312 イワツバメの大群が飛び交う巨大鍾乳洞に鎮座する熊野座神社
20160402
久留米地名研究会(編集員) 古川 清久
過去、人吉盆地には何度となく踏み込んでいますが、高速道路が嫌いな上にトンネルが嫌いで、一般道でも狭い圧迫感のある道路も嫌いなため、人吉盆地に入る にも芦北まで南下し、白木、大野を経由して再度球磨村一勝地付近に抜ける遠回りなルートでばかり入る様にしていました。
このため、何故か坂本村は通過しない迂回地として自分のフィールド・ワークからは欠落していたのです。
多くの神社に足を運びながら、これほど特徴があり印象深い神社がある事をついぞ知らなかったのですから、しばし、自ら自らを恥じたほどでしたが、実に素晴らしい神社があったものです。
やはり、道路から引っ込んでいるから気づかなかったと言えばそれまでですが、努力をしなくても向こうから参拝者がやって来ていた神社と言うものは努力をしないもので、そこに神社がある事を訴えようともしていないものなのです。
解説版によると、1783年に現地を訪れた橘 南谿(儒医で紀行文を書いた…)タチバナナンケイも、イワツバメの大群を見た様で、「一足鳥」と書き留めているようです。
まず、橘 南谿の時代よりは減ってはいるはずですが、それでも大量のイワツバメが群舞する姿はそれだけでも一見の 価値はあるはずで、高い入場料を払って付近の球泉洞にはいるのも良いでしょうが、多少お賽銭を奮発してもこの鍾乳洞に鎮座する熊野の神々を訪ねられるのも 良いかもしれません。
さて、私達が関心を向けるのはご利益とか願掛けとかではなく祭神です。
古代史に詳しい方でなくても、球磨川流域は熊襲の領域といった理解をお持ちの方が多いのではないでしょうか?
司馬遼太郎でさえも、球磨川流域と鹿児島県大隅半島辺りを熊襲の本拠地と考えていた様ですから、一般の理解はそれに輪を掛けた「蛮族の領域」といった評価をされている方が多いのではないでしょうか?
ところが、実際に現地を訪れれば分かるのですが、球磨川流域から人吉盆地にかけては、豊前市や菊池市、山鹿市などと並ぶ九州でも目鼻立ちのはっきりした人の多い、いわゆる美男美女の里なのです。
それだけでも、熊襲とか隼人などが住む未開の地とするのは、近畿大和朝廷による畿内中心説を宣伝し、熊襲を貶める物でしかない事が見えて来るのです。
同社縁起
同社祭神 伊邪那美、速玉男命、事解男命
まず、イザナミは祀られているものの、イザナギが祀られていない事にお気づきの方は勘の鋭い方と言えるでしょう。
ここにこそ熊野(=球磨)の神話の淵源があるのですが、それについては後回しにするとして、祭神
のイザナミは良いでしょうが、速玉男命、事解男命が誰かはお分かりではないのではないでしょうか?
百嶋神社考古学では、イザナミはイザナギと別れた後博多の櫛田神社の主祭神の大幡主のお妃になっているのです。
そして、阿波、紀州に本拠地を移した後の熊野では、熊野那智大社の主神(クマノフスミ)になっているのです。
その事を物語るかのように、「日本書紀」の一書には「もう縁を切りましょう」とのフレーズが出て来るのです。
神様の名前の多さに苦労しているのはどなたも同じでしょうが、その理由の一つに、政略結婚の繰り返しの度に前の配偶者を配慮して名を変える(死んだことにより蘇るという意味も・・・)という事があるようなのです。
事解男命
死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。
『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。
敬愛する「玄松子」
では、速玉男命、事解男命とは誰なのかという話になるのですが、この速玉男命こそ博多の大幡主なのであり、熊野速玉大社の祭神でもあるのですが、もう一柱の事解男命は金山彦となるので。
では、熊野三山の中心熊野本宮大社の祭神は何なんだと言う方が居られますが、それこそ、スサノウが追って来たアカルヒメ(実は糸島市の細石神社の祭神磐長姫)になるのです。
それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)064 博多の櫛田神社の祭神とは何か?他をお読みください。