424 茂 賀 “古代に遡る肥後の巨大山上平野” ①
20161205
太宰府地名研究会 古川 清久
はじめに
皆さんは「肥後の北部丘陵一帯に巨大な淡水湖があった!」などと言えば本気になさるでしょうか?
もちろん、恐竜が暴れていた中生代とかいった話ならば、日本列島の形状も全く異なっていたはずですし、どんなことでも考えなければないでしょうが、そのような何百万年、何千万年前といった地球物理学的な時代の話ではなく、私達から数えて百~二百代ほど前のご先祖様の時代、凡そ二五百~三千五百年前辺りの縄文から弥生への移行期といった時代の話なのです。
このように言う場合、従来は“弥生時代は紀元前三、四世紀頃から始った”“稲作は弥生時代からであり、縄文時代は狩猟採集でしかない”などと教えられたことに思いをめぐらしてしまいます。
二〇〇三年、国立歴史民俗博物館研究チームは弥生時代の始期が五〇〇年繰り上がることを発表しました。既に関係者の中では以前から囁かれていたことだったのですが、土器編年法がもはや全くの整合性を持っていないことを満天下に晒したものでした。いわゆる照葉樹林論者の中では相当以前から稲作はもっと前から始まっていると主張され続けていたのであって、仕方がなく“縄文稲作”などといった倒錯した説を提出せざるを得なかったのでした。
どちらにしても、これまで学校で教え続けてこられた縄文や弥生とかいった概念が、実は全くのデタラメであったということを明らかにしたものでした。
ともあれ、紀元前千年前後から日本列島には縄文から弥生へという劇的な変化が始ったとの認識に立って考えたいと思います。
まず、肥後熊本はお米がたくさん取れる豊かな土地…といった印象を持たれる方は多いでしょう。
しかし、この“肥後は米どころ”というイメージには多少の誤解があるように思えます。肥後がありあまる程の農業国家、農業大国になったのは、戦国乱世が収束し、その国力の全てが清正公に象徴される干拓(横島干拓や八代以北の不知火海の干拓)や潅がい施設の整備による農地開発(城造りの加藤清正は、一面、「農業土木」の創始者とも言われます)に振り向けられるようになった、わずか四百年ほど前からの話でしかなかったのです。
平均海面が五メーター近く上昇したとされる縄文海進を想定しても良いのかも知れませんが、さらに遡ること五百~千年前の肥後を考えて見ましょう。
まず、もしも、海岸堤防や河川堤防が存在しないとすれば、現在でも熊本市のかなりの部分に水が入るように、洪水時の河川氾濫はもとより、高潮や台風による海水の進入する地域が広範囲に拡がることはご理解いただけることでしょう。
ましてや河川堤防、海岸堤防など全く存在しなかった時代、熊本市中心部一帯には巨大な湿地帯(感潮地帯)が広がっていたのであり、周辺の丘陵地にしてもその大半は阿蘇外輪山延長の溶岩台地に過ぎず稲作不適地だったはずなのです。
例えば、熊本市の東隣りの町、旧菊池郡大津町といえば熊本インターから阿蘇に向かうバイパスの通る所ですが、観光シーズンには大渋滞を引き起こす場所として誰でもご存知のところです。
この一帯も火山噴積物、火山灰が堆積した丘陵地であり、雨が降っても直ちに地下に浸透するために、とてもまとまった水田など開くことができず、稲の取れるところではなかったのです。今でも水の大半は湧水で有名な水前寺公園、江津湖、八景宮といったところで湧き出しているのです。そのため加藤はこのような場所に何本もの用水路を築いています。
ただ、全てがそうであった訳ではなく、白川に近い川沿いの細長い崖下の一帯では方々から湧き水が染み出し、小規模ながらこれらを頼りとした(実は天候に左右されず最も信頼に足る水源なのですが)稲作が古来行なわれ、成立した集落を繋ぐ形で古街道が置かれてもいたのでした。
しかし肥後は米どころだった
しかし、加藤領以前の中世においても、やはり、肥後は米どころだったのです。それどころか、実は九州最大の穀倉地帯でさえあったのです。
ここで南北朝騒乱期を考えて見ることにしましょう。九州に住む人ならば、菊池武光、菊池武時を始めとして、一時期大宰府をも占領し北部九州一帯を支配下に置いた菊池氏のことは良くご存知でしょう。この菊池氏の力を支えたものこそ、山鹿から菊池に広がる巨大な平野の生産力だったのです。
まず、戦中派の方ならば、「菊池米」と呼ばれた極上の献上米があったことは良くご存知でしょうし、この穀倉を押さえることができたからこそ、南朝方(宮方)として戦った期間を含め、数百年に亘って九州中央部に磐居しえたのでした。
では、山鹿から菊池へと広がる丘陵地は何ゆえ米が取れるという意味での穀倉地たりえたのでしょうか?これこそが今回のテーマなのです。
山間の平地はどのようにしてできたのか?
昔から不思議に思っていたことがあります。山間僻地を旅していると、急に開けた平地、平野に出くわす事が良くあります。もちろん、平らな土地は通常水田地帯になっていますが、このような平地がどのようにしてできたかが良く分かりませんでした。
一定の傾斜を持った山裾が水田に変わっていくことを考えると、はじめに木が切り倒され、焼畑が行われるでしょう。何度も何度も焼畑が繰り返され、いずれ常畑(定畑)に変わり雑穀栽培などが行われます。そして、さらに有利な作物、つまり、稲が伝わると、雑穀の一部として陸稲として稲を作ったかもしれませんが、いずれ、水を引き入れ灌漑が施されると階段状の棚田が形成される事になるのです。ただ、それによっても全体の傾斜に変化はなく、一度、水田ができると地形の変化は進まず固定します。つまり、このことによっては、依然、平地や平野は形成されないのです。
考えられることは、水による土砂の堆積以外にはありません。
仮に大規模な渓谷で大洪水が起こり、大きな石が川筋を塞いだとしましょう。一度塞がれると、さらに多くの石が詰まるようになり自然のダムが形成されるようになることもあるでしょう。当然、水が溜まり、土砂が堆積することになります。重い石や砂は下に、粒子が小さな泥は上に溜まりますから、湖の底には平らな泥底が造られることになるのです。
その後、地殻変動、地震などによって流路が造られると平地が地上に現れることになるのです。このようなことが大規模に起こったものが山間の平野であると考えられるのです。
そして、実際、山間の小平地の大半は大きな洪水、氾濫の結果生み出されたものと考えられるのです。
阿蘇は巨大なカルデラであり、古くは水が溜まっていたはずです。その水が抜けたものが阿蘇の平野と考えれば、このことが良く分かると思います。このように考えると、災害とは人間の生活基盤を奪うと同時に生活基盤を創っている事が良く分かります。
俗にエジプトはナイルの賜物と言われますが、それは、同時にナイル川の氾濫による水平堆積の賜物でもあったのです。
なぜこのような台地にこれほどの平野が存在するのか?
今でも月に一度は菊池、山鹿、玉名方面に足を伸ばしていますが、三号線で南に向かい、鹿北町辺りに来ると、山鹿から菊池、植木方面へと広がる巨大な盆地の中に凡そ標高五十メートルのところに圧倒的な広さの平野、従って水田が存在することに以前から疑問をもっていました。
特に、三号線上にも寺島、南島という地名が直ぐに拾え、山鹿市周辺にも中島、底原、浦田、熊入(山鹿市)、といった地名が拾えるのです。この傾向は菊鹿盆地全体にも見られ、鹿本町の小島(小嶋)、菊鹿町の島田、七城町の水島、高島、内島、蟹穴、蘇崎、小野崎、山崎、瀬戸口、鹿央町の水原、春間、植木町の平島、舟島、田底、泗水町の田島、南田島、菊池市の迫間、西迫間、野間口、亘、といった海か湖、湖沼の縁を想像させる地名が拾えるのです。
このことだけからでも、かなり古い時代、この地に巨大な川か湖が存在したことが想像できるのですが、特に際立つのが平島と田底です。まず、温泉ファンならば植木温泉の旧名が平島温泉(戦後しばらくまでは通用していたはず)であったことは自明ですが、特に驚いたのがその裏口ともいうべき場所にある田底という地名です。現地をしょっちゅう通っているのですが、農協の田底支所といったものが堂々と建物を構えています。谷底という言葉は今でも通用しますが、この地名に始めて遭遇した二十年程前、“「田底」とは一体何だ…”と考えたことが今でも頭に浮かんできます。どのように考えても“住んでいる場所は少し山手のところだが、今、耕している自分たちの田んぼは、昔、うみの底だった…”といった地名に思えるのです。
これらの地名は通常の道路マップで十分に拾える程度のものですが、1/25000~1/10000程度の地図、古字図や字図などを詳細に調べればさらにもっと興味深い地名が浮かんでくることでしょう。
まだ、基礎調査の段階ですからその作業は今後の課題として、私自身の作業としては別のアプローチを考えて見ます。
中原、堤想定 “古代茂賀の浦の発見”
ここで遭遇したのが中原、堤研究でした。二〇〇五年に菊池市で開催された菊池市文化講演会・第18回熊本地名シンポジウムにおいて、この驚愕の研究が発表されたのですが、その概略を説明しておきます。
菊池市の中原英氏は七城町の林原露頭断面などの地質学的な調査を行なわれ、花房層と林原層と名付けられた堆積層の中に下層部から黒砂・軽石礫混じり・砂・粘土・川砂利などの順になったものを発見されたのです。このような現象は湖沼などの中で起るいわゆる水平堆積を示すものなのですが、中原氏はこのような現象は把握できる範囲で過去三度起ったと想定されています。花房層の研究から一回目は12万年前と9万年前の間、第二回目が現在の菊鹿盆地の南側に広がる花房台地を湖底としたもので、
9万年前から5万年前までの間のAso.4層の上部、そして第三回目が問題の茂賀の浦で、中原研究では5万年前の地殻変動によって花房台地面と菊鹿盆地面の間に40メートルの段差が生じ、そこに茂賀の浦が生じたとされているのです。問題はその時期ですが、花房台地の堆積から推定し、少なくとも二、三万年前から六〇〇〇年前までは存在した(これはそれ以降の新しい時代まで残っていたことを否定するものではないという意味と理解しますが)と考えられているのです。この六〇〇〇年前という数字は非常に重要で、一般的には縄文時代の真っ只中とされているものに重なってくるからです。
では、少なくとも縄文時代の中頃までには存在した巨大湖“茂賀の浦”はいかにして消失し、現在の巨大平野に変わったのでしょうか?
一方、菊池市教育委員会の堤克彦氏(文学博士)は『鹿郡旧語伝記』所収の「大宮社古記」の「茂賀の浦」(北境ノ湖・北境ノ沼)の八龍大亀伝承、崇神・景行天皇の蹴透伝説などから茂賀の浦の伝承を回収されるほか、菊鹿盆地一帯の縄文遺跡、弥生遺跡の空白地帯を発見されたことから、その分布図を中原研究の茂賀の浦と照らし合せ、その完全な一致から茂賀の浦とその変化を発見されると同時に、縄文期から弥生期にかけて縮小したことまでも証明されたのです。
証明の切り口は単純です。言うまでもないことですが、通常、湖、沼、川には遺跡は存在しません。それは水中遺構は別として、通常人は湖には住み着けないことから、頻繁に河道が変遷する場合とか大規模な地震などによって急激な水位の低下などがない限り、住居址、生活遺構、墓跡といったものが存在しないのです。もしも、長期にわたって湖が存在したとすれば、その外周部に遺跡が残ることになり、逆に、遺跡が存在しない部分こそ湖であったことになるのです。同様に湖が縮小してきた場合には、外側に縄文、弥生遺跡が、内側に弥生だけが残ることになるのです。さらに、面白いことに、弥生時代にも、なお、縮小した弥生の茂賀の浦が存在したようで、その中には弥生の遺跡は痕跡を留めていないのです。
と、すると、弥生期から古墳時代にかけて何らかの変化が起り(変化を起こし)、水が抜け(水を抜き)、田底三千町と呼ばれた巨大な水田が生まれ、後の条里制へと繋がったと見るのですが、これについては二〇〇五年作成の堤克彦作成による「茂賀の浦の範囲と縄文・弥生遺跡」ほかを見られるとして、非常に根拠の薄いものながら、中原、堤想定に加え古川によるささやかな地名による論証を試みたいと思います。
見渡す限り平地が続く菊池盆地
○○の○○型地名の分布について
何のことだか全くお分かりにならないでしょうが、これは高良岬の麓からNO.11「鳥子」で採用した手法です。宇土、熊本、植木近辺には、間に”の“が入る地名が他の地域に比べて異常に多いのです。大字単位で見ても、まず、白川を渡る大津町には引水(ひきのみず)が、八兵衛の出身地である宇土市には、弧江(こものえ)、硴江(かきのえ)、西田尻(にしたのしり)、宮庄(みやのしょう)が、宇土市の南には旧町名でさえあった宮原(みやのはら)が、同じく北の富合町には田尻(たのしり)、南田尻(みなみたのしり)、廻江(まいのえ)、城南町の丹生宮(にゅうのみや)、隅庄(くまのしょう:文中の熊庄と関係があるかも知れません)、舞原(まいのはら)が、熊本市の水前寺の南に田井島(たいのしま)、金峰山の南に池上町(いけのうえまち)、北熊本の八景水谷(はけのみや)、が、菊池郡合志町に上庄(かみのしょう)、福本(ふくのもと)が、鹿本郡鹿央町の梅木谷(うめのきだに)、中浦(ちゅうのうら)、玉名市の東玉東町の木葉(このは)、上木葉(かみこのは)…もう、これぐらいにしておきましょう。
一応、表記を伴わない○○の○○型地名はこの一帯に限られているようです。その中心部の熊本市にこの手の地名が少ない理由は、後世による地名表記の改変(和銅)によるものと思われますが、そもそもは、この一帯がかつては海の底であり、後発の土地に新しい地名(と言っても数千年単位の話になります)が付されたからではないでしょうか。
当然ながら、表記を伴う○○の○○型地名は益城町の「辻の城」ほか…がありますので、小字単位でカウントすれば、相当の例が拾え、かなり興味深い結果が出ることでしょう。
そして、○○の○○と呼び習わす、言語上の生理とでも言うべき傾向が、書き留められ、現在、なお、地名として残っていると考えられるのです。
ここで、この「好字二字以前」と考えられる古い地名が、菊鹿盆地でどのような分布を示しているかをサンプリングしてみると、山鹿市の釘ノ元、当ノ原、堀ノ内、八の峰、菊鹿町の郷の原、鹿央町の梅木谷(ウメノキダニ)、中浦(チュウノウラ)、植木町の駄の原、山ノ上、西ノ原が、泗水町の富納(トビノウ)、西合志町の野々島、合志町の福本(フクノモト)、上庄(カミノショウ)、七城町の尾野崎、菊池市の市野瀬、中野瀬…ほかがあるのですが、これら全てが中原・堤想定の縄文湖の外側に分布しているのです。鹿本町の合ノ瀬などはこれ自体が本来川の合流部を表す地名であることから、これは湖の外でなければ成立しない言葉であり、湖の存在を直接示す好例と言えるかもしれません。
これをもって直ちに○○の○○型地名が始期遡り(弥生時代の始期が無様にも五百~七百~千年遡り)以前の学会通説の縄文語や縄文地名などとは言わないものの、相当に古いタイプの地名と考えられるこのタイプの地名が縄文の茂賀の浦の内側には存在しないということは言えるようで、そこに何らかファクターが働いていることだけは間違いがないはずだと思えるのです。自然に考えれば茂賀の浦の存在を示しているように思えるのです。
そもそも、茂賀の浦(北境ノ湖・北境ノ沼)という地名それ自体が○○の○○型地名なのです。当然ながらこの地名だけは陸化した後にも伝承の中に残ったのです。
古川想定 横穴墓の論証
玉名、山鹿、菊池回廊という概念が成立すれば、さらにイメージが膨らむのですが、ここに非常に多くの横穴墓が存在することは知られています。この横穴墓群は相当に古いもので縄文時代のものではないかと言われていたように記憶しているのですが、現在、畿内の横穴墓はもとより、全国的にも古墳時代の中期から後期といった評価が学会通説になっているようです。
副葬品一般の評価、特に船形、家型石棺などが納められているものもあることから(玉名で言えば石貫横古墳?)古墳時代のものとされたのでしょう。
ただ、中身が全て捨てられ、全く異なったものが追葬されるという要素を拭い去れないのであって、この横穴墓群が古墳時代のものなどとはとても思えないのです。ここには、古墳は全て渡来系のものであり、横穴墓も薄葬令のもたらした一般民衆のものとか、石棺が入れられている以上、横穴墓の全てが古墳時代のものといった評価がされているようなのです。
九州の横穴墓、特に熊本県の横穴墓を全国的な横穴墓と同列に扱うことにもかなりの疑問があるのですが、私には揚子江流域からこの墓制を持った人々が紀元前数百年以前までに渡ってきたようにしか思えないのです。
この問題に直面した時、初めに思いついたことがありました。それは“横穴墓群は恐らく縄文の茂賀の浦の外側に分布しているであろう“ということでした。これについて中原先生にお話したところ、「確かに横穴墓も外側にありますね」と直ぐに回答がありました。
なかなか時間がとれずに、一月遅れでプロット作業に入ろうかとしたところ、中原先生が先行され、図面が送られてきました(別紙)。
作業が軽減され大変ありがたかったのですが、予想したこととは言え、それが全て縄文の茂賀の浦の外側にあることが分かってきたのです。
当然ながら、この事実は私を驚愕の結論を導くことにならざるをえなくなりました。
まず、堤氏がプロットされた菊鹿盆地の弥生遺跡、縄文遺跡と呼ばれるものは、「弥生時代の始期、五百~千年遡り問題」以前のいわゆる怪しげな土器編年法による時代区分が反映されているものと考えられます。当然ながら縄文から弥生への移行期は紀元前三~四世紀という話になるのでしょうから、最低でもこの時期以前までは縄文の茂賀の浦が広がっていたはずで、ここまでは縄文の遺跡が周辺に成立し、同様に縄文湖の外側に横穴墓が造られたと考えることは一応可能ではないかと思うのです。そして、縄文時代のある日(これを特定するのは非常に難しいのですが、一応、紀元前三、四百年~千年の間としておきましょう)に地殻変動による大規模な決壊が起こり、縄文湖から弥生湖への縮小が起ったのではないかと思うのです。このため、縄文湖の内側には縄文の遺跡はなく、弥生時代の始まりによって弥生湖の外側、縄文湖の内側に弥生人が進出したことを反映していると言えるのではないでしょうか?
その後、通説に従えば三~七世紀とされる古墳時代のいつの日かに大地震による崩壊か人為的な土木工事によって湖の縁が切られたことによって、弥生の茂賀の浦の湖底への進出が始まり、後の条里制へと移行して行ったと考えられるのです。
とぼけた話しながら、ようやく弥生時代の始まりが500~700(場合によっては1000)年ほど繰上り、紀元前1000年頃にまで修正されました。…勢い、これまで言ってきたことは何だったのか説明しろ!と言いたくもなります。結局、照葉樹林論者などが主張していたことがよほど科学性があり、それを受け入れない穴掘り考古学会に対して、仕方がなく「縄文稲作」といった倒錯した概念で対応せざるを得なかったのでした。旧石器時代問題と同様の、穴掘り考古学の瓦解に思えるのですが、好い加減にC14による見直しに入れ!と叫びたくなるのです。無意味とは言わないまでも、どうせ、通説に刷り合せてしまう土器編年などといった間の抜けた古典芸能は好い加減にして欲しいものです。