410 丸山 ② “長崎の丸山遊郭に丸い山はなかった!しかし、遠く台湾、広東にも同じ地名が…。”
20161010
太宰府地名研究会 古川 清久
その後と言っても二十年以上も前になるが、「司馬遼太郎の街道を行く」を読んでいると、長崎の丸山遊郭と平戸川内の丸山とには関係があると言及していることに気付いた。
併せてこの地が倭寇における最重要拠点であり、その頭目の王直が、あたかもオサマ・ビィン・ラディンがアフガニスタン東部山岳地帯からパキスタンを隠れ家にしていたように、平戸を根城にしていたことに気付くばかりか、鄭成功や倭寇が実態は明朝時代の宦官による不正や異民族の清朝への革命運動ともかなりの部分重なっていたことにも気付かされたのであった。
もはや、疑う余地は全くない。佐世保港南の横瀬浦もポルトガル船の寄港地であったことから、丸山という地名は中国貿易、従って、ポルトガル船など西洋船を含む外国貿易と関係のある地名だったのである(ザビエルも始めは中国船でやってきたとの説もある)。
平戸市川内町の丸山遊郭跡地
さらに言えば、鄭成功や倭寇が実態は明朝時代の宦官による不正や異民族の清朝への革命運動ともかなりの部分重なっていたことも徐々に分ってきたのであった。
今のところ、司馬遼太郎が触れているように、長崎の丸山という地名が平戸の丸山や横瀬浦と関連があることまでは、地元郷土史会も含め関係性を認めている(実際には司馬が郷土史会からめぼしい話を引き出しているのであろうが)。
ただ、二つ三つの例では証明できないと見てか、学者(どうせ大した数はいないだろうが)から民間研究者もそれ以上は全く踏み込んではいない。
なお、現地には鄭成功所縁の人々や台湾から旅行団、さらにはTVクルーなどの取材チームが訪れている
魚釣りに狂っていた当時、頻繁に通過していた土地にこれほどの日本史の舞台があったなどついぞ考えた事などなかったが、改めて釣人なるものが歴史に関心を持たず目先の獲物に狂奔する人種であることを自ら気付かされた瞬間でもあった。
口之津の丸山地名
地名研究会は二〇〇九年五月、島原半島は口之津へのトレッキングを行っている。
これは、久留米と口之津にオコンゴ(口之津の場合は苧扱川など三つのオコンゴと呼ばれる字名があり、他に佐賀、熊本にも確認できる)という奇妙な地名対応が見られることをメンバーに確認してもらうためのものであった。
同じくこの前後に埋立が進んだ旧口之津港の湾奥にも久留米の高良大社と同系統の高良山神社があり、その下に丸山という小字地名が残っていることを発見していた(旧口之津町字図参照)。
言うまでもなく、この口之津港もルイス・フロイス(『日本史』の著者)やルイス・アルメイダと言ったポルトガル宣教師(実態は日本人婦女子の奴隷商人)が拠点にした貿易港であったが、当然にも唐人町、東方(トウボウ)と呼ばれる一角が残っているように、往時は中国商人も出入りしていたことが現在でも容易に理解できるのであった。
とすると、平戸島の川内町の丸山、佐世保港沖の横瀬浦の丸山、思案橋の丸山、島原半島口之津の丸山、そして、東方(恐らく唐坊の意)、長崎、出島奥の丸山、思案橋などが、中国貿易商人によって付された地名であることは、ほぼ間違いないように見えてくる。
問題はその重複する期間であり、前後関係であろう(出島に移る直前に短期間利用された福田浦に丸山に相当する地名は今のところ確認できない。
ただ、時代が降るポルトガル船の寄港地となると、事実上野放し状態であったためか、玉名市の伊倉を始め山陰の益田市などにも数多く存在し、まだまだ類例はあるものと思われる)。
付随して話をしておくが、唐坊、唐房、東房、東方…といった一連の地名が北部九州を中心に分布している(博多、唐津、口之津…薩摩では旧加世田市にも)。
この地名群についても、民俗学者の谷川健一により「甦る海上の道・日本と琉球」(文春新書)が公刊されており、同書で、沖縄との関係から、主として坊津や加世田の唐人街を取り上げている(唐津の唐坊について谷川は言及していない)。
このことからも、中国人貿易商の居留地としてのトウボウ地名を確認することができる。
現在でもこれらの地を踏むとそれなりの雰囲気が今でも伝わってくる。
かつて、柳田国男は「海上の道」において南から日本への分化伝播を探ったが、その弟子とも言うべき谷川はこの本で日本から南への伝播を描いている。
これで丸山地名は解決したのか
丸山地名がポルトガル、スペインなど西洋船、従って中国船の寄航と関係があることは言うまでもなくなったが、では、この地名を最初に付した人々とはどのようなものだったのだろうか。
いくつかの可能性があるが、それほど単純ではない。
それは、地名が学問として成立し難い最大の理由とも言われる地名成立時期特定の困難性による。
何故ならば、卑弥呼の時代はもとより、親魏倭王や漢委奴国の時代にも大陸との交流が存在したことが明らかである以上、その時代から九州には中国からの人々(高官から水夫に至るまで)を受け入れる何らかの饗応施設があったことが容易に想定できるからである。
ただ、ここに極めて安直な仮説を提出しておきたい。
私は鄭成功の一族やその家臣、同志の末と思しき人々が現在でも平戸の千里ケ浜の鄭成功廟に参詣に来ているのに何度も出くわしている。
このことから、もしかしたら丸山という地名が台湾にあるのではないかと考え、メンバーで中国語に堪能なY女史に教えを請うと、直ぐに「台湾の台北には圓山飯店がある」との答えが返ってきた(もちろん中国全土にあるが…)。
始めに調べたのは当然にも台湾東北部の基隆(キールン)や戦時中の花蓮港周辺であったが、意外にもそこにはなく、台北の傍を流れる淡水の河口(台北からは直ぐのところ)に圓山という地名があることに気付いたが、その後も広東省の海岸部を中心にかなりの圓山地名があることを発見した。
まず、長崎の丸山地名の起源がこの一帯にあることは違いないだろう。
ただ、それがどこであったかを調べるのは、最低でも広東省、福建省辺りの圓山地名を調査する必要があり、まさに攻勢限界点を超えている。
また、これが店名や商号といったものにとどまらず、多くの地名にまで高まっていることから単純に民間起源とも言い難く、行政が関与した可能性も一概には否定し難い。
最後に、渋谷の道玄坂の円山町は置くとしても、新撰組が闊歩した京都の祇園にも円山公園(これは丸山とは表記されていない)があることは頭に入れておくべきであろう。
いつの時代、世界の如何なる場所においても、水夫と遊女、従って娼郭が切っても切れない関係にあることは言うまでもない。
これは、福建海賊からマドロスに至るまで共通したことであった。
江戸時代に入り、キリシタン禁教が徹底するようになると外国船との関係は長崎に限定されたことから、丸山地名は国内の廻船航路上に展開し、丸山が遊郭の代名詞のように取り扱われたのかも知れない。
ひとつの寄港地が消えれば、その水夫(カコ)を相手にする遊女たちも新たな寄港地に移ることになった。
こうして丸山地名は政変や航路の変更などによって絶えず浮浪したということだけは間違いがないものと思ってみた。
最近、倭寇、倭人、倭国を考えていると殆ど同じではないかと思うに到った。これは別稿としたい。
(20120517再改版)20110501
補足
種子島を通じて鉄砲が伝来したのが一五四三年、一五四九年にはキリスト教が伝えられ、各地の大名は、先を争って貿易のためポルトガル船の入港を求めた。
ポルトガル船は、肥前では、前には平戸に入港していたが、後に、横瀬浦(現西海市)、福田(現長崎市)、口之津(現在南島原市)と寄港地を変えた。
しかし、ポルトガル人は、福田や口之津ではなく、大村純忠に天然の良港長崎を開港するよう求めた。
一五七〇年に長崎の港内の岬状の地を開き長崎を開港した。
一五七一年にポルトガル船入港。
一五八〇年から長崎市の茂木町はイエズス会の領地となる(浦上は一八五四年に)。
キリスト教を嫌った豊臣秀吉は一五八七年に伴天連(バテレン)追放令(宣教師追放令)例を出し、翌年には領地をイエズス会から没収、以後直轄の地とした。さらに一五九七年には京都や大阪地方で捕えられた宣教師やキリシタンを長崎へ送り、西坂の丘で処刑した(二十六聖人の殉教)。
このように秀吉はキリスト教を弾圧したが貿易には無論、積極的であった。
この方針は、徳川幕府に受け継がれ、長崎を天領として奉行を置き、徳川家康の積極的な貿易政策で、長崎はポルトガル船ばかりでなく、中国船の貿易港としても栄えたのだった。
一六一二年になると家康は、キリシタン禁教令を発令し、二年後には、長崎の教会を全て破壊させた。
二代将軍秀忠の時代になると禁教令はますます厳しくなり、一六二二年には、五十五人の宣教師やキリシタンが一度に長崎の西坂(現長崎市西坂町)で処刑された(元和の大殉教)。
明治以降、特に敗戦後、国内ではアメリカを意識してか、秀吉以来、徳川幕府がなぜキリシタン禁教に踏み切ったかを語らないが、その背景にはイエズス会を尖兵とするポルトガ船が黒色火薬の原料の硝石と交換するために大量の日本人婦女子をジャカルタなどに売り捌いていた事実があった。
アフリカの黒人奴隷の三角貿易と同様の事実を把握していたからであった。
王 直
王直。当初は塩商人と言われる。
塩は歴代の中国王朝にとって貴重な財源であり専売制であったが、一方で私塩も売買され、地下組織が動いていた。
この塩売買から撤退した王直は、日本、ルソン、安南、シャム、マラッカなどに渡り、巨利を得た。
後には薩摩の坊津や五島列島の福江島を本拠とするようになる。
松浦隆信の時代、この王直を平戸川内に誘致した。
実はこの王直がポルトガル船を呼びこみ鉄砲伝来となった。
長崎はイエズス会によって開かれた町であったことは否定できない。
平戸、口之津、横瀬浦をさまよい、福田に移り長崎へと移動する。
追記
イエズス会のポルトガル宣教師が戦国期に日本の婦女子を海外に売り飛ばし(一説には35万人もの婦女子が火薬一樽婦女子50人の比率で交換された)ていた=奴隷貿易を知った事から秀吉は宣教師追放令を出し、家康もキリシタン禁教令として踏襲したが、開国後の日本はこのイエズス会系マフィアによって明治維新を行った事から、敗戦後もアメリカを気遣ってこの事については全く触れられていない。
明治以降の政府が列島を外国勢力に売り飛ばしている事が分かるであろう。