スポット097(後) 全国の物部研究者の皆さんに
20170403
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
ここまで見てくると、物部の最重要氏族である二田物部は、八女以南から北上し、筑豊、島根、新潟、秋田と展開(避退)した事が見えてきたようです。そして、更に如何なる経緯でかは分かりませんが、新潟から北関東(群馬~栃木~茨城)へも展開した事が見えています。
それこそ、上州新田郡三日月村(馬を使うトルコ系匈奴=物部)の木枯紋次郎のエリアであり、新田義貞の後裔が徳川家として物部=モノノフ=武士の最終的勝利者としてほんの150年前まで物部政権を維持していた事に気付かされるのです。
して見ると、現在とは藤原系公家政権と言えなくもないもので、早く武家政権に戻したいと考えるこの頃です。
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は併せて日量1000件(年間35万件)のアクセスがあり、連携する15の百嶋由一郎神社考古学によるblogと併せれば、年間アクセスは百万件を超えていると考えられます。古田武彦九州王朝論の精神性を失い学会通説に色目を遣い、行政に尾を振る学芸員や教育委員会に講演を頼むような組織には九州王朝論の深化を期待する事などできるはずがありません。皆さんも、これまで潰え去ってきた通説派に堕し業績も残すことなく消え去ってきた研究会から離脱し研究者、探索者による研究会に参加しませんか?
去る12月18日、太宰府地名研究会では久留米市田主丸町石垣の二田の月読神社から朝倉市杷木町大山の大山祗神社への数社を巡るトレッキングを行いましたが、希望者が多かったことから2月19日に再度追加トレッキングを行いました。
問題は、この月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのかです。古代史の世界で脚光を浴びる物部氏ですが、「先代旧事本記」に於いて筆頭に掲げられているのが二田物部である事を思い出して下さい。この筑後から筑豊に展開したとされる25部族中最大勢力だったとされる二田物部の根拠地は鞍手郡小竹町新多(ニイタ)だったとされていますが、では、どこから筑豊に展開したのでしょうか、この問題に関して田主丸の三夜様が関係しているのではないかと考えて来ましたが、これまで決定打が無く考えあぐねて来ました。ところが、有馬藩による「久留米藩社方開基」外の研究を数十年に亘って続けられ、昨年、新たに加わられた宮原誠一氏(blog「宮原誠一の神社探訪諜」)の研究により、田主丸の三夜様の元宮が田主丸町石垣の「二田月読神社」であった事が分かり、ある時代のニギハヤヒ系物部氏のルーツが耳納山北麓にあり、大山祗=月読命を奉祭する氏族(民族)であった事までが見えてきたのでした。
詳しくはblog「宮原誠一の神社探訪諜」をお読み頂くとして、現在、更なる故地を求めて調査を行っています。
既に、耳納山南麓の星野村一帯は二田(仁田)原と呼ばれていた事が分かっています。大山祗神社は一~二社しかありませんが、「福岡県神社誌」を詳しく調べると17社が無格社扱いとされ事実上消されていることまでが見えてきたのでした。
では、筑豊に展開した物部25部族はその後どうなったのでしょうか?島根県奥出雲町の仁多もありますが、それは置くとして、これも、二田(仁多)物部から考えて見ましょう。新潟県の柏崎刈羽と言えば東京電力の原発で知られますが、その4キロ東の旧刈羽郡二田村大字坂田(旧西山町)=田中角栄の出身地(現柏崎市)に二田物部神社が存在するのです。
そこで、同社の神紋である「尻合わせ三つ葵紋」をご覧ください。これが徳川家の三つ葉葵の原型(実際には忌部の二つ葵が原型)なのです。徳川家康が新田(これも二田)義貞の後裔という振れこみは有名です。また、家臣団の本多、酒井も賀茂神社の社家であったとの話があるのです。つまり、物部の後裔が武士(モノノフ)の最終的勝利者となったのです。詳しくは「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)などを検索してください。では、この物部と言われた人々とは如何なる勢力だったのでしょうか?熊本市植木町にも二田地名がありますが、今のところ彼等こそ熊襲、狗奴国と呼ばれた人々だったのではないかと考えています。
2017年頭にも新たなblogが加わる予定です。これらのblog連合は事実上の研究者による連合体であり、右から聴いて左から抜けて行く従来型の共同体化した研究会とは全く異なり確実に将来への遺産となる研究者による連合体に繋がるものになるでしょう。
皆さんは、何故、熊本城の最奥部に昭君(王昭君)の間なるものが置かれているのかをお考えになった事があるでしょうか?加藤清正は確かに豊臣秀頼を迎え入れ徳川と一戦を交える気構えで熊本城を造ったと言われます。それは毒殺により実現しませんでしたが、恐らく、秀吉を受入れた木下家とは五七桐紋を使う名家であり、この栄えあるトルコ系匈奴でも呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)の流れだったからこそ、昭君の間が置かれたのではないか…と言うのが我が百嶋翁の解読でした。これ以外にも、多くのお話ができるのですが、それはblogなどで。
2016年12月18日 日曜日
玄海、太宰府地名研究会トレッキング 「二田物部の筑後側の故地を探る」
2016年12月18日 日曜日午前10:00 集合~出発 申し込みは中島まで 090-5289-2994
久留米市田主丸町イオン・タウン駐車場に集合! 参加費(資料代)500円程度…
御杖代(古川)解説、案内は「久留米藩社方開来基」から筑後の神社の解読を続ける北野町在住のM
氏ですが、新年から百嶋神社考古学(神代史)研究会の重要な一翼を荷って貰える事になりました。
現在、右から聴いて左に抜けて行く人々により業績も痕跡も残さず消滅して行くただの親睦会ではなく、また、行政、教育委員会、学芸員に尾を振り、村興し、町興し、世界遺産登録に色目を使い学芸員の話を拝聴し自らを売り込もうとするさもしい行政の芸人に導かれる似非研究会でもなく、研究者による研究会を目指していますが、また一人、新たな研究者が陣営に加わって頂いた事になります。
集合場所
カーナビ検索 久留米市田主丸町豊城1895 電話:0943-72-2573 大雨の場合は中止!
※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…
① 三夜様(久留米市田主丸町田主丸552-2) 兎の狛犬が印象的な月読命の神社を確認しよう!
② 二田月読神社(田主丸町石垣1158-1二田の岩佐幸華園付近)
筑豊に展開したとされる物部25部族ですが、「先代旧事本記」で筆頭に登場する物部氏の本体は、多くの物部研究者によって鞍手郡小竹町新多(ニイタ)に比定されていますが、その筑後側の故地こそこの耳納山の麓の石垣の二田であり、奉祭する神とは月読命だったのではないか?
③ 柳瀬高良宮(久留米市田主丸町柳瀬)
故)百嶋由一郎氏が最も重要な高良宮=玉垂宮とされていた旧瀬高町河内の玉垂宮に匹敵する筑後で最重要の古社です。祭礼には黒の五七桐と赤の三五桐の幟が並び、神殿にも桐の神紋が付されています。「高良玉垂宮神秘書」では高良玉垂命と神功皇后とは夫婦であったとされていますが、その痕跡を辿れる数少ない古社の一つです。
④ 玉垂御子神社+宮地嶽神社(久留米市北野町金島583)
何故か九人の高良皇子と宮地嶽神社が共に祀られた神社が在ります。この神社を共に祀った人々の思いとは…。
⑤ 大山祗神社(朝倉市杷木大山527)
朝倉市で12月に開催される”おしろい祭り”は、300年以上続く全国でも珍しいお祭です。中国大陸で400回飛行機に乗り8000万円遣ったと言われた故)百嶋由一郎氏は“トルコ系匈奴でも王昭君の一族がごっそり列島に入って来ている”“おしろいとは王庄昭君以外には考えようがない”と話しておられましたが、今回はその現場を探ります。百済、新羅、高句麗、秦、漢、呉、越…果てはペルシャ系まで多くの渡来系民族が入っているとされる中で、何故か古代史の世界ではトルコ系匈奴だけは触れられていません。恐らくそれが物部氏の本体であり、近畿大和朝廷にとっての最大の強敵であった熊襲に繋がるために避けてこられたのだと考えています。それが今回のテーマです。
してみると、この神社の背後の山が三日月山(大分県側)とされている事までもが見えてくるのです。
途中で1~2社が除外され追加されルートが変わる可能性がありますのでご注意ください!
現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく50~70万件になるでしょう…
トレッキング注意事項 玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には5社5ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば 09062983254 古川までご連絡下さい。参加申込等:090-5289‐2994(中島)