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231 自ら観光資源を破壊する鹿児島県

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231 自ら観光資源を破壊する鹿児島県

2007031420150812再編集)

久留米地名研究会 古川 清久


はじめに


余りにも酷く、醜く開聞岳の景観が大規模に破壊されているのですが、見た目にも痛々しい景観破壊の話をすることにします。

人目に晒されるものでは、開聞岳東岸の花瀬望比公園なる施設があります。

一応はレイテ戦を始め悲惨な闘いの犠牲者を鎮魂し祀る施設のつもりなのでしょうが、その参道に大量の御影石の灯篭を破壊的に並べているのです。

こ れは、現地を見られれば一目瞭然と言うべきで、公共事業として行われているとすれば、予算消化のつじつま併せで並べたとしか考えられませんし、鎮魂のため として別団体が置いたのならば、サギまがいの遺族への集金活動の結果その一部を特定の人間が懐に入れると言うものでしょう。

仮に一基百万としても百個で一億の消化、施工業者には全体で空恐ろしい金が転げ込んだ事が想像できます。

これはテトラ・ポッド(一応商品名ですが)も同様で、開聞岳裾野にある小さな港の防波堤の外への直接的投入の話もあるのですが、今回は間接的に破壊しせっかくの絶景、景勝地を損なう行為が平然と行われている事をリポートすることにします。


開聞岳を見たくない


南国鹿児島の象徴として良く使われるものに、桜島と開聞岳がありますが、この開聞岳の景観が決定的に破壊されているのです。写真を見れば一目瞭然でしょう。


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いかなる良心がこのようなデタラメな工事を行なわせるものなのか不思議でなりませんが、一旦、失われたものは容易には戻らないことは言うまでもありません。少なくとも私は二度と南薩に足を踏み入れたくなくなりました。


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このような施設がなぜ必要なのか全く理由が分かりません。


詳 しく調べれば直ぐに分かる事ですが、この手の工事は海岸を保全するという美名のもとに、主に県営(一部直轄事業もある)で行われるもので、かつては、農水 省構造改善局、旧建設省、旧運輸省それに農水省の漁港整備が加わった四つのセクター、四つの所管による県営の海岸保全事業として無制限に自然海岸が破壊さ れてきたものです。

 やるに事欠いて、とうとうここまでやるとは、正直言って信じられなかったのですが、開聞岳への直接的な工事ではないため良しとされたのでしょう。

ま ず、必要性ですが、この写真を撮影した場所も背後には百メートルの丘陵、松林、海岸性樹木が茂る十分な土地があり、ようやく、開聞温泉(国民宿舎かいもん 荘とは別)と言う掛け流しの共同浴場があるのですが(現在は閉館=廃業)、全く海岸が崩れていると言った危機的状況にもないのです。

恐らく最終的には四キロの海岸線がこのくだらない事業のためにテトラとコンクリートのパラペット(波返し)で埋め尽くされる事になるでしょう。

なぜ、これほどの無意味な工事が行われるのか不思議に思う方も多いでしょうから、あえて踏み込みますが、なんの必要性もない場所に大量の税金を投入して喜ぶ人間とは誰かを考えれば直ぐ分かることです。 

直接的に事業を受注できるマリコンと地場のコンクリート関連業者が潤う事は言を待ちません。

しかし、それを計画し発注したのは行政の人間であり、その最大の責任が鹿児島県にある事は言うまでもありません。 

やはり、それを発注したい役人がいるのです。それは、発注することによって良いことがあるからに外なりません。実際、発注した役人が潤う構造があるのです。

理由は簡単で、一般的に言われている事は、一部の役人達には発注した事業を手土産に良い条件の天下り先が確保されているのです。

逆に言えば、このような事業を発注し、便宜を図ってやらなければ良い条件で天下りできない構造があるのです。

鹿児島県には多くの離島があり、宮本常一が情熱を掛けた離島振興法に基づく多くの港湾建設事業が行われ、所謂マリコン大手が事業を抱え込んでいます。

この当時の県幹部もマリコンのどこかに再就職し自分だけは良い思いをしたことでしょう。

しかし、普通はやってはならない事業であり、観光資源を決定的に破壊するこのような工事はまずやらないはずなのですが、既に、事業を投下するべき場所がなくなっていることを示しているのです。

特に事業を発注する側の人間の節操のなさは信じられないほどで、彼等は自分達の幸せのために、素晴らしい景観を破壊して良しとしているのです。

たまたま手にした二〇〇六年一二月三一日付けの南日本新聞には、宮崎県の話ですが、県外観光客9年連続減という96年から05年棒グラフ付きの記事が掲載されていました。さらに南に位置している鹿児島県も基本的な構造を考えれば傾向は同様で、新幹線による浮揚もサーカス的なブームに過ぎない一過性のもののはずです。

指宿温泉の観光業者などはこの気がふれたとしか思えない事業をなんとも思っていないのでしょうか?

少なくとも私は二度とこの海岸線は見たくもありませんし、鹿児島観光からは足が遠のく事は言うまでもありません。


宮崎県の県外からの入り込み客数が九年連続減少し、十年前に比べ約百二十万人も少なくなったことが、宮崎 県の二〇〇五年観光動向調査で明らかになった。旧来型の「見る観光」から脱却できず、観光客の志向をとらえきれなかったことが影響していると見られ、県は 観光王国復活に向け、官民共同の観光地づくりを模索している。

二〇〇六年一二月三一日付け「南日本新聞」


自分の手で掛けがえのない観光資源を破壊しているのだから世話がない!鹿児島県の観光課は愚か者の集まりか!


この現場を確認したい方は、今は廃業となった開聞温泉を探して海岸まで100メートルほど歩いて下さい。目を覆いたくなるような無残な海岸線が目に入ることでしょう。

何人ものご老人が風呂場でながながと寝ておられたこの公衆浴場は印象的で、過去、何度か入っていましたが、入浴後にはいつも海岸を見るために足を延ばしていました。


旧開聞温泉(含塩化土類食塩泉 源泉掛け流し)


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画像は、手持ち写真が行方不明のためHP「温泉備忘録」を借用させて頂きました。

南薩北薩に入る時はいつも利用させて頂いている有難い温泉サイトです。


本小稿は「有明海臨海日記」に掲載予定で十年ほど前に準備したものでしたが、結局オンエアすることなくお蔵入りしていたものです。パソコンの整理をしていて見つけ出したものです。

時代遅れの感は否めませんが、佐賀県内の地方自治体職員として在職中に書いていたものです。

地方公務員が公務員を辞めると痴呆(地方)だけが残ると言われますが、現在、その防止のためにブログを書き続けている訳です。

技術的な問題だけで出さなかったものですが、今回、多少の修正校正を加えて陽の目を見せてやったことになります。

既に日本海側には自然海岸が残っていないと言われますが、パラペット(波返し)とテトラ・ポッドに覆われた海岸線は見るも無残です。

オランダの様に資材が乏しい(干拓地ばかりで土しかない)国であれば許されるかも知れませんが、工事が仮に必要としても日本の様な岩石だらけの国で、なぜ自然石を使わないのか信じがたい事です。

背後にはコンクリート産業とマリコンの事情があるからに相違ないでしょう。

確か口のシャクレタ副総理とかもこの手の産業の代表の様な方でしたが、いずれ日本列島の海岸線は全てコンクリートで固められてしまうことでしょう。

現在、このような情けない海岸線を持つのは、朝鮮半島の二つの破産国家と日本だけと言われています。

韓国の海岸線が北の侵攻に備えてと称して防衛用とかのテトラ・ポッドが大量に放り込まれているのは良く知られていますが、海外のテレビ番組などで海が出てくるとこれらの薄汚いコンクリート構造物があるかどうかを見て試しにカウントしてみて下さい(BBC,CNN,ABC…)。

日本のテレビ報道などでこのコンクリート構造物がどの程度の頻度で見とめられるかを一週間でも一ヶ月でもカウントすれば、日本は海外の百倍以上であることが分かるはずです。

世界でも最も美しい海岸線を持つと言われた日本の海岸線は、この薄汚いコンクリート産業と、マリコンによって徹底的に破壊されているのです。

日本人が海外旅行に行くようになったのは所得が増えたからではなく、この薄汚い海岸線を見たくないからかも知れません。

観光産業に力を入れ海外からの観光客を呼び込もうとする宮崎、鹿児島に大型クルーズ船が寄港しないと嘆いているようですが、このような事を野放しにしているのですから将来とも凡そ見込みはないでしょう。

まさに、日本の「列島」民族のやることには呆れかえるばかりです。


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グーグルアースでも破壊の跡が多少は確認できます

環境問題を書き続ける


いまさら環境問題を書き続けることの意味を考え直したからといって、何らかの発展性を見出せる訳もないのですが、正直言って痛快さと苦しさが同居しています。

快感としても、緊張感を伴うものであり、文字どおり痛みが同居しているのです。

確かに痛快ではあるでしょう。戦前ならば差し詰め軍部が相手なのですから(国土交通省は最早国家内に存在する関東軍のようなもので既に制御不能になっているようです)、それを相手に批判する事に多少の心地良さがあるのは先ずは“男子の本懐”といったところでしょうか。

しかし、虚しさも伴います。それは、何度も言うようですが、恐らく、今後も環境は破壊され続けられると予想されるからです。

しかも、仮に住民側が部分的に止めたり変えさせたりできた場合でも、それは一時的な勝利でしかなく、しばらくすれば、また、形を変えて忘れた頃に再登場して来ると思われるからです。

良い例が諫早湾干拓事業です。これは長崎県南部総合開発事業(南総)が一旦潰れた後に装いを変えて再登場してきたものでした。

こうなると環境保護運動とは事実上はモグラ叩きでしかなく、職業としてやっている行政の側が勝つのは当たり前の事となるのです。

民衆、住民の側には絶えず不公平なルールで闘いを強いられるのです。

しかも、一時的に止めるか、仮に元に戻す事が出来たとしても、高々、現状が保たれるといったものであり、所詮、環境保護運動とは現状維持的で保守的な運動でしかなく、全く未来へ向けた夢がないのです。

問題は、このような愚かな環境破壊が繰り返される本質、根本的な問題、その根絶、社会構造の変革に切り込まなければ一向に解決し得ない事になるのです。

従って、環境問題を書き続ける事は重要ではあるのですが、それは、ただの警鐘の乱打(むしろ“負け犬の遠吠え”か)に過ぎず、それ自体としては決して十分ではないのです。


一般の人が味方にならない


「CO2 温暖化仮説」という国家規模のデマに踊らされ一喜一憂する人は増殖しているのかも知れませんが、これは、むしろ環境に対する科学的な理解力の喪失の結果で あって、わずかに、魚付き林のために広葉樹植林を進めている人はいるものの、むしろ、自分の直ぐ回りにある海、川、山を巡る環境の問題に対して本質的な理 解力を持っている人は逆に減り続けているのではないかという考えを持っています。

さらに、都市部を中心に環境に対する本質的な理解力を持っていない人間は明らかに増大しているようです。

少 し考えれば分かる事ですが、パジェロやランクルで向かうところは海や山ではなく、パチンコ屋で、勝ったら回転寿司屋で、負けたら家でカップ麺などといった 馬鹿げた生活スタイルの人間がおよそ自然環境を理解し、ましてや、自然環境を守ろうと運動する事などありえないからです。

一 般的に自然環境の破壊に対する抵抗運動が存在しうる基盤は、その自然環境から直接的恩恵を受けている事、間接的にもその事実が目に見え、自然環境が大切で あるという自覚、認識が広範に存在している事なのであって、まず、第一次産業としての農業、漁業に依存する人々が減少し続けている事、都市近郊、農、漁、 山村においても、環境の悪化から自然に触れ合う習慣が喪失してくると、自然環境の保全の必要性、有難さ、その喪失への危機感も喪失してしまうからです。

このため、今後とも行政一般を問わず、自然環境の保全、回復へのベクトルは弱まり続ける事が容易に想像できるのです。

つまり、本ホーム・ページ(HP「環境問題を考える」のサブ・サイト「アンビエンテ」内“有明海諫早湾干拓リポート”「有明臨海日記」)が書き続け、訴え続けている内容が伝わらず、たとえ伝わっても理解されず、理解されないために不当な攻撃を受けるという事を覚悟しなければならなくなると言う問題です。


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