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401 人吉盆地の隠れ里 槻木集落再訪 “四所神社の丹生津姫”

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 401 人吉盆地の隠れ里 槻木集落再訪 “四所神社の丹生津姫”

 20160923

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久

 

肥後観光のナンバーワンは阿蘇でしょう。それに次ぐのが、パールライン(天草五橋)の開通と相まってひところ観光客が雪崩れ込んだ天草ですが、それに比べ、個性的な観光地としてそれなりに知られてはいるものの、今尚、観光客が雪崩れ込むといった事にはならず、依然、隠れ里的な山上楽園として人吉盆地は静かなブームを持続し続けています。

さて、この高峰に囲まれた人吉盆地ですが、この深部の多良木町に槻木(ツキギ)と呼ばれる秘境中の秘境集落がある事をご存じの方はほとんどおられないと思います。

今回はこの槻木の四所神社の話になります。

人吉盆地のかなり奥というのは大雑把な表現ですが、山上楽園の第二の町が多良木になるでしょう。 

この多良木町の南側には、湯ノ原山(1063m)、花立山(1105m)、黒原山(1017m)が並び、あたかも宮崎県との県境を成しているといった印象を与えています。

ところが、この盆地から花立山と黒原山の鞍部である槻木峠を越え降り落ちた所にあるのが多良木町槻木の集落なのです。

実際、この集落を貫通して流れる綾北川を降り、田代八重ダム、綾北ダムを抜ければ、近年、焼酎で宮崎県全体で鹿児島県を抜く原動力となった某焼酎メーカー(霧島酒造)の本拠地がある宮崎県の綾町に至るのです。

普通に考えれば(地形、地勢だけで)、どのように考えてもこの地は宮崎県に思えるのですが、この槻木が多良木に引き止められている理由は、この地の開発が相当に古い時代から多良木側の人々によって行われた事を物語っているようです(半島系地名語尾の「木」が一致する事でも容易に想像できます)。


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さて、この地には空海がいたと言う話があります。

事実、大師山という山の麓に御大師という集落(小字)があり、立派な大師堂までがあるのです。

今を去ること千二百年余り前、留学僧として入唐した空海が惠果阿闍梨から密教の全てを受け継いだ後、禁を犯して二年ほどで帰国した後、一年余り九州に居たとされているのですが、短期間であれ、その間この地にも滞在していたという話があります。 


この大師堂は、弘法大師が八十八箇所のお寺を作るために九州各地を巡られ、40番目に造られたものと伝えられています。現代でこそ多良木町の中心から車で1時間ほどで到着できますが、お大師様の時代に槻木まで山を越え谷を渡って来るのは大変なことだったでしょう。それを実現した脚力と精神力にはほとほと感心します。 

下槻木では旧暦の321日と821日にお大師さん祭りが行われ、太鼓踊りが披露されています。 

大師堂の近くに四所(ししょ)神社があります。この神社の祭神は、真言宗の総本山である高野山の祭神、丹生都比売(にうつひめ)で、高野山信仰が南端のこの地まで根付いていたことがうかがえます。真言宗を保護した相良氏は、島津氏との領土争いの最前線として、ここ槻木で領土の安全と敵国降伏の祈願をして南の守りを固めたと伝えられます。そのため弘法大師伝説が、この地に根強く残ったといわれます。この神社には、年に一度、113日の大祭の日に見ることができる県の重要文化財や町の有形文化財に指定された神面が祀られていて、県内最古のものの1つです。  

 

「雑学の世界・補考」弘法大師 (空海) 修行の旅より


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この槻木地区には十年ほど前に二度ほど入っています。

多良木地名研究会のS先生の御案内で、天子宮調査を行っていたついでに連れて来ていただいたのでしたが、その際にも、空海がこの地で水銀採取を行っていたのではないかと言った話をお聴きしていました。

今回も、その辺りの話を再度検証する事が目的だったのですが、この地区の中心地(槻木小学校傍)にある菅原神社と御大師にある大師堂と四所神社を再度、落ち着いて見たかったからでした。

当然ながらこの四所神社には丹生津姫が祀られています。

もう、感の良い方ならば、谷川健一ファンならずとも言わずもがなの事としてお分かりでしょうが、水銀採取との関係が容易に想像付くだろうと思います。

その起点とも言うべきものに佐賀県嬉野市の丹生川から塩田川沿いに丹生津姫を祀る数社が拾え、球磨川流域からこの槻木を経由し大分の丹生津姫神社、そして四国の構造線に沿って和歌山まで繋がる水銀採取集団の痕跡が辿れるのです。

ここについては、これまでの水銀採取集団の移動と丹生地名の移動と言ったものに関心をお持ちの方も全くご存じでないはずで、耳新しい話ではないかと思います。


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上から 大師堂 境内に置かれた悠久石 同解説盤

 

 では、四所神社をご覧下さい。

 「熊本県神社誌」では祭神を丹生明神一柱としています。

しかし、四社神社は四柱が相当であり、奇妙だと思っていると、手前に熊野座神社があり、こちらが排除された地主神(先住神)だったことが分かってきました。

つまり、熊野三座と併せ四柱だったものが、何らかの事情で分離した形になったのではないと考えるのですが、既に過疎化は極限まで進んでおり、ヒアリングをできる状況にはないことから想像する以外にはありません。

 初めて現地に入った当時、S先生は“相良入府より以前の歴史は相良によって消されており、それ以前の歴史がほとんど探れない”といった趣旨の話をされていました。

 その話の延長に思いめぐらせば、丹生都姫を持ち込んだのは空海とされているようですので、“それ以前は熊野三座を信奉する人々が住んでいたことが想像できそうだ”とまでは言って良いように思います。

 既にこのblogの読者にはお分かりでしょう。博多の櫛田神社の主神である大幡主=白族こそその先住者であることが見えるのです。

 まあ、現地のフィールド・ワークとは言うものの、泊まり込みのヒアリングでもなく軽々には判断できないのですが、こういうところで相良以前の歴史、相良以前の民族、氏族を見る以外に方法がないのです。


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「熊本県神社誌」によれば、この四所神社は祭神不詳の平谷神社と併せ、槻木菅原神社の摂社とされています。

 菅原神社と併せ、過疎化が極限まで進んでいることからいずれ地域全域が消失する可能性が高く、この神社もいずれ潰え去る運命にあると思います。

 事実、槻木菅原神社の横に置かれた槻木小学校は現在生徒一人に先生が3.5人となっています。

来年には妹さんが一年生として入校学し二人になるそうですが、そもそも数年前まで閉校されたところに一世帯入った事から復活した学校なのです。

十年ほど前に民俗学的興味で入った頃には、まだまだ活気があったという印象を持っていたのですが、農業が主産業でなくなった今日、このような僻地中の僻地に光が刺すとは到底思えないのです。


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同社に置かれた多良木町作成と思われる解説

 

では、最後になりますが、丹生都姫とはどなたかお分かりになりますか?

 百嶋由一郎先生は十分にお分かりだったようです。

 イザナギとイザナミの間に産れたのがスサノウですが(決して通説派の方々が言う様に天照の弟などではないのでお間違えないように)、その姉が神俣姫=丹生都姫であり、クラオカミなのです。

 そして、その丹生都姫と神沼河耳との間に産れたのが、春日大神、武甕槌、鹿島大神…こと阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミその人なのです。


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百嶋由一郎 神代系譜(阿蘇ご一家)

 

丹生都比売命にうつひめのみこと

 

別名

丹生都姫神:にうつひめのかみ 爾保都比賣命:にうつひめのみこと 丹生明神:にうみょうじん

 

関連祭神 高野御子神:たかののみこのおおかみ……

 

爾保都比賣命は国堅大神の子。神功皇后の三韓遠の時、この神が国造石坂比売命に憑いて、 自らをよく祭祀するならば、新羅を治める善験をなさうと教へて赤土をえた。

この赤土を、天之逆鉾に塗り軍船の艫舳に挿立て、皇軍の甲衣をも染めたため、 航海の障害に合うこともなく新羅を平伏し得た。

そこで紀伊国管川藤代の峯に奉鎮されたという。

一説には、丹生都比売命は天照大神の妹神(稚日女尊)。応神天皇によって天野に祀られたという。

高野御子神は丹生都比売命の御子神、あるいは夫神であるという。

弘法大師が始めて高野へ登った時に出現して、 「我は丹生津姫、我が子は高野童男(ふとな)」と言ったという。

丹生の「丹」とは、丹砂あるいは水銀のことで、 古代において、薬・塗料・染料・顔料に使用され、重要な資源であった。丹生都姫命は、その鉱物資源採取を生業とする丹生氏の奉じた神。

 

敬愛する「玄松子」氏による

 

 



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