231 自ら観光資源を破壊する鹿児島県
20070314(20150812再編集)
久留米地名研究会 古川 清久
本小稿は「有明海臨海日記」に掲載予定で十年ほど前に準備したものでしたが、結局オンエアすることなくお蔵入りしていたものです。パソコンの整理をしていて見つけ出したものです。
時代遅れの感は否めませんが、佐賀県内の地方自治体職員として在職中に書いていたものです。
地方公務員が公務員を辞めると痴呆(地方)だけが残ると言われますが、現在、その防止のためにブログを書き続けている訳です。
技術的な問題だけで出さなかったものですが、今回、多少の修正校正を加えて陽の目を見せてやったことになります。
まさに、日本の「列島」民族のやることには呆れかえるばかりです。
グーグルアースでも破壊の跡が多少は確認できます
環境問題を書き続ける
いまさら環境問題を書き続けることの意味を考え直したからといって、何らかの発展性を見出せる訳もないのですが、正直言って痛快さと苦しさが同居しています。
快感としても、緊張感を伴うものであり、文字どおり痛みが同居しているのです。
確かに痛快ではあるでしょう。戦前ならば差し詰め軍部が相手なのですから(国土交通省は最早国家内に存在する関東軍のようなもので既に制御不能になっているようです)、それを相手に批判する事に多少の心地良さがあるのは先ずは“男子の本懐”といったところでしょうか。
しかし、虚しさも伴います。それは、何度も言うようですが、恐らく、今後も環境は破壊され続けられると予想されるからです。
しかも、仮に住民側が部分的に止めたり変えさせたりできた場合でも、それは一時的な勝利でしかなく、しばらくすれば、また、形を変えて忘れた頃に再登場して来ると思われるからです。
良い例が諫早湾干拓事業です。これは長崎県南部総合開発事業(南総)が一旦潰れた後に装いを変えて再登場してきたものでした。
こうなると環境保護運動とは事実上はモグラ叩きでしかなく、職業としてやっている行政の側が勝つのは当たり前の事となるのです。
民衆、住民の側には絶えず不公平なルールで闘いを強いられるのです。
しかも、一時的に止めるか、仮に元に戻す事が出来たとしても、高々、現状が保たれるといったものであり、所詮、環境保護運動とは現状維持的で保守的な運動でしかなく、全く未来へ向けた夢がないのです。
問題は、このような愚かな環境破壊が繰り返される本質、根本的な問題、その根絶、社会構造の変革に切り込まなければ一向に解決し得ない事になるのです。
従って、環境問題を書き続ける事は重要ではあるのですが、それは、ただの警鐘の乱打(むしろ“負け犬の遠吠え”か)に過ぎず、それ自体としては決して十分ではないのです。
一般の人が味方にならない
「CO2 温暖化仮説」という国家規模のデマに踊らされ一喜一憂する人は増殖しているのかも知れませんが、これは、むしろ環境に対する科学的な理解力の喪失の結果で あって、わずかに、魚付き林のために広葉樹植林を進めている人はいるものの、むしろ、自分の直ぐ回りにある海、川、山を巡る環境の問題に対して本質的な理 解力を持っている人は逆に減り続けているのではないかという考えを持っています。
さらに、都市部を中心に環境に対する本質的な理解力を持っていない人間は明らかに増大しているようです。
少 し考えれば分かる事ですが、パジェロやランクルで向かうところは海や山ではなく、パチンコ屋で、勝ったら回転寿司屋で、負けたら家でカップ麺などといった 馬鹿げた生活スタイルの人間がおよそ自然環境を理解し、ましてや、自然環境を守ろうと運動する事などありえないからです。
一 般的に自然環境の破壊に対する抵抗運動が存在しうる基盤は、その自然環境から直接的恩恵を受けている事、間接的にもその事実が目に見え、自然環境が大切で あるという自覚、認識が広範に存在している事なのであって、まず、第一次産業としての農業、漁業に依存する人々が減少し続けている事、都市近郊、農、漁、 山村においても、環境の悪化から自然に触れ合う習慣が喪失してくると、自然環境の保全の必要性、有難さ、その喪失への危機感も喪失してしまうからです。
このため、今後とも行政一般を問わず、自然環境の保全、回復へのベクトルは弱まり続ける事が容易に想像できるのです。
つまり、本ホーム・ページ(HP「環境問題を考える」のサブ・サイト「アンビエンテ」内“有明海諫早湾干拓リポート”「有明臨海日記」)が書き続け、訴え続けている内容が伝わらず、たとえ伝わっても理解されず、理解されないために不当な攻撃を受けるという事を覚悟しなければならなくなると言う問題です。