468 阿久根山中の若宮神社二題
20170329
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
2017年3月25日のトレッキングを終え、天気も持ちそうだったことから、そのまま、北薩に向かいました。
まず、研究会としてのトレッキングは“皆で初見の神社を廻りましょう“ではありません。
つまり、自らの企画である場合は何度かの下見を行いこの神社はこう言うものだと考えるので皆さんはどうお考えになるのかご覧く下さい…であって、単純に一から見ようと言う気楽なハイキングを行っている訳ではありません。
ただ、他のメンバーの企画の場合は蓋を開けなければ分からないものになる事から、実に、興味津々といったものになります。
従って、会のスケジュールから外れた一からの調査となると、途端に解放されたフィールド・ワークになる訳で、探検の様な楽しいものになります。
海退によって大量の平地が出現した出水に対して海退によっても僅かな平地しかできなかった阿久根
今回北薩に南下した理由は、出水市に編入された旧野田町の熊野神社の境内摂社 八衢比古(ヤチマタヒコ)、八衢比売(ヤチマタヒメ)(通説ではサルタヒコとアメノウヅメと解釈されるのですが、実は、神武天皇に逆らった逆賊の長脛彦兄妹なのですが)に猿田彦の三神の写真の撮り直しが目的だったのです。
それが終わると、後は好きなように見て回る事になる訳です。
阿久根と言えば海岸部に目が向きますが、今回はあまり入らなかった背後の広大な山間地に踏み込みました。
犬も歩けば棒に当たる…の通り、二つの若宮社を発見しました。
阿久根では、十数年前に海岸部のアコウの大木が残る脇本浜の一角に若宮社を一社見つけていましたが、これでこの孤立した若宮社の連れを見出した事になり、それなりに大きな高良大社+若宮神社という古い九州王朝時代の祭祀形態の名残の様なものが存在した痕跡を発見した思いがしています。
本来は、高良神社+若宮神社という複合だったと思っていますが、今のところ高良神社の方については発見していません。
国東半島ではこの複合が残っているのでそう考えているだけなのですが、もしかしたら若宮神社=仁徳天皇(九州王朝の最後の天皇)を単独で祀る祭祀形態が残っている可能性も考えておくべきかも知れません。
これについてはもう少し多くのファクトを押さえないと推定できそうにありません。
今回調査に入った領域は、国道3号線が通る阿久根市の中心部がある海岸線から遠く離れた愛宕山の東麓一帯の尾崎、弓木野の二地区でした。
元々は、カーナビで発見した弓木野(「ユキノ」と呼んでいるのでしょうか、野良に人がいないため確認できませんでした)の若宮神社でしたが、そこへの移動の途中の尾崎地区で気になる神社を発見した事から参内させて頂くと、案の定若宮神社が鎮座していたのでした。
愛宕山の北麓でカーナビに現れた若宮神社
最近はカーナビのおかげでかなり興味深い地名や神社を発見できるようになりました。
このカーナビのデータには行政が破壊し続けた旧地名、旧しこ名などの情報が残されている場合もあり、古いものほど貴重な文化財と言えそうです。
どうも明治期、若宮神社に付近の大山祗や宇気毛知(豊受大神)神、薬師大神(不明)といったものが合祀されたようです。
この限りでは、高良神社の痕跡はないようで、今のところなんとも言えません。
次に向かったのは、元々の目的地である弓木野地区の若宮神社でした。
神殿は至って簡素ですが、紛れもない若宮神社です
今のところここまでしか分かりません。
阿久根の山中に若宮神社を守る人々がかなりの規模で息づいていた事だけは間違いがないでしょう。
過疎化が急速に進んでいます。それどころか、新幹線のルートからも外され、阿久根市の中心街でさえもが存続できず、巨大ディスカウント・ストアーAZだけに大挙してお客が集中しているといった有様なのです。
弓木野公民館の傍に置かれた地域の掲示板を見ると、愛宕山という名称からも分かりますが、この一帯には山岳修験が広く覆っていた時代があったようです。
ここでは、阿久根の山中に山岳修験の勢力が存在し、その奥懐に若宮神社を祀る祭祀圏が存在していた事を確認しておきたいと思います。