408 屋島神社の神様とはどなたかお分かりになりますか?
20161010
太宰府地名研究会 古川 清久
屋島神社正面
司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに“南伊予・西土佐の道”がありましたが、これまで全くの未踏のエリアであった“南阿波・東土佐の道”を行う事にしました。
本四架橋の児島~坂出ルートを抜け、まずは、徳島を目指すものの、左手に源平合戦の古戦場である屋島が見えて来ました。
屋島には屋島神社があります。
当然にも初見の神社になりますので、行きがけの駄賃ではありませんが、良い機会とばかりにハンドルを左に切りました。
屋島神社とは何かですが、既に平家が追い落とされた当時にこの神社があったかどうかも知りませんし、まずは、見学とばかりに足を向けました。
お読み頂ければ分かりますが、屋島神社とは1651年に初代高松藩主となった松平頼重が東照大権現を祀った事に始まると書かれていました。
一瞬、なんだ!と思いましたが、良く読むと山王社と書かれていました。山王社と知って腑に落ちました。
山王社を徳川に持ち込んだのは天台系の天海僧正(山王一実神道の総本社は「日吉大社」であり古くは「日枝山王社」という神社)であり、徳川の重臣の本多が賀茂神社の社家の流れを汲んでいる事とも対応しているのです(山王一実神道を全国に展開した)。
徳川譜代の最大勢力を誇った本多家ですが、家康の臣下の本多忠勝の先祖は京の賀茂神社(恐らく上賀茂系=上賀茂とは崇神天皇を祀るもので山王日吉に祀られている大山咋神の子が崇神)の神職と言われており、すんなり符合するのです。
何のことはない、屋島神社とはそんなものかと一瞬納得しかかったのですが、そんなはずはないのでした。
やはり、そうではなく、古層の神が鎮座していたのです。
権力の交代が起こると祭神の入れ替えが起こります。
ただし、大陸や半島での政争を避け列島に逃げ込んできた人々は、中国のように皆殺しにして全てを消し去るような事はしないのです。
従って、境内に摂社置かれていれば、それが、本来の神々に相当するのです。
恐らくこの神々こそが屋島神社の古層の神々だろうと考えられます。
もう、百嶋神社考古学に触れた方々にはこの神々がどなたであるかはお分かりだろうと思いますのでここでは触れません。
これらの神々についてはこれまで何らかの形で触れてきたと思います。
最後に、四国の屋島とは現在は陸続きになっていますが、かつては確かに島だったことがグーグル・アースを見られれば一目瞭然ですね、しかも、実際の戦闘は陸側の水道とも言って良い裏側で起こっており当時は屋島が文字通りの島だったことが分かるのです。
屋島の屋は屋形船、屋敷の屋であることは形状を見ても間違いがないでしょう。