スポット052 古田史学の会九州の旗揚げか?
20161013
太宰府地名研究会 古川 清久
『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の内容
【日程】11月27(日)
【テーマ・講師】
1). 13時30分~14時45分
「『魏志倭人伝』と邪馬壹(台)国」
正木裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)
2). 15時~16時15分
「日本最古の条坊都市 大宰府から難波京へ」
古賀達也(古田史学の会・代表)
3). 16時15分~16時45分
質疑応答
【会場】久留米大学福岡サテライト
(福岡市中央区天神一丁目四番二号 エルガーラオフィス六階。西鉄「福岡天神駅」から徒歩で5分程度。JR博多駅からタクシーで10分)
【参加費】1000円(資料代)。
【主催】古田史学の会
時代の変化にも拘わらず、今尚、古代史のセミナーなどには多くの人が集まっているようです。
そこには自らのルーツ探し、自らとは何者なのかに対する答えを求め続けているのかも知れません。
しかし、そこに登場する郷土史家、古代史家といった方達も所属する既存の史談会、郷土史会といったものと共に徐々に消え失せ、行政権力の飼い犬に等しい学芸員、教育委員会の関係者といった人々以外見掛けなくなりつつあります。
つまり、戦後民主主義勃興期に湧き上がった在野の研究者といった人々の総退陣、全絶滅が起こっている様に見えるのです。
一方、なお生き残っている人はと見ると、“行政との関係を切る事はできない”とか、“ユダヤ・イスラエルの話など踏み込むと相手にされないからすべきではない”とか、“九州王朝論といった話も一般には相手にされないから抑えるべき”と言った、いわば「町興し」、「村興し」「世界遺産登録」…に色目を使い狂奔する「行政の芸人」とも言うべき人々しか見掛けなりつつあるのです。
そもそも、時の権力が封印した九州王朝論が行政とか既存の学会通説と衝突する事亡くして存続できるはずはないのであって、口先では“古代の真実を探らなければならない”などとは言うものの、谷川健一程度の曖昧な民俗学的論調でお茶を濁し、自己保身に気配りをしつつ、結局は行政に思いっきり尾を振り、取り入ろうとするさもしい人物しか生き残れないと言う悲しいまでの文化的退廃に突き進む状態になりつつあるのです。
その意味ではやはり古田武彦は幾つもの甘い罠が仕掛けられつつも、一切、色目を使うことなく最後まで筋を通したという意味だけでも偉人であり続けたと思うものです。
しかし、戦後古代史の世界で多くの業績を残した古田武彦が鬼籍に入り一年余りが経過したのですが、「古田九州王朝論」は多くの論客を派生し力強く生き残っている事を再認識させられています。
私自身は古田史学の会の会員であり続けていますが、実際には当の古田史学の会メンバーや通常の九州王朝論者からも“それは九州王朝論ではない”と批判される神社研究世界に入り込んでいます。
それは、穴掘り考古学と文献史学の立場から古代史にアプローチしてきた戦後史学に馴染めず、と、言うよりも、文献史学はともかくとしても、穴掘り考古学に対する不信感、嫌悪感、侮蔑の気持ちがあまりにも強く、代わりに民俗学、地名研究、神社研究、照葉樹林文化論といった清潔な世界に避退したからでした。
特に神社研究に関しては、戦前の皇国史観塗れの誤った世界観から、科学的思考を行う者は接近すべからざるものとの意識が蔓延し、神様に関する話を封殺する事があたかも科学的といった風潮が古代史界、史学界に蔓延していたことから、普通の研究者は避けて通るべきものとする傾向が非常に強く、今尚、当方が行っているようなフィールド・ワークなど全く価値のないものと思われている事だろうと考えています。
従って、そのような内容どころか、古事記の95%は嘘であるとする特殊な百嶋由一郎氏の説に基づき、神社を主軸としたblogを月間で25~30本程度公開し続け、しかも、年間30~40万件程度のアクセスを引き出している者が古田史学の会のメンバーであるとすると、同会に対して非常な迷惑を掛ける事になるだろうと考えているところです。
自らは直接的な古田研究からは遠ざかりつつも、学会通説派の言説には全く価値を見出しておらず、たわいもない邪馬台国畿内説や畿内説に擦り寄らんばかりの東遷説、九州王朝否定論など相手にする事さえ意味がないと思い続けています。
ただし、神社研究を行うとしても、九州王朝論の一部も分からないで、神社研究=特に九州周辺のそれを行う事は完全な的外れになってしまう事から、どうしても九州王朝論を避けて通る事が出来ないと考えており、後続の若手の人たちに対しても、古田史学の会の会報ぐらいは読むべきとして、実際に二桁の方々を誘ってきました。
さて、実のところ古田武彦亡き後の九州王朝論には、当然にも多くの流動化が生じるであろうと考えて来ました。
あの衝撃的な古田武彦の初期三部作が世に問われた頃の興奮を覚えた人々によって形成された九州王朝論の研究会団体にも、いまや、衰退、分散が避けられないのではないかと考えていました。
事実、古田史学の一翼を支え、古田史学の会を上回る内容持つと豪語した市民の古代以来の九州の某研究団体などでも、隆盛期の九州王朝論を支えた地方研究者を続々と失い、牙を抜かれ、通説派の学芸員や利権まみれの考古学関係者などから御高説を拝聴すると言った無様な姿を晒しているというありさまなのです。
当方が古田史学の会に入会した当時、会の分運営を巡って分裂が起きており、九州に於ける古田史学の会の会員数は、その某研究団体に対して約半数の勢力しか持たず、しかもグルーピングさえも行っていなかったのでした。
そういった中で、孤塁を守り続けた古田史学の会九州のメンバーはこの十年ほどの間に逆に会員を倍増させ某団体を凌駕していたのでした。
古田史学の会ではだめだとした福岡市を中心とする某研究団体は、通説派に御高説を聴くていたらくに対して、学会、通説に対して牙を研ぎ続けた古田史学の会の九州の会員はいよいよ表舞台に姿を現し、活動を開始し始めたのです。
もはや、九州に於いてもその質は前述の某団体を凌駕した事でしょう。後はパーマネントな講演会を維持できるかでしょうが、それこそが試金石と言えるのです。
以下は、古田史学の会事務局からの依頼を受け掲載するものです。