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255 再び山陰土産 ③ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口県徳地町の「夏焼」地名“

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255 再び山陰土産 ③ 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口県徳地町の「夏焼」地名

20151008

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次に向かった徳地町で「夏焼」地名を見出した時は正直言って驚きました。

犬鳴、白水…も全くない地名とは言えないのですが、この「夏焼」はめったに出くわさない地名だけに、

前ブログ 254 再び山陰土産 ② 秋本番、石見、周防の神社探訪から! “山口市の犬鳴川で取上げたように、関連する地名、近接する地名がまとまって在る事で何らかの地域的関連を考えざるを得ないといったものではなく、単独でも考慮に値する地名なのです。

 勿論、現在のところ行政上はこの地名は存在しません。

 しかし、「夏吉」という地名は現在なお堂々とまかり通っているのです。

 これについては神功皇后伝承の解読が必要になりますが、まずは「ひもろぎ逍遥」の綾杉るな女史の話からご紹介することにしましょう。


255-1

「夏焼」に関係する「日本書紀」の記述、現地伝承がコンパクトにまとめられています。

詳しくお知りになりたい方は、彩杉るな女史の「ひもろぎ逍遥」若八幡神社「若八幡神社(1)妹を殺された夏羽は…」ほか数編をお読み下さい。

ここでは、その一部を抜粋してご紹介いたします。


 若八幡神社(1)

福岡県田川市夏吉
妹を殺された夏羽は… ここには「日本書紀」の続きが伝えられていた


日本書紀の神功皇后の巻にこう書いてあります。

20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。皇后は側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。
25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。


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この話の舞台は福岡県の筑後地方です。
地元の伝承と日本書紀をまとめるとこうなりました。
仲哀天皇が殺された後、神功皇后軍は20日から羽白熊鷲と戦って勝利を収めた。
そして25日には田油津姫を攻撃するために小郡市上岩田の老松神社に布陣した。

青い陣営の内、中央にあるのがその老松神社です。
わずか一週間で二か所の敵を攻撃するのですから、
神功皇后を旗頭に据えた物部軍の勢いはすさまじいものです。
天皇を殺された怒りと屈辱に護衛隊は怒髪天を突くという状態です。
御勢大霊石神社の伝承によると、
仲哀天皇は「熊襲」の流れ矢に当たって死んでいます。
「熊襲」については付近に伝承が見つからないので、
「熊鷲」の事ではないかと私は思っています。
だから、羽白熊鷲を猛攻撃するのに躊躇が無かった訳です。
でも、どうして?
どうして田油津姫までも攻撃されなければならなかったの?
老松神社がその時の陣営だと知った時、新たな謎が生まれました。
それについて日本書紀には何も書いていません。
しかし思いがけず疑問はわずか二日後に解けました。
この若八幡宮にその原因と結末が伝わっていたのです。
それではまずは神社に行きましょう。
ここは田川市夏吉。気持の良い田園地帯を走ります。


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若八幡宮(田川市)


この神社の由緒書きは一の鳥居の所に大きく立てられていました。
それを読んで驚愕。

人皇第12景行天皇の熊襲征伐に際し、天皇を周防の佐波(今の防府市)まで出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。
「榊の枝に八握剣、八咫鏡、八坂瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した」と日本書紀には記されています。
年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)
それ以来、夏羽焼―夏焼とこの村が呼ばれる事になったのです。

夏羽(なつは)はこんな遠い所に住んでいた!
しかも、神夏磯姫(かむなつそひめ)の末裔だって?
あの景行天皇を迎えに行ったのはここからだった?
それに加えて田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした?
何故?どこに二人の接点はあるというのか?


現在、福岡県でも筑豊の田川市には「夏吉」(ナツヨシ)という地名があります。


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この地名は、逆賊夏羽を焼いた(ナツヤキ)と呼ばれていたものを、江戸時代に村名の「夏焼」を不吉として「夏吉(ナツヨシ)に改めたとされているのです。


それから127年後、神功皇后の御宇9(209)325日、 神夏磯媛の後裔にあたる夏羽(なつは)は、神功皇后の暗殺を企て、妹の田油津媛(たぶらつひめ)を援護するため軍勢を率いてかけつける途中、山門縣(やま とのあがた)【現在の福岡県山門郡瀬高町のあたり】で妹が敗戦したことを知り、夏羽(なつは)は館に逃げ帰り篭っていたところを追ってきた神功皇后の軍勢 に焼き殺されてしまいました。それ以来、その土地を夏羽焼(なつはやき)、夏焼(なつやき)とよばれるようになったそうです。江戸時代になって小笠原忠眞 が若八幡神社を参詣された時、不吉な村名の「夏焼」を「夏吉(なつよし)」に改め現在に至っています。

豊の散歩道~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michiより


 実は、この筑豊では有名な「夏焼」地名が、広島、山口、島根三県の県境が集中する寂地峡、山口県

国市錦町宇佐にもあるのですが、それは別稿とするとして、まず、この地名が筑豊から持ち込まれたものなのか?が問題になりそうです。


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この事を考える上で視野を少し広げると、この「夏焼」地名がある徳地町引谷は佐波郡であり、佐波川が流れているのです。

 「日本書紀」(景行紀)には、熊襲を征伐するために景行128月、天皇自ら西に下り、周防国の娑麼(サバ=山口県防府市付近)で神夏磯媛と接触したとあります。媛は佐波で生まれ、周防灘一帯を治める女王だったと思われのですが、その後裔が夏羽であり田油津姫だった可能姓があるのです。

 綾杉女史も、そのように考えておられるようです(以下)。


左の緑の丘が若八幡神社。主祭神は神夏磯媛(かむなつそひめ)。
神夏磯媛は夏羽から見たら、母か祖母に当たると思っています。
正面の山が香春岳の三山です。

さて、るなにはよく分からない謎がありました。

神夏磯姫は夏吉地区を開発した女神なのだけど、採銅所は香春岳の向こう側にあるので、姫が銅開発に関わったのかどうか、分からないままなのです。
 多分、神夏磯姫は佐波出身の姫で、景行天皇に無理矢理、この地域の長に据えられたのだろうと考えるようになっています。
 景行天皇は筑紫の女王たちを複数、殺しているらしく、夏羽の妹の田油津姫の終焉地とされる山門郡(みやま市)では、葛築目(くずちめ)という女王を殺しています。
 神夏磯姫が景行天皇をまつろわなかったら、多分、葛築目と同じ目にあっていたことでしょう。
 そんな背景があるから、夏羽は朝廷に恨みを持ったし、田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした。


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「ひもろぎ逍遥」若八幡神社(4)神夏磯姫の哀しみより


「この地名が筑豊から持ち込まれたものなのか?が問題になりそうです。」と前述しましたが、まず、周防の「夏焼」地名が熊襲と考えられる夏羽に拘わるものだっ たとして、単純に考えるとしたら、夏羽が神功皇后に殺されて以降、「夏吉」と改められる以前の地名が「夏焼」である以上、普通は、神功皇后の時代以降、西 (田川)から東(徳地)に持ち込まれたものと考える事は許されるでしょう。

そして、徳地の西、山口市の東の仁保に大量の筑豊、豊前、筑前に対応する地名が認められる事から、物部氏(もしくは熊襲)の追放、逃亡に拘わるものと考える事まで可能かも知れません。

そして、彩杉女史がお考えの様に、この一帯が神夏磯媛の領域と考えれば、夏羽の一族の故地(先祖の出身地)とも思えて来るのであり、だからこそ、亡ぼされた夏羽の一族が逃亡して戻って来たとも思えて来るのです。

いずれにせよ、香春岳の一帯は豊前であり、この周防、長門も豊田、豊北の地名が残る関門海峡を挟んだ豊の国だったのです。

しかし、まだ、結論を出すのは早そうです。ここでは対応する地名がある事だけを確認し、今後も調査することにしましょう。話は変わりますが、もう一つ思いついた事があります。

 それは、周防の「夏焼」地名がある「引谷」(ヒクタニ)です。

 景行天皇、仲哀天皇に関係する土地柄だけに、この「引谷」という変わった地名も、日置、比企 疋野氏大神比義氏に関わるもののように思えるのです。

 百嶋神社考古学では、これも、熊本県玉名市の疋野神社(贈考安天皇~贈景行天皇)に端を発する氏族と見なします。

してみると、この「引谷」地名は征服者側が付けたもののようです。この徳地町の隣の市である周南市の徳地町との境にも「夏切」地名がある事もついでにお知らせしておきます。


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疋野神社(ひきのじんじゃ)は、熊本県玉名市に鎮座する神社である。延喜式内社で、旧社格は県社。

創建年は不詳であるが、社伝によれば景行天皇の九州巡幸の際に祀られたという[1]

平安時代の「続日本後紀」には承和7年(840)官社に列せられたとある。「延喜式神名帳」に記される肥後国四座のうちの一座であり、熊本県内において最も古い神社の一社である[2]

当時、この地方の豪族であった郡司日置氏(へきし)の守護神として崇拝されていたが、日置氏の没落後には衰退し、社殿の跡さえ不明になった。近世になり再興され、熊本藩細川氏は厚い崇敬をよせた[3]

主祭神 - 波比岐神(はいきのかみ、はひきのかみ)、製鉄の神

配祀神 - 大年神(おおとしのかみ)、五穀豊穣の神

「ウィキペディア」20151009 1430



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