495 日向神峡を見下ろす神社 “福岡県八女市矢部の日向神社”
20170612
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
筑後地方でも最も峻嶮な地形の場所に鎮座する神社と言えば、まず、八女市矢部の日向神社が頭に浮かびます。
この北部九州最大の大峡谷に徹底的に景観を破壊する日向神ダム(重力式補助多目的ダム)が建設され始めたのは昭和28年(1953/1962)の事でした。
集水域には農水省により大量の針葉樹が植えられたことから(拡大造林政策)大量の土砂が流れ込み続け、今や堆砂容量を越え膨大な土砂を抱え込んでいることでしょう。
このため早晩ダム式発電は水路式発電と変わり果て、そのうち大地震も引き起こされる事でしょうから、無用の長物どころかダムの劣化により(既に着工から65年近くなっている)危険極まりない代物になっていることでしょう。
ダムは千年持つなどと大ぼらを吹聴していたのはどこのどいつだったかを思い出して頂きたいと思います。
この初期の企画で造られたダム建設用の付け替え道路(これ自体の改修も進められていますが)の脇に鎮座し、水没しなかったダム直下の峡谷を望む位置に鎮座するのが、今回とりあげる日向神社(ヒュウガミシャ)です。
ニニギ、コノハナノサクヤはとりあえず理解できますが アマテラスとの組み合わせは奇妙です
「福岡県神社誌」に記載がないと思い無格社一覧を見ると、下巻は425pにありましたが、祭神は由緒と一緒でした。
祭神のニニギ、コノハナノサクヤはとりあえず理解できるもののアマテラスとの組み合わせが奇妙ということから思考が中断し、いつも詳しく見ようと考えなかったのですが、参拝殿の脇からさらに上への参道があることに気付き、今回は落ち着いて見る事にしました。
ただ、夕暮れが迫っています。足早での下見に入りました。
さらに上に置かれた祭祀であることから三神より偉い神様であろうと考えます。
ニニギの父神であれば高木大神、コノハナノサクヤの父神であれば大山祗となるでしょうが、古い高木大神のエリアではあっても、あまり事例が無い事から大山祗とする方が無難な気がします。
情報が足りない事から何か拾えないかと考えていると、
参道 鳥居は明らかにこの山を意識して造られていました
参道方向の南にスガ岳があることに気付きました。参道はこの山を目掛けて鳥居も建てられているのです。
ここでは、一応、アマテラス、ニニギ、コノハナノサクヤという祭神を受入れ、話を進めますが、実は
この一帯にも天孫降臨伝承があるのです。
筑後の古代史に関心を持たれる方は目にされた方も多いと思いますが、千寿の楽しい歴史 というblog
があります。
一~二度、直接お会いしてお話しした事もあるのですが、この日向神社に関してこのように書かれています。
2016邪馬台国勉強会(日向神社・八女津媛神社)・千寿の楽しい歴史
邪馬台国勉強会
日向神社・八女津媛神社)
熊川猛司宅 平成28年6月9日
資料は講師の熊川猛司氏資料を借用しています。
奥八女に残る神話と伝説
高千穂峰や高千穂峡国周辺をはじめとして、天孫降臨地はいくつもあるが、奥八女にもまた日向神峡を中心として、黒木町・矢部村に天孫降臨が伝えられている。
日向神社(黒木町)には『日向神本記』なる縁起が伝わっていたというが現存せず、『日向神案内助辨』(宝暦12年・1762年)に収載される逸文によって、その概要をうかがうことができる。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、この地に天降り、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を娶り彦火火出見尊(ほこほほでみのみこと)・火明尊(ほあかりのみこと)・火闌降尊(ほすせりのみこと)の三御子神を生む 火明尊を日向神に留め給いて日向神明神となし、彦火火出見尊と火闌降尊の二尊は日向国に遷し給う。
といった内容が説かれる。また日向神峡の一帯には空室・古敷岩屋・湯ノ瀬・茅原・竹刀などの地名があって、産所・産衣を埋めた所・産湯を使った場所・産所の屋根を葺(ふ)いた茅(かや)を刈った所・臍胞を切った竹刀を埋めた場所などと、それぞれに天孫降臨伝説に連なる話が付会されている。
日向神明神となった火明尊にまつわる話も、蹴穿岩(けほぎいわ)や蹴穿石として伝えられる。ちなみに日向神という地名については『北筑雑藁』などに、その昔、日向国から飛んできた神が住むところからついたと説かれている。
日向神峡からさらに奥の矢部村一帯にかけては、八女津媛(やめつひめ)の伝説地でもある。
『日本書記』景行天皇条には、丁酉、八女県(やめあがた)に到る。即(すなわ)ち藤山を越えて、以って南粟崎(あわさき)を望む。詔(みことのり)して日(もう)さく、其の山の峰岫(くき)重畳(かさな)りて、且 (か)つ美麗(うるわ)しきこと甚(はなはだ)し。
若し神其の山に在るか。時に水沼県主(みるぬまのあがたぬし)猿大海(さるのおおあま)奏して言(もう)さく。女神有り。名を八女津媛と日(い)う。常に山中に居ます。故に八女国の名、此れに由るりて起これり云々
『誰にも書けなかった邪馬台国』 村山健治著
これを読むと、異質な「天孫降臨伝承」から無格社にされた事の意味が多少は見えてきました。
まず、本文によれば、日向神大明神は月足の集落が奉斎する神社である事、神社の脇には御手洗川という温泉の湧く川が注ぎ、川を望む黒岩という大岩塊からは汐井川(恐らくミネラルを多く含む)という川が注いでいた…といった事が読み取れます。
今後も調査は進めますが、山上の祭祀が如何なる神のものであるかが不明なためこの神社の古層も含め解析ができない状態にあります。
考えを進める際に一つの手掛かりと考えているものに、「月足」という現地地名があります。
「月田」(群馬が最大)も「月足」も肥後から筑後に目立つ地名であり氏名でもあるのですが、「月足」は、まずは、山鹿から八女に掛けて集中する姓氏と言えるでしょう。
この「三日月」「月田」「月山」「月足」といった「月」に絡む姓氏、地名は大山祗系のトルコ系匈奴が持ち込んだものとの思いを深めています。
何故かと言うとトルコ系匈奴の大山祗の姉の越智の姫と金山彦の間に産れたアイラツ姫(本物の神武のお妃)のアイラールがトルコ語の「月」"aylar"を意味しており(「ひぼろぎ逍遥」スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった” 参照)、「月足」集落には大山祗、コノハナノサクヤとの関係が考えられるのです。
このため、山上祭祀は大山祗ではないかと考えたのですが、この神社が正面を向く山がスガ(スガはスサノウの…の意味でしょう)岳と呼ばれる事も多少気になるのです。スサノウのお妃の一人の神大市姫(ミズハノメ)も大山祗の嫡女である事から、これまた大山祗を意識するのです。