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207 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑥

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207 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑥

20150409

久留米地名研究会 古川 清久

「釜蓋」(カマブタ) “都市高速から見える福岡東区の永尾地名”

 

 太宰府地名研究会を始めた、第二回目にこの「釜蓋」の実験稿を発表しました。

その際の事ですが、数日前にメンバーのY氏から「これも永尾地名ではないか」と言われて可能性を考えていた多々良川筋の江辻(エイノツジ)と蒲田(カマンタ)もついでに発表してしまいました。

その後、現地を踏みましたが、エイとカマタがセットで在ることなど永尾地名に間違いないようです。

四十人ほどの会場において、現在太宰府地名研究会に参加されている女性メンバーから、「あの一帯は重要な考古学的遺物がたくさん出るところなのに、それだけで判断されるのですか?…」と批判されました。

金隅遺跡を始め周辺を少しずつ見てはいましたが、南方系の海洋民が付けた地名と考えており、正論ではありますが、地名研究というものは民俗学的知見そのものに頼るもので、必ずしも発掘によってどのような人々が住み着いていたのかということは容易には判断できません。地名研究は歴史学とは異なり、文献や高価な遺物では見えてこない民衆が残した地名の成立背景を探るものです。

都市高速から見る事が出来る福岡市東区の永尾地名


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明治33年陸軍測量部作成の地図による


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ここでは、漁師といったものにはとどまらぬ漂泊通商民が残した地名と考えています。

古墳、鉄剣、鏡・・・といったものから、支配的な権力を握った氏族の存在を探求する現在の穴掘り考古学の成果によっては到達できないでしょう。

物資移送などを生業としていた人々が残したものは、一時的な生活址はあるも、ほぼ、めぼしい物は出ない上に、仮に古代の船着場跡が見つかっても、このような集団を探る手助けにはならないでしょう。

地名研究は何よりもフィールド・ワークによる帰納演繹が中心になります。

考古学的観点からは日本海岸の潟湖に繋がる地域であったかどうかは気に留めておきたいと思います。

 ここでは明治の陸軍測量部の地図を見て、二つの集落と二箇所の河川邂逅部がエイの尾に見立てられていることはお分かりいただけたのではないでしょうか?


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時に、地名は権力によっても強制されますが、実際に流通しなければ意味がないことから、最終的には民衆によって付されることになります。このことから、考古学的遺物では判断できないものが多く、代わりに数多くの地名を拾い上げ判断して行く必要があります。

問題はサンプリングが非常に難しい事です。

全国の字地名が消え、地形が変わり、場所もどこだったかが全く分らなくなりつつあります。

その際、手掛かりになるのが明治三十三年の陸軍測量部地図ですが、もう一つ役に立つのが上記の「明治十五年全国小字調」です。

ここには、古代からあまり動かなかったと思われる、小字が化石として残されています。

帰納演繹の精度をあげるために、これを使うことは十分に可能で、これらのデータ・ベース化が望まれるところです。

一例ですが、遠賀郡の海岸部、波津に小字の「釜蓋」があることが分ります。これを、北部九州の海岸地帯を中心に、ある程度拾い出しを行なっています。

九州古代史の会のメンバーで、本稿のトップ画面の芥屋の大門の写真を使わせて頂いている松尾紘一郎さんに「釜蓋」の改訂前の全文をお送りしたところ、自らお調べになりコピーをお送りいただきました。もちろんこの調査資料の存在は以前から知っていましたが、このような特殊な地名がおいそれと拾えるとは考えていなかったのです。

ところが、普通に存在する地名であることが分かったのでした。改めて松尾氏にはお礼を申し上げます。

これを見ると多少面白いことが目に付きます。玖珠郡はもちろん山間部ですが、豊後森の森家は牙を抜かれた瀬戸内の海賊の頭目ですから分かるとしても、阿蘇産山の田尻は気になります。ご存知の通り、「井」(イ、イイ)という姓の方が集中する地区ですが、現地調査が必要です。また、佐賀県にはないと思っていましたが、やはり松浦一帯にはあったのです。やはり、大字だけでは分からないものです。

以下、作業中の一葉のみ掲載します(これは一例ですが、これだけでもかなりの永尾、釜蓋地名が確認できます)。


クリックで拡大表示されます
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釜蓋地名を解明したとの余裕で、釜蓋、マンタ、カマンタ、エイ・・・といった地名をネット検索に掛けていると、驚くべき地名に遭遇しました。これについては、現在なお、個人的なネットワークを駆使して調査中であり、数ヶ月もあれば「Manta(マンタ)」として独立した報告ができると考えますが、ここではその作業の一部をご紹介いたします。

 ここでは明治の陸軍測量部の地図を見て、二つの集落と二箇所の河川邂逅部がエイの尾に見立てられていることはお分かりいただけたのではないでしょうか?

このように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

 お分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイントは交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼ぶようになったのです。そうです、「可愛」も永尾地名の一つなのです。

では、可愛を紹介します。

「可愛」の「えの」

ニニギと言えば、天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命の子とされ、「古事記」「日本書紀」ともに登場し、瓊瓊杵尊などと書かれる日本神話のスターですが、降臨後、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火照命(海幸)や彦火火出見尊(山幸)を生んだとされています。

そして、この山幸の孫が神武天皇になるのですが(あくまで通説に沿えばであり、百嶋神社考古学はそれを認めません)、ニニギは、亡くなった後「可愛山陵」に葬られ、それは「エノ」と呼ぶとされています。

もちろん、普通は「可愛」を「エノ」と読むことは出来ません。ただし、そこがどこかはともかくとして、地元では読んでいた可能性はあるのです。

これまで見てきたように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。

これについては誰しも疑問に思うようで、例えばネット上の有力サイト「古代文化研究所」も次のように書いています。

○古事記・日本書紀・万葉集で、「可愛」の表記が存在するのは、日本書紀だけである。それも使用されているのは二カ所に過ぎない。
●一つは伊弉諾尊と伊弉冉尊の國産み神話の箇所である。伊弉諾尊と伊弉冉尊が國産みをする時、日本書紀本文には「可美少男」「可美少女」とある。日本書紀一書(第一)に「可愛少男」(2回)「可愛少女」(2回)とあり、その後に、「可愛、此云哀」とあって、「可愛」は「哀」と読むことを注記している。また、日本書紀一書(第五)には「善少男」とある。さらに、日本書紀一書(第十)に「可愛少男」とある。ここに、日本書紀の「可愛」の表記の6例が存在している。
●分かるように、「可愛」はまた、「可美」や「善」とも表記されているわけであるから、「うつくしい」とか、「立派な」「好ましい」などの意であると判断される。
●もう一つの用例は、天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵を「筑紫日向可愛(此云埃)之山陵」としている箇所になる。ここにも日本書紀は本文の他に、一書が八つも並記されているが、山陵名が記されているのは日本書紀本文だけである。日本書紀編纂の時、多くの記録がその山陵名を失っていた可能性も否定出来ない。かりに諸書に山陵名の記録が残っていれば、日本書紀の通例であれば、並記されているはずであろう。
○これが古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例である。わずかに7例があるに過ぎない。それも極めて重大な場面での使われ方をしている。だから、古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例は極めて特殊な表記であることが分かる。

もちろん、水戸光圀公であろうが、本居宣長先生であろうが、「可愛、此云哀」については古来「エ」と呼び習わしていたからこそ、岩波書記も「エ」と振り仮名を付しているはずです。

ここまで考えてくると、後に、「日本書紀」に「可愛」と書かれ「エノー」「エイノオ」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。

お分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイント(必然的にエイの尾形の地形を形成する)は交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼び習わすようになったのです。つまり、「可愛」も永尾地名なのです。では、その「可愛」を紹介しましょう。

もちろん、九州王朝論者にとっても、ニニギの墳墓は降臨地ではないのであって、薩摩川内にあっても一向に構わないのですが、それからすれば、先にご紹介した東区の多々良川流域の江辻山も候補にはなるかもしれません。

また、既に故人になられましたが、熊本に平野雅廣(廣の左に日)という孤高の九州王朝論者がおられました。

氏の著書「火の国倭国」他(五著)には山鹿市菊鹿町相良(アイラ)をウガヤフキアエズの陵とする有力な説があることも掲載されていることをお知らせしておきます(相良観音で著名)。


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