211 「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川 健一の永尾地名から”⑧
20150501
久留米地名研究会 古川 清久
「釜蓋」(カマブタ) “宮崎県高原町佐野神社の「釜蓋」”
宮崎県高原町の狭野神社と言えば、神社に関心を持つ方で知らない人のない重要この上ない神社です。
言うまでもなく、初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の幼名は狭野尊(サノノミコト)です。
その神武天皇の生誕地とされる神社が狭野神社であり、当然にも多くの神社研究者が足を向ける神社です。
カーナビ検索 宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田117 ℡0984-42-1007
確かに本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のこれまた本物の妃(実は前妻)である吾平都姫(アイラツヒメ)外6柱と共に祀られており、付近には皇子原神社や地捨ノ木温泉(旧称)があり(エナを木に掛ける風習があったことによる皇子出産の伝承地とされているのです)、幼名サノノミコトの「サノ」という社名が揃っているので、それで良いようなのですが、これについては、なお、疑いを持っています。
それは、久留米地名研究会のHP掲載の「吾平」を読んで頂きたいのですが、熊本県山都町斗塩に神武天皇のホゾノ緒を埋めた塚があるとの伝承を拾っており、それとの関連で未だに整理が付いていない事と、狭野神社周辺にある神社に神武天皇を配神として一番下に並べる神社があるなど(芩神社)、神武を僭称した第10代崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)がいた気配がつきまとうからです。
ただし、今回はこの神社の話ではありません。この神社の鎮座している地名が、谷川健一によって見出された「永尾地名」のバリエーションの一つである「釜蓋」のさらなる変化形の「蒲牟田」であることに気付いたからの訪問だったのです。
詳しくは、「ひぼろぎ逍遥」202~208(数ヵ月後にはupの予定)をお読みください。
「蒲牟田」と「釜蓋」とは同一の地名です。
「カマムタ」と「カマブタ」とは、KAMAMUTA KAMABUTA のように、M音とB音の入れ替わりがあるのですが、カムルとカブル、ツムルとツブル、ヒモロギとヒボロギ…など、M音とB音が入れ替わっても全く同じ意味の言葉が日本語には大量に存在しており、その一つなのです。
この狭野神社の直ぐそばの蒲牟田川には写真の左手から高千穂川が合流し岬状のエイの尾型の地形が形成されており、それを蒲牟田と、古来、呼んでいたと考えられるのです。
左が高千穂川、右が蒲牟田川 狭野神社に近いこの合流部にエイの尾型の地形が出現しており、これを古代の日本人は「カマムタ」と呼んでいたのです
社務所で「蒲牟田」地名についてお尋ねすると、「蒲牟田は大字です。湯之元温泉付近にも蒲牟田集落があります」(こちらは通称名とのことでした)とのお答を頂きました。
実は、こちらの湯之元温泉付近の「釜蓋」地形を先に見つけていたのですが、狭野神社付近の「蒲牟田」とは別のもう一つの合流ポイントがあり、そちらもご覧いただきます。
きれいなエイの尾型の地形が形成されていますが、先に見えるのが蒲牟田橋です。
ここは下流に向かって左から高崎川が右から湯之元川が合流しています(後段の写真を見て下さい)。
さて、この「蒲牟田」地名=「釜蓋」地名は誰が持ち込んだのでしょうか?
それについては、「釜蓋」とは何か?“民俗学者 谷川健一の永尾地名から”の①~②をお読みいただければ皆さんも自ずとイメージが湧いてくる事と思いますが、特に「カマンタ」という沖縄に象徴されるエイの呼称に関連するだけに、この地名はマライ・ポリネシア系の海人族がこの地まで入っていた証拠の様に思えてなりません。
宮崎県には古代の諸県君、髪長媛の話があるのですが、フィリピンの南のモロ族(モロ民族解放戦線)のモロと考えています。髪長媛はアグネス・ラムのようなタイプの目のパッチリとした女性だったのです。
「諸県」の称は記紀に「日向国有嬢子。名髪長媛。即諸県君牛諸井之女也」などの記事が見られ、その起源の古さをうかがわせる。「諸県」は現在の東諸県郡国富町に存在した地名で、この諸県君(日向国造であったとの説もある)の本拠地でもあったとされるが、当時はヤマト王権の影響力が及んでいなかった地域も多く、諸県地方が、諸県君の主領域と一致したかは不明である。
諸県郡が、明確に確認できるのは「続日本紀」からであり、「延喜式」において、ほぼその後の領域が確定された。