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425 茂 賀 “古代に遡る肥後の巨大山上平野”  ②

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425 茂 賀 “古代に遡る肥後の巨大山上平野”  ②

20161205

太宰府地名研究会 古川 清久


蹴破り伝承


いまさら童話でもないのですが、日本全国に「蹴破り小五郎」とか「蹴破り太郎」といった伝説が残っています。確か『日本むかし話』にもこの手の話があったと思うのですが、古代において、沼やため池の決壊によって水の抜けた跡地に流れ込み河川が付随する豊かな平地が残ることを古代人は経験的に知っていたはずです。このような古代湖の蹴破りによって、もしくは、地震や洪水などによる決壊によって山間の大平地が生み出されたのではないかと思われる場所を九州で拾えば、まずは阿蘇の阿蘇谷になるでしょうが、地形を考えても南郷谷(南阿蘇は近年の新造語ですので)は対象外になります。阿蘇と並ぶ巨大平野である人吉盆地。筑前夜明付近の狭隘部が詰まりやすい日田盆地といったものがあるでしょう。


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阿蘇には蹴破り伝承があります。茂賀の浦の下流、塘(トモ)という小集落の鎮守にも蹴破りの伝承を持つ阿蘇神社があります。

そこから、池を切れば(決堤)そこに平らな肥沃な土地が生まれ、農地が拓けるのではないか?と考えるには、残り数歩だったはずです。既に弥生の農業が始まっていたと考えましょう。耕地を求める欲求こそ縄文から弥生への変化をなす最大の精神的動機付けだったのです。必要性は十分に生まれていました。ここに技術さえ加われば、それこそ一国をなすだけの力を得ることになるのです。そして、どうやらその技術は存在していたと考えられるのです。


都江堰(トコウエン)建設の古代技術


二〇〇八年五月、中国内陸部を巨大地震が襲います。多くの峡谷において土砂崩れというよりも、山体崩壊もいうべきものが頻発し多くの自然のダムができたことは記憶に新しいのですが、今回の中国大地震において最大の被害を受けた場所が都江堰市でした。堰とは分かりやすく言えば堤防であり、一般的にはダムと理解されても構わないでしょう。都江堰にはこの都市の名称のもととなった都江堰という堰堤があります。

観光地としても著名なこの堰堤についても一応は概略を説明する必要があると思いますが、拙著『有明海異変』で取り上げていますので、その一部をご紹介しておきます。


司馬遼太郎が見た古代のダム


ダムというものは遠からず砂に埋もれてしまうものですが、中国には二千二百年以上も前に造られて今でも機能しているダムがあるそうです。もはや故人となりましたが作家の司馬遼太郎が『街道をゆく』の中でそのダムのことを書いています(同シリーズ20「中国・蜀と雲南のみち」)。

   「町の中を過ぎるうちに、岷江に出くわした。北方の峻嶮岷山より流れてくる急流である。一橋がある。それをわたると、岷江のただなかにうかぶ大きな中洲に入った。中洲の先端を宝瓶口という。すでに、都江堰という紀元前二世紀に築造された巨大なダムの構造の一端に立つことになった。この中洲を、土地では、高堆とよんでいる。この堆も、紀元前、李冰がつくった(宝瓶口にむかって右側の玉塁山という山を断ち割って一水路をつくったために、高堆が河中に残った)のであろう。中洲の先端の宝瓶口の一帯は公園になっていて、さらにその先端に、古い道観(道教の寺院)がある。伏竜観という」


●二千年機能し続ける技術


   岷江は揚子江の支流で、灌県は四川省の省都、成都市近郊の町です。司馬遼太郎はこの都江堰の築造について次のように触れています。

「恵文王から二代目の昭襄王(紀元前三〇七~同二五一)にいたって、都江堰が出現する。『史記』「河渠書」では、<蜀の太守(地方長官)李冰が、乱流する川岸を削って離堆を切りひろげ、沫水(岷水のあやまりか?)の危険をふせぎ、別に二江(内江と外江)を成都の中に掘りぬいた。>とある」

この都江堰(注)は、完全に河の流れを塞いでしまうものではありません。半ば堰き止め半ば流しながら水を溜めて、必要なだけの量の水を取り込むというもので、このためにダムの最大の弱点である土砂の堆積という問題が初めから解決されているのです。

「都江堰は、多目的ダムである。岷江にいくつもの堰や堤をつくることによって外江と内江にわけ、外江は以前どおりはるか長江にそそぐのだが、内江は李冰のこの時期から成都平野へのあらたな流れになって美田をつくるもとになった。洪水のときは、その水が自動的に外江にさそいこまれるようになっていて、成都盆地へゆく内江には流れこまない。このためどれほどの大雨がふっても、成都盆地に洪水がおこるということはまずなくなった。内江はさらに、江安河、走馬河、柏条河、蒲陽河などに岐れて多くの野をうるおしてゆくしくみになっている。まさに李冰は一国をつくったにひとしい。かれの都江堰の灌漑面積はかつて三百万畝(二〇万ヘクタール)といわれたが、二十世紀の戦乱のために二百万畝にまで低下した。新中国の樹立後、大規模な修復工事がおこなわれて、いまでは約四倍にあたる八百万畝(五三万ヘクタール)の田畑をうるおしている」

この都江堰の仕組みは、ダムというよりは半閉鎖型の取水堰とでも呼ぶ方が適切かもしれません。当然、幾たびかの大がかりな改修工事が重ねられてきたのでしょうが、それでも二千年以上にわたって築造された当初の機能を維持し続けていることは驚嘆すべきことで、それは今日におけるダムによる治水・利水技術の根本的欠陥を指摘している生きた見本といえそうです。


概略は把握されたと考えます。茂賀の浦に関して、なぜ、中国の堰堤の話など持ち出したのかと考えられるでしょうが、考えて頂きたいのはその建設の方法なのです。

紀元前三世紀、建設を指揮した李冰に便利な建設機械などなかったことはいうまでもありませんが、内江を抜くために使った方法について、司馬氏は「岩をくだくため古代の工法は、まず大いに火で焼き、水をかけてはもろくしてゆくというやりかただったらしい。」と書いています。ここで気づくのですが、この時代こそ中原、堤想定の「弥生の茂賀の浦」の“蹴破り”の時代なのです。

諸葛亮孔明が活躍した三国志の時代の呉ではなく、「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」で著名な紀元前三世紀の呉、越の時代に、漢民族の南下と圧迫によって、この技術を持った人々が船に乗り、組織的に九州の肥前、肥後、筑前、筑後の一帯に入って来たと考えれば、既に“蹴破り”のための技術は十分に準備されていたと考えることができるのです?


近世に生まれたカルデラ湖起源の小平野“田野”


熊本、鹿児島の県境に近い人吉市に、と、言うよりも、相良、薩摩の国境(クニザカイ)に近い人吉の南に二十数戸ほどの田野という小集落があります。田野は標高七〇〇メートルに近い人吉から鹿児島県大口市に越える久七峠の熊本県側最後の集落です。

この地は、二百五十年に起こり五百人余りの犠牲を出したと伝えられる球磨川の大災害“瀬戸石崩れ”の被災者の一部がこの地に移住したと聞き及んでいます。

既に現地を踏みましたが、集落の中心地には立派な造りの観音堂があります。堂内には一枚板に書かれた棟札があるそうですが、それによると、この地の開発は藩政時代の明和七年とされていました。つまり、田野の歴史は二百数十年程度ということになりそうです。このため、瀬戸石崩れによって直接的に入植が行われた訳ではないのですが、現地には瀬戸石から移住した家であったと言われる方がおられた事を現地にお住まいの前田一洋(熊本地名研究会)先生からお聴きすることができました。このため、現段階では大災害から十数年余りで瀬戸石周辺からも複数戸の、ある程度組織的な入植が行われたのではないかと考えています。

今後とも田野を訪れ、瀬戸石のその後の話を集録できればとも思いますが、もともと文書に書き留める余裕などありようもない開拓集落に多くを期待できないことは言うまでもありません。大雨による巨大な崖崩れと大洪水による明治期の奈良県十津川村の集落潰滅とその後の北海道新十津川村への移住については宮本常一や司馬遼太郎が書き留めていますが、規模は小さいものの、瀬戸石崩れのような大災害によって、天然のダム湖も生まれるのですが、同じ災害によっても、また、人の英知よっても、湖が平野に変わる事があるのです。現地を訪ねると、まず、その天上平地に驚かされます。ついつい、高天原とはこのような土地ではなかったかと思ってしまいます。さらに、この地はかつて噴火口であったと言われています。

太古、ここにはカルデラ湖が存在した時期があったのでしょう。そして、いつしか、地殻変動によって湖の栓が抜け、湖底に堆積した平地が現れ、大木が茂る森になったのだと思います。現在、この地の開発がどのように行われたかを知る手立ては前述の棟板以外にはありませんが、土地の古老にお話をお聴きすると、「田んぼの中には何メートルもの杉の切り株がいくつも埋まっている」ということですから、森の伐採に始まったと考えるべきでしょう。

また、“基盤整備がある前は腰まで浸かるような湿田だったので、竹を渡して田植えをしていた。…”といった話を現在も聞くことができます。

いかなるカルデラ湖といえども、水が溜まるものである以上何らかの形でオーバー・フローする場所が形成されるはずです。その吐き口は水圧や吐き出しによって徐々に崩れてゆくことでしょう。一方、湖は周りの斜面から供給される土砂によっても浅くなってゆくことになります。そして、最期にはそこに住み着いた人々の努力によって、蹴破りが行われ、湿地を改良するということになるのです。

ここは標高七〇〇メートルの高地です。このため、南国といえども毎年何度か三〇センチの積雪を見ると聞きます。

この清涼な天上楽園を発見した事は大きな収穫でした。田野はまさしく人々がどのようにして平地に住み着いたかを知る一つの手がかりを与えてくれているのです。


キクチ(ククチ)とは何か? そしてモガとは?


そもそも、茂賀の浦を調べ始めたきっかけは、中原 英 先生から電話を頂き、「菊池盆地のキクチという地名の意味は何でしょうか?」というお尋ねを頂いたからでした。中原先生とは、以前、あるシンポジウムで一度お会いしたことがあり、茂賀浦研究のことは知っていましたので、ご質問の意味は直ぐに理解できました。ただ、キクチの語源については、地名研究の世界ばかりではなく、古代史研究の世界でも幾度となく試みられ、決定打がなく、ほぼ全てが退いているのが実情であり、未だに通説らしいものがないのが実情なのです。しかたがなく、「古くはククチなのでしょうが、クキチであれば狭隘地といえないこともないのですが、現地は逆に広大な平地であり対応しませんしね…」「わたしは、キクチについては追求をあきらめており、むしろモガの方が興味があるのですが…少し考えて見ます…」といった話でお茶を濁しました。

なぜ、菊池の中原先生から地名についてお尋ねがあったのかは不思議でしたが、折りしも、久留米地名研究会の設立に動いていた時期でもあり、否応なく立ち向かわざるを得なくなったのでした。

もしも、中原、堤想定が正しいとして、茂賀浦が実在したとした場合、キクチという地名にはこの巨大な湖が直接反映されているのではないか、少なくともこの湖の存在を前提にした自然地名ではないのかという考えが浮かんできたのでした。

当然ながら、地名探査において通常使用する古代語事典、地名事典といったものから、アイヌ語、朝鮮語といったものまで見ても、とても結びつきそうなものがなく、考えあぐねている時、以前、読んだことのあるネット上のサイトにキクチ、ククチがあったことを思い出しました。九州では特にそうなのですが、倭言葉、朝鮮語、アイヌ語、最近ではドラヴィダ語などを考えてもどうにもならない場合、マライ・ポリネシア系の海洋民族が持ち込んだ地名ではないかと考えることが有効であることを経験的に知っていることから、以下のサイトを再度読み直したのです。それは、


地名の意味を探り、古代史を見直し、縄文語を発見するページ
夢間草廬へようこそ!」 ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源


http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei15.htm


 古く縄文時代の昔、日本列島には原ポリネシア語を話す民族が南方から渡来して住み着き、原ポリネシア語で地名を付けていたと思われます。
 その地名は、昔も今も殆ど変わらない発音で生きて使われています。 
 しかも、古事記、日本書紀などの古典や、日本語の語彙の中にも、多くの原ポリネシア語源の言葉を見出すことができます。


と、いうもので、非常に有力なサイトと思われます。

無論、マライ・ポリネシア系言語など「ハリマオ」(ハリマオとはマレー語で虎を意味する)程度しか知りません。自宅にも父(陸軍航空隊のポツダム中尉)が使っていた、それこそボロボロの昭和一七年三月発行の「マレイ語の話し方」学習の友社(七十五銭)があるのですが、とても学術的なものではありません。

ところが、「夢間草廬へようこそ!」を見ると、


「ククチ」、KUKUTI(draw tightly together,contract,pinch)、「締め付けられた(細くなっている。湖)」


と、このように書かれているのです。さっそく中原先生にお知らせしましたが、開口一番、「菊鹿(キクロク)盆地は絶えず沈降し続ける地溝帯であり、締め付けられて細くなった湖ということは一致しますね…」でした。もちろん、「古代人に地質学的な知識などない訳ですから、細い池ということなら恐ろしいほどの一致ですね…」と返したのですが、実際、手で握り潰して縮んだ形とは、茂賀浦の形状と一致します。実際、これ以上の一致はありえないでしょうが、ここではこのような想定もありえるというところで留めておきたいと思います。もしも、他にも系統的にポリネシア語で解釈できる地名があれば、一応これで説明できると考えたいのですが、どうせ、学会など鼻にもひっかけないはずですから、仮説の仮説として提案だけにしておきたいと思います。

 残るのは茂賀ノ浦のモガですが、“藻が生えた浦”(もちろん、大した水深もなく大量の光が入る湖であることから、一面に藻が生えていたことは間違いないのですが)と考えられれば楽なのですが、ことはそれほど簡単ではないように思います。

 もしも、茂賀浦ならば茂+賀=が(格助詞)浦ならば、それで良いのですが、茂賀ノ浦ですから、そのまま考えれば、“茂+賀が+の浦、と、格助詞が重なってしまうことになるのです。もちろん、「私と彼とが一番上手だった。」という表現があるように、格助詞が重なる(この例では”と“+”が“)ことが全くない訳ではありませんが、これはやはり例外的な表現なのです。

 と、すると、やはり、茂賀こそが中心的な“語幹”なのです。では、“もが”とは何でしょうか、菊地をククチとし、ポリネシア語で納得したのですから、同様に、モガもその線で考えなければ整合性が取れないのです。

 素人だからできることですが、大和(倭)言葉で考えようが、朝鮮語、アイヌ語、マレイ語、はては、ドラビィダ語までも持ち出して考えても全く見当が付かず諦めてしまいました。

 とうとう、中原先生を連れ出し、もしかしたらヒントが得られるのではないかと人吉市の上漆田町にある茂賀野湧水と言う水源地まで行くことまでしたのですが、茂賀ノ浦と条件は似ているものの、決定打を得られるまでもなくすごすごと帰ってきたものでした。

 最後に一つだけ可能性があると考えたのが殯(もがり)でした。元々はこの線で考えていたのですが、確たる根拠はほとんどありません。茂賀ノ浦に面した垂直の崖のかなり高い場所に数えきれないほどの横穴墓がある菊鹿盆地にはぴったりのように思えたのですが、良く考えれば、殯(もがり)とは、裳上がりの省略形であり、『日本書紀』にも「殯」は「」(裳上がり)とされているのです。茂賀(もが)が「裳上がり」の音韻脱落とはちょっと無理があるように思えたのです。

 結果、茂賀ノ浦の意味は全く見当が付かないまま諦めてしまいましたが、どなたか答えを出して頂けないでしょうか。

 多くの古代史書に書かれる「倭は呉の太伯の後」という著名なフレーズであり、春秋戦国の呉越の民の中にも、さらにそれ以前からも多くのマレイ・ポリネシア系の人々がこの地に入っていたと思うからです。

最後に気になるのが菊池という漢字の表記のことです。東北地方に池ではなく地と書く菊地(キクチ)姓が非常に多くあることは知られていますが、北の菊地一族はあくまで地の菊地に拘り、九州のそれは池の菊地にあくまで拘り続けたと言われています。もしも、菊池の池が茂賀の浦の池や湖であったとしたらとても面白いのですが、もちろん、これに別の謂れがあることを知った上の話です。


茂賀の浦の意味するもの


堤研究にも明らかですが、茂賀の浦には、複数の伝承があることから、一方においてはは民衆の中に生きる伝承として、また、一部には古文書として限られた人々には知られていたのかもしれません。

しかし、一般的にはこのように巨大な湖があったなどという話はこれまで全く聞いたことがありません。

中原、堤 両研究者による想定“茂賀の浦”は、肥後が古代史の世界においても極めて重要な場所でもあることから、相当に衝撃的な大発見と言えるでしょう。

 ただ、この研究は既に五年前に発表されているのですが(於:菊池市)、これほどの大発見にも関わらず、奇妙にも正当な評価がされていません。

 それは、恐らく中央の史書に書きとめられていないことから来るものなのでしょう。仮に古代国家の確立を大化の改新や記紀の成立とすれば、それらに先行すること五百年から千年前の話であり、言わば、国家の記憶、民族の記憶としても限界があったのかもしれません。

 しかし、費え去った記録、もはや途切れんまでも細くなった人々の記憶、失われんばかりの土地への痕跡を手繰り寄せ私達の眼前に、古代の巨大なまでの真実を明らかにしてくれた中原、堤研究という英知に対して、今更ながら、驚愕と賛辞とを贈りたいと思うばかりです。さらに、現代への想いを巡らせて考えれば、何故三号線が海岸部の玉名を経由せずに北部丘陵を通されたのかという素朴な疑問へも答えを与えているようにも思えるのです。

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菊池神社


最後になりますが、最近、菊池(川流域)地名研究会の結成メンバーである菊池市久米八幡神社の吉田正一宮司により、「茂賀浦はなっかった」という講演が行なわれましたが、その際、「茂賀浦」は「もがのうら」ではなく「しかのうら」と読むべきではないかとの提案がありました。

菊池盆地に多くの海神神社があり、菊池盆地に「久米」「宗像」「志々岐」・・・といった多くの海洋民が付したと思える地名もあることから、古くからこの湖に海人族が住み着いていたことは明らかです。

このため、安曇族の拠点であった博多湾の「志賀島」を思わせる「しかのうら」との読みは魅力的です。いずれ、ネット上にお出しできるときもあるでしょう。

今は、「茂賀浦」が非常に浅い湖であったことから、光が十分に入り、一面に水草が茂る「藻ガ浦」であったということで、一応は納得しています。


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