スポット048 原(ハラ、ハル)地名についての某大手新聞社(全国紙)からの問い合わせについて
20160614
久留米地名研究会(編集員) 古川 清久
最近、地名についての問い合わせが多くなっています。
今回も、また別の全国紙から原(ハル、バル)地名に関する照会がありました。
既存の郷土史会、史談会…といった民間団体が壊滅状況になっている上に、教育委員会といったところの学芸員と言った方々もサラリーマン化して久しく、ほとんど熱意がない上に学会通説に阿る方が大半であり、普通は見向きもされないはずの当方のような無名の組織に対してまで大手新聞や報道機関からの問い合わせが多くなっているようなのです。
中でも、「丸」地名と併せ、「原」(ハラ、ハル)についての問い合わせが頻繁にあるところから、考え方の変化もあり、未だ中間的な見解ながらここで整理しておくことにしました。
あくまでも一般的にですが、九州島外からの転勤が多いものと思われる全国紙系大手新聞社の記者の方々は、福岡上陸直後から、屋形原(ヤカタバル)、春日原(カスガバル)、白木原(シラキバル)、前原(マイバル)…といった地名に悩まされることになります。
しかも、福岡県築上郡の新田原(シンデンバル)、長崎県佐世保市の世知原(セチバル)、佐賀の目立達原(メタバル)、城原(ジョウバル)、熊本の田原坂(タバルザカ)、宮崎の西都原(サイトバル)、新田原(ニュウタバル)から鹿児島県鹿児島市の赤生原(アコウバル)、さらには、沖縄の山原(ヤンバル)…と九州全域に原(ハル、バル)地名が存在している事に気付くようになると、“これはただ事ではない”と感じてしまわれるのだと思うのです。
まず、「原」と書いて、「ハル」「バル」と読む(呼ぶ)地名は九州限定と言って良く、東京在住者が九州に転勤して来られると、普段から相模原(サガミハラ)、小田原(オダワラ)…といった地名になじんでおられることから面食らってしまうのは致し方ないのかも知れません。
このテーマに関しては、久留米地名研究会のHPに 5.「原(ハル、バル)」として、また、関連してblog ひぼろぎ逍遥に於いて スポット 023 「五郎丸」として「丸」地名についても書いています。
基本的な内容については二つの小稿を読んで頂くとして、多少は理解が変わってもきている事から、簡略化して再提起したいと思うものです。
佐賀県の吉野ヶ里遺蹟はどなたも良くご存知ですが、その西側に南へと流れる素晴らしい清流があります。現在、この川に必要性の全くないダムが計画されているのですが、このダムの名称が全国的には読めないものであったという話があります。
もちろん?九州の人は場合によっては原をハル、バルと読む場合があることを経験的に理解しているのですが、外部の人には非常に驚くことなのです。
つまり、“原をハル、バルと読む場合がある”という法則性は全国的には全く通用しないのです。
この小論を読まれるのは通常、筑前、筑後、肥前、肥後方面の方でしょうが、久留米周辺にも「原」と書き、「ハル」(バル)と読む地名が数多くあります。
一応、分かりやすい例をあげていくつかあげておきますが、まずは、福岡県の近いところから、筑紫野市の春日原(カスガバル)、原田(ハルダ)、塔原(トウノハル)、福岡市の屋形原(ヤカタバル)、佐賀県では中原(ナカバル)、目達原(メタバル)、熊本県では有名なところで田原坂…等々となります。
さて、城原川に似た例で全国的にもインパクトがあった話があります。それは佐賀県の辺鄙なダムの名前などではなく、“そのまんま東”こと東国原宮崎県知事の“ヒガシコクバル”という姓であったことはまだ、記憶に新しいところでしょう。
当然ながら地名ではなく人名ですが、出身地である都城市周辺(氏は三股町の出身)に直接に東国原(ヒガシコクバル)と呼ばれる地名があるのかも知れません(小字レベルでは未確認)。
もちろん、なぜ、全国的に彼の名前がこれほど注目されたかと言えば、九州以外ではハル、バルと読むことが全くないからです。これについては、九州の内部に住んでいるとほとんど気付きません(同じように古賀という姓や地名などもなぜか全国的には非常に少ないものですが…)。
もしも、疑問をお持ちならば、本州で原と書いて“バル”と呼ぶ(読む)地名を考えてみてください。
恐らく徒労に帰すことでしょう。
安達ケ原(アダチガハラ)も関ヶ原(セキガハラ)も青木ケ原(アオキガハラ)も南方熊楠が走り回った大台ケ原(オオダイガハラ)も相模原(サガミハラ)も全てハラなのです。
実にこの一事を持ってしても驚くのですが、その基底に何らかの民族、氏族、部族、種族の違いといったものが介在し大きく作用しているのではないかと考えてしまいます。
ただし、沖縄のバル地名はヤムバル・クイナのヤンバルだけでもお分かりでしょうから、沖縄が九州と同様の傾向を持っていることについての異論を持たれる方はないでしょう。
もちろん、このことから直ちに南方起源であることを示しているとは言えないように思います(沖縄には九州島から持ち込まれたと思われる地名が多数ある事は指摘されている)。
原と書き、「ハル」または「バル」と読む地名としてはいますが、正確に表現すれば、実は全く異なるものが、たまたま、同じ原という文字で表記されていると考えるべきもののように思います。
まずは、以前、城原川ダムについて書いた事がありますので、多少、内容には重複がありますが、この一文から話を始めることにしましょう。
“じょうばるがわ”という呼称について
城原川と書いて「じょうばるがわ」と読みます。まず、「原」は当然ながら“腹”“孕む”“張る”などと関係がある言葉ですが、訓読みでは通常「はら」(ばら)としか読まないはずです。
しかし、この「原」を「はる」(ばる)と発音することは、佐賀県ではかなり一般的であり、多少の普遍性を伴っています。
ただし、全ての「原」を「はる」(ばる)と呼んでいるわけではなく、隣接して「はら」地名と「はる」地名が混在しているところも多く、これには何らかの歴史的、民族的な(といっても歴史時代以前を起源とするものの意味で理解しているのですが、太古において「はら」と呼ぶ集団と「はる」と呼ぶ集団の異なった民族的傾向の平和的共存、混住をも想像させます)、また、特徴的な要素が関係しているのではないかと思われるのですが、未だに説得力のある説明を聞いた事がありません。
この「原」を「はる」と読むという傾向、というよりも「はる」(もしかしたら、「はら」と「はる」とは偶然似てはいるものの実は全く異なった起源の言葉が地名として結晶し、たまたま「原」という字が当てられているという要素も含めて)地名の分布は、九州に限定されているようです。例外は富山県(「針原」ハリバル…)ですが、これだけが分布の飛び地となっており、それがなぜなのか今のところ全くもって見当が付きません。
福岡の「前原」(最近“市”に昇格した福岡市西隣の前原市のマエバル)、「春日原」(カスガバル)、「伊良原」(県営ダムの計画がある犀川町のイラバル)、熊本の「田原坂」(西南戦争の激戦地で有名なタバルザカ)、大分の「城原」(こちらの方はシロハルと濁りません)、長崎の世知原(佐世保市に隣接するセチバル町)、宮崎の「西都原」(西都原古墳群のサイトバル)、沖縄の「伊原間」(イバルマ)、「ヤンバル」(ヤンバルクイナのヤンバル)……。これらについては朝鮮語起源の「ボル」やマレー語起源(「バル」=コタバル*)が議論されていますが、さだかではありません。マレー語の「バル」「バール」はたしか街とか村とかいう意味だったと記憶しているのですが、
少なくとも、九州、沖縄以外の土地に住む人々には、城原川と書いて「じょうばるがわ」と読むのことは極めて違和感があるかと思います。しかし、九州では普通に存在する地名と思って頂いて構わないでしょう。
(*)バル: マレー語の「バル」、「バール」はたしか“街”とか“村”といった意味だったと思うのですが、昔、古本屋で見つけて200円で買った昭和十七年発行の紙質の悪い「マレイ語の話し方」(学生の友社)を見ると、残念ながら、村は “kampong” 町は “pekan” となっていました(インドネシア占領政策の一環で作られたもののようです)。
ただ、若干の訂正をさせて頂きます。この時点まで、
さて、“例外は富山県(「針原」ハリバル…)ですが、これだけが分布の飛び地となっており、それがなぜなのか今のところ全くもって見当が付きません。”と、していました。
当時は、「ZIPJIS」という旧郵政省系のサイトによるデータに基づくものを使用していましたが、最近、疑問を持って調べなおしたところ、富山市新針原、針原中ともに、「ハリワラ」もしくは「ハリハラ」と呼ばれていることが分かりをました。分布自体も不自然であり、ここで改めて、ハル地名は九州、沖縄に限定した特殊な地名であるとさせて頂きます。
蛇足になりますが、熊本県水俣市との県境に近い鹿児島県出水市にも同じ表記の“針原”という地名があります。
そして、こちらも「ハリハラ」と呼ばれているのです。この鹿児島の“針原”地区は、七、八年前(初稿当時)、砂防ダム工事による地下水位の上昇と、急傾斜地に針葉樹林を植えた結果としての表層崩壊による鉄砲水に襲われ潰滅した集落で、まだ、記憶されている方もおられるでしょう。なにやら、富山の針原と地形が似ているようなのですが、鹿児島はともかく、富山は現地を見ていませんので、ここまでとしておきます。
ハラとバルは別のものか?
ただし、全ての「原」を「はる」(ばる)と呼んでいるわけではなく、隣接して「はら」地名と「はる」地名が混在しているところも多く…
と、前述しましたが、確認するためにもいくつか近接して存在する例をあげておきます。
まずは、①久留米の市街地の東の外れにある太郎原町(ダイロウバル)とJR鹿児島本線櫛原駅のある櫛原町(クシワラ)、街中の原古賀町(ハランコガ)、住宅地である国分町の苅原池(カリハラ)、②筑紫野市の塔原(トウノハル)と萩原(ハギワラ)、③佐賀県でも有田町の街中に二百メートル離れて南川良原(ミナミカワラバル)と原宿(ハラジュク)という交差点があります。
ここで結論に多少とも近づく仮説をご紹介しましょう。谷川 健一と金 達寿(キムダルス)両氏による対談をベースにした『地名の古代史』(九州編)にこの「バル」の話が出てきます。
谷川 先程バルという話もあったけど、バルというのは、この前、対馬に行った時に老人と話していたら、老人がこれからパリしに行こうかと言う。朝鮮語と同じで、パリしに、開墾しに行く、耕しに行く。畑に行くことをパリしに行くという。そのパリから出たに決まってるんですよ。『万葉集』のハリミチですね、開墾することをハリ、新しく開墾したところが新治(にいばり)、四国にも今治(いまばり)というところがありますけれども、字は違うけどね。そういうハリというのは開墾すること。それがハルになってるんですね。沖縄なんかではハルと言うと、みな田圃や畑を表すんです。野原の原じゃないんです。原山(はらやま)勝負と言って、どれだけ一年の収穫が多いか、村ごとに原山勝負に参加する。山は山林の勝負ですけれども、収穫が上がったことを、村ごとに懸賞をかけて競いあう。それを原山勝負と言うんですよ。墾道(はらみち)というのは畦道のことを言うんです。ですから、これはやっぱり朝鮮と密接な関係があると思いますよ。
当時は、“さすがは谷川健一”と思い驚きもしたのですが、何でも朝鮮半島、朝鮮語だけで説明した金達寿氏の提案への連動には同意できないと考えるようになっています。
この「原」を「ハル」と読むという傾向、というよりも「ハル」(もしかしたら、「ハラ」と「ハル」とは偶然似てはいるものの実は全く異なった起源の言葉が地名として結晶し、たまたま「原」という字が当てられているという要素も含めて)…と前述したように別の起源のものがたまたま似通っていたためにいつしか本来の意味が忘れられたという事はかなり的を得た想定のように思えます。
恐れずに踏み込めば、「ハラ」はただの原っぱで、「ハル」は人為的な開墾地、耕地(もしかしたら城塞型集落)のように思えます。
どうも後者については「原」と区別するためにも、一部には「春」(八女市の辺春/ヘバル)「治」「針」も充てられているようです。
恐らく、福岡市の柏原(カシワラ)のような原(ハラ)地名には関係がなく、原(ハル、バル)地名にこれらの「春」「治」「針」地名が充てられているようなのです。
そして、現在、関心を寄せているのは、原(ハル、バル)地名と丸(マル)地名の関係についてです。
パリ、パル、ハリ、ハル、バリ、バル…が朝鮮半島起源のもので、なお、かつ、九州限定(四国の今治、新治はこの際無視しますが)とすると、渡来系(朝鮮半島)の地名とも言えそうですが、沖縄への分布を考えると、南方系の言語、地名が朝鮮半島南部まで持ち上げられたのではないか?とも一応は考えられます。
最近、谷川が新著(『甦る海上の道・日本と琉球』)を公刊しましたが、この、柳田(『海上の道』)の逆コースによって南下したとも言えそうで、現段階では「朝鮮半島との関係があるかもしれない…」辺りが順当なところでしょう。
ここで、「九州限定(四国の今治、新治はこの際無視しますが)と書きましたが、」と前述した事を考える事にします。
原(ハル、バル)地名は九州限定としましたが、唯一の例外が、この愛媛県今治市の今治(イマバリ)、であり、群馬県(旧新治村)や茨城県(旧新治村)に展開したと考えられる新治(ニイハリ)です。
実は、この地名も、久留米市の東隣のうきは市新治(ニイハリ)、大分県日田市の新治(ニイバル)と考えられ、文字通り、新規の開墾地名と考えられるのです。
謎解きは終わったのか?
と、ここまで書いて新たな疑問が生じました。かなり古いのですが、昭和五十八年刊行の大著、『講座方言学』9-九州地方の方言-国書刊行会(8熊本県の方言/秋山正次:熊本商科大学)を読んでいると、以下の記述に遭遇しました。
九州で原の字を持つ地名は春日原・原田・西都原・島原など原がハルとなることは周知。これは広母音・中間母音a・e・oにつづく音節の母音が狭母音に変化する現象の一例である。ラ行音の場合だとハラカク(腹を立てる)はハルカクかハリカクとなる。行キナハレは行キナハル・~ハリ。誰>ダル・ダリ。指示詞はコレ>コル・コリ、アレ>アル・アリ。概してはルになるのが基本である。
秋山正次教授(当時)によると原がハルと呼ばれるのは単なる方言現象ということになってしまうのですが、本当にそうなのでしょうか。かなり考えましたが、大分など瀬戸内海方言が色濃く影響する地域にもこの九州特有の原(ハル)地名が同様に存在すること。さらには、原と書き、ハラともハルとも呼ばれる地名が近接して並存する地域が広範な地域に認められることを考えると、やはり非常に古い時代からの異なった言語、民族(?)現象が作用しているのではないかと考えるのです。
ただ、島原はシマバルとは呼ばなかったと考えます(なぜか島原城はハルノシロとは呼ばれたそうですが)。
壱岐の原ノ辻遺跡と触
近年、壱岐の弥生遺跡として有名になった原ノ辻遺跡の原がハルと呼ばれていることはどなたもご存知でしょうが、この壱岐にはもっと大きな問題が潜んでいます。
松浦周辺多くの免(メン)地名があることと同列に取上げられることが多いのですが、壱岐には圧倒的な数の触(フレ)地名があるのです。
ローカルではあるが、きわめて著名な地名群落。長崎県壱岐島、玄界灘のなかの島だが、近くの生月島の一部とここだけにしかもられない「触」地名は、たしかに特異な地名集団である。…(中略)…この台地上の畑と台地を刻む谷底の水田に依存する農村は、「在」と呼ばれて、一単位ごとの集落には~触という触のつく地名がつけられている。触は小字であり、折茂順平の調べによると、全島で九九あるという。
『地名を考える』山口恵一郎(NHKブックス)
この触地名をどのように考えるかですが、ハル(HARU)とフレ(HURE)は似ていると思いませんか。
これについては、『日本語大漂流』を書かれた東海大学の茂在 寅雄教授によってフレ、プレ地名はマライ・ポリネシア系の言語と考える説も出されています。
さらに、福岡県、筑後地方には丸地名が多いのですが、田主丸や千代丸の丸にしても、原(ハラ)と丸(マル)は、M音とB音が混用されることから(大小便のキバル?イバル、ユバリとマル、尿の古語はイバリですね)、丸(マル)地名も原(ハル)地名のバリエーションの一つなのかも知れません。
また、朝鮮語では村をマウルと言いますし、ここでは関係があるのではないかとはしておきたいと思います。
九州全域に存在するハル、バル地名にも分布にかなりの偏りが認められる
こんどは、九州全体に目を向けて考えてみましょう。
正確にカウントしてはいませんが、人吉、阿蘇、薩摩、天草、長崎にはほとんど認められません。
特に、九州脊梁山地にはないようであり、やはり、海岸部を中心として古代の農耕地、開墾地に多いように思います。また、地形にもよりますが、南方系海洋民族が定着したと考えられる長崎県から不知火海沿岸、特に天草、薩摩(阿多隼人の領域)にかけての島嶼部には認められないように思います。
このことが南方起源説にはおいそれと乗れない理由でもあるのです。
特に目立つのは宇佐、西都原、隼人町周辺ですが、隼人町は隼人征伐に送り込まれた勢力が持ち込んできたものと考えれば分かりやすいかもしれません。
と、当時は「隼人町は隼人征伐に送り込まれた勢力が持ち込んできたものと考えれば分かりやすいかもしれません。」と書いたのですが、現在は逆で、熊襲そのものが「ハル」「バル」、と発音していたのではないかと考えています。この点が、全く見解が変わってきたところです。
スポット023 五郎丸 朝日新聞2016年1月16日夕刊「福岡県に多い○郎丸の地名」によせて(再編集)
20160126
久留米地名研究会(編集員) 古川 清久
朝日新聞2016年1月16日夕刊4版8“知っとーと!”「福岡県に多い○郎丸の地名」として、久留米地名研究会の事務局次長に外にも照会した記事が掲載されたことから、補足の意味も含めてコメントしたと思います。
まず、記事の全文は以下の通りです。
行政にたかる○○法人のように一辺の支援も受けずに運営している独立した民間の研究団体に対して大マスコミの全国紙から取材があること自体は有難い事であり、批判の意図など毛頭ない事は始めに申上げておきたいと思いますが、前提として、私達が「丸地名」と呼んでいる地名としての「○○丸」と姓としての「○○丸」の問題があり、前者が先行し、後者が後発のものであろうという一応の仮説を立てておきたいと思います。つまり、地名→姓名というベクトルです。
勿論、それは、姓名としての○○丸さんの方が、地名としての○○丸よりも多い事からある程度の推測はできるでしょう。
今回の朝日の記事は、たまたまラグビーでスポットライトを浴びた比較的珍しい「五郎丸」姓に関心が向けられた事から、これらの地名が集中する九州の「五郎丸」地名、ひいては「○○丸」地名全般について考えて見たいと思います。
まず、「五郎丸」姓の分布を考えておきましょう。
こう言う時にいつも利用している「姓名分布&ランキング」というサイトで同姓の分布を見てみると、
全国177件中、①福岡県 76件 ②山口県 30件 ③広島県 13件 と予想通り大半が福岡県中心の分布を示していました。
予想通りと申上げたのは、この「丸持ちの姓」=○○丸の方の中心地がどこであるかを知っているためですが、それは後に廻すとして、次に数多い○地名の内、「五郎丸」に限定して地名の分布を確認しておきたいと思います。
新潟県南魚沼市五郎丸 富山県富山市水橋五郎丸 富山県砺波市五郎丸 富山県中新川郡立山町五郎丸福井県鯖江市五郎丸町 愛知県犬山市五郎丸 愛知県田原市伊川津町五郎丸 愛知県犬山市五郎丸
広島県安芸高田市八千代町佐々井五郎丸 徳島県阿南市椿町五郎丸 愛媛県宇和島市寄松五郎丸
福岡県久留米市宮ノ陣町五郎丸 福岡県宮若市下有木五郎丸 福岡県筑紫郡那珂川町五郎丸
熊本県山鹿市菊鹿町五郎丸 熊本県山鹿市久原五郎丸 大分県豊後高田市香々地五郎丸
大分県宇佐市安心院町五郎丸 宮崎県児湯郡高鍋町上江五郎丸
以前から丸地名の分布については気に留めていましたが、ネット上にHP「民俗学の広場」というサイトがあり五郎丸地名が網羅されていますので使わせて頂くことにします。
これを見ると、九州から日本海岸を経由し越後から東海地方、さらには、豊後から瀬戸内海地方のかなり広範な地域に広がりを見せています。
これらが九州から展開した人々によって持ち込まれた地名である可能性はかなり高いでしょう。