465 杵 島 ② 1/2
20170324
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
本稿は、「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”のサブ・サイト「アンビエンテ」内の「有明海諫早湾干拓リポート」に掲載したものですが、九州王朝の中枢領域である有明海沿岸の古代を考察するものから改変なく編集を加え転載するものです。
68. 杵 島 ("かつて有明海に巨大な島が存在した"…か?)
歌垣山
私が住む佐賀県武雄市の南部に杵島山(キシマヤマ)という標高三〇〇メートルほどの山があります。
とりたてて姿が美しいというほどのものではありませんが、"歌垣"伝承のある山として一部には知られています(大阪府の能勢町や茨城県筑波市と合わせて日本三大歌垣とされています)。
また、古代史や考古学に興味をお持ちの方には、神籠石(コウゴイシ)を持つ山としても知られています(古代の山城の木柵の礎石と考えられている"おつぼ山"の神籠石はこの山の北西域に存在します)。
今回は"杵 島"としてこの山の西側に関する話をします。
この山は数峰(勇猛山、犬山岳、杵島山、飯盛山、白岩山)からなっています。地図を見るかぎり歌垣山という山はありません。しかし、杵島郡(藤津郡にも跨っていますが)一帯の人々は、歌垣が行われたと伝わるこの山全体を杵島山と呼び、その東側中腹の丘陵を、親しみを込めて歌垣山と呼んでいるのです。もちろん、歌垣は筑波や能勢や杵島だけで行われたわけではなく、この外にも歌垣伝承のあるところは全国にあります。それどころか、江南系の農耕民族が住みついたと思える西日本の各地に広く分布していたはずなのです(この歌垣の話は八月以降に予定している小稿「兵主部」で書くつもりですので、今回、これ以上は触れない事にします)。
ただ、西日本に顕著な夜這いの風習とは別に、"歌垣の風習は遠い上代に存在していたのではなく、部分的には現代まで実際に生きていた"ということは知っておいて欲しいと思います。
一例をあげておきます。
永遠のベストセラー「忘れられた日本人」宮本常一(岩波文庫)"対馬にて"ですが、この本にはほんの半世紀前まで実際に歌垣が存在していたことを伝えています。対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。
佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭(か)けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契(ちぎ)りを結んだという。前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。明治の終り頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実にのこっていた。巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。
対馬の歌垣の記憶は宮本常一によって、潰え去ることなく今に甦りましたが、この他にも歌垣の痕跡を思わせるものがいくつか存在します。私は、以前から福岡県の大牟田市に近い高田町に濃施という地名があることが気になっています。詳しく調べてはいないのでなんとも言えませんが、場所と言い、地形と言い、この地で歌垣が行われたのではないかと考えています。もしかしたら、江南系の渡来人がこの地から大阪の能勢に移動していったのではないかと勝手な思いを巡らせています。
山の麓で鯨が捕れた
はじめに、"41.六角川河口二〇㎞で捕獲された鯨の話"から話を始めましょう。
一部を引用しようとも思いましたが、もともと、この話は、今回書く"杵 島"のプロローグの意味を持たせたものでしたので、部分的に引用すると全体のバランスが崩れてしまうように思えます。このため、全編を再掲しますので、既に読んでいる方は飛ばして先を読まれて結構です。
41. 六角川河口二〇㎞で捕獲された鯨の話"
はじめに
私の住む家から四キロほどのところに長崎自動車道"武雄北方"インター・チェンジがあります。有明海最奥部の住ノ江港から六角川河口堰を経てこの川を遡上すると、高速道路の橋梁直下を川が抜けることになります。
干拓が海に向かって広がり続け、河口が沖に向かって伸びたこともありますが、このインター・チェンジ付近までは直線で一二キロの距離があります。しかし、この川は有明海沿岸域でも最も大きな蛇行を残す川であり、この付近までの河道延長は優に二〇キロになるのです。もしも、この内陸部の河川で一〇メートルを越す大型の鯨が捕獲されたと言ったら、皆さんは信じるでしょうか。しかし、その記録が実際に残っているのです。
とりあえず、なぜこれほどまでの内陸部の河川で鯨が捕獲されたのかを説明しますが、それは"そこが海だったから"と言う方が分かり易いのかもしれません。まず、39.「城原川ダム建設を許すな!」でも引用した「佐賀県史」から見てみることにしましょう。
佐賀県史に書かれた六角川
「白石平野(*)は広義の佐賀平野の一部であるが、さきに述べたところ(筑後川右岸の佐賀平野のこと:古川注)と種々相違した性質がある。まず、山麓は直接して扇状地がなく、地盤の沈降を示しており、六角川は河道が深く、潮汐が武雄盆地にまでおよぶ。土壌も安山岩や第三期層の砂岩、結岩などの風化土壌で佐賀平野のそれより重粘である。
佐賀平野にきわだって著しかった堀がここでは小さくなり、分布も租となっている。そして水田の中に島とか馬道と呼ばれる小高い細畦の盛土がいたるところにみられる(小規模な利水のためのものでしたが、これはこの本が書かれた当時の景観であり、ほ場整備事業のなどの結果、現在ではほぼ消滅しています。 :古川注)。
六角川と南の塩田川とを除けばこの平野には川らしい川がない。しかもこの両川ともに潮汐の干満の影響が強くはるか上流まで海水が逆流するので灌漑に役立たない。杵島山はわずか三〇〇メートルほどの山地で、山が浅くみるべき水系が発達しない」(「佐賀県史」昭和四三年)
一方、佐賀平野の特徴は、「佐賀平野の諸川は背振山系から風化した花崗岩の砂礫を運搬して山麓に扇状地を作ったが、平野部でも河道はすぐ天井川となり、氾濫して河道を変えてきた」(同書)となります。
このように上流から粒子の大きい堆積物(風化花崗岩=真砂土)が送りこまれる佐賀平野に対して、粒子が小さい泥中心の堆積物が送りこまれる白石平野では、「佐賀県史」に書かれているように、内陸部まで陸地の標高が低く海水が内陸奥深くまで入るのです。
当然ながら、有明海沿岸域最大の蛇行も河道の深さもこのことによって多少とも説明がついたかと思います。
繰り返しになりますが、佐賀平野に対して、白石平野から武雄盆地にかけては標高が低く、海から遥かに遠い内陸部まで潮が上がり、私が住む市街地のすぐ南側まで海が広がっていた時代があったことを感じさせます。その後、それは徐々に陸化していくのですが、それほど古い昔ではないほんの数百年前まで、相当に川幅の広い感潮河川(佐賀ではこれを江湖(えご)と呼びますが)、と言うよりも幅の狭い海が延びていたのです。
(*)白石平野 : 佐賀平野の西側に隣接する六角川と塩田川にはさまれた平野で中央部に杵島山がある。
「多久御屋形日記」に見る鯨の記事
「多久御屋形日記」という資料があるのですが、「北方町史」の年表にはこの資料に基づく記事が掲載されています。
新橋上から六角川上流を望む左岸の三番目の樋門付近か?
迷い鯨多久領内にて斃死するの一件
多久市の郷土資料館の館長をされている尾形善郎氏が書かれた「肥前様式論叢」という本があります。ここにこの話しがまとめられていますので引用させていただきます。
鯨なるものとはるか縁遠くなった現在、有明海にそそぐ六角川の上流・杵島郡北方町の川筋(旧多久領)に鯨が泳ぎついたというニュースは誰もが信用しないだろう。しかし多久市立図書館に「新橋江筋入込候鯨図」(紙本墨書・堅五三㎝・横一〇八㎝)の絵図が保管され、その確たる証拠を残している。
あわれむべし、この鯨は「惣長サ四拾尺、但色とろ色」「背より腹まで差渡七尺」「ひれ長サ六尺八寸、横三尺」「鼻先キより口ひげ迄七尺」尾の部分は「差渡四尺八寸」(「 」は絵図に付記されている記録、以下同じ)という子鯨である。この鯨は、たまたま対馬沖の海流から有明海に迷い込み、清流を求めて六角川の川口にさしかかったのであろう。そして肥前の景観にみとれながら川登りを始めたのが運のつき、我に返った時は北方町の「新橋より凡そ八丁斗」の地で、両岸は「多久私領志久村之内初袋」なる部落で、眼前には「多久私領医王寺村之内、猫之江(・・)家三軒」があり、鼻先に「井樋」の水がそそいでいた。ここでは身をよじるによじられない川幅で、海にもどるにもどれず運つきて「井樋」の清水に死水をとって斃死するに至ったのである。
それから二四一年たった。この現場を巡検すると、国鉄北方駅前のバス停から西へ四〇〇m、北方町追分の信号、交差点があってこれから南に入って追分踏切を渡って医王寺の方へ六〇〇m行けば「新橋」がある。現在架梁中の橋下をくぐって川筋の土手沿いに西に八〇〇m程行った所が、鯨の斃死地である。この両側には「井樋」があり、川筋は絵図通り南にカーブしている。「猫之江家三軒」は今はなく、広々とした美田が続いている。夕日が落ちるとき、この「瀬土井」に立てば、あわれむべきかの鯨のとまどいとあわてぶり、ためいき、そしてあがきと絶望がひしひしと胸にせまってくるのである。
この一件について多久邑校東原庠舎教授のち大監察を勤めた多久出身の儒者、深江順房(一七七〇―一八四八)は、弘化四年撰した、「丹邱邑誌 巻五」(多久市立図書館蔵)に「元文四年、志久江筋(・・)鯨上り来而遂ニ腐損候」の一文を書き残している。
また佐賀藩校弘道館助教をつとめた多久邑出身の儒者石井鶴山(一七四四―一七九〇)は同書「巻一」の上欄に「北方八景」の詩をのせている。その一つに「猫江(・・)皈帆」の次の詩がある。
「地析江門(・・)秋色開 千鯨噴浪雪山来 渡頭日落天如水 一片孤帆擁月回」と。さきの迷い鯨は、この句の千鯨の一頭であろうか。「猫江」の場所といい「江門」といい不思議さもさきの一件と一致しているのではないか。迷い鯨は鶴山先生五歳の時の出来事であった。幼き時の感傷が後でこの詩を生んだであろうか。
鯨とは、南太平洋を悠然として泳ぎ渡る縁遠いもののようであるが、この迷い鯨はのどかなる多久領内を興奮させた縁深いもので親しみのもてる身近なる思いをさせるのである。
「肥前様式論叢」尾形善郎(元佐賀県立博物館副館長)
絶滅した克鯨
一九九九年(平成一一年)七月五日付「西日本新聞」に、"幻の鯨六角川をさかのぼった!?"多久市に伝わる江戸中期の絵図「絶滅した克鯨」と推定 という記事があります。
多久市に伝わる江戸時代中期の絵図「鯨図」に描かれた鯨について、長崎大水産学部の柴田恵司名誉教授(七四)=長崎市石神町=が「日本近海では絶滅した(こくくじら)と推定される」と鑑定した。絵図は有明海に注ぐ六角川を河口から約一二㌔さかのぼった地点で描かれており、柴田さんは「回遊性のある克鯨が迷い込んだのだろう。川に上がった鯨の絵図は全国でも例がないはず」と語り、近く海事史研究史で発表するという。
この絵図は、多久市郷土資料館が所蔵する「新橋江筋入込候鯨図」(縦約五十二㌢、横約百十㌢)墨書きで、一七三九(元文四)年作。場所は旧志久村(現在の北方町)の六角川上流との添え書きがある。旧多久藩の「多久御屋形日記」にもこのときの記述として「大魚が入り込んだ」と記されている。
北方町は内陸で山が迫り、鯨が川をさかのぼってきたことなど想像もできない地形だが、周囲を山に囲まれた多久市東多久町の六角川に注ぐ牛津川の支流にかかる橋にも「鯨橋」の名前が残っている。
「多久古文書村だよりNo.3」(昭和五六・三・三)
おかに上がった鯨
複数の資料から、ほぼ、全体像が分かってきました。私の想像はこうです。
「多久御屋形日記」には、牛津(小城藩)の猟舟とありますが、海で発見された鯨を、住ノ江(六角川河口、右岸の福富町、左岸の芦刈町にわたる港湾と漁港)あたりの漁師達が湾奥の浅瀬(といってももちろん干潟ですが)に追いこみ捕獲しようとしていたのでしょう。追い回しているうちにいつしか六角川に逃げ込まれ、とうとう二〇キロちかくもさかのぼり、身動きできなくなったところをようやく捕獲したということのようです。
もちろん、当時の住ノ江は水運と漁労の集落があるだけで、鯨を専門に狙う"鯨組"などはもちろんなく、まず、鯨を仕留めるような"銛"さえ一本も持ってはいなかったはずです。せいぜい、網とか綱で絡め捕る以上の方法はなく、実際には他人に捕られないように鯨の遡上に追走しただけだったと思うのです。当事の佐賀は、鍋島本藩のほかに、分家筋の蓮池藩、小城藩、鹿島藩などの支藩とその他の関係領地(家老領…など)に分かれ、入り乱れていました(「佐賀県史」の図面参照)。まず、住ノ江の漁師と北方(志久)の領民とは行政区分が異なり(*)、当然ながら分け前についてはそれなりの対立が生じたはずです。しかし、獲物はそれを遥かに上回る値打ちがあり、お互いそれなりのものを得て収まったことも想像に難くありません。
いずれにせよ、「鯨一頭、一村潤う」と言われたように、降って涌いたような宝物に住ノ江の漁師連も志久村の百姓もおおいに沸き立ったことでしょう。
(*)六角川左岸の住ノ江(芦刈)は小城藩領、右岸の住ノ江(福富)は鍋島本藩領、捕獲された場所の現北方町(旧志久村)は多久領(鍋島家親類同格扱いの家臣領)だったようです。
全長一二メートルの鯨が上る川
記事によると捕獲場所は河口から一二キロということですが、あくまでもそれは直線距離です。当時は現在以上に甚だしく蛇行していたわけであり、やはり河道延長で二〇キロ以上はあったはずなのです。しかしたまたまそこで捕獲されただけであり、堰があるので止まっていますが、海水はさらに五キロ近くは上がるのです(この場所からさらに上流部の武雄市橘町には"潮見"という地名もあります)。少なくとも、二百六十年前には全長十二メートルの鯨が逃げ込むほどに大きな江湖が広がり内陸まで潮が上がっていたことを示す良い資料と言えそうです。もちろん当事の六角川の河道は今とはかなり異なり、川幅ももっと広く、現在の北方町中心部に近接して流れていたようです。
この話しは一つのエピソードであり、ただのコラムとして読まれて結構です。少なくとも昔の六角川がいかに大きく、また、いかに内陸部まで大規模に潮が入っていたかということは分かります。今、昔の有明海に比べて潮汐が非常に衰えてきたと言われますが、それは、当然にも藩政時代以来の干拓の拡大による影響もあるでしょう。
しかし、現在の有明海が農水省史上最悪ともいうべき"諫早湾干拓事業"の潮止め堤防の建設(ギロチン)によって、さらに潮流と潮汐が減退して赤潮が頻発するなど、環境が大規模に悪化していることを知って頂きたいのです。
(20050121)
再び 山の麓で鯨が捕れた
重要なのは以下の部分です。
このように上流から粒子の大きい堆積物(風化花崗岩=真砂土)が送りこまれる佐賀平野に対して、粒子が小さい泥中心の堆積物が送りこまれる白石平野では、「佐賀県史」に書かれているように、内陸部まで陸地の標高が低く海水が内陸奥深くまで入るのです。当然ながら、有明海沿岸域最大の蛇行も河道の深さもこのことによって多少とも説明がついたかと思います。
繰り返しになりますが、佐賀平野に対して白石平野から武雄盆地にかけては標高が低く、海から遥かに遠い内陸部まで潮が上がり、私が住む市街地のすぐ南側まで海が広がっていた時代があったことを感じさせます。その後、それは徐々に陸化していくのですが、それほど古い昔ではないほんの数百年前まで、相当に川幅の広い感潮河川(佐賀ではこれを江湖(えご)と呼びますが)、というよりも幅の狭い海が延びていたのです。
このように、佐賀平野と白石平野とは同じように見えて全く性質の異なる平地なのです。佐賀平野はその堆積物の性質の違いから、扇状地や天井川を形成しますが、白石平野は粒子が小さい泥中心の堆積物が送りこまれるために、海の運搬作用によって絶えず攪拌され均平化されてきたのです。このため、六角川と塩田川に囲まれた白石平野とその延長である武雄盆地には扇状地がなく、極めて平坦でただ潮が引いた干潟に、海による運搬作用によって形成された土地ができてきたのです。
杵島山はこの干し上がった干潟である白石平野に聳え立つ連峰です。逆に言えば、杵島山は干し上がった干潟である白石平野に取り囲まれているのです。このような地形の土地はあまりないために分かりにくいでしょうが、そのような場所だからこそ、山の麓でも大型の鯨が捕獲されたのです。こう考えてくると、この平坦な干潟が古代において海であったことが徐々に分かってくるのです。と、すると、白石平野にそびえる杵島山は、古代において有明海に浮ぶ巨大な島ではなかったのか、少なくとも大雨が続いて洪水となった時には一面海のような水没平野が広がり、誰が見ても島のような様相を呈していたことは想像できるのではないでしょうか。この思考の冒険が今回のテーマです。
山の麓で鯨が捕れるという"日本昔話"のような話も、杵島山が島であったとすれば理解しやすくなるかもしれません。では、杵島山は本当に島だったのでしょうか。