459 六号潜水艇の佐久間艇長が産まれた神社について “福井県若狭町の前川神社”
20170310
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
今時、佐久間艇長などと言っても誰もご存じない時代になってしまいましたが、軍国華やかなりし時代には国民の誰一人として知らぬ者のない人物であり、他の多くの偉人とともに教科書には必ず登場していた軍神級の人だったのです。死亡後は二階級特進大尉(海軍では「ダイイ」と呼ぶ)。
佐久間 勉
1879年9月13日に福井県三方郡八村(現・若狭町)で、前川神社神官で小学校教員だった佐久間可盛の二男として生まれる。福井県立小浜尋常中学校・攻玉社を経て、1901年12月に海軍兵学校(29期)を卒業する。後に内閣総理大臣を務めた米内光政は兵学校時代の同期生だった。
1903年に海軍少尉となり、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎えた。日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいた。日露戦争後は水雷術練習所の学生として採用され、水雷母艦「韓崎」に乗り組んで勤務、さらに第1潜水艇隊艇長、第4号潜水艇長、第1艦隊参謀、「春風」駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積み、1908年には第六潜水艇隊艇長を命ぜられた。
1910年4月15日、第六潜水艇は山口県新湊沖で半潜航訓練中沈没して佐久間以下14名の乗組員全員が殉職した。同年4月17日に第六潜水艇が引き揚げられ、艇内から佐久間の遺書が発見された。その遺書の内容は同年4月20日に発表されるや大きな反響を呼び、同日中に殉職した乗組員14名全員の海軍公葬が海軍基地で執り行われた。同年4月26日には、佐久間の葬儀が郷里の前川神社で村葬として執行された。
第六潜水艇沈没と遺書
後に水交社から写真版で出版された佐久間艇長の遺書
第六潜水艇が訓練中に事故を起こし、乗組員14名全員が殉職した。殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も潜水艇の修繕に全力を尽くしていた。佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いた。
謹ンデ陛下ニ白ス
我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ
その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と斎藤実を初めとする当時の上級幹部・知人の名を記し、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記して絶命した。佐久間が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだった。沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された佐久間の遺書は、当時の国内外で大きな反響を呼んだ。国外(主に欧州)では同様の潜水艇事故の折、脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、最悪の場合は乗組員同士で互いに殺し合うなどの悲惨な事態が発生していた。それゆえ、出入口へ殺到せずに最期まで潜水艇を修繕しようとしていた佐久間および乗組員の姿は大きな感銘を与え、各国から多数の弔電が届いた。
国内では長らく修身の教科書に「沈勇」と題して掲載されていたほか、夏目漱石は事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」において、佐久間の遺書とその死について言及していた。
今日でも佐久間の命日には、出身地の福井県で遺徳顕彰祭が行われている。海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われている。
ウィキペディア20170310 08:24による
それこそ司馬遼太郎や阿川弘之などが喜びそうな話なのですが、操船ミスとの話はあるものの、簡単に言えば、小型の潜水艇による瀬戸内海(岩国沖が分かりやすいと思いますが)での訓練中に、初期のシュノーケルの問題によって浮力を失い、14人の乗組員全員が酸素欠乏により死亡した海難事故だったのです。
それが、後世に伝えられる美談となった背景には、佐久間艇長自身は最後までその原因ついての記録を残し、クルーも最後まで持ち場を離れることなく任務を遂行し従容として死を迎えた事が、沈痛なる事故であるにも関わらず、あの反戦歌人とさえ言われた与謝野晶子でさえも賛美を送ったと言われるほど多くの人々の心を揺さぶったという背景があったのでした。
イギリスの海軍兵学校(Britannia Royal Naval College)は英国デヴォン州のダートマスにありますが、ゴスポート(Gosport)には王立海軍潜水艦博物館もあり、第二次世界大戦においても、なお、敵国であった日本の佐久間艇長の遺書のコピーは展示され続け、日本では忘れ去られて久しい佐久間 勉が世界の潜水艦乗り=サブ・マリナーが見習うべき模範として現在も掲示されているというのです。
戦後の日本ではそれこそ占領軍に従い、教科書からも消され、手のひらを返すかのように忘れ去られてしまったのですが、今や、地元や海上自衛隊関係者を除き、この人物を知る人は極端に少なくなっている事でしょう。我々も、本を読んでいるから知っているだけであり、実に悲しいばかりの話です。
第六潜水艇
救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。佐久間艇長以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。歴山丸の艦長は、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止しており、また佐久間大尉もガソリン潜航の実施を母船に連絡していなかった。歴山丸の艦長は事故調査委員会において、佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたことと、禁令無視が事故を招いたのだと述べている。また、事故調査委員会では、潜航深度10フィートと言う、シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令があったと記録されているが、実際にそのような命令ミスがあったのか(このようなミスは考えにくい)、記録上のミスなのかは不明。
ウィキペディア20170310 08:31による
佐久間艇長の話を長々とせざるを得ないのは、韓国や中国ほどではないとしても、手のひらを返すかのような国民性と今なお続く米国(ユダヤ・マフィア)による占領支配への思いは置くとして、これからはこの佐久間 勉が産まれた神社(前川神社の佐久間可盛宮司の二男)の話になります。
最近は、京都から福井辺りまでは頻繁に足を延ばすようになりましたので、この若狭町の前川神社には何度か参拝してきました。
折しも、2016年11月、福島、茨木、群馬、埼玉、山梨の神社調査から再び同社を訪れたものの、面倒な話(六号潜水艇に関する記事)を書かざるを得ないためこれまで棚上げにしていたのですが、ようやく気力が戻ったため、少しずつ思い出しながら書くこととしたいと思います。
ただ、何故、前川神社と呼ばれているかについては未だに分かりません。
由緒を見る限り、前川神社はかなり古い時代(1200年前)に滋賀県大津市坂本の日吉大社から大国主命を勧請した神社のようです。
ただ、日吉大社とは、本来、阿蘇の草部吉見と宗像の市杵島姫との間に産れた大山咋を祀る神社であり、筆頭に並ぶとしても、何故、山王七柱のうち大国主命を祀る神社となったのかはそれなりの背景があったように思えます。想像だけで良ければ、オオナムチこそが本来の祭神で山王からの勧請は後付でしょう。
前川神社由緒と大津市坂本の日吉大社祭神
由緒には、「八幡社、金比羅社を祭祀したが」とあるものの、誉田別=応神はともかく、何故か、大己貴命の下に金山彦命と書いてあるのです。
まさか書き間違ったとは思えないため、金毘羅=金山彦と誤って理解されているのかも知れません(一般的に通説では金毘羅は大国主とされますが…)。また、普通なら出雲大社から勧請しそうなものですが、何故、坂本の日吉大社から勧請したのかも不思議です。
そう考えながら境内を見ると、参拝殿に浜砂利が敷き詰められている事に気付きました。
どう見ても大己貴命を祀る神社に特有の石持ち神事の名残だろうと思ったのでした。
そう考えるとこの地には元々大国主命を祀る人々が住み着いていたのであり、広い意味で言えば、博多の櫛田神社の大幡主の領域であり、その延長上に前川神社の社家の佐久間 勉も在った事を知ったのでした。
現在でも佐久間艇長の生家は保存されています。
多分、右側の写真の部屋で勉学に励んでおられたのだろうと思っています。
今また、西太平洋波高しといった時代となってきました。
海底での戦いでも、今や米国の最新鋭原子力潜水艦にとっても手強いと言われる世界最高水準の「そうりゅう型」潜水艦と89式深々度魚雷という現代版酸素魚雷が、密かに、しかし、大活躍している時代に入っているのです。
百年の時の流れを越え、一般には忘れ去らされたとは言え、これら海自のクルーにはゴスポートの佐久間 勉艇長の敢闘精神が脈々と継承されているのだろうと思うのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
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