スポット125 朝倉から日田にかけての山々の行く末について
20171001
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
日田市から筑後川の南(左岸)を久留米方向に走っていると秋晴れの空の下に痛ましい山肌が確認できるようになりました。
言うまでもなく2017年九州北部豪雨と命名された降雨による針葉樹林地の大崩落の鮮明な爪痕です。
写真は国道210号線沿いの道の駅から北の被災地を映したものです。
全てが崩落地ではないとしても、見えない部分にも多くの崩落地があるはずで、農水省、林野庁が言う森は国土を守り水をつくっているなどの話がとんでもない大嘘である事がお分かりになるでしょう。
おいそれとは入れませんが、山の崩落現場に行けば、次は隣が崩れて来ることが素人目にも明らかなはずで、二次災害、三次災害、四次災害、五次災害、六次災害…と永久に繰り返される事は明らかでしょう。
と、ここまでは前もお伝えしました。さて、表土がはげ落ち始めた山はどうなるでしょうか?
日本はその高温多湿の気候から放っておいても直ぐに草が生え、薮から森が復元するような天恵の風土を与えられた国です。
しかし、急傾斜で表土の剥げ落ちた山肌には容易に森が戻って来るとは考えられません。
保安林だろうがなんだろうが、剝き出しの荒地に植林しても無駄であることは明らかで、数十年と言った単位で、まず、荒地に近い場所でも岩が剝き出しの場所でも根が着く松やコスモスが表面を覆い始めてようやく表土の再生が始まるのです。
伐採した針葉樹林ばかりか、洪水で流れ出したような人工林地でさえ、反省のない林野庁の開き直りの強弁の結果、原因となった杉を懲りずに植林させていますが、流石にこの有様では“杉の苗木を植えろ”などとは言わない事でしょう。
こうしてようやく正しい自然の再生の動きが始まるのです。ここで思い出したのが司馬遼太郎でした。
一旦表土が剥がれだしたら止まる事がないと知っている草原の民の経験(知恵)に関する話です。
司馬遼太郎氏にはご迷惑かも知れませんが、彼が幾つかの著書や講演で話していたモンゴルの草原の表土の話があります。
この事の基礎に草原の民と農耕民との衝突とその思想の対立が存在していたのです。
草原で遊牧を続ける民にとって、最も許せない行為は、農業を行うために畑を造り表土をひっくり返す事だったのです。
日本のような頻繁に雨が降り気温が高い風土ならばいざ知らず、寒冷期には気温が極端に下がり、ほとんど雨らしい雨が降らず、頻繁に砂嵐や突風が吹き続けるモンゴル高原においては、ほんの数センチか多くても5センチ程度の僅かな土被りしか無い草原の表土を農耕と称して耕し作物を植えようとする事は取り返しのつかない破壊的行為であり、一旦表土が剥がれたならば、乾燥した上に無慈悲に吹き続ける風によって表土は乾燥し続け次から次に捲れあがり剥がれ続け、草原とは全く異なる砂漠になってしまう事を遊牧民は知っており、そのため生きる糧の元となる遊牧のための草原を守るために農耕民への攻撃を続け国境を犯し続けたというのです。
当然にも農耕民にもそれなりの言い分はある訳で、他に住む所もなく開墾に命を懸け必死で畑を造り作物を植えはじめたにも拘らず、頻繁に襲ってくる遊牧民に対して、農耕を知らぬ野蛮人として北狄(ホクテキ)=匈奴、鮮卑、靺鞨、契丹、蒙古、韃靼、突厥など北方諸勢を忌み嫌ったのでした。
現在の中国共産党政権も農耕民の政権(毛沢東は長江中流域の湖南省の出身)でしかなく、遊牧民の一派であるツングース系の清朝(金王朝)とは異なり、農耕を優先し開墾を持ち込んだために一気に砂漠化が進み、その延長上に、現在、北京郊外数十キロまで砂漠が忍び寄ってもいるのです。
どちらが正しかったかは言わずもがなであり、雨も降らぬ農耕不適地を開墾し、草原を農地にしようとすることは単に砂漠を押し広げる事にしかならないのですが、最終的にはどちらも生き残る事が出来ず、長期間放置される事によって、ようやく自然が復活し草原への回帰が始まり、動物が入りその糞尿や死骸による栄養の持ち込みによって美しい花咲く草原が復活するのです。
これも参考になると思いますのでお読み頂きたいと思います。
ここでようやく朝倉から日田の山の将来についての話に戻る事にしましょう。
山の表土も数百年数成年と言う単位で培われたものなのであって、決して一朝一夕にできるものではないのです。
特に急傾斜地の表土ほど危ういものはなく、一旦、剥がれてしまえば容易には復活しない事は、雨に打たれ流され続ける事で一層剝き出しの岩盤のみが残る事になります。
このように、一面覆が表土というレイン・コートでわれていたものの一角が破れてしまえば、隣接する残った表土には連鎖反応が起こり、僅かな雨でも次から次に崩れて来ることになるはずなのです。
つまり、モンゴル高原の草原の崩壊と同じことになる訳です。
結果、国土面積の五割にも近づくばかりに、斜面や危険地に杉や桧の針葉樹を植えさせ続けて来た林野庁の馬鹿さ加減がようやく露呈する事になっているのです。
土地を捨てられる人は土地を捨て、少しでも早く住居を移し、愚かなどころか危険な土地から逃散すべきなのです。
それにしても、林学とは愚かさと同義になってしまったかのようです。馬鹿どもが!
かつて、民俗学者の柳田国男は、「大学はせつかく法科へ入つたが、何をする気もなくなり、林学でもやつて山に入らうか…」などと言ったと言われていますが、その時代は素晴らしいばかりの広葉樹の森が列島を覆い尽くしていたはずなのです。もう日本もおしまいですね。このころまで列島には節度をもった人々しかいなかったのです。次は被災者への災害義捐金の話でもすることにしましょう。まさに棄民です。