421 太白神社とは何か? “矢板市石関の太白神社” 北関東への神社調査 ⑥
20161205
太宰府地名研究会 古川 清久
栃木県高根沢町に太白神社があった 北関東への神社調査 ③ で太白神社の事を書きましたが、始めは色めきだったものの実際は尻すぼみで、単に山岳修験の人々が金星を祀ったものであって呉の太伯とは全く関係がないことが見えて来ました。
ダメ押しになりますが、見せて頂いたもう一つの(実際にはまだあるはずですが)太白神社をご紹介します
境内には庚申(かのえさる、こうしん)信仰、月山湯殿山など日光山岳修験を思わせるものがありました
二十三夜様が置かれていますが、この信仰を持ち込んだ人々とは月読命=大山祗を奉祭する実はトルコ系匈奴と考えており、月をシンボルとする人々と思うのです。
この勢力の存在に関しては列島ではあまり評価されておらず、ペルシャ系や高句麗系は許容範囲なのですがトルコ系匈奴などと言えば気がふれたとしか思われない構造になっているのです。
とりたてて、書くこともありませんので、他の太白神社を拾い出して見たいと思います。
以前取上げた高根沢町の太白神社と今回の矢板市石関の太白神社以外には栃木県内には次の二社があるだけで、余裕があれば全て見てある程度帰納演繹的に分析する事が可能になるのですが、絶対量が少なすぎていまのところこの神社がなんであるかは何とも言えません。
① 太白神社 栃木県さくら市小入268 祭神 経津主
② 太白神社 栃木県矢板市越畑97番 祭神 不明
太白神社を複数発見した事から、かなりの数見つかるのではないかと考えたのですがどうやらそうではなかったようです。
ネット検索を繰り返してもこの一帯にしか分布していないようです。
それならそれで良いのですが、
古代中国での金星
宵の明星 - 中国では、古くは、宵の明星と暁の明星とを別々の星と考えており、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)、と呼び分けていた。「太白」は金星そのものの他に、宵の明星=「長庚」を指す。
虚空蔵菩薩
太白金星 - 中国の、金星を司る仙人。「西遊記」によく登場する。
ウィッキペディア(20161205 18:27)による
これだけでは申し訳ないので、何故、色めきだったかを説明します。
太伯・虞仲
太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。
太伯は長男で、呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。
虞仲(ぐちゅう)は次男。仲雍、呉仲とも。
古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。
父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
武王は虞仲の曾孫・周章を改めて呉に封じ、その弟・虞仲(同名の別人)を北方の虞に封じた。これにより太伯・虞仲は呉と虞の二か国の祖となった。
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。
『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。
ウィッキペディア(20161205 18:37)による