409 丸山 ① “長崎の丸山遊郭に丸い山はなかった!しかし、遠く台湾、広東にも同じ地名が…。”
20161010
太宰府地名研究会 古川 清久
はじめに
何故か司馬遼太郎によって奇妙にも持ち上げられた坂本龍馬が跋扈し、ただの抜荷まがい集団でしかなかった亀山社中が拠点としたのが丸山であった。
にもかかわらず、この界隈には、どの大型店も出店が可能なほどの土地が確保できないためからか、日本の伝統的な商店街が今も賑わいを見せ、出島、新地、浜ノ町アーケード、浜屋、観光通り、銅座、丸山、思案橋…と、今なおエキゾチックな香りを漂わせている。
さて、徳川幕藩体制の時代、一般的には“日本は鎖国によって西洋列強に遅れてしまった”などと言われるのだが、私は全くそのようには考えてはいない。
ポルトガルやスペイン(これは短期間だったが)から、何の宗教性も持たないただの金儲集団のオランダの旦那衆へと貿易相手を慎重に変更し(これ自体は実に正しい選択であったが)、中国、朝鮮とは貿易どころか数千年に亘る外交通商関係が存在していたことは言うまでもない。
凡そこんなものが、棺桶に鎖を巻くがごとき表現の「鎖国」と表現されることは土台間違いであろう。
国家的中断はあったものの(主として混乱期は海賊的私貿易と化したが)、中国、朝鮮とは、間断なく通称し貿易が続けられていたのであった。
もしも「鎖国」という言葉を正確に表現すれば、徳川政権による外国貿易の国家独占(まだ形式的には統一国家は成立していないため国家独占でないのだが)が行なわれていただけであり、事実上は幕府がその実力を持っていたことを示していた。
つまり、徳川幕府だけが貿易利権を独り占めにするという選択が通用していたのだった。
言うまでもなく、我々は明治以来連綿と“鎖国という誤った政策が続けられたために、西欧列強に対して国家的発展が遅れてしまった”などと教え込まされてきたのである。
しかし、それは、明治の維新勢力よって“いかに幕藩体制下の階級社会、閉鎖社会が社会的発展を阻害してきたか!”というプロパガンダが行なわれ、この自由貿易などという馬鹿げた宣伝を信じ込まされてきたに過ぎなかったのであり、今なお、この国家的デマ宣伝、国民的錯覚の影響下にあると理解しておく方が良いだろう。
ともあれ、この時代(福田浦から出島に変更以降)、この長崎には巨大な国際貿易港が出現していたのであった。
川勝平太(元慶応大学教授/現愛知県知事)も言うように、“徳川の世の鎖国によって日本は世界から取り残された”とする通説=俗説は、尊王攘夷から開国、文明開化、欧化政策へと走った明治政府による政治宣伝に過ぎなかったのである。
ただ、ここには例外がある。薩摩藩である。
彼らは暴力的に占領、支配した沖縄を藩内の通商と称し、中国、台湾、ルソンと通じ、幕末期、ほとんどの諸藩が財政破綻に苦しむ中、事実上の密貿易により維新で身軽に動ける財政的基盤を造り出していた(まさしく薩摩藩の維新での雄飛は「鎖国」の賜物)。
話を戻すが、松浦党が秀吉によって滅ぼされたのも、また、幕府が平戸藩を残し松浦党を隔離したことも、所詮は貿易利権を独占するためのものだったに過ぎない。
このように日本(幕府)は世界情勢を十分に把握した上で、アウタルキー経済を確立し、世界最高水準の教育と必要なものは全て国内生産で間に合わせられる社会を実現していたのであった。
(福田浦は見た目にも良港と言えるものでなく、数年前に訪れ、僅かに残る浜辺を確認して来たが、写真はそのときのもの:古川)。
丸山という地名
さて、今回のテーマ、「丸山」という極ありふれた地名について考えて見たい。
まず、地名を意識し続ける日常を送っていると、なぜか、この丸山という地名や屋号といったものに何やら怪しげなイメージが付きまとうことに気付く。
少なくとも、長崎の丸山は遊郭のあった一帯に付されたものであったことは明瞭であり、遊郭との関係以外では考えようがない。
しかし、何度足を踏み入れようが、丸い山とか丸い丘といったそれらしき地形を見出すことは全くできなかった。
これは、この地の丸山地名が自然地名ではなく、外部から持ち込まれた文化的地名ではないかとの示唆を与えている。
私には釣りに狂っていた時代があった。年間五十回(延べ六〇〇時間)という釣行も珍しくなく、佐賀、長崎、熊本、鹿児島の島嶼を中心に、文字通り津々浦々に入っていた。
そうした折、平戸島東岸の千里ケ浜に続く一角にある川内町にも良く足を向けていた。
この奥まった浜は冬場の北西風を遮ってくれることから、強風で釣りにならない日にはたいてい逃げ込んでいたからであった。
こうした地形の上に、東方には九十九島という多島海もあり、この地が海賊行為から怪しげな貿易の拠点としては申し分のない地であることに百言を待たずして到達してしまう。
釣りにしか頭が回らない時代が過ぎ去った頃、実に迂闊といえば迂闊だったのだが、この一角に丸山という小高い岬がありどうやら遊郭まであったことに気付いたのは、ようやく一九九〇年辺りのことであった。
さらに、国姓爺合戦の鄭成功がこの地で生まれた、言わば日中(湾)の混血児であったという事実にもようやく気付いたのであった。
鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン、繁体字: 鄭成功; 簡体字: 郑成功; ピン音: Zhèng Chénggōng; ウェード式: Cheng Ch'eng-kung、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) - 大明永暦16年5月8日(1662年6月23日))は、中国明代の軍人、政治家。元の諱は森。字は明儼。日本名は福松[1]。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている[1]。鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。
日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。鄭成功の父、鄭芝龍は福建省の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦(現在の長崎県平戸市川内町字川内浦)に住んで田川マツを娶り鄭成功が産まれた。たまたま、マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて鄭成功を出産したという逸話があり、この千里ヶ浜の南の端にはこの逸話にちなむ誕生石がある。
幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建に移る。鄭一族は厦門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、南安県の生員になった。以後、明の陪都・南京で東林党の銭謙益に師事している。
その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
北伐軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。
ウィキペディア(20161010 10:15)による
その頃、思い出したことがあった。佐世保港の真向かいにある横瀬浦という目立たない渡船場にダゴチン釣りというあまり一般的ではない釣りに行った折にも、丸山だか円山といった一角があり、思案橋という地名まであったのだった。
最近足を運んでいないこともあり、確認の意味からインターネットで探って見ると、「ちゃんぽんコラム」というblogに遭遇した。
この中の【南蛮船渡来の地、横瀬浦へ】(2005/10/26)に、今回の横瀬浦について必要なことがほとんど書かれていたことから、無断借用ながら一部利用でそのまま紹介させて頂くことにした。
今回は、…(中略)…南蛮船渡来の地、西海市横瀬浦(よこせうら)を訪ねました。西彼杵半島の北端に位置し、佐世保市に近い横瀬浦へは、JRと高速船を利用します(JR長崎駅からJR佐世保駅まで約1時間30分。佐世保駅裏手の船着き場から横瀬浦港まで高速船で約15分)。
頂きに十字架が建つ八ノ子島:これはひっくり返した鉢から付されたものか(古川)。
小さな桟橋がある横瀬浦の入江は、穏やかな波をたたえる天然の良港。港を囲む小高い丘の合間を縫うように民家が建ち並んでいます。車も少なく、静かでのどかな土地柄のようです。この地は、戦国時代末期の1562年、日本で最初のキリシタン大名として知られる大村藩の領主、大村純忠(おおむらすみただ)によって開港され、ポルトガル船との貿易やキリスト教の布教が行われたところです。ポルトガル船は以前は平戸に入港していましたが、トラブルなどがあり横瀬浦へ移ってきたのです。それまで一寒村に過ぎなかった横瀬浦には、各地から貿易商人が集まり、キリスト教徒やポルトガル人などでたいへん賑わったそうです。土地の管理は宣教師にまかせ、商人には10年間免税をするなど、貿易港として繁栄していった横瀬浦でしたが、ある日、大村藩の内乱により一夜にして焦土と化し、わずか1年余りで南蛮貿易港としての歴史は閉ざされました。その後、ポルトガル船の入港地は、福田浦(長崎市の西海岸)、そして1571年、長崎へと移ったのです。
現在、横瀬浦港の入り口に浮かぶ八ノ子島(はちのこじま)の頂きには、当時、ポルトガル人宣教師が建てたといわれる十字架が復元されています。港のすぐそばには、キリスト教徒の集落だったという「上町」、「下町」の跡もありました。
上町と下町へ(左)丸山後には遊女の墓が(中)今や暗渠と化した思案橋(右)
・・・(中略)・・・
公園内には、開港当時の様子について書かれた『街道をゆく』の一節を記した「司馬遼太郎の碑」も建っています。近くには大村純忠が教会に通うために建てたといわれる「大村館」の跡もありました。あちこちに当時の名残が点在する中、ちょっと驚かされたのは、長崎市内にある「思案橋」や「丸山」と同じ名称があったことです。遊廓があったといわれる横瀬浦の「丸山」は、「上町・下町」の集落から西側に続く丘の上にありました。そこへ向かう途中の小川に「思案橋」が架けられていたそうです。案内版によると、長崎と同じく「丸山」を前にして思案したから「思案橋」なのだそうです。
大村氏の家臣で、当時、長崎をおさめていた長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)も、横瀬浦で純忠とともに洗礼を受けたといわれています。
・・・(中略)・・・
地元の方の話によると、当時、キリスト教の布教が盛んに行われた土地ですが、現在、信者の方はひとりもいないそうです。この地の歴史を振り返ると、もし、内乱が起こらず横瀬浦の港が存続したら、長崎開港はなかったかも…などと、想像がふくらみます。歴史のロマンと面白さを感じさせる横瀬浦でした。
(以下省略、写真利用深謝)。