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466 杵 島 ② 2/2

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466 杵 島 ② 2/2

20170324

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は、「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”のサブ・サイト「アンビエンテ」内の「有明海諫早湾干拓リポート」に掲載したものですが、九州王朝の中枢領域である有明海沿岸の古代を考察するものから改変なく編集を加え転載するものです。


68 杵 島 ("かつて有明海に巨大な島が存在した"…か?)


提の浦(ヒサゲノウラ)の論証

長崎自動車道武雄・北方インターから四九八号線に入り、杵島山西側の山裾に沿って南に進むと、五分ほどで杵島郡から郡境を越え藤津郡塩田町に入ります。さらに五〇〇メートルも走ると北志田という地区にある"提の浦"という集落に出くわします(字名にも"提の浦"があり、掲示板もあります)。


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さて、この小論は有明海に臨む杵島山が文字通り""だったのではないかという作業仮説の検証をするだけのものですが、はじめに""(ヒサゲ)の話しから始めます。 
 ""とは「銚子の一種。銀・錫製などで、柄がなく弦(つる)のある小鍋形の器具。酒を注ぐのに用いる」(広辞苑)とされています。ただ、""(ヒサゴ)の方はともかくとして""(ヒサゲ)の方は明らかに死語になっています。

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提の浦


 "" (ヒサゲ)"干下げ"とも読め、潮が引いたら干上がってしまう浦とも考えられるのですが、事実、地形はそれを示しているのです。
 もちろん、有明海の西岸には多くの""地名があるのですが、海岸部ばかりでなく、相当の内陸部にも散見されます。この杵島山の東側の山裾には湯崎、川津、島津(いずれも杵島郡白石町)、南に近付けば、八艘帆が崎(ハスポガサキ)(*)錦江、廻江津(いずれも杵島郡白石町=旧有明町)という地名があり、さらに南側の先端には室島(杵島郡白石町=旧有明町)、深浦(同)があり、竜王崎が突き出しています。杵島山の東側から南端にはある程度の沖積平野か海成平野とでもいうべき干潟から発達した平野があり、太古には、直接、有明海に接していたことは疑いないと思います。 

466-3

八艘が崎の看板


 また、竜王崎の崖下には国道二〇七号がかすめていますが、ここから北にかけて杵島山の山裾を通ると海食洞と思えるものも見かけるのです。
 北側には、樺島(杵島郡北方町)があり、鯨の話で紹介した六角川が流れています。さらに上流に入れば潮見神社(武雄市橘町)があり、今でもこの付近まで海水が上がってきます(この川の上流にも北浦という地名まであります)。さらにJR佐世保線の武雄温泉駅の付近にも私が幼少年期を過ごした西浦や天神崎という地名があります。 
 杵島山の北西側には、花島(武雄市武雄町)永島(武雄市武雄町、橘町)、楢崎、玉島(武雄市橘町)があり、西側に提の浦と久間(いずれも藤津郡塩田町)という地名が展開しています。このように杵島山は海湾地名に取り囲まれているのです。
 今回、この"提の浦"を取り上げたのは単に内陸部にあるということばかりではなく、もしも、ここまで潮が入っていたと仮定すると、杵島山西側の山裾の中でも最も標高の高いところであり(と言っても標高10メートルほどの全くの低平地なのですが)、この廻廊が水道であった可能性さえあり、結果として杵島山が文字通りの""であったことを最後に証明する痕跡地名にも思えるのです。

*)八艘帆が崎(ハスポガサキ):
 ここには県道錦江~大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。
 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。
 なお、聖明王は武寧王の子であり、武寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。
 このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から として

 百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。

と、あります。稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。
 本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、私の手には負えません。
 少なくとも、八艘帆ケ崎の伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを思わせます。

"クマ地名"の論証

 前掲した久間(藤津郡塩田町)地名についても全国的には理解しがたいと思われますので、多少のコメントを加えておきます。ここで"久間"を海が近接していたことを示す地名として取り扱った理由は、これをいわゆる"クマ"地名と考えたからです。"クマ地名"は九州において顕著であり、一般的には河川邂逅部(川が海や大河川と繋がる部分)に付く地名です。福岡県では雑餉隈、七隈、三隈、金隈、月隈がありますが、佐賀県にも、松隈、日の隈、早稲隈、帯隈と多くの"クマ地名"があります。
 これは、大きな川が流れる大平野よりも小さな川が海沿いなどの低地に流れ込む場所の方が水を利用しやすく、最初の近代的な稲作農業(陸稲型の雑穀農業、縄文稲作はここでは考えない)はこういった場所で始められたのではないかと考えられているのです。
 一般的に、このような場所が九州の場合"クマ"と呼ばれていることが多く、稲作農業との関係で形成された地名とも言われています(もちろん朝鮮の"コマ"地名と考える説もあります)。
 簡略化すれば、川底の深い大河川からは引水することが難しいために、小河川や山からの湧水など利用しやすい場所に最初の水田が開かれたと想像されたためです。これが"クマ地名"であり、佐賀平野では貝塚ラインと並んで古代の海岸線を探る一つの指標ともされてきたものです。この地名については、宮崎康平による「まぼろしの邪馬台国」(講談社)にもある程度の説明がありますが、ここではふれないことにしておきます。広辞苑には『…②奥まって隠れた所。すみ。源氏物語(明石)「かの浦に静やかに隠らふべき侍りなむや」』とありますが、海に川が流れ込む場所は当然に奥まり、堆積によって平地が形成されますので、水田稲作の適地だったと想像できるのです。
 さて、杵島山は一周五~六十キロ程度の船形の細長い連山であり、その西側にも低山が延びています。その低地に六角川の支流である東川が北に向かって流れています。この川の支流が杵島山西側の山裾で標高が最も高い場所を流れていますが、その途中に"提の浦"があり、今でもそこから一キロ余りのところまで潮が上がっているのです(堰で止められていますが)。もちろん、一キロ余りといっても標高差は僅かであることはいうまでもありません。
 有明海沿岸には満潮時に潮がかなり奥まで上がる川が数多くありますが、この地域の浦地名は単なる川(淡水)の船着場でしかない"川津"とは異なり、あくまで潮に乗って舟や船が上がる川沿いの入江に付いたものと考えるべきでしょう。潮位は東京湾平均海面に基づくものですが、大潮の満潮時には相当奥まで潮は上がるものです。私は、最低でも"提の浦"という地名によって、ここまでは潮があがっていたのではないかという推定が可能ではないかと考えています。

籠(コモリ)地名の論証

 "提の浦"という地名による論証とは別に、ここまで有明海が奥まで入っていたという傍証がもう一つあります。六角川河口から河道延長で二五キロ以上、直線でも一五キロ以上はあると思える場所に明確な干拓地名が残っているのです。"提の浦"のさらに上流にある""地名です。
 籠と搦という干拓地名も有明海沿岸というよりは、鍋島藩とその属領であった諫早藩(この表現には長崎県民の抵抗が少なからずあるかもしれませんが、幕府直轄領であった長崎市周辺にも、また、大村湾岸東部地域を中心に鍋島藩の親戚筋の諫早藩領や鍋島藩の領地が存在したのです)にしかない地名であるため、これについても一応簡単なコメントを加えておきます。
 もちろん干拓地は全国にありますが、集中して存在するのは関東の霞ヶ浦、印旛沼周辺、福井県、新潟県の海岸部、岡山県の児島湾周辺と有明海、不知火海であり、それ以外にはそれほどまとまった干拓地はありません。一般的に全国の干拓地は新田、新開、開などと呼ばれていると思います。山口恵一郎氏による「地名を考える」(NHKブックス)という本がありますが、この本にも籠、搦地名が出てきます。

籠・搦・開
 遠浅の有明海沿岸は、主として近世以降、干拓が進められて新しい陸地が増えていった。こうした新開の土地は、ふつう新田(関東・北陸その他一般の名称)とか新開、(中国・四国に多い)とかの呼称がつけられるが、この地域ではここに特有な呼称がつけられている。籠(こもり)・搦(からみ)・開(ひらき)などの名称がこれである。
  干拓地は、とくに江戸前期から中期にかけて大量に増加したが、明治以後は~干拓というような地名も現れてくる。搦は柵(しがらみ)のことだが、これは干拓が前面に潮土井(または土井)と称する潮止堤(護岸)を築き、その内側を陸化していくことから来たと思われる。そして、干拓地の名称と同時に、堤防にそって形成された集落の名称ともなる。中略
  小地域的にみれば、この三者の呼称は分布する地域を異にする。ざっとみると、肥前すなわち佐賀県側には籠・搦が分布し、筑後川の東部つまり筑後すなわち福岡県側では開と呼ぶ。しかも、佐賀県側の川副(かわぞえ)付近では、内側つまりやや内陸に籠が、外側つまり海に近いところに搦が多い。


 籠、搦地名は特殊ですので、地元研究者の原口静雄氏(伊万里市)による「佐賀県西部の地名について」という論文もご紹介しておきます。


(こもり)と搦(からみ)


 佐賀平野の地形図を読むと有明海にのびる干拓地名に、新しく干拓されたところに搦、内陸部に蘢地名が見出される。同様に、伊万里湾でも東山城町松浦線の東山城駅付近に、「奥浦蘢一ノ割」「奥浦蘢ニノ割」の外側(海岸より)に「田土居尻搦」「新搦」などがあり、たしかに「こもり」が古くて「からみ」が新しい。中略
  蘢とは入江の静かな浅い海を人手でしめきった干拓造成であったところにつけられた地名であり、搦とは遠浅に杭を打ち、その間に横木をならべ石を置き干満交互に泥が「からみ」つくことから発生したもので、蘢よりも積極的に波にさからって築立てる差が認められるようである。年数さえたてば「からまった」泥土は次第に積み重なって高まり、そこをしめきった。

 諫早周辺の籠・搦地名は、鍋島藩の干拓技術が持ち込まれたものと思われますが、佐賀県全域で、そう呼ばれているわけではなく、幕府直轄領であった唐津藩(佐賀県の唐津市を中心とする北西地域)では開、灰といった干拓地名も認められます。このため、伊万里湾の南岸には搦地名が、北岸には灰地名が見られます(前述の原口静雄氏は灰坊、拝向、拝川、小拝浦などをあげておられますが、伊万里湾北岸では灰地名の外側に新田があるようです)。
 また、佐賀平野などを字単位で調べれば、内陸側に非常に多くの籠地名があり、その外側に搦地名が分布していますが、籠はそれほど労力を投入せずに締切る程度で陸化できた古い干拓地であり、搦は大量の労働力を組織的に投下し意識的に造られた比較的新しい干拓地のようです。
 籠地名と搦地名の説明にも多くをついやしましたが、この古い方の籠地名が"提の浦"の上流にあるのです。地形から判断して"提の浦"は前述の東川の右岸にあるのですが、この東川の右岸にあるのが天神籠であり、左岸にあるのが明神籠です。

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提の浦周辺図


 一応、"籠と搦という干拓地名も有明海沿岸というよりは、鍋島藩とその属領であった諫早藩にしかない地名であるため"としましたが、籠地名の方は、戦国期から場合によっては室町期以前にまで遡る可能性があるため、上記の表現が適切であるかは熟慮の余地があります。また、地域によっては籠地名と搦地名が逆転し、内陸部に搦地名がある場合もありますので(これは内陸部の篭地名が移住により持ちこまれたことによる逆転と思われます)、単純に判断することできませんが、杵島山西側の天神籠と明神籠はかなり古いのではないかと考えています。今後の古地図や古文書などによる調査が待たれますが、ここでは作業仮説と理解していただきたいと思います。


司馬遼太郎の"小便が南北に流れる分水点"


 しかし、さらに分水点を越え向こう側まで潮が廻らなければ杵島山が島であったことの証明はできません。

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分水点付近 498号線を南に進む


 事実、この志田地区を北流し六角川に流れ込む東川の支流と、南流し塩田川に注ぐ小河川は百メートル余りと近接し、事実上は数枚の水田で流下方向が異なるだけなのです。規模は違いますが、これに似た話が司馬遼太郎の「街道をゆく」芸備の道 に出てきます。
  

「ここは上根(かみね)というところですよ」
運転手さんがいった。
道路は遠くまでまっすぐについている。自然の地形としてこの北にむかって細長い平坦地は尾根なのか高原なのかよくわからない。
「このへんですよ、日本海へ流れてゆく川の上流と瀬戸内海へ流れてゆく川の上流とが一ツ所にありまして、そのあたりの人は立小便をします」
 運転手さんがいう。まさかと思いつつよくきいてみると、そういう習慣があるのではなく、平坦地に小便をして自分のゆばりが日本海へゆくか瀬戸内海へゆくかを見るのだということらしい。それも下界の物好きが創(つく)った笑いばなしにちがいなく、ともかくも一ツ在所で水の流れるむきが南と北とにわかれているのだということの地理上の落し噺(はなし)なのである。
 道はただひたすらに平坦なのだが、ごくわずかにすでに北の日本海にむかって傾斜しているのであろう。  
 このことは、一つの驚きである。
 広島県というのは瀬戸内海文化圏だとおもっていたのだが(事実そうではあるが)、それについての自然地理の面積は実にせまい。広島市街を出て太田川とその上流(根之谷川)をわずか二〇キロばかり北上しただけで、もう川が日本海にむかって流れているというのは、ただごとではない。
 分水点にちかいという上根から測って、川筋をたどりつつ島根県海岸の江津(ごうつ)(旧石見(いわみ)国)に出るには、一五〇キロもある。松江(旧出雲国)までなら、それ以上ある。

 普通の理解では"現在の標高が何メートルで、また、東京湾平均潮位がどれだけであり、いくら昔であっても最大潮位を考えればそんなところまで海水が入っていたとは考えられない"といったところで思考を中断させてしまうのですが、数千年(もちろん、二~三千年の意味ですが)の単位で物事を考えれば、多くの国造干拓地や諫早湾干拓堤防や熊本新港などといったものが全く存在しなかった太古の有明海は、現在よりもはるかに広い奥行きを持ち、その沿岸には多くの島や岬や沈み瀬などが存在する非常に変化に富んだ遠浅の海が広がっていたと思われるのです。浅く奥行きの長い海は潮汐がさらに増幅するとも言われ(イサカンの逆、イサカンのギロチン堤防建設の結果、潮汐が上下で六〇センチから一メートル近く減退したと言われています)上下で六メートルと言われる有明海の潮汐も、場所によっては、七メートルを超えるものだった可能性さえあるのです。
 また、杵島山周辺には他地域にあまり見られない特殊な墓制があります。一般には甕棺(カメカン)と呼ばれますが、敬愛する古田史学に従えば、甕棺(ミカカン)と呼ぶ蓋を合わせる二基の素焼きの甕に埋葬する(この墓制にそっくりなものが南インドにもあるとの話しも聞きます。南インドと言えば、国語学者の大野晋教授による日本語ドラヴィダ語起源説が直ぐに頭に浮んできますが、思考が全く追いつきません)もので、公共事業による工事などでも杵島山周辺からはおびただしい甕棺が出ています。また、終戦直後までは、杵島山西部では製陶業が盛んでした。このため杵島山とその西の西山は燃料を取り続けるためのものであり、海の運搬作用による堆積ばかりではなく、森林伐採の結果の土壌流出による堆積が上乗せされているものと考えられます(年一ミリとしても二千年でニメートルですから)。古代には堆積も今ほどではなかったはずであり、古代において六角川の支流と塩田川の支流とがつながっていなかったとしても、"53.船 越"で書いた意味での水道は存在したことは間違いないのではないかと考えるものです。


杵島山は出島だった


 現在の六角川と塩田川の支流が近接しているとしても、山を取り囲んで繋がり、また、潮が上がってこなければ、杵島山が島だったことの証明できません。
 では、この可能性はあるのでしょうか、縄文海進期を念頭に置いて有明海の図鑑などには良く「弥生時代の貝塚線から判断して4,0005,000年前は有明海の中の大きな島であったと推定されている」などと書かれていますが、仮にこの時期に"杵島山が島ではあった"としても、私が考えているのは、そのような古い時代のことではなく、縄文晩期~弥生前期への移行期の話であり(稲作で画期するのか土器で画期するのか明確ではないようですが、ようやく縄文稲作が認知され、五百年ほど遡ることになってきました)かなり、可能性の薄い想定です。つまり、島という大和言葉が確立して、一定の支配力を持ってこの土地に定着した時代(これが難しいのですが、逆に、杵島山が島だった時代に島という言葉が確立したという想定も含めて)、この山が島の形状をしている時代に杵島という名前が付けられたのではないか、もしくは、かつて島だった時代の記憶や伝承が継承され定着したのではないかと想像を巡らすのです。
 九州大学大学院理学研究科の下山正一助手らは地質調査に基づき、古代の海岸線を復元ざれていますが、特集「有明海大全」掲載のコラム1「有明海のなりたち」添付図面=図2-筑後平野の表層粘土分布によると、残念ながら杵島山は陸続きになっていました。同助手と短時間ですが電話でお話したことがありますが、"夢を潰すようで悪いけれども、杵島山西部には低い溶岩台地があるために潮は越せなかったであろう。ただし、船を担いで運ぶという意味での水道は十分に可能性があったのではないか"との話でした(不正確な場合はご容赦いただきます)。

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 私の杵島山が島であったという作業仮説は下山研究により脆くも崩れ去りましたが、南北七~八キロの大山塊が、出島か船を接岸させたような形で実質わずか数百メートル程度の廻廊によって繋がっていたということは、洪水期や高潮時には、文字通りの低平地に浮ぶ島の様相を呈する景観が出現したはずです。実際に島のように見える時は頻繁にあったのではないかと考えられ、そのことによって、杵島という名が付けられたのではなかったかと思うものです。
 この陸続きとなっている延長は添付図面=図2-筑後平野の表層粘土分布から見ると、一~一,五キロ程度の陸続き(海成粘土分布限界線ラインではなく、非海成粘土分布域から私が勝手に推定)になるのですが、私は最高潮位の、川床(標高で二メートルほど下がる)で考えているために可能性は高まるのではないかと考えています(添付図面の数字は標高です)。


縄文早前期、弥生時代末期の海岸線

 杵島山は万葉集に歌われるとともに、歌垣の伝承がある山です。中国の雲南省、貴州省など(照葉樹林帯)の少数民族に今なお生きる歌垣の習俗がこの杵島山にも存在し、この歌垣の行なわれる日には西から久間水道(仮称)を渡って適齢期の男女が伴侶を探して恋歌を掛け合っていたのではないでしょうか。 
この場所を通過するたびに、杵島山西麓の分水点に近い「提の浦」に南北から小船が入る姿を夢想するこの頃です。

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玉島古墳から南方を望む


 前述したとおり、最低でも、53.船 越で書いた意味での水道は存在したと思われますので、この場所に古代の官道が通っていたことと合わせ考えれば、いまさらながら、この場所の重要性が見えてくるのです。杵島山西側に位置し、水道、陸道のボトルネックにあたるこの場所は、「おつぼ山の神籠石」の存在が示すように極めて重要な場所であったと考えられるのです。
 それはともかくとして、有明海の奥行きを決定的に奪い、"潮汐振幅を著しく減退させた「イサカン」の破壊性、破滅性、犯罪性は明らかではないか"と、今さらながら思うものです。


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