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スポット124 ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”②

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スポット124 ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”②

20171001

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 太宰府地名研究会のエースに宮原誠一氏がおられます。

 氏は3040年に亘り筑前~筑後の神社研究を続けてこられましたが、百嶋由一郎神社考古学に接してようやく謎が解けたと言われています。

 既に、sp124-1としてblogを更新続けておられますが、まだ、スタートして間もない事から直ぐにアクセスが上がるという訳には行かないようです。

 このため、宣伝の意味を込めて、No.24 老松神社シリーズ ⑥ 大国主を祀る朝倉市下渕の神社を全文転載させて頂くことにしました。

 なお、「ひぼろぎ逍遥」、「同(跡宮)」にもリンクしていますので sp124-2、私の駄文よりもよほど立派ですので、是非お読み頂きたいと思って止みません。


宮原誠一の神社見聞牒(024)

平成29(2017)0928


No.24 老松神社シリーズ ⑥ 大国主を祀る朝倉市下渕の神社


神功皇后と羽白熊鷲(はしろくまわし)の戦闘で有名な福岡県朝倉郡筑前町(旧三輪町)弥永に大己貴神社がある。その北東約1.5Kmの下渕(したふち)に神功皇后と大国主が係わる老松神社がある。秋月への入口点の甘木待丸・三輪内村と秋月街の中間に当たり、楠の大木が繁る境内の広い神社である。ここは旧安川村であり、夜須川(甘木川の古名、現在の小石原川)が流れる。この秋月には大国主関係の神社が多くみられ、羽白熊鷲は大国主の匈奴熊襲を引き継ぐ朝倉匈奴の頭領であった。(匈奴熊襲とはトルコ系匈奴を指す)


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福岡県朝倉郡筑前町(旧三輪町)弥永の大己貴神社

第一の鳥居は「大神大明神(おおがだいみょうじん)」第二の鳥居は「大神神宮(おおがじんぐう」とある。


老松神社の福岡県神社誌によると祭神は神功皇后と「菅原神、吉祥女」となっている。

社殿には梅鉢紋が打たれているが、「菅原神、吉祥女」の菅原神は祀られていない。

神功皇后は本殿の後の摂社群のなかの忌宮神社に関連があるが、本殿には祀られていない。

このように、福岡県神社誌の祭神と実際の神社祭神の祀られ方には、随分と隔たりがみられる。


福岡県神社誌


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神功軍、熊鷲軍が戦った七つの戦場を「七ヶ森」と云い、ここ下渕は、その一つ「御府(みふ)の森」と云う。古くは、ここに老松神社の社殿があったが、明治22年に字「茶屋」に、大正3年に字「御府後」に移っている。

熊鷲軍は本丸の「秋月野鳥」に踏み込まれ、上秋月に後退する。今の秋月城跡の当たりで、この戦場を「梅園の森」と云う。この南の丘に八幡宮があり、ここを「宮園の森」と云う。八幡宮になる前の古宮の祭神は大国主である。熊鷲は大国主と野鳥の白山宮(妙見宮)を祖神として祀っている。

北東にそびえる古処山は妙見様の山(山頂には白山宮の上宮がある)、その東にある馬見山は大国主の山と古代人は崇めた。


最初に仲哀神功軍が熊鷲を攻めた時、軍卒が集まらず、大三輪社(大己貴神社の元宮)を立て、刀矛を祀り祈願したところ、軍衆が自ずと集まったと云う。兵卒の中には、穂波大分(ほなみだいぶ)で徴兵された者もおり、嘉穂は大国主の故地(穂波・桂川の出雲土師一帯)である故、大国主信奉者もいたことだろう。そのため大国主を大神神社に祀ることで、兵卒は安心感を得て集まったのであろう。

この大己貴神社の西約500mには大国主ゆかりの神社「日隅宮うずのみや」がある


やがて、羽白熊鷲との決戦は上秋月の愛宕神社がある付近の「椿の森」で行なわれた。この地は現在「千原(血原)」という地名で残っていると云う。

再度敗れた熊鷲軍は後退し、今の寺内ダム湖の荷原(いないばる)で羽白熊鷲は終焉を迎える。



以前から疑問だったのですが、逆賊「羽白熊鷲」も熊襲だったのではないかと考えて来ました。しかし、それ以上先に進む事ができずに留まっていたのですが、宮原氏ははっきりと大国主命(トルコ系匈奴)の後裔と謎解きをしてくれました。さらに、これも謎だったのですが、林田の三奈木神社の祭神が何故、大国主命であり、三奈木の三奈木神社と異なるのかも理解できました。まさに宮原氏によるブレーク・スルーに感謝します。併せて伊藤まさ子女史の研究も謎解きに寄与したのです。古川注


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社殿の外の社紋は梅鉢紋であるが、神殿正面には見えにくい所に剣梅鉢紋が打たれていた。

剣梅鉢紋は福岡県小郡市南端の西鯵坂(にしあじさか)の老松神社でも見かけた。


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百嶋神社考古学に影響を受けた宮原氏、伊藤女史…と多くのメンバーによる共同研究が実を結び始めています。ようやく「古事記」「日本書紀」がひた隠しにしてきた謎の解明が一挙に進み始めました。

残された時間はそれほど多くはありません。神代史を通じた古代史の解明にご理解を…。古川注


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神殿の後の摂社には、宮地嶽神社、忌宮神社、宇賀神社、宝徳神社、市杵島神社、田神社が並んでいる。宝徳神社は稲荷神社関係、宇賀神社は弁才天関係で、市杵島神社が大国主と直接関係し、祭神・市杵島姫は大国主の妃である。


宇賀神(ウガジン)と弁才天

仏教に説く穀物神で、弁才天と同一視され、密教にも取り入れられ、白蛇の形をとる。

宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とは関係なく、仏教の弁才天と習合し、宇賀弁才天として祀られている。

弁才天信仰は奈良時代に始まって、金光明経の「八本腕弁才天」、

平安時代には琵琶を持った「密教弁才天」、

鎌倉時代には白蛇を伴った「宇賀弁才天」と変化している。

市杵島姫の神仏習合である弁才天は、インドの川の女神・サラスヴァティーに由来し、水辺に腰掛け、琵琶を奏でる優美な女神と表現される。このため、弁才天(市杵島姫)を祀る社は、多くが境内地の水辺や池の浮島に祀られている。規模の大きい神社では、社殿全体が池に囲まれている神社もある。


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神殿の側壁の彫刻は、天馬・馬が彫られ、匈奴熊襲の騎馬民族をうかがわせ、境内の灯籠には月形と鹿が彫られ、モンゴル騎馬民族の匈奴熊襲関係の神社と見てとれる。神殿には、その惣領である大国主が一人鎮座されている。


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老松神社の福岡県神社誌に記載されている祭神「神功皇后」と「菅原神、吉祥女」は祀られていなくて、実際には大国主一人が祀られている。

祭神を大国主とするには、まずい時代があったのであろう。神社名が老松神社であるから、祭神は菅原神でいいとしても、戦前であればこそ、祭神を神功皇后とすれば通りが良かったに違いない。

しかし、ここ、羽白熊鷲の本拠地、安川、秋月には神功皇后を祀る神社はない。ほとんど、大国主関連の神社である。それだけに、地元の人達には、羽白熊鷲は郷土の誇りであり、ひいきなのだろう。

大きな戦争・戦闘があれば、戦後処理が行なわれる。戦死者の弔いである。

最期の戦闘は今の寺内ダム湖の荷原(いないばる)で展開され、羽白熊鷲は戦死し、倭国大乱に次ぐ大戦争は終結する。寺内ダム湖の「池辺」にて両軍の戦没者の供養が行なわれた。

この戦いで神功軍はダム湖の西、今の秋月ゴルフカントリーの南の小高い山・喰那尾山(くいなをやま・栗尾山)山頂に陣を置いている。この山頂に大宝元年(751)喰那尾神社が「池辺」から遷宮する。現在の美奈宜神社の古宮である。

これら羽白熊鷲と古処山と美奈宜神社について、鋭い考察が一般ブログとして公開されている。伊藤まさ子管理人「地図を楽しむ・古代史の謎」の「12羽白熊鷲と古処山」2011-10-03 である。その一部を抜粋紹介。


(前略)美奈宜神社は延喜式に名のある式内社である。そして、同じ字、同じ呼び名でもう一つ神社がある。林田の美奈宜神社である。昔から、どちらが式内社か、地域を二分し論争が繰り広げられたとか。決着がつかないまま現在に至っているそうだ。

不思議な事がある。馬見山と寺内の美奈宜神社を結ぶと、馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の美奈宜神社→林田の美奈宜神社と、地図の上ではラインがつながるのである。地図記号の小さな神社。小さな点のような神社記号を通るとは、偶然にしても出来過ぎに思える。(中略)

熊鷲が古処山を本拠地にしたのは何故だろう。考えられるのは、彼はそこから東の馬見山を遥拝していた?である。彼の神は馬見山に鎮座しておられた?のではないか。と言うのは、遠賀川の源流は、馬見山だ。この辺りでは、大神様を「おんがさま」と呼ぶ。馬見山は「大神様」と呼ばれる信仰の対象だったのだ。だから、遠賀(おんが)川の流れも馬見山から始まっている。一人納得してしまった。

羽白熊鷲の神が馬見山だとすると、古処山は、地図の上では何処と結びつくだろう。(後略)


熊鷲と古処山の位置


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筑紫の匈奴熊襲は、馬見山を大国主の山と崇めた。大国主は福岡県筑前町弥永の大己貴神社に主祭神として祀られている。第一の鳥居は「大神大明神(おおがだいみょうじん)」、第二の鳥居は「大神神宮(おおがじんぐう」とある。大国主は「義理の大物主」であり、「大神大明神」であり、地元では「おんがさま」と慕われた。大国主は筑豊の穂波の出雲・土師におられた。若い頃は義理の子・事代主(少名彦)と筑豊芦原の国造りをなされている。恐らく、伊藤氏の言われるように、「遠賀(おんが)川の流れも馬見山から始まっている」とあるように、遠賀川の名前の起源も「大国主・おんがさま」から来ているのであろう。

美奈宜神社といえば、もう一つの美奈宜神社がある。林田・蜷城(ひなしろ)の美奈宜神社である。ここ林田・蜷城では、羽白熊鷲の残党との終結戦が行なわれている。


蜷城地区振興会「蜷城(ひなしろ)の名の由来」 福岡県朝倉市林田

皇后、九州の悪者退治の時、潮干玉を使って川の水を枯らし、川蜷に頼んで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って一度に水を入れ、水攻めにて滅ぼすようにと、神告を受られる。川蜷が守った里をニナシロと呼び、ニナシロがなまってヒナシロとなった、と云う。


「九州の悪者退治」とは羽白熊鷲の残党軍であろう。勝者の言い分である。

当ブログNo.3「3人の豊姫ともう一人の玉依姫」にも述べているように、「蜷」は「杭・柵」の置き換えであり、「蜷城」は「柵の城」という意味である。

ここで、大国主と熊鷲を中心に伊藤氏の「馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の美奈宜神社→林田の美奈宜神社が、地図の上でラインがつながる」のである。

これらに関連して、美奈宜神社の社号の起源についてみてみる。

羽白熊鷲戦争によって、寺内の美奈宜神社と林田の美奈宜神社は、大国主と羽白熊鷲が基底にあり、同じ起源を持っている。

蜷城 → ニナキ → ミナキ と訛っている。この「ミナキ」が漢字で「三奈木」「美奈宜」が当てられた。社伝に「蜷ミナ」を「美奈」と訓()む、とある。好字が使用されている。

「三奈木」は寺内の地名として残っている。「蜷城」は林田の地名として残っている。「美奈宜」は神社名として両神社に使用された。

しかし、祭神になると、両神社の内容はかなり異なってくる。

寺内の美奈宜神社は主祭神が「天照大神」、林田の美奈宜神社は主祭神が「大己貴(大国主)」である。寺内の神社は勝者関係「天つ神」を祀り、林田の神社は敗者関係「国つ神」を祀る。

この後、説明が続くのだが、この件については、紙面をかなり要するので神功皇后を論ずる時に別稿で触れたいと思う。

() ここに記された「神功軍」は、神功皇后軍単独ではありません。正確には、開化天皇軍と神功皇后軍の連合軍であり、あえて神功軍と使用しました。神功皇后は仲哀天皇が第一次の羽白熊鷲戦争で戦死され、神功皇后は開化天皇の軍門に降られ、天皇の后となられている。


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