267 四国と言えば金毘羅山に初参拝
20151119
久留米地名研究会 古川 清久
「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)で連載している四国(徳島)の高良神社調査に多少の合間ができたことから金毘羅神社に参詣しました。
このような人がたくさん足を向ける観光地、寺社仏閣に足を向けないのが古川定石ですが、せっかくのチャンスがあるにも関わらず一見もすることなく批判するなど愚かでしかない事から、同行者の元学芸員氏も初見との事で、始めて参拝、参詣する事にしました。
駐車料金を払う気はないので、休みだった事もあり少し離れた銀行の駐車場に車を駐車し往復で一万歩になる物見遊山が始りました。
朝も早かった事から参詣客も少なく、静かな通りを抜け延々と700段の階段を登る参拝が始りました。
では本殿の参拝殿、神殿をご覧いただきましょう
神殿の造り方は交差したそれ物部氏の神殿ですね
本殿で最も印象深かったのは金属製(真鍮製か銅製か分かりませんが)の立派な灯篭でした。
神紋としてはっきりと「梶紋」が打たれていました。
金毘羅神社の祭神については、依然から疑問が呈されており、誰が祀られているのかについて争いがあります。皆さんたちも、結局、誰が祀られているかは分からないままになっていないでしょうか?
明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。
ウィキペディア(2015 1119 15:00)
結局、「大物主」とは誰なのか?ということになるのです。敬愛する「玄松子」氏も「大物主」を「大国主」とされており、それはそれで良さそうなのですが、百嶋神社考古学では「大山咋」=佐田大神=日吉神社=日枝神社=松尾神社…とします。
百嶋先生は、「結局、金毘羅さんは大山咋命(子は第10代とされた(贈)崇神天皇)を祀っている」とされていました。
これが、「金毘羅神社の祭神が」という意味だったのか、「金毘羅神社の祭神を大物主とした上で祭神が」大山咋命とされていたのかは、まだ確信が持てません。
勿論、初見の段階で結論を出すことなどできませんが、とりあえず分かる範囲でお話しておくものです。
この解読には文献と併せ多くの境内に鎮座する摂社を考察する必要があるようです。
いずれにせよ、明治までは「コンピラフネフネ…ゾズ(象頭)サンコンピラ(金毘羅)大権現…」のとおり、神仏習合の金毘羅大権現が祀られていたのであって、「大国主」が分離され(まさか一から大国主とされたとは思えませんので)主神とされたはずなのです。
このため、ここでは幾つかの境内社を見て頂く事にしておきます。
これによって、明治以前の金毘羅神社の形が幾らかは見えて来ることでしょう。
祓戸神はイザナギの子ではありません この四神は速秋ツ姫=豊秋ツ姫(高木大神の娘で拷幡千々姫の姉)、気吹戸主神(金山彦)、瀬織ツ姫(櫛稲田姫)、速佐須良姫(鴨玉依姫)なのです
半ば説明不要ですが、天御中主命は神皇産霊神=大幡主命の伯母さんなのです
大年神は、実は阿蘇の草部吉見神、御年神は伊勢の豊受大神と草部吉見神との間の子、若年神は不明ですが多分、御年神の子で大足彦(実は景行天皇)と考えています 勿論、大年神はスサノオの子ではなく甥
これは分かりでしょう 事知主命のことですが、本当は大国主命の子ではないのです
これらは全て金毘羅さんの関係者だと思われます。神紋は梶紋、楢紋のどちらでも良いでしょうが、ユダヤのメノラーの変形と考えて良いでしょう。
神紋は宗像大社と類似しています。百嶋神社考古学では宗像大社の本当の祭神を大国主命としますので、これは、表向き大国主を祀っているという事と対応しています。
また、摂社を廃された神と考えると、スサノウ、クシナダ姫が祀られている事は良く分かりますし、
さらに言えば、大年神、御年神は神武天皇に逆らったスサノウの子の長脛彦の子の姉のオキツヨソ足姫の子ですので、古くは、スサノウ系の神社であった可能性が考えられそうです。
今のところここまでしか分からないのですが、百嶋由一郎最終神代系譜の民族分布のどのあたりに同社が位置しているかの見当が多少付いたところです。
※画像クリックで拡大表示されます
黄色い枠で囲ったのが、本宮、摂社、境内社の神々です。そして、青い枠で囲っていますが、その中心に居るのが、百嶋先生が主神であろうとされた大山咋神です。
神代系譜は全て姻戚血縁に基づいて書かれていますので、関係者の神々をマーキングすれば、自ずと主神が焙り出されてくるのです。ついでに言えば赤い枠で囲ったのが現在の主神である大国主命なのです。