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271 2015年11月 菊水史談会 佃 収 講演会 と佃 九州王朝論

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271 201511月菊水史談会 佃 収 講演会 と佃 九州王朝論

201511029

久留米地名研究会 古川 清久


戦後の古代史研究のトップ・ランナーであり続けた古田武彦氏が亡くなりました。
邪馬台国畿内説の亜流でしかなかった東遷説が消えゆく中、最後まで九州王朝の探求を続けた古田武彦氏の生き様は見事と言うべきでしょう。
在野では多数派の邪馬台国九州説論者の多くも、大半は古田武彦氏の影響を多少は受け続けているようです。
一方、古田研究を傷つける事だけが目的で持ち出された『東日流外三郡誌』偽書捏造問題でしたが、裁判も負け「寛政原本」も出て以降は悪質極まりないY氏などもこの事に対しては口を噤めいるようです。
さて、久留米地名研究会の提携団体に菊水史談会があります。
同会は有名な銀象眼太刀が出土した江田船山古墳のある熊本県和水町を中心とする伝統ある郷土史研究団体(史談会)ですが、一昨年、玉名郡内の某庄屋家の古文書から実用されていた形跡さえもある「納音九州年号対照表」を発見し、五月には古田史学の会編集長古賀達也氏、八月にも非(反)古田系九州王朝論の旗手福永晋三の講演を取り組んでいます。
そうした中、昨日の事でしたが、佃 収 氏の講演会「卑弥氏と江田船山古墳」が行われたのです。
多くの史談会、郷土史会が、たあいもない邪馬台国九州説や学会通説に沿った俗論で満足する中、同会は十年以上前から九州王朝論の最先端を走る佃収氏の講演を取り組んでいるのです。

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古田武彦亡きあと九州王朝研究、邪馬台国研究を最先端で牽引する佃 収氏(東アジアの古代文化を考える会主宰『古代文化を考える』(同人誌)事務局)の講演「卑弥氏と江田船山古墳」を取組んでいます。

なお全体で十数著にのぼる佃 収氏の主な著書は以下の通りです。

倭人のルーツと渤海沿岸」「伊都国と渡来邪馬台国」「物部氏と蘇我氏と上宮王家」「天武天皇と大寺の移築」「倭の五王と磐井の乱」「神武・崇神と初期ヤマト王権」「四世紀の北部九州と近畿」…外十数著 いずれも星雲社「古代史の復元」シリーズ

連絡先 ℡ 048-977-3676(東アジアの古代文化を考える会)別に同人誌 季刊「古代文化を考える」(現在66号まで…)会費年4000

鉄も絹も出ない奈良を邪馬台国に比定するたあいもないS氏流の「邪馬台国畿内説」はともかく、今後とも権力と繋がる通説に許容される範囲でそれに尾を振り続ける町興し系統の俗説は再生産され続け、学芸員の全てが「畿内説」で塗り潰されるといった陳腐化した状況になって行くことでしょう。

今後、九州王朝研究がどのように深化、流動化して行くかは分かりませんが、通説、従って税金に群がる思考からはいかなる古代の真相も描き出す事などできないことでしょう。

提携団体を含め78団体に拡大した久留米地名研究会グループは今後とも取り組みを進めます。


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講演内容は別稿とし、ユーチューブでの公開も考えていますが、佃氏の九州王朝論の全体については、現在、PDF文書として公開されています。

関心をお持ちの方は、ぜひ、tsukudaosamu,comと入力しアクセスを試みて下さい。

日本古代史の復元-佃收著作集-でもアクセスができます。


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 紀元前1200年ころの「倭人」は中国呉地方に居た。日本は縄文時代である。約1000年をかけて「倭人」は中国大陸を北上し、渤海沿岸をまわり、朝鮮半島南部を経て、北部九州に渡来している。
  「倭人」の一派である「天氏(安冕辰ウン氏)」は山東省の臨シを通り、ラン河の東(遼東)で箕子朝鮮と混血する。渤海沿岸を通り、大凌河の下流に在る医巫 閭山の近くに建国する。「卑弥氏に国を譲り、朝鮮半島南部に「高天原」を建国する。前漢時代に北部九州に移る。これが「天孫降臨」である。
 天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「吉武高木遺跡」である。「大型建物跡(長井宮)」と「墓(木棺・甕棺)」が出土している。『宮下文書』(『神皇紀』)に記録されている通りの遺跡が発掘された。
『宮下文書』は史実を正確に記録している。
 天孫降臨のとき一部は有明海から佐賀県南部に上陸する。吉野ヶ里遺跡をはじめとして、甕棺墓を埋設する文化がはじまる。
 天氏は吉武高木遺跡から前原市へ移り、「伊都(いつ)国」を建国する。対海国・一大国・末廬国・奴国・不彌国を支配して「伊都国王朝」を樹立する。
「倭人」の移動ルートを究明しているときに「中国の古代史」で「地名」の解釈が間違っていることに気付いた。
 「万里の長城」の位置、「遼東」の位置、「箕子朝鮮」の位置、「漢の武帝が設置した四郡」の位置、「衛満朝鮮」の位置等はすべて間違っている。
 『契丹古伝』に「天氏」は「殷(箕子朝鮮)と姻を為す」とある。「箕子朝鮮」の位置が重要になる。

九州王朝論者でもあまりご存知ないようですが、古代史の最先端を切り開く佃 収 九州王朝論に注目して下さい!

「古代史の復元」シリーズ 1倭人のルーツと渤海沿岸

目次 271-4

第1章 弥生渡来人と「天孫降臨」

  1. 天孫降臨の地
  2. 天孫降臨と吉武高木遺跡
  3. 天孫降臨と伊都国
  4. 高天原はどこか
  5. 弥生渡来人のルーツ

第2章 万里の長城と遼東

  1. 文献から描かれた万里の長城
  2. 万里の長城と碣石山
  3. 万里の長城と遼水
  4. 遼東と朝鮮
  5. 燕と朝鮮

第3章 衛氏朝鮮と四郡の設置

  1. 衛氏朝鮮とバイ水
  2. 遼東と真番朝鮮
  3. 楽浪郡
  4. 玄菟郡
  5. 真番郡
  6. 臨屯郡

第4章 遼東郡の変遷

  1. 遼東郡の拡大と楽浪郡
  2. 右北平郡および遼西郡の拡大
  3. 郡拡大の原因
  4. 後漢時代の遼東郡
  5. 後漢末の遼東郡

第5章 古朝鮮の歴史

  1. 番朝鮮の歴史
  2. 番韓の歴史
  3. 東胡のその後

第6章 長城の遺跡

  1. 燕の北方長城
  2. 燕の北方長城への疑問
  3. 漢の長城

第7章 夫餘と辰

  1. 夫餘
  2. 百済

  3. 辰王と月支国
  4. 辰のルーツ
  5. 百済王統の交代

第8章 倭人のルーツと渡来ルート

  1. 倭人のルーツ
  2. 卑弥族のルーツ
  3. 倭人の移動の原因

佃 収 九州王朝論の重要論文のダイジェスト版とも言うべき新「日本の古代史」(上)(中)も出されており(下巻は準備中)、まずは、季刊発行の同人誌「古代文化を考える」(現在66号まで)一部1000円から読み始めても良いかも知れません。

参考として、日本古代史の復元 から一部をお読みください。


「歴史研究」に対する私の考え (佃收)

歴史の解明は「時間(年代)」と「空間(場所)」の究明である。
「時間」と「空間」を究明するには

1. 論理的であること(根拠を明示すること)
2.
科学的であること(物的証拠を提示すること)


これが「歴史研究」の基本であると考えている。

日本古代史の謎についてのいくつかの結論

最初は、驚かれるかもしれませんが、じっくり私の本を読んでいただきたいと思います。古代史の基本的ないくつかの点について、予め私が得た結論を示します。

1.「天孫降臨」は史実である

『古事記』に記述されている天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「日向川」付近である。そこの「吉武高木遺跡」から『宮下文書』に記述されている通りの「大型建物跡(長井宮)」と「三種の神器」を埋葬した木棺が出土している。福岡市西区が天孫降臨の「筑紫の日向」である。

2.後漢時代の「倭国」は朝鮮半島南部にある

『三國志』「韓伝」を頭から順に読めば「後漢時代」を通して「倭国」は「韓国」の南にある。日本列島にあるのではない。「倭国王帥升」は朝鮮半島南部の「倭国王」であり、「倭国大乱」は朝鮮半島南部の「倭国」の出来事である。

3.日本列島の「倭国」の誕生

次 の『三國志』「倭人伝」になると朝鮮半島の「倭国」は消えている。陳寿は「景初二年(238年)」以前の「卑弥呼」を「女王」と記し、国を「女王国」と記 す。「景初二年」に卑弥呼は「倭王」になる。それ以降の卑弥呼は「倭王」「倭女王」になっている。「景初二年」に卑弥呼は「倭王」となり、国は「倭国」に なったことを陳寿は明確に書き分けている。
「景初二年」に日本列島に初めて「倭国」が誕生した。

「古代史研究者」へ一言
夏 侯湛は『魏書』を著述して いたが、陳寿の『三國志』を読み、書くのを罷めたという。「古代史研究者」は『三國志』はすばらしいと感動し、夏侯湛が筆を折った理由を理解できるまで 『三國志』を何度も読む必要があるのではないか。夏侯湛のレベルに達しない限り、「倭国」や「卑弥呼」や「邪馬壹国」を解明することは出来ない。陳寿が記 述していることが理解できていないからである。(論文61号参照)

4.「神武東征(逃亡)」は史実である

伊 都国は邪馬壹国との戦いに敗れて、国を捨てて新天地を求めて東へ逃げる。和歌山県の紀ノ川を遡り、支流の丹生川に一時「伊都国」を再興する。そこが『和名 抄』の「紀伊国伊都郡」であり、今の「和歌山県伊都郡」である。「神武東征」の出発地が「伊都国」であることを「伊都郡」が伝えている。

5.国民は「貴国」を知らない

「日 本の歴史学」は「貴国」を認めていない。しかし「貴国」は『日本書紀』にも『続日本紀』にも出てくる。「(応神)三年(392年)」に貴国の天皇は4人の 宿禰を百済へ派遣して百済を責める。すると百済国は辰斯王を殺して謝っている。「貴国」は百済よりも強い大国である。しかし今の「日本の歴史」には「貴 国」は登場しない。

6.貴国の本拠地は肥前南部である

「貴国」は神功皇后(実際は貴国の天皇)が熊襲征伐をして「364年」に筑前と肥前に樹立した国である。貴国の本拠地は肥前南部である。
百済へ派遣した4人の宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・蘇我石川宿禰・平群木菟宿禰である。「紀角宿禰」の本拠地は『和名抄』の「肥前国基肄郡基肄(木伊)」であろう。「紀=紀伊」であり、「紀伊=基肄」である。
「蘇 我石川宿禰」の本拠地は肥前の三根郡を流れる「寒水(しょうず)川=石川」であろう。石川宿禰の四代目は蘇我稲目であり、その子が馬子である。「(敏達) 十三年(584年)」に「蘇我馬子は石川の宅に仏殿を造る」とある。馬子も「石川」に住んでいる。肥前南部の人である。蘇我氏は「392年」頃の石川宿禰 から馬子まで肥前南部を本拠地にしている。

7.仁徳天皇は貴国の天皇である

「(仁 徳)四十一年」に仁徳天皇は紀角宿禰と葛城襲津彦を百済へ派遣する。「仁徳天皇」の本拠地は「佐賀県三養基郡みやき町白壁」である。「白壁」には「仁徳天 皇」を祀る神社が多い。葛城襲津彦の本拠地は『和名抄』の「肥前国三根郡葛木(葛城)」であり、白壁の隣村である。葛城襲津彦の娘「磐之姫」は仁徳天皇の 皇后になっている。

8.鵲(カササギ)が生息するのは佐賀県である

百済へ派遣された葛城襲津彦は百済の王族である酒君を連れて帰国する。ある日、仁徳天皇は珍しい鳥の名前を酒君に問う。酒君は「百済に多く居る鳥で倶空(ク チ)という」と答えている。「倶空(クチ)=Kkachi(クァチ)」であり、「鵲(カササギ)」である。「鵲」は佐賀県の県鳥である。「仁徳天皇」も 「葛城襲津彦」も「肥前南部」の人であることを「鵲」が証明している。

9.貴国の天皇と蘇我氏

「392年」に貴国の天皇は「紀角宿禰」・羽田矢代宿禰・「蘇我石川宿禰」・平群木菟宿禰を百済へ派遣している。貴国の仁徳天皇は「紀角宿禰」と葛城襲津彦を百済へ派遣している。「蘇我石川宿禰」も肥前南部の人であることを「鵲」が立証していることになる。
蘇 我馬子も肥前南部を流れる「石川(寒水川)」に住んでいる。馬子の子は蝦夷であり、その子は「入鹿」である。「645年」に「乙巳の変」が起きる。中大兄 (天智天皇)が「蘇我入鹿」を伐った事件である。これは「肥前の飛鳥」での出来事である。中大兄も入鹿も「肥前南部」の人である。奈良県「明日香(飛 鳥)」にある石舞台古墳は蘇我馬子の墓では無い。馬子も蝦夷も入鹿も「大和」に住んだことは無い。

なお、関連サイトに「倭国通史」もあります。


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佃 収 九州王朝論を知らずして九州王朝論者と思う事なかれ!


季刊 同人誌「古代文化を考える」(1000円) 購読申し込み 0489773676 (佃)まで

272 なぜ肥後にはなぜ菅原神社が多いのか?

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272 なぜ肥後にはなぜ菅原神社が多いのか?

    「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)共通掲載   

20151130

久留米地名研究会(編集員)古川 清久

以前から肥後にはなぜ菅原神社が多いのかが気になっていました。

気にしなければ何でもない事なのですが、阿蘇は阿蘇系(草部系、健磐龍系)神社、菊池は菊池系(並鷹羽)…玉名から阿蘇、人吉の一帯には菅原系神社が非常に多いのです。
272-1

九州自動車道菊水インターに近い熊本県和水町にも多い菅原神社の一つ


熊本市中央区
272-2熊本市東区
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熊本市西区、南区なし

八代市
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人吉市
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荒尾市、水俣市なし

玉名市

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山鹿市
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菊池市

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宇土市なし

上天草市

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宇城市

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阿蘇市

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天草市

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合志市、下益城郡なし

玉名郡和水町

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南小国町

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上益城郡甲佐町

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球磨郡多良木町

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相良村

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「熊本県の神社一覧」ウィキペディア(20151130 1200)による



ここに掲載されている菅原系神社は主祭神を道真とするものなど、その地域の代表的なもので、実際にはこの五~十倍以上の菅原系神社が存在しているものと思われます。

冒頭の和水町の菅原神社を含め、江田船山のある旧菊水町も菅原系神社が非常に多い地区です。

勿論、旧太宰府天満宮領(安楽寺領の意味)が多かったからと言えばそれまでですが、玉名~山鹿~菊池に掛けての一帯(古代においては肥後の中心地)も菅原神社が目だって多い地域なのです。

皆さんは、鷹羽の神紋が支配的な阿蘇氏、菊池氏の領域にこの菅原系神社が多い理由がお分かりになるでしょうか?

その話に入る前に考えておくことがあるのです。

まず、菅原道真が重要な人物であった事は間違いがありません。

しかし、版図を大規模に広げた大王とか、列島に一族を率いて王国を開発した大王といった人物ではなかった事はお分かり頂けるのではないでしょうか?

つまり、全国に広がる天満宮、菅原宮、老松宮、天神様…と言った神社に祀られる祭神にしては、あまりにも小さな一族の頭領…といった存在でしかないのです。

これは、神代の神々ほどやたら大きく描かれ敬われる傾向があることを減算したとしても許容できないように思えるのです。

決して菅公の存在を貶めるようなつもりはないのですが、菅原道真が亡くなったとされて(道真は薩摩川内に隠棲していますが)、二十数年後の延長8年(930)の事件を契機として、全国の神社に菅公を祀れと!号令が掛けられた形跡があるのです。


道真の隠棲については「ひぼろぎ逍遥」19 「道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!」参照を


この際、元々、菅原道真を頂点に押し上げた一族の多くが、その本来の祭神を隠し(廃され?)道真を表に出した(出さざるを得なくなった!)可能性があったと考えられるのです。


天神信仰とは, 菅原道真を「天神様」として祈願する神道の信仰の一つ。
菅原道真が
藤原氏の讒言により無実の罪で太宰府に左遷され, 失意のうちに没した後, 都では日照りが続き, 天皇の皇子が相次いで病死し, さらに清涼殿への落雷により多くの死傷者が出た。 これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は, 没後20年目に 道真の左遷を撤回して官位を回復し, 正二位を贈った。

文子天満宮および北野天満宮が造営されるについて, 次のような言い伝えがある。
菅原道真公の死後, 道真公の乳母であり 巫女をつとめていた 多治比文子(たじひのあやこ), 道真公から
「われを右近の馬場(現在の北野天満宮の地)に祀れ」との託宣を受けた。
力のない文子は 自宅の庭に小さな祠を建て ここに道真公の霊を祀った。 これが 文子天満宮のはじまりで, 菅原道真を天神様として信仰の対象にした最初であって,
天神信仰発祥の神社」といわれるようになった由縁とされる。
さらに数年後に 北野天満宮が創建されたことに
より 「北野天満宮の前身神社」とも 言われる。


「天神信仰発祥の神社」


これ以降、藤原氏の指示により、新たに道真を祀った神社、元々は別の神を祀る氏族が道真を合祀した神社、道真の祖神を祀っていた氏族が本来の神々を隠し(隠 さざるを得なくなったのでしょうが)、道真を祀る事とした神社…があったはずなのですが、恐らく、多くの菅原神社は、元々は道真の先祖神を祀っていたもの を隠し、単独で道真を祀る(弔う)神社として残ったのではないか?と考えているところです。

これが、前述の菅原系神社のどれがどのような神社であったのかについては現在のところ判別が付きません。

ただ、故)百嶋由一郎先生は、道真は、スサノウ系氏族の直系の本家と、大幡主系の直系の本家との間に産まれており、逆賊の長脛彦の流れを汲むスサノウ系を隠 し、主として大幡主(ヤタガラス)系(下賀茂族)を表に掲げて阿蘇系の藤原氏と対抗していた…といった趣旨の話をされていました。

このため、この菅原系神社の背後には、藤原氏にとって都合の良くないスサノウ系の神々(従ってこの神社群を奉祭する氏族にがいる)と博多の櫛田神社の主神である大幡主系の神々(従ってこの神社群を奉祭する氏族にがいる)が隠されている可能性があるのです。

このことを理解して頂いた上で、さらに奥深い領域に踏み入ろうではありませんか。

百嶋先生は阿蘇の神々を考える上で重要な点として、次の様な話をされていました。

阿蘇系神社の中でも草部吉見系神社(年禰神社系)には、以下の流れが見て取れる。

草部吉見の一族は、雲南省麗江から海南島を経由して肥後に入っている。

草部(クサカベ)と読むと意味が分からなくなってしまいます。

本来の意味は伽耶が部(カヤガベorカヤカベ)であり、三田井(高千穂)から肥前高来郡辺りまでの支配権を持っていた先住神である伽耶の古霊(コリョン)の高木大神(高皇産霊)の入婿として傘下に入り、娘である楮幡千々姫(タクハタチジヒメ)の夫となっている。

草部吉見の一族は阿蘇氏の中心にまでなっているが、その背後には女系としての高木大神の一族が存在している。

草部吉見はスサノウと櫛稲田姫(金山彦と埴安姫の間に産まれた)の間に産まれたオキツヨソ足姫も妃としているために、その背後にはスサノウ系の流れがある。

草部吉見はヤタガラスの姉にあたる瀛(イン)氏の市杵島姫も妃としているため、その背後に大幡主→ヤタガラスの流れも受け容れている。

一方、阿蘇系神社の中でも健磐龍系神社(いわゆる阿蘇神社系)には、以下の流れが見て取れる。

本物の神武天皇のお妃は瀛(イン)氏の金山彦と天御中主の娘である越智の姫で五瀬命の姉でもあるアイラツ姫=後の蒲池姫は、離婚し阿蘇家に払い下げられ、阿蘇系の藤原氏から贈)第二代天皇と格上げされた綏靖(スイゼイ)天皇=神沼河耳の妃となっている。

その間に産まれたのが贈)孝昭天皇と格上げされた草部吉見であり、弟の健磐龍命=手研耳(テケシミミ=タギシミミ)であった。

このため、健磐龍命の背後には母方の瀛(イン)氏の金山彦系統の流れが存在している。

阿蘇系=父方の草部吉見系藤原氏にとっては面白くなかったはずの、スサノウ系、瀛(イン)氏系=大幡主、ヤタガラス系の流れが母方として残っている。

これらの事から中央に進出した草部吉見系がビルマ・タイ系の藤原氏に対して、阿蘇に残留した健磐龍系にはスサノウ系、瀛(イン)氏系=大幡主、ヤタガラス系の流れが継承されているように見えるのです。

その事が良く分かるのが、青井阿蘇神社など球磨郡から人吉盆地に掛けてのスサノウ系、瀛(イン)氏系=大幡主、ヤタガラス系の流れが菅原系神社として表現されているのです。

現在、この阿蘇氏研究の最先端の部分にその痕跡を留めている神社を見出し現在も調べているところですが、まだ、不明な部分が大きく明瞭には見えて来てはいません。

この点に興味をお持ちの方は、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)189190 草部吉見神社近郊の神社 高畑年禰神社(年禰社)の衝撃 ①~②をお読みください(以下)。


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草部吉見神社の分社としながらも、神殿を見れば明らかなように、ここは草部吉見の母方の神社である事は明らかです。ただ、その母方が、高木大神のタクハタチ ジヒメなのか、アイラツヒメ(蒲池姫)なのかがまだ良く分からないのです。摂社をみると生目が見える事から前者とは思うのですが、伊勢の下宮=豊受大神 も、一時期、草部吉見のお妃ではあった訳で、この母方が何なのかが大きな謎なのです。


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スポット026  3/20「古代田川に天皇がいた」内倉武久、福永晋三講演の成功

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スポット026  3/20「古代田川に天皇がいた」内倉武久、福永晋三講演の成功

20160325

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


久留米地名研究会の提携団体である「豊の国古代史研究会」の研究活動の延長上に、筑豊のど真ん中、田川郡市(8市町村)主催の「まちづくりフォーラム」が企画され、二人の九州王朝論者による講演(「古代田川に天皇がいた」)が行われる事は既にお伝えしていましたが(スポット024)、並行して行われた麺‘Sフェスタ(17001800人の参加)会場に隣接する福岡県立大学の大講堂(500席)に於いて二人の九州王朝論者による講演が行われました。


休憩による入れ替わりもできたことから、一部、二部を通して聴いた方、各々片方だけを聴いた方があったようですが、瞬間的には500席が95%は埋まる延べ500600人の参加を得たようです。

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まず、九州王朝論者による講演と言っても、通常は200人規模がせいぜいで、2012年の春に福岡市のアクロスで行った 故)古田武彦氏と宮地嶽神社の「筑紫舞」奉納に800人の参加を得た事はあるものの、まず、最大級の講演会が行われたようです。

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また、翌21日にも久留米大学における公開講座(特別枠)として両氏による講演が行われましたが、三連休の影響か?通常からは二割ほど参加が少なかったようです。いずれにせよ、多くの皆さんに九州王朝論の最先端研究に触れる機会が得られるような環境ができてきた事だけは間違いないようです。
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勿論、「九州王朝」といった言葉さえ始めて聴いたといった方を含めた大規模な講演会を行う事と、小規模でも九州王朝の存在を本気で追求する方々を集める研究会を継続して行う事のどちらが重要であるかは単純には言えないでしょう。

ただ、これまで行政が取り組むイベントに九州王朝論者が食い込み大規模に講演を行う事は、ほぼ、不可能だった事でしょう。

県の文化課から教育委員会、そして、公民館から地元の郷土史会、史談会といった末端の組織も、大半は学会、通説に阿る方々に固められていたのであって、「九州王朝」と一言口にしただけで排斥されるのが関の山といった状況だった事は皆さんご存知の通りです。

 問題は、既存の郷土史会、史談会自体が、平気で嘘をつく学会通説になびき続けた結果、後進を全く育成できず、高齢化の進行によって、ほぼ、壊滅状態になっているという事実がある様なのです。

 結局、真実を追い続ける九州王朝論者だけが若い次世代を取り込む事が出来ている事から、結果的に、九州王朝論に対して「あんな話は通用しない…」といった世代が死に絶えて行きつつあるのかも知れません。

 いずれにせよ、来年以降もこの手のイベントは続けられるはずで、多くの九州王朝論者による講演が行われ、真実の筑豊の古代史解明に向けたメスが入る事が期待されるところです。

 新年度は直ぐに始ります。五月には、佃収先生をトップバッターとして久留米大学の公開講座が行われる予定です。

 それに合わせて南の熊本県和水町の菊水史談会が、佃 収氏の、続いて古田史学の会の古賀達也氏の講演会を取り組むとの話しですので、久留米を中心に豊前から肥後という九州王朝の中枢領域に於いて、古代史解明に向けた取り組みが進みつつあることを全国にお知らせしておきたいと思います。

 久留米地名研究会とその提携団体の任務は益々大きくなりつつありますが、もしかしたら北部九州から肥後の北半に掛けて、私達は最も活動的な民間研究団体になっているのかも知れません。

 以下は久留米大学の公開講座に於いて配付した地名研究会グループの広報です。


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273 天手力男命と天大豆目命とは誰かお分かりになりますか?

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273 天手力男命と天大豆目命とは誰かお分かりになりますか?


  「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)共通掲載           20151201

久留米地名研究会(編集員)古川 清久


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阿蘇から325号線で高千穂に向かうとこの二人の神様が左手に見えてきます


熊本県高森町から国道325号線で宮崎県高千穂町に向かうと下河内にこの二柱の神様がお出向かいになっています。

「古事記」で最も知られた天照大御神の岩戸隠れに登場するこのお二人の神様が一体誰なのかをお考えになった方はおられないでしょうか?

俗説、通説を問わず、岩戸隠れ神話の舞台は宮崎県の二つの高千穂とされています。

ただ、私達百嶋神社考古学を追求するものとしては、宮崎県霧島市の高千穂一帯の話は全くのインチキ神話と先生から聴かされています。

このため、古代史にも関係する重要氏族の阿蘇氏が居地としていた一帯にもそう遠くない高千穂町の高千穂は多少とも真面目に考える価値はあると考えているところです(尤もテーマパーク化された部分は別ですが)。

事実、健磐龍命は高千穂のある東側からこの地に入っているとの伝承が高森町草部一帯には残されているほどなのです。

まずは、この二神について敬愛する玄松子氏のサイトからお読みください。


天手力男神

 天照大神が天岩屋戸の中にお隠れになった時、八百万神が集い神謀りに謀り、それぞれ役割りをもうけられた。

  この神は、天岩屋戸の扉を開く係を受け持った。手の力が強い大力の神名が与えられた神。

  天照大神の御手を執ってお出迎えした、即ち日の神の復活に功のあった神。 そのため伊勢皇太神宮の内宮の相殿の神として祀られている。

  『古事記』の天孫降臨神話では、邇邇芸命に五伴緒と共に随伴した神として登場。 「佐那那縣に坐す」と記されており、伊勢国多気郡多気町に鎮座している。


天宇受売命

  『古事記』には、天照大御神が天の岩屋に隠れ給うた時、 天宇受売命が、槽を伏せた上で踊り、神がかりながら乳房を出し、次いで紐を解き、衣をさげて女陰をあらわに出したので神々は大笑いしたとある。 神々が楽しげに騒いでいるので、天照大御神が気になって岩戸を開いたという。

  この天宇受売命の所作が、神楽舞の起源。『日本書紀』では天鈿女命と呼ばれ、「猿女君の遠祖」とあり、 「天の石窟戸の前に立ちて巧に俳優(わざおぎ)を作し」とも書かれている。

  宇受(鈿)は髪飾りのこと。髪飾りをして神祭りを行う女神。

  天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命太玉命天鈿女命石凝姥命玉屋命)の一柱。

  天孫邇邇芸命が豊葦原中国に降臨した時、 天之八衢(八方の道の辻・分岐点)にいて高天原と下の葦原中国をてらしていた神がいた。
 天孫邇邇芸命は天宇受売命に命じて「吾が御子(邇邇芸命)の天降りする道をさえぎるのは誰か」と問わせた。

  すると「吾は国津神。猿田彦と申すが、天津神の御子が天降りされると聞いたので、御先導申し上げようとここまで出迎えに来たのだ」と答えた。
 天孫邇邇芸命は天宇受売命に「猿田彦神は汝が顕した神だから、汝がお送りするがよい。 またその神の名を汝が名にとって仕えるがよい」と言われたので、 それ以後天宇受売命を猿女君と呼ぶようになった。

  後に、猿田彦神は天宇受売命と結婚。子孫を猿女と称し、神楽・伎芸などの祖神と仰がれ祀られている。

稲荷三座の一座である佐田彦大神を猿田彦と考えて、 同じく稲荷大神三座の一座である大宮売神を、天宇受売命の別名とする説があり、 宮比神として祀られる場合も多い。

敬愛する「玄松子」より

このことについても百嶋先生は明快でした。

天手力男命とはスサノウ命であり、

天宇受売命とは伊勢神宮外宮の主神の豊受大神であり、同時に伏見稲荷様でもあるのです。

そして、筑豊の地元の方には馴染みの深い香春神社の主神でもある辛国息長大姫目命その人なのです。

そして、玄松子氏も、「後に、猿田彦神は天宇受売命と結婚。」書かれている様に、天宇受売命が一緒になられたお相手の猿田彦とは実はニギハヤヒ命=山幸彦のことなのです。

では、海幸彦はと考えられるでしょうが、

海幸彦こそ、この二神の像からも車で十分もあれば直ぐに着く事が出来る、高森町の草部の天児屋根命こと彦八重耳=草部吉見神社の主神なのです。

玄松子氏は通説とその周辺に関して一般的に受け容れられる内容をお書きになっています。

それはそれで敬服しいつも参考にさせて頂いています。

同じく稲荷大神三座の一座である大宮売神を、天宇受売命の別名とする説があり、 宮比神として祀られる場合も多い。については、大体良いのですが、紹介されているもので、現実に存在していると言うより支配的な説にまで高められてしまっている以下の稲荷三座の一座である佐田彦大神を猿田彦と考えて、

については、全く承服できません。

佐田大神と佐田彦大神が誤ってか?意図的にか?全くの別神を混同されてしまっている事に関しては誤りと考えています。

出雲の佐田大神は大山咋=佐田大神であり、決して猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦ではないのです。

これについては、「ひぼろぎ逍遥」051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 をお読み頂きたいと思います。ともあれ、

少しは日本神話のお伽噺のような話が、歴史に繋がる古代史の世界に近づいたのではありませんか?


273-2

273-4


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5~6月の間に行われる公開講座の予定のご案内をさせていただきます。
無題.png
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274 阿波の忌部神社初見

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274 阿波の忌部神社初見

「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)共通掲載 20151201

久留米地名研究会(編集員)古川 清久


274-1


吉野川市忌部神社


今回は、四国の高良神社調査で立ち寄った阿波の忌部神社を取上げます。

四国には過去三回入っていますが、前回は、愛媛、香川の高良神社七~八社を確認し、今回は徳島の高良神社四社と高知の高良神社を確認する事が目的でした。

無論、それ以外にも通りすがりの多くの神社を実見しているのですが、阿波で特に重要なのがこの忌部神社です。

神社考古学研究班には「忌部」に特別な思い入れを寄せるメンバーもいることから、徳島の忌部神社となると見過ごすわけには行きません。

 特に、百嶋神社考古学を追求する者としては、百嶋先生から博多の大幡主の一族は阿波から紀州に展開しているという話を聴かされているだけに、半ば興奮気味に同社を訪れたのでした。

 忌部氏の「忌」は瀛(イン)であり、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ一族であり、瀛氏の金山彦を主軸に新たに姻戚関係結んだ白族の白川伯王-大幡主-豊玉彦=ヤタガラス-鴨玉依姫の一族を含む概念なのです。


カーナビ検索
徳島県吉野川市山川町忌部山14


274-2



274-4まずは、國學院の 
神道・神社史料集成-古代
から見ることにしましょう。

御所神社(徳島県美馬郡つるぎ町貞光)は次回見ることとし、まずは、本拠地と考えられる現吉野川市の忌部神社を見せて頂きました。

忌部神社(阿波国麻殖郡)

名神月次新嘗・或号麻殖神・或号天日鷲神(『延喜式神名帳』)

従四位下(六国史終了時) グラフ(3)→


比定社

山崎忌部神社(徳島県吉野川市山川町忌部山)周辺地域→

御所神社(徳島県美馬郡つるぎ町貞光) 周辺地域→

忌部神社(後世の遷座・徳島県徳島市二軒屋町二丁目) 周辺地域→

274-3『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)・大同元年牒(806

神封部

合四千八百七十六戸

(略)

忌部神 廿戸 紀伊十戸 出雲十戸

『続日本後紀』嘉祥24月乙酉(2日)条(849

阿波国天日鷲神従五位下


『日本三代実録』貞観元年正月27日甲申条(859


安房国従三位勲八等安房神。天比々理刀咩命神並正三位。近江国従二位勲一等比叡神正二位。従五位上勲八等伊香神従四位下。従五位下伊富岐神。佐久奈度神。水口神。川田神。三上神。奥津島神。小比叡神並従五位上。


『日本三代実録』元慶2414日己卯条(878

阿波国正五位上大麻比古神従四位下。


『日本三代実録』元慶71228日庚申条(883

紀伊国従四位下勲八等丹生比売神。伊太祁曽神並授従四位上。阿波国正五位上天日鷲神従四位下。加賀国従五位下菅生神正五位下。


『古語拾遺』

又。天地割判之初。天中所生之神。名曰天御中主神。其子。有三男。長男。高皇産霊神。古語。多賀美武須比。是皇親神留伎命。次。神産霊神。是。皇親神留弥命。此神子天児屋命。中臣朝臣祖。其高皇産霊神所生之女名。曰栲幡千千姫命。天祖天津彦尊之母也。其男名。曰天忍日命。大伴宿祢祖也。又男名。曰天太玉命。斎部宿祢祖也。太玉命所率神名。曰天日鷲命。阿波国忌部等祖也。手置帆負命。讃岐国忌部祖也。彦狭知命。紀伊国忌部祖也。櫛明玉命。出雲国玉作祖也。天目一箇命。筑紫伊勢両国忌部祖也。


『延喜式』3(臨時祭)・名神祭条〔28


大麻比古神社一座。天日鷲神社一座。已上阿波国。


274-5


まずは、祭神ですが、敬愛する「玄松子」によるとこのように書かれています。



式内社 阿波國麻殖郡 忌部神社 名神大 月次新嘗
旧村社
(旧國幣中社)
御祭神
天日鷲翔矢尊(天日鷲命)后神言筥女命 天太玉尊后神比理能賣命
津咋見命長白羽命由布洲主命 衣織比女命

徳島県吉野川市山川町にある。JR山瀬駅の東南約1Km、忌部山の麓に鎮座。


今のところ、この配神で分かりそうなのは二神だけです。


天日鷲翔矢尊(天日鷲命) = 博多の櫛田神社の主神である大幡主

天太玉尊         = 豊玉彦(ヤタガラス)


各々のお妃については候補者のみを上げておきたいと考えます。

后神 言筥女命    秘密にされていますが、イザナギと別れた後のイザナミ  

后神 比理能賣命   高木大神(高皇霊命)の娘である豊秋ツ姫


津咋見命長白羽命由布洲主命 衣織比女命は考慮中です。



274-6


274-6


275 山口県下松市の高良神社

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275 山口県下松市の高良神社

20151209

久留米地名研究会(編集員)古川  清久


暗号「山上憶良」マイマップの高良大社の分祀 というサイトがあります。

良く調べておられ、非常に参考になるため、このリストにより、先月も、徳島県、高知県の高良神社5社外を訪問させて頂いています。
275-1

これには、山口県下松市河内にも 高良神社(降松神社)があるとされています。

何時でも行ける事から後回しにしてはいたのですが、久留米地名研究会グループのスケジュールの合間を縫い、連携グループの豊の国古代史研究会のN氏に同行を頂き現地調査に向かう事にしました。

市街地にあったことから事前にグーグル・アースで確認ができていました。

このため、現地の雰囲気は十分に把握できていました。

下松市の中心部から東に2キロほどの所で、県道からも少し入った静かな住宅街といったところでしたが、鳥居は直ぐに見つかりました。

十メートルほどの小丘の上に置かれた小さな神社でしたが、神額には紛う事なく「高良社」と書かれていました。

付近には、若宮町があり、鷲頭山、烏帽子岳を越えた隣の光市には三井があるなど、久留米高良大社に関係のある人々が移り住んだようにも思えます。

この高良社の神額を持つ神社は、昭文社の道路マップ(山口県)では降松神社若宮と表記されていますので、背後の鷲頭山の頂上付近に置かれた降松神社が上宮にあたるのではないかと思います。


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残された基礎から見て、元はそれなりの社殿があったのでしょうが、30㎡ほどの敷地に簡素な祠が残されていただけでしたが、祠正面の階段の造り方は筑後物部氏の社殿の様式を模したもので、確かに高良神社の祠である事は間違いない事でしょう。

 

今のところ、これ以上の事は分かりませんが、この神社が、古い時代に、九州から展開した高良系氏族の奉祭する神社であった事は確認できたようです。


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276 山口県光市の石城山神籠石と石城神社 ① 石城山神籠石

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276 山口県光市の石城山神籠石と石城神社 ① 石城山神籠石

20151209

久留米地名研究会(編集員)古川  清久

 

写真は光市の石城山神籠石の一部です。

なんでも近畿大和朝廷との関係で説明する考古学協会から通説派の学芸員や教育庁文化課といった連中が口ごもるのが「神籠石」です。

中には、粗雑な朝鮮式山城群とごちゃ混ぜに併せて「神籠石」という言い方はしないのがあたかも識者であるといった強弁をする不勉強な輩も目立ってきました。

どのように考えても「神籠石」の分布からは、北部九州を防衛する目的で配置されたとしか考えられない事から触れない事にしていた畿内説論者でしたが、最近は」開き直って、いい加減な朝鮮式山城群と同じものと見なしてこれらも近畿大和朝廷を防衛する目的で西に展開したものとするデタラメな説を吹聴し始めたのです。

どうせそのような扱いしかしていないだろうとの予見からこれまで現地を踏んでいなかったのですが、下松市河内の高良神社を実見し、同行のN氏にこれからどこを見に行きますかと相談したところ、直ぐに、敏達天皇が山上祭祀を行った神社(石城神社)があるのでそこに行く事にしたらとの相談が纏まり、現地に行く事にしたのでしたが、よくよく考えれば、そここそ石城山神籠石のある場所だったのです。

まさに、一石二鳥の言いの通り、未見の神社と神籠石遺跡の見学が叶うのですからこれほど良い選択はありませんでした。

下松からも20キロほどの距離で、まさにお誂え向きの見学コースとなった次第です。

この九州を中心に分布する「神籠石」群に関しては、久留米地名研究会のエースである永井正範氏が数年前に二回に分けて九州王朝の実在を証明する物証として、久留米大学の公開講座(九州王朝論)で研究発表を行っているところです。


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70センチメートルほどの直方体の切り石を延々と数キロに亘って施工しているのですから凄いものです


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特に西水門の施工は素晴らしいもので、皆さんもご覧いただきたいと思うものです


276-3
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ウィキペディア201512102030より

 

通説派による「神籠石」無視、「神籠石」隠し から来る不勉強と結果としての誤解としての近畿王朝防衛山城説についての批判を簡略化して行うことは可能ですが、永井正範氏に申し訳ないため、いずれ本人の重要論文として何らかの形で公開する事で代行する事として、ここでは、同じく初見の石城神社をご紹介したいと思います。

ただ、この海岸からもかなり離れた内陸部の標高の高い場所に、何故このような山上逃げ込み城風のものが造られたのかは興味が尽きません。

北を通る国道2号線は古代においても重要な官道であった可能性は高く(国道2号線沿いの山口県宇部市車地に九州の古代官道地名として大量に確認できる「車路」「車地」同種の地名が残されている)、その東西交通路をいつでも遮断できる位置にこの神籠石は造られている様に見えるのです。

 しかし、光市の掲げた「神籠石」に関する掲示板の内容は近畿の通説派に媚びない格調高い立派な内容で書かれていました。

 思いっきり権力(実は利権だけ)に尻尾を振る畿内説論者の考古学協会の体質には好い加減うんざりさせられています。


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277 山口県光市の石城山神籠石と石城神社 ② 石城神社 

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277 山口県光市の石城山神籠石と石城神社 ② 石城神社 

20151210

久留米地名研究会(編集員)古川 清久


 神籠石に関する光市教育委員会の掲示板の記載内容は、この存在を消したい通説派のデタラメナな見解とは異なり立派なものでした。

理性的な上に良心、常識、思考の独立性が感じられ、薄汚い考古学の世界を毛嫌いする私にも、久々にまともに読もうという気を起こさせるものでした。

そのすがすがしさの追い風を受けて石城神社に向かいました。


277-1

もちろん、最前線の神籠石はまだ東方にも展開しているのですが、この神籠石も九州王朝の東に対して具えた防衛拠点の一つと考える私達にとっては、同社がどのような神を祀るどのような神社であるかは非常に興味深いところです。

同社は延喜式内社です。久留米の高良大社も同様ですが、神籠石があるような九州王朝の最大拠点を制圧し、畿内政権が支配するシンボルとして置かれた畿内政権の神社である可能性が非常に高いのです。

この点、高良大社も明治維新後から直系の宮司家と思える初代からの大祝一族(稲数家、松延家、鏡山家…)はとうの昔に排斥され、地縁血縁の無い神社庁の肝いりで権力側の神官が送り込まれ続けているのです。

ただ、誤解して頂きたくないのは、祭神そのものは九州王朝を支えた方々なのです。


石城神社 カーナビ検索 山口県光市塩田石城2233



277-2

祭神を敬愛する「玄松子」から拾ってみました。

神仏分離以前の神名になっていますが、主神は大山祇神なのでしょう。

大山祇は目と鼻の先の愛媛県大三島の大山祇神社に鎮座する有名な神様ですから当然の感じがしますが、山口県内と言うか、周防には三島神社なる名でこの手の神社が多く、元々(九州王朝の時代から)この神様が鎮座していた可能性は十分にあるでしょう。

雷神は恐らく藤原が格上げし第10代と出世した崇神天皇の事で良いのではないでしょうか?

彼も百嶋神社考古学からは年嵩ながら高良玉垂命と神功皇后のご夫婦(「高良玉垂宮神秘書」)に仕えていたとしますので、四道将軍張りに東への備えの一端を担っていたのではないでしょうか?

分かり難いのは高靇神です。


御祭神
主神 
大山祇神(本地釈迦如来)
配祀 雷神(本地普賢菩薩)
高靇神(本地文殊菩薩)
天津彦根命 『特撰神名帳』『神祇志料』『日本地理志料』


高龗神たかおかみのかみ闇龗神くらおかみのかみ

別名
闇淤加美神:くらおかみのかみ
淤加美神/袁加美神/意加美神:おかみのかみ
龍神:りゅうじん
……

* 『古事記』に、伊邪那岐神が火の神迦具土神の首を斬られたおりに、 その剣の柄に集まった血が、手の指の股から洩れ出てできた二神の御名を闇淤加美神(『日本書紀』では闇龗)と闇御津羽神

* 『日本書紀』の一書には、剣の柄頭からしたたる血から、暗龗、闇山祇闇罔象が生まれたとある。

* 闇(くら)は谷あいの意味。淤加美源は、古来より雨を司る龍神。

* 『日本書紀』の一書には、斬られた軻遇突智が三つに分かれ、雷神、大山祇神と共に高龗神が生まれたとある。

* 高は闇(谷)に対して山峰を指し、古来から闇淤加美神とともに雨を司る神として信仰されている。

* 二神は高・闇の神として対の信仰があるが、高・闇の両神は同神であるという説もある。

* 

敬愛する「玄松子」より


277-3

九州王朝時代の本来の祭神は残された摂社から大体見当が付きそうです。

スサノウは良いでしょうから大歳神ですが、これまでにも何度も申上げて来たように、この神様こそ阿蘇の草部吉見神であり、彼と伊勢の下宮様、豊受大神様との間に産まれたのが御年神=実は贈)孝安天皇=玉名市の疋野神社の主神であり、その子が贈)景行天皇とされるのです。

最後に、立派な研究者による通常の解読をご紹介しておきます。


石城神社

石城神社と石城山神籠石
石城神
石城山は大和町の象徴であり、大和町の歴史のメッカとも呼ふべき山である。もちろん、それは石城神社と神籠石とがあるからであるが、両者と もにその起源は古代にさかのぼり、これまで神籠石は石城神社の神域を示す遣構とも考えられていたのであった。神籠石についての研究の歴史や、発掘に基づく 最近の見解については次節以降で触れることとし、まず石城神社の歴史を入ることにしよう。石城神社の創建年代は明らかでない。しかし「石城神社縁起」によると、敏達天皇3年(574)に吉備屯倉の津史が当地こ来て、石城宮の勅額を石原男登世彦に授けたのが本宮の始まりであるという。これが敏達天皇の勅額と伝えられるものである。そ して奈良時代、称徳天皇の御代に、社務を管掌させるための社坊が設けられた。これが神護寺である。同寺は今は跡のみを残すが、石城神社とともに石城山頂の 月ヶ岳・鶴ケ岳・星ケ岳のご一峰にはさまれた平地に位置した。石城神社が正史に最初に出てくるのは貞観9年(867)のことである。すなわち、『三代実 録』同年8月16日条に次のような記述がある。周防国正五位上出雲神、石城神、比美神、並授従四位下、従五位上剣神、二俣神、並五五位下すなわち、これま で正五位上であった石城神(大山砥神)に従四位下が贈られたのである。ちょ うどこのころには、諸国の神々に対する贈位がひんぱんにみられる。殊に西国の神社に多い。当時は西海に海賊の横行が著しく、そのうえ北九州方面には新羅の 来寇があって、緊張した状態が続いていた。政府は要地に武具を送って備えを固めるとともに、諸社に賊の鎮圧を祈願させているのであって、諸神への贈位はこ の祈願に対するものであった。ところで、これより半世紀ばかり経過して延長二年(九二四)に『延喜式』が編さんされた。「式」とは律令を執行するにあたっ ての細則のことで、醍醐天皇の延喜5年(905)から編さんが始められたので『延喜式』と呼ばれている。この中の「神名式」に、周防国では熊毛神社や玉祖神社と並んで古城神社が載せられているのである。このように『延喜式』に収められた神社は「武内社」と呼ばれ、朝廷から奉幣が行われる例で、格の高い古社とみなされている。なお、同神社の本殿は文明元年(1469)に大内政弘によって再建され、室町中期のすぐれた建築として重要文化財に指定されている。


HP「延喜式神社の調査」による


277-4


最後に神殿をご覧いただきます。

これも九州と言うより、筑後物部氏の社殿に良く見るスタイルです。

まず、柱一本をそのまま階段に設えるスタイルは、大木で階段が造られていた時代の名残なのですが、だんだんと大木が調達できなくなり、踏み上がるのには注意が必要になっています。

注連縄も、三下がりのテルテル坊主は九州に多く見るスタイルです。


277-5

境内社の須賀社の神紋が何故左三つ巴になっているのでしょうか?

祭神に八幡神はありません。

高良大社の表紋がこの左三つ巴ですが、その高良玉垂命が従えた、スサノウ、大歳神、御年神と考えれば、九州王朝時代にこの神籠石山城と石城神社に祀られていた名残をこの摂社に感じながら神社を去ることにしました。

標高は高いもののこの石城山神籠石も鹿毛馬神籠石並みの規模で、史跡としても整備され見学しやすい事から、皆さんも足を運んで見てはと思うものです。


スポット028 宮地嶽神社の浄見 譲宮司の講演が行われます “5月8日(日)菊水史談会へ…”

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スポット028 宮地嶽神社の浄見 譲宮司の講演が行われます “58日(日)菊水史談会へ…”

20160405

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久



宮地嶽神社と言えば、福岡県下で二番目に参拝客の多い神社として知らぬ人のない大神社中の大神社ですが、九州王朝論者の間では知らぬ人の無い幻の九州王朝宮廷舞「筑紫舞」が秘かに謎のくぐつ集団によって千数百年来舞われ続け、奇跡的にも同社に継承された事は有名です。


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この幻の「筑紫舞」の伝承については多くの驚愕すべき話があるのですが、それについては、故)古田武彦氏による「よみがえる九州王朝-幻の筑紫舞」角川書店、後にミネルヴァ書房を読まれるとして、


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 その歴史の化石とも言うべき「筑紫舞」「筑紫神舞」の舞い手であり継承者でもある浄見 譲宮司による「宮地嶽神社とつくし神舞」という講演が行われる事になりました。


日 時     58日 13:30

会 場     熊本県玉名郡和水町江田3883-1 0968-86-2022

講演者     宮地嶽神社 浄見 譲宮司

講演内容 「宮地嶽神社とつくし神舞」

事前申込不要  資料代500


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今回、取り組んで頂いたのは、近年、九州王朝論者による講演を連載されている菊水史談会です。

 浄見宮司には五年前にも久留米地名研究会において「九州王朝の周辺」というテーマでお話をして頂きましたが、通常30名から多くても40名程度の参加の月例会でしたが、一挙に60人を超える参加を得た事が思い出されます。

 その後、玄海地名研究会に研究会会場をご提供頂くなど、大変お世話になっているところです。

  菊水史談会は十年前から九州王朝論者の佃 収先生の講演を取り組んでこられましたが、これほどまでに急速に九州王朝論に接近された背景には、現実に九州王朝の物証とも言うべき「納音九州年号対照 表」を同会の事務局長が付近の庄屋宅から発見されその実用の痕跡さえも確認できたにも関わらず、自己保身の一点だけで学会通説を鵜のみにする文化庁、教育 庁の意向に沿い、報道機関の一切が覆冠りを決め込んだ事への幻滅が働いたと思われます。

 如何に、現在の歴史が歪められているかが白日の元に晒された感がしますが、今後とも古代史に関しては「邪馬台国畿内説」に象徴される大嘘がまだまだまかり通る事になりそうです。

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菊水史談会が五月中に三つの講演会を行います。

始めは自らの耳を疑ったほどでしたが、どうやら本気のようで一年分のスケジュールを一気に消化する勢いなのです。それと言うのも58日の連休最終日に超大物中の大物、宮地嶽神社の浄見 譲宮司の講演を予定されているからです。

宮地嶽神社と言えば、九州北半の大半のバス、タクシー、乗用車に宮地嶽神社交通安全の御守りが置かれていた時代があり、驚くほどの信仰圏(祭祀圏)を持っていた事は皆さんご存知の通りです。

この太宰府天満宮に次いで県下で(と言う事は九州全域に於いて)参拝客が多いこの神社こそ謎の九州王朝宮廷舞と言われる「筑紫舞」を継承した神社であり、今尚続くその信仰圏は、九州王朝の中枢領域(直轄支配地域)を思わせているのです。

久留米地名研究会でも五年ほど前に浄見宮司に「九州王朝の周辺」講演をお願いしていますが、いよいよ、「筑紫舞」で中心的な役割を果たす肥後の翁の領域で講演して頂けるところまで来たのです。

それに合わせ、佃収先生による筑紫舞の肥後の翁と江田船山古墳」という講演も行われる模様で、まさに、夏の古墳祭り(江田船山古墳)への伏線が静かに敷かれているとも言えそうです。

菊水史談会(熊本県和水町)久留米地名研究会提携団体


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会場:和水町中央公民館 熊本県玉名郡和水町江田3883-1 0968-86-2022 事前申込不要 資料代500


 講演に関する簡単な質問は09062983254(古川)まで、詳細は09037874460史談会事務局(前垣)まで


中には九州王朝論をご存知でないという潜りの古代史ファンもおられるのかも知れませんが、まずは九州王朝論の一端でもお聴きになれば、現在の通説によって持ち込まれたデタラメな古代史観が一変する事と思います。

考古学会がしがみつく「邪馬台国畿内説」などという大嘘から一刻も早く解放され、真実の列島の神代史、古代史に目を向けて頂きたいと思います。

 九州王朝論者の皆さんも宮地嶽神社の宮司によるお話を直接お聴きになっては如何でしょう。

278 山口県周防大島町の長尾神社は高良神社だったのではないか?

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278 山口県周防大島町の長尾神社は高良神社だったのではないか?

20151210

久留米地名研究会(編集員)古川 清久

周防の高良神社が順調に進み、石城山神籠石、石城神社まで副産物の様な調査が行えたことから、後は同行のN氏の希望どおりの所に行く事にしました。

まずは温泉に行きたいそうで、順当な呼鶴温泉に行くことにして、食料を買い込んで冬のキャンピングを行う事にしました。

ホンダ・フィット・シャトルHBにキャンピング用のテントを積み込んでいる事から、同行者は付近のキャンプ場でテントを張って野宿という事になるのですが、私は車中泊のためテントに横付けしローハイド並みの野営となりました。

当然、焼き肉や寿司でパーティーになったのですが、11時には眠りにつき、早々に周防大島に渡る事にしました。

もう、何度か足を運んでいますが、敬愛する民俗学者の宮本常一氏の出身地として知られた島でもあります。


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今までは同島の北岸ばかりを周回していたのですが、今回は南岸の出井、戸田、横見、日見…それに沖浦などを見たいと思っていました。

後ろに「見」が付く地名は海士族によるものと考えていますが、「日見」は「氷見」であり、始めて聴いても納得して頂ける方はおられるでしょう。

ついでに言えば、「熱海」も「渥美」も「安曇」も「二見」も、そして「遠見」…も、それらのバリエーションの一つでしかないのです。

これらについて関心をお持ちの方は、「ひぼろぎ逍遥」010 見(ミ)という地名接尾語 をお読みください。

さて、唐突でしたが、西南岸の集落密集地である安下庄の長尾八幡宮が気になり訪問する事にしました。

辺境の島の神社としては立派すぎるほどの規模の神社でした。

社殿を見せて頂き驚きました。

一目見て、これは八幡神社などではない(なかった)と思いました。

それは、神殿の様式が物部氏の社殿の建て方なのです。お分かりでしょうか?

神殿を上から見た場合、十字型の屋根となっているのは物部氏の、それも、高格式の社殿の建て方なのです。

次に、やはりと思ったのは、摂社に武内社があることでした。

 高良玉垂命が武内宿禰などでは断じてないのですが、何故か、九州から出ると高良玉垂の命はほとんど武内宿禰とされているのですが、当然にも、「高良玉垂命」を消し去りたい近畿大和朝廷の工作によるものと考えられます。

 ただ、この地には、元々、高良玉垂命を奉祭する人々が住み着いていた痕跡に思えるのでした。


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同社神殿と境内摂社武内社


ここまでくると、この地域とこの神社の性格が垣間見えてきました。

この周防大島の正面には宇佐もあるのですが、何よりも国東半島の伊美の伊美別宮社が頭に過ります。

宇佐の直ぐ隣ながら、国東全域は同じ八幡でも石清水八幡系の神社が多く分布しており、八幡神社としても境内摂社として高良社と若宮神社が置かれている例が多いのです(別宮社、岩倉社、岐部神社…)。

ましてや、上の関の祝島と伊美別宮社は今でも定期的に祭舟を通わせているなど周防と国東とは濃厚な関係があるのです。

正直言えば、古代から中近世に掛けて、この周防がどのような土地柄だったかは知らなかったのですが、ここまで見て来ると、この大島郡もどうやら橘氏の領域=紀氏の領域だったのではないかという見当が付いたのでした。

そのような目で見ると、この安、西安地区には、橘ウインド・パークなる港湾施設があり、西隣の秋地区には若宮社もあったのです。

残 念ながら、今回はこの若宮社の踏査には至りませんでしたが、もしかしたら、古い時代にはこの長尾八幡宮には高良社と若宮社があり、それより前の八世紀辺り までは、この高良神社(高良玉垂命)と若宮神社(実は仁徳天皇)が主祭神として祀られていたのではないかと考えるのです。

まさに、周防大島とは、紀氏、橘一族が盤居した土地だったのでした。

思えば、故)百嶋由一郎先生は“九州王朝を最後までお守りしたのは橘一族だったのです”“そして、九州王朝は但馬に逃げています”と言われていたのでした。

ここで、紀氏、橘氏のエリアを調べる時にいつも利用させて頂いている、「紀氏のルーツ」というサイトをご紹介したと思います。

調査から戻って来た時点で、今回も利用させて頂いたのですが、やはり、大島郡は紀氏の地だったのです。



278-5大島郡

古代:大嶋国 国造:穴委古命(无邪志国造同祖兄多毛比命児)

    成務天皇時代   出雲・兄多毛比・ムサシ系

        ・・・・・・・・・・・

「松尾寺」臨済宗天龍寺は

   ・山号:萬年山

   ・本尊:聖観世音菩薩

   ・創建:936

   ・住所:大島郡周防大島町大字東三浦2178

「長尾八幡宮」

   ・祭神:応神天皇

   ・勧請:977年 宇佐八幡宮から

   ・鎮座地:大島郡周防大島町大字西安下庄庄南


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279 山口県周防大島町西三浦の玉垂神社

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279 山口県周防大島町西三浦の玉垂神社

20151210

久留米地名研究会(編集員)古川 清久


前回周防大島を訪れたのは十年ほど前の事でした。

当時も現地用に用意していたのは道路マップ(昭文社)の「山口県」でした。

当然、重要と思われる神社には事前に鉛筆で印を入れていたのですが、それこそ入れっぱなしで、十年余り亡失していた神社があったのです。

それが、大島大橋を渡って直ぐの西三浦集落に鎮座する玉垂神社だったのです。

地図を見ていると改めてその存在に気づき、遅れ馳せながらも今回ようやく訪問する機会を得たのでした。

ただ、現地は道路状況が極端に悪く、どう見ても軽トラックしか走れないような狭い道を右往左往しながら、お婆さんに尋ね、若い兄ちゃんに案内してもらいながら、最後は現地の小父さんに教えてもらい、狭い所ながら小一時間ほど探し廻り、ようやく探し当てたのでした。

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最初お尋ねしたお婆さんからは下の橋を渡って50メートル進んだら見えてきますよとのことでした


最初お尋ねしたお婆さんからは“下の橋を渡って50メートル進んだら見えてきます”とのことでした、ところが、橋は何本もあり、入り組んだ道が交差しているためなかなか辿り着くことはできなかったのでした。

 何とか辿り着きはしたのですが、鳥居に神額は掛けられていません。

 しかし、社殿に入ると、はっきりと「玉垂神社年間祭礼行事予定」と書かれており、紛れもない高良玉垂命を祀る神社であることが確認できたのでした。

 神殿には鍵が掛けられていなかったことから純粋な研究心で拝ませて頂きましたが、五柱の神様が祀られているようです。

 この見当は付きますが、ここでは省略します。

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もしかしたら、仲哀死後、高良玉垂命(実は第9代開化天皇)と、神功皇后が神殿内に祀られているのではないか(「高良玉垂宮神秘社」には“高良玉垂命と神功皇后は夫婦なり”と銘記されています)と期待したのですが、残念ながら高良玉垂命と思われる男の神様が祀られていただけでした。

古い神社と考えた理由は紅葉の大木でした。どう考えても樹齢七〇〇年は堅いと思うのですが、いずれ再び訪ねる事になると思います。

 実は、前述の下松市の高良社の確認で、西日本の高良神社を全て確認したと思っていたのですが、これらとは別に、全く忘れていた玉垂神社を思い出し実見する事ができたのでした。

 今回は、同行のN氏に目的地を決めて頂いたのですが大正解も大正解!まだまだ、高良神社があるような気がしてきました。

スポット029 久留米地名研究会の周辺

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スポット029 久留米地名研究会の周辺

20160405

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久



今年も久留米大学公開講座の季節がやって来ました。

 まず、連休明けの514日~五週間に亘り、6)郷土の古代史2016 として8セッション、7)九州王朝論2016  として4セッションの計12講座が九州王朝論の立場から講演が行われるのです。

 中でも、古田武彦亡きあと、九州王朝論の最先端の研究者とも考えられる佃 収氏の研究の一端に直接触れることができる事に時代の流れと喜び感じます。

 佃 収九州王朝論はいわゆる九州王朝論者の中でもあまり知られていませんが、既に、著作は15を越え、同人誌を継続して発行され続けておられるなど、その全体系は未だに知られていません。

 既に、熊本県和水町を中心とする菊水史談会では10年前から講演を行われていましたが、九州王朝論者でも古田、非古田、反古田の対立の影に隠れて孤高の研究を続けて来られた氏には改めて敬意を表したいと思います。


久留米大学公開講座と久留米地名研究会提携団体による 「九州王著論」連続講演のご案内



sp29-1久留米大学公開講座 6)郷土の古代史2016


2016年の九州古代史の話題を検証していきます。      会場:御井キャンパス500号館51A教室
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受講料2,160 定員100人 当日でも受講可能ですが申し込みについては久留米大学のHPをご覧ください



sp29-1久留米大学公開講座 7)九州王朝論2016

九州王朝論のUp to dateを検証していきます。              会場:御井キャンパス 500号館51A教室



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受講料2,160 定員100人  当日でも受講可能ですが申し込みについては久留米大学のHPをご覧ください


この他にも、経済学部の大矢野教授を軸に、久留米地名研究会の結成メンバーである福島先生などによる3)邪馬台国と九州王朝4)古事記の国譲り神話と日本書紀の九州王朝論について考察する として、67月に合計10セッションの講座が企画されています。

 「原子力村」同様の「考古学村」による邪馬台国畿内説、東遷説から一時も早く離脱し、真実の古代史研究に触れて頂きたいと望んでやみません。

加えて、ここ数年来の提携団体である菊水史談会が五月中に三つの講演会を行います。

始めは自らの耳を疑ったほどでしたが、どうやら本気のようで一年分のスケジュールを一気に消化する勢いなのです。

それと言うのも58日の連休最終日に超大物中の大物、宮地嶽神社の浄見 譲宮司の講演会を企画されているからです。

宮地嶽神社と言えば、九州北半の大半のバス、タクシー、乗用車に宮地嶽神社交通安全の御守りが置かれていた時代があり、驚くほどの信仰圏(祭祀圏)を持っていた事は皆さんご存知の通りです。

この太宰府天満宮に次いで参拝客が多いこの神社こそ謎の九州王朝宮廷舞と言われる「筑紫舞」を継承した神社であり、今尚続くその信仰圏は、九州王朝の中枢領域(直轄支配地域)を思わせているのです。

久留米地名研究会でも五年ほど前に浄見宮司に「九州王朝の周辺」講演をお願いしていますが、いよいよ、「筑紫舞」でも中心的な役割を果たす肥後の翁の領域で講演して頂けるところまで来たのです。

それに合わせ、佃収先生による筑紫舞の肥後の翁と江田船山古墳」という講演も行われることから、まさに、夏の古墳祭り(江田船山古墳)への伏線も静かに轢かれていると言えそうです。


菊水史談会(熊本県和水町)久留米地名研究会提携団体


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会場:和水町中央公民館 熊本県玉名郡和水町江田3883-1 0968-86-2022 事前申込不要 資料代500


 講演に関する簡単な質問は09062983254(古川)まで、詳細には事務局09037874460(前垣)まで


中には九州王朝論をご存知でないという潜りの古代史ファンもおられるのかも知れませんが、まずは九州王朝論の一端でもお聴きになれば、現在の通説により持ち込まれたデタラメな古代史観が一変する事と思います。

考古学会がしがみつく「邪馬台国畿内説」などという大嘘から一刻も早く解放され、真実の列島の神代史、古代史に目を向けて頂きたいと思います。

280 行橋市の正八幡神社初見

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280 行橋市の正八幡神社初見

20151205

久留米地名研究会(編集員)古川 清久


何故か、福岡県行橋市の中心部に二つの正八幡神社があります。

また、全国を席巻している八幡宮に対して正八幡宮と呼ばれる一連の神社群があるのですが、その正体が何なのか把握されていない方は多いようです。

ここでは、一例として正八幡神社が近接して存在する行橋市の例を考えて見たいと思います。

下は行橋駅に近い行橋市神田の正八幡宮。

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貞観元年(859)、行教宇佐八幡宮の祭神を石清水八幡宮勧請する途次、神輿が駐在した地に神社を創建したとも、貞観2年(860)に国司の一人であった文屋真人益善が宇佐八幡宮の託宣により創建ししたとも、寛永年間17世紀前半)に行橋市行事に鎮座する同名の正八幡神社から分霊を勧請したものとも伝わる。

ウィキペディア(20160324 0830による



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正八幡神社(しょうはちまんじんじゃ)は福岡県行橋市行事にある神社八幡神社)で正ノ宮正八幡神社(しょうのみやしょうはちまんじんじゃ)とも呼ばれる。旧行事村、草野村、長音寺村の産土神である旧郷社

ウィキペディア(20160324 0830による


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通称 正の宮(ショウノミヤ)


【御由緒】


 正ノ宮正八幡神社由緒


その昔、当正ノ宮正八幡神社は、行事村・草野村・長音寺村・大橋村・宮市村・小部埜村六ヶ村の土地の霊魂を、この地に一ヶ所に集めて地底に封じ込めて小さな祠を造営し、「産土正宮」として六村の地域住民に崇められていました。

 ところが貞観元年(八五九)のこと、宇佐八幡 宮を京都の男山に勧請の際に、その御神輿の御旅所としてこの地に仮殿を構えて安置申し上げることがありました。そして翌朝御神輿が出発なされた後に、木綿 垂を附けて献納したはずの榊が一本残されていたのを、人々はこれを大神御心にちがいないとして、その榊を大神の御璽として正宮の祠内に納めて宇佐八幡神を 勧請申し上げました。
 以後は「八幡正宮」と称して産徒の信仰も厚く往時には光養寺・東光寺・神宮寺と呼ばれた神護寺もあって、華麗な社殿が並び建ち多くの社家、社僧が奉仕したと言われるが、応永年間大友氏鑑の兵火に焼亡して今はただその地名を残しているだけであります。
 寛永十年の夏の大祓祭の折「いんしゅ撃ち(宮市河原を挟んで石つぶてを投げ合う行事、あるいは青竹で叩き合う行事ともいわれる)」の神事 が昂じて多くの怪我人が出るに及び、永い争論の末三村が離脱して現在のように行事・草野・長音寺三村の産土神として尊崇されてきました。
 御祭神 誉田別命(応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)・比咩大神。
 境内社 水神社・火祖神社・菅原神社・厳島神社。
  (平成祭データ)
 
福岡県行橋市にあります。JR日豊線行橋駅から北に300m、長峡川を越えて行事地区の日豊線の線路の側に鎮座しています。
 「行橋」の名称のいわれは、明治22(1889)年、京都都行事村、仲津郡大橋村、宮市村の三村が合併。「行橋」は、行事の「行」と大橋の「橋」を採用し施行された町名です。(社前案内板)


九州神社紀行-ブログによる


筑豊地方でも幾つかの正八幡神社を見掛けますが、いずれ取上げるとしても、今回は二つの正八幡神社自体を考えるのではなく、簡単に正八幡神社一般のお話をする事にします。

まず、「正八幡」とは「今の八幡様」とは全く違う古い本当の八幡の神という印象を持たれると思います。

実はその通りなのです。

ただ、個々の正八幡神社の祭神を見てもそのことは分かりません。

ここでも、百嶋由一郎先生はメッセジを残しておられました。


… 正八幡とは応神以前の八幡宮で、一番古い正八幡といえば、博多の櫛田神社の神様です。博多の櫛田神社の神様に従っていたのは、金山彦、猿田彦、素戔鳴もそうです。…


肥後翁のblog民俗・古代史及び地名研究の愛好家


本来、八幡神とはヤハタの神とも読むように、八つの幡(ハタ)の神、言い換えれば、多くの幡を翻し疾走する神であり、それも大きな幡を翻し疾走する神の意味を意味するものなのです。

では大きな幡とは何の事でしょうか? 勿論、船の帆であり船に取り付けた大きな幡なのです。

大きな船を操り渡洋航海を行う外洋船は、古代においては自らを守る必要があることから事実上の武装通商船であり海賊船と紙一重の存在だったのです。

このため、多くの幡を立て外敵を威嚇する八幡船(ハバン)、幡八(バハン)船とも呼ばれるものが存在したのです。

そして、北部九州でも最も大きな後背地を持つ博多を拠点に、遠くはインド(実際はインドシナ)とも通商交易を行っていた博多の櫛田神社の主祭神である大幡主こそがこの正八幡の正体なのです。


八幡船 ばはんせん 

奪販,番舶,破帆とも書く。特に室町時代から戦国時代にかけて現れた海賊船一般をいう。後世倭寇の意味に用いられた。倭寇が「八幡大菩薩」の旗印を掲げたことに称呼の起源があるとされるが,確証はない。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

「コトバンク」 による(デジタル大辞泉の解説)


ばはんせん【八幡船】


〈ばはん〉は,戦国時代から安土桃山時代にかけての用例では海賊行為を意味し,江戸時代中期以後では密貿易を意味する言葉。〈八幡〉のほか〈八番〉〈奪販〉〈発販〉〈番舶〉〈破帆〉〈破幡〉〈波発〉〈白波〉〈彭亨〉などの文字もあてられている。《日葡辞書》はBafãと記している。語源は外国語であるという意見が有力である。ただ江戸中期に書かれた《南海通記》が倭寇(わこう)が八幡宮の幟(のぼり)を立てていたので八幡船と呼ばれたと書いたところから,ばはん船は八幡船であり,すなわち倭寇の異名であるとする考えが広く流布するようになった。


「コトバンク」 による世界大百科事典第2版の解説)


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スポット030 宮地嶽神社への参拝者急増!

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スポット030 宮地嶽神社への参拝者急増!

20160405

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


宮地嶽神社への参拝者が急増しています。ここ一~二カ月で三回ほど参内しましたが、三回ともこれまでにない人波で、一回は超大型駐車場が満杯になるほどだったのです。

失礼ながら不思議に思っていたのですが、理由は「嵐」が出演するJALのCMのロケ地に宮地嶽神社と沖の藍嶋ラインが採用され、二月以降その人気CMが流れたからのようなのです。


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日没の島へと伸びる参道線(正面は相島)




 太宰府天満宮境内から国立歴史博物館へと連絡する巨大エスカレーターが稼働して以来、同社への参拝客が急増し梅ケ枝餅の売り上げも急増したやに聞き及んでします。

この効果で参道の土産物屋が潤っている事は明らかですが、このような物理的なハード面からではなく、CMというソフトウエアーの効果だけでこれほどの影響が出るとは、感覚が古すぎますが、正に情報化社会を再認識させられたところです。

 実際のところ、それまでの宮地嶽神社への参道の寂れ様は目を覆いたくなるほどのものでした。

その原因なのか結果なのかは一概に言えませんが、西鉄宮地嶽線の廃線という事実が横たわっています。


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宮地岳駅(みやじだけえき)は、かつて福岡県福津市宮司に存在した、西鉄宮地岳線2007平成19年)、宮地岳線(現・貝塚線)の区間廃止に伴い廃駅となった。

ウィキペディア(20160406 21:30


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JALのCM「嵐」効果の映像


58日(日)この宮地嶽神社の浄見 譲宮司の講演会が5熊本県和水町で行われます


久留米地名研究会の提携団体である菊水史談会が五月中に三つの講演会を行います。

始めは自らの耳を疑ったほどでしたが、どうやら本気のようで一年分のスケジュールを一気に消化する勢いなのです。

 それと言うのも58日の連休最終日に超大物中の大物の宮地嶽神社の浄見 譲宮司による宮地嶽神社とつくし神舞」講演が予定されているのです。

 これについては、HP久留米地名研究会、blog「ひぼろぎ逍遥」のトップ画面をご覧ください。

宮地嶽神社と言えば、九州北半の大半のバス、タクシー、乗用車に宮地嶽神社交通安全のお守りが置かれていた時代があり、驚くほどの信仰圏(祭祀圏)を持っていた事は皆さんご存知の通りでしょう。

この太宰府天満宮に次いで県下で(という事は九州全域で)参拝客が多いこの神社こそ謎の九州王朝宮廷舞と言われる「筑紫舞」を継承した神社であり、今尚続くその信仰圏は、九州王朝の中枢領域(直轄支配地域)を思わせるものなのです。

久留米地名研究会でも五年ほど前でしたが、浄見宮司に「九州王朝の周辺」講演をお話頂いていますが、いよいよ、「筑紫舞」で中心的な役割を果たす肥後の翁の領域に於いて講演して頂けるところまで来たのです。

それに合わせ、九州王朝研究の最先端を担う佃収氏による筑紫舞の肥後の翁と江田船山古墳」講演も行われる予定で、まさに、夏の古墳祭り(江田船山古墳)への伏線が静かに敷かれているようなのです。

前述の通り、宮地 嶽神社の交通安全のお守りはどなたもご覧になったはずで、その背景には、薩摩から北海道の江差まで北前船の航路安全を支えた安曇族の活動領域と宮地嶽神社 信仰圏とを見るのですが、まさに、空にまで宮地嶽神社の交通安全の神威が及びつつあるのではないかと思いが広がったところです。

つい、二週間前の 事ですが、日田市内でバスに乗ったところこのバスの運転席にも宮地嶽神社のお守りが置かれていた事から、同乗者も無く運転手さんに「これは個人で置かれた のですか?」とお尋ねしたところ、「会社のどこかの部局で纏めて求めて置いているようです」とのお答えを頂きました。

日田と言えば豊後ながら、豊前の宇佐八幡宮の神威が及ぶべき領域なのですが、民間レベルではやはり宮地嶽神社の神威が底流に流れている事を静かに感じた瞬間でもありました。

はたして、JALの旅客機の操縦室に空の交通安全御札が置かれているかは知りませんが、日航の初代社長であるM氏が佐賀県の出身者だった事を思えば、全く無い話ではないような気がしています。

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菊水史談会(熊本県和水町)久留米地名研究会提携団体

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会場:和水町中央公民館 熊本県玉名郡和水町江田3883-1 ℡0968-86-2022 事前申込不要 資料代500円

 宮司講演については09062983254(古川)まで、詳細については事務局09037874460(前垣)まで


一部には九州王朝論をご存知でない潜りとしか言いようの無い古代史ファンもおられるのかも知れませんが、まずは九州王朝論の一端でもお聴きになれば、現在の通説により持ち込まれたデタラメな古代史観が一変する事と思います。

考古学会がしがみつく「邪馬台国畿内説」などという大嘘から一刻も早く解放され、真実の列島の神代史、古代史に目を向けて頂きたいと思います。

嵐のCMで有名になった相島ですが、ここには数百基の積み石塚古墳群が存在します。参道がその方 向を見ているだけでも、また、巨大石室を持つ宮地嶽古墳の石材がこの相島から運ばれていることからだけでも、被葬者が宗像徳善の君とかその一族とかいった 京都学派(といっても國學院ですが)によるN某の説がただの好い加減な思いつきか、宗像への利権を意識した捏造でしかないように思えて来るのです。

相島とは、多分、阿部(アヘ)で、孝元天皇の大彦の流れから出た安部(表記はどうとでも)氏ですね。

281 北北東に進路を取れ! ① 姫路市飾東町北野の高良神社

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281 北北東に進路を取れ! ① 姫路市飾東町北野の高良神社

20151219

久留米地名研究会 古川 清久

 

「北北西に進路を取れ」は1959年製のアメリカ映画ですが、20151215日、久留米地名研究会グループの今年最後のイベントである百嶋神社考古学勉強会を終え、年明け十日ぐらいまでスケジュールの谷間ができたことから、意を決し一気に北に向かう事にしました。

研究会のスケジュールに追われ追われの毎日でしたので、気分は、まさに「北北東に進路を取れ!」なのです。

一応の目的地は安東水軍の故地十三湊辺りまでとはしましたが、如何にスタッドレス・タイヤを履かせているとは言え、雪道に不慣れな者の事、海岸沿いの神社を見ながら幹線国道(8号線)を行けるところまで行くとしました。

16日午前2時には、新たに準備された筑豊の川崎町の第3研修所(第3サティアン)を単騎出発しました。

可能な限り一般道を走るのが古川定石ですが、関門トンネルを抜け、下関から高速道路で兵庫県(播磨)の姫路東ICまで走る事にしました。

勿論、途中で短時間の車中泊をしたのですが、同日の16日午後1時頃には兵庫県の姫路市と加古川市との境辺りまで進出していました。

ホンダ・フィット・シャトルHBによる長駆遠征ですが、600キロ近くをリッター当たり26.7キロで走り抜き、2,700円の燃料代に対して高速料金6,800円(ETC料金)という高速道路公団のボッタクリ利権構造をあらためて再認識しました。

どこの国に燃料代より高速料金が高いところがあるか少しは考えて見ろ!

このようなむかむかする話は置いておいて、姫路東ICで降りた理由は、姫路市の高良神社を見るためでした(暗号「山上憶良」…高良神社リストによる)。

既に、九州はもとより、中四国の高良神社は全て実見しており、近畿圏への進出の第一歩となったのです。

ともあれ、同インターから数キロで兵庫県姫路市飾東町北野の高良神社の付近に辿り着きました。

普通、市町村境界は山深いところが多いのですが、農地はあるものの同地は都市近郊の住宅地と言った印象しかありません。

小丘陵というか里山程度の森から小河川が流れ出しており、今でもそれに沿った幅の狭い道路の周りに集落が形成されています。

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高良神社は直ぐに見つかりました。車一台がギリギリ通過できるという整備されていない道路を抜けるとイノシシ除けの柵があり、その奥が高良神社でした。

二百メートルも登ると社殿が見えてきました。入口の鳥居も神額が無くいわゆる顔の見えない神社ですが、参拝殿の中に入ると「高良大明神」と神額が掛けられており、紛れもない高良神社です。

神殿も含めて隈なく見せて頂きましたが、摂社、境内社の痕跡すらなく、これ以上探ることはできませんでした。それでも、この神社を携えて九州から一族で移動して来られた方々がおられた事は確かです。

神殿への階段の造り方、鞘殿の様式と筑後物部氏を感じさせるものはありましたが、もはや、この地区の方達も、何時の時代どのようにして筑後川流域から移動して来たかもお分かりではないと思います。


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 集落に戻ると地元と思われる男の方がおられたので直ぐにお尋ねしましたが、お話によると、①この北野の集落には高良神社以外に他の神社はなくこの集落だけで祭っている。②九州に高良大社があるらしいからそこと関係があると思っている。…といった事は確認できました。

 実は、その後で、隣の市になりますが加西市坂本町に王子宮を確認しました。

 久留米市山川町坂本に高良皇子神社(王子宮+坂本宮)があります。

 これこそ、高良玉垂命の九人の皇子を祀る神社なのですが、その神社がこの高良神社のある北野と背中合わせにあるのですから、いつの時代かの特定はできませんがこの高良玉垂命の直系を奉ずる一族が入っている事が確認できたのでした。


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勿論、帰りにはHP暗号「山上憶良」氏リストに在る京都府福知山市字鋳物師60-1の高良神社(厄除神社)も見たいと考えています。


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282 北北東に進路を取れ! ② 加西市坂本の王子神社

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 282 北北東に進路を取れ! ② 加西市坂本の王子神社

20151219

久留米地名研究会 古川 清久

 
姫路市飾東町の高良神社を確認した後、周辺の大歳神社や熊野神社を見せて頂き、加西市坂本の王子神社を見に行くことにしました。

熊野神社は、高良神社以上に立派な社殿を持つ素晴らしい神社でこれはこれで書きたいのですが、全ての神社を書き出したら、一日に10本ものブログを書く破目になってしまいます。


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 姫路市飾東町北野の高良神社を確認し次は舞鶴市に向かう事にしました。


いよいよ東日本への進出です。ところが、その途中にも見たい神社は次々に出て来るもので、カーナビには、どんどん地名と神社がセットで表示されてきます。

最近では、地名を見ただけでその地区には如何なる神社があり、如何なる人々が住んでいるかの大まかな見当が着くようにもなり出した事から切りがないのです。

こうなると、地獄で喘ぐ亡者のようなもので、全ての神社を自分の目で確認しなければいられないと言う○○地獄に嵌った様なものであり、決して平安は訪れません。

カーナビに坂本という地名を発見するや、王子神社との社名が出て来ると、どのように考えても、久留米市の高良皇子神社=王子宮としか考えようがないのです。

しかも、坂本との地名がある事から、高良玉垂命の血の入った氏族が住み着いた土地でないはずはないのです。

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 この地区も古い集落である事は一目で分かります。


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境内には一目、市杵島姫(弁天様)と思えるものなど、幾つかの摂社、分社がありましたが、如何なる神様かの確認は出来ませんでした。

非常に良く手入れが行き届いた神社で、地域の尊崇を一身に集めている事が良く分かります。

たまたま、神殿の扉が半開きだったため勝手ながら垣間見させて頂いたのですが、三体の神様がおられる事が分かっただけでした。

しかし、これでもある程度の事が分かるのです。何故ならば、本家本元の、久留米市山川町の坂本宮には坂本の命を真中に三人の高良皇子(那男美ノ命神は女性神ですので…)が祀られているからです。


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久留米市山川町の高良皇子神社=王子宮の祭神


上の五柱が高良玉垂命=第9代開化天皇と神功皇后との間に産まれた皇子神

 その筆頭 斯礼賀志ノ命こそが若宮神社の主神=第14代仁徳天皇

 

斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
渕志ノ命神(フチシ)
谿上ノ命神(タニガミ)


那男美ノ命神(ナオミ)
坂本ノ命神(サカモト)  
安志奇ノ命神(アシキ)  
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


下の四柱が仲哀天皇の子であり(必ずしも神功の実子と考える必要はない)、神功皇后の連子とも考えられる。この中に応神はいないと考えています(高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」による)。


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スポット031 熊本人工地震について ① あくまでも個人の責任で書いたもの…当然ですが!

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スポット031 熊本人工地震について ① あくまでも個人の責任で書いたもの…当然ですが!

20160424

久留米地名研究会 古川 清久


地名研究会は3つの提携団体を含め、福岡県から熊本県北半に掛けて関連する8つの団体や組織が活動していますので、今回の熊本、大分人工地震により被害に遭われた方も居られるようです。

  幸い建物は難を逃れたとしても、家財道具はメチャメチャ(熊本ではシッチャンカッチャンと言う様で、そのまま全国放送に流れましたが)とか、水道、電気が ダウンしているといった被害は出ているはずで、加えて絶望的なまでの交通遮断~交通渋滞、観光客の激減、ゴールデン・ウイークといった短期的な話ではな く、五年~十年の観光業の落ち込み(南阿蘇観光どころか熊本観光が消滅の危機に…)、東西の交通途絶、交通網の混乱による農産品などの流通危機(販売不 能)…と、産業そのものの衰退が眼の前に迫っています。

 そのような中、地震直後に予定されていた菊池(川流域)地名研究会は、当然ながら参加者6、7人しか集まらない状態ながら何とか行う事が出来ましたが、事務局メンバーの数名のご自宅の中は物が散乱したままの状態で来ておられたのでした。

 毎回、崩落した阿蘇大橋を渡って参加されている数名の方も参加できる訳が無く、今後ともこの状況は長期化する事になるわけです。

まず、高速道路が熊本市の北部(植木町)から八代市まで途絶しているため(編集時点では嘉島)、この間を越え福岡~鹿児島へと移動する車が熊本周辺に吐き出されることになる訳で、ただでさえ移動し難い熊本市中心部から周辺部に掛けて大渋滞の状態になっているのです。

 さて、人工地震に関する噂はネット上に溢れています。

研究会内 部の神社考古学研究班でも多くのメンバーが普通に話をしている状態であり、本当に知らないのか、知らないふりをしているのか、ありあえないと言うのが識者 とでも言うかのように装っているのは、行政とマスコミ関係者、政治屋ばかりで、インターネットに接触できる人々の間では、「裸の王様」宜しく、ほぼ、常識 にすらなっているかのようです。


3.11福島人工地震  20110311→2+1+1+3+11=18(6+6+6)


4.14熊本人工地震  20160414→2+1+6+4+1+4(4+14)=18(6+6+6)


ネット上には外にも幾つもの例が挙げられていますがここでは触れません。

後は自分の手で調べ、自分の頭で考え判断して頂きたいと思います。


 久留米地名研究会日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所は運よく被害と言う被害はありませんでしたが(本がニ~三冊落ちただけ)、一週間後の今日まで余震で揺れ続け、周辺は多くのルートで通行止めが発生しているのです。

ともあれ、当会にとって今回の地震の影響はそれほどのものではありませんでした。

 人的被害は無く、お一人の方の家の半壊(修復可能)はあったものの、直ぐに近くのマンションを借りる事ができた事から、数日で水、電気の復旧ができ、今は滅茶苦茶になった元の家の片づけを少しずつやっているとのことでした。

 しかし、家の修理には最低でも数百万円は掛るはずで、その数百分の一程度の支援金と、ニ食分のオニギリや援助物資を持ってお届けしてきたところです。

 人工地震であると言う証拠は無論ありません。

 しかし、ネット上にこれほど拡散している情報を否定できる決定的証拠もだれも持たないはずであり、鼻から荒唐無稽とあしらう事ができないだけのことです。


  まず、震源の深さがほぼ地下10キロと揃っている事が東北と非常に似通っています。

 それに私達の世代は地震の到達に関して初期微動継続時間とかP波とS波の問題として教えられています。

  非常に分かり易いので皆さんにも考えて頂きたいのですが、普通はこの秒数に8を掛ければ(例えば5秒なら40キロメートル)と震源との距離が算出できるはずなのです。

 ところが、今回は全てP波が来ずに、前触れなしに大きな揺れが起こっているのです。

現地の方は経験的にお分かりと思いますが、緊急地震速報が携帯から流された時には全て揺さぶられていたはずだと思います(これでは予報の意味は全くないのです)。

この事を気にしてか、普通なら出すはずの地震の振動波形も気象庁は出さないのです。

この波形が、人工地震(石油掘削でもこの人工地震という用語は国内も含め使用されていますので…)や地下核実験の波形と同じなのです。

  次に腹立たしいと言うよりもバカバカしくさえ思えるのが、地震の予知の問題です。

地震予知連絡会南海トラフ大地震・東海地震ばかりを議論し大規模に取上げておきながら、阪神淡路も外し、東北も外し、今回の熊本も外しておきながら、イケシャーシャーと出てきてゴタクを並べるのですから、ほとんどお笑い番組と変わらないありさまなのです。

 それなら、始めから予知も予測もできない!とハッキリ言えば良いものを、税金を流しこみピンはねしようとする官僚どもの口車に乗って、で きもしない予知、予測をさもできるかのように主張し税金を取り込んでいるのですから、私の眼にはオレオレ詐欺と一衣帯水としか映らないのです。

 ただ、これが人工地震ならば話は別なので、それこそ日本列島民族の悲劇であり、喜劇と悲劇は裏表になるのですが…。人工地震ならば予知は官僚と政治屋とユダヤ買弁集団(株で儲けている汚い連中です)しかできない事になるのです。

 いっそ、御嶽山の無様さでも明々白々となった火山噴火予知連絡会と併せて解散し、投入される税金の半分でも被害者救済に廻すべきと思う人々が益々増えて行くことでしょう。

 これが福島第一の時も明らかになりましたが、これが学者なんですからほとんどマンガの世界です。


初期微動

1908サンフランシスコ大地震の際にドイツの地震計で観測された地震波の波形。一番左の赤線から一番左の緑線までの間が初期微動。

初期微動(しょきびどう、preliminary tremors)とは、地震における最初の小規模な地震動のこと。地震波Pによって引き起こされる揺れのことである。また、初期微動はP波が到達してからS波が到達するまでの間継続し、その後の地震動は主要動という。


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地震動は地震波により引き起こされ、地震波はPS表面波から構成されている。P波・S波・表面波の速度はそれぞれ異なっており、P波は57km/秒、S波は34km/秒である。そのため、観測地点から見ると、地震波はまずP波から到達し、ついでS波・表面波の順となる。地震動もそれぞれの地震波によって引き起こされるため、まずP波による揺れ、次いでS波による揺れが起きる。

P波は疎密波であり、その揺れはS波によるものより小さい。そのため、この揺れを初期微動と呼称する。P波は地震波(地震動)の周期が短いため、初期微動はカタカタという小刻みの揺れであり、人間の体感ではそれほど大きな揺れではない。また、建物などを大きく揺らす周期とも一致していないため、初期微動の段階では建物が壊れるようなことは少ない。

初期微動継続時間

初期微動継続時間duration of preliminary tremors)は、P波とS波の速度差に由来する。そのため、震源が遠いほど初期微動継続時間は長くなる。逆に震源地直近においては、ほとんど初期微動継続時間はなくなる。初期微動継続時間の秒数に8をかけると、ほぼ震源距離(kmになる(たとえば初期微動継続時間が20秒のとき、震源距離はおよそ160km)。このため、1つの地震計波形からその観測点と震源の距離を概算したり、少数の地震計波形から震源の位置を決定する際にも、初期微動継続時間は有用である。

防災の面からは、この初期微動の時間は、有効なものとされている。初期微動は、S波による地震動より相対的に小さいものであるために、この微動の時間においては避難も容易であり、地震警報システムエレベーターP波センサ付き地震時管制運転のイニシャルタイムとしても使われる。

ウィキペディア(Wikipedia)(20160425 17:20による


 阿蘇外輪山の一部であり、阿蘇、熊本、益城からは直線でも50キロ程度の研修所も何度も車中泊に切り換えた事から、直接被害を受けられた方の怖さは身に染みて理解できます。

この嘘つき国家とその手足となっている行政に信頼がおけない以上、フィット・シャトルでの車上生活が一番です!この文章自体も車中に置いた特製の机の上でワイファイのネット・ワークで書いているのです。

283 北北東に進路を取れ! ③ 舞鶴市西舞鶴の笶原神社

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283 北北東に進路を取れ! ③ 舞鶴市西舞鶴の笶原神社

20151219

久留米地名研究会 古川 清久


舞鶴と言えば舞チン、佐世保と言えば佐世チン、横須賀と言えば横チン、呉と言えば呉チン…と相場が決まっていたのですが、今やこのような話が全く通じない時代になってしまったようです。

太平洋での日米会戦はまさに激闘に次ぐ激闘でしたが、所詮、ユダヤ金融資本に操られていた事を認識している人は日本国民の1%以下であろうことは間違いないでしょう。

ましてや、帝国海軍はパナマ船籍の油槽船からアメリカの石油を買い付け、日本水産(三菱商事)が運び敗戦まで動いていたことなど想像もつかない事でしょう(関心を持たれる方は鬼塚英昭氏の話をユーチューブなどで確認されては如何でしょうか…)。

京都府舞鶴市は旧帝国海軍の舞鶴鎮守府が置かれ、日本海海戦で名を馳せた東郷平八郎も初代司令長官として舞鶴市余部に宿舎を持っていたと聴き及んでいます。

当時の海戦に於ける主戦場は東シナ海から日本海であり、佐世保と並び舞鶴の重要性は言うまでも無いものだったのです。

姫路から福知山に入りその日は国領温泉で疲れを取り、その近辺での車中泊を決め込みました。

翌朝、早々にも舞鶴に入ったのですが、東郷が住んでいたその余部を通り貫け、直ぐに足を向けたのは、当然にも、海上自衛隊の舞鶴総監部でした。

朝まだきからいつしか夜が明け、明るい朝日が海上自衛隊の艦艇に注いでいたのでした。


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写真は翌日撮影したもので曇り空、悪しからずご容赦 後方にはなにやらイージス艦らしきものまで…


舞鶴にはこれで五度目ぐらいですが、前回、十年前に訪ずれた時には、岸壁の母ならぬ引き揚げ記念館などを見たと記憶しています。

しかし、今回は、図らずも舞鶴市内の神社を見て回る羽目になってしまいました。

それと言うのも、二台ある車載用パソコンの一台のアダプターのコードが断線し、おまけにショートしたようで、内蔵バッテリーまでもがダウンしてしまったからでした。

慌てて家電専門店、パソコンショップ、リサイクル・ショップなどを走り回ったのですが、台湾製のDELLという一般的でないメーカーのものだったために、容易に代替品が見つからず、途方に暮れていました。しかし、救いはあるものです。幸いにも地元のパソコン修理などを行う店をネットで探し出し、なんとか24時間でリカバリーできたのでした(深謝)。

結局、ただの通過のつもりだったものが、まるまる24時間の滞留の必要性が生じ、舞鶴の神社調査を行うはめになったのでした。

しかし、10社ほどの初見の神社を見たことから得たものは多く、非常に意義深いものでした。

さて、最初に足を向けたのは西舞鶴の市街地の一角にある笶原神社(笑原ではない)でした。


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今回は、パソコン修理のための足止めで急遽調査することになったことから、下調べを全く行っていません。以下は同社御由緒書。「祭神は天照皇大神、豊受姫、月夜見神。」とあります。


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予備知識もないまま何とか付近に車を止め見せて頂くことにしましたが、まずは、神額が非常に気になりました。読めないのです。

バックアップ用パソコンで画像処理をしてようやく読めたのですが、さすがは文化と伝統の中心地の教京都、立派な研究者がたくさんおられるようです。これらに一通り目を通さなければ一言も書けなさそうです。

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どうやら「総社笶原魚井匏宮」(ヤハラマナイヨサ)と書かれているようなのです。


… 鳥居には「総社笶原魚井匏(やはらまないよさ宮)」と書かれた大きな神額がかかっているが、この字は清仁親王書と伝えている。 …


つぎはぎで申し訳ありませんが、一部を掲載させて頂きます。


元伊勢というの(ママ)今の伊勢の伊勢神宮の故地ということで、まことに重要な伝承を伝える神社でもある。

残欠が真名井の近くの矢原山と言うし、その神名帳では笠水社-笶原社-伊吹戸社の順に並ぶのだから、式内社・笶原神社はここにしか考えようはない。

丹後海部氏の重要な拠点でもあった。丹後分国は和銅6(713)で、勘注系図によれば丹波国造海部直愛志の児の海部直千成が笶原神宮の祝部の祖となっている。養老5(721)より十五年勤めたとある。その児は橋木麿という。あるいは多門院あたりにいたかも知れないような名である。この矢原山は残欠の冒頭に出てくる加佐郡の最も重要な地である。海部氏が加佐郡支配の拠点をどこに置くかを考えても、やはりここであろう。

古代の長い時代に渡っての非常に大切な役割のあった社であったらしいことがわかる。

この地は天香語山命とか天村雲命とかが登場して説かれるのであるが、彼らは名から見れば金属神やヘビ神であろう、さて「神社旧辞録」のヤブ山という地名、そして実はこの神社の本当の名であるが、この考察が大変に鋭くて大変に面白い。

笶原とは「ヤブ」とも訓で但馬の養父と同義であって「ヤブ」は「ウブ」即ち初生ウブが源であり、壬生ミブ、弥布ミフ、養父ヤブの神及び笶原ヤブ神社は太古よりの土着神生えぬきの村といはれる。

「丹後の地名地理・歴史資料集」より


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以下は別のサイト「ぶっちゃけ古事記」より


笶原神社(やはら じんじゃ)は、京都府舞鶴市にある神社。『延喜式神名帳』にある「笶原神社(丹後国・加佐郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格は無格社。「笶」は 「笑」ではないが、笑原神社と誤表記される場合がある。「やぶじんじゃ」「神明さん」「えばらじんじゃ」「えみはらじんじゃ」などとも。

笶原とは「ヤブ」とも訓で但馬の養父(養父神社)と同義で、「ヤブ」は「ウブ」すなわち初生(ウブ)が源であり、壬生(ミブ)、禰布(ミフ)、養父(ヤブ)の神はいずれも太古よりの土着神生えぬきの神社であり、一帯であるという。

『倭姫命世記』にあるトヨスキイリビメが巡歴した「吉佐宮」の伝承地の一つで、伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)の前身とも言うべき、元伊勢の一つ。

その他に、「吉佐宮」の候補としては、いずれも京都府内に皇大神社(福知山市)、真名井神社(丹後国一宮・籠神社の奥宮。宮津市)、竹野神社(京丹後市)がある。

御祭神は、天照大神(アマテラス)、豊受大神(トヨウケビメノカミ)、月夜見神(ツクヨミ)。創建は不詳。慶長年間(1596-1615年)に領主だった細川家が再建。寛文年間(1661-1672年)、牧野家入国以前は地元の人々による崇敬が厚く、栄えた。その後衰退。

本殿は裏山の顕仁親王(後の第七十五代崇徳天皇<1119-1164>)の書という忠魂碑後方の山上にあるというが、氏子の紺屋町内約七十世帯の手では管理が行きとどかないため、御神体を下の拝殿に移した。山上の本殿は明治36年(1903年)の建物だが、荒廃にまかせているという。本来は愛宕山山頂の、今の愛宕神社の地にあったと思われる。

鳥居には「総社笶原魚井匏宮」と書かれた大きな神額がある。字は清仁親王(第六十三代冷泉天皇の子、実際は第六十五代花山天皇皇子。約1000年前)書と伝えている。

式内社「笶原神社」は淡路国三原郡にもある。


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ひときわ髙きところに鎮座する伏見稲荷こと伊勢外宮の豊受大神


名を捨て、実を取った感じですが、この奥に鎮座している稲荷様=豊受大姫こそが主神ですね。


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千木も外切りし「男神」を表しているようです。

天照大御神は女神ではないのか?と言われるかもしれませんが、だから伊勢神宮の神官などがあしらう様に「良く千木の男女の区別を問題にして質問してくる人がいるが、それは素人考えで、千木とは全く無関係…云々」といった事を言ってのけるのです。

このような浅薄な理解は、表面しか見ていないだけであって、神社はその時々の情勢で奥方の神を表に出し、夫方の神を引っ込めたりしているからでしかないのです。そこを見なければいけないはずなのです。

百嶋由一郎神社考古学では、伏見稲荷は 豊受大神=伊勢外宮=辛国息長大姫大目命=アメノウヅメ命とし、その二番目の夫に当たる山幸彦=ニギハヤヒ(その実体は天香具山=香春岳命)が表に立たれ ているからです。これは、奈良の大和朝廷から伊勢が忌避された事と通底しているのです。

 久留米や筑豊には天照御祖神社、天照宮…と言われる男千木を掲げる神社群があります。

  伊勢外宮の豊受大神とは勿論イザナギ女神とイザナミの間に生まれたスサノウと、大山祗命と埴安姫(大幡主の妹)との間に生まれた神大市姫との間に生まれた スーパースター同志に生まれたプリンセスであり実は伏見稲荷様でもあるのですが、その夫となった神々も、格式は非常に低いものの、実力者である海幸彦(阿 蘇高森の草部吉見)から山幸彦(物部の祖ニギハヤヒ=猿田彦)へと変わっており、奈良大和政権に対して物部を表に出さざるを得ない情勢が存在したからなのです。

 従って、この総社笶原魚井匏宮では、一段高い所に奥方の伏見稲荷が置かれ、臣下としての実力者としての山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦が祀られると言う臨戦態勢の配神になっているのです。

 倭姫命が伊勢神宮の鎮座地を求めて移動した事が「倭姫命世紀」には書き留められ、この笶原神社も大江山皇大神宮同様、その移動した(流浪した)仮宮の一つだったのですが、その起源は無論九州なのです。

 その証拠に、全国で唯一倭姫を単独で祀る味島神社が佐賀県の嬉野市塩田町、鹿島市などに数社集中しているのです。

これについては「ひぼろぎ逍遥」012「日本で一つ、主神として倭姫命を祀る神社」をお読みください。

御祭神は、天照大神(アマテラス)、豊受大神(トヨウケビメノカミ)、月夜見神(ツクヨミ)とされています。

簡単に言えば、この神社とは豊受大神と山幸彦=ニギハヤヒの御夫婦と後見人としての大山祗の神社なのです。百嶋神社考古学の立場からは丸分かり(頭隠して尻隠さず)に透けて見えるのです。

ただ、関係者のうちスサノウは消えてる(消されている)ように見えますね。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


なお、「ぶっちゃけ古事記」氏がお書きになっている「やぶじんじゃ」「神明さん」「えばらじんじゃ」「えみはらじんじゃ」などとも。 笶原とは「ヤブ」とも訓で但馬の養父(養父神社)と同義で、は同意ですが、この養父も肥前の旧郡、「養父郡」の地名移動であり、養父市大屋町の御井神社群は筑紫、肥前からの移動なのです。

スポット032(前) 熊本人工地震について ② 震災ビジネス 個人の責任で書いたもの…

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スポット032(前) 熊本人工地震について ② 震災ビジネス 個人の責任で書いたもの…当たり前ですが!

“ビジネスと化した仮設住宅ではなく温泉施設、遊休宿泊施設の政府による長期借り上げを!”

20160426

久留米地名研究会 古川 清久


  車上生活とエコノミークラス症候群の問題が、さも、まことしやかに議論されていますが、緊急に準備されるべき仮設住宅が長期間提供されない事を神戸、東北 の経験から見越し予測した上で、已む無く車上生活に入っている方に対して、「体を延ばしましょう」とか「運動をしましょう」などと声を掛け、カウンセラー を県外からさえも派遣するなどといった事が行政の施策と言うのですから、ほとんど余計な“おせっかい”でしかなく、住宅の再建なり産業の維持なり雇用の確 保なり新設なり、行政にはもっとやるべきことがあるだろう!としか言いようがありません。

 それができれば、長期的な将来への不安とか絶望といった事から派生する不眠や体の変調といったものは(震災により直接犠牲になった50人に対して震災外死は既に16人)自然に解消するはずなのです。

 その前に、政府による緊急措置により安全に寝泊まりできる居住空間さえで提供できれば、短期的な課題=連続する余震に対する緊張、不眠、プライバシーの欠如による病変、不満、ストレス…などの解消は問題ないレベルに軽減できるはずなのです。

  例えば、阿蘇谷、南郷谷(南阿蘇)の被災者に対しては、内牧温泉なり赤水温泉なり多くの温泉付きの宿泊施設(中には閉鎖され現在使用されてないものもあれ ば、温泉がストップしたものも、復活したものも…)があるのですから、そこを政府が緊急に二年なり三年なり、場合によっては五年なりの長期契約によって借 り上げて、被災者に優先的に住んでもらえれば良いだけの話であって、そこでの生活については、被災者自らで炊事当番を決め、搬送できずに処分せざるを得な い豊富な阿蘇の食材を利用して調理すれば良いだけの事なのです。

 恐らく米などは全国から立ちどころに集まることでしょうし、大半の被災者は多かれ少なかれ農業者との関係は持っているためいつでも調達できるのです。

  まず、温泉付きの施設があるのですから、エコノミークラス症候群はおろか、いっさいのトラブルは解消し数ヵ月後にはピンピンして自立への道を踏み出すこと ができる精神的な気迫だけは回復できる事になるはずなのです。問題は、住宅再建のための長期低利(無利息)の融資といった将来の再建なのです。

仮に無担保貸し付けとしても、実際に住宅が建てられた後に支払う事を条件にすれば、経済は循環し税収となってそのかなりの部分が国庫に戻っても来るのです。

 既に阿蘇大橋の大橋梁は崩落しているのですし、恐らくトロッコ列車で知られた南阿蘇鉄道も、十年ほど前に流された高千穂鉄道と同様に見捨てられ切り捨てられ、二度と復旧される事はないでしょう(これはあくまでも推測ですが)。

  さらに南阿蘇へのもう一つの大きな交通路であった俵山トンネルがどの程度の被害か不明ですが、現状で通れない以上、白水水源を始めとした多くの遊水池や地 獄温泉、垂玉温泉、栃木温泉、高森温泉…(切りが無いのでやめますが)など南阿蘇への観光客は物理的に入る方法が全く無くなっており(東の豊後竹田方面か らの阿蘇市への、また、草部、高千穂方面から高森への進入路は難を逃れた模様)、橋の復旧を考えると、最低でも今後五~十年間の南阿蘇観光は消失してしま う事になりそうなのです。

 このため、これらの施設のうち、政府による長期間の借り上げの希望を聴かれる事になれば、恐らく全ての施設が手を挙げる事になるでしょう。

 これは阿蘇谷でも同様で、豊後竹田方面から国道57号線で入るルートは、先年の土砂災害で補強されていたためか通行が可能であり東からの交通路は確保されているようです。

しかし、楼門が崩落した阿蘇神社に参拝する観光客がいるとも思えず、例え東からの交通網が残されていたとしても客足の落ち込みを五分の一にとどめる事さえも絶望的な状態なのです。

  現在の阿蘇への進入ルートは瀬ノ本高原から大観峰、ミルクロードで笹倉から阿蘇へ、笹倉から広域林道草部高森ルートを含め入る事は十分に可能ですが、こと 観光に関しては絶望的で、これらの温泉施設と観光産業を存続させるためにも、政府借り上げによる被害者、救援者、災害復旧業者への長期の住居提供が阿蘇の 産業を支える鍵なのです(災害復旧工事の従業員宿舎としての安定的な利用が唯一の期待になるはずです)。

 ところが、それでは困る人々がいる事から、簡単に実現するとは考えられないのです。

 つまり、震災をビジネス・チャンスと考える死の商人どもを操る連中が蠢いているのです。

  仮設住宅、住宅設備、生活資材を提供する業者、全国から集まる膨大な額の義援金を、直接、商売にしたい多くの企業や提携する政治家が口を開けて待っている のであり、そういった企業に多くの官僚どもが天下りし、人の不幸につけ込み旨い汁を吸おうと待ち構えているのが見えてしまうのです。

 この政府による宿泊施設の長期借入契約は阿蘇に限らず適応できるはずであり、益城町、熊本市でも同様で、まず、多くの温泉施設は過剰供給気味に整備されています。

宿泊施設にしても、既に旅館、ビジネスホテル、民宿が山ほどあるのですが、これらの施設の大半が阿蘇観光を主軸とする熊本観光の壊滅によって、周辺部を含めて危機に直面しているのです。

それが、非常に抑制気味に報道されている「見なし仮設住宅」の制度であり、仮設住宅の建設よりもむしろそちらを最優先にすべきなのです。

早く手を打たなければ、希望を失った老人の病死、自殺、続く未来を奪われた若年層の自殺が後を追う事になるはずです。要はスピードなのです。


戦前にも事例のある陸軍省による旅館の長期借り上げ


  かつて、戦時下の日本に於いても、箱根温泉、別府温泉、嬉野温泉、我が武雄温泉も…など多くの事例がありますが、不足する戦傷者、戦病者の病棟として、軍 部が一括して長期で借り上げ(当時は借り下げと言っていたようですが)緊急時に対応した事例は幾らもある訳で、既に客足が退いて久しい日奈久温泉、湯ノ児 温泉のような遠隔地でさえも手を挙げるところは幾らも出て来るはずなのです。

 このような話の途中で不謹慎かも知れませんが、「陸軍よもやま話」風の話として、一部には陸軍が遊郭を長期で「借り下げ」たという勇ましい話も聞き及んでいます。


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そこで、娼妓が炊事係りや下働きにでもなったのかについては詳しい事情は不明です。

  熊本市内でも勤務先、家族の事情(通院、通学)に合わせ、北の菊陽温泉、菊池温泉、山鹿温泉、菊鹿泉、植木温泉、玉名温泉…、益城に近い南となると宿泊の できる温泉施設は確かに少ないのですが、全く無い訳ではないので、日帰り施設を中心に南北に振り分け、遠距離の希望者にも希望を聴き、植木温泉は勿論の 事、菊池温泉から日奈久温泉ぐらいまでは十分に分宿させる事は可能なはずなのです。

 問題は衣食住の「住」が確保できれば、後は自活の援助をすれば良いだけで、援助を役人どものビジネス・チャンスとすべきではないのです。

 農業者は「住」を確保さえできれば後は農機具の援助でしょうし、益城町も被災者の大半はサラリーマンのはずですから温泉地に限らず、民間のアパートの長期借り上げで問題は解決するのです。

 数例ですが、近いエリアから別府鉄輪と湯平温泉の例でご紹介しましょう。


No887 はがき文 あれこれ

鉄輪にも陸軍病院の病棟
療養中の兵隊から秋田の同僚へ



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終戦の年の昭和20年3月31日の日付印がある文面で、差出人の住所は「大分県別府市鉄輪 小倉陸軍病院別府分院 鉄輪病棟十二寮」となっている。戦争中に北浜の旅館が借り上げられて海軍病院の傷病兵を収容していたという話は聞くが、鉄輪にも陸軍の傷病兵がいたのだろう。ちなみに小倉陸軍病院別府分院は現在の社会福祉会館の裏手(青山小学校の下)にあった。戦争が激しくなると、陸軍病院も海軍病院も多すぎる傷病兵を収容できず、市内あちこちの旅館を借り上げていた。
 宛先は秋田県の秋田銀行本荘支店御一同様となっており、差出人は元々この支店の行員だったわけだろう。さぞかし望郷の思いが募っていたことと想像される。なお「傷のためペンが持てない」と書いているので、指を負傷していたのだろうか。


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「前略雪国秋田もそろそろ春めいて来た事でせ う。当地別府ももうすっかり春景色の気持のよい気候です。皆様には如何お過ごしでせうか。銀行もこの半年余りでさぞ色々変った事でせう。私の傷も段々良く なり軽傷です故、他事乍ら御安心の程。私の留守宅もさぞ色々御厄介になって居る事でせう。今後共よろしくお願ひ致します。傷のためペンを使ひ得ず鉛筆書に て失礼。」(注・句点は補った)
 なお、「検閲済」というスタンプもあり、検査した係だろうが3人分の判も押されている。
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景観特性に関する研究


石丸裕佳子1・大森洋子2・外尾一則3

1非会員 佐賀大学大学院 工学系研究科都市工学専攻(〒840-8502 佐賀市本庄町1番地)

E-mail:11577005@edu.cc.saga-u.ac.jp

2正会員 久留米工業大学教授 建築・設備工学科(〒830-0052 福岡県久留米市上津町2228-66

E-mail: omori@cc.kurume-it.ac.jp

3正会員 佐賀大学大学院教授 工学系研究科(〒840-8502 佐賀市本庄町1番地)

E-mail: hokao@cc.saga-u.ac.jp


(3)昭和時代

昭和8年には,それまで湯平温泉の代表的源泉,金の湯・銀の湯は特定の温泉所有者によって管理されてきたが,共同 浴場はその源泉と共に全部村有となり,村条件に基づく温泉使用料の納入で誰もが平等に使用できるようになった.今日全国でも珍しい共同浴場の無料開放がこ の時から始まった.昭和初期までは賑わいを見せていた温泉場も戦争の拡大と戦況の悪化に比例して極度の不振に落ち込んでいった.昭和20年に陸軍は湯平温泉を大分陸軍病院の分院とすることにし,全旅館を陸軍が一括借上し,一切の湯治客を排して,多いときは800名の患者が収容されていた.終戦までのわずか5ヶ月の短い期間ではあったが,温泉場入り口に衛兵が立ち,出入りを厳しくチェックしたために入場客は全部追い返され,温泉場としての営業は完全に停止した.これが敗戦の虚脱感と相まって湯平温泉が他の温泉地よりも戦後の立ち上がりを遅らせた大きな要因になった.昭和25年の朝鮮戦争の勃発による軍需景気で観光慰楽型の温泉地利用が多くを占めるようになり,湯平も慰楽型の観光地要素が強くなっていった.

その後湯治場としての需要が減り,内湯を持つ温泉旅館に変わってきた.しかし,旅館の老朽化が進み,湯布院温泉や黒川温泉の台頭により徐々に客足が減少した.


これが立ちどころに実施できるのが阿蘇なのですが、どうせやらないでしょう。

 急いでやらなければ何の意味も無いのに、期待もできない気休めにもならない怪しげなカウンセリングでさも一生懸命に取り組んでいる様に見せ掛けているだけなのです。



スポット032(後) 熊本人工地震について ② 震災ビジネス 個人の責任で書いたもの…

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スポット032(後) 熊本人工地震について ② 震災ビジネス 個人の責任で書いたもの…当たり前ですが!

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山頭火も逗留した湯の平温泉の懐かしい写真です


既に、そういった事は想定できる事から、厚生労働省も出していますが、国土交通省の観光庁は以下の文書を準備しているのです。


平成23325

観 光 庁

宿泊施設における県域を越えた被災者の受入体制について


県域を越えて、旅館・ホテル等の客室を借り上げ、一時的な避難所として、被災者に無料で提供することとする。

【受入条件】


① 受入施設は、旅館・ホテル等の有料施設とする。

② 借上条件は、客室定員による利用、1泊3食付き5千円/人。

③ 継続的に居住できる施設が確保できるまでの当分の間とする。

④ 受入施設は、災害救助法に基づく避難所として、受入県(受入市町村)が被災県からの

要請を受けて借り上げ、避難者(災害救助法適用市町村からの避難者のみ)に供与する。

⑤ なお、宿泊費・交通費に係る負担については、災害救助法を適用し、被災県が負担(受

入県が被災県に求償)した上で、国が被災県に対し、必要な財政措置を講ずる。受入県

における財政負担も生じない。


【調整体制】


全旅連(全国旅館組合連合会) ← 都道府県旅館組合 ← 旅館・ホテル:受入可能数↓観光庁 : 自治体に受入先リストを提示してマッチング。

マッチングに基づき、貸切バス等の移動手段を手配(貸切バス等は被災県が借り上げ)。

具体的な契約・支払い等の諸手続きは事後補完。

↑被災県(災害救助法適用)← 被災市町村(災害救助法適用):避難者数、避難先等の希望↓避難受入要請 ※旅館等に避難する被災者の優先順位を被災自治体が決める必要がある。

受入県(受入市町村)↓避難所として借上げ受入施設

※東北運輸局が、観光庁・自治体間の連絡調整を担当。


【実施時期】


全旅連からのリストの提示、バスの調達準備、関係県への説明等を行ったうえで実施に移す予定。


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これは日帰りを中心に大雑把な検索をしただけですが、熊本市、益城町、南北阿蘇の三十キロ圏内にはこれらを遥かに上回るそれこそ膨大な収容力の在る施設が大量に存在しているのです。

宿泊型の ホテル、民宿、旅館が観光客消失でガラガラの状態で閉館に追い込まれ、従業員、納入業者が失業する中で、仮設住宅建設待ちで子供や老人が辛酸を舐めと言う より煮え湯を飲ませられ、震災ビジネスで潤う特定業者と天下り官僚と天下りを目前にした行政の中枢部が色めき立っているのが現状なのです。

実は全く知られてはいないし、積極的に報道されていないのですが、アリバイ的とさえ思えるようにこっそりと準備はされているらしいのです。


 熊本地震の被災者向けに確保したフェリーや旅館などの宿泊施設、いまだ利用者なし…周知不足に費用負担など調整遅れも!


1: ぬーぼー ★

 《 政府が熊本地震の被災者向けに無料の宿泊施設と して確保したホテルや旅館、フェリーが、いまだ利用されていない状況が続いている。熊本県内では、相次ぐ余震を恐れて車中泊をする被災者が多く、エコノ ミークラス症候群で病院に搬送される人も増えており、関係者の対応が急がれる。
 熊本県内の旅館やホテルでは、高齢者や障害者などを中心に約1500人の受け入れが可能だ。希望者は市町村に連絡すれば、県がホテルなどを割り振る。 》  
 ここまで一部引用、続きは記事ソースをご覧ください。
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これに関しては未確認です。どうやら積極的に宣伝し利用させたくないようなのです。


さて、震災ビジネスの最たるものである仮設住宅は何時出来上がり、何時入居できるのでしょうか?

このような事が見えるだけに政府勧奨の義援金としてはビタ銭壱文出す気にはなれず、真面目に救援活動をしている支援者グループに直接万単位の支援をせざるを得なくなるのです。

十日ほど前にも、太宰府地名研究会の某メンバーが、空のペットボトルを集めて支援用にと持っていったら、衛生問題とか、保存期間の切れていないチャンとしたものでなければ受け取れないとして、返されたとブーブー文句を言っていました。

私に言わせれば小役人どもがどお言うかぐらいは見当が着かなかったのかと言いたいところでした。

考えても見て下さい、阿蘇は南阿蘇と言わず全域で素晴らしい清涼な天然水、しかも湧水が方々で無料でかつ許可なしで手に入れる事の出来る場所なのです。

住民が車上生活者になっている事の背景には、阪神淡路、東北大震災で露わになった行政(東電)の姿に幻滅し、既に全く期待していない姿を見て取ってしまうのです。

これらは高級官僚どもや天下り業者の人間には凡そ理解できない感情でしょう。

簡単に 言ってしまえば、土建屋や産廃業者や天下りの高級官僚、議員といった旨い汁を吸い続けている金持ち連中は、仮に自分の家が壊れようが車が潰れようが、これ は良い切っ掛けになった!これ幸いと新車を買い直し、しばらくは別荘に引っ越しするかとか、この際新しいマンションを隣の被害の出てない町やいっそカナダ にでも移住しようかと考えるはずなのです。

実際、阪神淡路の震災直後に、京都の高級マンションが飛ぶように売れたという話が聞え伝わっていましたが、被災した金持ち連中は直ちにリニュウーアル宜しく神戸から京都に移住して住み換え、数日後には京都観光やショッピングに出て行っただけだったのです。

可哀そうなのは、農家や畜産農家なとで、家屋敷、倉庫、農機具倉庫を一挙に失った人であり、今後、行政や国の施策の冷酷さを思いっきり思い知らされる事になるのです。

結局、金持ちにとっては、被災とは保険金による新築、新車購入の絶好のチャンスでしかなく、ギリギリで生活している真面目な人々だけは悩み苦しみ抜き、蓄えを完全に吐き出させられ、目先の犠牲以上に孫子へとつけ回して生き延びて行くことになるのです。

さすがに、不評だった“がんばろう日本”の反省からかあのむかむかする偽善的なキャンペーンが無い事だけは救いですが(それでも“支援の輪が広がっています”は耳障りですね)、今度はどこで震災ビジネスが演じられる事になるのでしょうか?

どうやら五年ごとには繰り返される事になっているようで、自分にも何時同様の苦難が降りかかってくるかを覚悟し、そうなっても良い様な準備をしなければこの列島で生きて行く資格はないようです。

414日の第一波直後から、熊本のメンバーには何時でもこの研修所を空けるから、休養でも、一時避難でも、逃げて来て良いですよと呼び掛けました。

どうやら、第二、第三の、そして第四の研修所を準備し、必要な時には利用出来る多くの居留地を用意しておくべきようです。

そして、原子力災害にも備え、逃げるための、第二、第三の車中泊専用車(私に関してはホンダフィットシャトルが最適)を準備しておかなければいけないようです。

  自らのコミュニティーの構築をこそ急げ! 戦後資本主義の増幅によって破壊された地域共同体、家族共同体の消失によって、既に、子供や親族に頼れる時代ではなくなった!

行政は一切信用するな!同時に一切期待するな!自らのネット・ワークだけで生き延びよう!


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