スポット103 太宰府地名研究会4月期トレッキングで獲得した細やかな成果
20170530
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
筑紫の太宰府から筑豊の飯塚へと向かう古代官道が米の山峠を通るルートであったことは疑う余地がありません。
このルート上に如何なる神々が居るのかを探る事によって多少とも古代の一端を探る事ができるのではないかと考えたのが今回のテーマでした。
そして、このルートを守り攻める事の出来る場所に四つの大山祗神社が並び、その最も重要な場所に村社若八幡宮と言う名の仁徳天皇を祀る偽装八幡社が鎮座していたのでした。
これが、高良玉垂命と神功皇后との間に産れた長子シレカシミコトである事は疑い得ません。
2017年5月20日 土曜日
玄海、太宰府地名研究会トレッキング「二田物部の遠賀への故地を探る」
2017年5月20日 土曜日午前10:00 集合~出発 連絡は中島まで 090-5289-2994
ゆめ・タウン筑紫野内ベスト電器筑紫野筑紫野市針摺東3丁目1-8Pに集合! 参加費500円程度…
この間「久留米藩社方開基」から筑後の神社の解読を続ける北野町在住の宮原氏に月読神社の案内を頂きました。これに引き続き中島氏の案内により耳納山の南の八女黒木星野の仁田郷、仁田坂を探訪しニギハヤヒ祭祀を確認し物部の故地を探って来ました。ここで目を北に転じ、推定二田物部の最大拠点としての筑豊小竹町新多の中間地点として米の山峠の東西(筑前~筑豊の古代の幹線道路)に大山祗(月読命)神社を確認したいと思います。飯塚市馬敷には二つの大山祗(月読命)神社があるのですが、この月読命を奉斎した人々こそ南の狗奴国から北上してきたトルコ系匈奴と考えられそうなのです。この点についてはblogとして多くを書いてきましたが、鹿児島、宮崎、熊本南部に展開していた馬を駆使して闘う人々の北上こそが物部の移動であり、日本海側を中心に筑豊から山陰、新潟、秋田、さらには北関東に展開した人々が物部から関東武士団=武士(モノノフ)になったと考えられるのです。いずれにせよ、熊本県の益城→福岡県朝倉市甘木→飯塚市馬敷への狗奴国の移動が地名移動として繁栄されたものでしょう。
馬敷公民館そばに造られた古墳らしきものもそう言った人々の主がいるのかも知れません。御杖代(古川)
集合場所
カーナビ検索 筑紫野市針摺東3丁目1-8 緊急連絡 ℡:09062983254 大雨の場合は中止!
※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…
① 大山祗神社 米の山峠の脇の古社 筑紫野市本道寺 安楽寺(本道寺113)北 ため池下
① 2大山祗神社 柚須原の大山祗神社にも時間の余裕があれば参拝します
②
若八幡宮 米の山峠の脇の古社 飯塚市米の山 村社若八幡宮
コノハナノサクヤ祭祀を確認しよう
現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく50~70万件になるでしょう…
途中でコース変更が入る場合がありますのでご注意ください!
トレッキング注意事項玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には5社5ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意し参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば09062983254 古川までご連絡下さい。 参加申込等:090-5289‐2994(中島)既にインターネット上には百嶋神社考古学研究会(神代史研究会)の全国blog連合体が形成されていますが(「ひぼろぎ逍遥」同跡宮参照)、2017年頭にも新たなblogが加わる予定です。これらのblog連合は事
実上の研究者による連合体であり、右から聴いて左から抜けて行く従来型の共同体化した研究会とは全く異なり確実に将来への遺産となる研究者による連合体に繋がるものになるでしょう。
① 大山祗神社 米の山峠の脇の古社 筑紫野市本道寺 安楽寺(本道寺113)北 ため池下
② 大山祗神社 米の山峠の脇の古社 筑紫野市柚須原上田 柚須原公民館前から左に300m入る
③ 村社若八幡宮 米の山峠の脇の古社 飯塚市山口中村 県道65号線沿線の山口公民館そば
④ 大山祗神社 米の山峠から左折し八本松付近から左折し400m 馬敷公民館前で一旦は現地集合
今回は筑紫から筑豊への古代官道 米の山峠の支配者が誰であったかを見てもらうための企画です。
この街道の西には本道寺、柚須原に二つの大山祗神社が鎮座し、峠を越えて山口に入ると、村社若宮八幡宮に仁徳天皇が祀られ、馬敷にも二つの大山祗神社が鎮座しています。若八幡宮には応神天皇が挿入され高良玉垂命は武内宿祢に置き換えられ八幡宮になっていますが、元は高良玉垂命と神功皇后それに仁徳天皇(跡継ぎとしての九躰皇子の筆頭長子)を祀る神社であったはずなのです。
北部九州の東西を繋ぐ要衝米の山峠を制圧する勢力がこの大山祗(月読命)を奉斎する民族であった事が分かりますが、西は大道寺、柚須原で、東は馬敷でこの陸の最重要路を押さえていたのでした。
恐らく、この神を奉斎する氏族とは、「先代旧事本記」の筆頭に書かれる二田物部=ニギハヤヒの一族で、この調査も熊本の益城以南から北上して来たトルコ系匈奴ではないかとの仮説の検証作業の一環なのです。
山口の村社若八幡宮
筑豊から太宰府、久留米を目指す人々は、険しい冷水峠を避け、三郡山と大根地山の間の最も低い鞍部である峠(峠とはタワム、ダウ、ダワから派生した低い場所の意味)を抜けて直接太宰府に入ったことでしょう。ここで、高良玉垂命と仁徳(シレアシノミコト)に拝礼し進入が許されたのかも知れません。
村社若八幡宮に立派な参道橋が造られ、そこには今もきれいな水が滔々と流れ旅行者を癒してくれています。さて、西から東に進み山口の若八幡宮を過ぎると馬敷という隠れ里のような集落があります。この「馬敷」という地名が、熊本市の南の益城町の「益城」、筑後川右岸の朝倉市(旧甘木市)の「甘木」(ウマシキと読むべし)の地名移動なのです(甘内宿祢、美内宿祢(ウマシウチノスクネ)甘いは「ウマシ」とよばれています)。
では、益城、甘木、馬敷へと移動して来た「大山祗」を祀る人々とは如何なる民族だったのでしょうか?
それが今回の最大のテーマであり、列島の古代史を探る最大の謎なのです。
少なくとも、筑紫~筑豊を繋ぐ陸路の要衝を押さえていたのがこの民族、コノハナノサクヤヒメの父神であることがお分かり頂けるのではないでしょうか?
トイレ休憩も必要ですので(筑前大分駅)、馬敷から大分駅経由で大分八幡宮へと移動し解散の予定です。
カーナビ検索 篠栗線JR筑前大分駅 福岡県飯塚市大分6008-1 大分八幡宮 飯塚市大分1272