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423 静神社 “神社調査の難しさ” 北関東への神社調査 ⑧

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423 静神社 “神社調査の難しさ” 北関東への神社調査 ⑧

20161205

太宰府地名研究会 古川 清久


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茨城県那珂市の静神社に参内しました。ご案内頂いたのは例によって「常陸国ふしぎ探検隊」氏です。


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手力雄、髙皇産霊尊、思兼神は、スサノウ、高木大神(ニニギの親父)、豊玉彦(ヤタガラス)で良いのでしょうが、建葉槌は不明です。

正直言って、初見では全く手に負えません。地域についての基礎知識も一帯の祭神の分布も分かっていないため、この神社の背景も含め解析ができないのです。

 ただ一つ、現地が那珂川沿いの丘陵地であることから、九州から移住した人々の領域と言うのがとっかかりになるかもしれません。

例によって、「常陸国ふしぎ探検隊」氏の数稿を基礎に勉強させて頂きます。


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4.静神社探検記

主祭神の「建葉槌命」ですが、百嶋系図には記載がありません。CDにも今まで聞いた中には出てきてい

ません。

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Wikipediaによれば、『古語拾遺 』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。

書記では、経津主神 ・武甕槌命 では服従しなかった星神香香背男 (ほしのかがせお)を征服した神とされる。

織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、

1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社(茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。

2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。日本書紀第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、日本書紀第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。

他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。

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さあ、香香背男がでてきましたね。まだ探検には行っていませんが、大甕倭文人神社の伝承によれば、岩に変身した香香背男を建葉槌命が銀の靴で蹴飛ばし、塵散りにしたとの事です。

なんかこのあたりに、本当の主祭神を解き明かす鍵がありそうです。

建葉槌命は男神なのですが、ここも鷲子山上神社の本殿ように女千木でした。

つまり、本当の主祭神(女神)を隠しているということです。


5.静神社探検記2

その後、考えをまとめるためにいろいろと調べていましたが、とりあえずわかったことは、常陸国の神社はお互いに関係しあっていて、単独の神社を調べても、深い理解に到達できないという事でした。

これまでのたった二つ(鷲子山上神社と静神社)だけでも、阿波国忌部家系によれば、建葉槌命は天日鷲命の子供と言うことになっています(百嶋系図ではそんなことは全く読み取れない(忌部氏の創作か?)し、まつろわぬ神の代名詞、カガセオ一つとっても、大甕倭文神社、泉神社、鹿島神宮、香取神宮、澳津説神社、息栖神社、大生神社、大井神社などと、思い浮かべただけでも、これだけの神社が関係していることがわかります。

百嶋系図やCDを聞いている皆さんならこの神社名を目にしただけで、ピンとくるものがあるでしょう。長脛彦(岐神)、多氏、海幸彦、山幸彦。すぐにこんな名前が思い浮かぶと思います。

したがって、とりあえず単体の神社を調査して、分かったことや、その時々において思いついた関連性などを報告することとします。

もちろん常陸国の神社が全て関連しているわけでもないでしょうから、今後たくさんの神社を探検していくうちに、系統だてて整理できると思いますので、気長にお付き合いいただければと思います。

では、前回の続きに入ります。

静神社の本当の主祭神は誰なのか、でしたね。

ご由緒では、現在の主祭神は建葉槌命、江戸時代には黄門様によって手力男命が主祭神になっていたようです。(相殿神は、左殿に高皇産靈命、右殿に思兼命を祀っていたといいます。

神紋は桜でしたね。そして千木は女千木。

相殿神からアプローチしていきましょう。まず、百嶋系図によれば左殿の高皇産靈命は高木大神ですね。右殿の思兼命は豊玉彦です。建葉槌命は今のところ百嶋系図やCDからは何もわかりません。江戸時代に黄門様によって主祭神とされた手力男命は、昨日聞いていたCDでわかりました。長野戸隠神社の解説で豊玉彦と言っておられました。(その後手力男命はスサノヲということがわかりましたので、訂正いたします。)

つまり、黄門様は思兼命と手力男命、豊玉彦とスサノヲをお祀りしていたのでした。

黄門様の大日本史はまだ読んでいませんが、ちょっと調べたところでは、記紀の記述を踏襲しているようですので、ねつ造された歴史を鵜呑みにしている感が否めません。唯一宗源吉田神道を信奉していたようです。本地垂迹を否定しているのと佐竹氏(源氏)の守り神であるため、常陸国内の多くの八幡神社は吉田神社に改名させられています。徳川家は源氏ではなかったことの証左でしょうね。そうだとしたら、征夷大将軍に成れる資格はなくなります。だから、別な方向から徳川家が征夷大将軍に任命された正当性を主張するために大日本史を編纂したのかもしれません。地元の吉田八幡神社も改名させられた一つです。

茨城県教育委員会HPから引用…中略…九尾のキツネと言えば、地獄先生ぬーべーにも出てくる玉藻の君ですね。那須岳では三浦大介(横浜大洋ホエールズの浜の番長ではありません、笑)に退治され殺生石になっています。そしてこの神社の現在の神主は元民主党衆議院議員の高野某です。じつは、鷲子山上神社

の茨城県側社務所の神主も務めているようです。(訂正)

曾祖父さんは桜田門外の変に参加し明治まで生き延びた海後 磋磯之介の兄です。那珂市米崎の三嶋神社が生家です。(出ました。河野家の氏神様!大山積)那珂市には意外と三嶋神社が多い。

領内の多くの神社では神紋が水戸葵紋に変更させられているし祭神も変更させられています。(東海村の豊受皇大神宮や大子町の近津神社上の宮、日立市の泉神社、大甕倭文神社、澳津説神社、御岩神社など多数)さて、本題です。ポイントはカガセオと蛇、そして女神であること、神社の配置と言う事でした。

現時点での結論は、ズバリ言いましょうね。それは、木花咲耶姫(前玉姫)です。

豊玉姫の線も考えているのですが現段階ではと言うことで、ご了承くださいませ。

理由は、桜の神紋と岩に化身したカガセオを銀の靴で蹴飛ばし散じりにしたこと。つまり岩を粉砕したからです。削岩機の裂(前)玉姫の本領発揮ですか。(笑)

といって、前玉姫が蹴飛ばしたわけではなく、実際にはやさしく、きびしく懐柔したのだと思います。

想像(妄想かも)を膨らませれば、鹿島の神(海幸彦、藤原の先祖)でも香取の神でも征伐できなかったカガセオを、なぜ機織の神である武葉槌が征圧できたのか。

それはカガセオ(長脛彦)は九州時代から埼玉姫(豊玉姫かも)に憧れていたからでしょう。(笑)

最後はもう、身分の高い美人の女神様にご登場願うしか策はありませんね(笑)

後の時代の権力者、回りくどく書かなくてもいいですね。藤原氏が、カガセオ(岐神=長脛彦一派)を悪人として貶めるために(神武と喧嘩した事実はありますが)、こんな物語を作った可能性は高いと推測します。

本殿両脇の相殿はまだよくわかりません。蛇から大己貴神を導き出せますが、もう片方は今のところ見当が付きません。漠然と岐神かなとはおもっていますが・・・。

今後ほかの神社(特に大甕倭文神社と泉神社)を探検してからさらに考察していきたいと思います。

おまけ

現在考えている当時のシナリオは、こんな感じです。

神武と喧嘩して、常陸国に島流しになってしまった(あるいは蝦夷地から東国の防衛隊として左遷された)長脛彦は、下総の国から常陸の国に入国し常陸国をうまく管理していた。5000年程前から蝦夷地に渡来していた旧ヘブライ人の恵比須族たち(青森から岩手にかけての一戸から九戸を中心に居住、いまではキリストの墓がある事でも有名な地区)とも、今の福島県いわき市の勿来(なこそ、くるなかれ、くなと)を界にうまくすみ分けていた。ところが、常陸国から隣の下野国は金の産地。(八溝山系、茨城県大子町、栃木県那珂川町)増々力を付ける長脛彦を快く思わない海幸彦系(藤原の先祖)はついに討伐隊を結成。鹿島の神と香取の神を征東将軍として派遣した。しかし、カガセオ(長脛彦)の圧倒的な戦力により征伐をあきらめた海幸彦系は、九州王朝一の実力者豊玉彦に対策を願い出た。豊玉彦は得意の穏便な手法、要するに女神を提供することで仲良くするやり方、義兄弟になる方法(百嶋先生は穴兄弟と言っておられましたが)をとり、自分より18歳も若く、美しく(と思われる)、若すぎて持て余していた前玉姫を常陸国に遣わした。(時代考証してません)

百嶋神社考古学にご興味の方は、太宰府地名研究会 古川さんまで。090-6298-3254


精緻です。どうやら、東国に関しては全面的にお任せした方が良いようです。


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