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266 ついでに宮崎県延岡市の永尾(エイノオ)地名をご紹介します

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266 ついでに宮崎県延岡市の永尾(エイノオ)地名をご紹介します

20151117

久留米地名研究会 古川 清久


四国の高良神社(徳島、高知)実踏を終え、フェリー・ボートで佐田岬から佐賀関に戻り、その日は延岡に泊まったのですが、翌朝、日田の研修所に戻るため10号線を北上しました。

しかし、ここ(北方町)にも永尾(エイノオ)地名があることは二人の了解事項です。

当初、河川改修による巨大堤防建設に よって、ここには明瞭な永尾地形が失われている事から、公開する事を憚っていたのですが、この地にも古代三陵の一つである可愛(エノ)陵が置かれている事 から、鹿児島県薩摩川内市新田神社境内の可愛(エノ)山陵との整合性から報告しておく事にしたものです。

しかも、上天気ですので、ついつい、良い写真が撮れると拍車が掛ってしまったのでした。


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カーナビ検索 宮崎県延岡市北川町俵野


可愛岳からの支流が北川に注ぎ、古代には河川邂逅部=河合、川会に永尾地形が形成されていたと考えられます。

ここが、薩摩川内市新田神社正面と同様に川会(カアイ)の永尾(エイノオ)=可愛(エノ)と呼ばれていただろうことは疑い得ません。

ご存知の通り、高山彦九郎の功績もあり古代三陵の調査が行われ、明治の初期に鹿児島、宮崎、両県に三つずつ、ニニギ陵、ウガヤ陵…が指定されています。

その背後に、初期の明治政府を支えた島津(薩摩藩)の政治的意図が存在した事も間違いないことでしょう。

ただ、その実体としては、南九州にも普通に数多く存在した永尾(エイノオ)=釜蓋(カマブタ)地名が存在し、その一つを各々可愛(エノ)と呼び、この地こそ間違いない可愛山陵だったと強弁したものに違いないと思われます。

宮崎のインチキ神話については百嶋由一郎先生から何度も聴かされていましたが、この点からも明治期の神社行政、神話流布の底の浅さを考えざるを得ないのです。

といえば、立腹した振りをされるでしょうが、では、何故、宮崎、鹿児島に各々三陵を二つずつ割り振ったのかお聴きしたいものです。

まさか各々分骨されていたなどとはおっしゃらないとは思うのですが……。

さらに言えば、河合(カアイ)、川会(カアイ)の永尾(エイノオ)と呼ばれ、「好字令」以降、「可愛」と表記された可能性を否定できないのです。


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朝日で良く見えませんが、正面が北川で、右の制水門が江永尾地形の先端部の合流する俵野(ヒョウノ)谷川の痕跡です。


以下参考 「ひぼろぎ逍遥」205 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”⑤


このように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

お 分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイントは交 通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可 愛」を「エノー」と呼ぶようになったのです。そうです、「可愛」も永尾地名の一つなのです。

では、可愛を紹介します。


「可愛」の「えの」


ニニギと言えば、天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命の子とされ、「古事記」「日本書紀」ともに登場し、瓊瓊杵尊などと書かれる日本神話のスターですが、降臨後、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火照命(海幸)や彦火火出見尊(山幸)を生んだとされています。

そして、この山幸の孫が神武天皇になるのですが(あくまで通説に沿えばであり、百嶋神社考古学はそれを認めません)、ニニギは、亡くなった後「可愛山陵」に葬られ、それは「エノ」と呼ぶとされています。

もちろん、普通は「可愛」を「エノ」と読むことは出来ません。ただし、そこがどこかはともかくとして、地元では読んでいた可能性はあるのです。

これまで見てきたように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

これについては誰しも疑問に思うようで、例えばネット上の有力サイト「古代文化研究所」も次のように書いています。


○古事記・日本書紀・万葉集で、「可愛」の表記が存在するのは、日本書紀だけである。それも使用されているのは二カ所に過ぎない。
● 一つは伊弉諾尊と伊弉冉尊の國産み神話の箇所である。伊弉諾尊と伊弉冉尊が國産みをする時、日本書紀本文には「可美少男」「可美少女」とある。日本書紀一 書(第一)に「可愛少男」(2回)「可愛少女」(2回)とあり、その後に、「可愛、此云哀」とあって、「可愛」は「哀」と読むことを注記している。また、 日本書紀一書(第五)には「善少男」とある。さらに、日本書紀一書(第十)に「可愛少男」とある。ここに、日本書紀の「可愛」の表記の6例が存在してい る。
●分かるように、「可愛」はまた、「可美」や「善」とも表記されているわけであるから、「うつくしい」とか、「立派な」「好ましい」などの意であると判断される。
● もう一つの用例は、天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵を「筑紫日向可愛(此云埃)之山陵」としている箇所になる。ここにも日本書紀は本文の他に、一 書が八つも並記されているが、山陵名が記されているのは日本書紀本文だけである。日本書紀編纂の時、多くの記録がその山陵名を失っていた可能性も否定出来 ない。かりに諸書に山陵名の記録が残っていれば、日本書紀の通例であれば、並記されているはずであろう。
○これが古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例である。わずかに7例があるに過ぎない。それも極めて重大な場面での使われ方をしている。だから、古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例は極めて特殊な表記であることが分かる。


もちろん、水戸光圀公であろうが、本居宣長先生であろうが、「可愛、此云哀」については古来「エ」と呼び習わしていたからこそ、岩波書記も「エ」と振り仮名を付しているはずです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」「エイノオ」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

お 分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイント(必 然的にエイの尾形の地形を形成する)は交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾 (エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼び習わすようになったのです。つまり、「可愛」も永尾地名なのです。では、その「可愛」を紹介 しましょう。

もちろん、九州王朝論者にとっても、ニニギの墳墓は降臨地ではないのであって、薩摩川内にあっても一向に構わないのですが、それからすれば、先にご紹介した東区の多々良川流域の江辻山も候補にはなるかもしれません。

また、既に故人になられましたが、熊本に平野雅廣(廣の左に日)という孤高の九州王朝論者がおられました。

氏の著書「火の国倭国」他(五著)には山鹿市菊鹿町相良(アイラ)をウガヤフキアエズの陵とする有力な説があることも掲載されていることをお知らせしておきます(相良観音で著名)。


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