているのではないかとの新たな関心も出てきました。

ここでは、何故、ここに宇佐地名が存在し、宇佐八幡宮があるのかはとりあえず解決したものの、新たな謎として、何故、この僻陬の地に筑豊は田川市の特殊な古地名である「夏焼」があるのかが湧きあがって来たのでした。境内社として、厳島大明神夏焼社なる謎の社までがあるのです。

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259 日吉神社の祭神 大山咋の神紋をご存知ですか? “飯塚市庄内町筒野の日吉神社から”

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259 日吉神社の祭神 大山咋の神紋をご存知ですか? “飯塚市庄内町筒野の日吉神社から”

201511104

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今年の秋は上天気が続いています。

当然、フィールド・ワークの回数が増えてしまいますが、そうした中、時間調整の必要から豊の国古代史研究会のN氏と筑豊でもほとんど人が入らない庄内町(合併により現飯塚市)筒野の日吉神社を見に行きました。

ここは、飯塚市、田川市、旧山田市の間に挟まれた比較的平坦な盆地が広がっているところです。

 社殿は直ぐに見つかりました。

 一般的に、大山祗(ツミ)命と大山咋(クイ)命を混同していたり、親子神のように理解されている方も散見されるのですが、世代も系統も異なる神様です。

 旧山田市のとなり町でもあることから、この一帯には非常に多くの日吉神社が鎮座しています。

 この日吉神社の神様こそ大山咋命であり、お妃のヤタガラスの娘である鴨玉依姫と間に産まれた人物こそ、藤原によって格上げされた第10代贈)崇神天皇となるのです。


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北部九州では、ほとんど見掛けませんが、明瞭な二葉葵の神紋です。

 この日吉神社の祭神が大山咋命であることは間違いありません。

 日吉神社、日枝神社、山王神社、松尾神社、佐田神社(断じて猿田彦ではありえない)は全てこの海幸彦(草部吉見)と市杵島姫との間に産まれた大山咋命(実は阿蘇国造神社の主祭神 速瓶玉命=ハヤミカタマ)なのです。

次の二葉葵、立ち葵系統図(百嶋由一郎氏作成)をご覧ください。



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ここで、少しこの葵の神紋について書くことにします。


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崇神天皇、豊玉彦の神紋は微妙に違いますが、普通は間違えそうなレベルです。

当然、大山咋命とははっきり異なりますので区別は着くと思います。

では、冒頭に掲載した庄内町筒野の地図をご覧ください、鴨生地区、下鴨生という地名が確認できますね、この日吉神社が数多く鎮座する、旧山田市から飯塚市に掛けてのエリアには、崇神天皇、豊玉彦に、つまり、上賀茂神社、下賀茂神社に繋がる氏族が展開していたことが良く分かるのです。

 そして、九州王朝論の立場から言わせて頂ければ、そのベクトルは西から東へ向かっている事を思わざるを得ないのです。

 勿論、本拠地がここだったと申上げている訳ではありません。

 この両族は、古代における大族であり、この他にも数多くの大規模な根拠地を持っていたはずです。

ここでは、地名と古代史族とが関係があると言う事を理解して頂けるだけで良いと思います。


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境内から望む筒野地区


最後に、日吉神社の神紋の打たれた石柱を見て下さい。六角形の柱を成していますね。

この事からも色々な事が言えるのですが、この亀甲紋章のルーツは決して出雲の大国主命などではなく博多の櫛田神社の大幡主のシンボル・マークなのです。

260 若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る“春日市の白玄社”への再訪!

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260 若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る“春日市の白玄社”への再訪!

201511104

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



春から始めた百嶋神社考古学勉強会は順調に回を重ね、月例会化できるようになりました。

メンバーも十人を超え(オンエア時点では15名)安定して開催できるようになってきました。

それに、関東、関西、熊本にも関心を寄せる人々が現れ(掲載時点では全国で2530人)組織的活動も始まりそうな勢いです。

11月はたまたま日曜日の午前中に行う事になり、自然食という不自然なランチを食べて、昼からは参加者のうち7名が春日市内の重要な二社を訪問する事になりました。

一つは、白玄社(大国主が幼少時の名で祀られる大国主を祀る最も古い神社)であり、もう一つは伏見稲荷の最も古い神社である白川伯王益寿稲荷です。

二社ともにどえらい神社ですが、既に、両社とも


「ひぼろぎ逍遥」(跡宮) 024 大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社” 029 伏見稲荷様も九州出身 “春日市の白川伯王益寿稲荷”


として書いています。ただ、今回、伯玄社に関して前回のブログで掲載していない映像をお見せしたいと考え、再度ブログとして書くことにしたものです。


260-1


当日は欠席者が多く、男4名、女4名の8名の参加でしたが、7名で現地探査に向かいました


白玄社は春日市の商工会議所の敷地内にあり、駐車場もあることから、同地を探して見学される事をお勧めします。


カーナビ検索
福岡県春日市伯玄町2丁目24


詳しくは、前掲のブログを読んでもらうとして、今回は、神仏混淆化された参拝殿(お堂)の裏に石造りの神殿の神額を見て頂きたいのです。

実は、前回訪問した時は、文字が書かれているとは考えていなかったのですが、今回、訪問すると、ちゃんと書かれている事に気付いたため、改めてお知らせする事にしたものです。

通常は、ボロタオルを用意して水に濡らして表面を拭けばだいたい文字が浮かび上がるのでどなたも試してみて頂きたいと思います。

デジタル・カメラで撮影した画像を、コントラスト、明るさをパソコンで調整しても文字が浮かび上がる事があるのですが、まずは、このような簡単な方法でもなんとかなるものなのです。




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白玄社(上)神殿    神額(下)

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「大巳彦神」と彫り込まれていることはお分かりになるでしょう


やはり、多くの人間の目で何度も訪問すれば、その都度、新たなものが発見できるものです。

これが大国主命(オオナムチ)の幼名(オオヤビコ)であり、大国主命が現出雲の国の人など言う近畿大和朝廷が捏造した「古事記」などを真に受けない様にお願いしたいものです。

次に向かったのは、白川伯王益寿稲荷です。

ここは、非常に分かり難い場所にあることから、相当に前もって下調べをして行かないと辿り着けません。


カーナビ検索 春日市須玖北8-48辺り


260-5

「白川伯王」益寿稲荷の「白川伯王」自体が、明治維新まで天皇家の祭祀を行っていた白川伯王家に関わるものであり、「出勢稲荷」の表記も非常に古いものなのです(昨年末舞鶴の某社で見ましたが…)。

今回は、「大巳彦神」と「出勢稲荷」の画像を再度お見せしたかったことから書いたものですので、これまでとします。


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スポット024  3/20「古代田川に天皇がいた」内倉武久、福永晋三講演のご案内

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 スポット024  3/20「古代田川に天皇がいた」内倉武久、福永晋三講演のご案内

20160215

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久   


久留米地名研究会の提携団体である筑豊の田川郡市を中心にした豊の国古代史研究会が活動を開始して半年が経過しましたが、数年前から香春町の主催で行われていた福永晋三講演が発展し、田川郡市(7市町村)主催のまちづくりフォーラムとして二人の九州王朝論者による講演が実現する事になりました。


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また、翌21日にも久留米大学における公開講座(特別枠)として両氏による講演が行われます。

多くの皆さんに九州王朝論の最先端研究に触れる機会が得られるものと考えています。


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261 平安の歌人和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ①

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261 平安の歌人和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ①

20151111

久留米地名研究会 古川 清久


四国の高良神社については、以前、愛媛と香川について現地を訪れご報告させて頂きましたが(「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」四国に高良神社を探る ①“しまなみ海道~中瀬戸自動車道 年末2(車中)泊3日の駆足調査旅行” 捷一号作戦 5)、今回も徳島と高知の五社の調査のため、メンバーで、元M県の学芸員でもあった某氏に同行をお願いし、451600キロを走り抜くというハードな調査旅行を行い帰ってきました。

ようやく体の疲れも取れ、高良神社五社外のリポートを書こうとしていたところ、佐賀県のあるFM局から電話が入り、“肥前の国(佐賀県)の杵島周辺の和泉式部の生誕生育伝承”について話して貰えないかとの話が飛び込んできました。

20121月でしたが、久留米地名研究会は武雄温泉宿泊と併せ40人規模の新春トレッキングを行っています。

その現地探訪用の資料をそのまま久留米地名研究会HP31「杵島」というタイトルで掲載しているのですが、どうやらそれを読まれた同局のディレクターが関心を示されたようなのです。

これには、杵島山周辺の23ポイントをピック・アップしていました。


※以下クリックで拡大表示されます
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今回は、この中の和泉式部に関するお話です。


八艘帆ケ崎(百済聖明王一族の亡命避退地)~稲佐神社(いなさじんじゃ)


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。

また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。
 平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。
 この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。

稲佐神社849-1206 佐賀県杵島郡白石町大字辺田2925  0954-65-2177カーナビ検索入力用


ここには県道錦江~大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。

県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。                    
 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。

これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡 命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。なお、聖明王は武寧王の子であり、武 寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。



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八艘が崎の掲示↑ 八艘帆が崎(ハスポガサキ)当時の写真


このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から として 百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。と、あります。

稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。

今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。
 本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、当面、私の手には負えません。
 少なくとも、この伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを語っています。


和泉式部の生誕地白石町(旧錦江村)     福泉禅寺0954-65-4162カーナビ検索入力用


「万葉集」に「あられふる 杵島が岳を険(さか)しみと 草とりかねて 妹(いも)が手をとる」と詠われる杵島山では、かつて歌垣が行われていたと伝えられています。この地に揚子江流域から呉越の民、ビルマ、タイ系の人々が入ったことは疑いようがありません。

和泉式部は佐賀県白石町(旧錦江村)の福泉禅寺で生まれています。すぐそばには、百済の聖明王の一族が渡来(亡命)したとされる稲佐神社があります。式部は和泉守の橘 道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて和泉式部と呼ばれます。この道貞との間に小式部内侍が生まれます。夫とは後に離れますが、娘は母譲りの歌才を示しています。

皆さんご存知でしょうが、百済の王都は錦江(クムガン)にありましたね。稲佐神社に聖明治王の一族の亡命伝承があるとすれば、錦江村の錦江がクムガンと無関係とは思えないのです。もしかしたら、和泉式部も百済系渡来人の子孫かも知れないのです。


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白石町の広域農道側に立てられた和泉式部生誕地の案内塔


和泉式部が育った塩田町


式部は杵島山を西に越えた嬉野市塩田町の大黒丸夫婦に9歳まで育てられ京都に登り参内します。

平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています(嬉野市のHPより)。 写真は和泉式部公園(嬉野市塩田町)



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嬉野市(旧塩田町)五町田の和泉式部公園に置かれた式部像


時間の関係から、全てを廻る事はできませんでしたが、二日間で23ポイントの8割は周り、多くの皆さんが驚いておられました。

特に、平安歌人として有名この上ない和泉式部の生誕生育伝承地に関しては関心が高く、「こんなことが何故知られていないのだろう…」といった感想を口々に話されていた事が印象的でした。

トレッキングとして佐賀県を取上げたのは、この他にも淀姫神社と川上タケル佐賀の川上峡温泉の伝承地(これについては地名研HPから31「淀姫」ヨドヒメをご覧ください)があるのですが、やはり、紫式部、清少納言、赤染衛門と並ぶ四大女流歌人の一人である和泉式部への関心は、今尚、高いようです。


「天下の和泉式部が佐賀の片田舎の出身であった」はずがない? ① (錦江の論証)


問題は、それほどのインパクトのある話であるにも関わらず、何故、誰も知らないのか?という背景にあります。

確 かに、当の生誕地である現白石町(旧有明町)も、現嬉野市(旧塩田町)も大きな看板を掲げるなり(地元の農家しか通らない広域農道)、大規模な公園整備 (国道からは多少離れている)を行うなりそれなりの宣伝は行っているのですが、県レベルになると腰が引けているようで、大規模に幹線国道に宣伝するという 状況にはないのです。

も とより、日本の文化も風土も理解しない連中(ヨーロッパ不良貴族崩れ)に格付けをさせて肖ろうとする「世界遺産登録」ブームのように、そのような見苦しい 「町興し」、「村興し」運動に賛意を表するつもりもないのですが、なりふり構わず地域振興に狂奔する輩が、通常、このような好素材を利用しないはずがない のです。しかし、…… 普通は奇妙に思えるのですが、それには理由があるようです。

和泉式部の一般的な説明は省略しますが、まず、次をお読みください。


和泉式部

「越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。」…中略…

佐賀県白石町嬉野市 - 白石町の福泉禅寺で生誕し、嬉野市の大黒丸夫婦に育てられたとされる言い伝えがある。寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の掛け軸が伝わっており、境内には歌碑と供養塔が建立されている。

「ウィキペディア」(20151111 1945による


平安時代のある朝、赤子の鳴き声で目を覚ました福泉禅寺の僧たちが周囲を探したところ、お堂の裏で白鹿が赤 ちゃんに乳をあげていた。そこに塩田(現在の嬉野市)から大黒丸という夫婦がやってきて、「私たち夫婦は子供がいないので、常々このお寺の薬師如来さまに 『どうぞ子供をお授けください』と祈願しておりました。するとゆうべ、『おまえたちの信心に応え、福泉寺に女の子を預けたので明日にでも寺に行き、つれて 帰るがよい』と薬師如来の夢のお告げがありましたので早速こちらへ参った次第です」と言った。大黒丸夫婦にもらわれていった女子はとてもかしこく美しく成 長し、縁あって宮廷に仕えることになった。それが後の和歌の名手和泉式部である。

福泉禅寺には和泉式部が故郷を忍んで詠んだという「故郷に帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらむ」という和歌の掛け軸が伝わっている。ただし、和歌の下に描かれていたという和泉式部の肖像は剥落してしまっている。

HP「九州物語」による


 ネット上から「ウィキペディア」HP「九州物語」を見て頂きましたが、「越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。」とあるように、杵島の和泉式部伝承も通説では、片田舎の佐賀の杵島山で生まれたなどとは全く考えられていないのです。

 当然ながら、身びいきの市町村レベルではともかくも、県以上(例えば教育庁文化課…)となると、学会通説に阿る傾向が強いため、畿内(京都)から遠く離れた佐賀の片田舎から和泉式部が出てきたなどとは全く考えない事が識者の条件とでも思っておられるようなのです。

 これこそが、大々的にキャンペーンを張る歯止め(ブレーキ)になっているのであり、「邪馬台国九州説」や「九州王朝論」が排除されている事と通底しているのです。

 では、実際はどうだったのでしょうか?

 歴史は頻繁に偽装されますが、文学まではなかなか及ばない(お目こぼしにされます)ようです。

畿内でも式部の歌と認められている“ふるさとに帰る衣の色くちて錦の浦やきしまなるらむに言う「錦の浦」こそ、現白石町に編入された旧有明町の一部であった旧錦江村だったのです。


1889(明治22年)41 - 町村制度施行により、深浦村と坂田村が合併して竜王村になった。辺田村と田野上村と戸ケ里村が合併して錦江村になった。牛屋村と横手村が合併して南有明村になった。


「有明町(佐賀県)「ウィキペディア」(20151111 1945による


それは、この地が錦江と呼ばれていたからであり、前述したとおり、杵島山はかつて島であり、欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるからですが(稲佐山畧縁記)、百済の王都の正面を流れる河=錦江(クンガム)に因んで付された地名だったと考えられるのです(有名な「白村江の敗戦」の故地とも考えられています)。


錦江(きんこう、クムガン)は大韓民国南西部の主要河川である。


「ウィキペディア」(20151111 1945


冒頭の八艘が崎の掲示板 「八艘帆が崎(ハスポガサキ)」をお読みになれば、六世紀、この地に百済の王族が亡命し、「錦江」の地名も持ちこんでいる事が見えて来るのです。

そう考えれば、「“ふるさとに帰る衣の色くちて錦の浦きしまなるらむの意味が見えて来るのです。


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262 平安の歌人和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ②

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262 平安の歌人和泉式部は肥前國の杵島山で産まれ育った! ②

20151112

久留米地名研究会 古川 清久


「天下の和泉式部が佐賀の片田舎の出身であった」はずがない? ② (橘氏の論証)

 

もう一つ、和泉式部がこの地で生まれ育ち京都に参内したと考えられる根拠があります。

それは、橘氏に関する濃厚な伝承です。

 まず、参内した式部は和泉守の橘 道貞の妻となっています(後に不和となり分かれますが…)。

何故、学会通説が馬鹿にする片田舎の肥前から、ある時期は藤原氏と凄惨な闘いを繰り返していた中央貴族の橘一族に嫁ぐ事ができたのでしょうか?

それは、この杵島山一帯が橘一族の本願地(もしかしたら出身地)であり、「奈良麻呂の変」(天平15年=743年)以降も同一族が陰に陽に住み続けており、中央の残存橘氏と繋がる一族(本家筋)が居たと考えられるのです。

では、その痕跡があるのでしょうか?実はあるのです。

 現武雄市橘町(明治の橘村)は、古来、橘氏が住み続けてきたことから橘村とされています。

 この武雄市橘町には潮見神社があり、橘 諸兄は元より、その直系の末裔である橘 公業などが祀られています。


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潮見神社縁起


橘 諸兄


橘 諸兄(たちばな の もろえ、天武天皇13年(684年)- 天平勝宝9年1月6日(757年1月30日))は、奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)[1]で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。初代橘氏長者。                    …中略…

和銅3年(710年)無位から従五位下に叙せられ、翌和銅4年(711年)馬寮監に任ぜられる。

元正朝では、霊亀3年(717年)従五位上、養老5年(721年)正五位下、養老7年(723年)正五位上と順調に昇進する。

神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく従四位下に叙せられる。神亀6年(729年)正四位下・左大弁に叙任され、天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合・麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。天平4年(732年)従三位。天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。

天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行によって太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまい、9月には出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。そこで朝廷では急遽、鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えた。翌天平10年(738年)には諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍朝廷の中心的存在となる。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレーンとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。

天平12年(740年)8月に大宰少弐・藤原広嗣が、政権を批判した上で僧正・玄昉と右衛士督・下道真備を追放するよう上表を行う[2]。しかし実際には、国政を掌っていた諸兄への批判及び藤原氏による政権の回復を企図したものと想定される。9月に入り、広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸する。さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。

天平15年(743年)従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年(749年)にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。

しかし、同年孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。天平勝宝7年(755年)聖武上皇の病気に際して酒の席で不敬の言があったと讒言され、翌天平勝宝8年(756年)辞職を申し出て引退する。

天平勝宝9年(757年)1月6日薨去。享年74。最終官位は前左大臣正一位。

諸兄の没後間もない同年5月に、息子の奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。

ウィキペディア(20151112 1030による


① この橘一族は源 頼朝からその功績を認められ伊予(西条市にも橘村があった)に領地を得ますが、後に、望んで杵島山山裾のこの地に入ってきます。

何故、そうしたかと言えば、彼らはこの杵島山の地が故地であると知っていたからだと考えるのです。

② この武雄市橘町一帯には橘氏に関わる伝承が色濃く残されていますが、最も重要なものとしては、橘 諸兄が失脚した後の藤原氏との権力を巡る争いの中(多くの争いが続きますが、最大のものが奈良麻呂の変)で、その立太子(敗北後は廃太子)道祖王(フナドオウ)の墓が、今も橘小学校付近のおつぼ山神籠石の正面の墓地にひっそりと残されています。


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道祖王の墓


① この橘氏は安全のためか、公業、公勢の時代に本家を渋江、分家を牛島、中村として三家に分かれ、多くの末裔が、佐賀、熊本に広く居住しています(実際には四家だったようですが、一家は絶えているようです)。

② この本家(渋江家)は現在熊本県菊池市の「天地元水神社」の社家として熊本市にお住まいです。

このように、万葉の歌垣(カガイ)が行われていた時代からこの地に住み続けていた橘一族は、九州王朝滅亡後に中央に移動したのですが、諸兄失脚後も五月雨的に続く政争に敗れ徐々に力を落としていきます。

その後、鎌倉政権登場による武家の時代に復権し、一派は杵島山一帯に戻りしばらく繁栄を見るのですが、後藤氏(武雄市)との争いに敗れ、菊池氏の庇護の元連携しその中心を肥後に移したようです。

この一連の歴史の流れの中の一コマに、十世紀、本願地から中央に進出した橘氏に送り込まれたのが和泉式部だったと言えるのかも知れません。

奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地

757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。 
 4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
 藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり(ママ)、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
 大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
  7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37 歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したと して、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
 前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
 8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。

hp「エピソード日本史」より


概略は以上のようなものですが、橘 諸兄は縣(橘)犬養三千代の子であり、奈良麻呂は、また、その子、三千代の孫になります。

で は、なぜ、道祖王の墓(ドウザノボチ←ドウソオウサマノボチ)がこの地にあるのでしょうか?橘 諸兄が太宰の権帥のとき、配下にいたのは吉備真備でした、諸兄の後に真備が太宰の帥になっていますので、真備に匿われた可能性はあるでしょう。何よりも、 奈良麻呂の変の時期にも、和泉式部参内の時期にもこの杵島山一体と中央には橘氏のルートが存在していたと思われ、もしかしたら、橘氏の本貫地の一つであっ たのかも知れません。


橘 諸兄とかっぱを祀る潮見神社

 

春日神社側の伝承として、「北肥戦志」に次の記録がある。(若尾五雄「河童の荒魂」(抄)『河童』小松和彦責任編集。シリーズ『怪異の民俗学3』より転載)
「昔 橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した折、内匠頭某という者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちか の人形に、火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播くし精力を励まし召使われる間、思いの外大営の功早く成就す。よっ てかの人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遥叡聞あって、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎか の化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さる。乃ち其趣を河中水辺に触れまわししかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりしてかの河伯を兵主部と名付く。主は兵 部という心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也。」

 さらにこの論文で若尾氏は、島田丸の捨てた人形は日雇いの「川原者」ではなかったかと推測している。                                                  

hp「麦田 耕の世界」俳句禅善より)

「奈 良麻呂の変」後、橘氏のかなりの部 分が殺され、半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢させます。その背後には、釘 を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。

詳しく知りたい方は、古川のhp「環境問題を考える」(アンビエンテ)から「兵主」をお読みください。橘氏と河童さらには兵主のことを書いています。

ちなみに、武雄周辺では悪口で「ヒョス」が最近まで使われていましたが、これは河童をあざけった兵主からきたものでしょう。

 

橘 公逸(キンナリ)

武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元22月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年96日関東御教書案(鎌遺6235)には,99日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。

当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。…(中略)…

当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。社蔵の御正体(市重文)は元禄51692)年の再興銘を持つが,その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。以上、久留米地名研メンバー牛島稔大のhp牛島さんたちのル-ツに迫る」より。


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スポット025  “新著のご紹介” 太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池 / 中原 英

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スポット025 “新著のご紹介” 太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池 / 中原 英

20160215

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


久留米地名研究会のサテライト研究会の一つ、菊池(川流域)地名研究会中心メンバーである中原 英先生の新著が公刊されました。


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2000円+税


まず、皆さんは「肥後の北部丘陵一帯に巨大な淡水湖があった!」などと言えば本気になさるでしょうか?

ご存知の通り菊池、山鹿、植木、泗水一帯には巨大な平野が広がっています。この大きな平野は湖底での水平堆積によって成立した可能性があるのです。

もちろん、恐竜が暴れていた中生代とかいった話ならば、日本列島の形状も全く異なっていたはずですしどのよ うなことでも考えなければないでしょうが、そのような何百万年、何千万年前といった地球物理学的な時代の話ではなく、私達から数えて百~二百代ほど前のご 先祖様の時代、凡そ二五百~三千五百年前辺りの縄文から弥生への移行期といった時代の話なのです。

まず、肥後熊本はお米がたくさん取れる豊かな土地…といった印象を持たれる方は多いでしょう。

しかし、この“肥後は米どころ”というイメージには多少の誤解があるように思えます。

肥後がありあまる程の農業国家、農業大国になったのは、戦国乱世が収束しその国力の全てが清正公に象徴される干拓(横島干拓や八代以北の不知火海の干拓)や潅がい施設の整備による農地開発(城造りの加藤清正は、一面、「農業土木」の創始者とも言われます)に振り向けられるようになったわずか四百年ほど前からの話でしかなかったのです。

平均海面が五メーター近く上昇したとされる縄文海進を想定しても良いのかも知れませんが、さらに遡ること五百~千年前の肥後を考えて見ましょう。

まず、もしも、海岸堤防や河川堤防が存在しないとすれば、現在でも熊本市のかなりの部分に水が入るように、洪水時の河川氾濫はもとより、高潮や台風による海水の進入する地域が広範囲に拡がることはご理解いただけることでしょう。

ましてや河川堤防、海岸堤防など全く存在しなかった時代、熊本市中心部一帯には巨大な湿地帯(感潮地帯)が広がっていたのであり、周辺の丘陵地にしてもその大半は阿蘇外輪山延長の溶岩台地に過ぎず稲作不適地だったはずなのです。

例えば、熊本市の東隣りの町、旧菊池郡大津町といえば熊本インターから阿蘇に向かうバイパスの通る所ですが、観光シーズンには大渋滞を引き起こす場所として誰でもご存知のところです。

こ の一帯も火山噴積物、火山灰が堆積した丘陵地であり、雨が降っても直ちに地下に浸透するために、とてもまとまった水田など開くことができず、稲の取れると ころではなかったのです。今でも水の大半は湧水で有名な水前寺公園、江津湖、八景宮といったところで湧き出しているのです。そのため加藤はこのような場所 に何本もの用水路を築いています。

ただ、全てがそうであった訳ではなく、白川に近い川沿いの細長い崖下の一帯では方々から湧き水が染み出し、小規模ながらこれらを頼りとした(実は天候に左右されず最も信頼に足る水源なのですが)稲作が古来行なわれ、成立した集落を繋ぐ形で古街道が置かれてもいたのでした。


しかし肥後は米どころだった


しかし、加藤領以前の中世においても、やはり、肥後は米どころだったのです。それどころか、実は九州最大の穀倉地帯でさえあったのです。

ここで南北朝騒乱期を考えて見 ることにしましょう。九州に住む人ならば、菊池武光、菊池武時を始めとして、一時期大宰府をも占領し北部九州一帯を支配下に置いた菊池氏のことは良くご存 知でしょう。この菊池氏の力を支えたものこそ、山鹿から菊池に広がる巨大な平野の生産力だったのです。

まず、戦中派の方ならば、「菊池米」と呼ばれた極上の献上米があったことは良くご存知でしょうし、この穀倉を押さえることができたからこそ、南朝方(宮方)として戦った期間を含め、数百年に亘って九州中央部に磐居しえたのでした。

では、山鹿から菊池へと広がる丘陵地は何ゆえ米が取れるという意味での穀倉地たりえたのでしょうか?これこそが今回のテーマなのです。


山間の平地はどのようにしてできたのか?


昔から不思議に思っていたことがあります。山間僻地を旅していると、急に開けた平地、平野に出くわす事が良くあります。もちろん、平らな土地は通常水田地帯になっていますが、このような平地がどのようにしてできたかが良く分かりませんでした。

一 定の傾斜を持った山裾が水田に変わっていくことを考えると、はじめに木が切り倒され、焼畑が行われるでしょう。何度も何度も焼畑が繰り返され、いずれ常畑 (定畑)に変わり雑穀栽培などが行われます。そして、さらに有利な作物、つまり、稲が伝わると、雑穀の一部として陸稲として稲を作ったかもしれませんが、 いずれ、水を引き入れ灌漑が施されると階段状の棚田が形成される事になるのです。ただ、それによっても全体の傾斜に変化はなく、一度、水田ができると地形 の変化は進まず固定します。つまり、このことによっては、依然、平地や平野は形成されないのです。

考えられることは、水による土砂の堆積以外にはありません。

仮 に大規模な渓谷で大洪水が起こり、大きな石が川筋を塞いだとしましょう。一度塞がれると、さらに多くの石が詰まるようになり自然のダムが形成されるように なることもあるでしょう。当然、水が溜まり、土砂が堆積することになります。重い石や砂は下に、粒子が小さな泥は上に溜まりますから、湖の底には平らな泥 底が造られることになるのです。

その後、地殻変動、地震などによって流路が造られると平地が地上に現れることになるのです。このようなことが大規模に起こったものが山間の平野であると考えられるのです。

そして、実際、山間の小平地の大半は大きな洪水、氾濫の結果生み出されたものと考えられるのです。

阿蘇は巨大なカルデラであり、古くは水が溜まっていたはずです。その水が抜けたものが阿蘇の平野と考えれば、このことが良く分かると思います。このように考えると、災害とは人間の生活基盤を奪うと同時に生活基盤を創っている事が良く分かります。

俗にエジプトはナイルの賜物と言われますが、それは、同時にナイル川の氾濫による水平堆積の賜物でもあったのです。


なぜこのような台地にこれほどの平野が存在するのか?


今でも月に一度は菊池、山鹿、玉名方面に足を伸ばしていますが、三号線で南に向かい、鹿北町辺りに来ると、山鹿から菊池、植木方面へと広がる巨大な盆地の中に凡そ標高五十メートルのところに圧倒的な広さの平野、従って水田が存在することに以前から疑問をもっていました。

特に、三号線上にも寺島、南島 という地名が直ぐに拾え、山鹿市周辺にも中島、底原、浦田、熊入(山鹿市)、といった地名が拾えるのです。この傾向は菊鹿盆地全体にも見られ、鹿本町の小 島(小嶋)、菊鹿町の島田、七城町の水島、高島、内島、蟹穴、蘇崎、小野崎、山崎、瀬戸口、鹿央町の水原、春間、植木町の平島、舟島、田底、泗水町の田 島、南田島、菊池市の迫間、西迫間、野間口、亘、といった海か湖、湖沼の縁を想像させる地名が拾えるのです。

このことだけからでも、かなり 古い時代、この地に巨大な川か湖が存在したことが想像できるのですが、特に際立つのが平島と田底です。まず、温泉ファンならば植木温泉の旧名が平島温泉 (戦後しばらくまでは通用していたはず)であったことは自明ですが、特に驚いたのがその裏口ともいうべき場所にある田底という地名です。現地をしょっちゅ う通っているのですが、農協の田底支所といったものが堂々と建物を構えています。谷底という言葉は今でも通用しますが、この地名に始めて遭遇した二十年程 前、“「田底」とは一体何だ…”と考えたことが今でも頭に浮かんできます。どのように考えても“住んでいる場所は少し山手のところだが、今、耕している自 分たちの田んぼは、昔、うみの底だった…”といった地名に思えるのです。

これらの地名は通常の道路マップで十分に拾える程度のものですが、1/250001/10000程度の地図、古字図や字図などを詳細に調べればさらにもっと興味深い地名が浮かんでくることでしょう。

まだ、基礎調査の段階ですからその作業は今後の課題として、私自身の作業としては別のアプローチを考えて見ます。


中原、堤想定 “古代茂賀の浦の発見”


ここで遭遇したのが中原、堤研究でした。二〇〇五年に菊池市で開催された菊池市文化講演会・第18回熊本地名シンポジウムにおいて、この驚愕の研究が発表されたのですが、その概略を説明しておきます。

菊池市の中原英氏は七城町の林 原露頭断面などの地質学的な調査を行なわれ、花房層と林原層と名付けられた堆積層の中に下層部から黒砂・軽石礫混じり・砂・粘土・川砂利などの順になった ものを発見されたのです。このような現象は湖沼などの中で起るいわゆる水平堆積を示すものなのですが、中原氏はこのような現象は把握できる範囲で過去三度 起ったと想定されています。花房層の研究から一回目は12万年前と9万年前の間、第二回目が現在の菊鹿盆地の南側に広がる花房台地を湖底としたもので、

9万年前から5万年前までの間のAso.4層の上部、そして第三回目が問題の茂賀の浦で、中原研究では5万年前の地殻変動によって花房台地面と菊鹿盆地面の間に40メー トルの段差が生じ、そこに茂賀の浦が生じたとされているのです。問題はその時期ですが、花房台地の堆積から推定し、少なくとも二、三万年前から六〇〇〇年 前までは存在した(これはそれ以降の新しい時代まで残っていたことを否定するものではないという意味と理解しますが)と考えられているのです。この六〇〇 〇年前という数字は非常に重要で、一般的には縄文時代の真っ只中とされているものに重なってくるからです。

 では、少なくとも縄文時代の中頃までには存在した巨大湖“茂賀の浦”はいかにして消失し、現在の巨大平野に変わったのでしょうか?

 一方、菊池市教育委員会の堤克彦氏(文学博士)は『鹿郡旧語伝記』所収の「大宮社古記」の「茂賀の浦」(北境ノ湖・北境ノ沼)の八龍大亀伝 承、崇神・景行天皇の蹴透伝説などから茂賀の浦の伝承を回収されるほか、菊鹿盆地一帯の縄文遺跡、弥生遺跡の空白地帯を発見されたことから、その分布図を 中原研究の茂賀の浦と照らし合せ、その完全な一致から茂賀の浦とその変化を発見されると同時に、縄文期から弥生期にかけて縮小したことまでも証明されたの です。

 証明の切り口は単純です。言うまでもないことですが、通常、湖、沼、川には遺跡は存在しません。それは水中遺構は別として、通常人は湖には 住み着けないことから、頻繁に河道が変遷する場合とか大規模な地震などによって急激な水位の低下などがない限り、住居址、生活遺構、墓跡といったものが存 在しないのです。もしも、長期にわたって湖が存在したとすれば、その外周部に遺跡が残ることになり、逆に、遺跡が存在しない部分こそ湖であったことになる のです。同様に湖が縮小してきた場合には、外側に縄文、弥生遺跡が、内側に弥生だけが残ることになるのです。さらに、面白いことに、弥生時代にも、なお、 縮小した弥生の茂賀の浦が存在したようで、その中には弥生の遺跡は痕跡を留めていないのです。

と、すると、弥生期から古墳時代にかけて何らかの変化が起り(変化を起こし)、水が抜け(水を抜き)、田底三千町と呼ばれた巨大な水田が生まれ、後の条里制へと繋がったと見るのです。


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263 四国の高良神社調査で発見した二つの永尾(釜蓋)地名 ① 徳島市編 

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263 四国の高良神社調査で発見した二つの永尾(釜蓋)地名 ① 徳島市編

20151114

久留米地名研究会 古川 清久


201511月、45日の行程で徳島、高知両県の高良神社5社の調査に出かけました。

 これについては、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)181186 として報告しています。


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この高良神社の調査の最中、ここ阿波でも、そして土佐でも「永尾」(釜蓋)地名と考えられるものを発見したのでご報告させていただきます。 


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徳島市を簡単に表現すれば、四国の大河、吉野川の氾濫原と言うか川原に成立したような都市です。

多くの支流、分流が紀伊半島に向かって吐き出しているような土地です。

当然にも多くの三角州、川中島それに突き出した岬状の土地が造られる事になります。

 徳島市の中心部から吉野川を超え、応神町の高良神社を訪問しようと車を走らせていたのですが、飯尾川と表記された小河川を発見し、もしかしたら民俗学者谷川健一が発見した「永尾」(エイノオ)地名と、地形が確認できるのではないかと思い、翌朝、早々に現地を踏む事にしました。


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地面からは中々鮮明には見えませんが、地図(グーグル・マップ)を見れば一目瞭然で、円で囲んだ二つの場所が、エイの尾に見立てられる事は明らかでしょう。

 問題は、実際にどのように呼ばれているかを確認する必要があり、飯尾川の傍に住んでいる方、複数にお尋ねすると、”「イノカワ」と呼んでいますが「イイノオカワ」が正しいかも知れません”といったお答えを頂きました。

少なくとも、「イイオカワ」ではなく「ノ」が入っている事だけは直ぐに確認できました。

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今、お知らせできる事はこれだけです。

 ただ、今までも多くの「永尾」(釜蓋)地名を見て来たものからは、その類型である事は間違いないと思うものです。

 下の写真は飯尾川の吐き出し部分()にできたエイの棘状地であり、ご丁寧にも不必要かつ薄汚いテトラ・ポッドがリアルです。


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どう見てもエイの尾に見え、陸にはい上がった巨大なエイがイメージできます


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静かに流れる飯尾川(左) 畑が広がる先端の部分の遠景(右)


本稿で始めて「永尾」(エイノオ)地名を理解された方は、「ひぼろぎ逍遥」のバック・ナンバーを併せてお読み下さい。


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264 四国の高良神社調査で発見した二つの永尾(釜蓋)地名 ② 四万十市の隣町 黒潮町編

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264 四国の高良神社調査で発見した二つの永尾(釜蓋)地名 ② 四万十市の隣町 黒潮町編

20151114

久留米地名研究会 古川 清久


徳島から一転、四国を対角線状に四万十市に向かいました。

意地の張り合いの様に、四万十町と四万十市があるのですが、目的の四万十市は旧土佐中村市のことで、我々将棋ファンにはかつて名人にも挑戦した森 鶏二九段の出身地として印象深い土地でもあります。

さて、四万十市の10キロほど手前に黒潮町があり「井の岬」という奇妙な名の半島があります。

奇妙だと言ったのは、岬状地で井の岬と は、通常は水の得られる停泊地といった印象にはなるのですが(井ノ浦…)、さすがに岬では水は得られないもので、始めは同地に「井ノ岬温泉」もあることか ら井とは温泉=湧水でもあるのかと考えたのです。しかし、剱(ツルギ)神社が置かれている事から、どう考えても、これは民俗学者の谷川健一が提案した「永 尾」地名に間違いないのではないかと思ったのでした。

何故なら、本家本元の熊本県宇城市の永尾神社にも同名の剱(ツルギ)神社が鎮座しているからです。


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潮が引けばもっと鮮明なエイの尾状の突き出した岩場が確認できると思います。

エイの鰭に見立てられた弧状の砂浜は、港湾整備によってかなり破壊されていますが、ある程度確認できるようです。


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遠い古代(地名が成立する程度の昔)、九州から同じ剱神社を奉祭する一族が移り住んだのでしょう。

勿論、そのベクトルは黒潮によって西から東、南から北へと向かっていたはずです。

こちらも付近で畑仕事をされていた御婦人にお尋ねすると“「イノミサキ」とよんじょります。”とのお答え頂きました。

ここで少し問題があります。

「良い」を「イイ」、「イー」、「ヨイ」、「エイ」、「エー」と色々な呼び方をし、それなりに通用します。

 ただし、穎(エイ)を「エー」とは呼んだとしても、「ヨイ」とも「イー」とも呼びはしません。

しかし、穎(エイ)についても、本来の鮫の仲間のエイの意味が忘れ去られてしまったとしたら、このようにルーズな発音で呼ばれる可能姓はあるのではないでしょうか?

このことが、永尾(エイノオ、エーノオ)地名にバリエーションが生じた理由なのでしょう。

もし、この可能性が正しいならば、「エ」音を中心に見当をつけていた「永尾」地名が、実は、飯、井、伊、居…といった漢字表記で書き留められている可能性を認め、受け入れざるを得なくなってきたのです。

再度、四国全域の海岸線に荒い検索を行ってみました。

徳島県阿南市の蒲生田岬(カマムタ系、)伊島、高知県四万十町の冠崎、愛媛県伊方町の夢永岬、三崎の井ノ浦…と可能姓のありそうなものが見出せました。

地図で見るだけでは全く駄目で、現地を踏み、背後地などを調べて確認すれば、まだまだこのような例に遭遇する事はあると思います。


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剱神社直下の道路脇にはこのような漁労民とは言えないような集落が延びていました。

まだ、剱神社が海に突き出した岬を意味しているという提案に疑問をお持ちの方がおられると思いますが、最後に、剱神社に祀られている摂社(?)の写真を見て頂きましょう。


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突き出した岬(穎)が神体とされていることがお分かりになったのではないでしょうか?

265 四国の高良神社調査で思い出した発酵茶 “高知県大豊町の碁石茶”

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265 四国の高良神社調査で思い出した発酵茶 “高知県大豊町の碁石茶”

20151114

久留米地名研究会 古川 清久


今回も民俗学的な興味だけで書いているもので、退屈に思われる方はパスされて構いません。

 徳島県の高良神社4社を実見し、大歩危、小歩危を抜けて高知県に入って来た時の事でした。

 早明浦ダム直下の道の駅「土佐さめうら」に寄ったところ、「碁石茶」を見つけました。

 ご覧の通りの四国のど真ん中もど真ん中の大豊町だけで生産されていると言う幻の「碁石茶」に遭遇したのです。

 以前(十年前ぐらいですか)、大恩ある国立S大学の経済学部の某教授から、教授の研究室で四国の山奥だけで作られているという珍しい発酵茶を飲ませてもらい少し分けてもらったことがあったのです。

 当時も「碁石茶」と聴いていましたが、その場所がここだったとは、現物に遭遇するまで全く意識していなかったのです。


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話としてはそれだけの事ですが、問題は、何故、この地にこのような照葉樹林文化としか言いようのない強烈な特殊なお茶の文化が存在していたのかに尽きます。
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まず、通常、お茶と言われるものの中で、茶葉を使わない麦茶、花(ジャスミン)茶などを除いた、いわゆるお茶の内、緑茶を好んで飲んでいたのが日本人と言えそうです。

 中国の山岳地帯の雲南省、貴州省、四川省…では半発酵のウーロン茶、インド、スリラン カなどでは完全発酵紅茶が飲まれ、インドの植民地支配からイギリスまで紅茶を好む傾向が広がっていますが、日本では、なぜか、室町期以降に緑茶が高価な嗜 好品として持ちこまれる事になるのです。

 そもそも、お茶が高価な交易品として珍重された理由は、緑の少ないシルクロード周辺の人々にとって、ビタミンの摂取(供給)が難しく、それを一気に補う半ば薬の様なものとして導入されたようなのです。

 その点、緑あふれる列島では、ビタミンの欠乏が起こるはずも無く、貴重な薬と言った触れ込みで下こまれたお茶も、結局は、嗜好品としての域をでることなく、気取った文化としてしか根づかなかったのです。

 ましてや、一般の庶民はと言うと、白湯こそが有難いものであり、良くてドクダミ茶や、麦茶で喉を潤していたのでした。

 そもそも、緑茶もウーロン茶も紅茶も原料は等しく茶葉でしかなく、高温多湿の中国の南 部では放っておいても自然に発酵が進むのですから、その状態で乾燥させたのがウーロン茶になり、高温なインドでは完全に発酵させ、日本では早い段階で熱処 理して発酵を止めて乾燥させ、紅茶から緑茶その中間といったものになった訳です。

 ところが、この土佐の山奥(なぜか嶺北と言うのだそうですが)には完全発酵の黒茶が根付いていたのです。


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この碁石茶は茶葉の生産からかなり手間の掛るもののようで、製品としてのお茶の製造には特殊な漬物のような製法で乳酸発酵が起こるようなものである事から、実際に製造技術を持った人が直接大陸から渡って来ているとしか考えられないのです。

このような事を書くと直ぐに、学芸員などが鼻であしらうといった事になるのが関の山ですが、では江戸期に自然発生的に出現しそれらが一切他国に持ち出されなかったなどと言うのでしょうか?

 私にはかなり閉鎖的な文化複合がセットで持ち込まれ、その大陸的な閉鎖的な環境の中だけで秘かに伝えられたと見たいのですが、余裕があれば、再度、周辺の神社調査でも行って見たいと思うものです。

 最低でも、大豊町には、祇園神社があり、白髭山があり、七戸集落があり、肝心の黒石地区の付近には奥大田という物部を思わせる地名まで拾えるのですから。

 このブログを長期間お読みの方には、それなりに言わんとする事はお分かりかと思います。

 古代の大陸の匂いがぷんぷんするのです。


以下参考


黒茶

黒茶(こくちゃ、くろちゃ)は、中国茶のうち、麹菌により数ヶ月以上発酵させる後発酵製法により作られるをいう。プーアル茶など。

一般に(中国茶)は製法の違いにより青茶緑茶白茶黄茶・黒茶・紅茶6種類に分類される。この内、黒茶と紅茶が発酵茶であるが、紅茶とは発酵方法が異なる。

普洱茶(雲南省)が黒茶の中でも有名。他に、六堡茶(広西省)、唐磚茶(四川省)、茯茶(湖南省)などがある。

タイミャンマーでは同様の製造方法を経た茶をラペソーと称し、食用にしている。

なお、日本でもわずかではあるが黒茶は製造されており、四国が主な生産地である。徳島県では「阿波番茶」と呼ばれた茶が黒茶であり、緑茶である番茶と全く製法が異なるため、現在では阿波晩茶と表記されるようになってきている。高知県では「碁石茶」と呼ばれる物が作られており、これは文字通りに碁石状の形をしている。

ただし、地元ではほとんど飲まれず、瀬戸内海の島々で作られる茶粥の材料として出荷される。希少品であり、予約生産にほぼ限られている。これは、18世紀から土佐藩参勤交代の道が北山道に変更されたことで、土佐の大名行列伊予の国を通ることになり、それによって碁石茶を知った伊予仁尾の商人が販売権を買って、瀬戸内海辺りに仁尾茶の名前で売りだしたことによる。

製造工程

黒茶は、次の製造工程を踏まえ生産される。

殺青 茶葉を加熱する。茶葉に含まれる酵素の働きを止め、酸化を抑制する。

初揉 揉捻。茶葉を揉む。茶葉の組織細胞を壊し、茶の成分浸出を良くする。

堆積 茶葉を積み重ね、発酵させる。黒茶の風味を引き出す。

復揉 揉捻。茶葉を再び揉む。

乾燥 乾燥させる。保存性を高め、香りを良くする。

消費地

産地周辺で消費される以外に、雲南省のプーアル茶は香港マカオで好まれ、以前から出荷されているほか、近年は韓国などの外国でも近年消費が伸びている。湖南省の茯茶は、新疆ウイグル自治区内モンゴル自治区甘粛省などの少数民族がビタミン補給のための生活必需品として消費されているが、近年は日本にも輸入されるようになっている。

茶葉の形状

詳細は「緊圧茶」を参照

大きく分けて、茶葉そのままの形状である散茶と、茶葉を発酵させる前に圧縮して固めてある緊圧茶2種類がある。


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ウィキペディア(20151114 1930


266 ついでに宮崎県延岡市の永尾(エイノオ)地名をご紹介します

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266 ついでに宮崎県延岡市の永尾(エイノオ)地名をご紹介します

20151117

久留米地名研究会 古川 清久


四国の高良神社(徳島、高知)実踏を終え、フェリー・ボートで佐田岬から佐賀関に戻り、その日は延岡に泊まったのですが、翌朝、日田の研修所に戻るため10号線を北上しました。

しかし、ここ(北方町)にも永尾(エイノオ)地名があることは二人の了解事項です。

当初、河川改修による巨大堤防建設に よって、ここには明瞭な永尾地形が失われている事から、公開する事を憚っていたのですが、この地にも古代三陵の一つである可愛(エノ)陵が置かれている事 から、鹿児島県薩摩川内市新田神社境内の可愛(エノ)山陵との整合性から報告しておく事にしたものです。

しかも、上天気ですので、ついつい、良い写真が撮れると拍車が掛ってしまったのでした。


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カーナビ検索 宮崎県延岡市北川町俵野


可愛岳からの支流が北川に注ぎ、古代には河川邂逅部=河合、川会に永尾地形が形成されていたと考えられます。

ここが、薩摩川内市新田神社正面と同様に川会(カアイ)の永尾(エイノオ)=可愛(エノ)と呼ばれていただろうことは疑い得ません。

ご存知の通り、高山彦九郎の功績もあり古代三陵の調査が行われ、明治の初期に鹿児島、宮崎、両県に三つずつ、ニニギ陵、ウガヤ陵…が指定されています。

その背後に、初期の明治政府を支えた島津(薩摩藩)の政治的意図が存在した事も間違いないことでしょう。

ただ、その実体としては、南九州にも普通に数多く存在した永尾(エイノオ)=釜蓋(カマブタ)地名が存在し、その一つを各々可愛(エノ)と呼び、この地こそ間違いない可愛山陵だったと強弁したものに違いないと思われます。

宮崎のインチキ神話については百嶋由一郎先生から何度も聴かされていましたが、この点からも明治期の神社行政、神話流布の底の浅さを考えざるを得ないのです。

といえば、立腹した振りをされるでしょうが、では、何故、宮崎、鹿児島に各々三陵を二つずつ割り振ったのかお聴きしたいものです。

まさか各々分骨されていたなどとはおっしゃらないとは思うのですが……。

さらに言えば、河合(カアイ)、川会(カアイ)の永尾(エイノオ)と呼ばれ、「好字令」以降、「可愛」と表記された可能性を否定できないのです。


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朝日で良く見えませんが、正面が北川で、右の制水門が江永尾地形の先端部の合流する俵野(ヒョウノ)谷川の痕跡です。


以下参考 「ひぼろぎ逍遥」205 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”⑤


このように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

お 分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイントは交 通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可 愛」を「エノー」と呼ぶようになったのです。そうです、「可愛」も永尾地名の一つなのです。

では、可愛を紹介します。


「可愛」の「えの」


ニニギと言えば、天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命の子とされ、「古事記」「日本書紀」ともに登場し、瓊瓊杵尊などと書かれる日本神話のスターですが、降臨後、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火照命(海幸)や彦火火出見尊(山幸)を生んだとされています。

そして、この山幸の孫が神武天皇になるのですが(あくまで通説に沿えばであり、百嶋神社考古学はそれを認めません)、ニニギは、亡くなった後「可愛山陵」に葬られ、それは「エノ」と呼ぶとされています。

もちろん、普通は「可愛」を「エノ」と読むことは出来ません。ただし、そこがどこかはともかくとして、地元では読んでいた可能性はあるのです。

これまで見てきたように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

これについては誰しも疑問に思うようで、例えばネット上の有力サイト「古代文化研究所」も次のように書いています。


○古事記・日本書紀・万葉集で、「可愛」の表記が存在するのは、日本書紀だけである。それも使用されているのは二カ所に過ぎない。
● 一つは伊弉諾尊と伊弉冉尊の國産み神話の箇所である。伊弉諾尊と伊弉冉尊が國産みをする時、日本書紀本文には「可美少男」「可美少女」とある。日本書紀一 書(第一)に「可愛少男」(2回)「可愛少女」(2回)とあり、その後に、「可愛、此云哀」とあって、「可愛」は「哀」と読むことを注記している。また、 日本書紀一書(第五)には「善少男」とある。さらに、日本書紀一書(第十)に「可愛少男」とある。ここに、日本書紀の「可愛」の表記の6例が存在してい る。
●分かるように、「可愛」はまた、「可美」や「善」とも表記されているわけであるから、「うつくしい」とか、「立派な」「好ましい」などの意であると判断される。
● もう一つの用例は、天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵を「筑紫日向可愛(此云埃)之山陵」としている箇所になる。ここにも日本書紀は本文の他に、一 書が八つも並記されているが、山陵名が記されているのは日本書紀本文だけである。日本書紀編纂の時、多くの記録がその山陵名を失っていた可能性も否定出来 ない。かりに諸書に山陵名の記録が残っていれば、日本書紀の通例であれば、並記されているはずであろう。
○これが古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例である。わずかに7例があるに過ぎない。それも極めて重大な場面での使われ方をしている。だから、古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例は極めて特殊な表記であることが分かる。


もちろん、水戸光圀公であろうが、本居宣長先生であろうが、「可愛、此云哀」については古来「エ」と呼び習わしていたからこそ、岩波書記も「エ」と振り仮名を付しているはずです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」「エイノオ」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

お 分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイント(必 然的にエイの尾形の地形を形成する)は交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾 (エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼び習わすようになったのです。つまり、「可愛」も永尾地名なのです。では、その「可愛」を紹介 しましょう。

もちろん、九州王朝論者にとっても、ニニギの墳墓は降臨地ではないのであって、薩摩川内にあっても一向に構わないのですが、それからすれば、先にご紹介した東区の多々良川流域の江辻山も候補にはなるかもしれません。

また、既に故人になられましたが、熊本に平野雅廣(廣の左に日)という孤高の九州王朝論者がおられました。

氏の著書「火の国倭国」他(五著)には山鹿市菊鹿町相良(アイラ)をウガヤフキアエズの陵とする有力な説があることも掲載されていることをお知らせしておきます(相良観音で著名)。


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267 四国と言えば金毘羅山に初参拝

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267 四国と言えば金毘羅山に初参拝

20151119

久留米地名研究会 古川 清久

「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)で連載している四国(徳島)の高良神社調査に多少の合間ができたことから金毘羅神社に参詣しました。

このような人がたくさん足を向ける観光地、寺社仏閣に足を向けないのが古川定石ですが、せっかくのチャンスがあるにも関わらず一見もすることなく批判するなど愚かでしかない事から、同行者の元学芸員氏も初見との事で、始めて参拝、参詣する事にしました。

駐車料金を払う気はないので、休みだった事もあり少し離れた銀行の駐車場に車を駐車し往復で一万歩になる物見遊山が始りました。

朝も早かった事から参詣客も少なく、静かな通りを抜け延々と700段の階段を登る参拝が始りました。

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では本殿の参拝殿、神殿をご覧いただきましょう



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神殿の造り方は交差したそれ物部氏の神殿ですね


本殿で最も印象深かったのは金属製(真鍮製か銅製か分かりませんが)の立派な灯篭でした。

神紋としてはっきりと「梶紋」が打たれていました。


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金毘羅神社の祭神については、依然から疑問が呈されており、誰が祀られているのかについて争いがあります。皆さんたちも、結局、誰が祀られているかは分からないままになっていないでしょうか?


明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。

ウィキペディア(2015 1119 15:00


結局、「大物主」とは誰なのか?ということになるのです。敬愛する「玄松子」氏も「大物主」を「大国主」とされており、それはそれで良さそうなのですが、百嶋神社考古学では「大山咋」=佐田大神=日吉神社=日枝神社=松尾神社…とします。

百嶋先生は、「結局、金毘羅さんは大山咋命(子は第10代とされた(贈)崇神天皇)を祀っている」とされていました。

これが、「金毘羅神社の祭神が」という意味だったのか、「金毘羅神社の祭神を大物主とした上で祭神が」大山咋命とされていたのかは、まだ確信が持てません。

勿論、初見の段階で結論を出すことなどできませんが、とりあえず分かる範囲でお話しておくものです。

 この解読には文献と併せ多くの境内に鎮座する摂社を考察する必要があるようです。

 いずれにせよ、明治までは「コンピラフネフネ…ゾズ(象頭)サンコンピラ(金毘羅)大権現…」のとおり、神仏習合の金毘羅大権現が祀られていたのであって、「大国主」が分離され(まさか一から大国主とされたとは思えませんので)主神とされたはずなのです。

このため、ここでは幾つかの境内社を見て頂く事にしておきます。

 これによって、明治以前の金毘羅神社の形が幾らかは見えて来ることでしょう。


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祓戸神はイザナギの子ではありません この四神は速秋ツ姫=豊秋ツ姫(高木大神の娘で拷幡千々姫の姉)、気吹戸主神(金山彦)、瀬織ツ姫(櫛稲田姫)、速佐須良姫(鴨玉依姫)なのです


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半ば説明不要ですが、天御中主命は神皇産霊神=大幡主命の伯母さんなのです


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大年神は、実は阿蘇の草部吉見神、御年神は伊勢の豊受大神と草部吉見神との間の子、若年神は不明ですが多分、御年神の子で大足彦(実は景行天皇)と考えています 勿論、大年神はスサノオの子ではなく甥


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これは分かりでしょう 事知主命のことですが、本当は大国主命の子ではないのです


これらは全て金毘羅さんの関係者だと思われます。神紋は梶紋、楢紋のどちらでも良いでしょうが、ユダヤのメノラーの変形と考えて良いでしょう。

神紋は宗像大社と類似しています。百嶋神社考古学では宗像大社の本当の祭神を大国主命としますので、これは、表向き大国主を祀っているという事と対応しています。

また、摂社を廃された神と考えると、スサノウ、クシナダ姫が祀られている事は良く分かりますし、

さらに言えば、大年神、御年神は神武天皇に逆らったスサノウの子の長脛彦の子の姉のオキツヨソ足姫の子ですので、古くは、スサノウ系の神社であった可能性が考えられそうです。

今のところここまでしか分からないのですが、百嶋由一郎最終神代系譜の民族分布のどのあたりに同社が位置しているかの見当が多少付いたところです。


※画像クリックで拡大表示されます
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黄色い枠で囲ったのが、本宮、摂社、境内社の神々です。そして、青い枠で囲っていますが、その中心に居るのが、百嶋先生が主神であろうとされた大山咋神です。

神代系譜は全て姻戚血縁に基づいて書かれていますので、関係者の神々をマーキングすれば、自ずと主神が焙り出されてくるのです。ついでに言えば赤い枠で囲ったのが現在の主神である大国主命なのです。


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268 草部吉見神社からもほど“近い?”早楢宮のイチョウの絨毯

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268 草部吉見神社からもほど“近い?”早楢宮のイチョウの絨毯

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)共通掲載 20151124

久留米地名研究会 古川 清久

 

2015年の16時間に亘る栂尾神楽を堪能し帰る途中、阿蘇高森の草部吉見神社で休憩する事にしました。


前日の栂尾に向かう途中、たまたま別件で見掛けた神社が気になり再度訪問したのですが、七年ほど前に訪問していた「早楢宮」で、結局は三度目の訪問であった事に気付き、ただの無駄足だったことになりました。


前日は雨で暗く何やら得体の知れない神社の様に思えた事から再訪したのですが、こういうことは頻繁に起こる事なのです。


しかし季節が違えば別の印象を持つのは当然で、それが今回の訪問にも繋がった訳です。

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早楢宮 カーナビ検索 山都町(旧蘇陽町)高辻

 

 地図で見ると草部吉見神社、三郎神社の直ぐ傍に在る様に見えるのですが、その間には深い渓谷があり、町も違うのですが、どうやら草部吉見と同系等の神社のようです。

 以前確認した事のある神社で、確か「ワセナラ」神社と呼ばれていたと記憶しています。

 今回の話はこれだけのことです。

 草部吉見神社の重要性についてはこの間何度もブログで取上げてきましたので良くお分かりと思います。

 草部吉見に関心をお持ちの方は訪問されて見ても良いかもしれません。

 阿蘇系神社には健磐龍系と草部吉見系の神社群があることはお分かりと思います。

健磐龍系ではないことは、垂れ幕の神紋からも明らかですが、何故、「ワセナラ」と呼んでいるかは見当が付きません。

ただ、草部周辺には「大楢」「小楢木」という地名があり関係があるのかも知れません。

問題は、この神社が草部吉見神社とは別系統の二枚鷹羽の神紋を使っている事です。

二枚鷹羽は菊池氏が使いますが、草部吉見は丸に三枚鷹羽ですね(実は○ではなく二枚の鷹羽を丸く並べている五枚鷹羽なのですが)。

鷹羽には「違い鷹羽」「二枚鷹羽」「五枚鷹羽」「一枚鷹羽」があり、これまでに全ての神紋を確認しています。

この問題に関しては今答を出す事はできません。イチョウの絨毯をご堪能下さい。


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早楢宮参拝殿


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早楢宮の垂れ幕


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左から草部系吉見 健磐龍系違鷹羽 菊池一族並鷹羽 最も珍しい一枚鷹羽


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269 草部吉見神社近郊の神社 高畑年禰神社の衝撃 ①

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269 草部吉見神社近郊の神社 高畑年禰神社の衝撃 ①
 

「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)共通掲載


20151124


久留米地名研究会 古川 清久


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同社参拝殿


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カーナビ検索 熊本県山都町高畑


次に向かったのは、もう一つの気になった神社「年禰社」(幸福社と読むのではない)です。

これは、正真正銘の初見の神社です。ネット上にも一切資料が無く、神社庁のデータを見ても、どうせ、阿蘇系神社としか出てこない事でしょう。

幸いな事に、この神社に関しては金石文とも言うべき石に刻まれた立派な由緒書が置かれていました。

 堀川(普通は河を使いますが)天皇とは平安末期1100年代の天皇ですから、それなりの神社です。

 勿論、国龍命とは草部吉見の彦根八井耳の別名なのです(百嶋「阿蘇のご一家」系図参照のこと)。

 由緒にある通り、「高畑年禰神社」とは、草部吉見神社紛れもない分社であるに違いありません。


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百嶋由一郎神代系譜(「阿蘇ご一家」)

 

 ただし、何故「年禰社」と呼ばれているのかは分かりません。また、「社」に点が付されている事も意味がありそうです。周辺の地名高畑と併せ、高辻の「高」が高木大神の地であったことを示しています。

 鳥居は新調されていますので、その起源は新しいのではないかと思いますが、付近にも人がおられず、聴き取りもできない事から、阿蘇にも菊池(川流域)地名研究会の女性メンバーがおられますので周辺調査をお願いしたいと考えています。


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ただ、神殿を見てたまげました。千木が横切り(内切り)されていたのです。

 草部吉見神=春日大神=鹿島大神…が女性神であるはずはないのですから、由緒の「草部吉見神社ノ分社」とはどのように考えても齟齬を来たしているのです。

 これを伊勢神宮内宮の某神官の方々のように、「良く千木で神様を男か女かを判断される方がおられますが、それは素人考えで誤りです…」と浅薄な短絡をして嘲笑される向きがあるのですが、それは全くの誤りで、表面的には男神であっても実際には女神を祀る事は十分に理由があるのです。

 この神社に関してもちゃんとした意味がある事は次稿をお読み頂ければお分かり頂けることでしょう。


270 草部吉見神社近郊の神社 高畑年禰神社(幸福社)の衝撃 ②

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270 草部吉見神社近郊の神社 高畑年禰神社(幸福社)の衝撃 ②



「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)共通掲載 20151124


久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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高畑阿蘇(年禰)神社正面

 

神殿の千木が女神を意味している事が分かった瞬間、この神社の性格がおぼろげながら見えてきました。

百嶋先生は、“草部吉見は高木大神の一族が支配していた三田井(高千穂)~阿蘇~島原(長崎県の南、北高来郡)に侵入し、高木一族への有力な入婿となっている”“草部は、クサカベ=草が部と読まないと意味が分からない、草とは伽耶を意味しており、伽耶を支配していた高木大神(伽耶が部)の傘下に入った”

つまり、全く異なる民族である高木大神の娘を妃とする事を持って一族への入婿となった彦八井耳を祀る神社もあれば、先住者の高木大神系の集落に於いては、彦八井耳を表に掲げ祀るものの、本当はお妃様を奉祭している(合せて祀る)はずで、どうやらこの神社もその一つだった事になりそうなのです。

千木を確認した後、境内社を探すと、普通にお参りのできる立派な祠が置かれていました。

このような立派な人形の置かれた社には、七支刀のレプリカントが置かれた旧瀬高町大神の「こうやの宮」がありますが、これを見てまた驚きました。

阿蘇には珍しい赤い鳥居が置かれた三神を中央に、向かって右に菅原道真公と思える男神、向かって左に生目八幡が置かれていたのです。


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この境内摂社(これも摂社かどうかは確認していませんが)の解釈について二つの仮説を出させて頂きます。

 

境内摂社を本来の主神である栲幡千々姫命と考えた場合

 

 主神は人形がない真中に置かれていたはずの栲幡千千姫命=タクハタチジヒメ(草部吉見の妃=高木大神の娘)はある時代、朝鮮人と考えられ摂社に移されていたが、今は神殿に戻されている。

 草部吉見のお妃の系統の一族として摂社の真中に残された二神が弟の瓊瓊杵尊=ニニギ(右)と姉の豊秋ツ姫に相当する。つまり、真中は高木大神の三人の子に相当する。

 両脇の二神の向かって右は、菅原道真とされるが藤原により祀る事を受け容れたもの。

 両脇の二神の向かって左は、生目八幡宮とされるが草部吉見とタクハタチジヒメにとってはひ孫に相当する神であり同時に垂仁天皇に相当する。

 明治維新後の神仏分離令以降の情勢にあわせ、草部吉見=孝昭天皇を表に出した際に不都合な五神を摂社として移したものかもしれない。

 

境内摂社が本来の主神である辛国息長大神大目命と考えた場合

 

 まず、錦山大御神が如何なる神か全く分からない。

 「玄松子」「神奈備」でダブル検索すると飛騨高山に物部守屋大連命を祀る神社が出て来る。

 物部守屋大連命が何故阿蘇のこの地に祀られるか理解できない。

 守屋宮と稲荷社は無関係ではありえないため、摂社の中央に赤い鳥居がある事と対応する。

 すると摂社の中央が辛国息長大神大目命となり草部吉見神のお妃として対応する。

 この場合、中央三神の右の男神は稲荷と草部吉見の間に産まれた御年神(景行天皇の父)になる。

 ただし、稲荷神はスサノウとミズハノメの間に産まれた神であり、この地が高木大神の土地である事と齟齬を来す。

 スサノウ系とすると摂社右端の菅原道真と対応する。

 

いずれの場合も神殿の千木が平切りされている事とは対応する。

中央三神の左端の色が落ちた神が何者かが分かれば全体が解読できる。

五神右端が菅原道真であることは写真では見えないものの、木材に梅鉢が描かれているので間違いない。

従って、左端も生目八幡も間違いない。

今のところこれ以上は解読できない。ただ、この神社の解読は重要であるため今後とも調査を続けたい。


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高木大神ファミリー(ニニギ、タクハタチジヒメ、豊秋ツ姫)□ に入婿となった草部吉見神 




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稲荷様=伊勢外宮の豊受大神の前婿(草部=海幸)、後婿(ニギハヤヒ=山幸)

 

御年神(考安天皇)~大足彦(景行天皇)

 

摂社の五人の神様の素性が少し見えてきましたね!

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