422 清々しい神社一題 “栃木県塩谷町岩戸別神社” 北関東への神社調査 ⑦
20161205
太宰府地名研究会 古川 清久
常陸大宮市の某所を拠点に北関東の神社を見て回っていますが、まだ、大体の土地勘を得るための修行中と言ったところで、西も東も分からないまま手当たり次第に神社を訪れているというところです。
そうした中、非常に手入れの行き届いた清冽な神社に出会いました。栃木県塩谷町の岩戸別神社です。
岩戸別神社という名称からスサノウを祀る神社である事は一目ですが、単独調査で、車中泊を覚悟していますので、暗くなるまで廻り、帰る頃には真っ暗になっていました。
清々しい神社という印象は今も変わりません。
近年、過疎化に加え少子化による氏子の現象は元より、国民の所得の半減によって神社の経営は極限にまで追い込まれています。
お賽銭の減少から、賽銭も上げない参拝者に加え、賽銭泥棒も確実に増えているようです。
その事から、境内の清掃をする人も減り、社殿や摂社が破れている神社も激増しています。
そうした中、この神社には毛ほどもの隙はなく感心することしきりでしたが、実はそれほど喜んではいられなかったのでした。
たまたま遭遇した氏子総代の方からお話をお聴きしたのですが、ここからはお話しないことにしておきます。
さて祭神です。祭神が書かれていない顔の見えない神社も多いのですが、ちゃんと分かるように書かれています。
同社縁起
天手力雄命はスサノウであり、この地域の人々が奉祭するのはスサノウ命であることが分かります。
次に、境内神社の金山彦と一緒に書かれている金山姫と言う表現はあまりなじみがないのですが、お妃の埴安姫なのでしょうか?最後尾に八坂神社としてスサノウ、クシナダヒメの御夫婦が祀られていますので、クシナダヒメではなく、埴安姫で良いのだと思います。
問題は愛岩神社です。「日本書紀」による軻遇突智と表記されていますが、金山彦の事であり、金山神社の祭神と重複しています。
神殿は改装されていますが、参拝殿はこれからです。
さらに気になるのは愛岩神社という表現ですが、北関東では埴安彦と金山彦を石折神(いはさくのかみ)、根折神(ねさくのかみ)「磐裂根裂」になるのですが、愛岩神社と言う表現は愛宕神社の愛宕の誤りである事が分かります。
後は、水神社ですが、天水別命、国水別命とは、ミズハノメと天御中主命あたりになるのでしょう。
今回も。常陸国ふしぎ探検隊氏に登場してもらいましょう。
さすがに掘り下げてあります。
94.岩戸別神社探検記(栃木県塩谷町)
さてさて、天手力男命だったら岩戸あけではないか?あけがなまってわけになってしまったのか、それとも祭神のすり替えなのか興味を引かれるところです。
百嶋系図では天手力男命はスサノヲになります。別名手置帆負(たおきほおい)命、天日槍(あめのひぼこ)、半島の三国史記では骨正。
宮司さんの名前が和気(わき)さんといって、ご本人の弁によれば和気清麻呂の御子孫らしいのですがなぜ栃木県北部に和気清麻呂の子孫と思しき人がいるのか?
清麻呂といえば思い出すのは弓削道鏡です。県南部の下野市(旧南河内町)には道鏡が別当として左遷された下野薬師寺があります。
宇佐八幡宮神託事件の主演と助演です。
別当に左遷とはいうものの、下野薬師寺は奈良時代において、本朝三戒壇といわれるほどのお寺ですから、法王から一段下がった程度の降格でしょうか?しかし、93.古峯神社探検記で述べたように、金精峠で巨大な「持ち物」を切断しながら歩いてきたのですから、それはもう大変なことだったでしょう(笑)
また以前報告した村檜神社の隣にあった大慈寺は、737年に行基が開基したと言われていますが、下野薬師寺との関係はいかようだったのでしょうか、気になるところではあります。754年に鑑真が東大寺で聖武天皇をはじめとする430人に受戒したのが最初の戒壇です。奈良の大仏が749年に開眼して
いますから、那珂川町の健武山神社に伝わる金を提供した話があることから、大仏建立の立役者である行基が来ていた可能性はありそうです。(行基と下野の関係はさらに調査要です)では助演の和気清麻呂の出自はというと、備前国藤野郡出身、父は磐梨別乎麻呂(いわなしわけこまろ)。皇別磐梨別公系図によれば、磐梨別公姓は皇別なり。その先は人皇第11代垂仁天皇の皇子鐸石別命(ぬてしわけのみこと)に出づ、とあります。
垂仁は百嶋系図では生目入彦(いくめいりひこ)になります。
清麻呂の父の名前磐梨別乎麻呂を見た瞬間に、岩戸別神社の謎が解けた気がしました。
梨は利と木です。利は利根川では「と」と読みますから、磐梨別はいわとわけと読めるのです。(この際、木は無視です。笑)つまり、岩戸別神社は天手力男命ではなく、和気氏の先祖を祀っていることになる
のです。それを隠さなければならない理由らしきものが、栃木県立図書館のサイト(レファレンス協同データベース)にありました。
引用しますと、「玉生和気氏系図に依ると、清麻呂の何代かのちの典薬頭をしていた和気葉家が、〈罪なくして下野国塩谷郡に流さる〉とあり、葉家が玉生和気氏の祖ということになる。」とあります。
[船生史郎/著「玉生村外史―高原山麓の里の和気一族について―」 (『下野史談 第98号』(下野史談会/編、発行 2003)p7-15所収)]
先祖の和気清麻呂が道鏡を流した下野国に、それも薬師寺よりもはるか北の蝦夷地に近い塩谷郡に流されてしまったのです。罪なくして、とはありますが、流された身としては、ご先祖を堂々と祀るわけにもいかなかったのでしょう。(罪なくしての意味が知りたいものです)書記では垂仁の子には他に綺戸辺(かにはたとべ)との間に磐衝別命、両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石毘売命)(日本武尊の妃とされる)の兄妹がいたことになっています。磐衝別命の子に磐城別命がいます。垂仁の子孫には磐(岩)○別という名前が目立ちます。磐といえば金山彦系の象徴と思われますから、記紀で崇神の子とされる垂仁、百嶋系図では天忍穂耳から天忍日、日中咋に連なる流れにしてありますが、実はその系統に成りすました感があります。
というのは、われわれの解釈では天忍日を大山咋と考えていますから、御間城入彦(崇神)と生目入彦(
垂仁)は親子ではなく、兄弟もしくはいとこではないかと推測しているということです。
この場合の天忍穂耳(海幸彦)はニギハヤヒAとしてであり、つまりは山幸彦(ニギハヤヒB)に相当するのではないかということになります。こう考えないと、金山彦、五瀬命、海幸彦という正統派の流れが著しく乱れてきてしまうからです。