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スポット025  “新著のご紹介” 太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池 / 中原 英

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スポット025 “新著のご紹介” 太古の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池 / 中原 英

20160215

久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


久留米地名研究会のサテライト研究会の一つ、菊池(川流域)地名研究会中心メンバーである中原 英先生の新著が公刊されました。


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2000円+税


まず、皆さんは「肥後の北部丘陵一帯に巨大な淡水湖があった!」などと言えば本気になさるでしょうか?

ご存知の通り菊池、山鹿、植木、泗水一帯には巨大な平野が広がっています。この大きな平野は湖底での水平堆積によって成立した可能性があるのです。

もちろん、恐竜が暴れていた中生代とかいった話ならば、日本列島の形状も全く異なっていたはずですしどのよ うなことでも考えなければないでしょうが、そのような何百万年、何千万年前といった地球物理学的な時代の話ではなく、私達から数えて百~二百代ほど前のご 先祖様の時代、凡そ二五百~三千五百年前辺りの縄文から弥生への移行期といった時代の話なのです。

まず、肥後熊本はお米がたくさん取れる豊かな土地…といった印象を持たれる方は多いでしょう。

しかし、この“肥後は米どころ”というイメージには多少の誤解があるように思えます。

肥後がありあまる程の農業国家、農業大国になったのは、戦国乱世が収束しその国力の全てが清正公に象徴される干拓(横島干拓や八代以北の不知火海の干拓)や潅がい施設の整備による農地開発(城造りの加藤清正は、一面、「農業土木」の創始者とも言われます)に振り向けられるようになったわずか四百年ほど前からの話でしかなかったのです。

平均海面が五メーター近く上昇したとされる縄文海進を想定しても良いのかも知れませんが、さらに遡ること五百~千年前の肥後を考えて見ましょう。

まず、もしも、海岸堤防や河川堤防が存在しないとすれば、現在でも熊本市のかなりの部分に水が入るように、洪水時の河川氾濫はもとより、高潮や台風による海水の進入する地域が広範囲に拡がることはご理解いただけることでしょう。

ましてや河川堤防、海岸堤防など全く存在しなかった時代、熊本市中心部一帯には巨大な湿地帯(感潮地帯)が広がっていたのであり、周辺の丘陵地にしてもその大半は阿蘇外輪山延長の溶岩台地に過ぎず稲作不適地だったはずなのです。

例えば、熊本市の東隣りの町、旧菊池郡大津町といえば熊本インターから阿蘇に向かうバイパスの通る所ですが、観光シーズンには大渋滞を引き起こす場所として誰でもご存知のところです。

こ の一帯も火山噴積物、火山灰が堆積した丘陵地であり、雨が降っても直ちに地下に浸透するために、とてもまとまった水田など開くことができず、稲の取れると ころではなかったのです。今でも水の大半は湧水で有名な水前寺公園、江津湖、八景宮といったところで湧き出しているのです。そのため加藤はこのような場所 に何本もの用水路を築いています。

ただ、全てがそうであった訳ではなく、白川に近い川沿いの細長い崖下の一帯では方々から湧き水が染み出し、小規模ながらこれらを頼りとした(実は天候に左右されず最も信頼に足る水源なのですが)稲作が古来行なわれ、成立した集落を繋ぐ形で古街道が置かれてもいたのでした。


しかし肥後は米どころだった


しかし、加藤領以前の中世においても、やはり、肥後は米どころだったのです。それどころか、実は九州最大の穀倉地帯でさえあったのです。

ここで南北朝騒乱期を考えて見 ることにしましょう。九州に住む人ならば、菊池武光、菊池武時を始めとして、一時期大宰府をも占領し北部九州一帯を支配下に置いた菊池氏のことは良くご存 知でしょう。この菊池氏の力を支えたものこそ、山鹿から菊池に広がる巨大な平野の生産力だったのです。

まず、戦中派の方ならば、「菊池米」と呼ばれた極上の献上米があったことは良くご存知でしょうし、この穀倉を押さえることができたからこそ、南朝方(宮方)として戦った期間を含め、数百年に亘って九州中央部に磐居しえたのでした。

では、山鹿から菊池へと広がる丘陵地は何ゆえ米が取れるという意味での穀倉地たりえたのでしょうか?これこそが今回のテーマなのです。


山間の平地はどのようにしてできたのか?


昔から不思議に思っていたことがあります。山間僻地を旅していると、急に開けた平地、平野に出くわす事が良くあります。もちろん、平らな土地は通常水田地帯になっていますが、このような平地がどのようにしてできたかが良く分かりませんでした。

一 定の傾斜を持った山裾が水田に変わっていくことを考えると、はじめに木が切り倒され、焼畑が行われるでしょう。何度も何度も焼畑が繰り返され、いずれ常畑 (定畑)に変わり雑穀栽培などが行われます。そして、さらに有利な作物、つまり、稲が伝わると、雑穀の一部として陸稲として稲を作ったかもしれませんが、 いずれ、水を引き入れ灌漑が施されると階段状の棚田が形成される事になるのです。ただ、それによっても全体の傾斜に変化はなく、一度、水田ができると地形 の変化は進まず固定します。つまり、このことによっては、依然、平地や平野は形成されないのです。

考えられることは、水による土砂の堆積以外にはありません。

仮 に大規模な渓谷で大洪水が起こり、大きな石が川筋を塞いだとしましょう。一度塞がれると、さらに多くの石が詰まるようになり自然のダムが形成されるように なることもあるでしょう。当然、水が溜まり、土砂が堆積することになります。重い石や砂は下に、粒子が小さな泥は上に溜まりますから、湖の底には平らな泥 底が造られることになるのです。

その後、地殻変動、地震などによって流路が造られると平地が地上に現れることになるのです。このようなことが大規模に起こったものが山間の平野であると考えられるのです。

そして、実際、山間の小平地の大半は大きな洪水、氾濫の結果生み出されたものと考えられるのです。

阿蘇は巨大なカルデラであり、古くは水が溜まっていたはずです。その水が抜けたものが阿蘇の平野と考えれば、このことが良く分かると思います。このように考えると、災害とは人間の生活基盤を奪うと同時に生活基盤を創っている事が良く分かります。

俗にエジプトはナイルの賜物と言われますが、それは、同時にナイル川の氾濫による水平堆積の賜物でもあったのです。


なぜこのような台地にこれほどの平野が存在するのか?


今でも月に一度は菊池、山鹿、玉名方面に足を伸ばしていますが、三号線で南に向かい、鹿北町辺りに来ると、山鹿から菊池、植木方面へと広がる巨大な盆地の中に凡そ標高五十メートルのところに圧倒的な広さの平野、従って水田が存在することに以前から疑問をもっていました。

特に、三号線上にも寺島、南島 という地名が直ぐに拾え、山鹿市周辺にも中島、底原、浦田、熊入(山鹿市)、といった地名が拾えるのです。この傾向は菊鹿盆地全体にも見られ、鹿本町の小 島(小嶋)、菊鹿町の島田、七城町の水島、高島、内島、蟹穴、蘇崎、小野崎、山崎、瀬戸口、鹿央町の水原、春間、植木町の平島、舟島、田底、泗水町の田 島、南田島、菊池市の迫間、西迫間、野間口、亘、といった海か湖、湖沼の縁を想像させる地名が拾えるのです。

このことだけからでも、かなり 古い時代、この地に巨大な川か湖が存在したことが想像できるのですが、特に際立つのが平島と田底です。まず、温泉ファンならば植木温泉の旧名が平島温泉 (戦後しばらくまでは通用していたはず)であったことは自明ですが、特に驚いたのがその裏口ともいうべき場所にある田底という地名です。現地をしょっちゅ う通っているのですが、農協の田底支所といったものが堂々と建物を構えています。谷底という言葉は今でも通用しますが、この地名に始めて遭遇した二十年程 前、“「田底」とは一体何だ…”と考えたことが今でも頭に浮かんできます。どのように考えても“住んでいる場所は少し山手のところだが、今、耕している自 分たちの田んぼは、昔、うみの底だった…”といった地名に思えるのです。

これらの地名は通常の道路マップで十分に拾える程度のものですが、1/250001/10000程度の地図、古字図や字図などを詳細に調べればさらにもっと興味深い地名が浮かんでくることでしょう。

まだ、基礎調査の段階ですからその作業は今後の課題として、私自身の作業としては別のアプローチを考えて見ます。


中原、堤想定 “古代茂賀の浦の発見”


ここで遭遇したのが中原、堤研究でした。二〇〇五年に菊池市で開催された菊池市文化講演会・第18回熊本地名シンポジウムにおいて、この驚愕の研究が発表されたのですが、その概略を説明しておきます。

菊池市の中原英氏は七城町の林 原露頭断面などの地質学的な調査を行なわれ、花房層と林原層と名付けられた堆積層の中に下層部から黒砂・軽石礫混じり・砂・粘土・川砂利などの順になった ものを発見されたのです。このような現象は湖沼などの中で起るいわゆる水平堆積を示すものなのですが、中原氏はこのような現象は把握できる範囲で過去三度 起ったと想定されています。花房層の研究から一回目は12万年前と9万年前の間、第二回目が現在の菊鹿盆地の南側に広がる花房台地を湖底としたもので、

9万年前から5万年前までの間のAso.4層の上部、そして第三回目が問題の茂賀の浦で、中原研究では5万年前の地殻変動によって花房台地面と菊鹿盆地面の間に40メー トルの段差が生じ、そこに茂賀の浦が生じたとされているのです。問題はその時期ですが、花房台地の堆積から推定し、少なくとも二、三万年前から六〇〇〇年 前までは存在した(これはそれ以降の新しい時代まで残っていたことを否定するものではないという意味と理解しますが)と考えられているのです。この六〇〇 〇年前という数字は非常に重要で、一般的には縄文時代の真っ只中とされているものに重なってくるからです。

 では、少なくとも縄文時代の中頃までには存在した巨大湖“茂賀の浦”はいかにして消失し、現在の巨大平野に変わったのでしょうか?

 一方、菊池市教育委員会の堤克彦氏(文学博士)は『鹿郡旧語伝記』所収の「大宮社古記」の「茂賀の浦」(北境ノ湖・北境ノ沼)の八龍大亀伝 承、崇神・景行天皇の蹴透伝説などから茂賀の浦の伝承を回収されるほか、菊鹿盆地一帯の縄文遺跡、弥生遺跡の空白地帯を発見されたことから、その分布図を 中原研究の茂賀の浦と照らし合せ、その完全な一致から茂賀の浦とその変化を発見されると同時に、縄文期から弥生期にかけて縮小したことまでも証明されたの です。

 証明の切り口は単純です。言うまでもないことですが、通常、湖、沼、川には遺跡は存在しません。それは水中遺構は別として、通常人は湖には 住み着けないことから、頻繁に河道が変遷する場合とか大規模な地震などによって急激な水位の低下などがない限り、住居址、生活遺構、墓跡といったものが存 在しないのです。もしも、長期にわたって湖が存在したとすれば、その外周部に遺跡が残ることになり、逆に、遺跡が存在しない部分こそ湖であったことになる のです。同様に湖が縮小してきた場合には、外側に縄文、弥生遺跡が、内側に弥生だけが残ることになるのです。さらに、面白いことに、弥生時代にも、なお、 縮小した弥生の茂賀の浦が存在したようで、その中には弥生の遺跡は痕跡を留めていないのです。

と、すると、弥生期から古墳時代にかけて何らかの変化が起り(変化を起こし)、水が抜け(水を抜き)、田底三千町と呼ばれた巨大な水田が生まれ、後の条里制へと繋がったと見るのです。


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