スポット097(前) 全国の物部研究者の皆さんに
20170403
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
現在、百嶋神社考古学をバック・ボーンとする太宰府地名研究会メンバーによって静かに物部氏のルーツを探る作業が進められています。
物部氏に関しては筑後川流域から北の北九州~筑豊の遠賀川(古代遠賀湾)流域に展開したと考えられ、対応する地名が現存する事から各々比定されています。
ただ、その故地とされる筑後川流域に関してはほとんど進展を見ていません。
さて、偽書ともされていましたが、「先代旧事本紀」でも最も重要な 巻第三「天神本紀」から、物部25部族の筆頭に掲げられた二田物部の故地についてささやかながらも進展があったことから全国の物部研究者に公開しお考えいただきたいと考えています。
現在、北上した物部25部族については現存する地名から、芹田物部、嶋戸物部、筑紫聞物部…比定地が推定されています。
物部研究に関しては先行する多くの研究者がおられます。また、国立国会図書館デジタルコレクション - 先代旧事本紀がありますが、ここでは、読みやすい口語訳のものがありますので、そちらからお読み頂きたいと思います。
先代旧事本紀(現代語訳)
<『現代語訳 『先代旧事本紀』(Web site「天璽瑞宝〈あまつしるしのみずたから〉」)より引用させていただきました>
(1)巻第三 天神本紀
①饒速日尊、葦原の中国に降臨す
天照太神が仰せになった。「豊葦原の千秋長五百秋長(ちあきながいほあきなが)の瑞穂(みずほ)の国は、わが御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と仰せになり命じられて、天からお降しになった。ときに、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子の思兼神(おもいかねのかみ)の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)をお生みになった。
このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が、天照太神に奏して申しあげた。「私がまさに天降ろうと思い、準備をしているあいだに、生まれた子がいます。これを天降すべきです」そこで、天照太神は、これを許された。
天神の御祖神は、詔して、天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を授けた。
瀛都鏡(おきつかがみ)一つ 辺都鏡(へつかがみ)一つ 八握(やつか)の剣一つ 生玉(いくたま)一つ 死反(まかるかえし)の玉一つ 足玉(たるたま)一つ 道反(ちかえし)の玉一つ 蛇の比礼(ひれ)一つ 蜂の比礼一つ 品物(くさぐさのもの)の比礼一つ というのがこれである。
天神の御祖神は、次のように教えて仰せられた。「もし痛むところがあれば、この十種の宝を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせなさい。ゆらゆらとふるわせよ。このようにするならば、死んだ人は生き返るであろう」
これが“布留(ふる)の言(こと)”の起源である。
高皇産霊尊が仰せになった。「もし、葦原の中国の敵で、神をふせいで待ち受け、戦うものがいるならば、よく方策をたて、計略をもうけ平定せよ」
そして、三十二人に命じて、みな防御の人として天降しお仕えさせた。
天香語山命(あまのかごやまのみこと)尾張連(おわりのむらじ)らの祖。天鈿売命(あまのうずめのみこと)猿女君(さるめのきみ)らの祖。天太玉命(あまのふとたまのみこと)忌部首(いむべのおびと)らの祖。天児屋命(あまのこやねのみこと)中臣連(なかとみむらじ)らの祖。天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)鴨県主(かものあがたぬし)らの祖。天道根命(あまのみちねのみこと)川瀬造(かわせのみやつこ)らの祖。天神玉命(あまのかむたまのみこと)三嶋県主(みしまのあがたぬし)らの祖。天椹野命(あまのくぬのみこと)中跡直(なかとのあたい)らの祖。天糠戸命(あまのぬかとのみこと)鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖。天明玉命(あまのあかるたまのみこと)玉作連(たまつくりのむらじ)らの祖。天牟良雲命(あまのむらくものみこと)度会神主(わたらいのかんぬし)らの祖。天背男命(あまのせおのみこと)山背久我直(やましろのくがのあたい)らの祖。天御陰命(あまのみかげのみこと)凡河内直(おおしこうちのあたい)らの祖。天造日女命(あまのつくりひめのみこと)阿曇連(あずみのむらじ)らの祖。天世平命(あまのよむけのみこと)久我直(くがのあたい)らの祖。天斗麻弥命(あまのとまねのみこと)額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)らの祖。天背斗女命(あまのせとめのみこと)尾張中嶋海部直(おわりのなかじまのあまべのあたい)らの祖。天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)間人連(はしひとのむらじ)らの祖。天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)安芸国造(あきのくにのみやつこ)らの祖。天神魂命(あまのかむたまのみこと)[または三統彦命(みむねひこのみこと)という]葛野鴨県主(かどののかものあがたぬし)らの祖。天三降命(あまのみくだりのみこと)豊田宇佐国造(とよたのうさのくにのみやつこ)らの祖。天日神命(あまのひのかみのみこと)対馬県主(つしまのあがたぬし)らの祖。乳速日命(ちはやひのみこと)広沸湍神麻続連(ひろせのかむおみのむらじ)らの祖。八坂彦命(やさかひこのみこと)伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)らの祖。伊佐布魂命(いさふたまのみこと)倭文連(しどりのむらじ)らの祖。伊岐志迩保命(いきしにほのみこと)山代国造(やましろのくにのみやつこ)らの祖。活玉命(いくたまのみこと)新田部直(にいたべのあたい)の祖。少彦根命(すくなひこねのみこと)鳥取連(ととりのむらじ)らの祖。事湯彦命(ことゆつひこのみこと)取尾連(とりおのむらじ)らの祖。八意思兼神(やごころのおもいかねのかみ)の子・表春命(うわはるのみこと)信乃阿智祝部(しなののあちのいわいべ)らの祖。天下春命(あまのしたはるのみこと)武蔵秩父国造(むさしのちちぶのくにのみやつこ)らの祖。月神命(つきのかみのみこと)壱岐県主(いきのあがたぬし)らの祖。
また、五部(いつとものお)の人が副い従って天降り、お仕えした。
物部造(もののべのみやつこ)らの祖、天津麻良(あまつまら)。笠縫部(かさぬいべ)らの祖、天曽蘇(あまのそそ)。為奈部(いなべ)らの祖、天津赤占(あまつあかうら)。十市部首(とおちべのおびと)らの祖、富々侶(ほほろ)。筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。
五部の造が供領(とものみやつこ)となり、天物部(あまのもののべ)を率いて天降りお仕えした。
二田造(ふただのみやつこ)。大庭造(おおばのみやつこ)。舎人造(とねりのみやつこ)。勇蘇造(ゆそのみやつこ)。坂戸造(さかとのみやつこ)。
天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。
二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)。讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。
船長が同じく、梶をとる人たちを率いて、天降りお仕えした。
船長・跡部首(あとべのおびと)らの祖 天津羽原(あまつはばら)。梶取・阿刀造(あとのみやつこ)らの祖 天津麻良(あまつまら)。
船子・倭鍛師(やまとのかぬち)らの祖 天津真浦(あまつまうら)。笠縫らの祖 天津麻占(あまつまうら)。曽曽笠縫(そそかさぬい)らの祖 天都赤麻良(あまつあかまら)。為奈部(いなべ)らの祖 天津赤星(あまつあかぼし)。
饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、“虚空見つ日本(やまと)の国”といわれるのは、このことである。
による
問題はその故地を探る事であり、その結果、物部氏が如何なる勢力であったのかについての推定ができる可能性があるのです。
そこで、最も重要と考えていた筆頭の二田物部について矢継ぎ早ながら四ケ所の足跡を見いだしました。
これについては一つの切っ掛けがあり、既にblogとしても公開していますのでお読み頂いた方もおられると思います。
まず、ひぼろぎ逍遥 295 北北東に進路を取れ! ⑮ 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した をお読み頂きたいのですが、日本海側の神社調査に於いて、① 新潟県の柏崎刈羽に近い西山町二田に物部神社を発見しました。
この結果、筑豊の小竹、宮田一帯を調べると ② 福岡県小竹町に新多=ニイタ(一般の物部研究でも小竹を狭竹物部に二田物部を新多に比定しています)があり、しかも、そこが今でも陸上自衛隊の飯塚駐屯地の裏門そのものとも言うべき場所であり、古代の軍団の拠点が現代でも軍事拠点となっている事に感動をさえ覚えるのです。
最近、筑後の古代史研究から百嶋神社考古学研究に参入された宮原誠一(「宮原誠一の神社見聞諜」)研究によって、久留米市田主丸町石垣二田に二田月読神社を確認され(「久留米藩社方開起」による)田主丸町中心部に鎮座する「三夜様」こと田主丸月読神社の元宮である事を発見されたのでした。
③ この結果、筑豊は小竹町新多の二田物部に展開した物部氏の主力が久留米の耳納山の山裾から北上した月読命=大山祗を奉祭する氏族であった事が明らかになったのでした。
しかし話はここに留まりません。
太宰府地名研究会事務局の中島 茂氏が「八女にも仁田がありニギハヤヒが祀られている」と言いだしたのでした。
④ これについても3月にトレッキングに取り組み、八女市星野村の最奥部に仁田坂、仁田原、小竹(オダケ)があり、天照大神宮とはあるものの、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊らしき神が奉祭されている天照大神宮が存在していたのでした。
現在、目は更に南の熊本県熊本市植木町田底二田の二田神社に、また、島根県太田市の物部神社は当然な上に、最奥部の奥出雲町一帯に仁田郡が存在し、秋田県潟上市の八郎潟付近に二田駅があり二田神社があることから、物部の移動が見えてきたのでした。
敬愛するHP「倭国九州王朝」より 恐らく、狭竹物部は小竹でしょう。些細の「さ」は「小」なのです