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206 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”⑤

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206 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”⑤

20150409

久留米地名研究会 古川 清久

「釜蓋」(カマブタ) 頴娃町の釜蓋大明神

重複しますが、この永尾地名は数年前に熊本地名研究会のK氏によって大発見とされ日本地名研究所の谷川健一氏にも報告されたものです。

頴娃町別府(ビュウ)大川にはイタテツワモノノカミを祀る釜蓋大明神(射楯兵主神社)があります。

祭神は素戔鳴命とされますが、両翼に湾曲した入江を従え、南に突き出した鋭い岬の上に射楯兵主神社が置かれています。

206-1

ここには“天智天皇と大宮姫が御領の安藤実重中将を訪ねたおり、接待のために何十石もの米を蒸していると、にわかに突風が吹き釜蓋が吹き飛び大川浦に落ちた。人々はこれを拾い竃蓋神社として祀った。”という奇妙な伝承が残されています。この天智天皇と大宮姫がセットで登場するのは鹿児島県だけに色濃く残るいわゆる「大宮姫伝承」ですが、これについては話が拡散するため、ここではふれません(関心をお持ちの方は古田史学の会の公式サイト「新古代学の扉」にアクセスし、内部検索により「大宮姫伝承」を検索して下さい。古賀達也氏外の論文を読むことができます)。        

なお、画像はhttp://anko.potika.net/blog/1831.html というサイトより無断借用したものです。当方も多くの写真を撮っていますが、このアングルはありませんでしたので、使わせていただきました。

その後、前述した久留米地名研メンバーの永井正範氏(たつの市)と遠路南下し現地を踏みました。


206-2

二枚の図面は釜蓋神社(大明神)の付近地図と、別府(薩摩、大隅ではビュウと呼ばれます)地区の字図です。私たちはこれを九州王朝の評制(郡郷以前の行政単位)のなごりと考えていますが、それはともかくも、コンクリート護岸のパラペットが置かれているものの、湾曲した砂浜を確認し、頴娃とは谷川健一氏が発見した永尾地名であることを確認できました(字図は教委より)。

206-2

鳥ケ迫の浜               住吉の浜


206-4


再び大野城市の釜蓋について

 釜蓋の解明のために、長々と類型地名をご紹介してきましたが、大野城市の釜蓋が前述したものと何らかの関係があることは、まず、間違いがないように思います。

市のホーム・ページによると、この地区の大よその概要がつかめます。

「瓦田と釜蓋には、四王寺山の中腹からこの釜蓋原一帯は瓦田・釜蓋区の共有林でしたが、昭和51年の特別史跡大野城跡の指定拡張に伴い、標高100メートル以上は大野城市に買い上げられ、残りの釜蓋原一帯は平成元年からの区画整理事業により分譲住宅として開発されました。しかし、大師堂のある土地は周辺の樹木とともに大師堂敷地として残されました。」

以下、田と釜蓋(大野城市北部位置図)より

区有林の手入れは秋の収穫期または取り入れ後の農閑期を利用して行なわれいましたが(ママ)、この日は山の手入れが終わると夕方から、釜蓋原の大師堂の前で懇親の慰労会が行なわれていました。戦後は個人宅で行なわれるようになっていましたが、大野城跡指定拡張による売却処分後は手入れ作業もなくなり、慰労懇親会もなくなりました。

 ただ、弘法大師の例祭日である四月二十一日には、市外に出ている人や嫁に行った人たちも里帰りして、家族親族一同が久しぶりに顔を合わせて大師堂にお参りし、近所の人々とも旧交を温めています。

地禄神社と遥拝所

 大野村の時代、釜蓋は瓦田に属していました。釜蓋に住んでいる人は御笠川を渡って瓦田の地禄神社で瓦田の人々と宮座を一緒に行なっていました。しかし、距離的に遠いこともあり明治22年に釜蓋に地禄社を遥拝所として建立しました。


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       釜蓋地禄社(参拝殿)       

                

釜 蓋(カマブタ)


この地名を発見して数日後には現地を踏みましたが、集落の中心と思しき釜蓋公民館にはなかなか辿り着けません。大城小学校辺りから流れ下る小河川を頼りになんとか踏むことができました。

集落の規模は一目二十戸程度と思えましたが、新興団地はもちろんの事、近世に成立した集落でないことだけは確信を持つことができました。

さて、釜蓋集落ですが、現在の道路地図では全く昔の地形が確認できません。ここで、いつもの切り札、明治三十三年の陸軍測量部の地図を見ます。

すると、釜蓋地区は一見水を得難いような尾根に集落を置き、南北の傾斜地において水田稲作を行ってきたことが想像できそうですが(これについては現地での聴き取り調査を行っていないため不正確です)、瓦田の新興農地との関係や利水慣行(水利権)といったものを調べる必要がありそうです。

いずれにせよ、集落の真ん中を通る道はエイの背骨を思わせる釜の取手に相当するところを通り、まさにエイの尾の上に白木原への道が造られています。面白いのは、集落の南に存在するため池が鉾ケ浦池と呼ばれていることです。

鉾とはエイの尾に当たる古博多湾に突き出した岬を意味して付された地名であり、これも、ここまで海水(汽水)が入っていた時代に成立した地名であるはずです。ここは、その時代岬の内側に位置するいわば湾奥締切型ため池とも言うべきもので、事実上のエイの鰭に当たるものと思われます。

地禄神社

古博多湾(想定)を調べていると、方々で地禄神社に遭遇し、どうもこの古代湾の周りに同種の神社が分布しているように見えます。既に、貝原益軒の筑前国続風土記(宝永六年・1709年)にも地禄天満宮として記述があります。「三百年以上の歴史をもつ古い神社である。鎮座地は博多区堅粕四丁目(旧西堅粕)で、御祭神は埴安彦命と埴安姫命の二神(農業の神様)…」と。

地禄神社は本社、末社の区別などはなく同じ神『埴安命』を祭神としているものの起源は不詳である。

埴安命は、波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)、埴安神(はにやすのかみ)とも呼ばれ、日本神話にも登場するところの土の神、大地の神として崇め祀られる神であり、地禄とは、大地より与えられる恵、”土地を富ませる”の意味であるとされています。

(追補)

今は、この地禄天満宮の主祭神埴安彦は大幡主(オオハタヌシ)でありその妹が埴安姫(草野姫)であることが分かります。大幡主は博多の櫛田神社の主祭神で豊玉彦=ヤタガラスの父でもあります。

206-6

周辺調査は今後とも続きますが、大野城市の釜蓋には紀元前後どころか、稲作が始められる頃、つまり、今から三千年前辺り(板付遺跡も…)には既に釜蓋には南方系の海人族とでもいうべき人々が住み着いていたのではないかと思えるのです。近くには甕棺による墓を大量に造る人々(恐らく揚子江流域からの稲作民)も後から入り共存しているように思えます。

 現在、釜蓋に住む人々がそのまま古代にまで繋がっているかはもちろん不明です。しかし、誤解を恐れずに試論を提出するならば、ある時代、この地には古博多湾とも言うべき浅海が広がり、釜蓋には、釜蓋、つまり、エイを奉祭する人々、民族集団が住み着いていたのではないかと考えるのです。そして、これまた、仮説に仮説を重ねる砂上楼閣ではありますが、地禄神社はどうもこの古博多湾の波際線に並んでいるように思えるのです(その時代の支配者…か)。

 今回、多くの釜蓋地名を見ることによって、多くのことが推定できるようになりました。一つはこの地名が大半海岸部に位置し、海に向かって岬状の陸塊が伸びていること。

カマンタ、カマムタ、カヤムタ、カマタ、そして、恐らくハマンタも、それに、エイノオを始めとして一群のエイノオ地名、これらの地名の一部なのです。

これまで全く光が当てられてこなかった大野城市の釜蓋という小さな地名だけでもこれほどの広がりとふくらみのあることが分ってきました。

今回の報告は、まだ、中間報告程度のものですが、実は、副産物として、さらにすごいことが分ってきました。これについては、いずれ、別稿「Manta」として報告したいとも考えています。ただ、その一部をご紹介しておきたいと思います。

その前に、もう一つ見た目で分かる大都市の永尾地名をお知らせします。

編集の都合で、先行ページには冒頭の博多区白木原の釜蓋地区の陸軍測量部地図を載せています。

古博多湾に突き出したエイの尾(カマンタ)釜蓋の地形がお分かりになると思います。

まだ、お疑いの向きには、古博多湾の中にもう一つ分かりやすい例がありますのでお知らせしたいと思います。

次の「都市高速から見える福岡東区の永尾地名」を御覧下さい。


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