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204 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”③

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204 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”③

20150408

久留米地名研究会 古川 清久


「釜蓋」(カマブタ) 長崎県諫早市飯盛町江ノ浦=下釜


5)長崎県諫早市飯盛町江ノ浦=下釜


204-1

ゴロタ石や砂が堆積してできたエイの尾の先端には前島が…


永尾地名の拾い出し作業を行っていた時、この旧飯盛町江ノ浦=下釜にも気付いていました。

ただ、江ノ浦、釜が自然地名でもあり、現地の地形とも一致するところから保留していたものです。

当然にも周辺調査を行い、現地を踏んだ上で結論を出すべきだからです。

ところが、実際には全く逆で、“百聞は一見にしかず”のたとえどおり、一刻も早く現地を見るべきでした。それほど現地は雄弁であり、その印象も強烈だったのです。

ここは島原半島の付け根というよりも、長崎半島と島原半島が東西にウイングを広げ、南からの大潮流を眉間で受け止める陸塊というべき場所です。そして、その一角の目立たない入江や岬こそが求め続けるものだったのです。

古く、江ノ浦の入江は相当奥まで深く延びていたはずであり、近世になってようやく干拓が行なわれ陸化が進んだことが一見して分かります。

それは現地の古江ノ浦湾の真中に残る“開”という地名によっても明らかです。

諫早周辺には佐賀鍋島藩の親戚筋の領地がかなりあったため、ほぼ、佐賀平野限定の篭(コモリ)、搦(カラミ)地名も多いのですが、“開”は江戸期の佐賀平野以外における一般的な干拓地名です。

当然ながらこの干拓が行なわれるまではこの深い入江を漁場とし、また、避退港として、多くの漁澇民が住み着いていたと思われます。現地を訪れると現在でも多くの漁師の家があることに驚かされます。

さて、「飯盛町辞典」というネット上で拾ったサイトの「月の港の干拓」 によると、かつて、江ノ浦には“月の港”と呼ばれる港があり、千々石(チジワ)=橘湾の海水が入る奥行き一里の湖のような入江があった。とあります。さらに、


この月の港について「北高来郡誌」は「・・・戦国末期の外国船の渡来が頻繁となり長崎を外国市場と選定するに当り、この月の港も候補地に入ったらしいが、海底浅く、且つ、港口が狭く船の出入りが自由でないために、遂にその選に入らなかった」と記している。


と書かれています。

ここは、ある種現代に忘れられたようなところであり、民俗学的にも非常に面白い興味深い土地です。

ともあれ、ようやく機会を得て前島に延びる防波堤の上に立つことができました。ここに来ると、これが紛れもないエイの尾であることが分かります。写真と地図を見比べていただければ分かると思いますが、この岬は江ノ浦川から吐き出される土砂と潮流が衝突することによって形成された砂礫の岬と、前島に繋がる不完全な陸繋島(トンボロ)状の離れ瀬の砂洲の上に橋を掛けコンクリートの堤防が造られたものです。

204-2

尾の付け根には下釜神社があります…



この大型の防波堤が建設される以前は、恐らく砂洲と岬状のエイの尾が前島に延びていたことでしょう。

繰り返しになりますが、当初、江ノ浦=下釜について、当初、“江”は入江であり、“釜”も現地の臼状の地形と一致することから“永尾”地名とは考えていませんでした。今回、現地が入江であったであろうことは確認できましたが、なおも、江ノ浦の“江”は入江であり、釜も現地の臼状の地形と一致するために、永尾地名とは踏み込めなかったのですが、徐々に変わっていました。

そして、現地を見ると未完成のトンボロであることが分かり、これはやはり“エイの尾”であり、エイの裏側にある入江、つまり、エイの浦(エイの尾の裏)が現地の地名の意味であると思うようになったのでした。

さらに、この岬の付け根に下釜(シモガマ)神社があります。これは谷川健一が発見した熊本県宇城市(旧不知火町)の永尾神社の背後地の鎌田山(カマンタ)に対応する呼称に思われるのです。

当然にも、この下釜神社は言わばエイの背中にあたる集落の高台にあり、まさに尾を振ったエイが山に這い上がった形に見えるのです。

ただ、下釜という地名に多少の疑問も残ります。釜とは平戸に近い長崎県田平町の釜田(ここも永尾地名である可能性は残っています)や長崎県旧小長井町の釜など奥まった入江の有るところにも付される地名です。従って、下釜がカマンタ地名であるとすれば、上釜がなければ辻褄が合いません。

私には前島に向かう離れ瀬が上釜で、岬に這い上がっているのが下釜としたいのですが、想像が過ぎるかも知れません。判断は皆さんにお任せしたいと思います。

また、この永尾地名をさらに確信させるものがあります。それは、エイの尾の付け根にある下釜遺蹟の存在です。

諫早市教育委員会による解説を読むと、


・・・古墳時代(千五百年前ごろ)の石室です。これは昭和二年に発見されました。その時には中に人骨が三体あり、一体には石枕がしてあり、一体には貝輪がしてありました。外にもこの横津の岬上の防風林の中にも三基の石棺や石室があります。簡単に四角に石を組んだものが石棺で、この石棺の上に石を積上げて大きくしたものが石室です。・・・


とあります。

私には、「古墳時代(千五百年前ごろ)の石室です。」とするのは間違いで、どう考えても弥生時代のものと見たいのですがどうでしょうか?

それはともかく、下釜神社には、現在、不動妙王が祭られ、札所となっています。仏教化によって祭神も進雄神(牛頭天王)となっていますが、進雄神とは筒男命(住吉の神)のようにも思われます(まさか神農様では…)。まだ、全く見当が付きません。三月と十一月に祭りがあり、青年が集まり、通夜で老若男女を接待したともいわれますが、どうも北部九州というよりも有明海沿岸の「月待ち神事」のようであり、月の港という名称もそこから来ているようです。この風習も今はなくなったという事ですが、いずれ、この祭りのなごりを探りに行きたいと思っています。

思えば、この地を始めて訪れたのは八、九年前のことでした。その時は、ただ、月の丘温泉(最近造られた温泉センターではあるのですが)という名前と温泉に惹かれて訪ねただけでしたが、恐らくそのことが「月の港」とこの下釜神社の発見に繋がったのです。

例え、後発的な地名であれ、それを意識するということは非常に重要なきっかけとなるものです。

さて、解説に「一体には貝輪がしてありました。」(多分二体は夫婦でしょう)とあるように、これが南島のゴホウラ貝などの貝輪とすれば普通は沖縄であり、それだけでも谷川健一氏の沖縄のカマンタとの関係を一層補強するものです。同時に埋葬者自身も南方にルーツを持つようにも思えます。

南島のゴホウラ貝は、直接持ち込まれた可能性もあり、交易によって南から持ち込まれた可能性もあります。また、持ち込んだものが南方系の海人族なのか北方系(例えば対馬)の海人族だったのかという問題もあります。

一般的に隼人などの墓制にこの地下式積石型石棺墓がありますし、対馬にも板状の石を組み上げただけの板式石棺墓が見られます。この地には沖縄方面からエイをトーテムとする人々が住み着いたと思いたいのですが、その長が遺蹟の主だったかどうかはまだ断定できません。

それほど遠い場所ではありませんので、今後ともこの江ノ浦を調査します。

最後に蛇足ながら、この江ノ浦の中ほどに江ノ浦神社があることも報告しておきます。


204-3

下釜遺蹟の掲示板


 この江ノ浦では砂ならぬ砂利の砂洲が前ノ島まで伸びており、現在は防波堤に変わっています。この江の浦川はかつて大きな湖状の入江だったのです。

204-5


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