406 大雨でも清流を保つ鈍川渓谷 “拡大造林政策の負債としての針葉樹林に火を着けろ”
20161008
太宰府地名研究会 古川 清久
数日前から結構な雨も降っていましたし再び雨も降りだしたことから鈍川温泉に退却し二~三時間露天風呂で休養することにしました。
ご迷惑が掛かると申し訳がないことからホテルの名称は伏せますが、鈍川渓谷に立派な露天風呂が設えられていました。
お客さんも少ないことから貸切状態の露天風呂で本を読むことにしましたが、とうとう大雨になり撤退しなければならない状態になってきました。
源泉温度22℃。「美人の湯」といわれる。源泉中のラドンの含有量が多い。温泉街の位置する鈍川渓谷は蒼社川支流木地川が花崗閃緑岩を刻んだ渓谷である。源泉は鈍川渓谷の岩隙より噴出している。
道後温泉、本谷温泉とともに伊予の三湯といわれた。江戸時代は今治藩の湯治場であった。
明治2年(1869年)に今治藩知事久松定法により開発が進められたが、交通の不便からその後衰退し、さらに大正14年(1925年)にも地元有志らにより復興されたがやはり交通の不便から衰退した。昭和27年(1952年)には道路が整備され近代的建築の温泉街が整備され現在に至る。
ウィキペディア(20161007 13:50)より
では、台風通過直後かつ大雨直後の清流をご覧ください。
雨が降ると川が濁るのは当たり前の事と考えられている方が多いと思われますが、それは全くの間違いなのです。
五十年ほど前までの日本の川は雨が降っても全く濁りませんでした。
雨が降れば、稲の苗床や田植え直後の田んぼからは確かに泥水が溢れだすのですが、絶対量が少ないため清流が保たれていたのです。
それは、水田でもほ場整備事業が行われるまでの水田は、上の田んぼからの水を引き入れ下の田んぼへと落し、上からの泥水の流速を落し流速が落ちる事から土砂を堆積させながら(実質的な沈澱池)下の田んぼに送り出すという構造だったため土壌流出は抑えられ、貴重な土壌はほとんど流れ出さなかったのでした。
ところが農水省が進めたほ場整備事業の結果、田畑切り替えがほ場ごとに行なえるように直接水を引きいれ直接排水路に落とす構造に変えられた結果、土壌流出の結果として肥料も農薬も十倍以上消費する環境負荷の非常に大きいものになってしまったのでした。
これに輪を掛け、大東亜戦争による空襲によって大半の都市が消失した結果、復興需要による木材の逼迫に、外材輸入と時期遅れの拡大造林政策の元、列島の全土で杉、檜が植えられた結果、枝打ちも間伐もされない、従って太陽光の入らない=下草の生えない急斜面に大量の売れもしない針葉樹が放置される事となり、下草のない腐葉土のない雨が降れば流れ放題の剝き出しの山床が続出しているのです。
当然にも雨となれば僅かに残された土壌と瓦礫が河川に一気に流れ出し列島の多くの川が雨が降れば濁流を流し出す川へと変わり果ててしまったのでした。
それもこれも農水省、特に林野庁(もちろん、現代の関東軍国土交通省は言わずもがなですが…)の国民と国家と国土に対する犯罪と言えるでしょうし、押し出された土砂によって多くの河川で瀬と渕が消失し、稚魚も成魚も生きてゆけない死の川に変わり果ててしまっているのです。
今、お近くの川を覗いて見て下さい。
一切魚の陰が消え失せ、あれほどいたカエルも昆虫も従って蛇も消え失せてしまっているのです。
かつて九州最後の清流との名を誇った人吉盆地の川辺川も台風通過後の濁流に覆い尽くされていました
そんなことはない!と強弁する方には、ダメ押しでもう一枚の写真をご覧いただきます。
これは平野○○という全国的にも著名な林業家と人吉盆地の多良木町の槻木地区から宮崎県に入った直ぐの場所で橋の上から撮った写真ですが、広葉樹が卓越する森から流れ出した水は透明で、無駄な針葉樹だらけの森から流れ出した水は濁っていることがお分かり頂けるでしょう。
スダーダンだかエジプトだかに白ナイルと青ナイルがあったことを思い出してしまいましたが、今や日本も環境の危機に陥り始めているのです。