スポット127(後) 崇神天皇とは誰か?
20171001
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
これ以上は著作権の問題もあり引用できませんが、佃先生の研究内容の宣伝としてお許し頂けるでしょう。
佃先生は殆どの対外史書を読みこなし、尚且つ普通では取り上げられる事の全く無い「契丹古伝」も駆使され解明を進めておられます。以下、ネット上の「契丹古伝」から…一部を引用したもの。
十世紀に書かれた東アジアの歴史書(?)の一つ。ただし極東の漢字文明圏における正式な歴史書の体裁に則ってはいない。遊牧民の立場から漢民族を侵略者として、中国大陸の歴史を中国歴代正史とはまったく異なる歴史観で捉えなおした短編書物。
通例、歴史書とされるが、むしろ「史論」書である。歴史論文か歴史随筆、または歴史論談を装った政治宣伝文書との一面もある。
「契丹」はキタイ帝国。『契丹古伝』は「キタイ人によって伝えられた古伝」の意味。しかし契丹人はそれを伝えようとした主体的な当事者ではあるが、古伝の内容それ自体は契丹人についての古伝ではなく、別の民族のものである。
『神頌叙伝』(しんしょうじょでん)ともいう。どちらの名称でも同じであるが、しいて区別すれば、『契丹古伝』は、解釈された内容・語られている歴史・原書をとりまく諸研究、等までをも包括的にいう傾向があるのに対し、『神頌叙伝』は文献そのもの・原典原文・文字づら、等をさす傾向がある。神頌叙伝も参照。…
…原物は、古陵墓より発見された秘物であるが、漢字で綴られてはいるものの、言辞は漢語と異なるもの(異民族の言葉を音写した部分、長い固有名詞など)があり、普通の中国人には理解できない部分の多い、読みにくい書物であった。兵禍を恐れていずこかに移動した後に、奉天城外の「黄寺」に厳重に託された。(ここでいう「黄寺」とは何かについては諸説あり、道観(道教寺院)だという論者もいる。また単なる地名としても「黄寺」という地名は近辺に最低でも二ヶ所ある。黄帽派チベット仏教の寺院という説が最有力か?)
その寺の僧の知人に廣部精という博識の日本軍人がいた(廣部精は軍人であるとともに支那語の教育研究や日常語についての研究など支那語学の方で有名な実在の人物。のちに大隈重信や渋沢栄一らとともに「孔子教会」を設立)。廣部も寺僧もこの巻物を解読はできなかった。
ところでその頃、鴨緑江軍兵站経理部長の濱名寛祐(号は「祖光」・「極光」。経歴の明らかな実在の軍人)は奉天城外の黄寺に駐屯していた。明治38年11月から翌39年2月までの間のある日、濱名は部下(鴨緑江軍兵站経理部員)の廣部精から奇妙な巻物を見せられた。濱名は漢学者の家に生まれたこともあり、漢文には堪能であったが、この難解な古巻には句読点さえつけることができなかった。寺僧はこの巻物の書写を堅く拒否したが、好奇心旺盛な廣部は庫院の管理者の一人を籠絡して、密かにその写本を作成した。廣部はこの自分の写本を濱名に貸し与えた。
慕容廆(ボウヨンギ)=鮮卑族 と言えば、高句麗(コグリョ)広開土王を描いた「太王四神記」の後半に登場する後燕の王でしたが、その慕容廆に追われた依羅国の王子扶羅が渡海し、半島の南部に拠点を
2007年9月11日から12月5日まで韓国MBCで放送されたテレビドラマ(時代劇)
築き、倭人と更に渡海し列島の贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)=ツヌガノアラシト(敦賀=ツヌガに居た安羅伽耶からやって来たシト=人)なのです。
恐らくこの贈)崇神辺りから近畿大和朝廷の萌芽が産まれたものと考えているのですが、まだまだ探求は続きます。
最後になりますが、所謂、邪馬台国本をお読みになっておられる邪馬台国ファンの方々はともかくも、九州王朝論者の方で「東アジアの古代文化を考える会」の著書をお読みなっておられない方はかなりおられるものと考えています。
レベルの高さとその厚みを考えると、単に藤原が捏造したものと理解しているものの、「記」「紀」を聖典化し同時に振り回され続けて来た九州王朝論から是非とも離脱して頂きたいと考えています。古川
新しい「日本史(古代)」の提言(佃收)
歴史の解明は「時間(年代)」と「空間(場所)」の究明である。 「時間」と「空間」を究明するには
1. 論理的であること(根拠を明示すること)
2. 科学的であること(物的証拠を提示すること)
これが「歴史研究」の基本であり、どうしても必要なことであると考えて、研究を続けてきた。
日本古代史の基本的ないくつかの点について、私が得た結論を示し、新しい「日本史(古代)」を提言いたします。既存の日本古代史との違いに最初は驚かれる方もあるかもしれません。じっくり私の本を読んでいただき、科学的・論理的に検討・検証して、史実を求めていただきたいと思います。
1. 「天孫降臨」は史実である。
『古事記』に記述されている天孫降臨の地は福岡県福岡市西区の「日向川」付近である。そこの「吉武高木遺跡」から『宮下文書』に記述されている通りの「大型建物跡(長井宮)」と「三種の神器」を埋葬した木棺が出土している。福岡市西区が天孫降臨の「筑紫の日向」である。また、「神武東征(逃亡)」も史実であり、「神話」ではない。
2. 後漢時代の「倭国」は朝鮮半島南部にあった。日本列島にあったのではない。「倭国王帥升」は朝鮮半島の「倭王」である。「倭国(大)乱」は朝鮮半島南部の「倭国」の出来事である。
3. 「220年~230年」頃、朝鮮半島の倭国は韓に侵略されて亡びる。卑弥呼は北部九州に逃げて来て伊都国王朝と戦い勝利する。「238年」に魏へ朝貢して「倭王」となる。日本列島に初めて「倭国」は誕生する。朝鮮半島の倭国の再興である。
4. 日本史に「貴国」がない。神功皇后が樹立したのが「貴国」である。現在の日本史は欠陥の日本史である。
5. 「4世紀~5世紀」に多くの渡来人が来る。これらの渡来人を「万世一系」の天皇に組み入れている。『古事記』『日本書紀』の「万世一系」は天武天皇による「捏造」である。
6. 「倭の五王」は「筑紫君」である。日本列島を統一している。
7. 「倭王武」は日本列島で初めて天子となり、年号を建てている。「年号」は「九州年号」から現在まで続いている。
8. 「531年」の「磐井の乱」で物部麁鹿火は主君筑紫君(倭の五王)を伐ち、「物部麁鹿火王権」を樹立する。「538年」の「仏教伝来」は物部麁鹿火王権下での出来事である。
9. 「552年」に物部尾輿は物部麁鹿火王権から王権を奪い、福岡県鞍手郡に「俀国(阿毎王権)」を樹立する。
10.『隋書』の「日出る処の天子」は「俀王多利思比孤」であり、「聖徳太子」ではない。
11.「591年」に上宮法皇は「肥前の飛鳥」に「上宮王権」を樹立する。
12.上宮王権の入り婿である「舒明天皇」は肥前の宮所に「百済大宮」「百済大寺」を建立する。今の佐賀県諸富町大堂である。息子の「中大兄(天智天皇)」は肥前南部で生まれ育っている。
「645年」の「乙巳の変」は「肥前の飛鳥」での出来事である。
13.「635年」に「天武天皇の父」は「阿毎王権」の上に君臨して「天武王権」を筑前の宗像に樹立する。
『日本書紀』は「天武天皇の父」を抹殺している。
14.「649年」に「上宮王権(皇極天皇)」は「天武天皇の父」に「王権」を剥奪される。「上宮王権(皇極、斉明天皇)」は「天武王権」の支配下に入る。「中大兄皇子」は「皇子」ではなくなる。「皇極紀」から「中大兄」になっている。
15.「656年」に「斉明」は「天武天皇の父」から逃れるために「肥前の飛鳥」から「大和の飛鳥」へ移る。
16.「661年」に「天武天皇の父」が崩御し、「天武天皇」が即位する。「663年」の「白村江の戦い」を戦ったのは「天武天皇」である。斉明や中大兄ではない。
17.「天智と天武」は兄弟ではない。「王権」が異なる。
18.「668年」に「中大兄」は「大和の飛鳥」から近江へ移り、「天智王権」を樹立する。
19.「672年」の「壬申の乱」は「天武王権」と「天智王権」の戦いである。
20.「高市皇子」は天武天皇の後に即位して「高市天皇」となっている。その子は「長屋親王」である。
上記の内容は、『新「日本の古代史」(下)』(平成29年7月1日発行)の巻末の「おわりに」のところで、まとめて述べているものと同じものです。
佃收著作集ホームページ作成委員会より
日本古代史は多くの謎に包まれています。よく言われている謎を10ほど書き並べてみます。
日本古代史の謎
天孫降臨の地はどこか。宮崎県か福岡県か・・・。どのような歴史的事実があって、天孫降臨の物語が生まれたのか。それとも、これは全くのフィクションなのか。
1. 卑弥呼はどこから来たのか。邪馬台国はどこに在ったのか。
2. 大和朝廷の祖とされる神武天皇は実在の人物なのか。実在だとすれば、どこを出発してどのような経路で大和に辿り着いたのか。
3. 「宋書」倭国伝に記されている5世紀の倭の五王讃、珍、済、興、武は天皇であったのか。また、6世紀初めの磐井の乱の磐井は本当に大和朝廷の臣下であったのか。
4. 「隋書」俀国伝に記されている王が隋の煬帝に国書を送っている。有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」である。また、「王は妻をもち、後宮に五、六百人・・・」とある。このときの天皇は本当に女帝の推古天皇で、書を送ったのは聖徳太子としていいのか。聖徳太子については、十七条の憲法を制定し、三経義疏を書いたとされるが、実在の人物なのか。
5. 古代史で大きな影響力を持ったとされる蘇我氏や物部氏はどのような存在だったのか。
6. 「大化の改新」は最近では「乙巳の変」と呼ばれている。朝鮮半島で起こったこととか九州で起こったこととかの説もある。本当に奈良で起こったことなのか。また、この時期から律令制度は本当に出発していったのか。
7. 天智天皇と天武天皇は本当に兄弟なのか。天智天皇は天皇として大和を支配していた時期があったのか。あったとして、どのような理由で大津に遷都したのか。
8. 万葉集に「日本紀」と「日本書紀」の両方の記載がある。両者は同じものであるとする解釈が一般的だが、本当に同じものとしていいのか。同じものなら、どのような理由で名前が違うのか。
9. 奈良の法隆寺は670年に完全焼失したという記述が日本書紀にある。一方、法隆寺の五重塔の心柱に594年に伐採されたヒノキが使われている、と奈良国立文化財研究所が発表している。法隆寺は本当に焼失したのか。それとも日本書紀の記述は誤っているのか。
10.
古田武彦氏の九州王朝説
このような謎に対して、多くの魅力的な書物が作家や研究者などによって著されてきました。その中でも、古田武彦氏は40年以上前に、様々な検討の結果、魏志倭人伝の邪馬台国は邪馬壹国であることを指摘するなど、日本の古代史の解明に大きな足跡を残されました。2010年ミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクションが発刊され、発刊のことばでは「・・・・古田氏を抜きにして、論争は成立しうるのか。・・・古田史学のこれまでの諸成果を・・・順次復刊刊行し、大方の読者にその正否をゆだねたいと思う。・・・」とある。
佃收氏の九州王権説
私たちは、次の2つの条件を満たす日本古代史を探していました。1つは古田武彦氏の提起した問題意識をしっかり受け留めていること、2つ目は三国志、後漢書は言うに及ばず、契丹古伝、三国史記や桓檀古記などの中国や朝鮮の文献も調べるなどして、東アジア全体の歴史の流れの中で総合的に日本古代史を構成しているという条件です。
この条件を満たしているものに、ついに私たちは出会いました。佃收氏は、『新「日本の古代史」(上)』と『新「日本の古代史」(中)』及び古代史の復元シリーズ①~⑧全8巻を出版されています。作成員会は、すべてに目を通して、大きな感激を得ました。佃收氏の著作は、日本の古文書はもちろん中国や朝鮮の古文献をも参照し、古墳などの遺跡から出土する物的証拠などとを比較検討することから論を組んでいます。著者の想像力だけによる論考ではなく、常にその証拠を示し、歴史的事象の時と場所を特定しながら古代史の解明に取り組んでいます。有名な古田氏の九州王朝説とはまた別の九州王権説を展開される佃氏の著作は、日本古代史の解明に大きく寄与できる内容であると思われますが、一般にはほとんど知られていません。
そこで、佃收著作集ホームページ作成委員会は、著作を紹介すると共に、多くの皆様に佃氏の詳細で緻密な論考に直接接していただくために、『新「日本の古代史」(上)』、『新「日本の古代史」(中)』、「古代史の復元」シリーズ全8巻を全文アップロードしました。
佃氏の著作に触れられた皆様が、日本古代史の解明に向けて少しでも参考になることがありましたら、作成委員会としては大変幸甚に存じます。