345 アシナカ
20160506
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
神官の方はご存じの方は多いと思うのですが、神殿への階段の一段ごとの奥行きが非常に少ない神社(神殿)がかなり多いという事実です。
これは、神殿には足を踏み入れない一般の参拝客には分からない(意識していない)事でしょうが、良くて7~8㎝といった柱をそのまま階段状に並べているだけの神社もあることから、まず、26㎝の足の方には足の前半分もないことから、ほぼ、爪先だけで神殿に入って行く事になるのです。
これが、ある一定の氏族の神社群に特有の建築様式なのか?
単に、経済的に節約するためなのか?それとも上位の氏族から押し付けられたものなのか?
神殿に近づき難くすることによって神秘性神聖性を保とうとするためのものか?未だに判読できずにいます。
一例ですが、福岡県糸田町の木実神社の神殿への石の階段
ただ、昔の人が健脚だったことは良く言われますが(最近はその実感が無くなったことから言わなくなった…)、ほんの五~六十年ほど前までは、実際に健脚の人が身近にいたことから普通の感覚だったのです。
もう、ご存じの方はどんどん少なくなっていますので、書き留めておきますが、ほんの、半世紀前までは、草鞋(ワラジ)を綯(ナ)える人は普通にいたし、自分でワラジの一つも作れなければ裸足で生活しなければならなかったのでした。まあ、倭人は裸足だったのですから。
倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。屋室があるが、父母兄弟は寝室を別とする。朱丹を身体に塗り、中国の白粉を用いるが如きである。飲食には御膳を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴び(禊だと思うが、原文の入浴に従った)をする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。
そのワラジも、実際には「アシナカ」と呼ばれるもので、時代劇などで良く見掛ける小判型のものではなく、後半分を切った非常に短いものが大半だったのです。
それは、昔(と言っても昭和40年代まででしょうが)流行ったゴムぞうりを雨の日に履いた方は分かるように、跳ね返りが頻繁に起こり反って感触が悪いものだったのです。
まず、半世紀前までの日本人は爪先立って歩いていたようですし、踵までのワラジなどを作れば時間が倍以上掛かった上に不便なのですから。
これで、神殿への階段の奥行きが非常に短い理由の一部は説明が付くことになります。
足のひらのなかほどまでしかない短い草履のことをいう。日本古来の履物のうち、最も広く使われていたものだという。台が半分しかないから、名称も「半草履」「半物草」などともいわれ、名前が全国では二百以上もあるらしい。鼻緒の結び方にも七つの型があるそうだが、その違いは私などとても説明ができない。
農漁村では老若男女をとわず全国どこでも履いていたが、ゴム草履や地下タビなどが出てから、姿を消しはじめたようだ。しかし、いま七十歳以上の方なら、旅行などでは履いたことがないかもしれないが、田圃や山へ出かけるときには使った経験があるはずだ。
このアシナカは、①着脱が簡単である ②泥道でも泥がハネないし滑らない ③活動に適する ④作るのが容易で金がかからない
などの利点の多い履物であった。
とくに活動に適することから、昔武士が戦うとき必ず着用したらしい。鎌倉時代の『蒙古襲来絵詞』という絵巻物にそれが描かれている。
現在日常生活に使われていないが、葬式や祭礼などで、昔の行列を再現するときなど、いまも着用しているところがあるそうだ。