349 先 島 ② “二度目の石垣、西表紀行“八重山照葉樹の懐にて”
20160507
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
マリユドウとカムピレー
照葉樹の大森林を縫うように延びる小道を一時間も歩くと、二つの滝に辿り着きます。マリユドウとカムピレーです。河口からこの滝の付近までは柔らかい砂岩が多いものと見えて、川床には大、小、数多くのポット・ホールが見られます。梅雨明けから半月も雨が降らないとは聞いていましたが、水量は実に多く、豊かな照葉樹の森が間断なく水を送り続けている事がこれだけでも理解できます。
この二つの滝は有名な観光スポットであり、テレビなどでも良く見かけるものですが、私はどうしても、その名称に拘ってしまいます。マリユドウは“廻る淀み”とされています。これは途中の掲示板に書かれていましたが、まずは、なるほどと納得した次第です(写真を見られれば一目瞭然でしょう)。
カムピレー(カムビレー)については記載がなく、帰路、歩きながら考えていましたが、帰り着く頃にようやく気付きました。カン(カム)はカミ(カムイ)であり、ピレー(ビレー)は平らな大地などに付く本土のヒラ(ビラ)に相当します。ホテルに戻って観光パンフレットを読んでいると、カムピレーの滝には“神様が座っている”というフレーズが目が留まりました。
民俗学ではサクラ(サは神を意味し、クラは座を意味しますが、桜の語源と言われています)と同じ意味になりますが、つまり、カムピレーとはカムの座する平らな場所という意味になるのです。これも写真を見られれば地形と対応している事が分ります。
カムピレーともカムビレーとも書かれますが、ピと(ビ)は、青森のネプタ祭とネブタ祭に対応します(半濁音と濁音の対抗)。当然ながら、F音がH音より、P音がF音より古いという言語学の原則と対応しています。つまり、古くは、母は“ふぁふぁ”であり“ぱぱ”だったのです。しかし、台湾の北から青森まで、古代日本語の痕跡を辿れる事は、それだけで民俗学調査が出来た思いがします。
少なくとも、カムからカン(イザイホーで有名な沖縄久高島の親神=ウヤガンのカン)カミ(日本本土の“神”)から、再び、蝦夷からアイヌのカムイへの移行が同心円状に成立する(方言周圏論)ことを実感でき、言語学、地名学、民俗学の楽しみにしばし浸れたという思いがしていました。
ただ、この豊かな自然の西表にもリゾート開発の脅威が押し寄せています。
既に裁判闘争にも発展していますが、現地の心有る人々にエールを送りたいと思います。
現在、西表の自然は人口の薄さと、島を半周できるだけの道路しか造られていないという心もとない現実によって辛うじて保たれています。このガラパゴスにも匹敵する素晴らしい自然を守る事が、観光客を呼び込み続けることができる担保であり、自然そのものこそが永遠の宝であると認識して欲しいと思うばかりです。
ヤマネコを追い詰める西表周回道路(県道白浜南風見線)建設を阻止せよ!
赤土を垂れ流しにする農地開発事業を阻止せよ!
石垣島を北に
“石垣北端を目指したい”これは、昨年九月以来の願いでした。レンタカーを駆って、まず、始めに向かったのは白保(シラホ)の海でした。
白保小学校の東南の角には大きなアコウの木が生えています。そこを右に曲がり、百メートルも走ると左に白保の御獄(ウタキ)が見えてきます。さらにその前を百メートルも進むと、もう、そこには白保の海が一面に広がっています。
言うまでもなく新石垣空港建設を巡って猛烈な反対運動が行われ、ついに開発(自然破壊)の暴挙を押し返すに至ったあの白保の海です。
一般的に環境保護運動とは敗北、敗残、屈従、屈服の歴史といっても過言ではありません。しかし、この白保の海に来ると、それが、ただの現状維持であったとしても、数少ない“勝利の例外はありえるのだ”という実感が涌いてくるのです。白保の海は今日も前のままでした。この、前のままである=前のままで在る。という有難さを実感したひとときでした。
白保の浜(200509)
さらに、白保から北に向かいます。この石垣島東岸の道には北海道と紛うばかりの実に広々としたのどかな風景が広がっていました。私もしばらくは騙されていたのですが、この景観を自然と考えるのは言うまでもなく誤りです。恐らく数十年前まで、この地には多くの亜熱帯性の森や林が相当に残っていたはずなのです。それを徹底的に破壊し尽くしたものこそ農水省の国営農地開発事業に外なりません。事業が目的の一つにしたのは大規模なサトウキビ畑やパイナップル畑の造成でした。この開発が問題になったのは、もう、かれこれ二、三十年も前の事になるのでしょうか?農地造成によって大規模な土壌流出が発生し、南国特有の赤土が珊瑚礁の海に流れ込み、海は雨のたびに真っ赤に濁り珊瑚に打撃を与えたのでした。
農水省は、効果の見込みのない見せ掛けばかりの沈砂池を造らせ、対策は十分だとしたのですが、もちろん、粒子の小さい赤土が止まるはずもありません。森を失った一面の畑に土壌流出は止められないのです。今なお、流出は止まらず、豊かな土壌を失った畑からは栄養が日々失われ続け、肥料の大量投与と栄養の流出という悪循環が続いていると考えて間違いはないでしょう。石垣島周辺の海は、見た目の美しさとは異なり、依然として病んでいるのです。
これが、愚かな農水省がやっている国家的犯罪の現実なのです。
フナクヤ
妙なタイトルと思われるかもしれませんが、船越(フナコシ、フナゴエ)のことです。この場合、現地音のフナクヤは、本土のフナゴエ゙に対応します。
玉取崎展望台から望む=石垣島本島が北東に伸びているが船越はその最狭隘部
リポートⅠの53.船 越 において、このように書いています。
船越という地名(再掲)
船越という地名があります。“フナコシ”とも“フナゴエ”とも呼ばれています。決して珍しいものではなく、海岸部を中心に漁撈民が住みついたと思える地域に分布しているようです。
遠くは八郎潟干拓で有名な秋田県男鹿半島の船越(南秋田郡天王町天王船越)、岩手県陸中海岸船越半島の船越(岩手県下閉伊郡山田町船越)、岩手船越という駅もあります。また、伊勢志摩の大王崎に近い英虞湾の船越(三重県志摩市大王町船越)、さらに日本海は隠岐の島の船越(島根県隠岐郡西ノ島町大字美田)、四国の宿毛湾に臨む愛南町の船越(愛媛県南宇和郡愛南町船越)、……など。
インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の二三県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。
それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応“南九州には存在しないのではないか”とまでは言えそうです。
鹿児島にはないとしていましたが、その後奄美にあることを確認しましたので、ここで改めて訂正させていただきます。ただ、沖縄の船越の一つにはこの石垣島の船越地名はカウントしていませんでした。
その船越が、半島が伸びる付け根の伊原間(イバルマ)地区の最狭隘部にあったのです。このような小さな地名はやはりフィールド・ワークでなければ発見できません。この船越は西側に港があり、さらに水路が百メートルは東に伸びていますので、実際に船越をする距離は百~二百メートルで済みそうです(高低差数メートル)。当然ながら痕跡があると思い周辺を少し探すと、明らかに船越を行っていたと思える通路が真っ直ぐ東側の海に延びていたのです。
このフナクヤを利用すれば、どう見ても、二五キロは節約できるでしょう。
こういった小さな発見の連続が旅を一層面白いものにしてくれるのです。
石垣島伊原間の船越
八重山の“間”地名
伊原間(イバルマ)が出てきましたので、ここで先島の“間”地名に触れておきます。「有明臨海日記」に間地名を書きなぐっていることは既にご存知でしょう。
有明海周辺の「間」(マ)地名 (再掲)
九州北部には表記は異なりますが、間(マ)の付く印象的な地名が並んでいます。東から和間(宇佐八幡宮の神事“放生会”が行われる和間ノ浜で有名、大分県宇佐市)、中間(北九州市の隣の中間市)、赤間(JR鹿児島本線の赤間駅がある宗像市赤間、赤間神宮で有名な下関市の赤間)、福間(JR鹿児島本線の福間駅がある福津市福間)、野間(西鉄大牟田線の高宮駅そば野間大池の福岡市南区野間、福岡市南区)…和間のような海岸部もありますが、多くは内陸部の地名です。しかし、中間は古代においては古遠賀湾奥の土地ですし(“100.港湾整備事業が海岸を破壊する“参照)、その外についても五世紀あたりにはいずれも海が入る湾奥の土地だったのです。ここで広辞苑を見ると、この地名の意味が分かってきます。
ま【間】 ⑧船の泊まる所。ふながかり。
当然ながら、宮古諸島、沖縄諸島、奄美諸島にも多くの“間”地名があるのですが、現地音を確認せず、また、現地を歩かずに地名を論ずることは初歩的な誤りに繋がりますので、ここでは八重山諸島の間地名に限定して書くことにします。既に、間地名とは船が泊まる所。転じて、小平地、小集落、通り抜けられる水道がある場所であることは明らかにしてきましたが、前述した柳田国男の「村の連合の日本で郷と謂った区域を、もうこの頃から南方では間切と呼んでいた」に現れているように、間が集落や人が住める場所の意味で使われている事は明らかです。
移動の手段に船しか求められない南島では、船が泊まれる所にしか集落ができないために集落の意味で使われているのが良く分ります。さらに言えば、もしも、間地名が“船の泊まる所”の意味であるとするとき、この地名が南島起源の古代の言葉(縄文語)であること、同時に本土の間地名も南方系の集団が移り住んだ土地である可能性が高いことを予感させるのです。
石垣島 : 伊原間
西表島 : 仲間 嘉弥真島 鳩間島
あえてルールを破り、未踏の宮古列島から荒い拾い出しを行うとすれば、
宮古島 : 長間 来間島 池間島
多良間島
が容易に拾えます。
ジーシー
これまた、妙なタイトルですが、厨子の現地音です。と言っても何の事だかお分かりにならないと思います。一般的に厨子は仏像、経典などを収めるものですが、南島の厨子は骨を納めるものです。正確には納めていたと言うべきでしょう。南島における葬送に殯(モガリ)が残り、洗骨葬が最近まであったことは比較的知られています。
【洗骨葬】
遺骸を一度埋葬もしくは風葬した後、一定の期間を経て、洗い浄め、再び埋葬もしくは納骨すること。東南アジアの一部から中国東南部・台湾・沖縄・朝鮮半島南部にかけて行われる。
(広辞苑)
現在においてはさすがにないと思われますが、南島(南西諸島の意味で)では、戦後においても広く洗骨葬が行われていました。この事について現地で聴くと、七年間、埋葬した後、改めて骨を洗い改葬していました。その時、納骨し墓に収めるものが厨子なのです。これは甕であったり、陶製の箱型の厨子であったりしますが、総称してジーシーと呼ばれているのです。
もちろん、このような葬送儀礼が存在した事は知ってはいましたが、この厨子に突然遭遇したのです。前述した伊原間からニ、三キロも走ると、サビチ洞という鍾乳洞があります。三〇〇メートルほどの洞ですが、先端は海岸に延び開いていますので、海からの湿った南風が入るためか湿度も高く、それほど温度は低くはありませんが、洞内に入ると、この厨子が大量に展示されていたのです。始めは、“厨子をこのような鍾乳洞に納めるような、いわば共同墓地があったのか“とびっくりしたのですが、後で話を聴くと、これはコレクションであり、焼骨が行き渡るようになると厨子が不用になったものと想像されます。ともあれ、石垣島で最も驚いた事でした。珊瑚礁が発達する南西諸島に鍾乳洞があるのは当然であり、石垣島では市街地に近い龍宮城鍾乳洞が有名ですが、サビチ洞を訪問されるのも良いかもしれません。ちなみにサビチの意味を尋ねたところ、“寂しい土地”との普通のお答えを頂いて拍子抜けしてしまいました。
珊瑚礁の淵
ここで海の自然についてもふれておく事にします。四日間とも良い天気が続きましたが、最終日のフライトが夕方四時と遅かったために、それを利用してレンタカーで石垣島北岸の米原に向かいました。
この米原は駐車料もシャワー代も一切要らない実にありがたいビーチです。もちろん私はダイビングを目的に石垣に来ている訳ではありません。しかし、この素晴らしい海を前に泳がないでいられるほどの抑制力もないのです。もちろん本格的なダイビング・スーツやアクアラングなど持ってもいないのですが、以前からシュノーケルを使って最大一〇メートル程度は潜ってきました。シュノーケルを使うと非常に楽に泳げますので、ニ、三時間は岸に戻らずに沖合いを漂います。このように書くと溺れないのかと心配されそうですが、夏場の珊瑚礁の海というものは実に安全なのです。沖合五〇〇メートルあたりまでは水深一~二メートル程度の浅い海が広がっているのです。夏場は南東風が卓越しますので、台風さえ来なければ北西側の海は風と波の影響をほとんど受けません。
もちろん、ダイビング・スーツは嵩張りますし、だからといって、剥き出しで泳ぐのは、日焼け、クラゲ、毒魚を考えると避けなければなりませんので、私はステテコ風の軽い服を着込み、靴下を履きフィンを付け、手には軍手して泳ぎます。当然、シュノーケルは装着しますが、それで沖を目指すのです。珊瑚礁を泳ぐのはそれはそれで楽しいのですが、もちろん、泳ぎたいのは珊瑚礁が切れるリーフの淵です。
潮が動き始め流されると非常に危険であるのは十分に承知していますが、このリーフの真っ青な淵を泳ぐ喜びを知った人は、まずは、病み付きになってしまうことでしょう。さほどに美しいのです。昨年の九月には目の前に大きなミノカサゴが現れ、目と目を合わせましたし。今回も、モンガラカワハギの仲間や三〇センチ級の南方系のベラの仲間が群れて泳いでいるのです。
海は青く深く、急角度で珊瑚礁が深みに落ち込んでいます。気付くと、一〇メートルほどの底からあぶくが上がっていました。五、六人のダイビング・スーツに身を包んだ本格的なグループが潜っていたのです。昨年の九月は、流されては大変と考え一切深く潜る事はしませんでしたが、今回は度胸が据わって、六~七メートルを耳抜きしながら何度も潜り、リーフの裂け目や崖下を堪能しました。珊瑚礁の淵は餌が豊富で隠れる場所が多く、魚達にとってこれほど素晴らしい棲家はないでしょう。私は何度も何度も潜りながら、この海がいつまでもあることを願っていました。
もしも、三度目の八重山があるとすれば、次回はさらに美しいと考えている石垣島北西岸、久宇良のダフテ崎=サンセット・ビーチで潜りたいと思っています。
御 獄
御獄(ウタキ)の存在を知ったのは中公新書の「日本の都市は海からつくられた」上田 篤著(1996)“Ⅳお通し御獄”からでした。その後、柳田の「海上の道」を読んだのですが、この“お通し御獄”というフレーズに奇妙に惹かれた記憶があります。
オトオシ、すなわち遥拝所そのものが、しばしばウタキとなる。すると、ふつうのウタキとどうちがうのか。・・・中略・・・オトオシウタキは、遥拝することを主目的とするウタキである。
「日本の都市は海からつくられた」上田 篤著
昨年九月に石垣に降り立った時も御獄を見たいという衝動を抑えることができませんでした。
今回、御獄を見て廻る余裕はほとんどありませんでした。それでも、多くの御獄を見かけました。私は、以前、南西諸島の文化の影響を受ける九州本土にも御獄の痕跡があるのではないかと考え、鹿児島、熊本、長崎の島嶼部を探していた時期がありますが、全くの徒労に帰しました。そのためか、二度目の石垣島においても熱意が枯渇していたのは事実です。しかし、もしも痕跡に類するものを見出すことができたならば、改めてこの御獄を書きたいと思います。そのためには、まず、鹿児島県のトカラ列島、甑島、屋久島、種子島といったところをこの観点で見て廻る事が必要でしょう。
いずれにせよ、九州本土に戻り、福岡空港の外気にふれた時、改めて九州は涼しいと実感したものでした。夢のような四日間はあっという間に過ぎ去ります。美味しい食べ物、美しい海、豊かな人情、八重山ソバ、サトウキビのかき氷、皆さんも先島を目指してはいかがですか。
南