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208(後編) 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑦

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1960年エクアドル・グアヤキル市の市長でもあり、考古学に造詣の深かったエミリオ・エストラダ氏は、エクアドル太平洋岸のバルディビアから出土する土器と、日本の「縄文土器」との相似性に着目して、アメリカのスミソニアン博物館のエヴァンズ・メガース夫妻に送り調査への協力をもとめた。

夫妻はこれを正面から受け止め、エストラダ氏からの遺物や情報に接するや、ただちに日本に飛び、各地に縄文の遺跡と土器に接し、「日本列島~エクアドル」間の縄文伝播という前人未到の新学説を樹立した。
 その学説は1965年にスミソニアン博物館学術報告書に『エクアドル沿岸部の早期形成時代-バルディビアとマチャリラ期』として世界に発信された。
 この「太平洋における文化の伝播説」はその後、各方面における研究成果により進展を見せた。このことは古田武彦氏の『海の古代史』原書房1996,に次のように記述されている。

<『海の古代史』より>
 1995年は、エヴァンズ説にとって黄金の年となった。なぜなら、その前年、「四柱の論証」が成立していたからである。新しい論証からさかのぼってみよう。第一は、「HTLV1(ローマ字)型の論証」である。1994年、名古屋で行われた日本ガン学界において田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告された。
 それによると、日本列島の太平洋岸(沖縄・鹿児島・高知県足摺岬・和歌山・北海道)の住民(現在)に分布する、HTLV1(ローマ字)型のウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至ったのである。

 第二は、「寄生虫の論証」である。1980年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アウラージョ博士等による共同報告である。
 それによると、南米の北・中部に分布するモンゴロイドのミイラには、その体内もしくは野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類のものであることが判明したのである。
この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡〈ベーリンジャー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアやアラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。

従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島南米西岸部(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。これが、共同報告の結論であった。
 その放射能測定値は、はじめ「3500年前」頃(縄文後期)と伝えられたが、1995年、わたしの手元に到着した、アウラージョ博士の三十余篇のリポートによると、その時期は右の前後(縄文中期-弥生期)にかなりの幅をもつようにみえる。スペイン語等の論文も含んでいるから、今後、各専門家の手によってより詳細に確認したいと思う。
 いずれにせよ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への人間渡来」というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。
 第三は、「三国志の論証」である。1971年、『「邪馬台国」はなかった』によって明らかとされた。「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。古田氏は魏志倭人伝に描かれているこの南米における倭人の国についてさらに詳しく述べている。

 わたしを導いたのは、学問の方法だった。ただ、三国志の著者、陳寿の指し示すところに従うこの方法であった。その結果「邪馬台国」ならぬ邪馬壱国(原文は「壹」)を博多湾岸とその周辺へと指定することとなったのである。思いもかけぬ決着だった。
                      
『「邪馬台国」はなかった』参照、朝日文庫1971)。
 それにとどまらなかった。この方法は、わたしを導いて、倭人伝の中で誰一人、真面目にとりあげようとしなかった二国「裸国と黒歯国」が、南米西海岸北半部、エクアドル、ペルーの地にあり、この予想外の帰結にまで到らしめたのである。
 陳寿によれば女王国の東、千里にして「倭種」ありという。一里は、約77メートル(当時は“75メートルと90メートルの間。75メートルに近いとした)の「短里」だから、関門海峡以東が「倭種」。その「倭種」の南に「侏儒国」があるという。女王国の東南にあたる。

その「侏儒国」は「女王を去る、四千余里」とあるから、里程は、関門海峡からは残り三千余里。海上を測ってみると、当初「予想」した宇和島近辺を越え、高知県の足摺岬近辺となったのであった。
 その「侏儒国」が、次の問題の一文の起点だ。 「(裸国、黒歯国)東南、船行一年にして至る可し」 わたしは倭人伝の「年数」について、「二倍年暦〕という仮説に到達していた(後述)。

この立場からすると、右の「一年」は実質半年のこととなる。六カ月だ。

ところが、「太平洋ひとりぼっち」の堀江青年などの航海実験によると、「日本列島-サンフランシスコ」間は、約三カ月前後。とすると、あと三ヶ月の「距離」を黒潮上にたどれば--その結果がエクアドル、ペルーだった。
 わたしは論理の筏に乗り、冒険航海の末、ここに到ったのである。前人未到だった。すでに述べた「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。この論証の成立後、わたしはエヴァンズ説の存在を知った。第四は、無論、エヴァンズ説(1965)「縄文土器の伝播」だ。エストラダ氏の「発見」にもとづく新学説の誕生である。

 以上のように、最初は「単独」にして「孤立無援」だった、この独創的学説は、30年たった今、状況が一変した。当初は、予想さえされなかったであろう、種々の「学際的裏付け」をえたのである。この一点が重要である。
 すなわち、右にあげた四つの論証は、相互に何等の関係なき、別の学問分野に立つアメリカの孝古学、アジアの古典研究(史料批判)、ブラジルの自然科学(寄生虫)、日本の医学(ウイルス)と各別である。
 1995年初頭、田島氏にはじめてお会いしたとき、氏はわたしの名前も著書(『「邪馬台国」はなかった』)も、全くご存じなかったのである(東京、国立予防衛生研究所における学会の会場脇でお会いした)。
 にもかかわらず、四者の学問研究の指示したところは、一致した。

 もしくは同一方向へと帰着点をもつように見える。
 すなわち、 「(古代における)日本列島の住民と南米北・中部住民との関係」の存在である。

                                     LaBalsa」より

この発表がなされた当時(『「邪馬台国」はなかった』が公刊されて以降)、“古田武彦の分析はさすがだが、黒歯国、裸国についてはいただけない…”といった話が、識者や識者ぶった方々の間で囁かれていたのですが、今回のMANTAの確認は、この嘲笑がただの軽薄さの表れだったに過ぎなかった事が良く分かるのです。このような方々が邪馬台国畿内説論者に多かった事はまだまだ記憶に新しいところです。


エイは日本語か?

Whai

whai(noun) stingray, Dasyatis thetidis and Dasyatis brevicaudatus - bottom-dwelling marine rays with flattened, diamond-shaped bodies and long, poisonous, serrated spines at the base of the tail; rough skate, Raja nasuta - light brown skate, mottled and spotted with dark brown. Diamond-shaped body with broad, spiny tail.

グーグルでmaori dicthionaryを検索してrayをサーチすると →マオリ語のwhai が出ます。英語のエイ(ray)はマオリ語ではエイに近接した言葉であることが分かります。

辞書の記述内容は、学名から始まり長い毒のある尾のことなどエイ生態が書かかれています。少なくともニュージーランドの少数民族であるマオリ族はエイのことをwhaiと発音しているのです。水族館でマオリの人と一緒にエイを見ても、「ウワイ」とか「ウエイ」とか発音するわけであり、日本語の「エイ」はポリネシアからの外来語である可能性は十分にありそうです。


中国語のエイは 魚偏+遥の造りの部分 となりますが、時代も上古音(~後漢)ヤゥ 中古音(ギ~宋)イェゥ 近代(明~清)ヤオ現代(中華民国~)ヤオ 呉方言イア゛湖南ヤオ 河南イェウ 客語ヤオ 広東ユウ 福建東イェゥ 福建南・台湾ヤオ                        (山田)

出典は『古今漢字音表』1999年中華書局 国際発音記号でかいてあるが、勝手に似たカタカナにしました。
 現代音発音ピンインも、現実の音とずれてるし、エイというさかなの文語表記は1ゑゐ 2ゑい 3ゑひ 4えい 5えゐ 6えひ のうちどれかしら。未確認なのごめん。
キチンとしたエイの音の漢字は見あたらず、
北京方言の、感嘆詞のエイ【口偏に埃の旁】ei声調は軽声、くらい疑義の間投詞につかうときは上がり、注意を促すときは下がり、軽く短く発音。
賊ゼイZei上がる二声、涙レイLei四声入声(急に下がる)仄、ウェイ委、偉、為、偽、巍、唯など沢山、Wei、声調色々など、頭に子音を伴うのはあるが。
魚偏のがないから現代音と音韻と声調が同じの、遥の旁を共有する数個の字を調べた。
謡遥揺瑶など。特に異同は無いからだいじょうぶでしょう。

(久留米地名研メンバー山田女史/武蔵野市によるアドバイス)


仮に、Mantaがスペイン語ではなく海人族が使っていた言葉とした場合、中国大陸の沿海部が気になってきました。当会にはスペイン語、英語はもとより、中国語、朝鮮語にも対応できるスタッフが揃っていますのでメールや電話を一本打つと、直ぐに色々な情報が集まってきます。


釜蓋姓は徳川家康が与えた


最後に地名から姓名に目を向けます。良く利用する「姓名分布&ランキング」というサイトがあり、調べると、全国でも11件しかない非常に珍しい姓のようです(北海道4件、新潟3件、群馬県2件、茨城県1件、静岡県1件)。

調べた理由は、「城と戦国ロマン」というサイトがあり『釜蓋姓』についての情報を求めています!!というメッセジが出ていたからです。

静岡県焼津に釜蓋姓は徳川家康が特別に認めたものにしか使わせないという話があり、それを調べているものでした。

ここからは私の単なる推理なのですが、家康がそれほどの厚遇をする理由として考えられるもので頭に浮かぶものは一つしかありません。

家康が命からがら逃げだした「本能寺の変」(天正十年六月二日)直後の伊賀越えです。

服部半蔵の手引きで伊勢に逃げたことは良く知られていますが、その先はあまり知られてはいません(酒井、本田等と自決さえも考えたとされていますから最大の危機です)。

白子浜(三重県鈴鹿市江島本町)から知多半島の大浜に上がり岡崎に逃げ戻ったとされます。

海行において、そこに関与したのが釜蓋地名を残した人々だったとすると何もが良く辻褄が合うように思えるのです。


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命がけの逃避行となると、現代でも一般的な網本や漁師集団は信用できないはずであり、普段から独航している特殊な集団に頼むはずです。

もう一度白子浜の現在の住所を見てください。鈴鹿市江島本町とは、まさに、エイの島ですね。この地名を付した人々が釜蓋の意味を知っていた、つまり、エイノオ地名を残した人々だった可能性はあるのではないでしょうか。

これについて、「城と戦国ロマン」の管理者とメールでやり取りしましたが、この釜蓋姓を調べている方も静岡の焼津に縁のある方のようです。

新潟の釜蓋姓は上越の「釜蓋遺跡」という弥生期の遺跡のある土地のようで、白子浜から家康を運んだと考える釜蓋姓とは別の起源があるのかも知れませんが、恐らく家康から釜蓋姓の独占使用権を与えられた釜蓋さんのルーツは焼津の方と考えています。

今のところ、このような特殊な通商民こそ、バジャウに起源を持つ船上生活者であり、戦後しばらくまで、尾ノ道や大瀬戸(長崎県)などを拠点に沖縄までも移動した航海民集団、「家船」の人々(現地の差別語エンブー)の一部ではなかったかと考えています。

ここまで来ると、北九州に認められる釜蓋(エイノオ)地名の異常なまでの集積の理由が多少は見えてきました。

古代においては(現在でも江川で僅かに繋がっていますが)洞海湾と苅田は玄界灘航路(大陸への道)、日本海航路、瀬戸内海航路、豊後水道という最重要航路の結節点であり、水路こそが移動手段であった時代においては、この一帯を制する者こそが権力を握ることができたのではないかと思うのです。

そして、畿内には伊勢の江島以外、エイノオ地名が見当たらないのです。


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