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348 先 島 ①  “二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”

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348  先 島 ①  “二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”

20160507

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は、久留米地名研究会での講演用に2006921日付で書いたものです。結局、紀行文の要素が多くそのままにしていたものです。改訂すべき部分もありますが、今回、そのまま掲載するものです。

“二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”


昨年の九月に引き続き、二度目の石垣島に飛び立ちました。六月二九日から七月二日という梅雨の最中でしたが、沖縄からさらに三〇〇キロ以上も南に位置する先島諸島ではとっくの昔に梅雨が明けているのです。

南西諸島


南西諸島という概念があります。私も含めて、いったいどこまでが何々諸島かなど良く分らないままに使っていますので、ここで簡単な整理をしておきましょう。

まず、南西諸島とは鹿児島の南の屋久島、種子島から吐火羅(トカラ)列島を経て最南端の与那国島から尖閣列島(尖閣諸島は先島諸島に含めないようですが)辺りまでの琉球弧全体を言うようです。

今回は、その南西諸島の中でも先島諸島の八重山列島に属する石垣島を基地にして船で西表島に渡ったわけです。一応、主な島を簡単な表にするとこのようになります。


348-1

 尖閣列島については魚釣島(釣魚台)ほかの数島によって構成される無人島群ですが、現在、行政区画としては石垣市とされています。これが、先島諸島に含まれるのかについてまでは分りません。興味のある方は、国土地理院の詳細な地図や海上保安庁による海図などにあたって下さい。


前述したように沖縄諸島最南の久米島と先島諸島最北端の宮古島との間には三〇〇キロという一島もない大海が広がっています。さらに、距離から言っても、広さから考えても、本来、この先島諸島が沖縄とは別の行政単位を形成していても決しておかしくないように思えます。事実、薩摩以前の琉球王国の支配もこの先島までは実質的に及んではいなかったとも言われており、この一帯の独特の文化を決定したのもこの遠さであり、改めて三〇〇キロという距離の大きさを考えさせます。

  もちろん、この表に書かれたものの外にも多くの島があります。イザイホーで有名なノロと呼ばれる巫女の島=久高島は沖縄本島の直ぐ傍に浮かんでいますし、“ちゅらさんで有名になった小浜島や気象通報で良く耳にする南大東島もこの先島諸島の一つになります。

 図表によって大体のイメージはつかんで頂いたと思いますが、事実上、日本本土よりもむしろ台湾に近いこの先島の事を考える時、日本本土もこの弧状列島の一つでしかなく、日本人も、また、この島のさらに南から渡って来た人々によってその一部が形成され、その後もその影響を受け続けてきた事を考えさせられます。

さて、話を進める前に行政単位という退屈な話をしておきましょう。八重山諸島の中で、というよりも沖縄を除く琉球諸島中最大の島が西表です。ところが、現在この島には二千人足らずの人しか住んでいません。さらに驚くのはこの西表が竹富島という小島を中心にいくつかの島で構成する竹富町(竹富島、小浜島、黒島、新城島、波照間島、嘉弥真島、西表島・・・)に属し、隣の西表なみに大きな石垣島にその役場が置かれている事です。


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観光船が所狭しと並ぶ石垣港


つまり、竹富町の役場は行政区画が異なる石垣市の石垣港に置かれているのです。このことについて司馬遼太郎氏は 『街道をゆく』6沖縄・先島への道 でこのように書いています。


右側が石垣島で、左側が西表島である。とくに西表島は非サンゴ礁の島で山もあり、その山も峰々がお

りかさなっていかにも深そうだし、げんに面積からいっても県下では沖縄島本島に次いで二番目の大型の

島である。

「あれだけの島なら、あの島がこのあたりの中心になっていそうなものですね」と、オート三輪さんにきくと、それがおもしろいものでそうでもないんですね、といった。

このあたりの島のおもしろさは、島の大小だけでは島々の政治史が測れないのである。この竹富島は地図でみてもわかるとおり、ちっぽけな隆起サンゴ礁なのだが、それが本土の室町期には、となりの大きな石垣島や西表島、またそれらをふくめた八重山諸島ぜんたいの総督府(蔵元)が置かれていたという事実が、ちょっと理解できない。・・・中略・・・しかしほかに、マラリアその他の風土病がないのはこの竹富島だけだったからという説もある。

(以下、ふり仮名については全て省略:古川注)


348-3


先島諸島 八重山列島の南に波照間島が小さく見える。宮古島との石垣島の間に多羅間島が見える。

司馬氏は先島でも石垣島と竹富島を訪れ、さらに遠い与那国や波照間に行こうとしています。現在、多くの人は石垣からヤマネコの棲む西表に向かうのですが、文中(前述同書)から察する限り(「ずいぶん考えてみた」とはしていますが)、西表には行こうとしていません。むしろ、一から、さらなる辺境の島を目指しています。結局、日程の関係から、実際には存在しない、まぼろしの南波照間島の伝承にふれただけで波照間島行きは断念し、さらに遠い国境の島与那国に渡っています。

もしも、私に三度目の先島への旅があるとしたら、司馬氏が行こうとしたように、波照間や与那国といった最果ての島に足を向けるような気がしています。


西表島は古見島と呼ばれていた

 石垣港から高速船に乗り、四、五〇分も走ると大原港さらに上原港に着きます。イリオモテヤマネコがいまなお息づく島、西表です。

 この島は司馬氏も書いているように、竹富や宮古列島の多良間のような珊瑚礁による平たい島ではなく、周囲八〇~一〇〇キロ、四〇〇メートルを越す数峰を持つ、面積だけから言えば八重山諸島最大の島なのです。

 民俗学者柳田国男の遺作とも言うべきものに『海上の道』がありますが、この中の根の国の話11 古見の島の盛衰)には、このように書かれています。


・・・古見がかつて一たびは南島文化の一中心であって、しかも近世に入ってから他に類例もないほどの激しい盛衰を経ているということだけは、弘く世上に向かって是非とも説き立てて置かねばならぬ。 ・・・中略・・・ 最初にまず西表という現在の島の名だが、もとは普通に古見の西表、すなわち古見という島の西の船着きを意味しており、そこの開発もかなり古く、多分はいわゆる倭寇時代の船の往来によって、発見の端緒を得たものかと思うが、・・・


とあるように、古くは古見の島、古見島と呼ばれていたのです。古見は古見岳から東南に流れ下る古見川が入海に吐き出す河口に位置する当時の首邑であったわけです。  


 さらに柳田によると、


・・・とにかく明治の新時代に入ってから、ここが汽船の航運に利用されたのは必然であったうえに、さらに南島としては珍しい石炭層がほんの僅かだがこの渓谷に発見せられたために、ここが重要なる寄港地となってしまい、それに引き続いては労働力の供給問題、島の人たちはちっとも来て働こうとしないので、囚徒を入れまた浮浪者や貧窮人を連れこんで、ひどい虐待をしたことが評判になり、いわゆる西表炭鉱の惨状が新聞に書き立てられて、若年の私などは、是で始めてこの名の島の存在を知ったような次第である。

『海上の道』

とあります。


それはさておき、私はこの古見地名が、柳田の思惑とは別に、吐き出される葉木(表記には、吐、萩の他にいくつかの類型がありますが、いずれも吐き出すの意味です)の類型地名である五味の可能性もあると考えています。

 この五味地名は南九州にも多くの例があり、たいていは大河川に脇から谷川が一気に流れ込む(つまり咳こむ)場所、合流部に位置しています。

広辞苑を見てみましょう。


 【込み上げる】

   《自下一》

 いっぱいになって、おさえてもあふれ出そうになる。「喜びが-・げる」「涙が-・げる」

 胃から食物をもどして吐きそうになる。・・・


西表島は人口が二千人程度、大半が照葉樹の森に覆われています。石垣島の人口が四万人であることを考える時、私には石垣島より大きなこの島に人が住み着かなかった理由が未だに理解できていません。これについては、マラリアで多くの死者が出た事が原因であったとされてはいるのですが、今もってその説明には納得できないでいるのです。

これについても柳田は(11 古見の島の盛衰)において、島津の検地資料「琉球郡帳」を引用しながらこのように書いています。


 村の連合の日本で郷と謂った区域を、もうこの頃から南方では間切と呼んでいた。現在のいわゆる西表島を二つの間切に分かち、西半を入表間切、こちらはすなわち古見間切で、五つの村の外に小浜という島がこれに属していた。入表の間切は畠方の五石八斗に対して、田方が千二百六十七石あったのに、古見の間切の方は畠も九十七石余、田は千八百七十石以上、この畠はいわゆる常畠であって、焼畑、切替畑はこの外かとは思うが、それにしても米の公称産額はこの通り多く、それだけでも稲の神の恩恵の異常に豊かな土地であったことが察せられる。しかるに地形は今もほぼ元のままなるにかかわらず、それからの三百年間に人口は激減し、宝暦三年(一七五三)の『番所日記』には、それでもまだ七百六十七人とあるのに、最近は十戸という報告もあり、或いは新たなる移住者が招き寄せられて、ふたたび百人になってきたともいうが、勿論是は旧時の伝統を保持する人々ではなかった。

   主たる原因はマラリアの流行ということが、古くから認められていた。しかもこれらを原因たらしめた此方の弱味に、栄養の欠乏と気力の減退、さらに付け加えて希望と信仰との、目に見えぬ急激なる一頓挫があったのではないかと悲しまれる。・・・

『海上の道』


とりあえず、この払拭できない疑問はそのままに置きますが、柳田は久米という氏族が稲と稲作を携えて日本列島の裏表を北上して行ったことを意識し、奄美大島、沖縄主島にも古見、久米が、八重山群島の中にも古見、球美があることを考えていたようです。

司馬氏は、前述同書でこのことについても書いています。


 ・・・この連中(大ざっぱにいって江南人)が稲をもたらしたであろうという推測はほぼ定説化している。コメという言葉も、江南語に遺っているクメとかクミとかを語源とすることも、定説に近い。

  柳田国男は、これについて自分の発想の材料を『海上の道』でぽつりと提示しているだけで、区々とした論証に精力をつかわない。

 

    ・・・曾て私は西南の島々に、幾つかの古見又は久米と呼ばれる地域があり、何れも稲作の古く行われた痕跡らしいとして説いて置いたことがある。


というのみだが、ともかくも稲の伝来は(そのひとつの経路は)沖縄の島々をつたってきたものだということは、柳田国男にとって説以上に信念に近いイメージだったらしい。


詳しくは『海上の道』の本書にあたられる事にして、私は、さらに思考の冒険に踏み出しています。

「神武天皇東征」神話はどなたもご存知かと思いますが、いわゆる神武歌謡に登場する「久米の子らが・・・」の久米という氏族の起源までを沖縄諸島の久米島はもとより、この西表島のかつての稲作地帯の古見とまでしたいのですが、許されるかは、元より不明としか言い様がありません。そして、コミ、クウミ、クミ、クメ、コメ、とまでも思考の暴走に逸るのです。

多少、制動を加えるために、大江健三郎による解説を見てみましょう。ここで氏は中村哲氏を引用しています。


 《稲作文化を伴う弥生式土器の南限は沖縄の先島には及ばないために、考古学の領域では、北方からの文化南下説を有力にしているが、柳田もそれに正面から反対しているわけではない。しかし、黒潮の流にそった『海上の道』を終世の課題とした彼は、この最後の遺書とも言える問題の書のなかで、原日本人の渡来については、沖縄の人と文化が南方とつながりをもつことに注目して、その論理の延長の上に考えようとする思考がある。それを自分の仮説であるといいながら、晩年に至るまでいささかもゆるめようとはしていない。それは北方からの文化南下説を正面から否定しているわけではないが、あたかもそれは有史以後のことで、原日本人そのものが始原の時代においては南から島づたいに漂いついたもので、その際、途中で離島に残ったものが原沖縄人であるというもののようである。・・・》


『海上の道』解説(『新版柳田国男の思想』法政大学出版局刊)


とあります。今回、私が先島を訪れ最も興味を抱いていたテーマは、稲作とその文化複合と照葉樹林文化の連関、その伝播ルート、南方起源、北方起源、江南直行ルートだったのです。


ユゴイ


 西表島の面積に対する人口の薄さが古来のものではなかったことは分かるのですが、依然として私の疑問は消えません。もしも、マラリアだけが原因であったとしたら、さらに、南の島々でなぜ絶滅が起こらなかったのかが理解できないからです。

しかし、その原因はともかくも、結果として実に多種多様な動植物と壮大な自然が残されたのです。

昨年九月は東側の仲間川流域のマングローブ林を見て廻っただけだったのですが、今回は石垣港からさらに遠い西側の浦内川流域に向かいました。マングローブが生い茂る汽水域の内湾の湾奥で船を降り、そこからは亜熱帯のジャングルの小道に入り、ただひたすら、中流から上流の入口に当たるマリユドウの滝とカンピレーの滝付近まで徒歩で入り込みました。つまり、西表の懐まで入ったのです。

毎日、テトラポッド、張ブロックといったコンクリート構造物と杉、桧などの針葉樹のを憎しみを抱いて見続けているのですが、西表には一部を除いて気になるほどには見当たらないのです(もちろんこれは私も日常に麻痺されているからでしかありません)。

 まず、そのことだけでも心が多少は和み、非常に落ち着いた気分になった事は事実です。しかし、それを遥かに超える迫力をもって迫ってきたのが生物の豊かさでした。

まず、最初に飛び込んできたのが乗船場付近の水の美しさと魚種の多さでした。特に驚いたのはヤガラの子と思しきもの(これは後にサヨリの幼魚と教えて頂きました)が無造作に泳いでいたのです。こんなものは中々本土ではお目にかかれるものではありません。

上流に向かうボートからは、圧倒的に豊かな森が広がっています。マングロープ林とは総称に過ぎませんが、多くのヒルギ(オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギ・・・)によってなる大マングローブ群落、そして、それに連なり山の頂にまで駆け上がる多くの照葉樹群落はやはり圧巻と言うべきでしょう。そして、その中にイリオモテヤマネコを含む多くの動物が育まれているだろう事は疑う余地がありません。

湾奥の船着場まで七、八キロも溯上すると岩場があり下船します。ここからは陸行する事になります。百メートルも歩くと、直ぐに広い川原に出くわします。豊かな川の流れ込みの中を見ると、二〇~三〇センチ級の淡水魚が逃げもせずに悠々と泳ぎ回っているのです。それどころか、足を水につけると小魚が足を突付いてきます。本土の川も昔はそうだった事を思い出させてくれます。後で、大きな淡水魚は何かとガイドに尋ねると「恐らくユゴイかオオクチユゴイと思います」とのことだったのですが、帰って、図鑑で調べると明らかに違うように思います。私には形や斑の模様からニジマスの仲間にしか見えなかったのですが、今のところ確証を得ていません(これについても同じルートからやはりユゴイと教えて頂ました)。

もちろん、西表には本土の卓越種である鯉や鮒の類が存在しませんが、それは、日本本土が大陸と繋がっていた時代においても、この西表島が切り離された孤立島であった証拠とされているようです。

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