202 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”①
20150408
久留米地名研究会 古川 清久
地名研究会とは言いながら神社の話ばかり…との声も聞こえてきますので、少しは地名の話も入れて行くことにします。
穴掘り考古学が佐原 ○などの考古学村(考古学協会)によって占拠されて以降、古代史探求に於いては考古学が全く解明の手助けにはならない!と考えるようになってこのかた、利権構造の薄い他の分野、例えば地名研究、民俗学、言語学、神社研究、照葉樹林文化論…などに依拠する以外に方法はないと考え、いつしか百嶋神社考古学の深い海溝にコワゴワ降りて行く事にしたのですが、時として息苦しさも感じて、少しは陽の差し込む浅海にも戻って行こうと思うものです。
まず、地名研究で取り上げようと思うのは、「釜蓋」です。
本稿は、既に久留米地名研究会のHPに全文を掲載し、3年前に久留米大学の公開講座でも発表したものですが、これから何回かに分け、新たな編集も加えて読者の皆さんにご覧いただきたいと思います。
今の時代は、長文をゆっくり読んで下さる方は多くはありません。このため、ビジュアルかつ「マイアミバイス」(古い!)や「CSI」「モンク」「スタートレック」TV版…などのような読み切りタイプで提供しなければ全く対応できないのです。
この話は谷川健一の「続 日本の地名」(岩波新書)に収められた熊本県宇城市にある「永尾」(エイノオ)という奇妙な地名を“外にもあるはずだと”ばかりに探す過程で、「永尾」地名ばかりではなく「釜蓋」という同一の意味の地名がその何倍も存在している事に気付き書いたものでした。
特に集中しているのは北九州の古代の海岸部であり、古代に於いて最も重要な、瀬戸内海航路、日本海航路、豊予航路、玄界灘航路の全てを制圧できる位置に存在しているという事実にも気付いたのでした。
一方、「釜蓋」姓は全国で10件ほどあるのですが、この話は置くとして、実はこの「釜蓋」地名が黒潮に乗って南米のエクアドルまで移動していると言う驚愕の話まで展開します。
まずは、「永尾」地名の分布から考えて見て下さい。
今回も余白ができましたので、今回も吉田画伯の素晴らしい絵をご覧いただき目を休めて頂きます。
「ながれが帰ってきた」 吉田耕一(熊本県芦北町)
「釜蓋」(カマブタ)“宇土半島の永尾(エイノオ)地名を古博多湾に発見した”
謎解きを始める前に場所を確認しましょう。大野城市大城の大城4交差点から大城山、大城小学校から流れてくる小河川沿いに少し上ると釜蓋公民館があり、釜蓋というバス停があります。ただ、太宰府一五〇〇〇分の一クラスの道路マップでも小さく釜蓋と表記されているだけで簡単には見つかりません。このため実際には太宰府インターの出口から約四〇〇メートル北辺りを探す必要があるでしょう。
釜蓋とは何か?
大野城市大城山の裾野に釜蓋はあります。特別な資料でもない限り地名研究では、類型地名を拾い出しその共通点を見つけ出すという方法を取るのですが、実はこの類型地名が言うほどはないのです。
目立つ地名としては、開聞岳に近い鹿児島県頴娃町の海岸部に張り出した岬に釜蓋大明神という神社があります。もちろんこの神社も関係があるのですが、これに纏わる話は後に回すとして、まずは、民俗学者谷川健一の『続日本の地名』(岩波新書)から始めましょう。
この本には熊本県の宇土半島に永尾(エイノオ)という土地と永尾神社という奇妙な名の神社があることが書かれています。
不知火町の永尾神社は宇土半島の不知火海側の中ほどに位置し、今なお“不知火”の見える神社として著名ですが、この永尾(エイノオ)とは、エイ(スティングレイ)の尾のことではないのかとするのです。
もちろん日本地名研究所所長であり民俗学柳田国男の弟子に当たる谷川氏によるものですが、詳しくは第二章[エイ](永尾)や、関連の著作をお読み頂くものとして、簡単にこの地名の概略をお話しましょう。
永尾神社は別名“剣神社”とも呼ばれています。これも尖った岬の地形からきているものでしょう。
この神社は、西の天草諸島へと向かって伸びる宇土半島の南岸から不知火海に直角に突き出した岬の上に乗っています。現在では干拓や埋立それに道路工事が進み分かりにくくなってはいますが、かつては山から降り下った尾根が海に突き刺さり、なおも尖った先端がはえ根として海中に伸びる文字通りエイの尾の上に社殿が乗っているような地形だったはずです。そしてその岬は背後の山に尾根として延び、古くは、両脇に本浦川、西浦川が注ぐ入江が湾入しており、尾ばかりではなくその地形はまさしくエイのヒレの形を成していたと考えられるのです。
丘には永尾神社が祀られている。祭神は鱏(えい)である(本章扉参照)。永尾というのはエイの尾を意味し、尾の部分の鋭いトゲになぞらえて、別名を剣神社とも称する。これには一匹のエイが八代海から山を越して有明海に出ようとして果たさず、ここに留まった、という物語が絡まっている。永尾(エイの尾)に対して、内陸部にある鎌田山はエイの頭部に見立てられている。
ここで思い出すのは沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいることである。(英語でエイをマンタというが、もちろんそれとは関係がない。)カマンタの意味をたずねて、カマノフタである、と聞いたことがある。『日本魚名集覧』を見ると、ウチワザメのことを国府津(こうず)ではカマノフタと呼んでいる。またサカタザメを静岡県ではカマンド、愛媛県ではナベブタウオと呼んでいる。サカタザメは鰓穴(えらあな)が腹面にあるのでエイの仲間に分類されているが、その呼称もエイとかエエとか呼んでいる地方が多い。要するにサメもエイも同類と見られていた。そこで永尾にある鎌田山の名称もエイを指す方言に由来するのではないかと考えてみたことがある。・・・(中略)・・・熊本県不知火町の永尾地区では、今もってエイを食べないが、沖縄ではサメを食べない地方や氏族集団が見られる。・・・(中略)・・・恐らく永尾も、古くはエイを先祖とする血縁の漁民集団がいたところであったろう。
『続日本の地名』(岩波新書)
まだ、なんのことだかお分かりにならないかと思いますが、この地名が存在する事は実に衝撃的で、良く言われるところの古博多湾というべきものが現実に在り、そこに突き出した岬状の舌状台地をエイの尾と見立てた人々が住み着いたことを示す痕跡地名であると考えるのです。
もちろん、釜蓋とは南方系の魚撈民が呼ぶエイであり、同時にこの地名が存在することは、地名の成立した時代の汀(波際)線を今に伝えるものと言えるのです。
永尾神社由緒
縁起には鎌田山のことが書かれています。釜蓋とは単に表記の違いのようにも見えますが、大釜や大鍋の蓋の取手を頴(エイ)の背骨に見立てれば、釜蓋という地名に意味があることがお分かりになるでしょう。
もしも、沖合を進む船の上からこの地形を見た場合、海に伸びたエイの尾状の岬と、潮流により形成された湾曲した砂浜の形が、文字通りエイの尾とヒレに見えるところから、まさしくエイが陸に這い上がった姿に見えたことでしょう。実は冒頭に芥屋の大門の写真を掲載していますが、まさにこのような地形こそが私が言うところの永尾地名なのです。
このように、釜蓋とはエイを強く意識する人々によってもたらされたものであり、この南方系の海の民がこの地に定着した時代があったこと、そして、その時代この地が波に洗われていたことをも同時に意味しているのです。
ここで釜蓋を考えて見ましょう。いわゆるお釜(ハガマ)の蓋ではなく鍋蓋を考えればエイの形状と合うかも知れません。
ハガマが普及するのは江戸の半ばからで、それ以前は、鍋でお粥や雑穀雑炊ばかり食べていたのですから、こちらが一般的だったはずではあるのです。エイに見えますか?
「この類型地名が言うほどはないのです。」と前述しましたが、それでも目に付くものを拾い出してみましょう(正確な拾い出しではありませんのでご注意を…)。
当然にも大半が海岸部の地名になります。『日本の島事典』1995年(三交社)によると、釜蓋地名は日本海側に散見されます。
新潟県の上越市や遠く青森県にも拾えますが、現地を確認していないこともありここでは触れません。
ただし、後で分りますが、この程度のものではなく、実に、夥しい数の永尾地名があることが分ってきたのです。
恐らく、この地名を各地に残した人々は、それなりの人口を持ち、かなりの移動性を持っていたようなのです。
釜蓋という地名の見当がついたところで、冒頭に述べた福岡市博多区白木原の東(旧大野村)、釜蓋(カマブタ、カマノフタ)の古い地図を見てみましょう。これは陸軍測量部(後の国土地理院)が作成した地
図ですが、これならば都市化で消えた地形がある程度判読できます。
大野城市大城山の裾野に釜蓋はあります。
続く