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337 蚩尤の神をご存知ですか?

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337 蚩尤の神をご存知ですか?

20160503

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 熊本地震により酷い目に合わせられているのが阿蘇氏ですが、この阿蘇高森の草部吉見神社に象徴される阿蘇氏は、多氏、耳族、支那族(品、級、科…)、宇治氏と色々な呼び方で自らを表してきましたが、もう一つ、中国大陸にいた時代は黎族と呼ばれていたのです。

 このビルマ・タイ系の民族と言われる阿蘇氏は、漢族、鮮卑族に追われ続け、雲南省麗江に逃げ込み、それでも追われることによって海南島の南西部を経由し、最終的に列島(九州)に入ってきている。

 その最初の上陸地点が天草下島の北町で、そこから阿蘇に展開し先住者で当時、半島の伽耶と九州北部の支配者であった高木大神(高御産巣日神)の支配下に入り、その入婿となったのが、草部吉見(ヒコヤイミミ)である。

だから、草部とは茅部であり、伽耶部の吉見であると言うのが、百嶋由一郎氏の主要な論旨でした。


蚩尤


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蚩尤。漢代の石刻画

蚩尤(しゆう、拼音: Chīyóu)は中国神話に登場する神である。路史によると羌が姓とされる。天界の帝王である黄帝と大戦争をした。獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる。

砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、黄帝の座を奪うという野望を持っていた。同じ姿をした兄弟が80人くらいいたという。戦争にあっては、神農氏の時、乱を起こし、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、霧などを巻き起こして黄帝と涿鹿の野に戦った(涿鹿の戦い)。濃霧を起こして敵を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、遂にこれを捕え殺したといわれている。

この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族(ミャオ族の祖先といわれる。)、巨体の夸父族だった。最後に捕らえられた蚩尤は、諸悪の根源として殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外された。身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという。赤旗を「蚩尤旗」と言い、劉邦がこれを軍旗に採用したとされる。

戦いは終わり、九黎族は逃れて三苗族となった。黄帝は敵討ちを心配して三苗を皆殺しにしたが、この南方の民を根絶やしにできず、その後、苗族は歴代の王を執拗に悩ます手強い敵となった。

『史記』「封禅書」では蚩尤は「兵主神」に相当するとされ、戦の神と考えられている。また戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢等、全ての優れた武器(五兵)を発明したという。蚩尤が反乱を起こしたことで、これ以降は法を定めて反乱を抑えなければいけなくなったとも言う。

ウィキペディア(20160503 16:00


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その阿蘇氏の大陸にいた時代の民族名が黎族なのですが、苗族も広義の同族であり、漢族に帰順、同化したのが良く知られた苗族なのです。

 ただ、黎族とこの蚩尤(チュウ、シユウ)に関係があるのではないかと考えているのですが、その話は後に譲るとして、まずは、この黎族についてお考えいただきたいと思うのです。

草部吉見神社の一族が雲南省麗江から海南島を経由し阿蘇の苓北町に入っており、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の一族も雲南省昆明にいた白族(恐らく下賀茂上賀茂のルーツ)であり、海南島を経由し熊本から博多に展開しているという百嶋由一郎氏が主張されていた話は過去何度もしています。

そして、現在も、海南島白沙黎族自治県、昌江黎族自治県、陵水黎族自治県、保亭黎族苗族自治県があり、保亭黎族苗族自治県には「加茂」(チャマオ)という地名まで存在しているのです。


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 この加茂こそ白族のいた場所ではないかと考えていますが、当面、手が出せません。


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阿蘇高森の草部吉見の一族(勿論、そのご先祖の時代の話でしょうが…)とは黎族であり、この海南島を経由し天草下島の苓北町に入り阿蘇に入るのですが、同系統の白族も謎の青銅器文明として知られた雲南省省都昆明に近い滇(てん)王国であり、そこから紅河を下りハロン湾から海南島に入ったのが博多の櫛田神社の主神である大幡主であり、その子であるヤタガラス(豊玉彦)を祀るのが下賀茂神社なのです。

 その白族が海南島に入っているとすると、この加茂村こそ相応しいのですが、これ以上の事は言えません。

 この昆明に近い滇湖付近にいた白族の一部が海南島に入り隈本(熊本)から博多に展開したのが大幡主のご先祖だったと考えているのです。

 当然、彼らは蚩尤以来の青銅冶金の技術を持っていたはずで、列島の初期の金属生産を支えたと考えているのですが、その実相はいまだ明瞭ではありません。

 始めに阿蘇氏は多氏でもあるとしましたが、それを象徴するのが奈良県天理市の多神社です。

 一方、全国に兵主神社と呼ばれる一群の神社がありますが、これが蚩尤と関係がありそうなのです。

 これが、大国主命や素戔嗚尊や天香山神(実はニギハヤヒの子ウガヤフキアエズ)などとされているのですが、いずれも列島で博多の櫛田神社の大幡主の臣下として活動した方々なので蚩尤に通じるのです。


兵主神ゆかりの神社は延喜式に19社ある。

大和 城上 穴師坐兵主神社 「兵主神、若御魂神、大兵主神」

大和 城上 穴師大兵主神社

和泉 和泉 兵主神社

参河 賀茂 兵主神社

近江 野洲 兵主神社 「国作大己貴神」 

近江 伊香 兵主神社

丹波 氷上 兵主神社 「大己貴神、少彦名神、蛭子神、天香山神」

但馬 朝来 兵主神社

但馬 養生 更杵村兵主神社

但馬 出石 大生部兵主神社 「素戔嗚尊、保食大神」 伊福部神社も称している。青銅74

但馬 国府 久斗寸兵主神社 青銅76

但馬 城崎 兵主神社

但馬 城崎 兵主神社二座

因幡 巨濃 佐弥之兵主神社

因幡 巨濃 許野之兵主神社 「大国主命、素戔嗚命」

播磨 餝磨 射楯兵主神社二座

播磨 多可 兵主神社 「大己貴命」

壱岐 壱岐 兵主神社

但馬に多く、播磨・丹波、近江等に散財する。銅鐸の分布と一致している。また天日槍を祖とする但馬族とも無縁でないとされる。

敬愛するHP「神奈備」による


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 最後に、この蚩尤に関係がありそうな気になる「地名」があるのですが、ご紹介だけに留めておきます。

 それは、大分県大分市の志生木(シユウキ)です。

 ここに注目しているのは日鉱金属の佐賀関製錬所があるからです。

 このような、公害に直結する産業の立地は古来そのような産業が定着する歴史的条件がある場合が多く、半島系の人々が住み着いていた形跡が地名の面で痕跡が追えるからです。

 単なる地名の付合だけでは認めて頂けない事は承知しています。

 しかし、丹生都姫神社が置かれ、島原半島からの構造線に近いこの地に青銅冶金以来の古代青銅、製鉄、冶金の神々が定着した可能性は十分にあるはずなのです。


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