301 肥後に清少納言のお父さんの神社があるのをご存知ですか?
20160310
久留米地名研究会(編集員)古川 清久
清 少納言については説明する必要も資格も能力もありませんが、肥後に彼女のお父さんを祀る神社があることをご存知の方はそれほど多くはないのではないでしょうか?
まず、「セイショウ ナゴン」ではなく、「セイ ショウナゴン」と呼んで頂きたいのですが、それはともかく、この平安の大歌人(九州王朝論者の一部では彼女が、本当に平安期の人かどうかさえも疑っているのです)のお父さんを祀る神社がJR熊本駅の付近にあるのです。
新幹線乗り入れにより昔の風景が一変しつつありますが、北岡神社の裏手の直下といった一角に清 少納言の父とされる清原元輔を祀る小さな神社(祠)があるのです。
肥後に清 少納言…とは違和感を覚えられる方もおられるかも知れませんが、事実、肥後国司として赴任する父に同行して海路(宇土半島北岸沿い)を通り隈本に来る前に見た小さな島を詠っているのです。
以下は、七年ほど前に久留米地名研究会のトレッキングとして宇土の馬門石の採掘現場などの探訪を行った際に準備したサブ資料の一部です。
北岡神社が未踏の神社であった事から今回、同社と併せ清原神社をお知らせする事にしました。
有明海の名島たはれ島
島原の乱の談合島を除けば、島などないと思われている有明海ですが、宇土半島の北、海上保安庁が島原湾と呼ぶ有明海に、「枕草子」「伊勢物語」に讃えられた美しい島があることを知る人は少ないかもしれません。
フィールドワークの友として新潮社のカセット・ブック を愛用していますが、このシリーズにも「枕草子」「伊勢物語」があり、この「たはれ島」のことは知っていましたが、具体的にどこの島であるかは気にも留め ていませんでした。そのような中、読売が仕掛けた「大王の石棺」馬門石(ピンク石)搬送キャンペーンに違和感を覚え、現地の馬門に入り、住吉神社に訪れた のは、八年も前のことでした。
石棺の搬送と住吉の神に関係がないはずはないと、往古の住吉島山頂に鎮座する住吉神社に行き宮司から話を聴くうちに、ようやく「たはれ島」のことに気付いたのでした。
言うまでもなく、清少納言の父は平 清盛同様、肥後守に就いていますが(肥後で客死し神社まである)、少納言を連れて赴任する際、この沖を通っていたのです。
父について船から見た景色がよほど印象に残ったのでしょう。それが「枕草子」に記録されていたのです。
有明海から肥後に入るとして船を利用するとすれば、満潮を利用し宇土半島の直ぐ北を東に進むのが合理的ですが、当然、益城町の津守神社辺りに着いたのでしょう。
では、彼らは宇土半島北岸の有明海にどこからやってきたのでしょうか。
私には長崎から野母崎を廻り千々岩経由で宇土を目指したとは思えないのです。
満潮に肥後隈本に上陸しなければならないとすると、諫早の船越の駅(延喜式)を経由し、潮が引いていても船が出せる諫早の本名川辺りから船を出し、右回りの満ち潮を利用し古隈本湾に入ったと思うのです。
当然、大王の石棺(阿蘇ピンク石石棺はもとより、氷川、菊池川水系石棺も含め)もその逆ルートで有明海から畿内に搬送されたはずなのです。
古典文学を扱うサイトhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7257/tabakojima.htmに以下が出てきます。何度も訪れ写真も撮っているのですが、なぜか、天候に恵まれず、なかなか良いものがありません。このためあまりにも良い写真でしたのでついつい使ってしまいました。(以下)
中央に風流島(たわれ島)
引き潮時の有明海のたはれ島
遠くの山は金峰山 住吉灯台から見た たはれ島 土地の人は「たばこ島」と言っている
枕草子188段に
島は 浮島。 八十島。 たはれ島。みづ島。松が浦島。まがきの島。豊浦の島。なと島。
と書かれていますが、たはれ島は 現在たばこ島といわれ 風流島と書きます。
その島が有明海の住吉灯台の先に見える無人の小さな島です。
浮島は塩釜湾中の島
たわれ島は熊本県宇土市の有明海の島
みづ島は熊本県八代市
まがきの島は松島の中の一島で塩釜の浦の沖にある
豊浦の島は山口県下関市
下の島のうち、風流島とみづ島の位置は正確ですが他の島は正確ではないかもしれません。
伊勢物語 61段 染河
むかし、 男、 筑紫(つくし)までいきたるけるに、「これは、色好むといふすき者」とすだれのうちなる人のいひけるを、聞きて、染河を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ
女、 返し
名にしおはばあだにぞあるべきたはれ島浪のぬれぎぬ着るといふなり
昔、男が、筑紫(筑前、筑後 又は九州一円をも言う)まで行った時に
「これは色事を好むとうわさの高い風流男ですよ。」と簾(すだれ)の中のにいた女がいったのを聞いて歌を詠む。
染河をを・・・・・・(筑紫へ来れば染河を渡ることになりましょうが、
この河を渡る人は、どうして色に染まるということなしにおられましょうか)
女が返した歌
名にしおはば・・・(たわれ島だって「たわれ」などという名を持っておりますなら、浮気のはずでございましょう。でも、それは打ち寄せる浪にぬれて濡れ衣を着ているのだと人が申しておりますよ)
(注)
染河をわたらむ人というのは業平のこと?染河・・・染河は福岡県にあり大宰府後の近くを流れる。
後撰和歌集
たはれ島をみて 名にしおはゞあだにぞ思ふ戯れ島浪の濡衣いく世きつ覽 (以上)
同様に、住吉神社が置かれた小山も干拓によって宇土半島と繋がったもので、ここからの眺めも秀逸です。この写真も
というサイトhttp://imagic.qee.jp/sima4/kumamoto/tabakojima.htmlから借用させてもらいました。(以下)
熊本県の島>>風流島(たばこ島)/たはれ島
風流島(たばこ島)/たはれ島
平安歌人も知る孤礁
住所/熊本県宇土市住吉町
周囲/約80m
人口/無人の岩礁
アクセス/熊本市内から車で約40分
[JR三角線]熊本駅→住吉駅(23分)→徒歩15分
宇土半島の国道57号線を天草方面へ向う時に、最初 に海が見えてくる辺りを住吉と言います。海に突き出た小高い杜の上に祀られている住吉神社が地名の由来です。神社がある小さな半島はアジサイの名勝として 知られる住吉自然公園で、アジサイの花が咲く頃にはたくさんの人が訪れます。そしてここから海を眺めて最初に目に付くのが風流島(たばこ島)です。
地図には風流島(たばこ島)とあります。地元の人は“たばこ島”と呼んでいるようですが、平安時代には“たはれ島(たわれ島)”と呼ばれていたようです。
島というより岩場で、周囲が0.1kmに満たないために「日本の島数」には数えられませんが、平安時代の伊勢物語や枕草子にも登場するという存在感のある島(岩場)です。
伊勢物語は平安初期に作られたもので、その第61段に男に対する女の返歌として「名にしおはば あだにぞあるべき たはれ島 浪の濡れ衣 着るといふなり」とあります。
枕草子は平安中期に清少納言によって執筆されたものだと言われています。その中の第190段に「島は 浮島。八十島。たはれ島。水島。松が浦島。籬の島。豐浦の島。たと島。」という行があり、いわゆる“ものはづくし”の章ですが、“たはれ島”も趣のある島の中に含まれています。
たはれ=たわれ=戯れ=遊ぶ=好色=風流となるのだと思いますが、どうしてこの岩場が“たはれ”なのでしょうか?波と戯(たわむ)れていたからでしょうか? さらにどうして“たばこ島”なのでしょうか?横から見ると煙草のキセルに見えたからでしょうか?
昔から移動手段として船はよく使われていましたが、有明海を航行するときの目印になっていたのでしょう。何時建てられたのか分かりませんが、大岩のてっぺんには小さな鳥居があったりして、やっぱり風流島は趣きのある島です。(以上)
ただ、否定する異説もあることから判断は皆さんにお任せしましょう。
清原元輔という名の国司を祀る神社が鹿児島新幹線熊本駅から5~10分ほどの所に清 少納言の父とされる人の神社があることをお知らせしておきます。
清原神社
清原元輔は、肥後の国司として寛和二年(986)から正暦元年(990)までの間肥後を治めていました。清少納言の父でもあり、三十六歌仙に数えられるほどの歌人でまた当時の肥後の歌人桧垣とも交流があったと伝えられており、鼓ケ滝や藤崎宮の歌等が家集に残っています。正暦元年に亡くなったときは八十三才
でした。
≪平成十年九月 熊本市≫
鎌倉時代に書かれた『無名草子』などに、「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする古伝があるが、実証する一級史料は現存しない。檜垣嫗自体が半ば伝説的な人物であるうえ、元輔が檜垣嫗と和歌の贈答をしていたとされるのは最晩年の任国である肥後国においてであり、清少納言を彼女との子であるとするには年代が合わない。
天延2年(974年)、父・元輔の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』における船旅の描写は、単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。