スポット058 徳島県阿南市の佐田神社は猿田彦を祀るのか?
20161013
太宰府地名研究会 古川 清久
徳島県阿南市の南側から東に突き出した二つの半島がありその一角に佐田神社があります。
今回、訪問し写真を撮ったものの、何故かSDカード失い、この半島の周辺だけ写真を喪失していました。
このため、非常に困ったのですが、火(ホ)と「ニワ」と鍋釜と言う良質のblogがあったことから無断ながら有難く借用させて頂き、一応、リポートの体裁を取らせて頂くことにしました。
9月30日から10月7日に掛けて、7車中泊8日1900キロ(架橋のみ高速利用)50~60社という南阿波~東土佐の神社調査を行いました。
南阿波の調査で最も見たかったのがこの佐田神社でした。
そもそもこのような場所に佐田神社なるものがある事自体も一般にはほとんど知られていないでしょう。
徳島市の南、阿南市のまた南に東に突き出した二つの半島の一角に佐田神社があります。
二つの半島の一角と言うよりも先端に佐田神社があることから、直ぐに谷川健一の佐田=サダル神の話が頭に浮かんで来ます。
これまで、この四国の東の先端部に佐田神社があることは知っていましたが、現地も踏んでいない事から接触のある人にも全く話していない事でしたが、今回、現地を踏んだことから、改めて考え直してみたいと思います。
南から、鹿児島県の大隅半島先端の佐多岬
四国の最西端の八幡浜市の佐多岬
四国の南西端の足摺岬の佐多
谷川健一は足摺岬も蹉跎とも書き佐田と読める事からこれも佐田だったと考えていたようです
ここで、今回の徳島県のかもだ岬にも佐田神社が置かれている事を考えると、ある時代、ある民族が住み着き、彼らが岬をサタと呼んでいたのではないか、つまり、岬と佐田に何らかの関係があったことはだけは否定できないように思うのです。
それは、谷川健一が「日本の地名」外において、沖縄でのフィールド・ワークの実例から、岬にはサダル神が宿り、岬をサタと呼んでいた可能性を指摘しているのです。
恐らくここもその一例であったようなのです。
谷川は沖縄に200回言ったという(実際に宴会の席の会話の中でその話を直々に聴きましたが…)人であり、師匠である柳田国男以来の南から北に向かう列島の民族形成の一端をこの佐田地名に意識していたのです。
ただ、以下の本土のサタ岬の三例は知っていたようですが、この徳島県阿南市のカモダ岬に佐田神社が在る事までは知らなかったようです。
ここでは、このカモダ岬に佐田神社が置かれていたことを持って、谷川が指摘したサタ=岬と言う公式の一例を追加したとまでは考えているのですが、谷川が展開した後半部のサタ→猿田という公式には同意できないという反論に、なおも拘ってみたいと思うものです。
さて、今回、画像を無断借用させて頂いたblog「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」氏も、リポートの中でこのように書かれていました。
扁額を見ると「佐田神社」。「猿田彦」が祀られている可能性が極めて高い。僕の感は当たっていたようだ。島根県にも「佐太神社」があり、「猿田彦」と深くかかわっている。
たまたま、神主さんが出てこられたので、挨拶をし、祭神を質問してみる。「猿田彦大神」。やっぱり!
「火(ホ)と「ニワ」と鍋釜」氏は谷川健一説も把握され、神社にもかなり詳しいことが直ぐに文中から読み取れましたが、“佐田神社に猿田彦が祀られている”という件にはやはりという思いがしています。
不幸にも宮司にも会えず、画像さえも失ってしまった当方からすると、「実質的な聴き取りもできていないなかで何を…」と言われそうではありますが、現地を見るとここでも祭神の入れ替えが起こっていたのではないかという事が透けて見えてきたのです。
まず、佐田大神と猿田彦は全く異なる神様なのです。
それを、佐田は猿田彦大神以外にはありえないと錯覚し強制したのは明治の神祇官以降の伊勢神道であった事を当方は知っているのですが、それについて知りたい方は、ひぼろぎ逍遥 051「出雲の佐田神社と安心院の佐田神社」を読んで頂きたいと思います。
PDF「列島縦断地名逍遥 - 116 ページ - Google ブック検索結果」より
そこでは、佐田大神とは猿田彦(山幸彦)以外にはありえないとしたのが伊勢神道と言っても良く、それまで江戸幕藩体制の下で権勢を誇っていた徳川政権の背後で暗躍した天海僧正以来の山王一実神道の中心的な神こそが、佐田大神=山王社=日吉神社=日枝山王権現=松尾神社=大山咋神だったからです。
つまり明治の伊勢神道の跳梁跋扈は、旧体制で影響力を誇った山王日吉信仰=佐田大神信仰を、猿田彦を持って潰しただろうことが見えてくるのです。
ちなみに佐田大神とは、阿蘇の草部吉見神(海幸彦)と宗像の市杵島姫との間に産れた大山咋神なのです。
そして、その子が第10代贈)崇神天皇と格上げし、自らをその末裔であるとしたのが藤原氏だったのでした。
ここまで見てくると、本拠地である紀州を経由し伊勢に廻った猿田彦=佐田彦の直接的な出発点は、この地ではなかったかと思えるのです。
何故とならば、ここには阿南市椿町があり、椿中学校、椿小学校、椿泊保育所…が並んでいるからです。
伊勢の一の宮椿大神社が主神として猿田彦を祀り、椿をシンボルとしていることは言うまでもありません。
しかし、何よりも重要なのは、この佐田神社の手前には金毘羅神社が鎮座しているのです。
金毘羅神社の祭神は通説では大国主命とされていますが、百嶋神社考古学では佐田大神=大山咋神とするのです。
PDF「フォッサマグナ・中央構造線を行く: 断層沿いの交易路と文化流通の軌跡」より
ここまで見てくると、谷川は、海に突き出した岬が来訪者を先導すると言う意味でサダル神とし、それがサルダと転倒し、さらにサルタと清音化し、その上にサタになった…といった非常に苦しい言い回しをしているのですが、列島の南の岬に宿るとされたサダル神が、そのまま持ち込まれ、岬がサダル、サタル、サタと呼ばれていたと理解する方が自然で余程合理的なのです。
してみると、この阿南市の佐田神社とは岬がサタと呼ばれていたことから佐田神社と呼ばれ、たまたま、讃岐、阿波が忌部(出雲は「忌」の文字の置換え)の領域であったことから後に猿田彦(一時期忌部の主神であった可能性がある)が祀られたのであり、本来は共存していたはずの大山咋が祀られていた可能性も否定できないのです。
実は出雲の佐田大社もたまたま岬のような場所にあるのですが、出雲に鎮座している以上忌部の一員だったと考えています(出雲も全国に存在した忌部の領域の一つなのです)。出雲はインと読むべし。
こちらの佐田大社の祭神も現在は神祇官、神社庁のゴリ押しが通り、祭神を猿田彦として渋々受け入れていますが、元の社家と思われる方がそうでないと言う事を切々とネット上で訴えておられます。
どうやら、伊勢の椿大神社のルーツがこの阿南の佐田神社にあり、その思い込みが出雲の佐田にも向かった様にも見えるのですが、取材材料が不足しているためこれ以上の追及はやめておきましょう。
まあ、これ以上の追及は控えるとして、今回のカモダ岬もその形状から、谷川健一が「続日本の地名」で提起した永尾=カマンタ(エイの尾)地名ではないかとも思っています。
現在、谷川の発見した永尾地名を、四国で三か所発見していますが、こちらこそ列島の南から持ち込まれた地名ではないかと考えているところです。
これについては、ひぼろぎ逍遥 202~208 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”外をお読みください。