スポット051 研究会の値打ちとは
20161024
太宰府地名研究会 古川 清久
これまで色々な研究会に接触し、拝聴し、あるいは参加し、あるいは幻滅の後離脱して来ましたが、研究会の在り方に関しては考えさせられるものが多々あります。
まず、インターネットが普及した事によって、大学教授や学芸員といった方々による情報独占、知識独占の構造が破壊され、ネット上には多くの在野の研究者がこれまでのものをはるかに上回る研究内容を公開されておられる事に気付きます。
ここで考えて頂きたい事があるのですが、在野の研究会が果たす役割がそれなりの意味を持っているのは事実ですが、これらの多くは戦後の自由な雰囲気で勃興した民間在野の研究者の集まりだったことは既に忘れられていますが、想像すれば容易にお分かり頂けると思います。
重要なのは、どこかの大先生の話を聴く会ではなく、若き研究熱心な民間研究者の集まりから始まったのでした。
つまり、皆がそれなりの意欲を持った研究者の団体がその母体であり、現在の様な大学教授や学芸員といった既存の通説を拝聴する会ではなかったという事が重要なのです。
ところが、これらの勃興期の研究者たちの多くが高齢化し消え失せたことによって、形だけの会の存続のために、金に任せて行政丸抱えといった形で信頼されてもいない通説を垂れ流す講演会、シンポジウムといったものが目立ち始めています。
ただ、所詮は学会通説に阿る内容でしかなく、等しく面白くなく幻滅させられるだけなのですが、彷徨う人達は入れ代わり立ち代わり、あたかも虫のように吸い寄せられては消えて行く事になるのです。
そうした中に、在野の小団体の中からも行政に釣り上げてもらおうとする半端な研究者が重用される契機も産み出されているようです。
しかし、例えば九州王朝論といった話でもしようものなら次回から使用してもらえない事から、適当なところでお茶を濁し、行政にも受け入れられる中途半端で曖昧な民俗学的内容などで次回からも使って下さいとするさもしい人間までが現れる事になるのです。
つまり、金と行政のネット・ワークを握った小役人どもに利用される芸人といった小物が思いっきり尾を振り擦り寄りワンと吠えることになるのです。
ましてや、まさに、そういった方の職業が仮に神職とかいったものでもあれば、さもしさ、見苦しさも倍加する事になるのです。
なお、画像は一般的なもので本文とは無関係です
ここまで見てくると、単に研究会を守り、存続させる事それ自体には一切意味はなく、本気で古代の深層に向かおうとする研究者を養成し、継承していく事こそが重要であり、会自体の運営はそれに従属するものとしなければ研究姿勢の純血性は一切保たれないのです。
簡単に言えば、研究会とは決して目的そのものではなく研究のための手段でしかないのです。
つまり、会の運営、存続とは二の次に考えるべきなのですが、研究をしていない方々、研究内容を真に受留めるだけの方々にはその事が全く分からないのです。
実際に、研究会が研究しなくなってしまえば、その価値は一切ないのであって、必要なときは解散し、新たな研究内容、研究者によって再組織化されなければその生命は消え失せる事になるのです。
既に、「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)という二つのblogは月間25~30本近くオンエアされ、日量1000~1100件(年間30~40万)のアクセスを見せています。
このフォロアーの全てが熱心に読み込んでおられるなどとはつゆ思いもしませんが、それは、たまに研究会に参加して居眠りしながら左から聴いて右に抜けて行く参加者がおられることは否定の仕様のない事実であって、自ら足を動かして現場を見てみよう(トレッキング)とする人はともかくとして、会自体の存続そのものに執着するいわば共同体化した研究会では、嘘つきの学会、通説には一切対抗できないのです。
さて、数日前も朝6時の段階(カウントは深夜0時から翌0時まで)で、40人により概略200件のアクセスを打ち出していました。
ネットblogを読でおられる方も、仕事で調べたついでにちょっと開いてみただけ…といった方が居られる事は決して否定しませんが、朝方6時までの6時間で5本ずつ読み込んでおられるとなるとこれは決して半端なものではなく、研究会で講演中に居眠りをされる方々よりは凡そ期待できると考える方が正しいでしょう。
従って、月に一度しかも遅れてやって来て、貰った資料も捨ててしまう方々よりは、毎日来られるネット上の熱心なフォロアーの方を重視したくなるのは言わずもがなという事になってくるのです。
ましてや、研究者の集まりではなく、研究会の名を利用して行政に売り込もうとするような人間が一人でもいるとなると会の自殺になってしまいかねないのです。
まず、民間の研究団体、しかも、古代の真実を追求せんとする九州王朝を追求する研究会が、研究する団体で無くなった瞬間にその生命は尽きる事にしかならず、テーブルであれ、フィールドであれ、自分の頭で考え、自ら探索し発見しようと言う気概を持たなければ集まって情報交換を行う価値はありません。
それはただの共同体化した親睦団体であり、配布する資料も準備できない事から、勢い、行政作成のカラー刷りの高額な(しかし無味乾燥な)パンフレットを配布し、学芸員から御高説を賜わるといったものになってしまうのです。
こうなり始めた段階で、まず、値打ちは下がる事になり、何時しか通説塗れのどこにでもある小組織に成り下がり、ついには行政にも相手にもされなくなってしまうのです。
まず、会報さえも出さない、論文集さえも出さない研究会は例え何十年の歴史があったとしても、その成員が消えてしまえば、配布された資料も散逸し、一切残らないまま潰え去ってしまいます。
この事は個人でも同様で、凡そ本も出版していない、HPはおろかblogもツイッターもやらないといった半端な研究者は、一切、その業績を残すことはできずに、思い出だけが徐々に薄れて行くことになってしまいます。
この手の手合いは人の集まる講演会だけが欲求不満を発散できる唯一の舞台であり、必死に私物化しようとすることになるのです。
実際、ネット社会とは冷酷なもので、このような出版実績もない、ネット上にも露出しない人間は、事実上存在していないのと同様であって、その透明人間が僅かな規模の集会で喚こうが、十年を待たずして消失してしまうことになるのです。
では、どうしなければならないのでしょうか?
やはり、研究者が集まる研究会化を目指すべきなのです。
最低でもブロガーは自分で調べ、自分で文章を書き、発信できるのですから、ブロガーによる連合体こそが重要で、そのような研究テーマごとの研究者の集まりとして運営して行く事の方が遥かに影響力を持ち、波及性、継続性、保存性を持っているのです。
一方、現代においては出版自体にはそれほどの意味はありません。
瞬間的に旗を揚げ、存在をアピールする事にはなるのですが、それっきりであり、若者が本を読まないことから、20年前の三分の一も売れない中で苦労して出してもそれ自体から影響力を引き出すことは全く期待できないのです。
行く行くはネット上で購読者講演会を行いネット上での宣伝によって集会を行うことが中心になるはずであり、従来型の研究会では全く対応できなくなる事は明らかなのです。
そして、ユーチューブ上に画像、音声で調査リポートをドキュメントとして流し、研究者仲間での座談会をそのまま音声として流すと言った事を行うべきで、従来型の研究会から脱皮し、新しいスタイルの研究会を造り出すための方向を模索すべきなのです。
しかし、先が見えないという事は哀れなもので、新たな研究スタイルへと向かわなければならない時期に舵を切れないでいるのです。
既に、大分県内の神社研究者を中心に神社研究のネット・ワークが出来ています。
熊本県内でも神社トレッキングを行う確固たる組織が出来ています。
このような、自ら足を運んで調べ、自らブログとして発信する行動的な研究者の会に切り替えなければ、時代に対応できなくなっているのです。
会を創ってきた人間には、いつでも会を潰すことはできます。
それはいつでも形を変えて新たな会がつくれるからですが、逆に会を創ってことがない人には会を潰すことはできずに殊更声を荒げてしがみ付こうとするのです。